目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 告知~現在までテキスト / 動画
- 家族テキスト / 動画
- 妊よう性テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- 辛かったこと(からだ・こころ)テキスト / 動画
- 後遺症テキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 過去の自分へテキスト / 動画
- Cancer Giftテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト:大島
- 38歳、出張鍼灸師が語る肺がんステージⅣ闘病記-肺がん発覚から治療開始まで
- 咳・声がれから告知まで—見逃された肺がんステージⅣ、反回神経麻痺が導いた診断
- LINEで妻へ、葬儀の場で両親へ—病名をどう家族に伝えたか
- 妊よう性への影響—がん治療前に知るべき副作用
- 治療と仕事の両立—休んだのは20日間、副作用少なく収入維持
- 「あと2年で入るつもりだった」38歳のがん告知—民間保険未加入の50万円負担
- 全身転移の告知で意識した「死」—がん教育の知識が支えた冷静な受容
- 反回神経麻痺による声がれと誤嚥—工夫して対応、生活への支障は最小限
- 「先回りして配慮してくれた」看護師と主治医への感謝—ストレスなく過ごせた理由
- 「40歳を待たずに検診へ」38歳でがん告知-先延ばしの危険性
- 患者体験が与えた「財産」—医療従事者として、人として深まった共感力
- 鍼灸師、医療者、そして当事者として—健康リテラシーを広める未来への夢
- 2018年開業から2025年治療中まで—7年間のペイシェントジャーニー
- 「遠慮なく欲張ろう」—闘病中のあなたへ贈るメッセージ
38歳、出張鍼灸師が語る肺がんステージⅣ闘病記-肺がん発覚から治療開始まで

岸田 本日のゲストは大島さんです!まずは大島さん、簡単に自己紹介をいただけますか。
大島 はい。大島と申します。愛知県出身で、現在も愛知県在住です。38歳で、自営業として鍼灸院を営んでいます。肺がんを患い、今年告知を受けました。現在は薬物治療の真っ最中です。
岸田 今年告知を受けて、まさに今治療中なんですね。実は大島さんとは先月、愛知県教育委員会さんのイベント後の懇親会でご一緒させてもらいました。そのときいろいろお話をして、快く出演していただいたという経緯です。ありがとうございます。大島さんは自営業で鍼灸院をされているんですね。
大島 そうです。ただ、実は店舗を構えているわけではなく、出張専門でご自宅に伺って施術をする、身一つの鍼灸院なんです。
岸田 そういうスタイルもあるんですね。
大島 はい、そうなんですよ。
岸田 なるほど。出張専門の鍼灸院ということで、お仕事との両立についてもいろいろ伺いたいなと思っています。
大島 よろしくお願いします。
咳・声がれから告知まで—見逃された肺がんステージⅣ、反回神経麻痺が導いた診断

岸田 では、ここからはいろいろとお話を伺っていきたいと思います。まず、大島さんががんを告知されるまで、どのように見つかっていったのかをお聞きします。時系列をまとめたフリップがありますが、最初は2018年8月に鍼灸院を開院されていますね。訪問専門で、1人でさまざまなご自宅を回るスタイルの鍼灸院ですが、独立のきっかけは何だったのでしょうか。
大島 以前も訪問専門の鍼灸マッサージ院に勤めていたのですが、当時の社長と意見が合わず、独立することになりました。
岸田 ちょっとドラマがあったんですね(笑)。
大島 そうですね。その前も同じような仕事を3年半ほどやっていました。さらに前は普通の営業職をしていたんですが、もともと体の仕組みや動きに興味があって、学生時代も部活をしながら体を観察するのが好きだったんです。大学時代にカイロプラクティックの勉強会に参加したこともありましたが、少し宗教っぽい雰囲気があり、周りからやめたほうがいいと言われました。それで一度は一般企業に就職したのですが、新しいことに挑戦したいと思い、再び体に関わる道を目指すことにしました。
最初はもみほぐしのような仕事を考えていたのですが、妻に「せっかくなら国家資格を取ったほうがいい」と勧められてマッサージの学校を受けました。ただ不合格になってしまい、その代わりに受けた鍼灸の学校に合格したので、この道に進んだという流れです。
岸田 なるほど。ちなみに僕、読み方を「しんきゅう」と言っていますが、合っていますよね。
大島 はい、合っています。
岸田 鍼灸は具体的にどういうことをされるんですか。
大島 鍼を刺したり、お灸を据えたりします。
岸田 やはりそうですよね。リラクゼーションのようなもみほぐしはあまりされない?
大島 そうですね。鍼を刺す前に体を慣らすため軽くほぐすことはありますが、一般的なリラクゼーションのように長時間もみ続けることはしません。
岸田 国家資格があるという点も大きいですよね。
大島 そうですね。
岸田 ありがとうございます。本当はいろいろ聞きたいのですが、このままでは鍼灸のお話だけになってしまいそうなので(笑)、また後ほど伺いたいと思います。
「この経験を活かして」患者の言葉に導かれたがん教育への道
岸田 では、開院から2年後の2020年2月、がん患者さんを数人、施術の中で看取られたと伺っています。
大島 はい。訪問専門なので、ご高齢の方や動けない方を診ることも多く、その中にはがん患者さんもいらっしゃいました。最後の瞬間に立ち会うわけではありませんが、ギリギリまでお伺いすることもあり、結果的に何人も見送ることになりました。
岸田 終末期のケアを鍼灸師として支えてこられたわけですね。
大島 そうです。
岸田 看取ってきた中で、がん教育に関わっていくきっかけになったことはあったのでしょうか。
大島 特定の1人というわけではありませんが、何人かお見送りする中で、皆さん最後まで堂々としていたり、生き方を見せてくださる方が多かったんです。その中でも、2020年2月にお見送りした方が「この経験を活かしてもらえるとうれしい」とおっしゃって旅立たれたことが強く心に残りました。同じ時期に、がん教育というものを初めて知り、活動されている方の記事などを目にして、「自分もこういう形で関われば意義があるのでは」と思ったんです。これまでのがん教育は経験者や医師が中心でしたが、鍼灸師としての立場から携わることで、また違った視点で役立てるのではと考えて、講師を志しました。
岸田 がん教育とは、具体的にどのようなものなのでしょう。
大島 小学校などで、がんの知識や命の大切さを伝える授業です。生活習慣病の一つとして語られることが多いですが、それだけではなく、がんという病気を正しく理解してもらうこと、命について考えるきっかけを提供することが目的です。今は学習指導要領にも盛り込まれていますので、その内容を子どもたちに分かりやすく伝える活動をしています。
岸田 ありがとうございます。中学・高校の学習指導要領にもがん教育の項目がありますからね。そうした授業の外部講師を目指されるようになったのですね。それが2020年2月。そして、同じ年の4月には「図書館のみんなのがん教室」に参加されています。これはどのような取り組みですか。
大島 これはとても画期的な取り組みで、名古屋市の公共図書館で始まった活動です。図書館長と患者団体の代表が協力し、「子どもたちが学校で学んでいるなら、大人ももっと学ぶべきだ」という考えから企画されました。毎月1回、1年間通して必ず講師を招き、講演と交流会を行います。がん経験者や一般の方が意見交換できる場で、とても意義のある会だと思います。
岸田 毎月開催なんですね。
大島 はい。すでに2年目に入り、3年目のプランも立ち上がるほど精力的に活動されています。
岸田 名古屋市のどこの図書館で?
大島 S図書館です。
岸田 他の地域にも広がっているのですか。
大島 はい、最近は長野県の塩尻市でも始まっています。定期的に継続しているのは、名古屋市のS図書館が初めてではないかと思います。
岸田 そうした場所で大人もがんについて学べるのは素晴らしいですね。
大島 はい。そこで多くの方と出会い、仲間ができて「もっとがん教育を広めていこう」という気運が高まっていきました。
岸田 なるほど。そこから仲間も増えていったのですね。
大島 そうです。
始まりは「ただの咳」だった—半年続く違和感
岸田 そして次の時系列に移ります。2022年12月、むせたり咳込むことが増えたとのことですが、この頃から自覚症状が出始めたのですね。
大島 はい。この時期はちょうどコロナ禍でもありましたし、季節的に風邪も多い時期だったので「少し調子が悪いのかな」と思っていました。ただ今振り返ると、この頃からむせるような咳が増えていたのだと思います。無意識に「大丈夫」と思い込もうとしていた部分もありましたね。
岸田 咳は四六時中出るような感じだったのですか。
大島 喉の奥がむずむずして、こらえられるときもありましたが、長く続くと我慢できずに小さな咳が出てしまう。食べ物を飲み込むときに気管に入るような咳も増えていました。
岸田 その頃はまだ「ちょっと体調が悪いだけかな」という認識だったんですね。
大島 そうです。「コロナでなければいいな」と思いながら検査もしましたが、陰性だったので安心してしまっていました。
岸田 確かに当時は、咳があるとまずコロナを疑いましたからね。
大島 そうですね。
岸田 そこから半年ほど経ち、症状は悪化していったのですね。
大島 はい。咳が続き、いろんな人に勧められたのど飴や漢方を試しましたが、一時的に良くなってもまたぶり返してしまう。そして声がかれるようになったのがその頃です。
岸田 声がかれ始めると「これは少し危ないかも」と思ってしまいますね。
大島 そうですね。訪問先には耳の遠い高齢者の方もいらっしゃるので、声がかれるのはとても支障になっていました。
岸田 そうか。
大島 あとは、スポーツトレーナーもしていて、指導で声を出すことが多かったんです。だから最初は「変な声の出し方をしたのかな」と思ったんですけど、やっぱり違うな、何か起きているなと感じました。
岸田 声がかれ始めた当時、今のお声よりもひどかったんですか?
大島 いえ、今よりはましでした。
岸田 なるほど。じゃあ喉飴で治るかな、くらいのレベル感だったんですね。
大島 そうです、その頃はまだそう思っていました。
岸田 せきは四六時中出ていた感じですか?
大島 日によって調子がいいときはそこまで出なかったんですが、乾燥やちょっとした刺激、声を強く出したあとなどはひどくなりました。ただ、そうした状況は普通でも起こり得るので、つい「大丈夫だろう」とやり過ごしてしまったんです。でも結局、あまりに長く続いたんですよね。
耳鼻咽喉科と内科を受診、レントゲン「異常なし」の落とし穴
岸田 それが今年の5月のことですね。本当に最近の話です。そこから6月〜7月頃、耳鼻咽喉科を受診されたと。診断の内容に「声を出し過ぎるな」と書いてありますが、これはどういうことだったんでしょう。
大島 声帯にカメラを入れて見てもらったら、少し赤みはあるけど炎症とまでは言えない程度で、「取りあえず吸入しておきましょう」という感じでした。仕事柄、声を張ることが多いので、それが原因の一つだろうということで、「声を出すのを控えないと治らないよ」と言われました。でも、仕事なので結局声を出さざるを得なかったんです。
岸田 そうですよね。高齢者の方に伝えるときに、耳元でこそこそ話すわけにもいかないですしね。
大島 そうなんです、逆に怪しくなってしまうので。
岸田 ちなみに、その耳鼻咽喉科はどうやって選んだんですか。
大島 家の近くで、子どもたちも通っていて評判も良かったので、そこに行きました。
岸田 そのときは薬も処方されましたか。
大島 いえ、その場で吸入だけで、薬は出ませんでした。
岸田 なるほど。その後、別の内科を受診されたのは、耳鼻咽喉科の診断を信じられなかったからですか。
大島 2週間たっても全然良くならなくて。知り合いから「最近の風邪は抗生剤を早めに飲んだ方がいい」と聞いたんです。あまり良い言い方じゃないですが、抗生剤をすぐに出してくれる内科を知っていたので、そこに行きました。そこで血液検査やインフルエンザ・コロナの検査をして、全部陰性。さらに肺のレントゲンも撮ったんですが「異常なし、きれいだね」と言われたんです。
岸田 えっ、そうなんですか。
大島 そうなんです。しかも私はタバコを吸っていたので、それでも肺がきれいなら、肺の病気の線はないだろうと、自分の中で消してしまったんです。
岸田 そうですよね。「きれいですね」と言われたら、がんだなんて普通は思わないですよね。
大島 そうなんです。でも実は頭のどこかでは「あるかもな」と思っていました。ただ肺については「これなら大丈夫だろう」と考えていたんです。
岸田 なるほど。あるとしても喉のほうかな、と。
大島 そうですね。
岸田 検査は簡易的なものが多かったと思いますが、異常なしと言われたんですね。
大島 はい。抗生剤や咳止めをもらって飲んでいましたが、まったく良くならなかったんです。1週間後に検査結果を聞きに行ったときも「異常なし」で、違う抗生剤を処方されました。
岸田 怖いですね。
大島 本当に。普段なら抗生剤を何度も飲むことはないんですが、他に方法もなくて飲み続けていました。
岸田 内科では「レントゲンもきれい、血液検査も問題なし」と言われてしまった。見落としだったのかどうかは分かりませんが、結果的にスルーされてしまったわけですね。
大島 そうです。
声帯が動いていない—反回神経麻痺の発見と緊急紹介状
岸田 そして7月、また耳鼻咽喉科に戻られたんですね。
大島 はい。やっぱりカメラで診てもらえるので、もう一度行こうと思いました。どこに行っても変わらないなら、せめて「全然良くならない」と伝えたほうがいいと思ったんです。
岸田 なるほど、再診ですね。
大島 そうです。
岸田 そこで「反回神経麻痺」と診断されたんですか。
大島 はい。カメラで確認すると声帯の片方が全く動いていませんでした。そのせいで声がはっきり出ず、ガラガラした声になり、さらに声帯が閉じないことで誤嚥も起きていました。
岸田 そうだったんですね。今のお声のかすれも、その影響なんですか。
大島 そうです。
岸田 なるほど。反回神経は肺まで伸びている神経だから、腫瘍などで圧迫されると麻痺が起きると。
大島 はい。医療従事者なら教科書で習うことなんですけど、声のかれ(嗄声)はそういうサインなんです。
岸田 なるほど。そのとき先生が紹介状を書かれて、すぐに総合病院へ行くよう指示されたんですね。
大島 そうです。診察が午前中だったんですが、「今すぐ行って」と言われて。その慌てぶりで事態の深刻さを察しました。
岸田 実際には7月31日に受診されたんですね。
大島 はい。総合病院に行ったのはその日です。記録では8月となっていますが、最初は7月末でした。
岸田 なるほど。すぐに行かれて良かったです。
大島 はい。これはさすがにまずいと思いました。
岸田 総合病院ではさまざまな検査をされたんですね。
大島 そうです。カメラでも反回神経麻痺が確認され、その日のうちに検査を進めることになりました。
岸田 紹介状を書くときに病院の希望などはありましたか?
大島 いえ、耳鼻咽喉科の近くに総合病院があったので「ここに行きなさい」と。選ぶ余地はなかったです。
岸田 そういう経緯だったんですね。
大島 住所を見て「ここならそんなに遠くないよね」とは言われましたが、病院の選択肢はなく、必然的にそこになりました。私自身も通いやすい場所だったので、それで良かったんですけれどね。
岸田 なるほど。その病院で受診と検査が進んでいったわけですね。
大島 はい。
「肺がんステージⅣ」全身転移の告知—がん教育の知識が支えに
岸田 記録には「翌日に電話」とありますが、これはどういうことですか?
大島 「まずかったら電話します」と言われていて。
岸田 あるあるのパターンですね。
大島 そうしたらすぐ電話が来たんです。
岸田 電話が来たとき、どう感じました?
大島 いろんな可能性を考えました。甲状腺の病気でも声帯麻痺になると調べていたので、「甲状腺がんなのかな」と思って病院に向かいました。
岸田 なるほど。まずは来てくれ、と言われたわけですね。
大島 そうです。翌日すぐ病院へ行きました。
岸田 そして「肺がんステージⅣの告知」と記録にありますが、いきなりそういう状況になったんですか。
大島 はい。MRIやPET-CTを撮って、リンパも腫れていて、その場で生検もしました。確定診断ではなかったですが、「肺がんの可能性が高い、転移も疑われる」と言われ、そのまま検査と検査入院の予定を一気に決められました。
岸田 そのときの心境はどうでした? だって、それまで「大丈夫」と言われていたのに、いきなりステージⅣでしょう。
大島 2段階の“まさか”でした。まず肺がんは候補から外していましたし、このときは喉のせき込みや声がれ以外の症状がなかったので。
岸田 ステージⅣというのは、遠隔転移があったということですね。
大島 そうです。
岸田 どこに転移が?
大島 脳に複数、あとはリンパ、肺、小腸、大腸、骨盤ですね。
岸田 全身じゃないですか。
大島 本当にそうで、びっくりしました。
岸田 それだけ転移があると、頭が真っ白になりませんでした?
大島 そこは、人によると思うんですけど、私はがん教室などに参加して、患者さんの話を聞いていたので、少し客観的に受け止められたと思います。
岸田 なるほど。がんになる前から講師を目指したり、図書館イベントに参加されたりして、知識はお持ちだったんですもんね。
大島 はい。転移のある方の話もたくさん聞いていましたから。「2人に1人はがんになる時代、自分だってなるかもしれない」と思えたのは大きかったです。
岸田 そういう下地があったから、受け止めるきっかけにもなったんですね。
大島 そうですね。すべては自分を助けるためだったのかなと思います。
岸田 いやいや、結果的にそうなったんですね。改めて思いますけど、がん教育って大事ですよね。では、告知を受けて、その後の治療の話に移ります。8月から数えて3、4カ月ほどの経過になりますが、ここに「感じたことのない激しい腹痛・胸痛・頭痛・階段の昇降で息切れ」とあります。さっきまでは咳以外に自覚症状がなかったとおっしゃってましたよね。急に出てきたんですか。
大島 はい、急に出てきました。検査で造影剤を入れたので、その影響かと思ったんですが、後から転移だと分かりました。転移箇所を聞いたら、症状に全部当てはまっていたんです。
岸田 なるほど。お腹、胸、頭…。骨盤にもあったんですよね。
大島 骨盤にはありましたが、幸い、そこは痛みは出ていませんでした。
岸田 階段の昇降で息切れとありますが、どのくらいの感覚ですか。
大島 50メートルを全力疾走したくらいの息切れでした。
岸田 階段を上がるたびに?
大島 はい。
岸田 それはしんどいですね。
大島 そうです。異常だと思いましたが、後から心膜に水がたまって心臓を圧迫していたと分かりました。
岸田 なるほど。そこから検査入院に入って、気管支鏡で生検をされたんですね。「肺動脈血栓・心膜に水」とありますが、血栓も見つかった?
大島 はい。血栓もありました。ただ、それががんと直接関係しているかは分からないと言われました。
岸田 肺動脈血栓ってどういう状態なんですか。
大島 肺の動脈が詰まりかかっていて、呼吸ができなくなる可能性がありますし、血栓が飛んで脳なら脳梗塞、心臓なら心筋梗塞になる危険性もあると。
岸田 それは怖いですね。そして心膜の水も、心臓を圧迫していたんですね。
大島 そうです。肺と心臓は近いので、炎症が飛び火して水がたまったのではないかと言われました。
適応率10%の分子標的薬が奏功—1ヶ月で腫瘍が縮小
岸田 そうした中で、「分子標的薬の適応」と分かったのは?
大島 検査入院のときに採った細胞を遺伝子検査して調べてもらいました。いまは分子標的薬が複数あるので、遺伝子が合えば使えると。合わなければ抗がん剤や免疫チェックポイント阻害薬になると説明されました。その中で、自分は分子標的薬が適応と分かって、電話で知らせてもらいました。
岸田 適応となる確率って高いんですか。
大島 私が以前見た記事では10%程度と少なかったと思います。
岸田 あまり多くはないんですね。でも、マッチしたということですね。
大島 はい。進行が速いがんなので「見つかったらすぐ連絡します」と言われていて、その日の夕方に電話が来ました。ただ、私は遠方で仕事中だったので翌日病院に行き、治療を始めることになりました。
岸田 翌日から分子標的薬の治療を始めたんですね。
大島 はい。新しい薬で薬局にない可能性もあるので、まず院内薬局から処方されました。
岸田 それは飲み薬?
大島 はい。朝と晩、1日2回の飲み薬です。
岸田 なるほど。それを始めて、次の記録に「1カ月でがんが小さくなる」とありますね。
大島 はい。正直びっくりしました。1カ月で目に見える効果が出るとは思っていなかったので。期待しすぎないようにしましたが、それでも少し希望が持てました。
岸田 肺動脈の血栓も消えたんですか。
大島 検査入院の直後に血液をさらさらにする薬を処方されて、9月には「ほぼ見当たらないですね」と言われました。
岸田 心膜の水も減ったと。
大島 そうです。直接がんが炎症を起こしていたので、それが小さくなって、血液検査でも炎症反応がガクッと下がりました。マーカーも下がって、心膜の水も減ったのかなと。本当に急激に増えていたので、本来なら針を刺して水を抜く必要があると言われていました。でも当時は肺動脈血栓のせいで血液をサラサラにする薬を飲んでいたので、飲み終えるまでは手術できないと。血が止まらない危険があったんです。
岸田 いろんなことが重なっていたんですね。
大島 そうですね。幸い血栓も消えて、これで抜くのかと思っていたら、水も自然に減ってきて。いまは経過観察中ですが、すぐに抜く必要はないと言われています。
岸田 生活には支障は?
大島 全然ないです。
岸田 よかった。
大島 声だけですね。
岸田 声だけか。
大島 はい。声と、あと少し誤嚥があるくらいです。
岸田 誤嚥か…。そこはまだ変わらないんですね。
大島 正直、主治医の先生からは「神経は恐らく修復しないので治らないと思います」と言われています。
岸田 まじか…。
大島 でも、命があるだけありがたいと思っています。
岸田 そうか。10月には、原発や転移のがんも、頭を除いて胸から下ではレントゲンで薄くなってきていたんですね。
大島 はい。頭は今月に撮る予定ですが、胸から下は先月のレントゲンでかなり薄くなっていました。
岸田 まだ残ってはいるけど、薄くなっていると。
大島 そうですね。診断を受けてまだ3カ月ですし。
岸田 ここから治療の途中ということですね。
大島 そうです。
岸田 それで息切れも減ってきた?
大島 はい。小走りしても全然つらくないですし、階段も登れます。ただ、運動は制限するように言われているんですが、軽くはやってしまっていて。そこはきちんと確認しないといけません。
岸田 健康のためであれば問題ありませんが、確認もしなければいけませんね。ありがとうございます。ちなみに、病気に向き合っていく源はなんでしたか?
大島 先出ししちゃいますけど、全ては家族と、仕事は、私、大好きなので、仕事をやりたいからですね。
LINEで妻へ、葬儀の場で両親へ—病名をどう家族に伝えたか
岸田 仕事をやりたいっていう、まさにワーカホリックの特徴ですね(笑)。その源については、後ほど詳しく伺いたいと思います。せっかく写真もいただいていますので、一緒に振り返ってみましょう。これはご家族の写真ですね。

大島 そうです。
岸田 お子さんは3人いらっしゃるんですね。
大島 はい、そうです。
岸田 この写真はいつ頃のものですか?
大島 昨年の春ごろですね。真ん中の子の幼稚園にローカル局のテレビ取材が入って、「面白いお家」として紹介していただいたときの写真です。
岸田 面白いお家(笑)。
大島 たぶん、子どもの受け答えが面白かったんでしょうね。
岸田 このオレンジの服のお子さん?
大島 そうです。そのときに撮っていただいたものです。
岸田 家の様子を映して終わりではなく、子どものインタビュー動画を親が見てコメントする形式だったんですね。
大島 そうです。「お父さんはどんな仕事してるの?」と聞かれて、子どもは普段の仕事を見ていないので「パソコン使う仕事」って答えていました。最後は長男が「弟、成長したと思う」とまとめて、どこから目線だよって(笑)。でもきれいに締めてくれましたね。
岸田 なるほど、そのときの取材の写真なんですね。まだ元気な頃の一枚。
大島 はい。
岸田 では次の写真です。外でお風呂に入っているような写真ですが、これは?

大島 実は、がんが分かった直後に、もともと計画していた家族旅行があったんです。激痛が走った2日後くらいでした。本当はやめる?と妻に聞かれましたが、初めての泊まりの家族旅行で「もしかして最初で最後になるかもしれない」と思って、無理を押して行きました。
岸田 そうか…。
大島 結果、右の顔は死んでますけどね(笑)。
岸田 確かに、目が死んでる感じしますね。
大島 実際、痛みでかなりつらかったです。姿勢によっては本当にきつかったですね。
岸田 そんな家族旅行を経て、そこから治療に入り…次の写真は復活しているように見えます。これはいつ頃ですか?
大島 9月頃ですね。治療が効き始めて、がんが小さくなってきた時期です。
岸田 これは仕事中の写真ですか?
大島 はい。施術着を着ているので仕事をしていたときです。

岸田 ありがとうございます。仕事のことは後ほどさらに深く伺いますね。写真もいろいろご準備いただき、ありがとうございます。ではここからは、いくつかの項目に分けて大島さんにお話を伺いたいと思います。まずは「家族」について。ごきょうだいはいらっしゃいましたか?
大島 一応、弟がいます。
岸田 一応じゃないですけどね(笑)。弟さんと、ご両親もいらっしゃると思いますが、ご家族にがんをどう伝えましたか?
大島 実は、家族旅行の時期に祖母が亡くなりまして。検査入院の日が祖母のお葬式と重なってしまったんです。そこで「早めに言わないと駄目だな」と思い、まだ確定診断前でしたが、親戚にも伝えてほしかったので、「肺がんが疑われていて、その検査入院のため葬式には行けない」と話しました。
岸田 驚かれたでしょうね。
大島 だと思います。葬儀で慌ただしい中で言うのは申し訳なかったですが、きちんと伝えないと混乱すると思って。そこでまず説明して、一段落してから改めて話しました。
岸田 弟さんにはどう伝えました?
大島 直接会えたのは祖母の四十九日でした。そのときに自分の口から伝えました。それまでは親から伝えてもらっていましたね。
岸田 なるほど。ご家族からのサポートはどうでしたか?
大島 落ち着くまでは連絡を控えてほしいとこちらからお願いしました。改めて話したあとは普通どおりでしたが、少しお金を援助してもらいました。
岸田 そうだったんですね。ではご自身のご家族についても。パートナーやお子さんにはどんなふうに伝えましたか?
大島 妻には検査で聞いたことを、会計を待つ間にすぐLINEしました。
岸田 LINEで?
大島 はい。「まず伝えなきゃ」と思って。その後、帰宅してから改めて直接話しました。
岸田 どんな反応でした?
大島 LINEでは「分かったよ。心配だろうけど、何とかなるから大丈夫」と返ってきました。実際に話したときも「お金のことは自分が何とかするから気にしなくていいし、休むときは休んでいい」と言ってくれて。私は無理のない範囲で仕事を続けたいと伝えたら「それもサポートする」と言ってくれました。
岸田 奥さん、かっこいいですね。
大島 本当に頼りがいがあります。鍼灸の学校に通っていた頃は、私がヒモ状態で養ってもらっていたこともありますし(笑)。
岸田 なるほど。ではお子さんには?
大島 最初は「病気なんだよ」と伝えました。特に上の2人は「がん教室」に連れていきました。上の子は中1で理解できる年齢なので「パパはがんだけど、今の状態なら大丈夫」と話しました。真ん中の子にも「病気だよ」と伝え、末っ子はまだ理解できませんが…。
岸田 子どもたちも受け止めてくれていますか?
大島 そうですね。大きく取り乱すこともなく「分かった」という感じでした。
岸田 家族内でコミュニケーションに困ったことはありませんでしたか?
大島 最初に子どもにどう伝えるかは少し悩みましたが、それ以外は比較的円滑にいっています。
妊よう性への影響—がん治療前に知るべき副作用

岸田 ありがとうございます。では次のテーマ、「妊よう性」について伺います。妊よう性とは、子どもを持つ能力のことを指すのですが、大島さんのケースでは何か影響があると説明を受けましたか?
大島 はい。現在服用している薬に、副作用としてその能力が失われる可能性があると説明を受けました。
岸田 そうなんですね。
大島 ただ、うちはすでに子どもが3人いますので、特に問題ないと考えていましたし、「構いません」と伝えました。
岸田 なるほど。きちんと医療者から説明があったのですね。
大島 はい、説明はありました。
治療と仕事の両立—休んだのは20日間、副作用少なく収入維持

岸田 ありがとうございます。では次のテーマ、お仕事について伺いたいと思います。先ほど「すぐ病院へ」「すぐ検査を」と言われたときに、お仕事は休まれたとおっしゃっていましたが、そのときはお客さまに電話して「今日行けないんです」といった形で伝えられたんですか。
大島 そうです。声が出にくくなっていることは皆さんご存じでしたので、「検査・入院が必要になった」と伝えて休ませてもらいました。
岸田 そうでしたか。お客さまも理解してくださったんですね。
大島 はい、そのように対応いただきました。
岸田 ただ、ご自身でお客さまと直接やり取りされるお仕事ですから、不安もあったのでは?
大島 ありましたね。「しょっちゅう休む人に頼みたくない」と思われるんじゃないか、とか。言葉にされなくても、そう感じられるんじゃないかと最初はすごく気にしました。
岸田 なるほど。やはり「来てもらえなくなるのでは」と考えるお客さまもいるかもしれないし、不安になりますよね。
大島 そうですね。もちろん妻も働いてくれてはいますが、治療費は確実にかかります。生活費だけでも大変なのに、それに上乗せになる。妻に全部任せるのは嫌だったので、できる限り以前に近い収入を維持したいと思っていました。
岸田 そこから治療との両立をどのようにされたのでしょうか。
大島 ありがたいことに、副作用はほとんどなくて。感じるのは便秘くらいで、強い抗がん剤のように日常生活に支障が出るものはありませんでした。
岸田 すごいですね。
大島 はい。そのため、トータルで休んだのは20日間くらい。1カ月に満たない程度です。
岸田 なるほど。復職というよりは、その都度休みを伝えて、また通常通りお客さまのもとに伺う形だったんですね。
大島 そうです。「今日休みます」「この日とこの日は休みます」と伝えて、それ以外は伺っていました。必要な方には直接会ったときや電話で事情を説明しましたが、連続で何週間も休むことはなかったので、大きな問題にはならなかったです。
岸田 では、通院日以外はほとんど普通にお仕事されていると。
大島 そうです。もともと研修や別業務で休むことも多かったので、お客さまからすれば「今度は体調の理由かな」くらいに受け取っていただけたと思います。
「あと2年で入るつもりだった」38歳のがん告知—民間保険未加入の50万円負担

岸田 ありがとうございます。では次のテーマは「お金や保険」についてです。先ほど少しお金の話が出ましたけれども、がんの検査を含めて、治療が始まってからどれくらい費用がかかりましたか。
大島 そうですね……ざっくりと50万円くらいです。
岸田 高額療養費制度も利用されたんですよね。
大島 はい、そうです。
岸田 制度の上限に基づいて支払われた結果、今までに50万円くらいということですね。では保険には入られていましたか。
大島 民間の保険は入っていなかったです。
岸田 自営業の方って、入らない方も多いんですか。
大島 人それぞれです。入る方ももちろんいますし、多いかもしれません。私は「40歳になったらちゃんとやろう」と思っていた口で、甘く考えていました。
岸田 なるほど。大島さんは今38歳でしたよね。
大島 はい。
岸田 あと2年ぐらいしたら保険や検診もきちんと、というお考えだったんですね。
大島 そうです。結局、甘かったんです。
岸田 今は50万円を自腹で支払った形ですね。
大島 はい。
全身転移の告知で意識した「死」—がん教育の知識が支えた冷静な受容

岸田 それでは次に「つらかったこと」について伺いたいと思います。体のこと、心のこと、両方あると思いますが、大島さんにとって特につらかったのは?
大島 体では、最初の息切れや咳、それに加えて頭痛・胸の痛み・お腹の痛みが強かったです。あと、気管支鏡の生検は本当につらかったですね。
岸田 気管支鏡の生検ですか。
大島 はい。麻酔をして気管支からカメラを入れてがん細胞を採るんですが、麻酔を吸入するとすぐにむせてしまうんです。でも無理に吸わされて、だんだん眠くなったと思ったら、検査中
に意識が戻る。たくさんの管を入れられて痛いし、咳き込んで止まらない。口や喉を閉じられない状態で、暴れるので危ないからと10人くらいの医師や研修医に押さえつけられました。
岸田 うそ……今どきそんな感じなんですね。
大島 そうなんです。その後3、4日は血の混じった痰が続きましたし、あれはつらかったです。痛みは2日ほどで落ち着きましたが。
岸田 なるほど。心の面ではどうでしたか。
大島 診断を受けたときは衝撃でした。ただ、経験者の方々の話を聞いていたおかげで、状況を理解して比較的落ち着いて受け止められたと思います。
岸田 普通なら「頭や胸やお腹に転移」と聞くだけでパニックになりそうですが、冷静でいられたんですね。
大島 そうですね。転移は一つでも五つでも変わらない、という感覚があったので。諦めに近い気持ちもありました。
岸田 つまり「死」というものを強く意識したと。
大島 はい。ステージⅣと告げられた時点で、覚悟はかなりありました。
岸田 人生でなかなかない覚悟ですよね。
大島 そうですね。でも「やるしかない」と思って治療に臨みました。
反回神経麻痺による声がれと誤嚥—工夫して対応、生活への支障は最小限

岸田 ありがとうございます。では次は「後遺症」について伺いたいと思います。今も声がれがありますが、これは治療による後遺症として続いているものですよね。他にはどんな後遺症が
ありますか。さっきおっしゃっていた便秘くらいでしょうか。
大島 そうですね、便秘といっても、本当に軽いものです。私はもともと快便だったんですが、今はたまに1日出ない日があるくらい。生活には全く支障がありません。
岸田 カミングアウト、ありがとうございます。じゃあ他には?
大島 本当にそれくらいです。あとは声と、誤嚥に気を付けるくらいですね。
岸田 誤嚥については、どんな工夫をされているんですか。
大島 一番危ないのは、水やコーヒーのようなさらさらした飲み物を一気に飲んでしまうときです。変な方向に入ってしまうんですよ。でも、ゆっくり飲めば問題ありません。
岸田 なるほど。逆に飲みやすいのは?
大島 スムージーや、とろみのある飲み物ですね。高齢の患者さんがよく飲まれている「とろみ付き」の飲み物は、実際すごく飲みやすいなと実感しました。
岸田 食事制限などは特にないんですよね。
大島 はい、全くないです。ジュースも炭酸も普通に飲んでいます。
岸田 炭酸も大丈夫なんですね。
大島 はい。むしろ炭酸はむせにくいらしいです。医療従事者の方から「pHが関係している」と聞いたんですが、詳しいことはよく分かりません。ただ、炭酸は誤嚥しにくいと教わりまし
た。
岸田 へぇ、そうなんですね。知らなかったです。
大島 私も詳しくは分からないので、不確かな情報ですが。
岸田 大丈夫です。この「がんノート」をご覧の皆さんは、ここが9割フィクションでできているのをご存じのはずです(笑)。冗談ですが、経験談は本物でも、医療情報は必ず専門機関にご
確認いただきたいと思います。——ということで、後遺症についてのお話でした。
「先回りして配慮してくれた」看護師と主治医への感謝—ストレスなく過ごせた理由

岸田 次はこちら、「医療者へ」というテーマです。感謝の気持ちや要望などがあれば伺いたいのですが、僕としては、なぜ最初の内科の先生は見逃してしまったのかと思ってしまうんです。
大島 ねぇ。
岸田 そう思いません? だって……。
大島 ただ、一応、私も医療従事者の端くれとして思うんですけど、画像って「見ようと思って見る」ものでないと、なかなか見えないんです。しかも、専門医じゃないという事情もありま
すし。私自身、スポーツトレーナーとして整形外科の画像をよく見せてもらうんですが、「ここが怪しい」と意識していないと見落とすことは多いんですよ。
岸田 なるほど。
大島 画像を見るにも訓練が必要なんです。なので、自分としては仕方ない部分もあると理解しています。
岸田 ええ人過ぎますよ。だって、あれだけ転移していたらと思ってしまいます。
大島 もちろん思います。ただ、レントゲン一枚でも、条件が少し違うだけで見え方が変わりますし。気持ちとしては残念ですが、批判はできないなと思っています。
岸田 そうか。では逆に、感謝していることや要望はありますか?
大島 入院したときの看護師さんたちは、とても気を遣ってくれていました。ものすごく優しい、というより「先回りして配慮してくれる」という感じで、それがすごくありがたかったで
す。たった1泊2日の入院でしたが、落ち込まずに過ごせました。
岸田 なるほど。
大島 主治医の先生も、とても丁寧に説明してくれました。もしかすると私より若いくらいかもしれないんですが、日程の調整も含めて「どうすればやりやすいか」を考えてくださって、本
当に感謝しています。
岸田 先回りしてくれるって、大きいですよね。
大島 はい。何でもやってほしいわけではないんですが、「ストレスなく過ごせた」というのが一番大きかったと思います。
「40歳を待たずに検診へ」38歳でがん告知-先延ばしの危険性

岸田 ありがとうございます。続いては「過去の自分へ」というテーマです。あのとき、こうしておけばよかった、という後悔や、もし過去に振り返れるなら、どんな言葉を投げ掛けたい
か。大島さん、いかがですか。
大島 がん教育を目指していたのなら、40歳を待たずに、きちんと検診に行きましょうって言いたいですね。
岸田 自分の検診を、ということですね。
大島 はい。検診に行っていれば、たとえ何も見つからなくても、それを経験として話せるじゃないですか。「こういうふうに受けられるんですよ」と伝えられるし、自分にとってもプラス
になる。だからやっぱり、行っておいたほうがよかったと思います。
岸田 なるほど。でも、そこって難しいですよね。国の推奨は40歳以上からって言われてますし。
大島 そうなんです。だから結局、難しいなと思って行かなかったんですよね。
岸田 そうですよね。メリットとデメリット、両方ありますからね。
大島 はい。だから今だからこそ言えることです。
岸田 つまり、当時でいうと「検診か人間ドックか、何かしら受けておけばよかった」っていうことですね。
大島 そうです。私は自営なので、検診を自分で受けに行かない限り、機会がないんですよね。
岸田 ああ、会社のように自動的に受けられるわけではないと。
大島 そうなんです。だからこそ、もう少し意識を持っておくべきだったなと思います。
患者体験が与えた「財産」—医療従事者として、人として深まった共感力

岸田 ありがとうございます。では次のテーマ、「Cancer Gift」です。がんになって、つらいことや大変なことも多かったと思いますが、あえて「得られたもの」にフォーカスするとしたら、
どんなものがありましたか。
大島 自分の立場として、一応は医療従事者の端くれでもあるので……。
岸田 いやいや、「端くれ」なんてことないです。立派に医療従事者ですよ。
大島 ありがとうございます。その中でも、「当事者」という目線を持てたことは、やはり大きな財産になると思います。もちろん、全く同じ経験をした人なんていないので、単純に「分かり
ます」とは言えないんですけれど、それでも上辺だけではなく、「分かります」と伝えられる自分になれたかなと思います。
鍼灸師、医療者、そして当事者として—健康リテラシーを広める未来への夢

岸田 ありがとうございます。では次のテーマです。「夢」や「目標」について。大島さんは今後、どのように考えていらっしゃいますか。
大島 自分の経験を活かして、子どもにも大人にも、がんに限らず健康や病気の予防について発信していきたいと思っています。病気のない世の中とまでは言いませんが、防げる病気は防げ
るように。そうした意識を持つ人を少しでも増やせるような活動をしたい、そういう思いがあります。
岸田 「仕事をしたい」というのは、鍼灸師をやめるということ? それとも鍼灸師としてでも?
大島 鍼灸師としてでも、医療者としてでも、そして当事者としてでもです。自分の経験を踏まえて、がん教育や健康教育に関わりたいと思っています。実際に、地元の養護教諭や先生方の
集まりの研修会などで講師をさせていただく機会もあるのですが、そうした場で「健康リテラシー」を高めるお話をさせていただいています。そこに今回の経験もつながってくるはずなんで
す。当事者の声が入ることで、より伝わるものがあると思いますから。
岸田 なるほど。
大島 だからこれからも、健康や体、病気の予防にもっと意識を向けてもらえるように、伝えていきたいです。そうした活動を広げていくことが、自分の夢ですね。
2018年開業から2025年治療中まで—7年間のペイシェントジャーニー

岸田 ありがとうございます。次は「ペーシェントジャーニー」です。大島さんがどのような経過をたどってきたのか、感情の起伏も含めて振り返っていきたいと思います。まず鍼灸院を開
業されたところから。こちら、青色がネガティブ、赤色がポジティブという形で表現されていますが、開業のスタートがネガティブになっています。これはどういうことでしょうか。
大島 私はもともと独立志向がなかったんです。でも、社長と喧嘩してしまって。「これ以上、勤めていても成長できない」と感じて、仕方なく独立しかないという選択をしました。なので、
最初は少しネガティブな気持ちからのスタートだったんです。
岸田 なるほど。今では立派に続けられていますが、当初はそういう経緯があったんですね。
大島 そうなんです。
岸田 続いて「看取る」というところがポジティブに書かれています。これはちょっと怖い解釈じゃないですよね?
大島 (笑)いえいえ、不謹慎にならないように説明しますと、もちろん患者さんが亡くなられたのは悲しく、寂しいことでした。でも、その方々が生き方を教えてくださったんです。それ
が私にとって次の目標に進むエネルギーになりました。だから振り返るとポジティブな経験だったと捉えています。
岸田 なるほど。患者さんたちから教えをいただいたということですね。
大島 はい。
岸田 その後は、がん教育の外部講師を目指されて、図書館でのイベントに参加。そして、咳やむせ込みが続き、声がかれて耳鼻咽喉科を受診。「声を出し過ぎないように」と言われた。その
後、内科を受診しても異常はなく、再度耳鼻咽喉科で診てもらうと「反回神経麻痺の可能性」と診断され、総合病院を紹介されて受診。そして最終的にステージⅣの告知を受けることになり
ます。ここでグラフが「真っ白」になっていますが、これはポジティブでもネガティブでもないということですか?
大島 そうですね。受け止めきれていなかったのかもしれませんが、少し引いた視点で自分を見られていた感覚がありました。だからどちらとも言えない、真っ白な気持ちだったんです。
岸田 ありがとうございます。その後は、激しい痛みが出て、検査入院で肺動脈の血栓や心膜に水が溜まっていることが分かる。さらに遺伝子検査の結果、分子標的薬が適応となり、薬物療法を開始。効果が目に見えて現れ、腫瘍が小さくなり、現在は画像上でも薄くなっている。そうした流れですね。補足はありますか?
大島 いえ、ほとんどこの通りだと思います。
岸田 ありがとうございます。ではここで、視聴者の方からのコメントもご紹介します。Jさんから「最初のレントゲンではなぜ写らなかったのでしょうか」といただいていますが、これは先ほどのご説明にもありましたね。「見ようと思って撮らないと見えないこともある」というお話。
大島 はい。私はそう解釈しています。
岸田 そう解釈されているということは、真相はその内科医しか分からないのかもしれませんね。Aさんからはこんなコメントをいただいています。「私の父は3月の人間ドックで異常なしでしたが、9月から息切れや味覚障害が出始め、10月に体調が急変して救急搬送され、ステージⅢの肺がんと診断されました。覚悟してくださいと言われ、その後、息を引き取りました。建築士として最後まで働き、立派な86年の人生でした。大島さん、父の分も元気に明るく生きてください。」
大島 ありがとうございます。
岸田 続いてCさんからは、「8月にお風呂場でめまいを起こして尻もちをつき、腰にひびが入りました。検査で骨転移が見つかり、本日、放射線治療を終えて退院してきました。乳がん再再発治療も待っていますが、大島さんのように笑顔で乗り切りたいと思います」といただいています。患者さんも見てくださっていますが、大島さんから何か一言ありますか?
大島 正直、私の経験は皆さんに比べればつらさも少ないと思います。先ほど「分かります」と言いましたけれど、実際には到底言えないような厳しい経験をされている方も多いと感じます。それでも、どんな状況でも必ず希望はあると思うので、今つらいときもあるかもしれませんが、できる範囲で笑顔を意識していただけたらと思います。私自身も笑顔を意識して出すようにしていますので。
岸田 笑顔を意識的に出されているんですね。
大島 そうです。
岸田 では、今まで僕たちが見てきた笑顔は「作られた笑顔」だったんですね(笑)。冗談です、すみません。失礼しました。そんな中でQさんからは、「あの拷問のような生検、本当に怖いですよね」と。そしてHさんからは、「声がれや誤嚥、便秘などをご自身で鍼やお灸で緩和されていますか?」と質問をいただいています。鍼灸師として、ご自身でもやってみたりされるんですか?
大島 痛みに関しては、お灸が効いたことがありました。眠れないときにお灸をしたら少し楽になって眠れたんです。
岸田 すごい。じゃあ、自分で緩和のためにやることもあるんですね。
大島 はい。ただ、便秘については症状が軽いので、そのままにしています。
岸田 本当に大変なときはお薬を使ったり、お灸で補ったりされるということですね。
それからコメントで「大島さんの笑顔がすてきです」とか、「今ここに大島さんがいること自体が希望の象徴です」という言葉もいただいています。
大島 ありがとうございます。
岸田 「希望の象徴」だそうです。そして「健康リテラシーのお話、心に留めておきます。なんと自然体で素晴らしい」という声も。大島さん、大絶賛のコメントがたくさん届いていますね。
大島 本当にうれしいです。ありがとうございます。
「遠慮なく欲張ろう」—闘病中のあなたへ贈るメッセージ

岸田 それでは、もうお時間も少し過ぎてしまいましたが、最後にこの言葉で締めくくりたいと思います。「今、闘病中のあなたへ」ということで、大島さんからいただいたメッセージをご紹介します。では、大島さん、読んでいただいて、その理由もお聞かせください。
大島 はい。「遠慮なく欲張ろう」です。がんというのは、もしかしたら命に関わるかもしれないし、生活に制限がかかることも多いと思います。でも、その中でも「やりたいことはやってほしい」。それが一番の元気につながると、私自身が今、身をもって感じています。だからこそ、遠慮せずに、欲張って生きてほしいし、私自身もそうしていきたいと思っています。この言葉を選びました。
岸田 なるほど。皆さんも遠慮せず、どんどん欲張って、治療にも取り組んで、そして生活も謳歌してほしい、ということですね。
大島 はい。
岸田 ありがとうございます。これにて「がんノートorigin」も終了となります。大島さん、実際にこの90分を振り返って、どうでしたか?
大島 実はずっと緊張していました。
岸田 最後まで変わらなかったんですね(笑)。
大島 でも、ずっと楽しかったです。
岸田 楽しかったんですね。
大島 はい。
岸田 「笑顔がすてき」とたくさんコメントもいただきましたしね。
大島 ありがとうございます。これからは、その笑顔を自覚して大事にしていきたいと思います。
岸田 ぜひそうしてください。ありがとうございます。
大島 ありがとうございます。
岸田 それでは、これにて本日のライブ配信を終了いたします。ご視聴くださった皆さん、本当にありがとうございました。また次の配信でお会いしましょう。バイバイ!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。