目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松谷

【オープニング】

岸田 はい。がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは松谷君です。よろしくお願いします。

松谷 お願いします。

岸田 まず自己紹介させてください。僕は、25歳と27歳のときに肺細胞腫瘍という珍しいがんになりまして。抗がん剤や手術などを経て今、経過観察をしております。当時、医療情報はお医者さんに聞いたらいろいろあったんですけれども、患者側の情報、どういうふうに打ち明けたのだったり、会社に復帰、どうしたのだったりとか。

岸田 恋愛や結婚はとか。いろんなそういった情報というのはあまりなかったので。それを実際に、経験者さんに聞いて、それを、これってすごいめちゃくちゃいいノウハウとかある、みんなとシェアできればということを思ってがんノートというものをスタートしてきました。

【ゲスト紹介】

 

岸田 今日はがんノートminiということで、松谷さんのお話をお伺いしていきたいなということを思っているんですけれども。まず松谷さんのゲスト紹介ということで。松谷昴星さんという、好青年になります。出身が島根、居住地も島根ということで。

岸田 お仕事は市役所の職員をされていらっしゃいます。趣味が、運動・筋トレ・洋画の映画というふうな形。かっこ洋って書いてるからには、結構何かしらのこだわりが、邦画じゃねえよみたいな感じの。こだわりがあると思うんですけれども。何かお薦めとかあったりとかしますか、松谷さん。

松谷 自分がよく見るのはアイアンマンとか、ああいうシリーズ。

岸田 マーベル?

松谷 とか。あとインターステラっていう宇宙系のSFとか、そっち系がすごい好きで。割と1人でも映画館に行って見たりすることが多いです。

岸田 日本の製作費とかもう、じゃああかん、できへんやつね。

松谷 そんな、迫力がすごいやつをでっかい映画館で見たいっていう感じですね。

岸田 ありがとうございます。そういう映画が好きと。運動、筋トレっていうとこは多分、後で出てくるので、多分それで分かってもらえると思います。リンパ腫がんの経験者で、ステージが3と。28歳のときに告知され今29歳ということは、1年前ですね。告知されて薬物療法と放射線、移植まで行っているという形なんですけれども。松谷さんのペイシェントジャーニーがこちらになります。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ごめんなさい。ペイシェントジャーニーをまず説明を。気持ちと時間が上、上下、そして時間が右に行くと時間が経過する。吹き出しはポジティブやネガティブ、そしてどちらでもない。そして治療と。いうふうな形で、色が分かれておりますのでまた参考に見てください。

岸田 その中で、これが松谷さんのペイシェントジャーニーという形になります。なかなか10が、めっちゃ高いめっちゃ低いっていうのがばーってあるんじゃなくて、平均マイナス2を。2、3を結構いく感じですね。

松谷 そうですね。あんまり気持ちの起伏はないほうかなっていう。

岸田 それはまたなんか理由があるんですかね。

松谷 そうですね。

岸田 ちょっとそういったところを聞いていきたいなということを思うんですけれども。松谷さんのペイシェントジャーニー、まず初めに2020年のところからどういった成果としていたの、社会人アスリート5年目ということで。結構、長い、アスリートやったっていうこと?

松谷 そうですね。自分でアスリートっていうのもちょっと恥ずかしいんですけど。ばりばりにスポーツをしてました。

岸田 何のスポーツ?

松谷 中学校からずっと今も現役のつもりなんですけど、陸上競技でやり投げという種目を・・・。

岸田 やり投げね。ピョッと投げてピョッと刺さるやつね。

松谷 そうです。実際見たらもっと迫力あるかなっていう。

岸田 めっちゃすごいもんな。みんな。

松谷 かっこいい。

岸田 オリンピックとかで見たりとかします。ありがとうございます。そんなアスリート5年目の松谷さんが、ちょっと下がっていくんですよね。なんかあったのかなといったところでは。お母さんがんやったん?

松谷 はい。一昨年ですかね。一昨年の9月ぐらいに、自分がそのとき鹿児島で仕事をしてて銀行で働いてたんですけど。実家のほうから連絡があって、母がちょっと貧血みたいな感じで倒れたと。病院にかかって、もうすぐ手術みたいなことになって、胃がんっていうのが発覚したんですよね。

岸田 胃がんが発覚していき、そしてそこから市役所の追加募集があったと。

松谷 そうですね。母のがんが見つかったときにちょっといろいろ、他の父とかおじいちゃんとかもいろいろ体を崩しちゃったりとかっていうのがあったりしたので。もう、すぐ地元にUターンをしようかなっていうふうに考えて。

松谷 一応、妻と2人で暮らしてたんですけど、妻も九州の人間なので。僕的にはちょっとどうしようかなって悩んでたんですけど、一応最後後押しをしてもらって、もう帰ってあげなということで。島根に帰ろうって思ってたときに地元の市役所の追加募集が奇跡的にあって。それに応募したという感じですね。

岸田 応募して今に至るっていうことかと思うんですけど。当時付き合っていた彼女と結婚すると。

松谷 そうですね、帰る前、3月とかですね。3月ぐらいに結婚式を九州であげたんですけど、ちょうどそのときコロナの関係で結婚式も1年ぐらい延期してて。ようやく挙げれるっていうふうになったんですけど。そのときちょっと母も体がきつかったので、リモートで父と母は参加してもらって。

岸田 そういう形だったんや。

松谷 はい。

岸田 ちなみに今の奥さんは、大学なんかで知り合った方?

松谷 そうですね。大学の同じ陸上部で同期やった。

岸田 じゃあそういう理解もあってパートナーとして結婚して。そしてそのとき、後にUターンで市役所に就職していくという。

松谷 そうです、1月からですね。

岸田 このときまで、まだご自身のがんの話はないわけやけどさ。体調自体は大丈夫やった?

松谷 もうばりばり元気で。地元に帰ってからも筋トレしてっていう。もうめっちゃ元気でした。普通に。

岸田 そしてその後に下がっていくのが。これはお母さまが他界していくということで、胃がんで。

松谷 そうですね。4月の真ん中ぐらいからが最後の入院になって。最後看護ケアのほうに入って、父と私とで2人で泊まってみとりまでっていう感じだったんですけど。母が亡くなった日がちょうど自分の誕生日の朝で。頑張ってくれたっていう母を最後までみとったっていう感じですかね。

岸田 そしてそのお母さまをみとって。そしてちょっと上がっていきます。ここで頭痛とか首にしこりができてきた、体調が変化していったってこと?

松谷 そうですね。8月の半ばぐらいだったと思うんですけど。トレーニング中になんかすごい頭痛がして。ちょっとあまり動けないみたいな感じになって。その日家に帰ってから、本当たまたまなんですけど、首を触ったらちょっと下のほうに本当豆粒みたいなしこりがあって。

松谷 いろいろその段階でネットで調べたら、もしかしたらリンパ関係のがんかもしれないっていうのが出てきたんで。ちょっと心配になって、もうその日に地元の総合病院の夜間に行って。一応、見てもらったっていう感じですね。

岸田 その病院で見てもらってどうやった? 夜間で見てもらって。

松谷 そのときは一応、月単位ぐらいでだったらなんか変わってくるかもねっていうので。もし気になったら他の耳鼻科にまずちょっと行ってみて、見てもらってっていうぐらいで。もう簡単に終わりました。

岸田 簡単に終わったんや。多分、当直の人が耳鼻科とかじゃない関係やったんやな。

松谷 そうだったと思います。

岸田 ちょっと怖いからそれで行ったらそういうふうな感じで。ただ、地元の総合病院で検査をして。これはまたさっきの緊急的に行ったのとは、また別で?

松谷 そうですね、別です。最初に緊急で行ったのからすぐもう1週間たたないぐらいで。左側の首、耳から下がパンパンに腫れて。顎の輪郭とかも見えないぐらいになっちゃって、その耳鼻科の病院を3回ぐらい行って。なかなかそのときも分かんなくて、ようやく紹介書を書いてもらって。9月のちょっと過ぎたぐらいですかね。また総合病院に紹介書を書いてもらって、いろいろ細かい検査をしていくっていう流れでしたね。

岸田 その分かんなくてっていうのは、最初に行った病院ではよく分かんなくてってこと? 耳鼻科では。

松谷 耳鼻科でも、そうですね。血液検査でもあんまり目立った数値は出てなくて、あまりにも腫れてるからっていうので、先生もびっくりされて紹介書を書いてもらいました。

岸田 で、また行ってその紹介書を書いてもらって、大学病院に行ったってことか。

松谷 そうですね。地元の総合病院で、生検、最初は針で、注射器で腫れてるところの細胞を取って検査して、1週間ぐらいした結果分かるよ。やっぱりちょっと取った量が少なくて、はっきり分かりませんでしたってなって。

岸田 そんなんある?

松谷 なんかあったみたいで。細かいのまでは分かりませんでしたっていうので。

岸田 いや取ってくれよな、ちゃんと。

松谷 もうほぼ跡消えてるんですけど。ここを5センチぐらい切って、手術で生検、ここの細胞をしっかり取って。大学病院のほうに細胞を送って見てもらうっていう流れで、検査のために手術とかして、その1週間後ぐらいに結果出るみたいなんが、そんなのがずっと続いてて。10月に入ってようやくしっかりと治療ができる大学病院に紹介書を書いてもらったっていう。

岸田 ようやくそれで大学病院に行って、そこで悪性リンパ腫の告知を受けるっていうことだよね。

松谷 です。最初、大学病院に行った時点ではまだ、悪性リンパ腫ではあろうっていうぐらいのふわっとした感じで。取りあえず明らかに腫れてるから治療を開始しようっていうので、治療を始めて走りながら効果が出てれば、恐らくこの治療が合ってるんだろうみたいな。

岸田 そんな感じやったんや。

松谷 流れで入ってて、1週間ぐらいして目に見えて首の腫れも引いてきたし。

岸田 よかった。

松谷 大学病院に行ったときにも最初いろいろ、CTを取ったりとか、あと細胞、鼻の中の皮みたいなのをピンセットでぶちってむしり取って、それを検査。それも生検なのかなと思うんですけど。そこの細胞を取ってたほうが、もしかしたら今後いいかもしれないっていうので言われて検査をしたりして。入院して1週間ぐらいたってから、ようやく告知っていうんですかね。病名が分かったっていう感じでした。

岸田 だってもう2021年の話やん? それが。

松谷 そうですね。

岸田 分からんまま治療に入っていくのがあるんやっていうのをちょっと、はい。悪性リンパ種の告知。大学病院へっていったところが赤色でポジティブなんですよね。なんで松谷さんポジティブなんですか。

松谷 自分がその異変に気づいたのが8月の半ばぐらいで。この大学病院に入ったのが、10月過ぎてぐらいからだったんですけど。やっぱ、はっきりするまでの時間が結構1カ月、2カ月かかっちゃって、そのときは結構まだかなっていう。

松谷 ちょっと、ずっと気になってるような状態だったんですけど。ようやく大学病院に入れて、治療も本当1週間ぐらいで目に見えて効果が出てきたので、もう気持ち的にはようやくスタートしたなっていう。スタートできたっていうポジティブな気持ちになれたっていう感じですね。

岸田 やっぱり自分それまでめちゃくちゃ不安やったけど、ようやくこれで治療がスタートして、それでスタートが切れたというふうな。さすがアスリート。関係ないっちゅうにな。ごめんなさい。

松谷 そのときにスタートした治療の内容が、抗がん剤をもう始めたんですけど。SMILE療法っていう、抗がん剤の頭文字を取ったみたいな。SMILE療法って名付けられてると思うんですけど。その大学病院の先生が、このSMILE療法についての論文かなんかを書かれてる方で。それも書かれたのが2014年か5年ぐらい。割と最近の治療で結構リンパ腫の、自分が告知されたのが節外性NK/T細胞リンパ腫の鼻型っていう。

岸田 リンパ腫いっぱい種類あるもんね。

松谷 めちゃくちゃあるんで。多分それでなかなか分からなかったんだろうかな。さっき鼻の細胞を取ったっていうのも、この鼻型っていうのが。

岸田 その鼻か。

松谷 多分、疑われてて。取ったらそこにもやっぱがん細胞がありますよっていうので分かったらしくて。

岸田 HANA型じゃなくてそのはなじゃなくて、普通の、その鼻ね。

松谷 そっちの鼻ですね。リンパ腫の中でも3%ぐらいの割合しかないみたいな、結構希少ながんらしくて。なかなかそれで多分診断っていうのは、告知が出なかったのかなというふうに思います。

岸田 入院していって、そのSMILE療法という抗がん剤をいくつか使ってというふうなことで。治療法については皆さん、視聴者の皆さんはちゃんと主治医に確認していただいたりとか。ご自身のいろんな種類だったりとか、いろいろあると思います。

松谷 あくまでも松谷さんの場合はSMILE療法していったということで。ご理解ください。そしてSMILE療法やっていきまして。そこから下がっていくんですよね。こちらがどんどんメンタルが崩壊していくということで。これは抗がん剤が辛かったってこと?

松谷 抗がん剤自体は、割と多分僕はそんなに副作用とか出ないほうだったので、ほとんど吐くこともなかったです。体調も、崩すこともほぼなかったんですね。メンタルが崩壊したっていうところが3回目の入院をしたときで、大体10月、11月、12月で3週間ずつ入院したんですけど。

松谷 同じ治療内容なんで、気持ち的には余裕がかなり出てきて、大体こういう流れでいくんだろうなっていうのが分かってたんで。先が読めるような感じで、あと1週間とか、あと2週間とかっていうのが分かるっていう。ちょっと気持ちの余裕が出たせいで、逆にカウントダウンしていくのが辛くなっちゃって。

松谷 なかなか進まないやんっていう。なかなか時間が進んでくれないなっていうので、ちょっと心のほうに来ちゃって。病院の中をうろついたりとか、なんかそわそわして寝るときも足バタバタさせてみたいな。禁断症状みたいなのが出始めちゃって。もう自分ではコントロールできない状態になっちゃって、そのとき。

岸田 いつ終わるとか、そういうのをちょっと意識し始めたら、結構。

松谷 そうですね。

岸田 自分のメンタルに来ちゃったってことね。

松谷 治療の中で多分、このときが一番、気持ち的にはきつかったんじゃないかなというふうに思います。

岸田 治療副作用というよりは、この先この先いつ出れるんだみたいな、そういったところが辛かったと。そこから上がっていくんです。ようやく退院できて。

松谷 12月末に退院をできました。もう心も疲れ切ったような状態での退院でしたね。

岸田 退院したら心は復活してった?

松谷 そうですね。その後が1カ月ぐらい自宅にいれたので、かなりその間でしっかり心も休まってっていう感じですね。

岸田 よかった。そして上がっていくといったところでは、赤色で末梢血管細胞採取と書いてあるのか。

松谷 これが移植の類いなんですけど。自分が血液のがん、リンパは血液のがんなんですけど、血の細胞を作る元になる末梢血管細胞っていうのがあって、この後に強い抗がん剤を入れるっていう治療があったんですけど。それをすると全くなくなっちゃう。

松谷 白血球なんかもゼロになっちゃうっていう状態になるらしかったので。先に自分の体からその細胞を取り出して、抗がん剤治療をして、それを取った細胞を戻すっていう治療を予定してたので。それの細胞採取っていう感じ。

岸田 いろんな移植の方法あるけれども、松谷さんの場合は。末梢血管細胞移植をしたというふうなことね。そしてその後大量の化学療法をしていく。大量化学療法で全身やっつけてってことよね。

松谷 そうですね。このときの入院が1カ月ちょっと、32日間の入院になってたんですけど、最初の1週間でその強めの抗がん剤。最初に使ってたのとは違う種類の抗がん剤で、がん細胞をやっつけてっていうのを先にやりました。

岸田 そしてちょっと下がっていきます。ここで移植か。

松谷 ですね。その抗がん剤が終わったところで、事前に採取してた細胞っていうのを戻す。戻すのは15分ぐらいで点滴で、カテーテルを通して入れたっていう感じだったんですけど。すごい下がってるのが、抗がん剤で多分ステロイドとかの影響かなと思うんですけど、全然寝れなくて。

松谷 夜中なんか看護師さんが回ってくる音でもう目が覚めちゃうっていう感じで。ほぼ1週間寝れてないような状態だったので。日中、逆に眠たくて動く気にもなんないしっていうのが、ずっと1週間ちょっとぐらい続いてたので。ちょっと気持ち的に落ち込んだっていう感じですね。

岸田 寝れへんかったら、なんかメンタルにもくるしね。そういったところがあって、ただそれは時間が経過したら大丈夫になってた感じ?

松谷 そのときぐらいからリハビリが始まって、理学療法士の方が来てくれて、朝の10時ぐらいからちょっと体動かしてっていう生活がスタートしたんですけど。何とか無理やりにでも体動かそうと思って、そのときぐらいから起きて談話室みたいなところに行って、いろいろ作業したりとかっていうのを、生活を何とか無理やり。気持ちを、モチベーションを上げようと思って、そういう生活をしてましたね。

岸田 そしたらちょっと眠れるようにもなっていく?

松谷 そうですね。生活リズムをしっかり整い始めてからは寝れるようになってきましたね。

岸田 そして退院をしていって、またちょっと下がっていきます。ちょっとなんか親知らず、抜糸ということで。ちょっとなんか系統が違うような気がすんねんけど、これも治療の影響?

松谷 ですね。単純に僕が痛いのが嫌いっていうのもあるんですけど、親知らずを抜いてないと、歯の奥のほうで菌がたまっちゃうらしくて。本来は治療始まる前に抜いて、ばい菌がたまらないようにして治療に入るっていう予定だったんですけど。

松谷 先にさすがに抗がん剤とか治療したほうがいいだろうって、それが優先されて、なんだかんだずるずると後ろに下がっちゃって、このタイミングで抜刺をするっていうことになったんですけど。結構一、二を争うくらい嫌な治療でしたね、この中では。

岸田 痛いから?

松谷 痛いからです。もうとにかく痛い。

岸田 本来なら抗がん剤とかいろんな前にするやつやけど、それよりも治療を優先してこのタイミングになったと。それから放射線治療をしていくのね。

松谷 そうですね。3月の末ぐらいからスタートしたんですけど、放射線が1日10分ぐらいの短い治療なので。平日で25回当てないといけないっていうふうに言われてて。大学病院が自分の地元の方の家から2時間ぐらいかかる場所。

岸田 遠っ。

松谷 さすがに毎日10分のために通院はできないなと思って、大学病院の近くに1カ月ぐらい家を借りて。徒歩20分ぐらいで、リハビリも兼ねて病院まで歩いてって。10分放射線当ててまた帰ってみたいな生活を、1カ月ちょっとぐらいしてましたね。

岸田 病院が遠かったら通院費も大変ですもんね。

松谷 かなり迷ったんですけど、いいところでしっかりとした治療を受けたいっていうのがあったので、そういう形を取りました。

岸田 分かる。そして放射線治療を終えて、無事治療が、通院が終了していきます。そして今は異常なしということで、社会復帰へって書いてるんやけども。もうすぐまた職場に復帰もするんよね。

松谷 そうですね。一応治療が5月に放射線治療が終わって。でもずっと早く社会復帰したいなっていうふうに、前向きな気持ちで過ごしてたんですけど。ようやくここまで来て。一応、来月6月に最後の精密検査みたいなのを予定してて、そこで本当に何も問題なければ完全寛解と言われる状態になるんですけど。

松谷 今のところはまだそんなに治療も終わったばっかりなので、時短勤務で復帰をしていければなっていうところまで、ようやくこぎつけたっていう感じですね。

松谷 そうなんですよ。

岸田 皆さん、今ちょうど、本当に今月放射線治療、終えたとこやもんね。

松谷 そうですね。

岸田 しかも僕もさっき知ってびっくりしたんですけど。皆さん、松谷さんの髪、それウィッグなんよね。

松谷 これウィッグですね。2カ月前ぐらいに買って、まだちょっとつけ慣れてないんですけど。

岸田 めっちゃ自然すぎて、全然分からんかったと思って。すごいいい感じ。似合ってる。

松谷 横とか後ろとか刈り上げてたぐらいだったので、もうこの長さが気持ち悪いんですけど、人前に出るのさすがに坊主はちょっと、いや感があるかなと思ったんで。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 すてき。そんな松谷さん、ペイシェントジャーニー。このような経過をたどって、そのゲストエクストラというところでこちらいただいてます。大変なこと、困ったことといったところでは、田舎の病院のためなかなか検査が進まずもやもや。

岸田 長期入院中のメンタルの維持、それをどういうふうに乗り越えたかというと、病気や精度を調べてそういう時間に充てたということだったりとか、治療終了時期に期待しすぎない、周りに聞かれたときは余裕だったと答えると言われて、おっしゃっています。こちらそれぞれちょっと説明していただけますか。

松谷 一応、僕の住んでるところが島根県って、そもそも田舎なんですけど、山の中に住んでるようなところで。なかなか病院もたくさんあるわけじゃないし、しっかりとした設備が整っている病院っていうのもかなり遠くにあったりとかでなかなか検査が進まなくて。

松谷 その時間っていうのがやっぱり、気持ち的にはもやもやずっとしてる時間だったので、せっかくだったらと思って。自分の病気だったりとか、治療品のいろいろ補助になるような制度だったりとか。

松谷 自分の入っている保険の見直し確認というところの時間に充てました。メンタルの維持については、本当に1回かなり下まで落ち込んじゃったんですけど。そのとき治療がもうすぐ終わるっていうのをずっと期待しちゃってて、逆にそれがマイナスに働いちゃったんで、あんまり期待しすぎずに気長に治療していこうっていう気持ちを持ってやってましたね。

岸田 さっき言ってたもんね。そういうことも大事だっていうの。そして周りに聞かれたとき、余裕やったと答えるっていうのは、何? これ、なんか、調子乗るってこと? 分からん、ちょっとどういうこと?

松谷 すごい周りには気を使ってもらったのに、余裕でしたよっていうのを、申し訳ないんですけど。自分から口で余裕だったっていうことで、頭の中で辛い思い出として残さないようにしようと思って。辛い思い出のほうがやっぱり将来、頭の中に残っちゃったりしてたりするっていうのがあるかなと思って。一応、口では余裕だったというふうにしてます。

岸田 辛い思い出というふうな形で印象を残さないってことね。

松谷 そうです。

【メッセージ】

岸田 自分の中でもね。ありがとうございます。そして。松谷さんにいただいている、この視聴者の皆さんにいただいているメッセージがありますので、こちら松谷さん、ぜひよろしくお願いいたします。

松谷 僕からのメッセージとしては、最悪を想定して最善を尽くすという言葉なんですけれども、最悪が想定できてれば動じない心ができるのかなというふうに思ってます。個々の病気についてすごい詳しく調べる必要はないかなというふうに思うんですけど、万が一のことを考えて何かしらの備えはしておいたほうがいいのかなと思います。

松谷 自分が今29歳なんですけど、特に若い方、社会に出る前に国の制度だったりとか保険とか、お金についてしっかり学んで準備をしておいてほしいなというふうに思います。しっかり準備さえしとけば、起きてないことは気にせずに、すごい幸せに生きてほしいなというふうには思ってます。

松谷 自分がこういう病気を経験したのにもかかわらず、過去の治療のつらかったこととかっていうのが本当に、他人事のように今は感じてて。ましてや亡くなった母の当時の気持ちなんかっていうのは、全然想像がつかなくて。

松谷 今、SNSとかでいろいろ個人が好きなように発信できるようになってきてるんですけど。苦しんでる人たちの気持ちっていうのを、勝手な想像で軽々しく語るもんじゃないなっていうふうにこの治療を通じて思いました。

岸田 ありがとうございます。最悪を想定して最善を尽くすということ。俺も全然知らなかったもんな、当時。本当にちゃんと制度も含め、いろんなことを知っといたほうがいいよね。

松谷 もともとそういう職業に就いてたから知ってたっていうのもあるんですけど。多分、違う仕事に就いてたら、全然そんなんも知らなかったんだろうなって思いますね。

岸田 皆さんもこうやって最悪を想定して最善を尽くす、いろいろ準備だけはしっかりしておいておいたほうがいいということで。松谷さん、本当にがんノートminiご出演いただきましてどうもありがとうございました。これにて松谷さんの闘病経験談、終了していきたいと思います。それでは皆さんまた会いましょう。それではバイバイ。

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