目次
- 【オープニング】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【メッセージ】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:上原
【ゲスト紹介】

岸田 スタートしました、がんノートmini。きょうのゲストは、上原あみちゃんです。よろしくお願いします。
上原 お願いします。
岸田 では自己紹介として、あみちゃんのプロフィールから。上原あみさん、出身は千葉県で、今も千葉県にお住まい。現在は大学生ということですね。趣味は旅行、アイドルオタク、読書、音楽鑑賞、おいしいもの探しと、かなり多趣味です。
旅行と書いてますけど、どこに行くのが好きなんですか?
上原 特によく行くのは関西圏で、旅行するときは関西が多いです。
岸田 関西の中でも、どのあたりが好きなんですか?
上原 神社・仏閣巡りが好きなので、京都、大阪、奈良、和歌山とかですね。
岸田 おすすめの仏閣は?
上原 奈良だと「室生寺(むろうじ)」っていう、女人高野と言われているお寺が一番好きです。
あとは京都の「養源院」という場所の、俵屋宗達の杉戸絵がめっちゃ好きで、すごくおすすめです。
岸田 そんな上原あみさんですが、がんの種類は子宮頸がん。ステージが1B1。そして告知年齢が17歳なんですよね。これはまた後で詳しく伺っていきたいと思います。
現在の年齢は21歳。治療方法は手術と薬物療法。そして、今回の子宮頸がんについて、一般的にはヒトパピローマウイルス(HPV)が原因であることが多いんですが、上原さんの場合は少し違うパターンだったとお聞きしています。その辺も今日は詳しく伺っていけたらと思います。
【ペイシェントジャーニー】

岸田 そんなあみさんのペイシェントジャーニーが、こちらになります。全体としては、上に行けば行くほどハッピー、下に行けば行くほどアンハッピー、いわゆるバッドなシチュエーション。赤色がポジティブ、青色がネガティブ、白色はどちらでもない、という形で表されています。これを見ながら、順番にお話を伺っていきたいと思います。
岸田 一番最初が、あみさんの場合、一番高い“ピーク”にあるんですよね。それが「高校の入学」。
上原 高校に入ったばかりの頃が、すごく楽しかった時期でした。放課後も友達とよく遊びに行ったりして、高校1年生が一番、青春していたなと思います。
岸田 楽しい高校生活。そのあと、一気にぐっと下がる出来事が、ご両親の離婚ですね。ただ、これ青色ではなく白色になっているので、ネガティブというわけではないんですよね。
上原 そうですね。母が家を出て離婚という形になったんですが、もちろん寂しさはあったものの、ネガティブ一色という感じではありませんでした。母にとっても“次に進む一歩”だと思えたので、マイナスだけではなかったです。
岸田 なるほど。続いてまた上がっていくのが「不正出血」。一般的に考えると不正出血は不安な出来事に思えますが、あみさんの場合、赤色のポジティブで上向きになっているのはどういう背景があるんでしょう?
上原 そのときは全く病気だなんて思っていなくて。生理不順なんて、10代なら誰でも経験するものだと思っていたので、深刻には受け止めていなかったんです。
岸田 ありがとうございます。そのあと、少し下がるのが「保健室で相談」。これは不正出血のことを保健室の先生に相談した、ということですね?
上原 はい。中高一貫の女子校に通っていて、私の体質のこともよく分かってくれている先生がいたので、軽い気持ちで相談してみたんです。そしたら「なんでもっと早く言わなかったの」「今すぐ病院に行きなさい」とすごく叱られてしまって。
岸田 怒られて、病院へ行かなくちゃと意識し始めたんですね。その中で「親に気付かれる」という出来事がありますが、これはどういうことだったんですか?
上原 不正出血が続くのでナプキンを買う回数が増えたんです。当時は買ったもののレシートを父に渡してお金を精算していたので、明らかに買うペースがおかしいと気付かれてしまって。「どうした?」と聞かれて、隠しきれず話すことになりました。
岸田 なるほど。そういう流れだったんですね。そしてお父さまからも病院に行くよう言われることになって、次の「クリニック受診」に繋がっていく、と。
上原 はい。まずは家の近くの婦人科のクリニックに行きました。
岸田 そこでどうでしたか? 婦人科のクリニックを受診して、先生から何か言われましたか?
上原 保健室の先生には「内診まではされないと思うよ」と言われていたんですけど、行ったら即、内診台に座らされまして。
岸田 「言ってたこと、違うやん…!」って感じですね。
上原 そうです。「聞いてたのと違うが?」って、心の中でつっこんでました。
岸田 そんな展開の中、そのクリニックで“大きな病院に行ってください”という流れになったということですか?
上原 はい。クリニックの先生に、その場で「すぐ紹介状を書きますので、大きい病院を受診してください」と言われて、その日のうちに受診することになりました。
岸田 大きな病院というのは、がん専門の病院ではなく、最初は地域の総合病院という感じ?
上原 そうです。最初は地元の大きい病院に行って、そこで血液検査、細胞診、MRIを受けました。
血液検査では腫瘍マーカーが少し高いくらいで、MRIも特に大きな異常はなかったんです。でも、細胞診だけが引っ掛かってしまって。
岸田 細胞診がね。
上原 はい。最初はクリニックでも“大きい筋腫かも”と言われていて、大きい病院でも同じように「筋腫でしょう」と言われていたんです。でも検査を進めていくうちに「細胞診が悪性の疑い」と言われて。ただ、地元の大きい病院では、この年齢の子宮頸がんの症例がほとんどないらしくて、「専門のがん病院で診てもらってください」と、そのまま紹介状を書かれました。
岸田 なるほど…そういう流れで、がん専門病院へ行くことになったんですね。そして、そこで気持ちが少し下がりつつも、あみさんの場合は“がんの告知”が赤色=ポジティブに分類されているのが印象的で。ごめんね、僕には想像が難しい部分もあるけれど、どういう気持ちだったのか教えてもらえますか?
上原 不正出血が続いていた時期、貧血っぽくて体がすごくしんどかったんです。その“原因”が分かること自体が、まず前向きに感じられていました。病気なら病気で、原因が分かって治療して、取り除けたらラッキーだなって。その気持ちがすごく大きかったです。
上原 もちろん、がんが大変な病気だってことは知っていたんですけど、「大丈夫だろう」って安易に思っていた部分もあって。あと、当時は受験勉強が続けられればどうでもいいやっていう、変な強さもあったんです。
岸田 なるほどね、そういうお気持ちだったんですね。
上原 とにかく当時の私の第一優先は受験勉強でした。ちゃんと勉強に戻れるようになれば、それでいいと思っていたので。それが大きかったです。
岸田 そのときはもう高校3年生だったんですね?
上原 はい、3年になっていました。
岸田 子宮頸がんの告知というと、一般的にはヒトパピローマウイルス(HPV)の感染が原因と言われることが多いんですけど、あみさんの場合はそこが違っていたんですよね?
上原 はい。性交渉の経験がなかったので、ウイルス性ではないのかもしれないという話になっていました。別の原因かもしれないという感じです。
岸田 でも、周りからは変なことを言われたりしませんでしたか? 偏見とか。
上原 言われました、特に母に。母は私本人に直接言えなかったみたいで、おばにすごく愚痴っていたらしくて…。あとでそれを聞いて、「ああ、まあ言うだろうな」と思いました。母は医療職なので、逆に偏見込みで話してくるだろうなと最初から想像していたので、事前に全部説明して理解してもらいました。
岸田 なるほど。お母さんも不安や戸惑いが大きかったんですね。
上原 そうだと思います。母の姉にずっと愚痴っていたみたいで、あとで聞いて「やっぱりそうか」と思いました。
岸田 その後、少しだけ気持ちが上がっていくタイミングがありますね。手術ですね。広汎子宮全摘術。子宮は全摘?
上原 はい、全摘しています。でも卵巣は残しています。
岸田 転移があっての全摘ではなく、再発リスクをできるだけ減らすために、ということですか?
上原 そうです。転移はありませんでしたが、再発リスクを下げるために切除したほうがいいという話になっていました。ただ、ホルモンの問題が残るので、主治医の先生が「将来を考えて卵巣は残したほうがいい」と言ってくださって。ちょうど主治医の娘さんが私と同い年だったこともあって、生活に支障が出ないようにと気遣ってくださいました。
岸田 将来を見据えた判断をしてくださったんですね。でも、妊よう性(将来子どもを授かる可能性)については難しくなりますよね。その点はどう感じましたか?
上原 当時はそこまで考える余裕がなかったです。ちょうど夏休みで、「とにかく休み中に手術を終わらせたい」「学校をあまり休みたくない」という気持ちが強くて。
卵子凍結をすると手術が1か月遅れると言われ、それならもういい、早く手術したい、と。
岸田 受験勉強も控えていましたしね。
上原 そうなんです。受験生だったので“勉強ができる状態を早く取り戻す”ことが最優先でした。今思うと、すごく短絡的な考え方だったと思うんですけど、そのときはそれしか見えていませんでした。
岸田 そして手術後、「受験勉強ができない」という状況になっていくわけですね。これはその後の治療の影響?
上原 はい。術後2週間で病理の結果が出て、抗がん剤治療をすることになりました。抗がん剤が始まると、受験勉強も難しくなるし、塾にも行けない。学校に通うのも体調によって波が出てしまって…。月に1回は確実に入院があるので、「これは無理だな」と思いました。手術の入院中も、塾のテキストや学校の問題集を病室に持ち込んで、調子が良いときはずっと勉強していたので…。
岸田 だからここで、初めて青色の“ネガティブ”が出てくるわけですね。がんそのものではなく、「受験勉強ができない」ということで初めて気持ちが落ちる。
上原 一番ショックが大きかったのは、そこでした。「友達と一緒に大学生になれないんだ」って現実を突きつけられた感じで…。それが何よりつらかったです。
岸田 そこからさらに下がっていくのが、薬物療法。抗がん剤治療ですよね。抗がん剤は全部でどれくらい続いたんですか?
上原 6か月、約半年です。
岸田 半年。外来での皮下注射もあると書いてますけど、抗がん剤自体は全部入院で?
上原 はい。私が受けていたDC療法は本来は外来でもできるんですけど、うちは片親で送り迎えが難しいのと、体調のこともあり、抗がん剤本体は入院で受けていました。入院して抗がん剤を受けて、2日後に退院して、翌日に外来で“ジーラスタ”という好中球を上げる皮下注射を打ちに行く。これを毎クール繰り返していました。
岸田 入院で治療してるのに、わざわざ一度退院して、外来で注射だけ受けに行くという…。ものすごく大変ですよね。
上原 体も気持ちも、往復が本当にきつかったです。
岸田 そんな中で、一番下がっていると言ってもいい時期がここ。「誕生日の前日に大泣き」。これはどういう状況だったんでしょう?
上原 抗がん剤治療が始まったのが8月末で、夏休みギリギリのところでした。学校にも月に1〜2週間は行っていたので、教室で友達が受験勉強に励んでいる姿を間近で見るんです。でも、自分は治療しかできない。病院のベッドから動けない。“私だけが置いていかれていく…”という感覚がどんどん大きくなっていって。
しかも、高校最後の文化祭にも出られなくて。友達が楽しんでいる様子をインスタで見るだけ。お見舞いに来てくれる友達と話すのは嬉しいのに、でも帰ったあと一人になると心が重く沈む。“できている友達が羨ましい、当たり前の生活が羨ましい”って、全部が羨ましくて…メンタルが限界まで落ちました。
岸田 治療のつらさもあって、そこにいろんな気持ちが積み重なってしまったんですね。
上原 誕生日って、自分が生まれた日を祝うものだと思っていたので、
“今の私、生きている意味あるのかな…”みたいなところまで気持ちが落ちてしまって。初めて、人前で泣きました。病気になってからずっと我慢できていたのに、もうこらえきれなくて。
岸田 それほどの重さがあったということですよね。でも、そのあと少し上がっていく出来事があります。「センター試験」。…すごい。受験に対する思いの強さが本当にすごい。センター受けたんですね?
上原 受けました。受験勉強ができなくて落ち込んでいたけど、どうしてもセンター試験だけは受けたかったんです。“高校3年生として、最後に一つでもそれらしいことをしたい”っていう気持ちがすごく強くて。担任の先生に泣きながら相談したら、「別室受験という方法もあるよ」と教えてくれて。私が病室で小論文を山ほど書いていたのも、夜眠れなくて『Next Stage』をずっと読んでいたのも先生たちは知っていたので、いつも「寝なさい」と怒られていました。
手術の麻酔が覚めた直後も、親に「携帯と日本史の単語帳を手の届くところに置いといて」と頼むくらい、当時は受験のことばかり考えていて…。今思うと本当に“受験に取りつかれた人”みたいで、ちょっと笑ってしまいます。
岸田 そんなに“受験に命かけてる人”、なかなか見たことないよ。
上原 あのときの私は、勉強できないことがこんなにストレスになるとは思っていなくて。“勉強できない=高校3年生じゃないみたい”って感じたんです。それに、勉強している間は治療のことを考えなくてすむ。ネガティブな気持ちを紛らわせるためでもあったと思います。
岸田 そしてまた少しずつ上がっていく。念願のディズニーですね。行きたかったんですよね。
上原 はい。入院していた病棟の窓から、毎晩ディズニーの花火が見えたんです。それが本当に心の支えで、夜8時になると窓まで見に行くのが日課でした。そして最後のPET-CTを受けた翌日に、友達と“制服ディズニー”ができて、もう夢みたいで…。花火が上がった瞬間、一気にいろんな気持ちがあふれ出して、号泣しちゃいました。
岸田 そして、また上がっていくのが「高校卒業」。休学なしで卒業できたんですね?
上原 できました。抗がん剤治療があっても、月のうち1〜2週間は学校に通えていたので。元気な日は放課後に友達とタピオカを飲みに行ったり、ラーメンを食べに行ったりもしていました。
学校に行くこと自体が、生きるモチベーションになっていました。
岸田 卒業して、そこから少し下がるのが“浪人生活”。「無理すると熱が出て座っているのもしんどい」とありますが、手術や抗がん剤の後遺症があったんですか?
上原 排尿障害って、婦人科系で子宮まわりを切除した方なら分かると思うんですけど、最初は導尿しながら様子を見るんですよね。膀胱まわりの神経を傷つけてしまうので、排尿の感覚が鈍くなることがあって…。私は比較的すぐ導尿が必要なくなったんですけど、それでも“尿意の感覚”がすごく分かりにくくなってしまって。自分では「まだ大丈夫」と思っていても、急に限界になって気付く、みたいなことが増えました。だいたい1年くらい、その感覚に苦しんだと思います。
岸田 そんなに続いたんですね…。ありがとうございます。そういった後遺症もしばらく続きながらも、そこからまた気持ちが少し上がっていくのが「大学入学」。無事進学して。
上原 何とか、ですね。
岸田 “何とか”どころじゃないですよ。本当にすごいです。大学に入って、そして『あの風プロジェクト』に参加されて、さらに出版のお仕事にも携わったと。
上原 『あの風プロジェクト』は、女性のがんサバイバーが闘病当時の思いを“サバイバー短歌”として31文字に込める、という取り組みなんです。そのプロジェクトに参加したことがきっかけで、出版にも関わることになりました。
岸田 出版に携わる、というのはまさにその活動からだったんですね。
上原 そうです。
岸田 そして今は「進路を模索中」。迷える子羊…ということで、これは合っていますか?
上原 はい、そんな感じです。
岸田 将来を考える時期ですもんね。
上原 もともと大学の第1志望の学部ではないところに進学したので、“本当にやりたいこと”が今はできていなくて、一度立ち止まって考え直している、というのが一つあります。それに加えて、今はコロナで留学も難しいじゃないですか。私、大学在学中に“世界一周”をしたかったんです、本当は。でも今の状況だと難しくて…。それで、大学院に進むのか、専門分野で大学に入り直すのか、それとも就職するのか。その三つで今、本当に悩んでいるところです。
【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 本当に、今後のあみさんの将来はぜひ皆さんにも注目していただきたいと思います。では続いて、こちらが「ゲストエクストラ」です。あみさんが困ったこと・大変だったこととして三つ挙げてくださっています。「話せないこと」「一般的な励まし」「体調の変化」。それぞれ、どういう意味だったのか教えていただけますか。
上原 友人たちには、ある程度、自分のがんのことや治療の状況を話してはいたんですけど…やっぱり、言っても分からない子が多かったんですよね。17歳や18歳って、まだ分からなくて当然というか。あと、大人からも、この年齢で発症したことに対して「かわいそう」という目で見られることが本当に多くて…。最初から“かわいそう前提”で話されると、自分が本当に思っていることを言いにくかったり、聞いてみたいことを聞けなかったりして。年上のサバイバーさんや、病棟で仲良くなった人たちには何でも話せたんですけど、元からの友達や親戚、昔から知っている人には、病気のことは相談しづらかったです。
岸田 なるほど。「一般的な励まし」というのはどういう意味でしょうか。
上原 よくある“誰にでも言うような励まし”って、実際に言われると、逆に疎外感があって…。向き合ってくれている感じがしないというか、「かわいそう」と思われて終わりで、自分の気持ちに寄り添ってくれているわけではないんですよね。そうなると、励まされるどころか、むしろ心が少し遠くなる感じがして、すごくつらかったです。
岸田 そして「体調の変化」。味覚や髪質が変わったり、いろいろ苦しいこともあったと思います。それをどう工夫して乗り越えてきたかとして、「逃げるように旅行」「エッセー」「短歌」「違うがん種の体験談」と挙げてくださっていますよね。こちらについても教えていただけますか。
上原 “逃げるように旅行”というのは、今でも当てはまるんです。がんを乗り越えたとはいえ、妊よう性の問題や体の変化など、将来を考えるうえで足かせになることはいまだに多くて…。ふとした拍子に気持ちが急に落ち込むことがあります。そんなとき、現実から少し距離を置く意味で旅行に行くんです。新しい景色を見ると気分が変わるし、新しい価値観や考え方の人に出会うと「自分、視野が狭くなってたな」「こんな考え方もあるんだ」と思えるんです。固定観念から一歩外に出られるというか。“別の世界に触れること”が、すごく大きなリセットになってる気がします。
岸田 かっこいいですね。関西を巡って、神社やお寺でいろんなものを吸収して。エッセーや短歌というのは、先ほどの『あの風プロジェクト』なども関係しているんですか。
上原 それもありますし、自分でもエッセーを書いてみたりしています。大学の授業で短編小説を書く授業を取っていたり、フォトエッセーを書く授業を受けていたりもするので、言葉に思いを込める機会が多いんです。
文章を書くことで、自分の中の“毒”じゃないですけど…心の重さみたいなものが少しずつ抜けていく感覚があるんですよね。
物語の中に自分の抱えているものが自然と反映されて、それを外側から眺めることで、「あれ? そんなことで悩んでたの?」って思える瞬間もあって。視点が変わるだけで気持ちがすごく軽くなるんだと気付けました。文章を書くのは、私にとって大切な“発散”になっています。
岸田 そして最後に、違うがん種の体験談が役に立ったということですね。子宮頸がん以外の方の体験談が参考になった、ということでしょうか。
上原 はい、とても参考になりました。味覚障害のこと、ウィッグのこと、副作用との向き合い方…。がん種が違っても、治療で共通する部分って意外と多いんです。
同じがん・同じ抗がん剤でも、副作用の出方は人によって全然違うので、むしろ「別のがん種の方の情報」が助かることもたくさんありました。
たとえばウィッグの自然な着け方を丁寧に発信してくれている方がいたり、メンタル面の向き合い方を書いている方がいたり。
味覚障害についても、私は毎回“食べられなくなるもの”が違っていたので、そういう記録をしている人の投稿を見ると、「あ、私だけじゃないんだ」と思えて救われました。
そこから「じゃあ、この食材を試してみよう」と気持ちを前に向けられるようになったことも大きかったです。
【メッセージ】

岸田 そして、そんなあみちゃんに、次、こちら。今、見てくださっている方に、あみさんにいただいてるメッセージはこちらになります。悲しむんじゃなくて一緒に向き合い続けてという言葉をいただいております。
上原 悲しむんじゃなくて一緒に向き合い続けてっていうのは、家族の人とか、がん患者さんだけじゃなくて、患者さんと一緒に生活してる人とか周りの人っていうのは多分、一緒にすごく、最初はショックとか、すごい何らかの心に変化があると思うんですよ。
特に悲しいって思う方が多いかなとは思うんですね。周りの方に特になんですけど。そうやって悲しまれても、ずっと治療は続くし、治療が終わったとしても、がんって終わってからも5年10年って、いろいろ節目になるときがあると思うんですけど。そこまでずっと付いて回るもので、一生付いて回るものと言っても過言じゃないものなので、ずっと心の中とかに悩みとして残るものなんですよ。
がんになったよっていうときとか、治療中だけ、がんって悲しまれて。その後、普通にもう治ったでしょって思われるのって、結構すごく患者本人としては精神に来る部分があります。なので、がんになったよって告知されたときに、そのときに悲しむだけじゃなくて、治療中も治療後もがん患者さんに対して、周りの人が一緒に向き合い続けるっていうこと、病気に対してずっと向き合い続けるっていうことが一番のサポートになるし、頑張ろうとか生きようとか思えるきっかけになるんじゃないかなと思うので、悲しむだけではなく、一緒に向き合い続けてほしいなと思って、こういうメッセージを書かせていただきました。
岸田 どうしても患者さんって本当に、かわいそうな人みたいなイメージもあるかもしれませんけれども。じゃなくて、一緒に頑張っていこうよっていうか。本当、向き合い続けてサポートしてくださったりとか。
そうしてくれると、患者としてもうれしいと思いますので、皆さんもぜひよろしくお願いいたします。そういった中で、きょうは本当、あみさんにいろんな経験談をお話ししていただきました。これにてがんノートmini、終了していきたいと思います。どうもありがとうございました。
上原 ありがとうございました。
岸田 バイバイ。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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