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インタビュアー:岸田 / ゲスト:牧野

岸田 ライブ配信開始ということで、ライブ配信、開始いたしました。がんノートorigin、スタートいたします。ありがとうございます。がんノートoriginは90分で、がんの経験者さんの色んな話を聞いていきたいなと思っているんですけれども、まず僕の自己紹介をさせていただければということを思っております。

岸田 まず、私、岸田徹と申しまして、僕は25歳と27歳の時に胚細胞腫瘍という珍しいがんになりました。首と胸とお腹や、そして精巣にがんが出来て、手術や抗がん剤治療で、今は経過観察をしております。当時、色んな医療情報はお医者さんに聞いたら良かったんですけれども、それ以外の情報、やっぱり、どうやって親に打ち明けたのだったりとか、お金、保険、どうするのだったりだとか、あと仕事、職場復帰どうするのだったり、そういった情報ってあまり無かったので、そういったものを経験者さんに直接伺ってみようと思ったら、結構いろんな情報を教えてくれたりだとかして、これはみんなとシェアしたほうが、何かええ感じかもしれへんということで、この、がんノートというものをスタートしていきました。

岸田 かれこれ、もう2014年からスタートして、今2022年ということで、結構やってるというふうな感じになります。そんながんノートなんですけれども、牧野かおりさんをゲストに、今日はお伺いしていきたいと思います。牧野さん、よろしくお願いします。

牧野 よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。牧野さん、簡単に牧野さんの、この自己紹介のスライド、もう読んでいただく形で大丈夫ですので、簡単にちょっと自己紹介していただいても大丈夫でしょうか。

牧野 はい。皆さん、こんにちは。牧野かおりといいます。愛知県に住んでいまして、現在40歳です。今から18年前の22歳の時に悪性リンパ種という中のホジキンリンパ腫のステージⅣと診断されました。抗がん剤治療と放射線治療の後に部分寛解ということで、そこからずっと18年間、経過観察をしているような状況です。今日はよろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。もう18年ですね。なかなか結構ロングな感じで、もう、だから当時のことと今はどうしてるかっていったところ、その積み重ねがあると思うんで、そういったところ、結構、聞いていきたいなということを思っております。

【発覚から告知まで】

岸田 それでは早速なんですけれども、治療の発覚から告知までと、どうやって牧野さんはなっていったのか、お伺いしていきたいなということを思うんですけれども。牧野さん、ごめんなさいね。本題、入る前に、結構あれですね。バック良い感じですね、ヒマワリみたいな。

牧野 これですね。これ、シールなんですよ。シールをペタペタペタって、こう壁に貼ってるような、そんな状況です。

岸田 凄い。もう家の中までアクティブな感じで。

牧野 自転車がありますしね。

岸田 自転車があって、その話もちょっと今回の色々入ってくると思うので、多分、そのTシャツの話も後で出てくるのかなということを思っております。まず、牧野さんの闘病経験談に移ります。こちらになります。まず2003年の4月、スポーツクラブに入社ということで、もうあれですかね。動くの大好きで、スポーツクラブに入社したって感じですか。

牧野 そうですね。小っちゃい子からずっと水泳をしていて、もう水泳が大好きで、それでスポーツの道に行きたいなって。元々は全然違う土木を専攻してたんですけれども、やはり。

岸田 土木?

牧野 土木の道。土木なんです。そうなんです。同級生が土木関係の、建設関係、そちらのほうに、観光庁とか、色々コンサルとか、色々進んでいく中、私はスポーツのほうに進んでいきました。

岸田 そうなんすね。まあ、それでスポーツで。スイミングスクールとかのところに行ったってことですかね。そっから。

牧野 そうですね。子どもさんとか大人とか。そうですね。皆さんが泳ぎに来て、お習いに来るところとか、あとは体操教室もやってました。

岸田 様々なアクティブな感じで、まさに今の牧野さんを象徴してるような、そんな、もう昔からそんな感じかもしれないですけれども。どうやって、がんと分かっていったのか。そっからうつ病と診断されとか、色々あると思うんですけれども、ちょっと発覚まで教えていただいていいですか。

牧野 入社して半年ぐらい、半年も経ってない、4カ月ぐらいですよね。夏ぐらいに、凄く汗かいちゃったりとか、疲れやすかったりとか、朝、起きれなかったりとか、そういったことが続いたんですね。そうなると、何でしょう。動けなくなってくる、すごいし、身体がしんどくなって気持ちもしんどくなってくるっていう日が続いてきて。これは新入社員によくある心の病ってやつかなと思って。上司にも「最近やる気が出なくて」とか、「疲れ易いんですよね」とか、そういうことを相談してたら、「じゃあ、近くの心療内科行ってこい」みたいな話になりまして。

牧野 行きましたら、「疲れ易いですか」とか、色々聞かれますよね。聞かれるんですけれども、それに当てはまりまして、薬を出していただいたんですね。いったん、1人暮らしから実家に戻ったんですけれども、そこで、飲んでても、しんどさ、そんなに変わらないですし、あれって思っていたときに、鼻血が止まらない日が凄い続いたんですね。鼻血が出ると、大体ティッシュでこう、ちょちょんとやったら止まるかなとかなんすけど、もう何ですか、血の塊がたまっちゃうというか。

岸田 塊?

牧野 塊。血の何ですかね。血が止まらなくて、こう、ずっと。

岸田 止まらなくてね。うん。

牧野 そう。それ。

岸田 ブワーって出てきちゃって。

牧野 そうですね。出続けちゃって、どうしよう。何か、手、手、ティッシュじゃ間に合わないみたいな感じになってったんですね。それでも、やっぱ何でしょうね。知識もないし、これはやっぱ何か、疑う、今振り返ればあるんですけれども、全然何でしょう。その当時は分からなかったんですね。

岸田 分かんないっすね。普通ね。

牧野 いや、やっぱ元気、若いと知らないし、岸田さんもきっとそうですよね。なかなかね。

岸田 そうそうそう。なかなか、まさか、そんな大きい病気と疑わず、病院、行きますもんね。

牧野 そうですよね。そんなような状況で、ある日、朝、起きたらすっごい顔がむくんじゃったんですね。というのも、これも後から分かっていくことなんですけれども、リンパ球、、リンパ、でっかいの、ありますよね。リンパの。

岸田 はい。。

牧野 それは何か、そうなんですよ。それが凄い腫れちゃって、血とかリンパ液とかが、首ね、血液、流れたりとか、表面に流れたり行くんですけど、それが行き来出来なくなっちゃって、腫れ過ぎちゃって。顔に行ったまま帰って来ないみたいな。

牧野 で、凄いもう、浮腫んじゃったんですよ。流石に、それを見た父が、「いや、これ、おかしいんじゃない」っていうふうに言ってくれたんですよね。それで近くの総合病院に行ったのが、一番最初のきっかけでした。

岸田 近くの総合病院に行って、そこから総合病院に行って、どうなっていったんでしょうか。

牧野 近くの総合病院に行ったら、検査を色々と、CT、撮ったりとか、血液検査したりとか、あとレントゲンも撮りましたし。それからこの首の、首が凄く腫れてるということで、リンパを取る生検ですかね。そん時はちょっと全然よく分からなかったんですけれども、「ちょっと取るね」みたいな感じで、切って取ってっていうような、「これ、検査、出すね」っていうふうに検査が進んでいきました。

岸田 この病院は地元の近くの病院に行ったって感じ? 最初は。

牧野 そうです。ものすごい、直ぐ近くの所の、何ていうんすか。何とか市民病院とかっていう、もう市民、そこも大きいのじゃなかったんですけれども、田舎の、田舎の総合病病院みたいな。

岸田 総合病院に行って、それで検査、CT、その首の腫れとかを診てもらってということがあったと。その後、病院を転院したと、大学病院って書いてるんですけど、その結果が結構、芳しくなかったってことですか。

牧野 そうですね。こう色々検査をしていって、検査結果がなかなか、よく皆さんあるあるだと思うんですけれども、なかなか出てこないっていうのは。それで何週間も待ったにも関わらず、母と一緒に聞きに行ったら、母しか呼ばれなかったんですよ。

岸田 検査に、当時ね。母だけ。

牧野 そうなんです。当時、今はまた、大分変わってるかもしれないんですけれども、私は「待ってて」みたいな感じになりまして。母だけ呼ばれて、母に先生から「ちょっと娘さんは厳しい状況です」ということで、ここでは治療が出来ないので、幾つか大きな病院の候補を出していただいて、「そちらのほうに転院、お願いします」というようなお話がありました。

岸田 それ、その時はもう、お母さんだけ呼ばれると分かるわけじゃないすか?

牧野 分かりますよね。そう。待ってて、ボーっと待ってるというか、何だろうな、みんな。あんまり、多分、状態、状況を分かってなかったんだと思います。母だけ呼ばれたからおかしいなとかじゃなくって、何か母だけ呼ばれたなとか。

岸田 呼ばれたなぐらい。

牧野 そう。母も診察室から出てきて、もうその時、母は本当凄い震えが止まらなかったらしいんですけれども。そこで震えたり、泣いてる、泣きそうとかっていうのがばれちゃうと、私がどうしたのってなっちゃうと思って、そこ、すっごい耐えたらしいんですね。母がもうそんな様子も見せずに来たので、来て、「会計、行くよ」みたいな感じだったので。

岸田 おー、役者。

牧野 素晴らしいですね。本当に。凄い芝居をしてくださって、してくださったじゃない、してくれて。私も、あー、そうなんだ、みたいな、あんまり分かってなかったんですよね。

岸田 22歳ですよね。

牧野 そうです。

岸田 22歳ですね。そっか。それで「行くよ」って言われて、行ってっていうふうな感じですけど。結局、宣告されたのは、どのタイミング?

牧野 そうですよね、そこから転院することになって、「病院、どこがいい?」みたいな話を両親がしていて、私にも選ばせてくれたんですけど、でも近いし、あと父の知り合いがお世話になった病院にいたっていうのもあって、「そっちにしようか」みたいなふうな話になっていたんですね。その転院した時に、血液内科って書いてあるわけですよ。外来のとこで。聞いたこともなくって、血液内科って。

岸田 そう。血液内科あるとか分かんないもんね。僕もそう、初めて、病院に血液内科っていうのはあるんやっていうのは。

牧野 そう。内科、外科、耳鼻科とかは分かるけど、血液内科って書いてあって、何だ、これって思いながら行って、初めは外来だったんですけれども、もう、直ぐ、直ぐ週明け入院みたいな、金曜日に行って週明け入院だったんですね。血液内科ってところの入院なんだ、へーっていう。で、帰ってネットで調べると、血液内科って白血病とか悪性リンパ腫って言葉、出て来たかな。

牧野 その時、多分、当時、出て来なかったと思うんですけど。そういう病気なのかなみたいな。それが血液内科ってところなんだ。私はここの疑いがあるんだなぐらいな感じでしたね。何で、こう、ちゃんと自分の病気について知ったのは、その後、入院して、検査をして、何週間か経った後に、先生と父と私で話を聞いたっていうのが一番最初でした。

岸田 じゃあ、入院して何週間も、治療、始まってからなんや。じゃあ、聞いたの、本当に。

牧野 そうですね。治療が始まる前というか、検査って結構時間、かかりません? 分かるまで。

岸田 「1週間後、来てください」とかよく言われますよね。検査の後ね。

牧野 ありますよね。で、入院したまま検査をしていったんですけれども。

岸田 そうなんや。

牧野 そうなんです。もう、多分、日に日に進行していっていて、毎日血液検査の結果を看護師さんが書いてくれるんですけれども、もう、どんどん値が大きくなってくんですね。でも、事の大きさは、その時、分かってないので、この数、毎日、増えてくなっていうくらいだったんですけれども。

牧野 それでも、やっぱり1週間、2週間とか、かかっちゃったと思うんですよね。病院の中に行って、その当時はネットもこう、自由に調べられないので、全然、何なんだろう、何なんだろう、早く出たいんだけどっていう感じでした。

岸田 それで数週間、検査しつつ、検査入院して、ようやく治療方針が、多分、決まったのかな。その時に家族でお医者さんの話を聞いた時に、「悪性リンパ腫です。ステージⅣです」みたいなことを言われたってこと?

牧野 そうですね。悪性リンパ腫っていう言葉と、その中の悪性リンパ腫非ホジキンとホジキンっていうのがあって、「こっちは日本人に少ないタイプだよ」とかいうのを聞いたりとか。あと、これが本当に先生と父に感謝なんですけれども、当時、その時には「ステージⅢかⅣだよ」っていうふうに、ちょっとぼかして伝えてくれたんですね。私としては、もう何か皆なが隠してるのは何となく分かったので、「全部知りたいんです」っていうことはすっごい言ってたんです。

牧野 先生もその分は尊重したいんだけれども、ここで「ステージⅣだよ、進行期だよ」って言ってしまうと、その後の治療をしてた時に、辛くなった時に止めちゃったりする場合があるというか、もう病院に来なくなっちゃったりすることとかっていうのがあるんですって。

牧野 それを凄く心配され、先生が心配してくださって、実は前日に父と先生が電話で話をして、「こういう状況なんですけど、娘さんにどうやって伝えましょう」みたいな話し合いをした結果、ⅢかⅣで、でも進行期っていうのもちゃんと伝えてくれて、そういった状況だから標準療法ね。安全も確立してるし、標準療法っていうのがあるんだけれども、ちょっとこう、ちょっとチャレンジングではあるんだけれども、臨床試験治療っていうのがあって、長く生きれるとかいうっていうのも、多分、もっとぼやかして言ってくれたと思います。「その後の人生の」とか、そういうふうに優しく包み込むようにして伝えてくれて、臨床試験の治療を選んだっていうような状況でした。

岸田 何で、普通、標準療法っていう療法をちゃんと確立されたのがあって、臨床試験っていう情報があって、臨床試験ってあれですよね。治験ですよね。本当にトライアルみたいな。

牧野 そうです。治験です。いわゆる、そうですよね。

岸田 聞いてくださってる方々ね、ちゃんと自分の治療は、今、2003年の話、しますからね。今はまた変わっていると思います。

牧野 そうですよね。だいぶ前。

岸田 自分の主治医にちゃんと治療のことは確認してくださいね。あくまでも牧野さんのケースなので。牧野さん、じゃあ、何でそのトライアルするほうを選んだんですか。

牧野 こう見せていただいた時に、生存率っていうのが具体的に多分、数、文字では出してくれたんですね。少し生存率が、臨床試験のほうが高め、今のところ高めっていうのと。これ、また、後々から色々分かってくることがあるんですけれども、その当時は高めっていうこと。あとは期間が短かったんですね。

岸田 治療する期間が。

牧野 そうなんです。パッと見なんですけれども、その標準寮法だと短いっていっても、2週間とかいう単位だと思うんですが、ちょっと短めだったっていうのもあって、早く出たいっていうのがすっごくあって、その事の重大さというよりも、この所から早く出してくれみたいな、早く出たいぞっていうのが先だったっていうのもあって、こっちかなみたいな。

岸田 こっちかなっていう判断をしたっていうことなんですね。そっか。じゃあ、ステージⅢ、Ⅳって言われたからショックっていうのも、勿論、あったりはしたっていうよりは。

牧野 多分、やっぱり分かってなかったと思います。

岸田 分かってなかったか。

牧野 標準寮法って言われても、安全性が確立されていてとかっていうのも、全然何か分かってない、分かってない。

岸田 いや、そうだね。22歳のその時ですからね。そっか。それで生存率が高いこちらを選んでっていうふうな形で治療していくというふうな感じかと思うんですけど、今、コメントも少しいただいています。皆さん、ぜひ、コメントもまたお待ちしております。よしさん、おはようございます。マーシーさんも、おはようございます。豊田さんも『同じく悪性リンパ腫ステージⅣ患者です。今日はお話、聞かせていただきます!』。

岸田 豊田さん。きゅーちゃんさんも、おはようございます。Jitsuharaさんも、『若々しさを保つ秘訣も教えて欲しいです!』っていうふうな感じで。何か若くするためって何かあれっすね。直接的表現過ぎる。生き生きとされるために何かやってることっていうのは、やっぱ運動?

牧野 うーーん、恐らく何でしょう、若さを保つためにとか、美のためにとかっていう意識はあんまりなく、自分自身はなくって、ただこう、何ていうんですか、走りたいみたいな。何でしょうね。少しでも早く泳げるようなりたいとか、そういうのを続けてきたら。多分、あと筋トレとかが、多分、良いんじゃないかなと思います。

岸田 なので、元からということでございます。

牧野 筋トレとか運動がいいと思います。

岸田 運動をされてる。

牧野 運動。

岸田 スターダストさん、おはようございますとか。あと『臨床治験をするにあたって、医療機関から、説明はしっかりとしてもらえましたか』っていうふうなことですけど、どうでしょう。

牧野 はい。その辺はしっかりしていただきました。ちゃんとこう、何ていうんですか、いろんな妊よう性の話だったりとか、あと副作用が、どういった副作用が標準療法とどう違うのかとか、あと、それから、勿論ですけれども、その署名というんですか、署名もいただいて、参加しますというようなところでサインをしているような状況でした。

【治療から現在まで】

岸田 ちゃんとしっかり説明あったということですね。ありがとうございます。そして、ここから治療に入っていきます。現在、治療から今に至るまで、そこからどうやって乗り越えてきたのか。そういうお話を聞いていきたいと思うんですけれども。まず治療としてはどんなことから始まっていきましたでしょうか。

牧野 一番最初が臨床治験の治療のBEACOPPっていう化学治療です。抗がん剤治療です。

岸田 抗がん剤治療、BEACOPっていう抗がん剤治療をしていくと。いきなり『彼氏にフラれる』のやつが出てきましたが。

牧野 そう。自分でも、吹いちゃいました。

岸田 めちゃくちゃ『彼氏にフラれる』を、めちゃくちゃ聞きたいんですけど。ちょっとそれは。そうですね。治療のところを、もうちょっと聞いていきたいと思います。俺がめちゃくちゃ、こう赤くなる。はい。抗がん剤治療ということで、抗がん剤治療を、BEACOPP、入っていくと思うんですけど、結構、吐く、抜けた毛で遊ぶっていうふうなこと書いてますけど、どうでした、治療としては。

牧野 凄く覚えているのが、一番最初に投与された、3週間で1クールっていう治療なんですけれども、入った時にどーんって体が、何か、何ですか、何でしょう、押されてる感じというか。ウワー、入って来た。これが抗がん剤かあ、みたいな感じでした。あと薬の種類によっては吐くのが止まらなくて、いや、これ、聞いてた、説明では聞いてたけど、うわ、リアルでこうなるんだみたいな。

牧野 何ていうんですかね。聞いてる時は、フンフンフンみたいな感じで、「はい、分かりました」って感じだったんですけれども、これが現実だって、多分、抗がん剤が入って副作用が出て、初めて実感したと思います。

岸田 初めて実感して、それで、そっか。どれぐらいの数週やったんすか。その抗がん剤は。

牧野 3週間ですね。1週目が3日間、薬入れて、2週目が1日薬入れて、もう一週がお休み。この3週間1クールを6やりました。

岸田 6やった。抗がん剤入って来たみたいな感じで、様々な副作用ね。

牧野 そうですよね。やはり「髪の毛が抜けるよ」とかって言われていても、あー、そうなんだと、ドラマとかでよく抜けてくとかってあるなって思ってたんですけれども、やっぱ現実は、何ていうんですかね、あー、抜けたとかじゃなくって、こう髪の毛を洗っていたら、グアーって抜けてくわけですよ。全然、自分は気づいてないんですけど、こうやって洗ってて。さあ、出ようか、あれ?みたいな。排水口にめっちゃ髪の毛が詰まってて。

牧野 そう。ウワー、何か出て来そうみたいな。何でしょ。怖いというか。ウワーって思って、その後、髪の毛を、こうやって、ビーンってドライヤーで乾かしてたら、ここにも書いてあるんですけど、髪の毛がドライヤーで乾かしてくと飛んでいくんですよ。普段、落ちるとかありますけど、飛んでくとかってなくって。何でしょうね。何だろう。その頃、もう私は、あと半年後、もうこの世にはいないって思っていたんですね。

牧野 段々と、やっぱり副作用とか出で来て、そういう状況だったので、これは自分が思ってたよりも厳しい状況だなと思った時に、もう今、この瞬間を楽しまなきゃっていう変なテンションだったのもあって、こう乾かしていると、うわー、抜けてく、キャッチとかっていうのを、看護師さんとかにも、「ちょっと、ちょっと、来て、来て、髪の毛、飛ぶから、見て、見て」みたいな感じでやってました。

岸田 やべーやつ、来たって、絶対、看護師さん、思う。

牧野 やべーやつ、来た。そう。看護師さんも優しい、「キャッチ」とかって一緒にやってくれた。優しいな。

岸田 優しいな。

牧野 優しい。

岸田 そうね。そっか。そういう意味ね。それで遊んでたってことね。ただ、もう吐くっていうことで。めちゃくちゃ気持ちは悪いわけでしょ? 吐き気とかは。

牧野 そうですね。はい。いや、びっくりしました、あれは。

岸田 そっか。当時はあれか。吐き止めとか、まだ、ええやつが、まだ出てないんか。

牧野 1種類とか2種類ぐらいで。入ってきても、こんなん入れても、もう、入れても入れなくても変わんない、そんなこと言っちゃいかんね。

岸田 いやいや。

牧野 多分、効く人には効くと思うんですけれども、私にはあんまりこう、あまり何でしょうね。効かなかったというか。

岸田 いや、それをやって、その後、ごめんなさいね。

牧野 いいです。どうぞ。

岸田 2月に彼氏に振られ。

牧野 はい。そうですね。

岸田 ちょっと彼氏の話は、また恋愛・結婚のところでがっつりちゃんと話、聞きたいと思いますので、今は治療のことをお伺いします。

牧野 はい。

岸田 そして、その後、放射線の治療が入っていくということなんすね。

牧野 そうですね。この2004年4月、3月でいったん抗がん剤が終わって、PET検査をしたときに、部分寛解というふうにその時点では言われたんですね。あんまり、前回も『がんノートnight』ん時もそうですけれども、部分寛解ってあんまり聞き慣れない言葉かなと思うんですけれども。その病気全体の50パーセントぐらいは、消えてる状態かなみたいな、いう、そんな状況でした。

牧野 というのも、私の場合は肝臓と脾臓とかの内臓がちょっと標準よりも、もともと大きくなってしまったのが、ちっちゃくなったんですけれども、標準と考えられるサイズまでのサイズになってないよっていうこともあって、部分寛解っていうような状況ではあったんですけれども。じゃあ、ここで追加して抗がん剤治療をするとか、例えば次の手段として移植ですね。移植をする、造血の移植をするとかっていうのは、まず、ちょっと置いといて、まずは放射線治療しましょっていうような段階になっていきました。

岸田 悪性リンパ種って血液の病気ですけど、さっきの肝臓が大きくなるとか、そういったことがあるってこと?

牧野 そう。そうなんですよ。悪性リンパ種の場合は、リンパ球っていう、血液の中のリンパ球っていうのがあるんですけど、それが、がん化したものがどんどん出来てっちゃうっていうふうなんですね。

牧野 がん化したもの、どこにたまっていくのっていうと、その脾臓ですとか、肝臓ですとか、そういうところに溜まってってしまうんですって。とか、首とか、脇とかのリンパのある所に溜まってっちゃうっていうことで、そういうことが。

岸田 まあ、標準の大きさにはなってないけれども、ちょっと大きくらいというふうな状態になって。その後、放射線に移っていく。放射線は、じゃあ、肝臓とか脾臓、当てたってこと?

牧野 そうですね。首と、ここが、原発というか、ここに沢山、溜まってるっていうのと、あとは脾臓と、あと足の付け根にちょっと当てたかな。ごめんなさい。首と脾臓とですね。肝臓は当てなかったと思います。

岸田 放射線当てて、放射線、当てたら、またそれもどれぐらい当てたんですか、これは。

牧野 量としては許容されるマックスの40グレイっていう単位があるんですけど、そのマックス掛けましょうみたいなことで、40掛けました。

岸田 てことは、もう1日1、2グレイずつ掛けたって感じですか。

牧野 そうです。はい。

岸田 じゃ、20日間、1カ月弱ぐらい入院した。

牧野 そうですね。このときは1週間、最初入院して。割と先生の方針として、なるべく日常生活を送ったほうが良いっていうふうに判断してもあって、あとは私自身の白血球もだいぶ上がって来てもあって、最初の1週間だけは入院して様子を見て、その後は、また白血球、下がっちゃったら入院というふうだったんですけども、基本的には外来でやりましょうというふうになりました。

岸田 そうなんですね。外来で通院して放射線治療していたということになります。そしてチャットもちょっと来ております。はい。Fumiさんから、『おりちゃん、こんにちはー。電車の中から聴いてます』だったりとか、『看護師さんのノリ、最高ですね!』だったりとか。あと『抗がん剤治療中、吐く、脱毛など色々あった中で、どの副作用が当時一番辛かったですか?』、当時っていうこと伺ってますけど、どれが辛かったですか、一番。

牧野 一番辛かったのは、やっぱ吐くですね。吐けれないっていうのが、もう、どんどん、どんどん体力。

岸田 そうなんですよね。食べれないっていうのが、またね。何か入院中・・・。

牧野 私は個人的に辛かった。

岸田 本当に唯一の楽しみが食べるみたいなこともあったりとかすると思うんすけど、それが食べれないっていうのは、きついなと。それも吐いてっていう感じで、ありがとうございます。そして次のフリップ、こちらになります。治療が終了していって、そして先ほど言った部分寛解ということ言われています。ただ、復帰が白紙って、これ、どういうことですか。

牧野 これは職場の復帰が白紙にということだったんですけれども。その治療、がん診断とされ、診断された時に、職場と面談をして、これから先どうしていくかっていうようなお話だったんですねで。

牧野「一旦、退職してもらって、治療に専念してもらって、治療が終わったら、また採用するので、まずは治療に専念してください」ってお話だったんですよ。で、治療が終わって電話をしたら、「いや、あの時はとてもじゃないけど言えなかったけれども、あの話は無かったことにしておいてください」っていうふうに言われたっていうのが、こう。

岸田 わー、おまえは首だと。

牧野 アー、どこが私の社会復帰なんでしょうみたいなところでした。

岸田 ワー、そうなんや。あん時は、じゃあ、言えなかった。いや、あん時、言っといてくれよって感じですよ。

牧野 そう。私としても何でしょうね。また、そこに戻っていくことを目標に、いや、もう、吐いても耐えるし、こんだけ辛くて起き上がれなくても、何とかあの場所に帰るんだって思いだったので。ワーっていうのがありました。

岸田 あー、そう。牧野さん的には、どうなんすか。その時、嘘ついてでも待ってるからねって言って欲しかったのか、それともどっちのほうが良かったんしょ? 結局。

牧野 いや、やっぱり最初に言っておいてもらったほうが、何でしょう。

岸田 その後、プランに影響しますからね、自分の。

牧野 そう。そうなんですよ。それだけの時間の、何かもっと、何かね、そう、そうなんです。考えたりとかする時間も、そん時は、多分、恐らく凄いショックだと思うんですよね、言われたら、やっぱり。でもね。そう。これは、やっぱりずっと引きずりました。何年っていう単位で引きずりました。

岸田 そこのところは、ちょっと、また、お仕事のところで、またお伺いしていきたいと思います。

牧野 はい。また。

岸田 そして10月に両親とマラソン大会、完走と。もう、あれなんすか。牧野さんのご家庭は、もう全員筋トレして、マラソンもして、ガチガチムチな感じなんすか。

牧野 母は割と、こう、もともとジムに行ってっていう感じで、走ったりとかっていうふうで、母は割とそういうタイプだったんですけれども。父は腰痛にずっと悩まされていて、運動とかしなかったんですけれども、私がそのマラソン大会に出たいって、この6時間マラソンっていうのが治療する、最初に入院する、入院する日の前日にあったんです。同じ6時間マラソン大会があったんですね。

牧野 そのマラソンを出るはずだったんですけれども、見に行って、来年は私もここに出てるぞっていうのを思っているってことは、両親は知ってたんです。そういうのもあって、また今年もあるぞとなった時に、去年、私は、来年ここに立ってるぞって決めてたところに、じゃあ、一緒に出ようよっていうふうで、父も本当に最初すっごい腰痛だったんですけど、ちょびっとずつ、「ゼー、ハー、苦しい」とかって、治療してないのに「苦しい」って言ってました。

岸田 いやいやいや。初っぱな、6時間を、良い子は真似しないください。

牧野 でも、殆ど父と母が走ってくれて、美味しいところだけ私が貰うみたいな。凄い、ちょびっとだけ走るみたいな感じでした。

岸田 完走し、その後、夢だった宮古島のトライアスロン大会、200キロ完走と。4年後か。この後、4年かけて体力を上げていったって感じ?

牧野 そうですね。最初は、やっぱり治療が終わって直ぐとかは歩くのも出来なくって、トイレに行くのも、ハイハイしてくような、そんなような状況だったんですね。そこから少しずつ練習をしていって、治療中にやはり私が半年後、この世にいないだろうなって思っていたのもあったんですけれども、その時からずっとトライアスロン、やりたいって思っていたんですね。

牧野 その時に友達がこのLIVESTRONGっていう、これを作った方が、自転車選手がいるんですけれども、その自転車選手も、がん治療した後に、また選手として復帰するっていうふうで、本、書かれたんですね。

牧野 その本を、その友達がくれて、今、こんな、すっごい状態だけど、また運動出来るようになるんだっていうことが、凄く生きる希望をくれたっていうのもあって、じゃあ、もう、ずっと夢だった宮古島も生き残ったら完走したい、チャレンジしたいって思いがありました。

岸田 そうなんすね。当時、そっか、アームストロングさんでしたっけ。

牧野 そうです。はい。

岸田 自転車選手が、パリ、ダカールじゃなくて、なんかあるよね。

牧野 そうですね。パリの何だっけ。ツールドフランスっていう。

岸田 ツールドフランス、フランスのやつをしてっていうふうな。その方が作ったそのLIVESTRONGっていうところね。それでみんな走ってって、うわー、凄いな。そっか。それで、やけど、完走をしていくと。

 

岸田 その後、まだあるんですよね。はい。凄いね。大会、出まくって、凄いねんけど。このアイアンマン・カナダ大会226キロ、トライアスロン完走。これも、次はもう日本じゃなくて海外、飛び出したって感じ?

牧野 そうですね。やっぱトライアスロンやってる時も、自分一人じゃ、トライアスロンってなかなか何やったらいいか分からないし、何を準備したらいいか分からないしっていうところで、近くのチームに入ったんですね。

牧野 そこでトライアスロンクラブというか、教えてくれるコーチもいますし、チームメートもいて、そういった方々から「海外のレース、特にアメリカとかヨーロッパとか、そういった所のレースはまた雰囲気が違うから、行ってみると良いよ」みたいなことを言ってくれたんですね。私自身、何でしょうね。宮古島がずっと夢で、学生の時から。トライアスロンという競技を知った時からずっと夢だったんですよ。

牧野 完走したら、何でしょ。さっきの職場復帰が白紙になっちゃったというところで、一人の人間として凄い欠けてるって思ったんです。欠けてるから、また採用はして貰えなかったんだなとか、思いがあったりとか。

牧野 実際に仕事してても、中々体力的に厳しくて続かなかったりっていうのもあって。宮古島を完走して夢が叶ったら、きっと自分、変われるんじゃないかなと思ったんですよ。それで、そう、宮古島、出たんですけど、あんまり変わらなかった。

岸田 変われると思ってやって来たら、変わらんかったっていう。

牧野 そうなんですよ。「ゴールした」って言ったら、ゴールしてもなんかね、毎日の日々の生活は変わらないし、自分自身も何か凄く、ずっと、モヤモヤしてるというか。治療中よりも治療後のほうが、凄く苦しみましたね。

牧野 そういったところで、このカナダ大会があるよっていうことで、ここ、ポイントなんですけれども、私自身、キャンサー・サバイバー・ネバーギブアップっていう、がんサバイバー、今を楽しむことを諦めないでっていうメッセージを付けて、走ったんですね。

牧野 ずっと、そうなんですよ。治療中から、さっきのランスの存在を知ってから、何か自分にも凄く勇気を貰ったので、今度はそうやって、ものを伝えられないかなって思ったときに、付けて走るということを初めてそこでしたんです。

岸田 そうなんや。だから他の人へのメッセージを込めて、自分でそういうのを付けて、それで走っていって。そしたら完走していくということで。そしたら、結構言われませんでした? そのメッセージ、付けてたら、周りの人には。

牧野 そう。凄い話し掛けられるんですよ。自転車でこうやって走ってる途中に、「ねえねえ、何のがんなの?」とか、「何のがんだったの?」とか、「僕のお母さんもがんだったんだけど、今、元気に過ごしてるよ」とか。

牧野 あとは実際サバイバーさんもいらっしゃって、「実は私、子宮のがんだったんだけれども、今、こうやって走ってるのよ」とか、「あなたがそうやってメッセージ付けてることが、私にも励みになるわ」みたいなふうに言ってくれて、「いやいや、そうやって言ってくれることが私の励みだよ」みたいなお話とかをねえ、凄い沢山話し掛けていただきましたね。

岸田 素晴らしい。そのカナダで大会、出て、そしてその2年後、腰痛のお父さんと、またマラソン、腰痛のお父さんをマラソンに、また出させるという。

牧野 私がこうやって楽しくやってるのを父は見ていて、父は6時間半マラソン、走ってからは、走らなかったんですよ。そしたら、段々、ちょっとこう、何ですかね。太ってきちゃって。見かねた私が、水泳、水着をプレゼントしたんです。

牧野 そしたら泳ぎ始めて、ゼイゼイ言ってて、止めるかなと思ったら、「いや、楽しいからやる」って言って、一緒にトライアスロン、やったりとか。あれだけ「走るの、苦しい」って言ってたのに、はい、100キロ走ったりとか。この時はもっと父が凄いリードしてくれて、私も完走出来たっていうような状況でした。

岸田 そうなすね。段々、そういうのも変わっていって。そして、その次のスライド、こちらになります。2013、10月。次、またちょっと、早発閉経と来ましたけれども、早発閉経って早期閉経と違うの? なんか、また違うのか。

牧野 同じ、同じことですね。同じです。

岸田 早発閉経と診断ということは、もう閉経してしまったってことですよね、もちろん。

牧野 そうですね。この時は出血が止まらないとか、何かおかしいなと思って、病院に行って、血液検査したら、こういうふうに言われました。

岸田 やっぱ治療の影響かな。

牧野 うーーん、主治医にそんなこととかも話をするんですけれども、何でしょう、「色んな要因があるよね」みたいな感じでした。

岸田 あり過ぎますよね。色んな影響が。そっか。閉経した時は、まだ何歳? この時。

牧野 30歳ぐらいかなと思います。30ちょっとぐらい。

岸田 でしょう。何か考えることとか、感じることとかは無かった?

牧野 そうですよね。遂にこの時が来たかっていうような感じでした。治療後もなかなか来なくて、婦人科に行ったりとかした時もあって、知識としては安定し、聞いてたっていうのもあったので、遂に現実だなっていう。

岸田 みたいなっていう。そっか。そして、その後、ご結婚されていくと。また、ここも後で聞きたいと思いますが、その後、不妊治療されっていうことですね。そして、ちょっとここで、後でも聞きたいんです。閉経になってから不妊治療っていうのは、僕、ごめんなさい、全然、知識なくて申し訳ないですけど、出来るんですね。

牧野 出来るんですね。そうなんですよ。出来たみたいですね。出来たみたいです。

岸田 もちろん、お医者さんに行って相談されてるから、主治医と話してっていうことですよね。

牧野 そうですね。出来るかは分からないけれども、なかなか実際に早発閉経ではない人よりは、かなり可能性は低いけれども、「トライしてみるだけ、トライしてみますか」っていうような、言ってくださったのはありました。

岸田 その後、2016、自然妊娠ということで、自然に妊娠したんですか?

牧野 そうなんですよ。もう、この不妊治療が、もう、すいませんなんですけども、本当1回か2回ぐらいでドロップアウトしてしまったんですね、あまりにも。

岸田 いやいや、全然すいませんじゃない。

牧野 これ、多分、人それぞれだと思うんですけれども、副作用とかっていうのが、私は割と戻してしまったりとかっていうのが酷くなってしまって、日常生活をなかなか送るのが難しくなってしまったのもあって、もう早々にギブアップっていうふうになってました。

牧野 でも、そしたら、何故か知らないし、早発閉経なはずなのに、何故か妊娠、ありがたいことに来てくれてっていうような状況ではありましたね。

岸田 その中で流産していくという中で、結構精神的に来たんじゃないですかね。

牧野 そうですね。そうですよね。ウーン、何か泣く、何でしょう。期待、期待もしつつも、期待というか、育っていくんだろうなって思いつつも、どこかでやっぱ病気になってからなんですけれども、駄目かもしれない。

牧野 凄く心を守っちゃうんですよね。上手くいかないかもしれないというのは、どっかで思っとこうみたいなふうに思うところがあって、それでショックを和らげようと思うんですけれども、でも実際そういう現実になるとショックというか、ところはありますよね。

岸田 そっか。そして、その後、初めて友達、仲間にがんを告白。ちょっと待ってね。がんの告白、まだしてなかったの? あんだけトライアスロンして、ネバー・ギブアップとか書いてんのに。

牧野 そうなんですよ。あんだけ発信してて、SNSとか、当時してたブログとかにも書いてたんですけれども、直接、会ってるというか、直接「私ってこういう病気だったんだよね」とかっていうのを言ったことがあまりなかった。話すタイミングがあんまり無いというか、別に隠してるわけでもないし、しゃべりたくないわけでもないんですけれども、そういった話題にあんまならないというかっていうのもあって、そうなんですよね。

牧野 ていうのも、これも話したくて話したわけではなくって、流産あってからも、やっぱりずっと励ましてくれたの、トライアスロンなんですが、子ども亡くした後でも、元々、エントリーしてた大会があったので、それに向かってやっていくぞっていうことで、また、これ、アイアンマンのアメリカのほうの大会だったんですが、それを完走したんですね。

牧野 そのことをみんなで、トライアスロン仲間で、合宿で話をする機会があって、そこで「思い出、話してよ」みたいなことで、私にとっては付けて走って、みんなが話し掛けてくれたっていうことが、やっぱり一番の思い出で、いや、それ、しゃべるために、まず自分が病気ってこと言わなきゃいけないじゃんみたいな。そういう、そっからです。

岸田 周りの反応、どうでした?

牧野 そう。これ、すごい有難かったんですけれども、周りの反応としては、知ってた人たちも、勿論いたんですけどね。SNSで知ってた人もいるんですけれども、それでも、知ってても、「そうやって直接話をしてくれて嬉しかったよ」とか、「そういった話を聞く機会は中々無いし、気持ちを中々知るってことも出来ないから、そうやって話をしてくれることはすごく助かるし、ドンドンしゃべってね」みたいなふうに皆さん言ってくださって、それは凄く有難たかったですね。

岸田 良かった。隠して、それで周りが去られたりとかしたら、なかなか、あれですけど。良かった、良かった。そして、その後、こちら、フリップ、こちらになります。2019年1月、結構最近ですね。里親、里親になって、特別養子縁組。これ、また後でも話、聞きたいんですけど、里親になるって決断をされたんですね。

牧野 そうなんですね。もう子ども、亡くした頃かな、頃に、たまたま、そういった制度があるということを知って、里親登録をしました。

岸田 また、ちょっとこの話も後で聞きたいと思います。

牧野 また、この話も、またね。

岸田 そして、その後、がん支援チャリティー・オンラインマラソン大会を主催していくと。これも最近というか、今月ですね。

牧野 そうですね。先週、岸田さんもご参加いただいてありがとうございました。今月、つい先週ですね。こちら、開催しましたね。ずっとこう、やっぱりスポーツでがん支援をするっていうことを何か出来ないかなってずっと思っていた中で、このたび開催することが出来ました。

岸田 てね、していったということになります。そして、ちょっと闘病、一通り、今までの話を聞いて来たところではありますけれども、当時の写真だったり、治療中の写真、そして今の写真を見ていきたいと思います。

岸田 まず、こちら、当時の写真、こちらになります。当時、治療を始める前の写真ですね。ちょっと待ってください。どっちもステキなんですけども、まあまあ、どこを卒業したんですか、みたいな。土木、勉強してたんですか。

牧野 そうですね。その間に、17歳の時に1年間コスタリカっていう中米の。

岸田 コスタリカ。

牧野 コスタリカなんですけど。その国に1年間留学した時の写真が、この帽子かぶってるほうですね。

岸田 左側。

牧野 日焼けしてる。

岸田 そうですよね。

牧野 この時もずっと水泳、やってました。

岸田 そう。コスタリカ、スペイン語?

牧野 凄い、よくご存じ。そう、スペイン語です。

岸田 いや、凄い。スペイン語、1年間やってたってことですよね。

牧野 もう全然なんか最初は、「トイレが。トイレ、行きたい」とか「おなか、すいた。お水飲みたい」ぐらいしか言えなかったけれども。普通の、普通の高校というかのとこに入って、ホームステイをして、近所の高校に通って、そして近所のスイミングチームに入ってっていうような生活をしてました。

岸田 だからですね、カナダのトライアスロンとかも行ったりとか、海外にも遠征出来るのは、そういうバックランドがあるんですね。そして、そのお隣は賞貰ったっていう感じですかね。

牧野 そうですね。こちらはその水泳の大会で入賞した時の写真ですね。

岸田 これも学生時代。

牧野 これも学生時代です。本当に就職する直前の写真ですね。

岸田 そして。

牧野 でも、この時にはもう病気が発覚してるんですよね。

岸田 そうなんや。

牧野 発覚というか、もう、なっているような状況。

岸田 体調悪い。

牧野 状況で、昔の学生時代の健康診断を取り寄せたら、異常がもう既にあったというか。

岸田 そうなんや。そして治療中の写真が、次、こちらになります。なかなか浮腫ってますね。

牧野 浮腫ってます。いい浮腫り具合で。

岸田 この左側の写真が言ってたあれですか。リンパがっていうふうな写真? 治療中か。

牧野 これ、多分、髪の毛、生えて来ているので、放射線治療、治療中、放射線治療中ですね。放射線治療中に写真、撮ろうと思って写真、撮りました。だから、ツルツルの時に撮ってないんですよ。撮っときゃ良かったって思いました。

岸田 いやいや。放射線治療の時の写真ね。その時の。

牧野 そうですね。

岸田 ちょっと顔がふっくらしているのは、やっぱり治療の影響?

牧野 ごめんなさい。こっち、タオル帽子、被ってるのは、本当、治療中です。抗がん剤治療中です。

岸田 このご家族と一緒のね。

牧野 3人で。はい。母と父と一緒に写ってるのが。

岸田 一番左ですよね。タオル帽子被って。ウワー、めちゃくちゃ、顔がふっくらされている感じに。ムーンフェースってやつ。

牧野 ムーンフェースですね。そうです。プレドニンの影響ですよね。

岸田 治療の影響でなっていって。そっか。治療中の写真、そっか。これで、そのお隣が放射線治療ということですね。ありがとうございます。そして、次の写真が、こちらになります。治療後。お父さん、お父さんですかね。

牧野 そうです。これ、父です。父と一緒に100キロ走った時の写真です。

岸田 おー、そっか。そして、その隣がトライアスロンの自転車乗ってる時。

牧野 そうですね。こちら、先ほどのアイアンマン、これはカナダですね。カナダの大会の時の写真ですね。

岸田 すげー。そこまで、結構、やっぱ、ここまで出れるためには、結構、リハビリっていうか、体力作り、頑張ったんじゃないすか。

牧野 そうですね。私としては乗ること自体が楽しいって思いでやってるんですけれども、やっぱり泣きながら自転車乗ってる時もありました。練習中とか。何でこんなに辛いだろうとか思いながらしてました。

岸田 そう。いや、本当に、いや、です。ありがとうございます。けど、いや、今、本当、活躍して凄い元気にされている姿が、凄い患者さん、見通しなるなということ思うんですが。ちょっとコメントもいただいておりますので、見させていただければと思います。

岸田 『マーベル!』っていうことだったりとか、saitaさんから『おりちゃん!畑仕事しながら聞いてます!おりちゃんの歴戦に目がキラキラ』ということだったりとか。Jitsuharaさんから『結婚するにあたって、お相手の理解や、ハードルはありましたか?』。これ、後で色々聞きたいですね。ありがとうございます。

【家族(親)】

岸田 それでは、色々話を、また項目ごとで聞いていきたいと思うんですけど。まずは、家族のことということをお伺いしていきたいと思います。ご家族、ご両親、ご両親に結構、あれですよね。

岸田 今のお話、聞いてると、関係は良好そうでサポートしていただいてという話ですかと思うんですけれども、どのようにカミングアウトしたりだったりだとか、どのようにカミングアウトしてっていうか、そっか、最初のほうがお母さんのほうが知ってるのか。なので、どういうふうなことをしてくれて嬉しかったよ、だったりとか、こういうサポートして欲しかったよっていったこと、何かあったりとかしますか。

牧野 後日談なんですけど、これは本当、治療が終わって何年間か経ってからなんですが、父と母が実は私の転院が決まった時、一番最初に母が総合病院で結果を聞いた時に、2人で実は泣いていたっていうことを、ずっと知らなかったんですね。というのも、転院したりだとか、ずっと父と母は笑っててくれたっていうのがあったんですよね。

牧野 なので、2人とも「辛いよ」とかって言うこととかも、泣いたりとかっていうことかしなくて、何でしょう、ずっと笑っててくれたっていうのもあって、そういうものなのかなと思ったんですけども、何年か経って、「実は前日に凄い泣いてたんだよ」っていうことを聞いて、そういったこともあったんだなっていうのを、何でしょう、思いました。はい。

岸田 両親は、ご両親は牧野さんの前では気丈に振る舞っていたけど、裏では結構泣いてサポートしていたということで。あれ? 牧野さん、ご兄弟は?

牧野 弟がいます。

岸田 弟とかどうでしょう。

牧野 そうなんですよね。実は弟が当時、留学をしていて。

岸田 すげー。コスタリカ?

牧野 今度は、弟は中国でした。直ぐ近い。近い。

岸田 海外になります。

牧野 近いですけど。そこでメールで書いた記憶があります。うーーん、何でしょう。わざわざ伝えることもないかなと思いつつも、移植の話もちょっと出てたりとかしてたので、そういった時に弟が第1候補というか、可能性としてあるのかなっていうのもあったりして、伝えない方法もあったと思うんですけれども、ちょっと伝えておいたほうが良いかな。

牧野 それの移植のことと、あと、たまたま、たまたま、時々帰ってくることがあったので、帰って来た時に、急にこういうさっきのタオル帽子で、顔、こんなんで、びっくりしちゃうかなというのもあって、サラっていう感じで。「一応、知っといてね」みたいな感じで書いたような記憶があります。

岸田 その返信も普通な感じで、そんな、大丈夫やった?

牧野 そうですね。割と「分かったよ」ぐらいな感じで。実際に帰ってきた時とかも、凄く特別扱いすることもなく、普段、いつもと変わらず接してくれたのは、凄く有難かったなと思います。

【恋愛・結婚】

岸田 ありがとうございます。そして、そして、牧野さんの、さっきの質問にもありました。次の恋愛・結婚というところ。まず、まずですよ、まず、2010、治療後にすぐ振られていませんでしたっけ?

牧野 そうです。治療中の最後の5クール目に振られました。すっごい覚えてます、これ。

岸田 これは、そこの話、聞いちゃってもいいっすか。

牧野 大丈夫です。大丈夫。そうなんですよ。彼氏も、彼氏、まだ学生だったので、会いに来てくれたりするような状況だったんですけれども、やっぱり、もう当時、大変、そんな20歳ちょっと22歳とかの。

岸田 22歳、3歳とかですね。

牧野 そう。そんなん、きついですよね。やっぱり今、思うと。それでも会いに来てくれてはいたんですけれども、彼も「治療が終わったら、また付き合おう」っていうふうに言ってたような状況でした。

岸田 治療、終わったら付き合おう。だから治療をやってた時に、もう彼氏さんは、だから理由とかは特に言ってた? 言わず?

牧野 うーん、いや、多分、やんわり、やんわり、やんわり、「ちょっと、学校のこととかもあるし」とか、「卒業が近いし」とか、多分、そういう、凄い遠回しというか。

岸田 遠回しで。ただ「治療、終わったら付き合おう」って言われたよね。

牧野 そう。終わったタイミングとかと、このタイミングが合うから、治療が終わって落ち着いたら、今、お互いにバタバタしてるから、落ち着いたら。

岸田 お互い、バタバタしてるからね。

牧野 バタバタしてるからね。

岸田 治療でバタバタしてるし、彼氏さんはもう学業がバタバタしてるし。バタバタしてます。別れます。その後はちゃんと付き合えたの?

牧野 いや、私が難しかったです。

岸田 そうなんや。そっか。

牧野 その後、直ぐに仕事のことも。

岸田 仕事とか色々あったもんね。

牧野 そう。復帰の話とかも。重なっちゃったところがあって。

岸田 やっぱ治療、その時、振られるって、結構下がるもん?

牧野 そう。あれ、本当、凄いっすね。5クール目で血液検査をしてたら、「6クール目が打てません」ってなったんですよ。多分、5クール目へ進んでたっていうのはあると思うんですけれども、そのショックもあったのかちょっと分かんないんですが、白血球が、白血球上がる薬を打ってても上がって来ないねっていうことで、6クール目は1週間お休みしてやることになりました。

岸田 メンタル的にも体的にもこう来て。だから、ちゃんと、ずっと最後まで支えて欲しいって。支えるならねっていうことでね。

牧野 まあ。

岸田 まあ。じゃあ、その恋愛、終わりましたとなった時に、次の恋愛していく時に、がんってことはどのタイミングで言うんすか。だったとか。

牧野 そうなんですよね。その次に言って来てくれた人がいたんですけれども、仕事とかしてくうちに。でも、うーーん、その時、言いましたね。「実は」っていうふうで。「私はこういう病気をしていて」とかっていうふうに言った記憶があります。で、「ちょっと今はあんまり恋愛に前向きにならないんだ」みたいなことは言った記憶がありますね。

岸田 じゃあ、その後、ご結婚されていくわけじゃないですか。その時はどういうふうになって、恋愛・結婚する気になってっていうことですね。

牧野 そうですよね。その後からやっぱトライアスロンを始めていったら、だいぶ心も元気になる。身体も元気になるし、心も元気になって来るし。わざわざ人には言わないけれども、がん治療して、トライアスロンやってる自分、格好いいんじゃないみたいなふうに、自分、別に誰かに言って欲しいとかじゃなくって、じゃなくって、自分の中で、私、格好良いからみたいに、勝手に自分で思っとこうみたいなふうに思ってたら、段々と、何でしょう。

牧野 勝手な、自分自身の中の自信みたいなのが出て、付いてきて、それで何ていうんですか。キャンサー・サバイバー・ネバー・ギブアップって付けてるとかっていうところも、今の旦那さんは知ってる、知ってるっていうか、一緒に出場してたんですね。

岸田 そうなんや。

牧野 そうなんです。はい、職場が一緒。

岸田 日本の方、日本の方ですか

牧野 日本人です。日本の方です。職場が一緒、当時の職場が一緒で、一緒に、「じゃあ、トライアスロン、僕もやりたい」って言って、「一緒に出ようよ」みたいな。

岸田 そうなんや。でね、さっきのコメントの結婚するにあたって、お相手の理解や、お相手の理解はさっき、あったと思うんですけれども、ご両親だったりとか、どうでした?ハードルとかなかったですか。

牧野 ええ。ハードル、壁ですよね。

岸田 そうです。日本語で言ったら壁ってなるかもしれない。

牧野 いやいや、本当に何つうかハードルって隙間あるじゃないですか。ハードルは隙間があるけど。

岸田 リアルなハードルね。

牧野 壁は隙間ない。

岸田 そういうこと。

牧野 ダーンって感じ。そう。壁というか、絶縁ですよね。

岸田 え?

牧野 そうなんですよ。私がそういう状況ですよって、黙っていこうと思ったんですよ。もう見た目も普通になって来てるし、普通というか、そんなふうに分からないし、言わなきゃばれないし、黙っていこうかなって思ったんですけど。

牧野 その辺が自分の良心的に、ちょっと、それはやっぱないか。やっぱ伝えたい。伝えておいたほうが良いかなと思って、「今、そういう病気したんだけれども、今、トライアスロンとかやったり、元気だよ」みたいなこととかも伝えたんですけれども。うん、そこからは、ちょっと。

岸田 理解されず?

牧野 そうですね。お会いしてない状況です。

岸田 だから反対されたってことですよね。

牧野 そうですね。一言で言うと、そうです。

岸田 やっぱ病気が原因って感じか。

牧野 そうですね。それまでは順調に行って、顔合わせみたいな、みんなで顔合わせみたいなお話もあったのが、そんなので。

岸田 まじか。

牧野 まじだ。笑ってますね。

岸田 けど、旦那さんは理解あって、結婚しってことですもんね。だから。

牧野 そうですね。有難いことに夫は、「両親の意見は意見だけれども、自分は自分の意見で自分の人生を生きていきたいから」っていうことで。

岸田 凄い。

牧野 旦那さんが凄い。旦那、凄い。

【妊よう性】

岸田 旦那さん、凄い。旦那さん。その中での、結婚の中での一つの話になるかもしんないですが、妊孕性といったところで、やっぱ牧野さん、子どもをさっき、早発閉経だったりとかあったりとかして、妊孕性、話、当時、ありました? ご病気の時は。

牧野 ありました。

岸田 妊孕性って、子どもを作る能力の話なんですけど。

牧野 そうですよね。ありました。この治療を受けると月経が止まるというか、止まっても何パーセントは戻ってくるとか、そういった数字は書いていただいてはいましたね。

岸田 卵子保存、卵巣保存するっていう話は、当時はないよね。2003年。

牧野 そうなんですよ。若干、薄っすらあったんですけど、薄っすらあって、何ていうかな、このままいくと、何でしょうね、私、多分、難しいな。妊孕性を維持していくの、多分、難しいのかなって、自分でも思っていたのもあって、そういった話をした記憶があります。

牧野 そこで、一旦、これ、治療を止めることになるから、採取しに行くのにあたって、止めてまで採取に行くのか、このまま治療を計画どおり続けていくのかっていうところで、先生としても戻ってくる可能性もあるし、月経が戻ってくる可能性もあるし、私自身もちょっとだいぶ進んでいるって、進行期で進んでいるっていうのも、現実と比べてみたら、やっぱ何ていうんですかね。このまま計画通り治療していくってほうを選択した記憶があります。

岸田 タイミング的にね。で、妊孕性が一応、低下もしくは喪失していった感じですかね。もう閉経っすね。そうですね。

牧野 そうですね。

岸田 その後、この妊孕性の問題っていうのは、ご結婚のところにも影響すると思うんですけど、結婚する際にそのことはもちろん旦那さんと話しして、ご結婚されたってこと?

牧野 そうですね。もう、その時点で私が早期閉経、早発閉経なっているってことは知っていたので、それもOKで。また子どもがいる、育ってたいとか、それはまた別の、別というか、それを含めの結婚では無いよっていう考え方だったので、「誰と一緒に生きていくかということが僕にとっては大事」っていうような考えの人でした。

岸田 ウオー、ハー。

牧野 旦那、ありがとう。

岸田 旦那さん、ステキ。

牧野 本当。

【里親・養子縁組】

岸田 そして、そして、その後、こちらのフリップ、里親・養子縁組というふうなところになるんですけれども、里親、今、フリップの中でも入って来ましたね。里親になる。そして養子縁組っていうふうな、これはどういうことなんすか。

牧野 そうですよね。特別養子縁組ってす直ぐ成立するわけではなくって、一番最初、約半年間だったり、半年以上の養育期間、一緒に過ごしているっていう期間が必要なんですね。それもあって里親、初めは里親の期間があって、それから特別養子縁組を、申し立てをするっていうような流れではあります。

岸田 これは、そうしようと思ったきっかけって、さっきおっしゃっていただいた、やっぱご自身の流産の経験があって、子どものことを調べて、この制度を知って活用したって感じ。それはもう2人で話し合ってそうしようってなったの?

牧野 そうですね。あと私の母が実は養子縁組当事者なんですね。

岸田 えー。

牧野 親族間なんですけれども、その当時は特別とか普通とか無かったので、養子縁組っていうことだったんですが、私自身がおばあちゃん3人、おじいちゃん3人みたいな状況で、ずっと育って来てたっていうのもあって、そのことは夫も知っていて、何でしょうね。そういった制度、「こういった制度もあるみたいだよ」みたいな話をしていったら、割とすんなり、何でしょう、パッとそこで、じゃあ、やろうとか、そういうことを思うより、思うというよりも、まず話を聞きに行って、そっから考えよう。

牧野 じゃあ、研修、研修があったりするんですけれども、私は自治体の児童相談所を介しての登録だったんですが、行って登録しながら考える。そういう研修、受けながら考えていこうとか、そんなような感じで進んでいきました。

岸田 そうなのね。そっか。それで、じゃあ、スムーズに、比較的スムーズにいけた感じなんすね。

牧野 そうですね。割と、私の両親も当事者っていうのもあって、母が当事者なんですけれども、そういったことに関しては割と何でしょう、そこで「え?」とかというよりは、「いいんじゃない」じゃないですけど、応援してくれるような立場でしたね。

岸田 ステキ。今、お子さんは何歳?

牧野 今、3歳なりました。

岸田 そうなんすね。0歳の時に里親なってって感じ?

牧野 そうですね。0歳、生まれて直ぐの時に連絡が来てそこから一緒になっているような状況です。

岸田 また大きくなったら、いつかその子のこととか、色んなお子さんに話すって感じなんすかね。

牧野 そうですね。一応9歳ぐらいを目安にして、それまでに真実告知っていう言葉があるんですけれども、その子の人生ですし、その子のルーツを知るってことも凄く大事なことなので、9歳までを目安に、まず伝えましょうねっていうのがあるんですね。早速、もう私たち、伝えてはいますけど。

岸田 そうなんすね。まあ、3歳ですからね。3歳ですからね。

牧野 あと、そうですね。写真を貼ったりとかもしてます。

【仕事】

岸田 へー、ありがとうございます。そして、そして、次、お仕事のことをちょっとお伺いしていきたいと思うんですけれども。さっき復帰が白紙になってということで、その後、どう、今はお仕事、自己紹介の時にされてましたよね。スポーツインストラクター。

牧野 はい。今、そうですね。幼稚園で水泳を教える仕事してます。

岸田 白紙になってってから、どういうふうな過程を経たんでしょうか。仕事にしていくまでに。

牧野 そうですよね。一番最初が、本当に治療が終わってから直ぐって、じゃあ、直ぐプールに入れるかっていったら、自分自身もちょっと自信が無かったので、まずはプールの監視員から始めました。

岸田 オー、アルバイト的な感じ?

牧野 そう。アルバイト、アルバイトです。はい。まずは。本当、最初。

岸田 それは。

牧野 どうぞ。

岸田 どれぐらい経ってから? 治療が終わって。

牧野 もう放射線治療が終わるか終わらないかぐらいの時に始めてました。

岸田 そうなんや。じゃあ、あれ? 白紙って言われてから? 白紙って言われる前から?

牧野 白紙って言われたのが、放射線治療の前でした。

岸田 前か、前か。

牧野 前に連絡をしていて、駄目だよって言って、放射線治療が終わるか終わらないかぐらいのところで、まだ髪の毛もちょっとしか生えてない時に、かつら被ってプールの監視員、やってました。

牧野 そしたら何か周りの人たち、友達が、「私、実はかつらなんだよね」みたいなことを言ったら、「え? 外してみたら」って言ったら、「髪の毛、短いの、かっこいい」とかって言ってくれて。そのまま、もう、そこからは無く、ウィッグ無しで。

岸田 で、外して。

牧野 プールの監視、やってました。

岸田 そのプールの監視員をやって、そこから就職していくのはどのタイミング?

牧野 そこからアルバイト、何でしょう。事務仕事、事務って打つほう、一般事務の仕事をしたりだとかは、初めアルバイトで体力を付けていって、そのうちに宮古島トライアスロン完走する前ぐらい、2003年とか、2003年じゃない。

牧野 2005年とかに水泳のアルバイトを始めたりとかしていったんですけれども、やっぱり体調がまだ、なかなか安定しないし、練習ももっとしたいしっていうところで、そこからはもう陸の仕事で、ウェブサイトを作る仕事とかをしてました。

岸田 そのときにお仕事、就職していった時には、がんのことも、もちろん伝えて。

牧野 そうですね。その頃は伝えていましたね。割とこう治療が終わってすぐ走り始めたりとか、じゃあ、宮古島トライアスロンに向けてっていうふうに練習を始めたのもあって、これはこれで強みかなと思ったんですね。病気なったんですよ。

牧野 この白紙の期間ありますよねっていうのは、やっぱり中々プラスには受け止めてもらえ難いかなと思ってたんですけれども、「いや、こういうことあっても、今、私、走ってるんですよ」とか「泳いでるんですよ。トライアスロンに向けてやってるんですよ」とかって言うと、マイナス部分が逆に輝くみたいな。それもあって、「こうやってるのね」みたいなふうになるのかなと思って、そうやって言ってました。でも、それで落とされたこともありますよ。

岸田 何個か受けて、受かって、そして今のところになっているということですね。

牧野 そうですね。はい。

【お金・保険】

岸田 ありがとうございます。はい。そして、その当時の治療だったり、お金・保険のことっていったところで、当時、社会人でありましたけれども、そんな貯蓄といったところだったりとか、あれですもんね。

牧野 はい。

岸田 治療費はご両親が出したしてくださってって感じですか。

牧野 すいません。出していただきました。

岸田 いやいや。全然すいませんじゃないっすよ。もう、それは家族ですから。

牧野 ありがとうございます。あと高額。

岸田 療養費制度。

牧野 そう。それは使いました。

岸田 保険とか入ってたとか知ってます?

牧野 それがあまり知らなくってですね。入ってたとしても郵便局系統のものに入ってたよ、みたいなことは母から聞いたことあったんですけど。

岸田 じゃあ、ご両親が掛けられてたって感じかな。

牧野 すいません。

岸田 いえいえ、全然、全然。

牧野 面倒見ていただきました。

【辛い・克服】

岸田 いただいたと。そして、その次、辛い・克服というところになるんですけれども、辛い・克服、これ辛かった。精神的や肉体的に辛かったなっていったところを、どう克服していったのか。もちろん、トライアスロン出ていうふうなこともあると思うんですけれども、精神的に一番辛かったのは、どのタイミング?

牧野 精神的に一番辛かった時は、どこだろう。色々あるな。沢山あるな。

岸田 いっぱいありますよね。今、話してない中で、何か辛かったこと。

牧野 いっぱいありますね。話していない中で一番辛かったタイミングっていうのは、多分、その宮古島トライアスロン、出てから、アイアンマン・カナダカを出るまでの間が。

岸田 何あったんすか。

牧野 何で私、生き残っちゃったんだろうって思ってました。

岸田 逆に。

牧野 うーん。何で私、あん時、死ななかったというか、何なんでしょうね。凄い申し訳ないんですけれども、そういって思っちゃってました。何で生き残っちゃったんだろうとか、かなりやっぱりドーンって落ち込んじゃった時とか、それで会社、辞めちゃった時とかもありました。

牧野 何やってても、やっぱり治療前にやってたこと、スポーツクラブで正社員として働いてて、いつかトライアスロンやるぞみたいなふうになってた時には、やっぱり戻れなく、それが私の社会復帰というか、復帰だって思ってたんですけれども、そことはやっぱり何でしょうね、もう断られちゃってるような状況ですし。何か、私は1人の人として欠けてるのかなみたいのは、やっぱ、すっごい思ってました。

岸田 どうやって、そっからメンタル面、復帰していくんすか。

牧野 そうですね、そういった時に、ジーっとしたんですけれども、このまま、私、じっとしてたら本当に駄目んなっちゃうと思って、トライアスロンの練習会だけは絶対行こうっていうふうに。

岸田 ちゃんと外、出てね。

牧野 出ました。

岸田 やってたんや。それはありがとうございます。肉体的に大変やったのは、やっぱ吐き気とかっていう時かな。

牧野 そうですね。やっぱり抗がん剤がドンドン進んでいって、もうトイレに行くのも、ハイハイとか、階段も上がれないとか、やっぱそれですよね。

岸田 それは抗がん剤治療、終えたら、吐き気とかも治まって来てって感じですかね。

牧野 そうですね。そういったところは回復していきますよね。

【後遺症】

岸田 その後、体力的にはトライアスロン、出てとか、マラソン出て、しっかりされていったと思うんですけれども。そんな中で後遺症のことという中で、後遺症に今、これあるよっていうのは、手、何かある。

牧野 手先のしびれは、やっぱり残っちゃいましたね。

岸田 手先のしびれ、それはお仕事とかには影響ない?

牧野 あんまり直接的に、こう何か、あーってことはないですけど、日常生活のほうでペットボトルのふた開ける時に、痛ーとか、開かないとか。

岸田 そういうね。

牧野 そう。そういえばそうだったみたいなのとか。そうそういう感じですね。

岸田 地味に来る感じですね。

牧野 地味に。

岸田 そっか。もう、それは取れない、しびれてるって感じですね。手先が。

牧野 そうですよね。残ってるって感じですよね。

牧野 えてててって感じですね。

岸田 それは一生付き合ってく。

牧野 もう、これはお付き合いですね。

【反省・失敗】

岸田 ありがとうございます。そして、反省・失敗。これは。

牧野 もう、凄い沢山ありますよね。ありますよね。沢山、凄いあります。本当に何か、これ、治療中、特に本当に思うんですけど、いや、タイムスリップして、トントンって教えてあげたいですもん。

岸田 特に何に失敗したっていうのは。印象に残ってるのは。

牧野 抗がん剤治療中でも、時々は身体の調子が良い時とか、気分が良い時とかってあったと思うんですよ。その時にジーっとゴロゴロしてるんじゃなくって、もうちょっと動けって思います。本当。本当に。

牧野 それで筋力、ドンドン落ちてってしまって、何度も何度も言ってますけれども、治療終わった時、抗がん剤治療終わった時には、トイレに行くのも、ハイハイとかって感じだったので。もう気分が良い時は外、出ろとか。外に出なかったとしても、階段、上り下りするとか。

岸田 ちょっと運動しておけと。

牧野 それは凄いと思います。

【医療者へ】

岸田 大変ありがとうございます。そして、その次、医療者へということで、当時の医療者へ、感謝のことでも良いですし、こうして欲しかったよ、でも良いですし、こちら何かありますか。

牧野 医療者の方々、さっきの、髪の毛、飛んでくっていうのも。

岸田 確かに。

牧野 一緒に楽しんでくれて、凄い嬉しいなっていうのが、本当に思いました。後は、この3月で診断から18年間、お世話になった主治医が定年退職されたんですね。その主治医と出会わなかったら、治療を最後までやり遂げることも出来なかったと思います。何でそう思うかっていうと、治療中、凄く辛くなって来た時に「この薬、入れると、凄いしんどいんだよね」みたいなこととかを、先生に凄い言ってたんですね。

牧野 そうしたら先生、凄い穏やかな優しい先生なんですけれども、「これは、先生がお願いしてやっているわけじゃないんだよ」っていうふうに言ってくれたんですよ。「これは、あなたが選択して、あなたがやっていることなんだよ」っていうことを、凄く辛いことで、それを言うってことは凄く辛い、先生としても辛かったと思うんですけども、そういって言ってくれたことで、私はこれを今やるっていう選択をしたんだっていうふうに思うことによって、治療に対してやってこうっていうふうに思えるようになったんですよね。そういった教育をしてくれたのは、主治医だったなっていうのは、凄く思います。

【Cancer Gift】

岸田 その言葉、そうですね。「自分がちゃんと選んでるんだよ」と。何も強制的にさせてるんじゃなくて、しっかり納得して受けていっているっていう。そっか。いや、素敵な言葉、ありがとうございます。そんな素敵な言葉もありつつ、Cancer Giftという中で、辛いことも沢山あったと思うんですけれども、その中でも良かったことっていったところを見つけるとしたら、どういったことでしょうか。

牧野 このCancer Giftってふうに聞いた時、何かなって思って、一言で言うと、使命感ですね。

岸田 使命感。

牧野 そうなんですよね。不思議な使命感。診断されて、臨床試験治療を受けてっていうときに、色んなデータというか、情報とか探そうと思っても、やっぱり受けてる人が少ない。元々、私の病気って日本人に少ないっていうのもあったんですけど、中々情報に当たらないっていうところで、じゃあ、私が何か情報発信していこうとかっていうふうに思った。それが使命感ですね。それをいただいたなっていうふうに思っています。それがあるから。

岸田 チャリティー・マラソンの企画もされたりだとか、されてますもんね。

牧野 そうですね、そういったことに繋がって来てますよね。

【夢】

岸田 使命感ね。それをがんが教えてくれたというとして、今後の夢。おりちゃんさんの。

牧野 今後の夢ですけれども、今回の先週、行ったチャリティー・マラソンもそうなんですけれども、生きる希望の輪を広げていくっていうことですね。私がやっぱり、今日、何度も何度も言ってるのが、スポーツっていうのが好きな分野なんですけれども、好きな分野を通してがん支援につながることを続けていけたらいいな、もっと広げていけたらいいなっていうのが、今の夢ですね。

岸田 支援を広げていくということですね。是非、是非、ちょっと牧野さん、もっともっと広げていって欲しいなということを思います。ありがとうございます。

牧野 ありがとうございます。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。はい。もう結構、話をして来たんですけれども、そんな中で、今までのことを振り返っていく、ペイシェントジャーニーを振り返っていきたいなということを思っております。私が今までの牧野さんのペイシェントジャーニー、こんな感じで振り返っていきたいと思います。上に行けば行くほどハッピーで、下に行けば行くほどアンハッピーみたいな感じで、2003年から今までになるんですけれども。

岸田 スポーツクラブの入社、赤色がポジティブ、青色がネガティブ、白色がどちらでもないです。スポーツクラブに入社していって、ダーンと下がっていって。さっきの、ちょっと体調悪くなって、うつで休職していって、そこから実家へ、実家へ戻って来たんですね。そこから、顔がパンパンに腫れ、顔がパンパン腫れるが、結構赤色でポジティブなんですけど、ポジティブだったんすか、この時。

牧野 そうですね、何でしょう。うつじゃなかったっていう、そういう。

岸田 そういうことね。うつじゃなかったということ。そして。

牧野 はっきりしてきたなみたいな感じですかね。

岸田 そして、マラソンで大会、応援に行って、その後、入院で検査していく。その後、がんの告知、ステージⅣの告知。これがプラ・マイ・ゼロなんすね。

牧野 そうですね。やはり、それまでが何なんだろう、何なんだろうって思ってたのが、ようやくはっきりしたっていうような。

岸田 そっか、そっか。ようやく発見した。その後、抗がん剤治療だったりとかで、副作用で大変な中、彼氏に振られていていってからの放射線治療。この時が結構大変だった。で、部分寛解、部分寛解もあれなんすね。特にめっちゃポジティブってわけじゃないんですね。

牧野 そうですね。部分寛解、何みたいなところだったり。何でしょう。戦う相手が見えなくなっちゃったみたいな感覚もありました。

岸田 そうなんや。そっから、マラソン大会完走して、マラソン大会がネガティブなんですか。お父さんとお母さん。

牧野 これ、ごめんなさい。これは多分、間違いです。

岸田 ポジティブ。

牧野 ポジティブだったです。

岸田 ポジティブ。

牧野 失礼しました。

岸田 ポジティブで、ただマイナスの部類であるんですね。この下の、ゼロよりは下にあるんですね。

牧野 そうですね。やはりネガティブもあるかなと思うんですけれども、治療前と同じようには走れないっていうような状況が。

岸田 そういう意味が。じゃ、ポジティブ、ネガティブ、どちらもあるみたいな感じですね。

牧野 そうですね。

岸田 トライアスロン完走していって、カナダの先ほどのネバー・ギブアップあって、そしてお父さんともやっていく。そして早期閉経、なっていく。その後、不妊治療だったり、結婚から不妊治療、そしての流産というふうな形で。一応、フォローするために言っときます。結婚が滅茶苦茶辛かったってわけじゃないっすよね。

牧野 そういうわけではないです。はい。ありがとうございます。それは凄く良いことだったんですけど、壁がね、壁がね

岸田 壁がね。さっきの話、壁があったということで、流産していった中で、その後にカミングアウトを仲間にしていって、みんなに理解してくださって、そして里親・養子縁組、そして、その後にチャリティー・マラソンの主催をしていくというふうな流れになります。

岸田 ちょっと待ってください。そんな中で。はい。ありがとうございます。今、この話の流れをしていったんですけれども、何かここで補足しておきたいこととかありますか。この時、こうだったなっていうのは。

牧野 こうやって見ると、結構、ネガティブ、多いなって思いました。よく頑張って来た、自分って思っちゃいました。

岸田 可視化することでね。

牧野 そうですよね。有難い機会、ありがとうございます。

岸田 いえいえ。なので、こんだけ笑顔が素敵で笑っているかおりさんでも、結構大変なときは大変だったよということを、皆さんも思っていただけたのかなと思います。

牧野 ありがとうございます。

岸田 ありがとうございます。はい。そして、これで一通りお話を聞いていきましたけれども、また今後といったところもありますし、ちょっとここで一つ、CMというか、このがんノートの協賛してくださっている企業さんを紹介させていただければと思います。

岸田 企業さん、「生きる」を創る。Aflac様、そしてIBM様、アイタン様にご支援いただいております。そして、見てくださってる皆さま、いつもありがとうございます。

岸田 次回の『がんノート』は、6月19日のまた朝10時半から、精巣腫瘍の池内さんに来ていただいて、精巣腫瘍の話だったりとか、ご家族、ご家庭の話、お仕事の話、様々、聞いていきたいと思いますので、是非、また見ていただければと思います。

岸田 そして、そして皆さんの視聴者の方へ、少しお願いというものがありまして、ゲストへのメッセージ入力のお願いになります。番組終了後、動画の概要欄だっただとか、あとチャットボックスの所ですね、テキストでURLを貼りますので、そちらを、メッセージを入れていただくと、最後、画像上で色紙にして、おりちゃんさんにお送りしたいと思いますので、かおりさんに送りしたいと思いますので、ぜひ、ぜひ皆さん、テキストを入れて貰えたらなと。感想を入れて貰えたらなと思っています。

岸田 そういった中、もう本当に一気に90分近くお話ししてきました。ちょっとコメントもいただいておりますので、少しだけコメントを読ませてください。『おりちゃんの勧めで、スポーツクラブに入りました!』という方、Fumiさんですね。

岸田 あと『素敵なご主人ですね!!』、『かっこいいですねー』、『旦那さんの決意!本当に素敵なだんなさん!!』と。『旦那さんも凄いし、おりちゃんも魅力』的ですと。『使命感、生きる理由ですね』と。きゅーちゃんさんは、『本当に、笑顔が素敵なかおりさん』ですということで、いただいております。本当ね、いや、まじで今度、旦那さんの話も聞きたいなっていうのをすごく思ったりとか。

牧野 そうですよね。

岸田 すごい、今の好感度、爆上がりですからね。旦那さんね。

牧野 伝えます。

岸田 もう、ハードルが高くなった時に、またご出演していただくと、凄い、もう、どんどんハードが高くなっていくんですけど。また旦那さんの話、聞かせてください。

牧野 はい。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 そんな中で、牧野さんに、最後、このメッセージをいただきたいなと思っております。今、闘病中のあなたへ。がんノートがやって来ている理由でもあるんですけど、やっぱり、この放送を見てくださっている方に、色んな経験をされて来たかおりさんから、一言メッセージをいただいております。それはこちらになります。

岸田 『Attitud is Everything』ということで、生きる姿勢が全てというコメント、色紙で頂いているんですけれども、これはどういう意図や、どういう思いが詰まっているのでしょうか。かおりさん、お願いいたします。

牧野 生きる姿勢が全てであるという、こちらのAttitude is Everythingっていうのが、私自身、凄く思っていることでもあるんですけれども。良い時も、そうでない時も、全部ひっくるめてが自分の人生だと思うんですね。

牧野 どうしても、良い結果が得れればいいなって思うんですけれども、結果がどうであっても、向いてる方向がポジティブでもネガティブでも、どっちでもね、どういう状態であっても、今、この瞬間を生きようってする姿勢ですね。

牧野 自分自身が今、生きるっていうこと自体、それがどっちも向いてても、結果どうであっても、そのこと自体がもう本当に凄い素敵で、何よりも素晴らしいことで、今、あなたがここにいるってことが、本当に、本当に素敵なことなんだよっていうことを、凄く、凄く伝えたいなと思っています。

岸田 今、ここにいるこの姿自体が、もう素晴らしいことであって、全てであってっていうことですね。そっか、そっか。無理に生きようとしている姿が良いんだよっていうんじゃなくて、そのままの姿が素敵なんだよっていうことなんですね。

牧野 そうなんですよ。ありがとうございます。凄い素敵な補足。

岸田 いやいや。全然。

牧野 そうです。そう。

岸田 Attitude is Everythingという言葉。いや、素敵な言葉いただきました。本当、ありがとうございます。これにて、もう、がんノート、終わっていくんですけれども、どうでした、この90分?

牧野 あっという間で、そして、こんなにじっくりと自分自身の話をするっていうことが本当初めてで、私にとっても振り返る良い機会になって、次の一歩に繋がっていくなっていうのを、凄く感じられました。ありがとうございます。

岸田 そうですか。いや、牧野さんも、そういうバックグラウンドあったんだったりとか、お父さんがそんな腰痛だったんだとか、絶対、話、聞かないと知らないことですし。また、里親や、そういう養子縁組の制度も勉強になりました。ありがとうございます。

岸田 それでは、これにて、がんノートorigin、終了していきたいと思います。また、皆さん次の放送でお会いしましょう。それでは皆さん、バイバイ。

牧野 ありがとうございました。コメント、メッセージ、ありがとうございます。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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