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インタビュアー:岸田 / ゲスト:須藤、園田

岸田 きょうはインクルージョンフェス・トークイベントの中で、がんノートのトークを行います。まずは須藤さん、自己紹介を。

須藤 須藤修司と申します。私のがんは大腸がんでステージⅠです。2018年5月から闘病を開始しました。人間ドックで血便が出て、慌てて病院に行ったらがん宣告をされた次第です。がんノートはネットでずっと見てました。

須藤 私は丸井グループの社員でして、今回は2019年インクルージョンフェスという今年で3年目になるイベントを、ダイバーシティ、イコール多様性というところでがんも多様性があるというのを示したかったので、今回のイベントを開催する流れとなりました。

岸田 もう一人のゲストにマイコさん。

園田 園田マイコと申します。モデルをしております。2008年、乳がんのセルフチェックで発覚しました。今年で乳がんは罹患して10年で、一応治療は全て終わり区切りがついたんですが、子宮のほうでまだ検査中なので経過観察中の状態です。

【発覚】

岸田 まずモデルのマイコさん、発覚から話をお聞かせいただけますか。

園田 私の母も乳がんに罹患していたので、30代ぐらいの頃から、自分で胸を触るようなことは月に1回ぐらいはしていました。2008年秋、お風呂入ったときに胸を触っていたら、左胸の乳頭。

園田 乳首の真下ぐらいに、なんか硬いものがあるなと思って、すぐお風呂から出て、乳房、しこり、と検索をしたら、乳がんの可能性、または乳腺症というのが出てきて、すぐ病院に行きました。病院に行って、マンモ、エコー、針生検といろいろ検査をして、診察室に戻ったら「95パーセント大丈夫だ」と先生から言われたんです。

園田 しこりを見つけた瞬間から不安でしょうがなかったけど、先生の「大丈夫だよ」って言葉で救われた。でも1週間後に病院にまた行ったら乳がんですと言われて、その言葉を言われた瞬間、頭が真っ白、目の前は真っ暗になり、先生のお話も全く入ってこなくなった。

園田 途中途中で、乳房全摘とか、そういう言葉だけがピックアップされて聞こえて、私、死ぬんだ、どうしようって、そんな感じでした。

岸田 その後、セカンドオピニオンと書いてありますが。

園田 最初の先生とは相性が合わなかった。1日に何人も患者さん診て、先生にとってがんは日常のことだと思うんです。でも私には初めてのことで、もっと先生にケアしてほしかったのに、突き放された印象を受けました。

園田 家族や事務所に相談して、セカンドオピニオンを聞きに行くことにしました。最初の病院はしこりを見つけてすぐにいったかかりつけの婦人科で紹介してくださった病院で、セカンドオピニオンへは知り合いの紹介で行きました。

園田 セカンドでも全摘で、乳がんという結果は同じだった。ステージとしてはⅡになるちょっと手前。ご縁があって家族から、ここがいいんじゃないかという病院でサードオピニオンを取ることにしたんです。

園田 ここで私の主治医になる先生との運命の出会いがあった。どきどきしながら診察室で待っていたら、その先生がカラカラってカーテンを開けて、すごい優しい笑顔で、「大丈夫だよ」と。その笑顔や優しさがあふれている言葉、全てに感動して、この先生にお任せしようって思いました。

園田 このサードオピニオンでも最初は「全摘だ」と言われてたので覚悟はできていましたが、全ての検査が終わって先生から「今回は温存でいきましょう。今回は温存でも全摘でもリスクは変わらないから」っていうことで最終的に温存することになったんです。

園田 温存手術を受けて、3月から抗がん剤スタートし、4クールを4回やりました。3週置きにやるんですけど。1回目から2回目は3週置いたんですが、3週だけだと白血球の数値がちょっと低過ぎて点滴ができないということで、3回目、4回目は4週空けました。3月の末からやって6月までなので、2カ月ちょっとやっていた。

園田 抗がん剤は終了後は放射線を。乳がんのタイプが浸潤のがんで、ホルモンも効く、抗がん剤も効く、いろんなものが効くタイプのがんだった。ただ、がんの顔付きが悪いと言われていたので、抗がん剤はやりました。

園田 放射線治療には毎日行きました。月曜日から金曜日まで。土曜、日曜、祝日お休みで。19回行きました。毎日毎日同じ時間に行って放射を数分うけました。

岸田 放射線治療が終了してから、分子標的薬がスタートということになります。分子標的薬も、大きなくくりでいうと抗がん剤の一種ですけれども比較的、抗がん剤よりも副作用は少なく、その病理組織だけを攻撃するような意図で作られているものですよね。

園田 私のがんの中にHER2があったので効くんじゃないかと。私、10年前にもやってるんですけどその頃まだ新しいお薬だったので高かった。一応保険は利いたけど、1回が5万円くらい。

園田 身長とか体重とかで量が決まってるんで人それぞれですが、私は大体5万円、6万円でした。3週置きに1年間、大体19回ぐらいやりました。その後はホルモン治療をスタート、私は5年間の服用だけでした。

岸田 今のホルモンのガイドラインでは10年ですよね。当時は5年までホルモン治療すればいいというものだったんですけれどもガイドライが変更されて、タイプにもよりますけれども、10年治療しないといけない方もいらっしゃる。

園田 ホルモン治療の副作用は、更年期っぽい、ホットフラッシュとか。急に熱くなって、だあって汗が出て数分で治まる。そういう症状に悩まされました。

岸田 2010年にハーセプチン分子標的薬を終了し、そして2013年、子宮がん検診。

園田 しばらく子宮がんのやってないなと思ったので区の子宮がんの検診に行きまして受けたんです。体がんと頸がんの検査をやった。体がんは大丈夫だったんですけど、頸がんがちょっと引っ掛かりまして、ごりっと細胞を取って精密検査で行ったら、これですよと言われました。

園田 まだ軽度で、乳がんのときよりはショックも小さかった。その後頸部を取る円錐切除手術をして経過観察に。取ったけど、まだ分からないですから。手術から5年たっているけれどもまだまだ経過観察で、3カ月ごとに病院に行って、細胞を取ってやってたんです。

園田 去年ホルモン剤の治療は終了しましたが、ずっと経過観察をしていた子宮頸部に、今度は高度異形成という、子宮頸がんの一歩手前の診断を受けました。手術することしかできないんですけどこのまま置いといたらがんになる可能性があるので取らなきゃいけないよと言われて。

園田 子宮は取るけれど、卵巣はどうしますかと先生に問われて、私には息子が1人いまして、子どももいるし、乳がんで抗がん剤もしていて、もう卵巣はほぼ機能していない。年齢的にも閉経近かったし、今後の卵巣がんへのリスクを考えて、子宮と卵巣の全摘を決め、去年腹腔鏡で取り今に至ります。

園田 体調はいいんですけど全摘をしたにもかかわらず、この前を検査をしたら、まだ、頸部のほうに軽度の異形成が見られるっていうことで、今またやってるんです。

岸田 まだ続きそうですね。大丈夫なことを祈ります。

【発覚】

岸田 次は丸井のショップマネジャーの須藤さんです。まず発覚から。2018年、去年ですね。

須藤 去年、会社のドックでE判定がありました。Dまでが普通で、Eは僕も見たことなかった。40歳以降、人間ドックは毎年受けてたんですけど、E判定だとすぐ再検査受けないといけない。でもちょっと面倒くさかったので、ほったらかしにしてました。E判定の内容も、それでも健康だと思ってたので見なかったんです。

須藤 血便検査で陽性で2回引っ掛かっているといった内容だったので、多分痔を持ってるからだろうって、勝手な判断をしちゃって。泌尿器科とか行きづらかったんで、すぐ行きなさいよって先生に言われたのに、ほったらかしにしていたんですけど排便のとき違和感があったので消化器系のクリニックを受診しました。なんかちょっと違うなって、虫の知らせがあったので。

須藤 1回目、先生に診断書を出したら、取りあえず内視鏡の予約をという話になり、予約をしてすごいまずい2リットルの液体を朝からずっと飲んで、全部のものを出した後に検査に行きました。麻酔を打たれて、寝っ転がってお尻から入れられて画像を確認していると、最初はにこやかだったんですけど、なんか赤いハートマークの物体があってそのときはがんとは思わなかった。

須藤 がんって黒いものだと思ってたんで、赤いから大丈夫だと思ったんです。なんかポリープみたいのがあるぐらいの感じでした。病理検査で細胞を取ることになり、赤い、ちっちゃいハートマークみたいなやつの周辺をちょっと取って、大学病院のほうに提出して1週間後、「すいません、もうちょっと時間がかかる。もうちょっと細かく検査しないと駄目になった」と。

須藤 僕はポリープだと思っているんで、ちょっと怪しいなと思い始めてその1週間が一番おびえてるときでした。でも僕はがんだとは認めたくなかったんでその段階でもポリープだと信じていた。1週間後、奥さんと2人で病院に行くと、先生のテンションが違い、「言いにくいんですけど、須藤さんは大腸がんです」と。

須藤 「腫瘍を取ってみないと、病理検査では詳細は出ないのでステージはまだ確定してないんですが、取りあえずはがんです」。そのとき初めてがんだと言われて、先生に聞いた質問が二つあって、一つは、「悪性ですか、良性ですか」って聞いたんです。もう一つががんって言われたら、僕は死ぬんだと思ったので「先生、僕、余命はどのぐらいなんですか」と聞きました。

須藤 言われたときはすごいショックで手がちょっと震えました。今まで自分ががんになるなんて思ってもなかったし、自分はならないと勝手に思ってたのでその自信がぼろぼろと崩れて、家族をどうしようか、子どももいるし、どうなってっちゃうんだろうって、すごく悩みました。

須藤 大腸がんっていってもいろんな種類があって、私のがんは肛門から入ってすぐのS字結腸っていう入り口のがんでして、奥のほうだと、血便とかで出ないそうなんですけど、私は運よく、手前側のS字結腸というところががんだったので分かったということですね。

須藤 2018年5月、病理検査でステージⅠからⅡかもしれないと先生から言われて、内視鏡手術じゃなくて、今度は腹腔鏡の話になったんです。

須藤 腹腔鏡の手術でS字結腸だと30センチをカットしなければいけないので、須藤さんは一生、人工肛門になるみたいな話があり、人工肛門になると、障害者手帳がもらえて、障害者扱いになるとか、オストメイトがどうだとか、先生がずっと語り始める。

須藤 僕にとっては、何も知らない言葉をいきなり言われて、先生は淡々と話されて、先生との相性っていう話がさっきもありましたけど、その先生は質問には一切答えないみたいな感じだったんで、ちょっと寂しいなと思いました。

須藤 結果はⅠだったので、内視鏡手術のままでいいことになって、内視鏡の手術で取りました。大腸がんは他のがんとちょっと違って、大腸っていうのは、基本その場所の、内視鏡の手術で全て取り切ってしまうと、同じ箇所から生えてくることってあまりない。治療というのが実はあまりないんです。

須藤 リスクが高いのは他の病気の併発で、大腸がんで死ぬ人っていうのは、ほぼほぼいないといわれています。再発するのが肝臓と肺っていうところが多いので、二十何年間吸っていたたばこを本当にやめまして体重が10キロ増えました。薬とかの服用っていうのもなくて食べ物もお酒とかもそこまで規制はされないでいる状態。

須藤 1年に1回は必ず内視鏡の検査を受けてっていうのを5年間は必ずやってくださいっていうので今は止まってます。内視鏡のときに全部取ってるから、今は大丈夫と思っていたんですが、今年3月の人間ドックで、また違う箇所が引っ掛かってまして。

須藤 まだ今、経過観察、確認中なんですけど。肝臓の所に何かが。数値的に、急にγ-GTPとかの数値が、お酒の量とか変わってないのに上がってたり。肝脂肪の恐れもあるとは言われてるんですけども。がんの影響っていうのはまだ確定していないので、今は肝臓のほうの検査を。笑って言ってますけど、結構深刻。またご報告させていただきたいと思います。

【仕事】

岸田 ここからもう少しトークを深掘りして、仕事について。マイコさんは当時モデルをされていたということですけれども、お休みから復帰までをお話しいただけますか。

園田 モデルって会社勤めではないので、仕事も入ればやるんですけどそれ以外はお休み。がんって宣告されてからずっとお世話になっているクライアントさんには全てお話しました。

園田 乳がんを宣告されて、もしかしたらしばらくお仕事ができない。なぜなら抗がん剤をやることになったから髪がなくなってしまうから、とお話したら「じゃあ、戻ってくるまで待っています」というところが結構多かった。

園田 抗がん剤は4回やったんですけど、2回目ぐらいで自分の体調って大体分かってくるんです。この時期だったら安定して仕事できるなとか。抗がん剤の前にウィッグをいくつか買っておいたので、「もしそれでもよかったら、体調と相談しながらなんですけど、できたらお受けします」とクライアントさんに伝えたら、「じゃあ、ぜひお願いします」と。

園田 なので、病気になったからもう仕事できないということではなかったんです。私がなぜカミングアウトしたかというと、本当に恩人だと思っている乳がんの先輩がいて、その方は美容ジャーナリストをされているんです。

園田 私がレギュラーでやっていた雑誌のパーティにその方がいらしてて、坊主頭で、黒のワンピース着ていたので、どうされたんですかって聞いたら、「乳がんになって、抗がん剤やって、坊主になっちゃった」って笑ってた。そのときはまだそれから7年後に自分ががんになると思っていなかったので、「そうなんだ、大変でしたね」って。

園田 でも自分ががんになったときは、その人にまず相談しました。病気になってこの人にも助けられたし、他にもいろんな方の体験談の本を読んで頑張ろうっていう気持ちになったので、私も、誰かの力になれるんだったらカミングアウトしようと思ったんです。

岸田 そこからどう復帰していくんですか。

園田 仕事をちょっとずつやっていくうちに自分の髪が伸び始めたので、いつの間にか普通に仕事を受けていました。抗がん剤中もやっていたし、手術してから抗がん剤まで数週間あったときにもやって。

園田 抗がん剤がスタートしてから2回目ぐらいまで様子が分からないからずっと家にいたんですけど、体調が戻ったときにはカメラの前に立ってやってました。昨年も子宮頸がんの手術をしましたが、仕事は2、3週間後ぐらいからまた始めました。子宮は乳がんの手術に比べたら期間も短かったですし、体の負担も小さかったのですぐに復帰しました。

岸田 今は仕事しながら、がんの治療もされてる方って、だいぶ増えてきました。がんと就労については厚労省もサポートを推奨していますし、今はそういう時代なんですね。仕事と治療をうまく両立してやっていくのに何かポイントありますか?

園田 自分の体と相談するっていうのがもちろん大事。仕事をしていると心が元気になるというか、生きがいなので。それをゼロにするっていうことは私の中ではないですね。体調を見ながら、相談しながらっていうのが、一番大事だとは思います。

岸田 須藤さんの場合は、がんと宣告されてから、会社にどう伝えましたか。

須藤 最初は隠しとこうと僕は思っていました。公言する必要もないし、見た目では分からないから言わなくてもいいかなと。仕事は好きなんで、仕事ができなくなるのが一番嫌だったので、仕事に影響がないよう手術もしようとたくらんでいた。

須藤 最初は会社にも、ここで働いてる仲間にも言わなくてもいいかなって思っていました。手術後、ちょっと出血があったり、重いもの持っちゃ駄目だと言われてたりもしたんですけど持ったり、普通の自分でいるほうがいいかなって思ってたんです。

須藤 今まで大酒飲みでたばこも1日20本以上吸ったり、当たり前のように悪いことばっかりしてたので、そういう人を増やしちゃいけないと思ったし、今後僕と同じような悩みを持つ人もいるだろうから、がんになる可能性があるということを伝えてあげることが先輩として大事かなと思った。

須藤 会社にはがんでもしかしたら長期でお休みいただかなきゃいけないと。今、健康経営っていうのをうちの会社も進めていて、みんな健康に気を使ってるんです。がんにならない、病気にならないために健康経営をして、もっと生き生き働こうぜって会社は言ってるのに、病気になってしまった。

須藤 だけど、生き生き働けるんだということを見せることが、僕としては会社に対する恩返しと思ったんです。先輩からは「会社の意識の啓蒙につながるスピーカーになれる」って言われて、なんかそれで吹っ切れて、だったらがんで重い軽いは別としてこういうふうになって困ったときに相談できる人になれたらいいなと思った。

須藤 がん経験者でも仕事を頑張りたいし、健康じゃなければ仕事ってできない。体の健康も大事だし、心の健康も大事。たばこは自分ではやめられないって決め付けて、何回か禁煙をしてみようかなと思ったこともあったんですけど、がん宣告を受けるとやめますね。

須藤 大腸がんの次は肝臓か肺っていわれてるので、先生にも「たばこ吸ってるならリスクを減らすためにはやめないと駄目だよ」って言われて、死の恐怖があったらやめました。

【お金・保険】

岸田 次にお金・保険について。

園田 私は20代後半から女性のがんと、普通の一般的ながんの二つ入ってたので全て保険で賄えました。

岸田 治療だけじゃないですからね、お金が必要なのは。仕事がお休みになるので、養育費に充てたり生活にも充てないといけないので、がっつりあったほうがいい。須藤さんはどうですか。

須藤 30歳ぐらいになったときに、たばこを吸うからがん保険には入った方がいいと奥さんから言われたので某保険のほうに入ってました。若い頃って、保険ってよく分からないから、ずっとがん保険には入ってなかったんですが、家庭ができたときにがん保険に入ってたので、今回は保険が出ました。

須藤 がんと診断された一時金と、手術給付金っていうので出ました。内視鏡手術の場合、検査だけだと、何もリスクがなければ、大体2万円前後ぐらいでできるものなので皆さんに比べるとお金がそんなにかからない。その後も通院はするので、小遣い程度は必要ですけれども。

【家族・こども】

岸田 家族・子どもについて。ご家族にどのタイミングでカミングアウトしましたか。からどういうサポートがあったのか、どういうことがうれしかったのか。もしくは、こういうサポートがあったらよかったなとか。まずは家族構成から教えてください。

園田 当時の家族構成は息子と元夫と義母、そして実母。私の母も乳がんでずっと病院に入ってたんですけど、母には抗がん剤が始まるちょっと前にがんだと伝えました。母に言えた瞬間から、何となく肩の荷が下りました。

園田 母もフルコースで治療していたので病気に関して話し合える関係になれました。子供は当時中学校2年生で、多感な思春期。反抗期もあるから家でよく話しする感じでもなかった。

園田 病院から帰っておうち着いたら、いつもはそんなことないのに、玄関先に出てきてくれて「パパから聞いた」って。乳がんだと言われて夫にすぐ電話したんです、大泣きして。それを息子に伝えていたみたいで「パパから聞いた、これからママをサポートしていくから、大丈夫だからね」って、抱きしめてくれたんです。

園田 家に着くまで、言おうか言うまいか迷ってたけど、息子には本当のことを伝えようと思って、伝えました。抗がん剤の1回目も息子に付き添いを頼んだんですけど、2回目からは1人で行きました。

岸田 サポートではどういうことがうれしかったりしますか。一緒に付いていってくれることとか、それとも話を聞いてくれることとか。

園田 そういうこと全てですね。そばにいてくれてるだけで安心する。何か、変に話そうとかじゃなくて、ただそこにいるっていうのがありがたいです。独りじゃないなとか。それは、彼も息子もそうですけど、友達もそうで。女友達も、ただそこにいてくれてるっていう、その存在がありがたいですね。

岸田 須藤さんの場合は奥さまとお子さまもいらっしゃいますよね。

須藤 奥さんと息子がいますし、奥さんがたのご両親も私の両親も健在です。大腸がんと分かったとき、ご両親には心配させたくなかったのであえて伝えなかった。

須藤 今はだいぶ落ち着いてきて、経過観察になってるので、今になってから「実はね」という話はしました。親に対しても自分からがんになった話をしました。反応は同じで「え、がんなの?」「なぜ黙ってたの」みたいな感じになって、言わなきゃよかったなと思いました。心配させたくなかったから。

岸田 僕もそうでしたけど、親とかがパニックになって、これがいいんじゃない、あれがいいんじゃないってなって色々言ってくるほうが患者としては結構苦しくなってくる。言わない選択肢っていうのもありかなと確かに思います。奥さまの反応は?

須藤 一緒に検査に行ったので、最初に宣告を聞いた時、妻はかなりショックを受けていました。多分、僕よりも。だから僕が逆に家族を手伝わなきゃなって思いました。いつも一緒に生活をしてて、いるのが当たり前だと思ってたのが、急にそんなことを宣告されるとお互いに思ってなくて。

須藤 僕もショックはショックだったんですけど。彼女のほうが僕よりも数倍ショックを受けて、話してくれなかったりとか、夫婦で会議が繰り広げられたりとかその時はちょっと変な感じでしたね。

須藤 妻は明るい人なのでなってしまったものは仕方ないと言って、いろんな情報を集めて、その先生が正しいのかとか、セカンドオピニオンとかも取れるっていうのを調べてくれた。彼女のほうが自分の病気みたいに思ってくれて、色々調べてくれました。

須藤 子供は今は小学校5年生、そのとき4年生だった。仕事中は元気にしてたんですけど、家とかではいろいろ考えることがあって正直言うと元気がなくて、いろいろ考えて本当に寝れない日ってあるんだなって思うぐらい、へこんでたときもありました。

須藤 すると息子が気付いて、ゲームをやりながら「お父さん、最近元気ないけどどうしたの」っていったので「お父さん実はがんでさ」って言ったら、「お父さん死んじゃうの?」というんです。小学生にもなると名前ぐらいは知ってても、どうなってしまうかは分からなかったので、その後一緒に勉強しました。

須藤 そこで学ぶっていうことも大事かなと思って「こういう病気もあるんだよ。でも、生き方って、こんな生き生きしてる人、いっぱいいるんだよ」みたいなのが伝えられたのでよかったなと思います。

【辛い/克服】

岸田 闘病中、発覚してから今まで、精神的肉体的につらかったことやその克服といったお話を。どのタイミングが一番つらかったか、それをどう克服していったかっていうのをお聞かせください。

園田 一番つらかったのは、一番最初の乳がんですっていう宣告の言葉ですね。あのときが精神的に一番やられました。肉体的には抗がん剤かな。いろんな副作用が順番にやってきて、それを4回、毎回毎回乗り越えていったところがつらかったかな。

園田 でも、抗がん剤以上に、手術する前の検査で、何回かした生検、針生検も、麻酔が効いてなくって、ぐりぐりって入って次の日とか結構青あざになってたりとかして、あの痛みはきつかったなと、今、思いました。

園田 ホルモン剤も5年間、毎日1錠ずつ飲んでいくんですけど、ホルモン剤はシートに1錠ずつに日にち書いてそれを見ながら、きょうは飲んだ、あと何シートだとか、一日一日、ちゃんと過ぎていくのを確認して。カレンダーを見ながら来週、何とかがあるって、体の変化と共に一つずつ終わっていくっていうのを目標にしていました。

園田 最後のホルモン剤もいつもより丁寧に飲んでみたり、最後の治療の最終日には、これで一つの治療が終わったなとしみじみ噛みしめて、カレンダーを見て、あと何日で終わるなと目標もって治療を乗り越えました。

岸田 須藤さんは?

須藤 つらかったのは、ならないと思ってたがんになったと宣告されたときの夜。昼間、宣告されたときは、いろいろ考えちゃってて、びっくりしたぐらいだったんですけど、その夜が一番つらかったですね、精神的には。

須藤 誰もいないで目を閉じたとき、閉じても寝れないんですけど、すごい一番いろんなことを考えて、そこが一番精神的につらかった。肉体的に一番つらかったのは内視鏡検査のための、あのドリンクの味。内視鏡を入れられるのは別にいいんですけど検査のために飲むあれが本当にまずい。

須藤 この世のものとは思えないぐらいの液体を水をチェイサーにして、2リットル。あれが一番、肉体的にはきついです。本当はいろいろ精神的につらかったんですけど、私には妻、家族がいて彼女たちに落ち込んでいる姿を見せるのがよくないなと思ったんで、常に笑顔で楽しくしよう、がんのくせしてって言われるぐらいまでになろうと思ってたのを決めてたんで、今、克服できてると思います。

【夢】

岸田 今後どうしていきますかという、夢、目標。来年とか、2020年に向けてとかでもいいんですけれども。

園田 私、将来何になりたいとか、そういうの全くなくって。ただ、今を毎日、丁寧に過ごしていきたいっていうのを常に考えてはいるんです。

須藤 こうありたいな、みたいので言えば、僕は病気になって、人のためになんかしたいなって思い始めてるのがすごいあって、誰かの役に立つ存在でありたいとは思ってます。そしてその結果が、このインクルージョンフェスなんです。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 最後に今、闘病中のあなたへ。マイコさんからお願いできますでしょうか。

園田 これ、自分用にも当ててしまったんですけど、ご苦労さんでした、よく頑張ったね、と伝えたいです。あと、今治療されている方には、ご苦労さんって、大丈夫だよって伝えたいです。宣告から10年プラス、つらいこともたくさんあったけど、私、よく頑張ったなって。

園田 まさか自分ががんになると思ってなかったし、人生って山あり谷ありだけど、それもまた人生の勉強になってるなって思う。これからも多分またそういう状況がやってくると思うんですけど、人生楽しもうって常に思っているので、取りあえずはご苦労さんっていう言葉を、私自身にもあげたいです。

須藤 私は、頑張ろうぜとか本当は言いたかったんですけど、みんな頑張ってるので。私も含めてもう頑張ってるんです、皆さん。私たちの存在は自分のためだけじゃなくって、周りの方、友達、パートナーとか、いろんな方に必要なんです。

須藤 なので、どんなときでも、つらいときとかいっぱいあると思うんですけど笑顔でいてほしいなって、私は思います。周りの方のお役に立てるかどうか分からないですけど僕も、できるだけ、笑顔でいたいなって思うので、みんなで笑顔でいきましょう。

岸田 最後に感想なり何なりと。

園田 あっという間でした。

須藤 この丸井という場所で、しかも周り見ていただくと、スーツ売り場っていうところで、こういうがんノートさんのトークイベントをやるっていうこと自体が面白くて。

須藤 たまたま岸田さんと出会ったのも面白くて。人がつながってくと、もっと面白いことできるなと思う。すごい楽しい一日でした。ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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