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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松井

【発覚・告知】

松井 松井基浩です。僕は高校1年生のとき悪性リンパ腫になりまして、そのときのステージは3でした。

松井 2002年の10月、16歳のときから闘病しまして、今は32歳で寛解状況です。

岸田 松井君は、今医療従事者です。発覚から告知までを教えてください。

松井 最初高校1年生の8月ぐらいから、せきとかが出始めたのが最初の症状だったんです。

松井 ずっと風邪かなと思っていて、経過を見てる間に9月ぐらいになってきた。当時テニスをやっていて、その中でもすぐに息切れがするようになってきたんです。

松井 それでも大したことないかなと思っていて、そのうちだんだん食欲も落ちてきました。

松井 そうすると母親が心配し始めて、病院行ってきたらってずっと言われてたんですけど、忙しい高校生活だったので、全然受診してなかった。

松井 高校に入って、当時、運動も好きだったので、マラソンの選抜レースで走ったんですけど全然タイムが伸びなくて、走りきったけれど結局落選してしまった。

松井 これは、それまでの体調の悪さを病気だとは思っていなかったけれど、これはおかしいだろうと、ずっと親が病院行けって言っても行かなかったけれど落選したその日に病院に寄ったっていうのが、一番最初でした。

松井 近くに大きな病院があって、最初に内科受診でレントゲン撮られたと思ったら、採血をされ、点滴を付けられて、CTも撮られっていう形で、最終的にはベッドに寝かせられて「動かないでください。そして、親を呼んでください」って言われて。

岸田 親を呼び出されて、親が来て、親に告知される。告知はどんなふうでしたか。

松井 そのときは最初に親が呼ばれて、僕は親が呼ばれた後に別で入っていったら、レントゲンがぼーんと貼ってあって、素人目にもなんか胸の真ん中になんかあるなっていうのは見えました。

松井 ドクターが説明してくださってたんですけど、頭にはあんまり入ってこなくて、母親が「若いのでがんセンターを紹介してください」と言ってました。

松井 それで、なんかこの辺にがんがあるっていうのを認識した。

岸田 親とお医者さんのやりとりの中で、がんだと知った。お医者さんからは直接はなかったんですね。自分ががんっていうことを知ったときには、頭真っ白になったりしましたか。

松井 がんセンターの紹介受診が次の日だったんです。告知当日は家で普通に1人で過ごす時間が結構あって、当時高校生ながら、がんが死につながるんじゃないかと、やっぱりその言葉だけ聞いたら本当に怖くて怖くて、その日は寝れなくて泣いてたのは覚えてます。

【治療】

岸田 その後、国立がん研究センターに入院し治療が始まります。2002年10月、入院。そして入院化学療法をしていった。松井さん、基君はお医者さんなので、どんな治療したかを説明していただけますか?

松井 僕は白血病に近いタイプのリンパ腫でした。リンパ芽球性リンパ腫というのは、結構白血病に近く、治療としては白血病の治療とほぼ一緒な枠組みで行われます。

松井 なので白血病と一緒の枠組みの治療してました。

岸田 どんな治療ですか。白血病の治療って、取りあえずたくさんの抗がん剤と骨髄を移植する、みたいなイメージがありますが。

松井 16歳だった高校生だと成人に行くことが多いんですけど僕は小児病棟に入院したんです。

松井 15歳の年齢で区切る病院が多いんですけれど、2002年の当時からもう国立がんセンターの小児科はある程度、若い人たちは小児の治療に分けられていました。

松井 なので僕はその当時から小児の治療が受けられて、移植っていう感じではなかった。

松井 小児白血病とかリンパ芽球性リンパ腫って、基本的にステロイドっていう薬が異様に最初効くんです。

松井 1週間飲むんですけど、それだけで腫瘍が小さくなっていく。もちろん、それだけじゃ治らないですが。

松井 その治療の後、普通に抗がん剤治療と髄注っていって背中に針を刺してそこに抗がん剤入れるっていう治療をしました。

松井 白血病、所謂リンパ腫は頭のほうに悪いものが行きやすいっていうのがあるので、白血病の人たちみんな髄注をやっています。

松井 骨髄じゃなくて、背骨と背骨の間に、脳とつながっている脳脊髄液に抗がん剤入れる。

松井 循環しているので、頭の再発を予防できるっていう治療。他のがん種と違うのは背中から打ってやってるぐらいかな。

岸田 勉強なる。抗がん剤治療は、ステロイドの次は何を使ったんですか。

松井 ステロイドの次は、もう多剤併用。何種類かの治療を繰り返していくんです。月ごとに変化して、1コースごとに使う薬が変化していきます。

岸田 毎月のように変わっていくわけですね。どの抗がん剤が一番つらかったとかあります?

松井 やっぱり赤色をした薬が一番つらかった。赤色の薬は一般的に、アントラサイクリンっていって心臓に負荷が掛かったりするようなお薬なんですけど、基本的には吐き気です。

松井 青とか赤とかエグイ色の薬を入れられているときの気分の悪さっていうのは、やっぱりありました。

岸田 そんな治療を約1年弱。

松井 そうです、8カ月間入院して。白血病の治療、リンパ性の白血病やリンパ芽球性リンパ腫はずっと長く続くイメージ。基本的にあんまりがっつり退院した期間はなかったです。

岸田 入院中どうでした? つまらなくなかったですか。

松井 僕は入院生活がすごく楽しかったんです。当時、国立がんセンターの小児科には本同じ年代の人や小学校の子もたくさんいてみんなとても仲良くて、みんなでずっと遊んでいました。

松井 入院最初は個室だったんです。病気になったことを理不尽に感じてふさぎ込んで、結構むすっとしていたんです。

松井 16歳の多感な時期で落ち込みもひどかったですし、周りへの当たりもひどかった。

松井 そうすると、もうちょっと周りと絡んだほうがいいだろうっていうので、大部屋に出されたんです。

松井 大部屋に出されてもカーテンを閉めきっていたんですけど、ちっちゃい子たちが「遊ぼう」って言って入ってくる。今小児科医ですが、当時の僕は子ども苦手だったんです。

松井 あんまりちっちゃい子と接する機会もなくて、受け付けませんみたいな感じで最初はまた直ぐにカーテンを閉めてた感じだったと思うんです。

松井 それでも何度も何度も小さな子供たちが来てくれて、気付いたら仲良くなってたんです。なので大部屋にしてもらって、僕は良かった。

松井 ちっちゃい子どもたちが自分のふさぎ込んでた気持ちを開いてくれたんです。

岸田 復学をしてからの外来化学療法ではどうでしたか。

松井 リンパ性白血病やリンパ芽球性リンパ腫は入院治療もあるんですけど、そこからの外来治療が長い。

松井 僕も退院してから、2005年の12月か1月にやっと終わりました。外来では基本的には飲み薬二つと、あと髄注を。

岸田 ちょうど2005年の1月ぐらいに、治療が終了する。多感な時期やったらもう、きょうは病院行くのをやめようとかならないですか。

松井 親に首を引っ張ってでも連れてかれる。高校生だったので、そんなに行きたくないとかはなかったです。

松井 受診の日は学校休むしかなくて、休んでました。ちょうど復学したのが高2の夏で、翌年になるともう受験なんです。ちょうど治療が終わったぐらいにセンター試験あったんです。

岸田 治療しながら受験して浜松医科大学に現役合格。そしてお医者さんになるなんてすごいです。結構、勉強しました?

松井 これは今の自分だったら絶対に成しえないと思っていて、本当にこのときは人生で一番頑張った時期かなとは思います。本当に一番つらい時期でした。

岸田 お医者さんになろうと思ったのは、どのタイミングでしたか?

松井 僕が入院してちっちゃい子どもたちに励ましてもらったのが最初です。その子たちを最終的に支える仕事がしたいと思って。

松井 入院中に「医者になる」と公言してそこから、受験勉強を開始しました。

松井 大学では、僕は高校生活で部活も経験しなかったですし、いわゆる青春というもの何もしていなかったので、大学生活の6年間でこれを取り戻そうと思ってテニス部に入りました。

松井 6年間ひたすらテニスに打ち込んで、頑張った感じです。生活の重きは部活で、時間あればちょっと友達とコート行って、テニスしようよってテニスして。

岸田 2011年4月、医師国家試験にも現役で合格。2016年3月に東京都立小児総合医療センターに勤務する。ここはどういう所ですか。

松井 今、小児がんの拠点病院って指定されてるんですけれども、その拠点病院の一つです。

松井 東京都に二つあって小児がんの子どもたちを拠点として見るような病院です。

松井 医者になりたいと思った時は小児がんの子どもたちを見たいという大前提だったので、絶対こういうところで働こうと思っていました。

松井 2月にAYA世代という、いわゆる小児と成人の中間ぐらいの若い世代、そのAYA世代のがんについての在り方を検討する学会がありました。岸田さんも入っている。

岸田 基君は発表したり講演もされたりこのAYA世代っていう若年がんの患者の世代を盛り上げていこうというようなことを今も、これからもされていくということですね。

【家族】

岸田 次、家族について。がん宣告された当時、家族のサポートっていうのはどうでしたか。

松井 家族はすごくサポートはしてくれました。

松井 一つはこの世代特有というか、とにかく当たりどころがまず母親になる。ストレスとかは基本的に母親にぶつけて、ひどい言葉をぶつけていた。

松井 当時、ストレスのはけ口になってくれてたのは間違いなく母でしたが、その中でもがんセンターへは遠方から毎日のように来てくれて、当時特殊だったんですけど、全て持ち込みがOKでご飯が持ち込めたので食事のサポートもしてくれましたし、本当に支えてくれてました。

松井 父親は復学してからの1時間半ほどかかる通学が治療をしながらだときついだろうといって学校の近くに家借りてくれていて、高2の夏からは父親のサポートもありつつ母親は2重生活してくれていました。

松井 基本的に母はこっちのほうにいてくれて、僕はそこから自転車通学していた。

松井 このサポートには本当に頭上がらないです。姉は、黙々と支えてくれるタイプで、お見舞いに来て、そっと見守ってくれていました。

松井 2重生活で姉はとても不便だったと思いますがそういうところ一切見せず、家族全体で、僕の受験を支えてくれていました。

【恋愛・結婚】

岸田 ありがとうございます。家族のサポートもあって治療と勉強に専念できたということですね。では恋愛・結婚について。今、基君も結婚してあたたかな家庭も持たれていますが、病気が発覚した当時はいなかったよね。

松井 当時いなかったです。恋愛に関しては僕は大学に入ってからですね。

松井 高校時代はまさに暗黒時代だったので、復学してからは本当にひたすら勉強するしかなかったので、当然恋愛とかはしてなかったです。

松井 大学はさっき言ったみたいに、青春を取り戻そうという気持ちがあって、普通に恋愛をしようと思っていました。

岸田 彼女さんにはがんっていうのを、どのタイミングで言うんですか。

松井 大学1年生のときに同じ学年で今の奥さんになる人と知り合って、入学した4月すぐに、この人だなって。7月ぐらいから付き合い始めたんですけど、それまでには自身ががんだったと話しました。

松井 自分としてやりたいことがあったし、当時から若い人のがん患者さんと連絡取ったりしてたので、それも踏まえて実は自分もがんを経験しているんだと話しました。

松井 医者を目指している、自分の全ての動機がそこに入ってくる。行動自体もそこに入ってくるので、そういった流れで話してました。

松井 研修医、医者が終わって2年間たってからなので、出会ってから8年後に結婚しました。

岸田 医師となったのが2011年なので2年後の2013年にご結婚された。恋愛・結婚に付随して、妊孕性というところですが、お子さんは?

松井 今、2人5歳の女の子と1歳の男の子がいます。

岸田 小児がんで大量な化学療法を受けられた方で現在子ども持たれるというのは、がん患者さんにとっての希望になるんじゃないかなと思います。妊孕性について、当時はどういう説明されてたか覚えていらっしゃいますか。

松井 僕の治療の中で、いわゆる妊孕性を低下させるお薬の用量を見るとそんなに率は高くないですね。

松井 妊孕性を低下させるお薬はもありましたが、それの量で大体妊孕性については分かるには分かる。これ以上超えたらもう、ほぼ厳しいだろうとかあります。

松井 僕の治療を振り返ると妊孕性の話をするかしないかギリギリのところ。恐らく大丈夫ですけど、検査はいると思います。結婚する際、妊孕性に関して一番ネックになったのは相手方の親御さん。そこは一番大変でした。

松井 普通に元気な子どもができるのかっていうのは言われましたし、子どももそういうの、あるんじゃないかとも言われたのを覚えています。

松井 長い間お付き合いしてたんですけど、中盤ぐらいから向こう側の方に実はがん患者だったことを認識されていて、奥さんが付き合うのをやめといたらと親から言われてるっていうのを知ったときがありました。

松井 僕もいきがってた時期だったので、何事だ、そんな差別があっていいのかって、向こうの親御さんとすごい距離があった時期もありました。

松井 最終的に結婚するとなった時には、さっきのような親御さんだったら当然心配する問題をきっちり話し合わなきゃいけないなと思い、相手が少し医療関係の方だったので、論文持って行ったんです。

松井 これからの健康はどうなのかっていう話もあったので、自分の病気がどういう経過をたどるのかとか、今、何年たってどういう状況になり得るのかっていう内容の論文を持ってったのは覚えてます。

松井 それが僕にとっての誠実だったので、すごい特殊なんですけど。

【学校】

岸田 次、学校のことですが、お母さまと一緒に学校の近くに引っ越してそこで勉強されたということでしたが、当時、どのように休学し、どのように復学されたか。また治療中も含めた罹患後の勉強の仕方を聞かせてください。

松井 病気発覚後、学校にどう伝えたか、実は僕知らなくて、多分親が連絡を取ってたんだと思います。

松井 みんながどういうふうに聞いてたかも実は知らなくて、気付いたら友達はお見舞いに来てくれたので、基本的に病気のことを知っていたんだと思いますが、何をどこまで伝えたか等はあんまり知らないんです。

岸田 全部親御さんが手続きしてくださった。入院中はどう勉強してましたか?お医者さんになるための勉強ってハードでしょう。

松井 院内学級の高校が国立がんセンターにあったので転校して、普通の学校生活をしていました。

松井 朝から授業ありましたし、9時から、1時間目ですよって起こされた。

松井 そこの院内学級だけで学ばせてもらってたのと、友達が高校の授業のプリント届けてくれて、それを一生懸命やるのと、あとは院内学級の先生もそんな、なかなか進学校で受験するようなところはそんなに多くはやってないので、必死に予習して教えてくださった。

松井 あとは、プラスして親が僕が学校に戻った後の大変さを気にしてくれて入院中に家庭教師を勧めてくれて、僕も医師になりたいって決めてたので、「やる」って言って、病室で家庭教師と一緒に勉強したのは覚えてます。

松井 土日とか、空いてるときは家庭教師の方を呼んで、治療しながらこうやってやってたの覚えてます。

松井 家庭教師の効果は間違いなくありました。

松井 どうしても分からない部分や、ある程度できる人に聞かないと分からないところはあったので、そういうとこ教えてもらえたので、少しでも勉強に追いついていくっていうところでは僕にとってすごく意味があったなと思います。

松井 それだけ勉強しても知れていて、本当にすごい勉強してる人たちばかりの学校だったので圧倒的に遅れていて、既に医学部を目指していたので学校だけじゃ駄目だと思って塾も行ったんです。

松井 入塾試験を4、5回目ぐらい受けてやっと通してもらって、やっと塾に行けるぐらいなレベルで、本当に学校の授業も、何言ってるか全然分かんなかった。

松井 本当に勉強は遅れを感じていました。でもやっぱり外来治療っていうのがあって、体調はなんか絶好調じゃない。

松井 自分の昔の感覚からすると、もっと集中できるはずなのに…というもどかしさがありました。

松井 高校にも入学してから半年くらいで入院しちゃったんで、あんまり友達の輪とかにも入れてなくて、自分で帽子もかぶってるし、気持ちも落ち込んで…勉強も追いつかないし、友達もうまく話せない、そんなひたすらどん底に落ち続けたっていう時期がありました。

松井 僕の中では復学が一番、暗黒というか、一番しんどかった時期。

松井 そんな状況の僕が本当に救われたのは、当時闘病友達がいて、その友達が「絶対に医者になれ」「おまえにしかできないことが絶対にあるんだ」って言ってくれて、ずっと僕が医者になるモチベーション常に上げてくれたんです。

松井 それで僕も頑張んなきゃなって、夢を追えるのが幸せなんだって思って、今の自分にできる全てをそれに注ごうって決意して、体調が悪いとき、それこそ外来行って髄注したりするときは、もう寝るって決めました。

松井 体調の悪いときは寝る。友達は諦める。

松井 あそこに入ろうとするから、いろいろ気にしてしまうけれど、その時間も勉強すればいいんだっていうふうに決めて、起きてる全ての時間、できるときは全て勉強に注ぐとある時期から決めたんです。周りのいろんな落ち込む要素っていうのは、全てシャットダウンして、一つのことだけを目指すっていうふうに、今の自分でその道を行くにはそれしかないっていうのは分かったので、そこに向かってあとは進むだけでした。

【医療従事者への感謝】

岸田 医療従事者への感謝、要望。当時の医療従事者には感謝でもいいし、こうしてほしかった要望でもいいし、今、仕事をしてるからこそ分かることなどお願いできますでしょうか。

松井 本当に僕の入院してたときの医療従事者の方へは、感謝しかありません。

松井 看護師さんも同様です。看護師さんは若い世代だっていうので気を使ってくれてマンガ貸してくれたり、個別にいろいろしてくれたんですよね。

松井 すごくそれもありがたかったですし、それこそ学校の先生とかも、いろいろ僕に個別に勉強教えてくれたりしましたし、いろんな人に支えられての今があるかなって思っていて、すごくいい環境で入院できたなと思っています。

松井 逆に言うとそういう医療環境によって僕はすごくポジティブに入院生活を捉えることができたので、そういう環境、それぞれの医者だけでなくて、院内学級の先生や看護師さん、いわゆる僕たちに関わる皆さんが、同じ方向向いて環境整えるってことで、すごく闘病する側としては、入院をポジティブに変換することもできるんだなっていうのも分かった。

松井 そういう環境をつくることが大事だなって思います。

岸田 そういう医療従事者たちに囲まれて基君は、良かったなってことですよね。

岸田 今お医者さんだからすごく分かると思いますけど、当時の医療というかサポート体制と今って、変わりましたか?

岸田 がん告知的にも変わったと思いますし、医療従事者、例えば、先ほどの妊孕性についても話さないといけないとか。

岸田 変わったことの他にも、今、こうしたいな、こうしておけばいいなとか、なんかそういうのありませんか。

松井 その当時の国立がんセンターは恐らく結構進んでいたので、逆に今はそんなに進んでないって印象があります。

松井 それこそ告知も全員にしてました。僕が入院してたときの小学生とかにも普通に告知はされてたりとか。

松井 当時5年生だった子たちもみんな、告知もされてましたし、病気を受け止めてちゃんと、みんな闘病してたっていうのがありました。

松井 もちろん妊孕性の話とか、そういうサポートっていうのはまた変わってきてますけど、そんなに大きく、実は変わってないというか。

松井 もっと環境を整えてほしいと思いますけどね。当時のぐらいでいいと思うんですけど、今の自分の病院もそうかもしれないですけど、実際いろんな所に研修に行ったりしていて思うのが、もっと患者さんにとっていい環境ってあるかなと。

岸田 患者さんにとっていい環境。過ごしやすいっていう意味で。そういう環境からつくっていってほしいということですね。

【キャンサーギフト】

岸田 キャンサーギフト。がんなったからこそできたこと、良かったことを教えてください。

松井 僕にとっては、がんになったっていうことが、今の自分をつくっている全てなんですよね。

松井 医者になりたいと思ったのもがんになったことがきっかけですし、今、若い世代のがん患者さんの患者会をやって、みんながつながれるように活動してるのも、それがあったから。実際、今の奥さんに会ったのも、医学に入ったからっていうのもあります。

松井 だから、僕の今をつくってくれているのは、自分ががんになったっていうことでできているなっていうふうに思っているので、僕の全てはがんからもらったものだと思っています。

松井 それだからこそできるということはいっぱいあるので、それを生かしていきたいなっていうふうには思っています。

【夢】

岸田 基君の夢。今後どうしていきましょうか。

松井 医者として基本的には小児がんの子どもたちを支える、子どもたちの医療を変えていけるぐらい、何かしらの新しい治療とかを取り入れたりできるぐらいのポジションにはなりたいと思っています。

松井 もう一つ、患者会の代表やってきたっていうところで、僕はずっと患者会つくったときからそうなんですけど、若いがん患者さんたちが1人で闘病することをなくしたい。

松井 1人で孤独に闘病するのをなくしたいってずっと思っていて、その思いでSTAND UP!!くりました。

松井 そこをなんとかつなげたいと思ってやってきたけども、まだまだ全国各地にはつながりたくてもつながれない、若い世代のがん患者さんたちがいっぱいいるっていうのはあるので、どこにいても、みんながつながりたいときにつながれるっていう環境をつくっていきたいなと思っています。

【闘病中のあなたへ】

岸田 もちろんAYA研の連携の委員もされていらっしゃいますし、そういったところの夢が、近いうちにかなうんじゃないかなというところで思っております。次、今闘病中のあなたへ。

松井 がん患者には夢があるんです。これ、10年前から掲げているもので、われわれがん患者も夢がありますし、夢が持つことができる。

松井 夢っていうのは人それぞれのものだと思うんですけど、どんなものであれ、われわれは前を向いて進んでいくことができるっていうのをやっぱり伝えたいです。

松井 1人で前を向いていくって難しいと思うので、みんながつながれて、1人じゃないんだよっていう社会にこれからなっていくために、1人じゃないんだよって思いを持ちながら、ぜひ夢を持っていただければなと思います。

岸田 1人じゃないですし、こうやって基君が本当に自分の夢、医師になるという夢をまず、そういうことを達成されて、そしてさらに上に行こうともしている。

岸田 基君をロールモデルにして、つらいときは周りをシャットダウンして、自分のやりたいこと突き詰めていって、夢を持って、今の闘病もその先も向かっていってほしいなと思います。

岸田 それでは今日のゲスト、松井基浩さんでした。どうもありがとうございました。

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