インタビュアー:岸田 / ゲスト:井本・山本・宮部

【発覚 宣告】

岸田 今回は3人のゲストと、トークセッションといった形で進めていきたいと思います。これから3人のゲストの闘病経験談とも交えながら、いろいろ突っ込んだり質問にも答えていただきたいと思いますので、ぜひよろしくお願いいたします。では簡単に圭くんからお願いします。

井本 にこスマ九州の井本といいます。2000年の3月、中学2年生の修了式前の前の日に病気が判明し分かって、修了式の日のに学校のホームルームで告白、「よく分からないけど、半年ぐらい入院します」って、「じゃあ」って言ってホームルーム出て、そのまま入院をしました。

井本 病気は急性リンパ性白血病なんですけども、僕が発病した2000年当時は、あんまりまだ告知が進んでなくて。

井本 実際にある病気なんですけども、実際の病名は急性リンパ性白血病ですが骨髄線維症という白血病に少し似た感じの病気で告知を受けました、よく分からない病名を本人に告げて。

井本 あと抗がん剤とか薬の名前は言っても「これが抗がん剤だよとか、がん」っていう言葉を使わずに治療をしてきました。

井本 今の子たちは治療と治療の間に帰ったりはするんですけども、僕のときはまだ、入院したらしっぱなしの感じで。

井本 10月までずっと入院して。中学3年生のときだったので、10月に退院して、実質、2、3日、間を空けて、学校に戻ったのが11月の頭っていうことで、受験シーズン真っただ中の状態で戻りました。

井本 市が、自分がいた所と、小、中学校には院内学級っていうのが大きい病院にはあるんですけど。一応、院内学級には所属はしてたんですけども。転校っていう形になるので、戻ったときには受験シーズンで。

井本 普通、受験期って内申点があって、自分の内申点、これぐらいで、学力の偏差値がどれぐらいだからこの学校行けるかなっていう、ある程度のレベルが。

井本 皆さん、多分、経験されてると思うんですけど、あると思うんですけど。偏差値は、もともと勉強、嫌いなんで低いんですけど、内申点も「転校生だから出せない」って言われて。

井本 「行ける学校が県内でも三つぐらいしかないよ」って言われて。たまたま家から近かった高校が、その三つのうちの一つで。

井本 退院後も3年ぐらい治療しないといけないということがっていうのが分かっていたのたんで、比較的、融通が利いて、家から近くて入れる高校をってなると、一つ、二つぐらいしかなかったので、一番近い所を選んで。受験をして進学をしました。

井本 高校3年生の夏、2003年の8月に一応、治療が終わりました。そこで初めて病名告知ってことで、小児がんの一種の急性リンパ性白血病だっていうことを知り、告知を受けました。

井本 後は経過観察っていう形で、特に再発もなくて、晩期合併症とっていわれる、小児がんでよく出てくるワードなんですけども、小さいときに治療した影響が20年たってから晩期合併症としてとかであったりとか、2次がんといわれるっていわれるものがボツボツ症状が出てくるかもしれないんじゃないかなっていう年になってきてます。

岸田 その急性リンパ性白血病っていうのを告知されたのは、誰から?

井本 ちゃんと告知をされたのは主治医からだけども、残念なことに先に自分では知っていました。

井本 2000年当時、まだ家にパソコンがあるような時代ではないですけども、行った高校が工業系の高校で、一応、パソコンの授業があって。何となしにインターネットで自分の飲んでる薬を検索したら、白血病って出てきたのと。

井本 告知されてた病名、骨髄線維症っていう病名なんですけども、それを検索したら、骨髄穿刺っていう白血病でよくする検査があるんですね、腰骨の中の髄液を抜いて検査をするっていうのがあるんですが、その注射ができない病気って書いてあるんですね。

井本 だから、できない病名なのに、2カ月に1回、その検査をしてるんです。ていうことは、その病気ではないっていうのが分かりますよね。

井本 なので、これは違うなと思って。で、飲んでる薬を見ていくと共通して出てくるのは、白血病という病名っていうのが出てきて、これは白血病なんだと正式に告知を受ける前になというのは自分の中で大体、分かってました。

岸田 親は、もちろん言うてないよね?

井本 言ってない。

岸田 言ってないよね。自分だけ知ってて。

井本 そうです。白血病って知っていたのは主治医とかの医療関係者と両親だけだった。でも。あとの親戚とか、友達とかは骨髄線維症だって思って。

岸田 それ知ったときは、やっぱり、みたいな?

井本 治療も、まず退院ができてたから、比較的、いいんだろうと楽観的だったかな。そのまんま、一番しんどいときに見てて、死ぬとかいろいろ書いてあったりとか、学校の授業で、白血病で亡くなる映画とかを見てた直後ぐらいに入院をしてるので。友達にも「白血病だ」って言うと、死ぬんじゃないかってなるので、ふせてたっていう。

岸田 では次、山本さん、お願いしたいと思います。

山本 山本美裕紀です。2010年の4月に口腔がんになりました。正式名称は左側口蓋悪性腫瘍っていう名前で、上あご。上あごって分かりますか。

山本 上あごに、がんができた。口の中です。べろを上げたときに当たる骨に、上顎にがん、がんができました。その当時は准看護師の免許を、既に持っていて。

山本 で、正看護師の資格取得をのために朝と夜は仕事、昼間は学校に行っていました。きっかけは夜勤の明け方に、顔の、半分が痛くなったのが始まりです。

山本 そこから1カ月ぐらい、いろんな病院に、行っても原因たけど分からなくて。1カ月後に口の中を診てくれる先生のところに行って、口腔がんだっていうのが分かりました。

岸田 分かって?

山本 学校を休みたくなかったのでんですよね。実習が始まる直前だったので、休みたくなくて。

山本 そのことを事前に先生に相談して口腔がんとだけ聞いて言っていたので、告知をされるときに、先生は手術の予定も全部、組んでくれてたので。すごい早いんです。

山本 告知後されて、2日後には入院し、どんなことをされるのかも分からずて手術をしましたしてたんですね。

山本 はっきりとしたことを聞いたのは入院してから、術前の説明のときにはっきりしたことを聞いたんで、それまで何も分からずに。

岸田 本当?

山本 はい。口腔がんだけ聞いてて。どんなことをされるのかも分からずに入院してました。

山本 「上あごの骨、半分と、左側の歯は全部取ります」っていうふうに言われたてけれど。私もいろんなことで頭がいっぱいになって。入院も初めてだったんです。

山本 なので、深く考える余裕がないまま手術を迎えた感じだったのがかえって、良かったのかもしれないですね。いろいろ考える暇も、なかったですね。手術をして上顎を、その後。

岸田 その後。2010年5月。

山本 手術をして、ここを全部、取ったので、ここにぽっかり穴が空いてたんです。鼻と口がつながる、そんな状態んですよね。上あごを取るので。

岸田 口腔がんの人、言いますよね。「べろで上にやったら、鼻とつながる」みたいな。

山本 そうですね。鼻と口がつながっている状態なので、術後は傷が、痛くて痛くて…、傷が。初めて死にたいって思いました。こんなことになるなら死んでしまいたいって思って。そんなときに、いろんな人が助けてくれて。ここは今は、義歯。

岸田 義歯なんですね。

山本 おじいちゃん、おばあちゃんとかのする入れ歯の、ちょっと大きめの義歯を入れて。穴をふさぐようなもので、今はふさいでいる状態です。

山本 取ると、しゃべれなく、ほとんど。鼻に空気が抜けるので、しゃべれないし、ご飯とかは食べられないれなくなります。外すと。

山本 そんな感じで、それをして、ご飯が食べれるようになって。でも、その入れ歯はがすごく嫌ででした。

岸田 2度目の手術はまた違う?

山本 2度目の手術は半分切除した上顎のは、反対側にちょうど半分、取ったんですけど「取った断面に、まだがん細胞がんが残ってたんで、反対側にあると思います」って言われて。

山本 「反対側も手術することにしましょう」って言われて。幸い反対側は骨までいっていなかったので、骨は辛うじて取らなくてよくて、粘膜だけ切除しました。取って。それからまた。手術後、先生から。

岸田 さっき言おうとした、左側のやつがすごく嫌でっていうのは?

山本 入れ歯ですか。

岸田 うん。

山本 入れ歯はやっぱり嫌でした。30代で「入れ歯して」って言われたら、嫌じゃないですか。

山本 先生が「いいもの作ってもらったね」って言われたんですけど、私にとっては、この先生、何、言ってんだろう、ぐらいの気持ちだったんですね。

山本 今、言われたら、もう受け入れられているので、それがあるのでご飯食べれるし、こうやってお話しできるので、「本当、いいもの作ってもらいました」って言えるんですけど。

山本 その当時は先生を恨んでました。なんでそんなこと言うんだろうっていって。

岸田 デリカシーないな、みたいな。じゃあ、こっちも手術して。

山本 治療のゴールっていうのが最初に言われてて。先生から言われるじゃないですか。ここまでになったらゴールですよ、みたいな。

山本 でも、そのゴール設定が「「この傷が治って、口を開けるリハビリをして、入れ歯がはめて、ご飯が食べれるようになったら、治療のゴールですよ」って言われたんです。

山本 でも私は退院するときに、そこまでいったので、ゴールだって思ったんです。

岸田 「それがゴールだ」って言われてるからね。

山本 はい。それからが大変でした。治療は終わってるけど、体力も落ちている退院後が私にとっての新たなスタートでした。

山本 退院してからが、やっぱり大変でしたね。体力も落ちてるし。ここもきれいに洗うのに注射器とか使って洗わないといけないし。

山本 すごく、外で歯、磨くのは恥ずかしいし。仕事には戻れないしとか。そこからが私にとっての生活のスタート。治療は終わってるけど、新たなスタートでした。

山本 それは、そのときは、入院してる間は思っていなかったので。

岸田 何が大変でした?

山本  やっぱり、思いどおりに体が動かないのが一番きつかったですね。

山本 あと、病院食はご飯が、病院で食べるものは軟らかいんですけれど、退院後の食事が硬くて痛かったので外のものって硬いんですよ。食事、豆腐とか、そればっかり食べてました。痛いので。

岸田 今は?

山本 今はせんべいでも何でも食べれます。

岸田 それまでにいくのは、結構、かかりました?時間は。

山本 結構、かかりましたね。お弁当にも、ごま豆腐とかおかゆとか軟らかいものばかり持っていってました。軟らかいもの。あと、おかゆ。お弁当におかゆとか。

岸田 普通のものが食べれない。けど、だんだん、徐々に慣らしていって。

山本 はい。

岸田 ご飯、食べれるようになったと。

山本 でもそうですね。その後、実は耳がだんだん聞こえなくなって、今は。

岸田 耳が聞こえない?

山本 両耳、聴力が全くなくなっている状態です。人工内耳という機械を入れて、頭の中に電極を入れて蝸牛という音を拾う細胞に働きかけてかろうじて音が聞こえています。耳が聞こえなくなったことがが。

岸田 よう会話できてるね。

山本 機械を入れてるので。人工内耳っていう。これ、わざと目立つようにしてるんです。耳が聞き取りにくいって分からないじゃないですか。

岸田 普通におしゃれな。普通にやってたら、分からへんわ。このやつは骨伝導的な?

山本 じゃないです。頭の中に電極が入ってますね。カタツムリみたいな、蝸牛って知ってますか。音を拾う細胞がある所に。細い電極を入れてるんですよね。頭の中に。外の機械とつながってて。

岸田 つなげてんの?横の。

山本 ここに機械が入ってるので。機械と、マグネットで、こうやってくっ付くんです。がんとは関係あるかないか、原因が分からないのですががんとは関係ないことにはしてるんです。

岸田 がんとは関係ないけど、何かしらありそうっていうね。さすがに。けど、分からないことは多いですもんね。今の医療の中で。

岸田 じゃあ、次、ハルチさんの紹介をさせていただければと思います。ハルチさん、お願いします。

宮部 私は宮部治恵といいます。みんなにはハルチって呼ばれていますいて、「宮部」って改めて言うと、「誰?宮部さんって」って言われちゃうぐらい、ハルチってみんなに言われてるんですけど。

宮部 自分は、今、もう49歳になります。でも、がんになったのは33歳から34歳になったときです。

宮部 そのときを踏まえてDVDにしてますので、ちょっとそちらをご覧いただければと思います。ちょっと場内が暗くなります。説明をしながら。

宮部 今よりも半分ぐらいの私になってますけど。NPO法人キャンサーサポートのハルチですね。私は沼津市という所で生まれました。17歳のときに高校を中退しまして、憧れの東京へ1人で上京して。

宮部 都会の1人暮らしは本当に大変でした。でも一生懸命、働いて。毎日、趣味のために一生懸命、働いていました。車屋さんに勤めてたんですけど。多趣味でした。趣味のために働いてるっていう。

宮部 私が28歳のときに結婚をしました。2年間、交際を経て幸せな結婚をして。すごく子どもが大好きだったので、「子どもは3人ぐらい欲しいね」なんて主人と話をしてたんですが、突然、仕事中に多量の出血し、で、そのまま救急車で運ばれました。

宮部 いろいろ検査をしていったら子宮頸がんということが、判明しました。当時は、34歳になる前だったんですが、この言葉も私、知らなかったんですね。

宮部 子宮頸がんという言葉も知りませんでした。子宮と卵巣も取らなきゃいといけなくていということで、子どもが産めない体になりました。

宮部 抗がん剤と放射線治療ですね。それからどんどん抜けていく髪の毛が、本当、耐えられなくて、それに。あとは女性として生まれてきたのに、子どもが産めない体になってしまったことが悲しかったです。

宮部 その後、それから、今だったら我慢できるんですけど、祖父母に「孫が産めない嫁はいらん」って言われて、離婚を決意しました。

宮部 もう結婚は二度としない、そう心に決めていました。本当に必死に生きていて、みんなに助けられながら一生懸命、前を向こうって頑張って生活をしていくところに、今度、37歳のとき、直腸がんが見つかりました。

宮部 とても大きくなっていて、「このまま手術ができなければ、余命1年ですよ」って淡々と言われました。そこからは、自分ががんで死ぬということっていう思いが、すごく怖くて。死んだら楽になるんじゃないかとなとか、自殺も考えたましたこともありました。

宮部 そんな時に支えてくれたのは、やっぱり家族や友人だったんですけれども、それでもなかなか前が向けないでいたんですね。

宮部 で、そんなときに、このリレー・フォー・ライフをが、日本で初めて行うよってことが、ホームページで知って生きる目標ができました。

宮部 なんでか分からない、そのイベントがどういうイベントか分かんないんですけど、絶対、元気になって、ここに参加してみたいな、患者さんに会ってみたいなって思いました。

宮部 そしたら、諦めていた手術もが成功したんです。毎日、院内を2万歩、大体、時間にすると4時間から5時間なんですけど、ずっと歩いていました。

宮部 そして8月、退院して、9月にはリレー・フォー・ライフの会場にいて。この一緒に写っているモモちゃんは、次の年に残念ながら亡くなってしまったんですけど、すごく元気をもらったイベントだったんですね。

宮部 二つ目の奇跡として。これは、今の主人と出会うことができました。

宮部 当時は本当に結婚は考えていませんでしたし、自分はもう子どもが生めまれないからっていうことで、男の人とお付き合いをすことすらるのはやめようって思っていたんですが、すごく私を理解してくれる人が現れて。

宮部 私が「がんで子宮がなくて、子どもも産めないんだよ」っていうことをしっかり告白したんですね、お付き合いするときに。

宮部 そしたら、彼が言った言葉が、博多の人なんで博多弁をそのまま書いてるんですけど、「だけんな、俺だって、いつがんになるか分からんめえもん」ってでも彼は私のがんの告白を笑い飛ばしてくれたんですね。

宮部 そのときに、この人だったらがんを理解してくれるのかなと思って、お付き合いをすることを決めました。

宮部 で、結局、その後結婚してくれたんですけど。彼も、それから彼のご両親も言ってくれたんですけど、「ハルちゃんが元気でいればそれでいいよ」って。

宮部 「2人で、2人の生活をゆっくりと楽しみなさい」と理解してくれっていうことで、結婚を決意しました。これは福岡で9年前に福岡で始まったリレー・フォー・ライフなんですけど、そのときの夜の風景です。これが、博多どんたく港まつりですね。

宮部 ここには患者さんとか医療者とか、みんなで毎年パレードをしています。それからこれは、天神で毎週日曜日には天神での募金活動ですね。

宮部 今度、来週やの日曜日かな。みんなでします。それからこれは、プロのゴルフの試合のときに、ああいった啓発活動などをしています。

宮部 またこれ、高島市長って、福岡市の市長なんですけど、一緒に歩いてくれたりとか。

宮部 子どもたちへのがん教育ということで、仲間と一緒にいろんな学校へ、今、行って、正しいがんの知識と、それからがん患者さんの体験から、命の大切さを伝えています。

宮部 本当、簡単なDVDにまとめたんですけれども。今、こうやって自分はすごく元気なんですけど、つらかったときの話とかすると、毎回、泣いてしまうんですね。

宮部 子どもたちの授業とか行っても、泣いちゃいけないって思うんですけど、やっぱりそのときの自分に戻って、フラッシュバックして涙が出てしまうんですけど。

宮部 そんな私が、今は元気です。

岸田 きょうも泣いていただいても、全然、構いませんので。等身大の感じでいきたいと思います。ハルチさんも前に踏み出したからこそ、いろんな出会いもあってね。今の活動もされているのかなといったところもあるのかなと思います。

岸田 ハルチさんの当時の、何ていうんですか、病気の経験ではなくてじゃないですか。

岸田 けど、そのときに、車のお仕事についてっていったところも、ちょっとそこら辺も教えてもらえますか。休んでどうしたのかとかっていうところも含めて。

宮部 お客様の車を洗車する仕事をししていましたたんですね。タイヤが大きな四駆の車で、すごい四駆ってタイヤ、大きいじゃないですか。

宮部 そこによじ登って一生懸命、洗車してたんですけど、急にフラッてなって、そのまま倒れて。気が付いたら病院だったんですね。

宮部 そこに会社の人がいて。営業マンが私を見つけてくれたらしいんですけど。血が出ていて、結構、大量の血が出ていたので多分。

宮部 貧血で、多分倒れたんだと思うんですけど。でもまさか、自分ががんになるとは思ってもいないので、病気だろうけど、がんじゃないだろうなっていう変な自分の意識っていうか、そういうのは実際、ありました。

岸田 パッと目が覚めたら病院でそこからどういう検査なりをして。先生に宣告されるわけですよね?子宮頸がんだと告知された時のっていうのは、最初。ハルチさん、そのときの心境とかっていうのは、どんな感じでした? 宣告されたとき

宮部 がんって言われた時のは、もちろん悲しかったんですけれど、それ以上に、映像にもあったように、子どもが産めない体になるっていうのは、ものすごくきつかったですし。

宮部 選択がなかったんですね。もしかしてたら、今の治療だったら、いろんな選択があったのかなと思えるんですけど。

宮部 ですが当時は、自分ががんに対しての知識もなかったし、言われただけで頭が真っ白になっちゃって、先生に言われるままに子宮と卵巣を取ってるんですけど。

宮部 でももう少し自分に余裕があったら、違う方法があったのかなっていう後悔はあるんですけど、そのときは必死で。

宮部 急がなきゃ、みたいな感じで急がされて、考える余裕もないままに手術しちゃって。今でこそ乳腺外科とか、科がすごい分かれてるじゃないですか。

宮部 昔は結構、一緒だったんですよね。だから、産婦人科と婦人科が一緒みたいな病院がすごく多くて。

宮部 赤ちゃんって1時間ごとにミルクを、お母さんの母乳をもらいに病室に来るんですけど、そのときの周りのうれしい声とか、赤ちゃんの泣き声とか、そういうものがすごく自分には耳障りで。屋上、行って、泣いたりとかしてました。

岸田 その後そこから治療に入っていって、一応、手術して。復帰して、その後直腸にまた次に再発。再発じゃないか。2次がん。

宮部 そうですね。新たに。

岸田 ダブルキャンサーっていうことですよね。話題。今時のダブルキャンサー。直腸のやつは、さっき動画だと、直腸にがんが、みたいな感じでしたけど、それはどうやって分かったんですか。

宮部 退院後にちゃんと婦人科は行ってたんですけど、結局、胃の検査もしてないし、腸の検査もしてなかったんですよね。

宮部 婦人科の検査しかしてないので、一切、そういった検査をしてないわけですよ。その状況で血が出てたんですよね。

宮部 持病でも私、痔を持ってたんです。手術もしたりしてるんですよね。

宮部 だから、ほっといたっていうのもあるんですけど。結局、出血がひどくて、これは痔じゃないんじゃないかと思って油断していたんです。

宮部 がん経験があったっていうところで、いろいろ調べてもらって。がんをやってたのに検診を怠っていたのは反省しています。

宮部 というか、してなかったんだなっていうのは、そのとき初めて知ったので。だから、例えば乳がんの仲間とか、今、いるんですけど、きょうも来てるんですけど。

宮部 子宮とか別の所もやっぱ調べたほうがいいよとか、胃カメラも飲んだほうがいいよと、今は、そんな話は患者同士で話したりしたりしてますね。

岸田 じゃあ、直腸、見つかりました。血で見つかりました。手術的には、そんな大変だったんですか。その手術的なところに関しては。

宮部 そうですね。手術するまでが大変だったんです。手術は結構、短い時間で終わったんですけど。大きいだけだったんですよ。

宮部 同じです。あれぐらい。もっと大きかった。抗がん剤が、効かなくて。手術後、なかなかちっちゃくならかったんですよ。

宮部 いろんな抗がん剤を試してたときに、腹水がたまりだして、その腹水をどうするんだとか。

宮部 2次のそういう悩みも出てきて。抗がん剤で髪の毛も抜けるし、外にも行かなくなるし。いろんなことが重なって、すごいマイナスな空気が一番流れてたときだったと思う。

宮部 今も、排便排尿障害は残っていまするんですけどね。尿も、トイレに行くと、みんな「早っ」とか言うんですけど、ちょこっとずつしか出ないんですよ。おしっこが。

宮部 だから回数は行くんですけど、すごい早いんですね、出てくるのが。みんなで一緒にトイレに入るんですけど。「お尻、拭いとうと?」みたいにみんなに言われるんですけど。そういう障害とか。

宮部 逆に便はすごく時間がかかるので。外では恥ずかしくて行けないから、我慢したりとかしちゃうんですけど。そういう障害が残ったぐらいですね。

岸田 今は後遺症とも付き合っていきつつ、がんの症状的には、今は、だいぶ。

宮部 そうですね。今は一番最後から15年ぐらいかかってるので、今は元気にいます。

【井本 仕事】

岸田 仕事に関して井本さんから教えてください。圭くんの場合、小児がんということで体力的なところもあったと思うんですけど、今はどういうことをされているのかとかも含めて、語っちゃってもらっていいですか。

井本 就活。高校三年生の時に治療が終わったのが高校3年生で、その後、写真の専門学校に行きました。その後、就職活動的なものはあんまりしてなくて、今までの人生で。

井本 一番最初、専門学校を卒業した後は、地元の公民館みたいな所の先輩が、「急に空いたから、やらないか」って言われて、そこで3年弱ぐらい働いてました。

井本 そのときも三か月に一回くらいの頻度で経過観察の外来には行っていましたが、それも3カ月に1回とかぐらいで。

井本 シフト制の仕事だったので、外来の日だけ希望休を、出して行ってるっていう形で。

井本 その後、その仕事を辞めて1年ぐらい、いろんなアルバイトだったりとかをしていて、そのときに就活的なことはしてるんですけども。

井本 その時期にそれぐらいのときに初めて小児がんの活動というか、小児がん関連ので、同じ病気の仲間にも出会った。それまではそういった活動もしてなかったし、患者会があるのも知らなかった。

井本 全く知らない中で、普通に転職活動してて、たまに会社の履歴書、会社の様式に既往歴がある所に白血病って書いて。書いてあったらいろいろ突っ込まれる。いい雰囲気ではないですよね。

井本 その後転職活動の最後も、やっぱり地元の先輩の紹介で地元の教育委員会の契約社員としてに、3年弱ぐらい働いきましたてて。

井本 その次の仕事が、教育委員会。町の教育委員会の契約社員みたいなところのポストを当てられて。

井本 もともと高校生のときから、子どもの夏休みのキャンプだったりとか、子ども会のお世話みたいな、学生ボランティアをしてたんですよね。

井本 その関連で教育委員会でも入って、そういった仕事をしていました。ですけど、その中でそれをしてるときに、別の最初は小児がんの交流会っていうのに、最初は託児要員として呼ばれました。

井本 っていうか、「託児をしてくれ」って言われて。「お母さんたちが交流会をやっている間に、子どもを見てくれ」って。言われてて。

井本 もともと子ども、好きだったし、学生ボランティアもしてたので、子どもの相手をしてたら、ある日、突然、小児がんの子どもたちを集めてキャンプをするから。

井本 東京のほうで、もともと95年とか8年ぐらいからやってるキャンプがあるんですけども、「それの九州版をやりたいんだけども、今、集めてるメンバーでそういうキャンプ経験だったりとか、子どもを集めたイベントの経験がないから、それを一緒にやってくれないか。手伝ってくれないか」って言われて、始まったのが、にこにこスマイルキャンプ・イン九州ですっていう。

井本 そしてここは今、僕が今働いているにこスマ九州っていうNPOで働いているんですけど、それの前身団体です。

井本 そういった活動も始めて。NPOになるタイミングでときっていうか、何年か、3年、キャンプをやっていく中で、「継続的に活動をやっていって、とかすることを考えると、誰かが人生を懸けてやらないといけないよ」って言われたんですよね。

井本 今のうちの代表だったりとか、別のNPOで働かれている方とか。それを僕に言ってきて。「誰かが人生を懸けんといかんらしいよ」って僕に言ってきて。

井本 それは、やれってことだなと思って。転職して、今はにこスマ九州っていう子どもたちを集めたキャンプだったりとか、大人になった小児がん経験者だったりとか、若年性の経験者のお話し会をやったりとかいうするNPO団体で活動を。

岸田 圭くんは、すべて先輩のつながりっていうことだけは分かりました。

井本 仕事も先輩のつながり。今のにこスマも、先輩から「これやるか」って。基本的に全部、長いものに巻かれて生きてるみたいな。

岸田 でも、そういうご縁を大切にしてやってくっていうのも大事だし。今のにこスマ九州さんは、どれくらいたつんですか。

井本 前身団体を入れると8年。法人になってから今年では今、丸5年目、働いていますですね。

井本 転職してからは5年。小児がん自体、患者さんが少ないので、それの支援活動やってる団体ももっと少なくて。

井本 九州で小児がん経験者の会が、今、二つぐらいあるかな。もともと、日本で最初にできたほうで、久留米大学の小児科に経験者の会があって。

井本 そこを卒業した人が、また新たにクールプラスっていう団体をつくってやってるぐらいかなと。小児がんだけでっていうと、うちぐらいかな。

井本 九州でいえば。全国になったら、いろんな活動、いろんな形でサポートっていうのはある。

井本 でも入院中のサポートは、多いですけど、退院後のサポートを小児がんでやってるのは、少ないですね。

井本 うちはどちらかというと退院後がメインです。キャンプ活動も入院中の子たちじゃなくて、退院した後、帰った後です。

井本 子どものネットワークなんて、たかが知れてるじゃないですか。基本、学校が単位で限られているだったりとかなので。

井本 その学校に経験者がいないと、何かあったときに相談したりとかいう話ができないので、キャンプとかっていう場所で話をしてもらったりとか、交流してもらうっていう活動をしています。

【山本 仕事】

岸田 ありがとうございます。では、山本美裕紀ちゃんのお仕事。准看で、今、看護師でいろいろされてると思うんですけど。看護学校、行って、教師したりだとか。話をしたりとかね。講師。

山本 まず看護師資格を取るための学校に行ってるときに耳が聞こえなくなって。それから、補聴器してるまま、無事、時間はかかったんですけれど、無事に看護師になることができまして。

山本 看護師になれたと思って、やっと仕事ができるようになってって思って。

山本 ずっと元々勤務して勤めていたところにそのまま入らせてもらって、病棟で働く勤めるようになったんですけど、筆談でのコミュニケーションだったのでものすごく皆さんに迷惑を掛けてばかりでした。

山本 全部、筆談だったので。私と会話するときは書いてくれたりとかしてたんですけど、やはりその中でも、取れない情報とかっていうのがたくさんあって。

山本 達筆な人もいました。これ、何て書いてあるんだろうとか思うんですけど「すいません。何て書いてるんですか」とは言えなくて。

山本 書いてくれてることだけがうれしいので。耳が悪くなって気付いたことが、人に分からなかったことを、「すいません。もう一回、言ってください」って言うと、そのままもう一回、言ってくれる人は、ものすごく少ないんですよ。

山本 ほとんどの人が省略して言うか、「もういい。大したことじゃないけん」って言われるんです。私は、その大したことじゃないっていう内容が聞きたい。

山本 仕事の面でも、患者さんの話とかを、看護師さん同士のって休憩時間に情報交換したりしてるところって、結構あって、患者さんのちょっとしたこと。

山本 きょう、あんな言いよったよとか、こう言いよったよっていう情報って、本当はすごく大切な情報なんですけど、それが全然、聞き取れないので。あと、看護師さん、マスクしてる人が多いんですよね。

山本 私、口で読んでるときが多かったので、これ、無理だなって思ったり。「先生の処置に付いてきて」って言われたときに、先生の処置に付いた時くんですけど、先生もマスクしてて、何て言ってるか分からない。

山本 「すいません。もう一回、言ってください」って言ったら、「もういい。他の人、呼んできて」とか言われるんですよね。なので、段々と心が持たなくなって。

山本 それプラス、みんなと同じように仕事できないから、手当、働く前から手当が半分だったんですよね。

山本 私の気持ちは、みんなと同じように、自分の中では働こうと思ってるんですけど、最初のから、契約のときから、「あなたは電話も取れないし、何ができないから、何々ができないから、ここはみんなの半分ね」って言われることがあって。

山本 私、それがすごく、一番つらくて。お給料は半分なのに、「できないところがあるから、できることを人の倍しなさい」ともって言われたんですよね。

山本 できないところがあるから、自分ができることを頑張ろうって思ってた部分っていうのはあったんですけど、さすがに給料は、半分でとか、「この研修は、あなたどうせ聞こえないから出なくていいよ」とか。

山本 みんなが楽しそうに出てる研修をが、耳が聞こえないから初めから行かなくていいってシャットダウンされて、『聞こえない山本さん』としてしか扱ってもらえなかったのはつらくなってた。

山本 あと、口腔がんのあとで、やっぱり体力もなかったですし、病院にも行かないといけないので、休みも多かったので、ちょっと続かなくて。結局、病棟に上がる階段が登れなくなって。

山本 きょう仕事に行っても、またつらいことがいっぱいあるんだろうなって思ったときに、病棟の階段が、上がれないって思って、退職願いを出しました。そのまま看護部長室に入って、「もう行けません」っていうことを言って。

山本 その後、耳の手術をしたんですけど。そこは「取りあえず、お休みしたら?」って言われて、休んで。

山本 一旦休職にして耳の手術をしました。で、もうちょっとは聞こえるようになったかなって思って戻ったんですけれど、やっぱり手術をした後は、聞き取りっていうのはすごく悪かったので、結局、一緒だったんですよね。

山本 うまくいかないときに、実は告知された先生にから、私が「うまく病棟で働けない」って言ったときに先生から、「あなたの代わりは、病棟には何人でもいるでしょ。あなたにしかできないことをしなさい」って言われてたんですよね。

山本 「あなたの代わりはいっぱいいるから、病棟で働ける人なんていっぱいいるのよ。だから、自分にしかできないことをしたらいいんじゃない」って言われたときに、自分にできることって何かなって考えて。

山本 そのときにちょうど、小学校とかでがん教育が始まって、ハルチさんたちが最初に、がん教育を小学校とかで始めてて。患者さんの体験談と、正しい医療の知識を伝えるっていう活動を最初にの初めてをしていて、私もそれに関わるようになりましたったんですよね。

山本 そのときに、子どもたちのたくさん感想を見てた中で気付いたのは、もしかしたら、これって看護なのかもしれないって思ったんですよね。

山本 私は現場で人を助けることは難しいかもしれないけど、もしかしたら伝えるっていうことで、人に看護、人の命を助けるっていうことができるかもしれないって思って。

山本 それからは、自分にしかできないこれは伝える看護なんだ、と自分にしかできないんじゃないかなって思い取り組むようになりました、それをするようになって。でもやっぱり、それはボランティアだったので。

山本 お金は、生活するには必要だったので、そのときにどうしようかなって考えて、事務のほうに移ったんです、医療事務の資格を取って。看護師の知識も使える医療事務の仕事に移りましたので。

山本 でもパソコンに向かってる自分が、病棟で働いてる、現場で働いてる看護婦さんを見ながら、自分はパソコンの前にいるっていうのが、どうしてもつらくて。

山本 給料も全然違うし。何のために看護師の資格まで取ったのに医療現場に立てないのが悲しくなってのかなとか思って、結局、医療事務の仕事は辞めたんですよね。

山本 そんなときに出会ったのが、友人から紹介された、認知症の方がおじいちゃん、おばあちゃんが9人で住んでいる、民家を改造した有料老人ホームを紹介されました。

山本 医療行為もないので、「命に関わることっていうのは少ないし、自分のペースで関われるから」って言われたんです。

山本 私、どんな所かなって見に行ったときに、ここ、いいかもしれないって思って。ここだったら聞こえるって思ったんです。

山本 聞き取れるって思ったし、認知症の方って、自分のことをなかなか言葉にできない方っていうのもいるから、言葉っていうよりも、表情だったり、行動だったりを見て動くことが多いので。

山本 ここなら聞き取れる、認知症の仕事もしたかったしここで働いてみようかな、と思いました。

山本 認知症の介護もしたかったので、と思って、そこで働かせてもらうようになって。

山本 私が思うには、そこの社長さんの考え方は、「あなたがやりたいことを優先してやっていい」って言われたんですよ。

山本 今まで、「あなたはこれができない、これができない」って言われ続けてきて、あたしはできない人、みたいな感じだったんですけど、初めて「自分からしたいことをしていいんだよ」って言われたときに、私がしたいことをしていいんだって思ったときに、ものすごくうれしくて。

山本 それを言われたときに、自分もちょっと戸惑ったんですよね。今まで、したいことをしていいって思ってなかったので、できることしかしてはいけないって思ってたので、私って何ができるんだろうってそこから考えるようになって。

山本 そこの社長さんから、「私は、『がんになって耳が聞こえない山本美裕紀さん』っては思ってないよ」って言われたんです。

山本 「山本美裕紀さんの中に聞こえない部分があったり、がんっていう病気を患ったことがあるっていうのはあるけど、別に、他のスタッフと同じように見てる。だから、できないことは別に無理してしなくていいし、できることをどんどんしなさい」って言われて、とてもすごくうれしかったですね。

岸田 それはいい話ですね。

山本 自分の考え方もちょっと変えていかないとないといけないかなと思った部分もあるんですけど、それだけでは、やっぱり仕事をする上で駄目なのかなって。

山本 雇ってもらう事業主さん、社長さんとかの考え方も少し変えてもらいたいなって思いましたすね。

岸田 本当に経営者の志というか、心意気、一つで変わりますしね。今はどうなんですか。

山本 仕事は月15日って決めて私は授業のほう優先をしたいので、仕事は月15日って決めて働いています授業を優先して。授業がある日をまず入れて、空いた日を社長さんに伝えて、「この日なら入れます」と、その日に希望を。

山本 給料も、他の人との差を付けたりとかは全くないしないので。ちゃんと仕事した分の給料をくれまするので。

山本 今はやりたいことやれてて、満足してます。授業の合間に仕事に行く、じゃないけど。

山本 でも、うちの職場は「それでいいよ」って言われて。「足りないところは、また人、入れたらいいんだから」って言ってくださる。

岸田 今はどれぐらい授業に行って、どれぐらい?

山本 半分、授業、半分、仕事みたいな。休みは、5日ぐらいは。

【ハルチ 仕事】

岸田 じゃあ、ハルチさんのお仕事の変遷をお聞きしたい。

宮部 手術後して戻ってきてからは抗がん剤しながら、それこそ離婚もして、抗がん剤治療をしながら離婚をしたので1人で暮らしていました。

宮部 生活していくには仕事をしないといけないけれど、やっぱり抗がん剤をしながら仕事をするって、つらいじゃないですか。

宮部 副作用もすごくひどかったので大変でした。

宮部 もう退職しようと思って退職願を出したときに、当時の会社の上司偉い方が「お前、離婚して1人になって、これからがんの治療もしなきゃいけなくて、お金もかかるのに、仕事辞めてどうすんだ」ってすごい怒られて、その人がバーバー泣きながらいて、「お前、しっかりしろ」って言ってくれたんですよ。

宮部 それがあって、ずっと仕事も続けられたし、2回目にがんになったときも本当に支えてくれたのは、会社の同僚だったりとか。

宮部 会社には、逆に恵まれてたかなとは思います。2009年に私、結婚して関東から福岡に来たんですね。

宮部 それまではずっと関東のほうに住んでたんですけど。結婚してこっちに来たんですよね。

宮部 そのときは、それこそ仕事もせずに、リレー・フォー・ライフをとにかく福岡でやりたいってことでいろいろ活動していて。

宮部 先に活動を始めちゃったので、なかなか仕事が選べなかったんですよ。

宮部 活動優先すると例えば、企業にあいさつに行くとか昼間しかできないじゃないですか。

宮部 だから、昼の普通の仕事ができないんですね。どうしても休むことが多くて、こっちから、申し訳ないんでっていうことで辞めることが多かったんですね。

宮部 今は少しですけど、お給料がもらえるようになったので、リレー・フォー・ライフのほうからブロックスタッフとしていって、九州のリレーを担当させてもらえるようになって少しだけですけど、お給料もらえるようになりましたので。

宮部 それをもらいながら、今、自分の好きな活動ができてるっていうところで、少し安定はしてきたかなと思ってます。

宮部 さっき山本さんも言ってましたけど、会社側がもっと勉強しなきゃいけないって思います。

宮部 私たちががん教育しながら、子どもたちに今、がんの教育してるんですけど、「正しいがんの知識をもった大人が必要だよね」って言っていて。

宮部 「大人自身が正しいがんの知識を知らないよね」って言っている。いろんな企業とか、地域の公民館とか、そういう所へも、正しいがんの知識を伝えに私たち、行かなきゃいけないかなって思いながら活動してます。

【恋愛、結婚、出産】

岸田 僕、もう1個だけ、トークしたいんで、もうちょっとだけお時間いただいてもいいですか。大丈夫ですかね。

岸田 もう一個のトークっていうのが、AYA世代だからこそっていうので、就労もあるんですけれども、恋愛、結婚、出産、その他、ここのトークも、やっぱ僕たちの世代にはって、切って切り離せないんで、ちょっとだけお願いします。

岸田 ここのトークも入れさせていただきたいなということを思っております。こちらも圭くんから。今、彼女は?

井本 しばらくいないですね。

岸田 小児のがんになったりとかすると、そっから彼女をつくるとき、そのがんっていうことを言うのか言わないかだったりだとか。

岸田 あと、いろいろ治療によって、妊孕性の部分、子ども、出産。圭くんはしないけど、子どもをつくれるかどうかっていったところも、お願いします。

井本 治療したのは2000年で、その当時はって妊孕性の話って全くなかったんですよね。

井本 僕は、急性リンパ性白血病でも、抗がん剤治療と、化学療法だけで、その後、放射線治療だったりとか骨髄移植とか、移植系は全くしてないくて。今はそのまま元気で薬も飲んでないですんですけども。

井本 がんの患者さん自体は多いんですけど、小児がんの中では、意外とそのケースのデータっていうのがなくて。

井本 どうしても、放射線を当ててるとか、移植をした子たちの妊孕性のデータっていうのは比較的残っていますが、残ってる。

井本 残ってるっていうか、小児がん自体が治るようになったのが、この20年ぐらいなので色んな。40オーバー、50代のサバイバーって、僕、今まで2人しか会ったことがないですね。

井本 小児がんをやってて。白血病の方とかは亡くなってる方ばっかりなんですけれども、やっと40歳になってきたぐらいのサバイバーが、最近ちょこちょこ出てきてはいるんですけども。

井本 なので、データが少ないので、どうなるか分からないっていうのが、小児がんで一番ある話です。

井本 それが妊孕性の話もありますし、晩期合併症だったりとか、2次がんの話もあるんですけど。

井本 最近になって、化学療法だけの子も、妊孕性の話が難しいんじゃないかっていう話が出てきて、最近、聖路加の先生が調査したりとかはしてるんですけど。

井本 そうすると、意外と男の子のほうが影響がでかいんじゃないかっていう話も、最近、ちらっと妊孕性の話が出てきて。

井本 人柱的なところではないですけど、ちょっと調べたいなっていうところがあって、今度、行こうかなと思って、こないだやっと、2年ぶりぐらいに外来に行きました。

井本 がん経験の告白については外来に行かないと、紹介状をもらわないと保険診療、付かないので。取りあえず、それを今度、してみようかなと思って。

井本 でも、周りではいますね。不妊になってる子もいるし。

井本 逆に、経験者同士で結婚して子どももいるっていう経験者も、ちらほらいますし。中学生とか、中高生ぐらいになると、その妊孕性の話が治療前から出てくるような子たちも、最近になって出てきて。

岸田 圭くんの恋愛的なところはどうですか。小児がんになって。

井本 基本的に、会う人、会う人に「僕はがん経験者です」って言うことのほうが多いかな。恋愛になると、そういう話は先にしますよね。仕事柄、言うのが当たり前の仕事をしてるので。

岸田 美裕紀さんは?32歳のときに。

山本 32歳にがんのときは、ちょうど告知されたときは彼氏がいたんですけど、別れました。

山本 自分のことで精いっぱいになってしまって、他のことを考えられなくなって。

山本 正直、こんなこと言ったら悪いんですけど、メールとかすごいしてくれるのが、自分の中ですごく負担になってきて1人のほうが、他のことを、いろんな他のことを考えたくないっていう思いが出てきてしまって、お別れしました。

山本 ちょうど転勤で、その彼が。福岡に出て行くときだっので、結局、メールでした。

山本 それからは、自分のことに精いっぱいっていうのがずっとあって。

山本 今、思うのは、いろんなことを思うんですけど、耳のことがあるので、耳のことを理解してくれる人でないといけないとか。家では私、外してるんですよ。

山本 充電しないといけないので補聴具を外しているんです。なので、家に帰ると、何も音が聞こえない状態です。

山本 音が無くなるので。たまにいろんな音が聞こえなくて、水道、出しっぱなしにしてたりとか。

山本 タイマーをピピッて鳴るのは聞こえなくて、そのままずっと鳴り続けてたりとか、ガスの警報機がずっと鳴ってたりとかあるんですよ。唯一、家でほっとする唯一の瞬間です。

山本 音がなくなって。それを理解してくれる、まず、人じゃないと駄目かなって思ったりとか。

山本 一緒にいたら、私の思うには、聞こえない人とずっと一緒にいたら、今までそういう生活をしてきてないと多分、きついと思うんですんですよ。

山本 今までそういう生活をしてきてないと。最初、手話を覚えようと思ったんですけど、自分だけ覚えても、周りに手話する人がいないんですよ。

山本 いないから、使うことがない。たまに聴覚障害ある人と会うんですけど、筆談をしたりとか、それを負担に思わないとか。あともう一つ個あるのは、口腔がんで、口の中を、手術しているので、入れ歯じゃないですか。

山本 これも夜には、外します。すので、その姿を見られたくないっていう思いがあります。でも一番はやっぱり、耳のことが気になります。

岸田 耳の、そこの生活よね。そういうときに、一緒にいて。ストレスにならない人。だから、一緒にいるだけでいい人一緒にいたら落ち着く人。

山本 あと、性格的に今、いろんなことでいっぱいいっぱい、自分のことでいっぱいいっぱいなので家に帰るとほっとするんです。1人で。

岸田 でもこの活動で会う人であれば、理解してくれる人が多いと思う。

山本 そうですね。女性に生まれたからには、やっぱり子どもも産みたいなとは思いますね。妊孕性的には大丈夫。

岸田 ありがとうございます。次ハルチさん、僕、どこまで突っ込んでいいのか分からないので、まず、サーファーでした。がんになって、なんで離婚したのかとか、差し支えない範囲でね。

岸田 そこからどうやって知り合って、また結婚できるようになったのか。妊孕性を失っていて、どういう理解があってっていうところ。

宮部 そうですね。私はがんになってそういう体になったから別れたのではないんじゃないかなとは思うんですよね。

宮部 それまでに、いろんなことが2人の中であって。それががんになったことで、子どもが産めない体になってたことがきっかけになって別れたんだとは思ってるんですけど。

宮部 当時の主人は、「子どもができようができまいが、離婚は考えたくない」とは言ってくれたんですね。

宮部 だけど周りが反対した。当時は、30代前半で、まだこれからこの人もやり直せるって思えたし。ちゃんと健康な女性と結婚すれば、子孫もちゃんと繁栄していくんだと思ったので、それを託して別れました。

宮部 別れて、1人暮らしして、そのとき付き合ってた人は、結婚は考えてなかったのかなとは思います。

宮部 あんまりそういう結婚の話はしませんでした。なんか嫌なこと聞いちゃった、みたいな雰囲気があったので。

宮部 普通の人はそうやろなって思いながら、自分も結婚は考えてなかったんですよね。そういうのがあって、もう自分は結婚しないって思ってたし、理解がいる人なんてそういないだろうなって思ってた。

宮部 そんなときに今の主人と知り合ったんですよ、今の主人は。だから、出会いって本当にどこにあるか分からないし。私も本当、結婚しないって思ってたんですよね。

宮部 自分が今、結子どもはできないですけど、がんで子宮もないけれども、結婚ができたっていうだけでも、一つの夢がかなえられたっていうのもあるんですよ。

宮部 でも、AYA世代ってまだ独身の子が多いですよね。私もその当時、1人で頑張ってたときもあったんですけど。

宮部 そういうときに、彼氏も欲しいっていうときに子宮を取るのと、それこそ旦那さんもいて子どももいて子宮を取るっていうのとは、全然、気持ちが違うだろうし。

宮部 最近になってAYA世代って言葉ができてきて、AYA世代のための、そういう患者会が必要だなっていうのは、すごく前から思っていて。

宮部 少しでも、1人でもこういう所に来てくれたらいいなと思って、会を始めたんですけど。

【闘病中のあなたへ】

岸田 ありがとうございます。最後に皆さんに。僕、最初に全然、伝えそびれてたんですけど。もしよかったら、今、この放送を見てくれてる闘病中の方にメッセージを一言。じゃあハルチさんからお願いします。

宮部 『自分らしく笑うて生くばい』。この心は。やっぱり自分にしかできないことを探すと、生きる励みになるとは思います。

宮部 自分だからできる、自分にしかできないということを、ぜひ自分から外に出て、見つけほしいなって思います。

宮部 これ、博多弁なんですけど、笑うことはとってもいいことだと思うので。『笑うて生くばい』、ということで。

宮部 生きていきましょうっていうことでメッセージとさせてもらいたいと思います。

岸田 『笑うて生くばい』ってね。笑っていたら自然と何かいいことも起こってきますし。悪いことが帳消しになるというか。そういうの、ありますよね。

岸田 じゃあ、圭くん。

井本 『つらいときはしっかり泣いて、あとは楽しく笑顔で』っていう。

井本 さっきのハルチさんのあれでも言ってますけど、やっぱり笑顔がいいかなと思ってて。

井本 しんどいときは誰だってあるし、しんどいときはそのまんまでいいんで、あとは、ちょっと余裕が出てきたら、楽しく生きていこうよっていう感じで書いてみました。

岸田 それでは、美裕紀先輩。

山本 私が今日、ここで話してて思ったことです。「がんだから」ではなくて、「がんでも」って思うように。

山本 自分がこれできない、がんになったからとか思ってしまうと、すごくできないことがいっぱい見えるし、自分もできないと思っちゃうんだなっていうのを感じたので。

山本 がんでも自分らしく生きることっていうのはすごく大切だと思うので。

山本 がんだから何々ができないとかいうよりも、がんでもこういうことができるんだよって思うようにすると、できることが、多分、たくさんあるんじゃないかなと思うように。

山本 がんでも自分らしく生きることっていうのはすごく大切だと思うので。

岸田 できることをたくさん見つけてやっていく。僕たちが、こうやって発信して語っていくっていうのもそうですし、がん教育の授業をしていくっていうのもそうだと思いますし。

岸田 いろんなボランティアに参加するとか、いろんな人に対して提供する。それもがんだからできることっていうことでもあるかもしれないですね。

岸田 僕たちもそういう気持ちでやっていきたいなっていうことを思っております。

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