目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松浦、本田、坪田

【自己紹介】

岸田 本日は、CAN netさんとコラボレーションし、北海道・札幌からお届けします。15歳から39歳までのAYA世代のゲストを3名お迎えし、お話を発信していきます。まずは、松浦さんから自己紹介をお願いします。

松浦 松浦美郷と申します。がんの種類はホジキンリンパ腫で、発見時のステージはⅢでした。2008年6月、24歳のときから闘病を始め、現在35歳になります。今は寛解しており、定期検診のみで経過観察を行っています。

本田 本田莉菜と申します。がんの種類はホジキンリンパ腫で、ステージはⅡAでした。2014年5月に発見され、現在は2か月に1回ほど病院に通い、経過観察を続けています。

坪田 坪田悠と申します。がんの種類は縦隔原発胚細胞性腫瘍です。診断を受けてからそのまま治療に入ったため、ステージについては最終的によく分からないままでした。2011年9月に発覚し、現在32歳で、経過観察中です。

【発覚・治療】

岸田 発覚から治療について、松浦さんから時系列でお願いします。

松浦 当時、私は大学生でした。2007年の秋頃から、倦怠感や寝汗、ひどい肩こりなどが続き、体調が悪いなとは感じていましたが、遊び盛りの時期でもあり、あまり深刻には考えていませんでした。当時ダイビングをしていたこともあり、その体調不良は減圧症ではないかと疑い、2008年1月には高気圧治療を受けていました。ただ、症状は改善せず、その後も病院を受診したり、大学の健康診断を受けたりしていました。2008年4月、大学の健康診断で胸部レントゲンを撮ったところ、縦隔と呼ばれる胸の中央部分が大きく腫れていることが分かり、「これはおかしいから病院へ行ってください」と言われました。血液検査を受けた結果、すぐに血液内科へ回され、ホジキンリンパ腫という悪性リンパ腫の一種であることが判明しました。

松浦 そこから型を決めるためのさまざまな検査を行い、2008年6月から大学を休学して治療に入りました。東京医科歯科大学医学部附属病院に入院し、ABVD療法という化学療法を8クール、約8か月間行いました。最初の1か月ほどは東京で治療を受けていましたが、家族が通うには距離的に大変だったため、地元である香川県の国立香川小児病院へ転院しました。ABVD療法は、初期は入院して体調を確認しますが、その後は2週間に1回の通院治療が可能です。私は東京で一人暮らしをしており、抗がん剤治療後は免疫が下がる期間を一人で過ごす自信がなかったため、地元に戻って治療を続けることを選びました。2009年1月に8クールを終え、第一段階の治療が終了しました。

岸田 ダイビングをしていて体調が悪かったことから、最初は減圧症を疑っていたということですが、ホジキンリンパ腫はそのまま検査を進めて分かっていった、という流れだったのですね。

松浦 はい。自分でもおかしいなとは思っていましたが、決定的だったのは大学の健康診断でした。レントゲンで異常が見つかり、そこから一気に検査が進みました。

岸田 東京医科歯科大学に入院された理由は何だったのでしょうか。

松浦 私は東京の美大に通っていたのですが、その前に短期間、東京医科歯科大学に関わっていた時期がありました。最終的には辞めてしまったのですが、そうした縁もあり、医科歯科大学で治療を受けることにしました。当時は、大学病院も今ほど紹介制が厳しくなかったという背景もあります。

岸田 2008年7月に香川へ転院された理由についても教えてください。

松浦 ABVD療法は、最初は入院が必要ですが、その後は通院治療が可能になります。2週間に1回抗がん剤を打つのですが、多くの方は通院で治療されています。ただ、私は東京で一人暮らしだったため、抗がん剤治療後の免疫が下がる期間を一人で過ごすことに不安があり、地元に戻って治療を続けることにしました。

松浦 2009年4月に大学へ復学し、1年間は楽しく大学生活を送っていましたが、2010年6月に再発が分かりました。再発が分かった後、7月には新橋夢クリニックで未受精卵の凍結保存を行いました。その後、8月に再び東京医科歯科大学医学部附属病院へ入院し、9月には超大量化学療法を受け、自家末梢血造血幹細胞移植によって血液を入れ替える治療を行いました。1か月間クリーンルームで過ごしましたが、何とか乗り切り、10月に退院しました。

松浦 退院後、体力が戻り次第すぐに大学へ復帰し、このときは休学も留年もせずに進むことができました。その後、後遺症などで腎生検のために入院することもありましたが、2012年3月にPET検査で「寛解」と診断され、現在に至っています。

岸田 再発は、初発から1年ほど経ってからだったのですね。どのようにして分かったのでしょうか。

松浦 月に1回の定期検診を続けていて、PET検査も3か月に1回ほどと、かなり頻繁に受けていました。そのPET検査で、がんの部分が光って見つかりました。血液検査では異常がなかったので、PET検査での発見でした。再発と告げられたときは、初発のときよりも、一瞬ショックが大きかったかもしれません。「またか」と思って、診察室で先生の前で泣いてしまいました。

松浦 未受精卵の凍結保存を行ったのは、血液内科の主治医の先生から、「今回の治療は前回よりも抗がん剤の副作用が強く、不妊になる可能性が高い。100%ではないけれど、選択肢として未受精卵凍結がある」と教えていただいたのがきっかけです。

 「治療を進めなければいけないので猶予は1か月しかなく、チャンスは1回だけだけれど、やりますか」と言われました。当時は、子どもを持つことを現実的に考えていたわけではなく、「将来、いつか」という程度の感覚でしたが、先生が勧めてくれるならやっておこう、という気持ちで決断しました。

岸田 その後、大量化学療法と自家末梢血造血幹細胞移植を受けられていますが、クリーンルームでの生活はどのようなものでしたか。

松浦 クリーンルームに入ってからは、まず1週間ほど抗がん剤治療を行いました。白血球がほぼゼロに近い状態になるまで強い治療を行い、その後、事前に保存していた自分自身の末梢血から造血幹細胞を、がん細胞がいなくなった状態の体に戻しました。自分の血をつくる細胞を戻すことで、新しく血液をすべて作り直す、という治療でした。

 自分自身の細胞を使うため、他人から移植する場合のような強い免疫反応はありませんでしたが、副作用はやはり大変でした。特に、その前段階の大量化学療法が非常につらかったです。

 当時は、月に1回ほど定期的に血液検査を受けていましたが、その中で腎機能が著しく低下していることが分かりました。抗がん剤には腎臓に毒性があるものもあり、その影響ではないかという判断から、その後は腎臓内科にも通院するようになりました。

岸田 次に、莉菜ちゃんの闘病経験について、時系列でお願いします。

本田 2013年10月、右側の鎖骨付近に小豆サイズの、触ると痛みのあるしこりを見つけました。その頃は12月で期間満了となる仕事をしており、年明けに無職になりました。その後、今度は耳の下あたりに、さらに大きめの腫瘤を見つけ、いろいろと検査を受けることになりました。検査の結果、2014年3月25日にがんの告知を受けました。

 すぐに入院できる状況ではなく、病床が空くまで約1か月待ち、5月から入院して抗がん剤治療を開始しました。抗がん剤治療は全部で6クール行い、そのうち2クールは入院で治療し、7月に一度退院しました。その後、残り4クールを続けました。治療中は、中耳炎になったり、風邪をひいたり、親知らずが腫れてしまい、結果的に3本抜歯することもありました。

 12月にすべての抗がん剤治療が終了し、寛解となりました。2015年1月から現在まで経過観察中で、2か月に1回の検診を続けています。来年6月のCT検査で問題がなければ、経過観察も終了予定です。最初はかかりつけの病院でCTや採血を行い、その後、紹介状をもらって現在治療を受けた病院に移りました。

 私のホジキンリンパ腫はステージⅡAで、初期に近い段階でした。このがんは月単位で進行していくタイプで、道東には血液内科が1か所しかなかったため、入院までに約1か月待つ必要がありました。その待機期間中に、高額療養費制度の申請をしたり、ハローワークに行ったり、「今しかできないことをやろう」と思って動物園に行くなど、やりたいことを一通りやってから、ゴールデンウィーク初日に入院しました。

岸田 抗がん剤治療を終え、現在は経過観察中ということですね。続いて、坪田さんの闘病経験をお願いします。

坪田 2011年は、大学を卒業して就職した年でした。5月頃、体を伸ばすように胸を開いたとき、少し痛みを感じたのが最初の異変です。私は北海道出身で、北海道の大学を卒業後、群馬県で働き始めました。
 群馬は5月でも30度を超えるほど暑く、慣れない環境や就職1年目のストレスもあり、「この違和感は疲れやストレスだろう」と思っていました。

 しかし、その2か月後、急に胸に激痛が走りました。ただ胸が痛いだけでなく、右腕の第2関節の内側にも痛みが出て、近くのクリニックを受診しましたが、原因は分からず、痛み止めだけ処方されました。
 翌月にも同じような痛みがあり、その後は痛み止めを飲みながら仕事を続けていました。

 2011年9月7日、その日は痛み止めが切れた状態で出勤しました。胸の痛みがある中で仕事をしていたのですが、周囲から見ても顔色が悪く、心配されながら何とか仕事を終えました。
 帰宅途中、今度は息ができないほどの激痛が走りました。当時は社員寮に住んでいたため、同期にお願いして夜間救急外来に連れて行ってもらい、レントゲンを撮ったところ、腫瘍が見つかりました。

 翌日、改めて病院を受診すると、専門の医師から「今すぐ行動してください」と言われ、市立病院への紹介状を書いてもらいました。そこで針生検による組織検査を受け、「おそらく良性腫瘍だろう」と説明されました。
 手術をするなら地元に戻ったほうがよいということで、紹介状をもらい、札幌医科大学附属病院で手術を受けました。

 手術後の病理検査の結果、縦隔原発胚細胞腫瘍と診断されました。その後、念のためにBEPP療法という抗がん剤治療を行うことになりました。通常は3クールですが、念を入れて4クール行い、翌年2月3日に退院しました。現在は経過観察を続けています。

 「腫瘍があります」と言われ、レントゲン画像を見たとき、こんなにはっきり分かる腫瘍があったのかと驚きました。実は、その前に通っていたクリニックでも一度レントゲンを撮っており、「異常はありません」と言われていたため、あれは何だったのだろうと思いました。

 手術は想像以上に大変でした。胸を開いて腫瘍を取るだけだと思っていましたが、腫瘍が右肺に浸潤しており、右肺の5分の1と心膜も切除する大掛かりな手術になりました。ただ、術後に強い息苦しさはありませんでした。

岸田 その後、BEP療法を4クール行っていますが、治療中に一番つらかったことは何でしたか。

坪田 一番つらかったのは食事です。体調不良もありましたが、特に食事が本当にきつかったです。抗がん剤開始から1日目、2日目はまだ大丈夫でしたが、3日目になると、食事が運ばれてくるだけで強い吐き気を感じ、配膳台の音を聞くだけでも耐えられないほどでした。

 放射線治療を選ばなかった理由については、放射線科の医師から「胸の近くなので放射線を当てたくない」と説明されました。放射線治療を行うと、将来的に心筋梗塞のリスクが10〜20%ほど上がる可能性があるそうです。「50代、60代であれば選択肢に入るかもしれないが、20代のあなたには勧めたくない」と言われ、化学療法を選択しました。

 実際に「がん」だと強く実感したのは、職場に提出する診断書を見たときでした。そこに「縦隔原発胚細胞腫瘍」という正式な病名が書かれていて、そのとき初めて現実として受け止めた気がします。医師からは再発の可能性は低いと言われていますが、「またなるのではないか」という不安は、今も常に抱えながら生活しています。

【学校】

岸田 ここからは、患者さんの日常生活について伺っていきたいと思います。まずは学校のことからお聞きします。松浦さんは、当時美大生でしたよね。美大を卒業されたあと、現在は医学部に入り直されていますが、ご自身の中で何か思い直すきっかけがあったのでしょうか。

松浦 思い直したというよりは、私の中では延長線上にある選択だと思っています。美大では空間デザインを専攻していて、インテリアや舞台美術なども一緒に学んでいました。その勉強をしている最中に入院することになり、病院の空間を体験しました。
 そのときに、「病院の空間は、人が生活する場としてはあまりにも厳しい。これでは治るものも治らないのではないか」と強く感じたんです。

 もともと病院の空間には興味がありましたが、実際に入院した経験が大きなきっかけになりました。医師は患者さんを救うことが第一なので、空間デザインが後回しになるのは仕方のないことだと思います。ただ、自分が「依頼する側」、つまり医師という立場になれば、治療だけでなく、より良い生活の場としての入院空間をつくることができるのではないかと考えるようになりました。それが、医師を志した理由です。

岸田 美大時代の休学や復学についても、教えていただけますか。

松浦 初発のときは、まず「どこに」「誰に」相談すればいいのかが分かりませんでした。そんな中、大学の保健センターの看護師さんが親身に相談に乗ってくださり、そのアドバイスを聞きながら、少しずつ手続きを進めていきました。

 休学については、本当に事務的な手続きでした。教務に書類を提出する、という流れです。主治医から「とりあえず1年は休学になると思います」と言われていたので、そのまま1年間休学することにしました。年明けには治療が一段落し、体力的には復学に問題はありませんでしたが、留年してクラスが変わることもあり、最初は少しどきどきしながら学校に通っていました。

 再発したときには、すでにゼミに所属していました。担当の教授が外国人の方で、とても自由な考え方をされる先生だったこともあり、「治療で休むなら、休学ではなく、課題を出してくれれば大丈夫だよ」と言ってくださいました。その結果、3〜4か月ほど学校を休みましたが、休学や留年をせずに済みました。

 課題も無理のない範囲で進めることができたので、正直大変ではありましたが、何とかやり切ることができました。ただ、美術は一人で完結できるものではなく、作品を先生に見てもらい、指導を受けながらブラッシュアップしていくものです。治療中はその機会がほとんどなくなってしまい、それはとても悔しかったです。できることなら、もう1年かけてでも、もっと先生の話を聞いたり、美大で吸収したかったことがたくさんあったなと、今でも思います。

【就職】

岸田 次は就職について伺います。こちらは、当時お仕事を満期で終了し、その後の就職活動中にがんが発覚した本田さんにお話をお聞きします。就職先に、がんのことを伝えるのか、伝えないのかといった点も含めて教えてください。

本田 私は12月で仕事を辞め、翌年1月に腫瘍を見つけました。「これはもう仕事をしている場合ではない」と思い、そのまま無職の状態で治療に入ることにしました。
 治療が終わり、いざ就職活動を始めて面接を受ける段階になったときに、「がんだったことを先方に伝えるべきか、伝えないべきか」という問題に直面しました。

 インターネットで調べてみても、若い世代のがん経験者が履歴書をどう書けばいいのか、といった情報はほとんど見つかりませんでした。隠したほうがいいのか、それとも正直に書いたほうがいいのか、どちらが正解なのか分からず、とても悩みました。そんなときに出会ったのが、がんノートでした。

 がんノートのコメント欄に、履歴書の書き方について相談を書き込んだところ、「書いたほうがすっきりするのではないか」「がんであることを理解したうえで採用してくれたほうが、気持ちも楽だと思う」「もし隠して仕事を始めて、後から分かった場合、ミスマッチになる可能性もある」という返信をいただきました。

岸田 次は就職について伺います。こちらは、当時お仕事を満期で終了し、その後の就職活動中にがんが発覚した本田さんにお話をお聞きします。就職先に、がんのことを伝えるのか、伝えないのかといった点も含めて教えてください。

本田 私は12月で仕事を辞め、翌年1月に腫瘍を見つけました。「これはもう仕事をしている場合ではない」と思い、そのまま無職の状態で治療に入ることにしました。
 治療が終わり、いざ就職活動を始めて面接を受ける段階になったときに、「がんだったことを先方に伝えるべきか、伝えないべきか」という問題に直面しました。

 インターネットで調べてみても、若い世代のがん経験者が履歴書をどう書けばいいのか、といった情報はほとんど見つかりませんでした。隠したほうがいいのか、それとも正直に書いたほうがいいのか、どちらが正解なのか分からず、とても悩みました。そんなときに出会ったのが、がんノートでした。

 がんノートのコメント欄に、履歴書の書き方について相談を書き込んだところ、「書いたほうがすっきりするのではないか」「がんであることを理解したうえで採用してくれたほうが、気持ちも楽だと思う」「もし隠して仕事を始めて、後から分かった場合、ミスマッチになる可能性もある」という返信をいただきました。

【仕事】

岸田 次は仕事について伺います。群馬県で働いているときにがんが見つかったという坪田さんですが、上司や同僚にはどのように伝え、休職から復職までを進めていったのでしょうか。

坪田 上司に伝えたのは、胸の痛みで救急病院を受診した直後でした。「胸に腫瘍が見つかりました」ということと、これから手術を受ける予定であることを報告しました。実はそのとき、まだ試用期間中だったので、「おそらく解雇されるだろうな」と覚悟していました。ただ、会社はとても理解があり、そのまま本採用となり、有給休暇なども付与していただきました。

 手術後に戻れる可能性もあったため、会社には一旦、休業届を提出し、北海道へ手術を受けに行きました。休職期間は当初3か月と伝えていましたが、実際には治療や回復に時間がかかり、結果的に半年ほどになりました。

 手術後に群馬へ戻り、社長と直接お話しする機会がありました。その際、北海道にある関連企業への異動を打診され、結果的に群馬で働いた期間は1年に満たないまま、北海道へ戻ることになりました。現在は、その関連企業で勤務しており、体力的な問題もなく働けています。群馬での生活も楽しかったので、北海道に戻ってきてよかった面もありますし、正直、少し心残りに感じる部分もあります。

【保険・お金】

岸田 皆さんに、お金や保険のことについて伺いたいと思います。当時、治療費などはどのように工面されましたか。

松浦 私は学生だったこともあり、金銭面については基本的にすべて親に頼っていました。ちょうどその直前に、母が家族全体の保険を見直してくれていて、私もがん保険に加入していたので、本当に助かりました。また、大学生協の保険にも入っていました。保険料は安かったのですが内容はとても手厚く、結果的に、がん保険と大学生協の保険の両方から給付を受けることができました。

 当初はお金のことがとても心配でしたが、母からは「かかった費用以上に給付があったので、その後の通院費などにも充てることができた」と聞きました。学生という立場で、経済的な不安をあまり感じずに治療に専念できたのは、家族と保険の支えがあったからだと思います。

松浦 私も実家に頼っていました。抗がん剤は1回あたり約2万5,000円で、それが何度も続く形だったので、正直、実際にいくらかかったのかは把握しきれていません。保険に加入していたかどうかについても、当時は詳しく聞いておらず、基本的には一人で治療に行き、あとから現金を持ってきてもらう、という形でした。

 私の場合、1クールが抗がん剤2回で、それを6クール行ったので、合計12回の抗がん剤治療を受けています。単純計算でも、2万5,000円×12回となりますし、それ以外にもPET検査、CT検査、肺活量検査など、さまざまな検査費用がかかっていたと思います。

坪田 私も就職したばかりだったので、父に相談したところ、「お金のことは心配するな」と言われました。保険については、月々1,600円ほどの全労済に母が加入してくれていましたが、カバーされていたのは主に入院費のみでした。治療にかかった総額は、おそらく60万円を超えていたと思います。それに加えて、群馬と北海道を行き来するための交通費などもかかっていました。

【結婚・恋愛】

岸田 皆さんの恋愛観や結婚観についても聞かせてください。がんの経験については、どのタイミングで相手に伝えますか。

坪田 私は、最初から伝えると思います。「昔、がんをやっていて」といった感じで、早い段階で話すと思います。
 ただ、実は自分の中では、がんよりも色覚障害のほうが大きな問題になるのではないかと感じています。色覚障害は遺伝性で、警察や消防、自衛隊、海上保安庁、パイロット、鉄道の運転士など、人命に関わる職業に就けない場合があります。その点のほうが、将来を考えると影響が大きいのではないかと思っています。

本田 私は、当時お付き合いしていた恋人と同棲していました。一緒に住んでいたので、告知を受ける日の朝に、「もしがんだと言われたら、アイスワインを抱えて帰ってくるからね」と伝えていました。実際にそうなって帰宅したとき、相手はぽろっと泣いていました。その後、将来の方向性の違いもあり、今は別の方とお付き合いしています。

 今のパートナーと付き合う前にも、「これは伝えなければいけない」と思っていました。ただ、さすがに素面では言えず、3軒ほどはしごした深夜2時頃に、「実は、がんだったんだよね。びっくりするでしょう」と伝えました。相手は無表情で受け止めてくれて、今に至っています。

 付き合い始めてから、相手のご両親にも何度かお会いしていますが、まだ自分ががんを経験したことは伝えられていません。今は、いわば“実績づくり”の段階だと感じています。相手が一人っ子の長男であることもあり、もしかしたら子どもを授かれないかもしれない、という不安もあります。以前、ヘアドネーションをした際に、そこから話をつなげることもできたと思いますが、結局できませんでした。

 隠したい気持ちはありますが、もう完全に隠し続けることはできないとも思っています。言わなければ、いずれ何かしらの行き違いが起きてしまうのではないかと感じています。

岸田 これが、まさにAYA世代の現状ですよね。現実的なところで揺れ動き続ける、この葛藤こそが、今の姿なのだと思います。

松浦 がんだと最初に分かったとき、好きな人はいました。その人はとても親身になってくれましたが、時間が経つにつれて、少しずつ距離ができてしまいました。現在、結婚はしていません。

 髪がない時期はとても消極的になり、外出や旅行も減りましたし、恋愛に対しても同じように距離を置いていました。ただ、ある時期から開き直ることができて、普通に好きな人ができるようにもなりました。「普通でありたい」という気持ちが強く、がんだったことを伝えるタイミングがとても難しくて、言わないまま過ごしていたこともあります。

 その後、結婚を考えるほど大切に思った人が一人いました。その人には、初めて自分のことをすべて話しました。卵子保存をしていることも含めて、結婚となると相手の人生だけでなく、ご家族の人生にも影響があると思い、本当はずっと言いたくありませんでしたが、そのときは伝えました。

 彼は、私の病気ではなく、私自身を見てくれました。「問題ないよ」と言ってくれて、一瞬考える素振りはありましたが、明るくそう言ってくれたことが本当に救いになりました。今後も、結婚を考える相手ができたときには、やはり伝えなければならないと思っています。ただ、それにはかなりの勇気が必要だとも感じています。

【北海道の現状】

岸田 北海道ならではのエピソードを聞かせてください。坪田さん、群馬と北海道を比較して感じたことなどはありますか。

坪田 がんが分かったのは北海道だったので、正直、群馬と直接比較できる部分はあまりありません。ただ、患者会という点では、群馬にいた頃は、東京にある「STAND UP」という患者会に比較的気軽に行ける距離だったので、その点は北海道に戻ってきてから、少しうらやましく感じました。道民の感覚だと、どうしても距離のハードルが高くなります。

 昨年、「アヤキタ」というAYA世代の患者会が立ち上がり、私も参加しました。ただ、立ち上げた代表の方が就職活動に専念することになり、途中で離れることになって、結果的に私一人がぽつんと残る形になりました。

 それでも、いろいろな方の協力を得ながら、月に1回のペースで患者会を続けてきました。正直、誰も来ない月も何度もありましたが、続けているうちに、少しずつ変化が出てきました。昨年は松浦さんが参加してくださったり、年に1回の交流会には、今年は20名を超える方が来てくださいました。まだ小さな動きではありますが、少しずつ広がってきている実感はあります。

本田 道東は札幌までの距離がとても遠く、もし札幌で治療を受けるとなると、それだけで大きな負担になります。セカンドオピニオンを受けるにしても、気軽に札幌へ行ける距離ではありません。

 「もし再発したら、帯広では移植ができないから札幌へ行かなければならない」と言われたとき、強く地域格差を感じました。地方では若いがん患者自体が少なく目立ちやすいという現実もあります。

松浦 北海道は本当に広く、私自身も地域格差を強く感じています。例えば旭川では、私が東京にいた頃には比較的簡単に受けられた妊孕性温存の治療が、未婚女性の場合は受けられず、札幌まで行かなければならない状況があります。

 お金や時間の問題で、その治療を諦めざるを得ない若い人が少なくないと聞き、何とかならないのだろうかと思っています。旭川は北海道第2の都市と言われていますが、それでも対応できない医療があり、各地から若い患者さんが拠点病院に集まってきます。ただ、友達も親も遠方にいて、誰にも頼れず、一人で頑張っている若い人が本当にたくさんいます。

 治療がつらい中で、身近に支えてくれる人もいない状況は、とても苦しいものだと思います。私自身、その気持ちが分かるからこそ、医療だけでなく、生活面や心の面も含めたサポート体制が、もっと整っていけばいいのにと強く感じています。

【夢】

岸田 皆さんから一言ずつ、夢を教えていただけますでしょうか。

本田 私の夢は二つあります。一つ目は、もう一度ヘアドネーションをすることです。髪の毛が抜けていく中で、言葉にしきれない気持ちを実際に経験したからこそ、また誰かの力になれたらと思っています。二つ目は、地方に根強く残っている「がんになったらすぐに死んでしまう」「かわいそうな存在だ」というイメージを壊すことです。田舎は特に情報が少ないので、正しい知識を届けたいと思い、現在は図書館にがんに関する本を寄贈するなどの活動をしています。

松浦 私の夢は、AYA世代の医療環境を良くすることです。治療内容だけでなく、空間も含めて「いい医療」が提供されることが当たり前になる社会にしたいと思っています。それが特別なことではなく、国のデフォルトになるような医療環境を実現したいです。

坪田 私の夢は、北海道全域に「AYA」という言葉が広まることです。もし自分ががんになったときに、各都市に一つでも、二つでも、小さな患者会があって、つながれる場所がある。そんな環境をつくりたいと思っています。AYA世代の患者会を、北海道の各地に根付かせていくことが目標です。

【今闘病中のあなたへ】

岸田 最後に、「今、闘病中のあなたへ」というメッセージをお願いします。

松浦 私からのメッセージは、「わがままになろう!」です。寂しかったら寂しい、つらかったらつらいと、ちゃんと言葉にしてほしいと思います。言わなければ伝わりませんし、周りの人も、どう助けていいのか分からないままになってしまいます。わがままになることで、周囲とのコミュニケーションが増え、結果的に支え合える関係が生まれるのではないかと思っています。

本田 私のメッセージは、「できないことを数えるのではなく、できることを数えよう」です。私は再発に備えて、今もCVポートが入っています。その影響で、工場勤務をしていたときには、重いものを上から降ろす作業などができなくなりました。以前の私は、「できないことがあっても努力して頑張らなければならない」という強迫観念がありました。でも、できないことはできないでいいんだと、今は思えるようになりました。できないことを数えるより、今できていることを数えていくほうが、ずっと前向きに生きられると思います。

坪田 私のメッセージは、「甘える」です。私が入院していたのは泌尿器科で、高齢の男性患者さんが多い病棟でした。女性の看護師さんたちがとても優しく接してくださっていたのですが、今振り返ると、「もう少し甘えておけばよかったな」という後悔があります。だからこそ、皆さんには、ちゃんと甘えてほしいと思います。特にAYA世代という立場を、遠慮せずに使って甘えてください。特に男性の方は、入院生活に少し潤いが出ると思います。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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