目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:天野

【発覚・告知】

天野 天野慎介と申します。2000年、27歳のときに悪性リンパ腫を発症し治療も再発を2回経験しました。

天野 現在は経過観察中、寛解という状態です。私が発症したのはびまん性大細胞型B細胞リンパ腫で、私は非ホジキンリンパ腫のB細胞性でした。

天野 当時仕事をしていて会議中に声がいきなり全然声が出なくなったことが1回あって、その後も同じ症状が2回ぐらいありました。

天野 他の症状としては高熱が2、3回でました。ある日、また熱が出て風邪かなと思って近所の耳鼻科行ったんです。

天野 風邪だと診察されて、風邪薬的なものを飲んでたら、熱は2、3日で下がりましたが歯を磨いたときに口の中見たら、へんとう腺が腫れてるのに気付いてもう一度、耳鼻科へ行ったら、腫れ方が普通じゃないって言われて、可能性は低いけれども、悪性リンパ腫という病気かもしれないから、念のため地元の総合病院で病理診断を受けてくれって言われて取りあえず行きました。

天野 がんに対して無知でしたし、20代ではさすがにないだろうっていう、何か妙な思い込みがあって病理検査受けてもそんなに不安な気持ちとかはなく、2週間後に結果を聞きに行ったときも結果だけ聞いてさっさと仕事行こうと思ってた。

天野 耳鼻科のドクターと看護師さんから「悪性リンパ腫です。治療が必要です」と検査結果を告げられて頭真っ白になる、もう考えられないって、そんな感じでした。

岸田 最初クリニックでよく悪性リンパ腫かもしれないって言ってくれましたね。

天野 ドクターが独り言っぽく「前に診たリンパ腫の患者と似てるんだよな」って言ってたんです。

天野 あと、腫れ方が普通じゃなくて、普通は両側腫れるけど片側だけ腫れてたらしいんです。

天野 リンパ腫って、そもそもそのとき初めて聞いたくらいで全然分かってなくて、血液のがんなんだっていうことは分かったんだけども自分自身で不安を打ち消してるような感じでした。

天野 辛うじて聞けたことが二つあって、一つは家族に言わずに治療ってできるんですかということ。次に聞いたのは仕事のことです。

天野 当時は独身でしたけども、恋愛とか結婚とかどうなるんだろうか、そもそも生きていけるんだろうかとか、自分の人生どうなるんだろうとってことが、わっと押し寄せる感じで、辛うじて聞けたのがその二つ。

天野 聞いた後の記憶はほぼないです。仕事は取りあえず休んでくださいとだけて言われて。

天野 悪性リンパ腫は血液のがんなので血液内科がある大学病院に紹介されて、そこで詳しい説明を聞く感じでした。

天野 転院までの一週間でどんどん不安になっていくみたいな感じで、感情としてはもう何かの間違いなんじゃないかっていう感じですよ。

天野 検査を間違えたんじゃないかとか、人を間違えたんじゃないかとか、夢を見てるのかなみたいな、そんなことあり得ないんだけどもそんな感情で、何故20代でがんになるのかとか、遺伝性なんだろうか、それとも生活習慣悪かったんだろうかとかいろんなことぐるぐる考えるような感じでした。

岸田 大学病院に行ったら、すぐ治療でしたか?

天野 最初は改めて病気の説明で、あなたはびまん性大細胞型B細胞リンパ腫です、5年生存率は大体50パーセントぐらいですと説明を受けました。

岸田 治療の内容は?

天野 血液がんなので、基本的には抗がん剤治療、化学療法です。多剤併用療法といって、複数の抗がん剤を組み合わせて投与するCHOP療法を受けました。

天野 普通ならそれで割とよく効くほうなんですけども、僕の場合はたまたまあんまり効かなくて、4クール終わった時点でまだ部分寛解みたいな感じで結構残ってた。

天野 効いてない治療を続けても負担が増えるだけなので、抗がん剤を切り替える話になり救援化学療法というポートを入れて96時間持続点滴をしてやっていく最初の治療よりもきつい治療に切り替えました。

岸田 効果はあったんですか。

天野 その救援化学療法と併用して自家末梢血幹細胞移植を行いました。

天野 どういうことかというと、通常の抗がん剤だと量も限界がある。

天野 大量の抗がん剤を投与できたら理論的にはその分がん細胞はたたくことができるんだけども、あまりにも大量にたたいちゃうと白血球がゼロになっちゃって、患者さんも死んでしまうので、あらかじめ血液細胞の基になる造血幹細胞を採取して冷凍保存し、大量の抗がん剤を入れた後に冷凍保存しといた造血幹細胞を自分の体に戻すっていう治療を行いました。

岸田 効果ありました?

天野 それで寛解になったので一応ありましたが、結構しんどい治療でした。

天野 再発をしないため、治すために自家移植やったはずなんですけども一年後に再発して、自家移植やっても半分くらいは再発をすると言われていたので、ああ、再発したかっていう感じでした。ただ、初発のときよりは僕の場合ショックは小さかった。

天野 というのも主治医と自家移植をやるかやらないかということも含めて、徹底的に話し合ったので、自分でできることはやったけれども再発したかっていう感じでしょうがないかと。

天野 ただ、再発ってなったらもう本当に死と向き合う感じでした。

天野 自家移植って究極の治療なので、もう選択肢が限られてくるし死が押し迫ってくる、当時はそういう状態でした。

天野 肺の縦隔に再発したので放射線をかけた後、今ではほぼ全てのB細胞リンパ腫の患者さんが使っているポピュラーな抗体療法薬があって、当時承認直後だったそのお薬を使ったんです。

天野 僕の場合たまたま最初にあてた胸への放射線で放射線による間接性肺炎という特有の肺炎ができた。

天野 それは割と軽度だったんですけども、抗体療法薬を投与していくうちにだんだん悪くなって、ある日仕事中に急に息苦しくなってきて動けなくなって倒れ、救急車で救急搬送、緊急入院です。間質性肺炎って致死的な肺炎なので、ステロイド剤を大量投与しました。

天野 点滴で1000ミリグラムぐらい入れて肺炎は抑えられたけれども、だんだん左目に霧がかかったような感じになってきて、疲れ目かなと思ってたら、どんどん霧がおかしくなってきた。

天野 眼科に行くと「目が溶けてる、緊急手術だ」と言われて、意味が分からなかったけれど、説明がないまま緊急手術で硝子体の摘出手術を受けました。

天野 ステロイド剤を入れたことによって免疫力が低下しヘルペスウイルスというありふれたウイルスが暴れだしたことが原因でした。

天野 普通は大丈夫なんだけども、ステロイド剤を大量に入れてるから暴れだしちゃって、左目に感染症みたいなのを起こして網膜が溶けていたんです。

天野 結局そのまま左目は視力を失うことになりました。

天野 徐々に仕事に戻りやっと日常生活がやっと自分の中でも軌道に乗り始めたかなって思った2年後にまた再発したんです。

【治療】

天野 再発っていっても、もうやることないんです。唯一提案されたのが、同種移植、骨髄バンクです。

天野 骨髄バンクからいただいてやる治療は自家移植よりも、他人のリンパ球が自分の体のがん細胞を攻撃してくれるという、抗腫瘍効果が期待できるので、ちょっと違う治療になるんですが、リスクはめちゃめちゃ高い。

天野 既に抗がん剤を大量に入れてるので、すごくリスクが高い治療になるけど、僕の主治医はもう同種移植以外手はないといってました。

天野 ここまで来たらどうにでもなれみたいな感じで、そこまで付きまとうなら徹底的にやってやるわ、みたいな感じです。もう、考えててもしょうがないっていう。

岸田 この再発はCTを撮って腸間膜にあったんですよね。

天野 そうです、腸間膜が腫れてました。

天野 骨髄バンクからもらう話になって、僕の場合はたまたま日本人にありふれたタイプのHLAの型で100人以上合う人がいるって話になり移植する段取りになったんだけども、今までも命に関わる治療なんだけども、これは特に致死的な治療なので、セカンドオピニオンを受けたんです。

天野 セカンドオピニオン先のドクターはとにかくリスクがすごく高い、治療関連死のリスクが多分、5割じゃすまないと言われて、再発かどうかも腸間膜だけだったら再発じゃないかもしれないみたいなことも、ちらっと言ってたので、そのセカンドオピニオンの結果を主治医に持ち帰ったら、主治医の見解は絶対再発すると断固として譲らなかった。

天野 ただ、僕の個人的な感覚としては、色んな抗がん剤もやって、抗がん剤の副作用で、肺炎は起こすわ、目は見えなくなってるわ、もう今までに色々起きている。

天野 これ以上抗がん剤やったらどうなるんだろうっていう不安があって、病気が進行して亡くなるのと、治療で亡くなるのだったら、病気が進行して亡くなるほうがまだ、自分に合ってるっていうか、人間的かなっていう気がして、主治医は絶対再発するから移植を強く勧めてましたが僕はもうそうなったら自分の責任で引き受けるので、もう治療やめてくださいって言って、抗がん剤だけやって治療を終えたんです。セカンドオピニオン先は自分で調べて多く移植を経験しているドクターを探しました。

天野 主治医は主治医で間違ってはいなかったと思うんだけども、僕は両方聞いて、どっちか選べと言われたら病気の進行のほうがいいかもしれないっていう気が当時はしてました。

天野 その後、僕はたまたま進行してなくて腸間膜のがんはいつの間にか消えしまいました。油断はできないですが。

【家族】

岸田 最初にがんだと分かったとき、ご家族にはどう話されましたか。

天野 初発当時、私は母と同居していて、まず母に伝えなきゃと思ったけれど、どう伝えればいいかずっと悩んで2週間ぐらいして伝えたら、母親は僕が思ってたのと違う反応で、少なくとも外見上ショック受けてなくて割と気丈にふるまってくれていました。

天野 でも、やっぱりショックは受けたみたいで、入院治療中に母親が見舞いに来てくれた帰り際に「若いのに、がんになる体に産んでしまってごめんなさい」って言われたことがあって、母親にそう思わしたのは結構しんどかったです。

天野 ただ、当時は独身だったので、一人だからある意味楽だった面もありました。

天野 例えば2回再発したときの治療の意思決定だったりその他の治療を決めるときも最終的には自分で引き受ければいいかっていう気持ちはあったから、そういう意味では決めやすい面はあった。

天野 家族とか、大切な配偶者とか子どもがいたらそんな簡単に決められないでしょうから。

岸田 こうしてほしかったなってことはありますか。

天野 母親とか、家族とか、周辺の友人知人のことも、すごい心配なんだけども、治療中はしんどくて正直気を遣えないときもある。だから気を遣われると逆にこっちが気を遣うので、できれば普通に接してもらいたかったというのは思いますね。

岸田 逆にうれしかったことってありますか。

天野 当時は、闘病が基本孤独だったんですよね。20代でがんになって、同じ病室に入ると回りは基本的に高齢の方が多いんですよね。

天野 高齢の方に若くても充実した人生を生きることは可能だから、もっと前向きに行きなさいとか、いろいろ言われたりする。要は自分のリアルな感情とかを周りに相談できない感じですよね。

天野 そういうとき家族につらいことを正直に言えたっていうのは、大きかったですね。

【恋愛・結婚】

岸田 天野さんの当時のご恋愛について、お聞かせいただけますか。

天野 初回治療のときは交際してる恋人もいましたが、自分から別れましょうって言って治療終わってから別ました。

天野 がんを発症した後に、何人かお付き合いしましたが、全く伝えないままお別れした人もいれば、元から知ってた人も何人かいるような感じです。

天野 発病した直後の頃は、周りでも伝えてない方が結構いましたよ。

天野 がんの経験を語り合うっていう場がありますけど、当時はそういう雰囲気はなかった。

天野 だから、全く知らずにお付き合いした人もいますけど、そうすると僕のことを全て伝えてるわけじゃないから申し訳ないという気持ちになって長続きしないということがありました。

天野 逆に、2001年に退院してすぐ関わっていた患者会とか、その他の活動とか通じて、知り合った人は最初から知ってるから楽ですよね。

岸田 数年前にご結婚されたと思うんですが、そのときはどうだったんですか。

天野 彼女とは患者団体の活動を通じて知り合いました。

天野 最初はそういった感情は全く2人ともなかったですし、むしろ印象は最悪だったけれども、二人ともリンパ腫でお互いにいろいろなことを説明しなくていいから楽なんですよね。

天野 いろんなこと含めてお互いに分かりあってる一方で、お互いに病気をしてるので、どっちともがんが進行したりして、再発とかいろんなことが起きて倒れるかもしれないっていう不安もある。

天野 でも、そういったことを含めて分かりあえてるのがいいのかなと思います。

天野 彼女も自家末梢血幹細胞移植を受けたリンパ腫の患者だし、同じ治療を受けてるので反対はなかったけれども、両家の親族にはちゃんとそれは説明して、納得していただかないといけないので、そこは結構大変だった。

天野 最終的には納得はしていただけるように頑張りました。

【妊孕性】

岸田 大量化学療法もされていらっしゃいますし、いろいろ治療もされていますので、妊孕性についてはどうでしょうか。

天野 自家移植で大量の抗がん剤やったとき主治医にこの先もずっと不妊になるとを言われて、すごいショックを受けました。

天野 初回治療のときに精子保存の提案を受けましたが、一方でこれぐらいの抗がん剤治療では、必ず不妊になるというわけではないので、必ずしも精子保存しなくてもいいと思います的なことは言われてしませんでした。

天野 そもそも自家移植を受けて治っても生きている意味あるんだろうかぐらい思って主治医に「すごく悩んでる」みたいなこと言ったら「天野さん、生きてないと」って言われたんです。

天野 確かにそのとおりなんだけど、そのときの表情が、何を迷ってる、そんな選択の余地ないだろうと、そもそも生きてこそだろうっていう。

天野 理屈としては分かるんだけども、なかなか自分では納得できないような部分もあって、やっぱり初回治療のとき精子保存しておいたほうがよかったかなって気持ちもあった。

天野 だから子どもを持つべきかという悩みとか議論のふたを今開けちゃうと、後悔とか、つらい気持ちが来るかもしれないので、この部分に関しては僕の中で、何かふたを閉めてる感じ。

天野 精子保存の説明も一応されてたけれど僕の場合は時間がなかった。

天野 ただ、今同じような状況の人がいるとしたら、ちゃんと説明されるべきだし、機会は絶対保証されるべきだと思っています。

【仕事】

岸田 仕事について、職場への伝え方、休職・復帰の流れをお伺いできたらと思います。

天野 職場に伝えたときはすごく親身になってくれて、理解ある中で休職できました。

天野 仕事は事務系です。今だったら外来治療っていう選択肢があると思うんですけども、当時は入院治療だったので完全に休職です。

天野 半年ぐらい休職して最初のうちは僕も復帰するつもりだったし、職場はすごく戻ってくるの待ってますっていう感じだったんだけども、初回治療がうまくいかなくて、自分の中で戻れる気がしないっていう気になってきたのと、そもそも生きられるかどうか分からない時に仕事とかの場合じゃないって思って。

天野 今考えればあのまま辞めずにもうちょっと、続けてればよかったと思うけれど当時は、精神的なプレッシャーがいろいろあっていろいろ決めなきゃいけない悩み事を1個手放すみたいな感じです。

天野 仕事のことは辞めてしまえば少なくとも職場に迷惑をかけることはないし、悩むことはなくなるっていうような心理状態になっちゃって、自分から辞めてしまった。

天野 今なら就労希望している場合、早まって辞めないようにしてくださいとか、就労継続できる場合もありますよっていうふうなことが言えると思うんだけど、当時は全くそういうのがなかった。

天野 治療が終わった後、フルタイムで再就職をと思ったんですけど、大量の抗がん剤投与をしてるのでまず体力がない。

天野 フルタイムは無理だと思って塾の講師のアルバイトから始めたんです。

天野 そこそこ続いたんですけど、がんが再発するたびに辞めざるを得ない。

天野 血液がんの場合再発すると基本入院治療になるので、そうすると最低でも休職はしなきゃいけなくて、長期間あけられないし、やっぱり辞めることになる。

天野 1回目の再発のときは休職しましたが、2回目の再発のときは辞めました。

岸田 抗がん剤治療等々で辞めざるを得なかったってことですね。職場にはがんだと伝えてました?

天野 伝えた職場と伝えてない職場があって、最初に復帰した職場は特に伝えてないんです。

天野 聞かれたら答えなきゃいけないと思いますけど。今はネクサスという患者会の創設メンバーから声を掛けられてそちらで活動をしています。

天野 最初は仕事と両立しながらやってたけれども、患者会の仕事って基本的にボランティアベースで、ほぼ24時間常に何かやってるみたいな感じなので体力的にもたなくなり仕事は辞めました。

天野 自分の中でも自分が本当にやらなきゃいけないことって何なんだろうと思ったら、やっぱり患者会のほうをメインにしたほうがいいんだろうなっていうのと、体力的にきついという二つの理由で、今は患者団体の活動をメインに行っています。

天野 今まさにがんと向き合ってる人たちも、今伝えたいことってたくさんあると思っていて、それを少しでもそういった声を伝えていくのが自分にできることかなっていう気持ちで活動しています。

【お金・保険】

岸田 趣向が変わりますが、当時は保険とか入ってました?

天野 僕はたまたま共済に入ってたので、確か1日あたり4000円ぐらい入院給付金が出ました。

天野 それで少しは救われましたけど、それでもやっぱりしんどかったですよね。

天野 今は、限度額適応認定証っていうのがあって、それをもらえば上限以上は払わなくていいっていう仕組みがあるけど、当時それはなかったので、多い月だと一時払いとかで数十万になる。

天野 一番多い月だと、保険は適応する前で100万とか、そういう月もあった。それでも払っていかなきゃいけなかったので、親族から借りたりしましたね。

天野 そういったことを含めて、たくさんの人に支えられたなって思いです。でも、保険入ってなかったら、結構しんどかったですね。

天野 今は外来中心になってるから、入院保険ではカバーできない場合もあります。

天野 去年入院したときに思ったんですけども医療費の部分はある程度保険がカバーしてくれますけども、差額ベッド代の負担が大変でした。

天野 本当に医療に支えられ、国民皆保険に命を救っていただいてます。

岸田 限度額の認定証ができたのも天野さんたちのおかげですよね。

天野 がんだけではないですけども、難病も含めた患者団体が外来でどんどんお薬の値段も高くなって、一時払いだけでしんどくなるので、たくさんの人が要望で結実しましたね。

【辛かったこと】

岸田 つらかったことを教えてください。

天野 最初の治療が効かなくて、本当に嫌になって病院を脱走したことあるんです。

天野 ちょっと買い物行ってきますって言って、そのまんま電車に乗って高尾山に行ったことがあります。

天野 そのときもちょうど抗がん剤治療中で白血球も底の時期で、感染症になるかもしれないとは思ったんだけども、もうやってらんないって気持ちになって行ったんです。

天野 高尾山の紅葉がすごいきれいで、その紅葉見てそのときとても感動して、こんなにいいものがあるのかっていう思いにとらわれたんですよね。

天野 その頃、学生時代の友人が、『夜と霧』というユダヤ人の精神科のドクターが強制収容所に入れられた経験をつづった本があるんですけども、最初見たときこんな人がしんどいときにどういうつもりだろう、何考えてんのかなと思ったんですけど、読んでたら自分の心をとらえるような言葉があって、どんだけつらいときでも、人間は、夕日を見て感動できる心があったり、自分の隣のしんどい人にパンを与えることができる存在なんだっていうことが書かれていて、自分も何かそういった部分は失わずに生きたいなっていう思いになりました。

天野 人間、やっぱり希望を持って生きてるんだと、本当にそう思います。肉体的には一度肺炎を起こしてるので機能が落ちているのと、左目が見えてないのでそれは後遺症といえば後遺症です。

天野 腎機能も最近落ちてきてるみたいなんで、晩期障害なのか分かってないんですけどもそういったのは、今後いろいろ出てくるかもしれないです。

【医療従事者への感謝&要望】

岸田 医療従事者への感謝・要望。まず要望から。

天野 大学病院って基本的に主治医がよく変わるんです。

天野 逆に救われたこともあって1回目再発したとき、頭では自分でできることは全部やったんだ。

天野 これしか道はなかったんだって分かってるんだけど、心はショックで折れそうになってた時、そのときの主治医が「私たち医療者は、患者さんがどんな状態になったとしても、できることはあると信じて治療をしてるので、一緒に頑張りましょう」って言ってくれたんです。

天野 要は、自分自身が納得したかとか、医療者から守られて支えられたかとか、周りの人との関係とか、そこに行きつくと思うんです。

天野 治療ってどれだけやっても、いまだ完璧な治療なんてあり得ないし、いろんなことがあるわけだから、そんなときに当時の主治医から「私はあなたのそばにいます」って言われたってことが、当時の僕は治療選択肢がほぼない状態だったけども、そう言われたことがすごくうれしかった。

天野 だから、要望としては、そういうことを言える医療者が増えてほしい。

天野 医学的には正しいことだけでなく、その事実を含めて、その後患者さんをどう支えるのかっていうのがすごく重要なんです。その部分もちゃんと診てく欲しいと思います。

【キャンサーギフト】

岸田 キャンサーギフト。がんになって得たもの、得たこと、唯一言うとしたら何でしょうか。

天野 がんになっても悪いことばかりではなくて、がんにならなければ経験しなかったことっていうのは確かにあって、例えば普通に生きていれば自分がお付き合いする人も価値観も限られてくるじゃないですか。

天野 でも、がんになって、がんという共通点は一緒だけども、いろんな社会背景とか、いろんな立場とか、いろんな経験した人、患者会でもそういった人たちに出会えた。

天野 僕はがんになって会った人たちに支えられているので、そこは僕にとってのキャンサーギフトだと思います。

【夢】

岸田 そんな天野さんの夢。

天野 夢はやっぱり僕が闘病中にたくさんの患者さんが本当に僕らと同じ世代にいて、中には今、元気にしてる人もいるし、亡くなった人もたくさんいるけども彼らがもし生きてたら、何をしてほしいって思うだろうかってことはいつも考えるようにしていて、こういうふうに医療が良くなってほしいとか、がん医療がこういうふうに変わってほしいとか、がん患者さんを取り巻く社会はこう変わってほしいとか、そういうことがたくさんあって、がんになっても普通に安心して暮らせる社会になることが僕の一番の夢かもしれないですね。

岸田 意志とかも受け継いで、「がんになっても安心して暮らせる社会」ですね。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 今闘病中の方へのメッセージをお願いできますでしょうか。

天野 NOW or NEVERですね。今しかない、みたいな感じです。がんになる前って普通に生きてたのに、がんになると今しかできない、人生が有限だっていうことを感じる。

天野 今しかできないことって、すごくあるんだけど、がんになると生存率とか、数年後生きてるんだろうとか、考え出すとすごい不安になると思うんです。

天野 僕自身経過観察してるときは再発の不安がすごくあって、今でもやっぱり不安なんだけども、ある日ふと思ったのが、確かに自分はいつか再発するかもしれないし、もしかしたらもっと悪いことが起きるかもしれないけど、今この瞬間は、取りあえず元気でいる、取りあえず今、自分はここにいるんだからこの瞬間を大切にしようと思ったんです。

天野 がんに体だけじゃなく心も支配されてくのはあほらしい、だったら今しかできないことをやろうと思えた瞬間があった。

天野 僕自身が今この瞬間を大切に生きるってことで気持ちを切り替えれたので、この言葉を書きました。

岸田 今を大切に生きるっていうのは本当に、これは病気関わらず大切なことですね。きょうはどうもありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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