目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:宗

【治療】

岸田 それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは、乳がんと子宮頸がん経験者の宗綾子さんです。よろしくお願いします。

岸田 綾子さんの紹介をさせてください。宗綾子さん、現在、会社員で社長室長という、素晴らしい肩書の方です。

岸田 がんの種類は乳がん、そして子宮頸がんのダブルキャンサーの方で、ステージが1と1A、そして32歳と35歳のときに、がんになられています。現在の年齢は48歳でございます。

岸田 治療としては、手術とホルモン療法と、放射線療法の3種類を行われているということになります。宗さんがどんなふうに闘病されてきたのか、僕のほうから簡単に紹介もさせていただきます。

岸田 2003年11月、31歳のときに、右胸が腫れてきたので病院に行くと、右側にしこりがあるということだったそうです。2004年の3月、32歳のときに、良性と思われてたもの、右側のしこりが、3カ月後、手術をしたときに悪性と診断されました。

岸田 その2週間後にセンチネルリンパ節の生検もしていて、転移はなかったそうです。7月に放射線療法が始まりまして、1日2回の通院されていました。

岸田 これも後でちょっとお話を聞いていきたいと思います。その後、ホルモン療法、ゴセレリンとノルバデックスというものを行いまして、経過を見ていきます。

岸田 2007年の2月、35歳のときに、ホルモン療法の副作用などの関係もあり、婦人科を受診されていて、子宮頸部の組織を取ると悪性が発覚してしまう。そこで子宮頸がんということが分かったんですよね。

岸田 その2カ月後、手術を行い、卵巣と子宮を摘出していきます。

岸田 ただ、卵巣は取らなくてよかったかもしれないという、ちょっと衝撃的な言葉もいただいてるので、また後で聞いていきたいと思いますが。

岸田 そこからホルモン療法、エキセメスタンとアナストロゾール、これ一般名なので、また綾子さんがお話しするときは商品名になるかもしれませんが、そこはご了承ください。

岸田 アロマターゼ阻害薬を服用し、途中、副作用から薬を変更したそうです。今はもう10年以上たっていますので、寛解ということで服用はしていらっしゃいません。綾子さん、そんな感じで問題ないですかね。

 そうですね。最後のところで、あと言うと、乳がんは寛解とかっていう言葉はあんまりないので、引き続き経過観察。私のタイプの場合が、ホルモン受容体を持ってる方っていうのは、10年も20年も30年も。再発の可能性があるということなので、ずっと経過観察っていう形にはなっていく部分ですね。

岸田 少し闘病のときのことをお聞きしながら、2、3個、質問していきたいなと思っています。まず、左胸が腫れたので病院に行くと、右側にしこりが。これ、どれぐらいの大きさだったんですか、最初は。

 左胸が腫れたってよりも、胸全体がパンパンに腫れました。これが最終的には乳腺炎みたいな形になって、原因が分からないということでしたね。

 それでそのときに、左胸だけではなくて、一応、左胸も右胸も両方ともマンモグラフィーを撮って、両方とも超音波検査をしました。

 その際に右側。「左側は何ともない」って言われたんですけど、右側のほうに、ちょっとなんか気になる所があるよっていうことで、初めて見つかったのがそういうものだったんです。

岸田 良性と思われていたけれども、右側にしこりもあるし、手術して、良性と思われていたものが、3カ月後の手術で悪性の診断。これやっぱり手術したときに、悪性と言われたときはびっくりしました?

 そうですね。かなりびっくりしました。多分もともとのベースがあんまりこういう病気に対して、ネガティブなところがすごく強い人間なので、なおさら、一度、手術をして良性と思って取っているので、だから終わったっていう認識で、ただ単に病院に聞きに行ったんですよね、病理の結果を。

 そしたら、そのときに、いや実はっていう形で。手術する前には多分、九十七点何パーセント良性ですっていうようなことを言われたんですよね、先生のほうからも。なので、もうこちらも取れば終わりって思ってたので、行ったときに悪性って言われたときは、結構ちょっと、かなり私の中ではショックでしたね。

岸田 そうですよね。その後、2週間後、再度、センチネルリンパ節の生検して、転移はなかったと。少しだけほっとするって感じですかね。

 うーん、そうですね。でもこのときもう、何だろう、自分の中で何の情報もなかったので、あんまりほっとしたっていう感覚はなかったですかね。

 リンパに転移はなかったっていうので、ちょっとほっとしたんですけど、だけどやっぱりちょっと怖さはあんまり変わってなかった気もします。

岸田 そんな怖さは変わらずですけれども、そうは言ってもられない。その後すぐ、次の治療が入ってきますもんね。放射線療法。1日2回の通院。これ5週間の放射線治療で、1日2回の通院、9時と13時って、これどういうことですか。

 これ、ちょっとびっくりされる方もいると思うんですけど、私の治療の行ったのが、16年前ですよね。そのときには、毎日、1日2回、放射線を当てに行ってたっていう、治療法だったんですよ。

岸田 1日2回するっていうのは、当時、普通だったんすね。

 私のときには、普通でした。何の疑いもなかったです、だから。

岸田 これ、通院ってどういうことですか。9時行って、ちょっと病院内で休んで、もう一回13時な感じですか。

 うん。普通の皆さまはそうされてたみたいですね。周りの方のお話を聞くと。でも私たまたま病院から自宅が近かったので、15分ぐらいだったのかな。

 だから、1回、治療を受けたら、一度全部持って、1回帰って、もう一回、1時に行くっていう。それを毎日やってましたね。

岸田 ほんまの1日2回、通院をしてたんすね。

 本当にやってました、それは。毎日、毎日やってましたね。だから、遠い方は結構「それだけでしんどい」って言ってましたね。同じ治療受けられてる方は、「もうつらいな」ってことは言ってました、そのとき。

岸田 1日2回の通院をされていて、その後、ホルモン療法がスタート。注射と飲み薬。これも結構、大変だったということで、副作用のことは、また後でお話していただければと思いますけれども。このまま婦人科を受診してたのは、やっぱホルモン療法してたからですよね。

 そうですね。そのときに、私が先生から説明受けてたときには、私の飲む、ホルモン療法のノルバデックスっていうものが、子宮の内膜がちょっと厚くなるので、子宮体がんのほうになりやすくなる、本当に微々たる量の確率でなるので、「年齢も若いから一応、検査も受けていこうね」っていうことを言われて、半年に1度ぐらい、婦人科の検査をそのとき入れてたんですよね、先生が。それを35歳まで繰り返してたってことですね。

岸田 その中で、組織部を取ったら発覚すると。このときは、どう思いました? 2回目のがん告知みたいな感じじゃないすか。

 何でしょうね。初期っていうか、1A期って、のちのち分かったんですけどね、1A期っていうのは。そのときにも、最初すぐにいきなり黒い判断というか、あなた、悪性のがんでしたよっていうのが出たっていうよりも、半年ぐらいの猶予があって。

岸田 そんなに。

 そう。半年間、ずっとなんかグレーだったり、ちょっと黒に近かったりっていうようなことを、半年間、実は繰り返したんですよ。なる前に、前段階がね。

 そこがまず一番、高いものが見つかったところから、がんになったりっていう、そこを若干、繰り返してたところがあって。それで最終的に、「がんです」っていうことを、半年後に言われた感じです。だから、半年間は結構、細かくもっと検査をしていて、最終的に言われたっていうのが、35歳のときですね。

岸田 そのときに言われた。ショックだったとかは特に。

 なんでかな。自分でも覚えてないんですけど、乳がんのときのほうが、自分の中では衝撃があったんですよね。だから、なんか慣れてたわけではないとは思うんですけど、乳がんのときほどではなかったっていう印象が残ってます、自分の中で。

岸田 そんな後、手術で卵巣と子宮の摘出でしょう。その卵巣は取らなくてよかったって、これどういうことですか。

 これは、「もともとの子宮頸がんが小さいものだろう」と、手術の前に先生がそういうふうにおっしゃっていて。

 だから、おなかを切らなくてもいけるかもしれないってことだったんですよね。下からの、膣から削るっていう形の手術でも、対応になるかもしれないっていう話をされました。

 乳がんのホルモン治療、今は10年なんですよね。そのときは5年だったんで、5年の治療が終わった後に、お子さんを望まれないかどうかとか、お子さんが欲しいんじゃないかっていうことを、同じ病院の中で、先生たちが、乳腺の先生と婦人科の先生、あと私も含めたところで、いろいろ何度も相談させていただいて。

 結果、本当だったら取らなくてもいいかもしれないけど、どうしますかっていうことを委ねられた感じですね、自分に。

岸田 その取らなくてもいいけど、どうしますかって言って、判断、難しいですね。どういう判断、最終的に切除されてますけど、どういう判断で切除にしたんですか。

 情報が何もなかった時代だったので、自分と家族の判断でしかなかったんですね。それで、胸と卵巣とか、そういう部分のがんの関わりとか、遺伝性のものとか、そういうものっていうのを、全く分からない状態で。やっぱり家族と話したときに、そんとき私は子どもも、もう1人もうけてたところがあって。

岸田 そうなんですね。

 いるんですね。今後、子宮をこのまま残すこと、ホルモン治療が終わった後が、ちょっと怖かった、不安もあったので、だからできたら、治療のためにも卵巣を取ったほうがいいんじゃないかっていうことを、家族で話し合いました。

 今後のことも考えて、これを機に卵巣も取ってしまおうっていう判断をしたっていうのがありますね。そのときの情報量だけで考えたことです、これは。

岸田 今だと、いろんな情報がありますからね。

 うん。違うと思います。そのときは、そういうふうに至ったっていうことですね。

岸田 本当に苦渋の決断とか、いろいろあったと思いますけれども。

 そうですね。欲しかったのでね。最初に乳がんになったとき、その33歳でなったときが、もともと不妊治療を始めようかっていう、ちょうど検査をしてたときだったんですよ。

 2人目がちょうどそのとき欲しくて、1人目が23歳で産んでるので、結構、離れてるんですよね。

 間が空いていて。だから2人目を希望していたので、ちょうどその検査を受けてるときに、乳がんになったっていう経緯があったので、私なりにはちょっと悩みましたね。

岸田 相当、悩んだと思います、それは。

 そうですね。

【副作用】

岸田 ホルモン療法、アロマターゼ阻害薬を服用して、途中から副作用のため、薬を変更ってありますけど、どんな副作用があって、どう変更したんですか。

 そうですね。これ閉経後の薬になるんですけど、最初アロマシンっていうものを飲んでいて、それが膝と足首が、結構、立てないぐらいに痛くなったんです。

 椅子から立ち上がるのも大変で、もう痛みって生活に直結してくるじゃないですか。忘れさせてくれないというか、病気をね。

 だからやっぱり、そうなってきたときに、ちょっとこれを、この後、何年間も飲むのは結構きついなと思ったので、先生に関節痛がちょっとひどいっていうこと、お伝えをして、そしたら同じお薬でも、副作用が違って出るものもあるので、ちょっと別のものを試してみましょうってことで、変薬して変わったんです。そこが変更した理由かな。

岸田 変更した理由っていうことですね。副作用について、そのままお伺いしたいんですけれども、副作用で、先ほど変えたのは関節痛だったり、痛みっていうこともありましたけれども、ホルモン療法、最初の乳がんのほうの、閉経前のほう。閉経前のホルモン療法のほうは、これはどうでした? 副作用とか。

 これは、32歳でいきなり多分ホルモン療法を始めたっていうせいもあって、私の場合には、ホットフラッシュって、よくこう、かーって熱くなるっていうやつ。あと動悸。

岸田 動悸、息切れ。

 どきどき、そう。動悸息切れってやつ。あれと目まいっていうものが、セットになったものが、1日のうちに何回もくるっていうのが、私のパターンの副作用だったんですね。

 ノルバデックスのときにはね。だから、そのときはちょっと、それが結構しんどかったかな。嫌になるというか、鬱々としてくるというか。

 ああ、まただ、まただっていうので、なかなか外にも出にくくなったりとか、出掛け先で起きるとそれがちょっとしんどかったので。そういうことは覚えてます。

岸田 けど、もうそれは、耐えるしかないですかね、そこについて。

 耐えるしかなかったんですよね、そのときは。本当に。

岸田 もうそれはずっと、服用してるときは、もうずっとって感じですか。

 うん。そうです。私の場合には、昼間だけじゃなくて、寝てる間も、24時間、ずっと関係なく、ちょうど同じような時間でやってくるみたいな、そんなところがありましたね。

【工夫したこと】

岸田 そうだったんすね。寝てるときもあったということですが、いろいろ工夫したんじゃないですか、そんなときに。

 そうね。私は、寝てるときに、夏はまだよかったんですけど、冬、起きると結構、悲惨で。寝てる間も起きるんですけど、すごい、暖房付けてるわけじゃなく、普通に休んでても、夜中、もう汗びっしょりになって、暑くて起きるんですよ。

 どきどきして、苦しくて夜中起きて、それでもう暑いから、汗かくじゃないですか。だけど眠いから、そのまま寝ちゃって。

 そうすると、それで風邪をひくとか、そういうことを繰り返してたんですよね。

 それがちょっともうどうしようと思って、自分なりに、お布団に、アイスノンとかいうのありますよね、枕を二つ用意しておいて、一つが普通の枕で、もう一つが、その氷を置いてある枕で、ずっとそこをこうゴロゴロしたりとか。

岸田 二つあるのをね、こう。

 二つあるのを、冷たい所とこうやりながら、そしたら、何だろう、すごく楽になったっていう記憶はあります。

岸田 両刀使いみたいなね。二つ置いて工夫。

 手とかこう付けたりとか、やってましたね。あと、何が一番よかったかって、缶コーヒーとかあるじゃないですか。

 缶の飲み物。コーヒーとかを冷凍しておいて、枕元に置いといて。あれ結構、溶けるの時間がかかるので。普通の保冷剤だと結構すぐ駄目なんですけど、その缶コーヒーをガーゼに巻いたものをこう脇の下に当てたりとか。その2パターン、二つを常にやってた記憶がある。

岸田 そういう方法もあるんすね。

【大変だったこと】

岸田 もしあればなんですけど、闘病のときに大変だったこと。

 大変だったこと。大変だったことは、先ほどから言ってますけど、情報がなかった。2004年のとき、そんときインターネットとかって、本当、私、明るくないし、全然分かんなかった。

 2004年ってどうなんだろ。私が明るくなかっただけなのか、分からないんで。とにかく何にもなくて、先生からお話を聞いても分からないじゃないですか、何を言われてるか。それでよく本屋さんに行って、医学書とか読んじゃいました。

 先生たちが読むやつの、勉強するやつを、読んだりしてました。本屋さんで立ち読みでね、もう。

 でも、それしか情報を得る方法が正直なくて。なんかでも、すごい知りたがりなので、自分の治療のことをすごく知りたかったので、だからその方法しか正直なくて。

 だからその病気に対して、その頃から自分に判断を委ねられることはあったんです。「どうしますか」とか。結構、委ねられることあったんだけど、何も分からないから、そこは自分で自力で調べるしかなかったので。

 今みたいな、こうやってネットとかそういうもので調べることができなかった。だから、最初っからそこはすごく大変だったっていう思いはあります。

岸田 そっか。自分で医学書読んで。ガイドラインとか当時あったんすか。

 いや、私ね、そういうことも知らなかったです。そこすら知らなかった。今だったらガイドラインってあるんだとか分かる。どこからか、多分、聞けると思うんですけど。本当に分からなかったです、何にも。

岸田 今だったら、乳がんの学会とかで、行ってガイドラインとか、そんなとこ調べることはできますけど。

 そうなんです。なんかそんなときでしたね。

【治療費】

岸田 治療費や制度はということでね。綾子さんが32歳でがんになったとき、例えば保険とか入られてたのかだったりとか、そういう公的なサービスを受けられたかだったりとか、そこをお伺いしたいんですけれども、どうでした?

 これもさっきの話と一緒で、全く情報がなく、私、知らなくて。病院にそういうことを聞けば、教えてくれるっていうことすら知らなかったんです。

 だから、自分自身は全く保険にも、もちろん入ってないですし、なると思ってなかったので、入ってなかったんですよね。入ってなかったし、それにそういうことをあんまり聞くこともせず、健康保険のみってことで。

岸田 じゃあ、高額医療費制度だけ、国民健康組合。

 うん。そうです。

【仕事との両立】

岸田 仕事との両立。綾子さん、先ほど会社員ということで、社長室長というような肩書もあったかと思うんですけど、当時お仕事とかされてたんですか。

 全くしてないです。先ほど言ったんですけど、私22歳のときにもう結婚をして、23歳に子どもを授かっているので、それからずっと専業主婦で。

岸田 専業主婦から社長室長って、ちょっと全然、あれなんですけど。当時は専業主婦だったということですね。専業主婦との治療との両立はどうでした?

 それは、今は仕事してますけど、それを考えたら、多分、仕事と家のことは融通が利くじゃないですか、ある意味。自分のことで。

 息子もそのとき、一番最初の乳がんのときには10歳だったので、小学校に行ってたりしてたので、ある程度のことは特に問題なく、全然、過ごせてましたね。

【闘病のまとめ】

岸田 闘病まとめて振り返っていきたいなと思います。闘病まとめとして、2003年11月から2004年8月まで、乳がんの手術、そして放射線療法、ホルモン療法は8月以降、ずっとされていて。2007年4月から、35歳のときに子宮頸がんになりました。手術、そしてホルモン療法をされていたと。副作用としては、先ほどあった、ホットフラッシュ、動悸、目まいだったりとか、関節痛だったりとか、そういったところはあった。ちょっと生活面のほうで、趣味ができなくなりとか、患者会、立ち上げ、ここについてちょっとお伺いしてもいいですかね?

 ずっと乳がんになる前から、すごくテニスが大好きで、主婦になってからはテニスをずっとやっていて、試合とかもすごい頑張って出てたんですよね。

岸田 試合も。ガチじゃないですか、それ。

 そうなんですよ。部活みたいにやっちゃってて。すごく夢中になっていて、だったんですけど、最初は、その乳がんになって、手術してから1年間は休んだんですけど、その後、副作用がありながらやってたんですね。

 さっき言ったとおり、ホルモン療法に変わってから、関節がすごく、手とか手首とかも痛くなってきちゃって、ラケットをこう握るだけでも、ボールにはじかれちゃったりとか、やっぱりそういう、ちょっと捻挫しちゃったりとか、支障が出てきてしまって。

 だからやっぱり、すごく楽しんでやってきた趣味を一つ、諦めざるを得なくなったというか、折り合い付ける形にはなったっていうところが一つ。自分の中で、今はこうやって話せますけど、そのときはさみしかったかな、すごく。

岸田 いや、そうですよね。だって趣味を手放すってことですもんね、言ってしまったら。

 そう。すごくさみしかった覚えがありますね。

岸田 僕もアニメ見れなくなったら、もう無理やな。

 なんかやっぱり好きなこと止めるって、なかなかつらいですよね。

岸田 患者会を立ち上げるとありますけれども。

 はい。これは私が38歳のときかな。キャンサーネットジャパンさんっていうところの、BEC、乳がん体験者コーディネーターっていうところの認定を受けたんですね。

 そのときに同じ私と住んでいる所が近い方と、3名で立ち上げた会がÇava!っていう会なんですけど、そちらの会のほうを立ち上げたっていう経緯があります。

 2011年だったと思うんです、それが。そのとき、あんまり私の住んでる所では、がんになったばかりの方が経験者から話を聞くという場がなかったんです。それで患者会を立ち上げました。

岸田 本当に情報がない、患者会も少ない時代んときですよね。そこから、患者会を立ち上げ、仕事にまい進するように。お、主婦じゃなくなっていくんですね。

 主婦じゃなくなる。これは、私ずっと専業主婦って、さっきから何度も言ってますけど、そのときにこの患者会っていうか、これボランティアなので、ある意味。

 なので、ここで、Çava!でかかるものっていうのは、全部、自分で出すじゃないですか、もちろん。それだけは自分で決めていて、自分の賄いでというか。

岸田 自分のボランティア活動は自分の。

 自分で、どうしてもそれだけはやりたいっていう希望があったんですよね。決めたことというか、自分の中で。なので、ここの患者会を立ち上げた翌年にはなるんですけど、それでそのときに初めてアルバイトに出るきっかけです、仕事のほうは。

岸田 アルバイトして、そこで仕事をしていってっていう形なんですね。

 そうです。アルバイトで入って、そこから、なぜかとんとんっと、どんどん、こういうふうに形になっていって、今があるっていう。ざっくり言っちゃうとなんですけど。

岸田 今の会社、そのアルバイトで入ったとこなんすか。

 私の初めての社会経験というか、そういう正社員としてはそうですね。

岸田 すご。じゃあ、もうあれですね。ポテンシャルあったんすね。

 いや。私、違うと思います、これは、本当に。これは間違いなく、私自身が、がんになってから、人が変わったわけではないんですけど、考え方とか、何かしらが自分の中で変わったっていうふうに思ってるので、多分その経験がなかったら、なかったんじゃないかなと思ってますね。

【がんから学んだこと】

岸田 綾子さんが、がんの経験から学んだこととして、まずこちらの言葉をいただいております。『誰かのためではなく、自分のためにと考える』どういう意図で、経験から学んだって感じですかね。

 そうですね。これは、先ほどから言っているように、子どもがいて、私の息子が9歳のときに、私ががんになってるんですけど、乳がんね、最初の、がんになってるんですけど、そのときに、息子は普通どおり学校に行くので、近所の方に託さなければいけない、一人っ子なので。

 登校班とか、そういうの託さなきゃいけないことがあって、そのとき、どういうふうにしたらいいか分かんなかったんで、取りあえず近所の方には、私、自分のことを伝えたんですよ。「ちょっと入院するからお願いします」と。

岸田 がんのことも言ったってことですか。引かれなかったですか。大丈夫でした?

 ちょっと引かれたんだけど。だけど、言ったほうがいいと思って、言ったんです。のちのち後悔するところあるんですけど。

 言って、そしたらそのときに、あちらとしてはすごく励ましてくださる気持ちでね。うちの息子のために頑張んなきゃ駄目だよってことを、すごく励ましてもらったんですよね。

岸田 お子さんのために頑張りなよ、みたいな、治療を。

 そう。誰々ちゃんのために、頑張んなきゃ駄目だよってことを、年上の方だったので、すごく言っていただいた。

 その言葉自体は、すごくありがたかったんですけど、全くしっくりこなかった。全く。自分がすごくこう、なんかいけないのかな、じゃないけど。

 あちらの方、ちょっと目を潤ませながら、こういうふうに言っていただいたんだけど、私、全くそこ響かなくて。何とも分かんなかったんです。

 あのね、数カ月たってから、それ自分の中ですとんと落とし込めるときが、実はあって。

 それはホルモン治療中で、結構、病院も行くことがあんまりなくなって、家にいたときにちょっと考えたんですけどね。

 そのときに、息子は、たかが9歳とか10歳の息子でも、例えば、彼が、私がいますぐここから、彼の前からいなくなったら、かわいそうかもしれないけれども、彼は生きていけるし、生活もしていけるし、ましてや、私がいないからこそ得られるものも、彼にはきっとあるんじゃないかっていうことをすごく思ったりとか、そこまでいろいろ考えたことがあったんです。

 だけど、そうやって考えていったときに、私が息子が大きくなった、そのとき小学校だったんで、中学校になったら、制服を着た姿とか、どんな部活に入るのかとか、どんな高校を選ぶのかとか、どんな大学に行くのかとか、息子だけのことを考えたら、そういう息子の先々を自分が見たかった。

 だから、息子が私を必要としてるっていうふうに考えるよりも、私が見たい。私が見ていたい。息子だけのお話ですよ、これはね。

 だから、そういうふうに考えることっていうふうに、なんかどこかがすごく自分の中で悟りを開いたというか、なんかこう、すとんと落ちた瞬間があって、それが子どものことでスタートした、そこの考え方だったんですけど、それが全て、何だろう、自分の両親まだまだ若くて健在だったんですね、そんときもね。

 なので、子どものことだけじゃなくって、両親のことから、友達のことから、周りのことから、全てそういうふうな、自分が何々をしたいから、どうしたいっていう考え方に、すごく変換されるようになったっていうところがあります。

 それがすごく、ずっと専業主婦で、家にずっといると、誰かのために何かをしてあげようっていう気持ちって、すごく私、強くなっちゃってて、そういうふうになんかなってたんですよね。

岸田 旦那さんのためにだったりとか、子どものために。

 みんなが生活しやすいためにどうしようとか、そういうふうにすごく考えてたところがあったんですけど、それが全然、変わった。自分の中では結構そこが変わったっていうか、ターニングポイントになってる、がんになってからっていうところですね。

岸田 それがターニングポイントになるんすね。だから、誰かのためにではなく、自分のためにと考えて。頑張るって、自分のためにっていう価値観の変換が起こったってことですね。

 変わったってことですね。

岸田 はあ、すごい。そして、ここからまだ、きょうはこれだけじゃないんです。綾子さんが学んだこと。ここだけじゃなくて、ここからまた一歩あるんです。『今の時間がきっと自信につながる』この理由もいろいろお伺いしていきたいんですけども、そこから、どうつながっていくんですかね。

 そのことはもちろんベースにはあって、でもそんなこと言えども、ずっと検査って続くじゃないですか。いろいろ検査って続くじゃないですか。

 OKかどうか、まるで審判台に立つような、そういうことってずっと続きますよね。私も実際に今16年過ごしてきて、一度も全然へっちゃらなときってなかったんですよね。

 いつもいつも、もしなんかあったらとか、なんか見つかったらとか、なんかそういうちょっと検査の前になると、定期健診の前になると胸がぞわぞわする。

 そのときの、昔のことを忘れてるつもりでも、やっぱり思い出しちゃう。告知を受けたときに、良性だと思って行ったところが、実は悪性でしたよっていうふうに言われたときの瞬間のことを、なぜか私は覚えていて。

 だから、やっぱりそういうこととかが、結構ずっと不安っていうのは、自分の中に付いて回ってるところがあります。

 なんですけど、何だろう、そういう中でも、こういうふうに治療とか、毎日の生活とか、そういうものを、治療中はもちろん、粛々とそういう毎日、毎日が精いっぱいであったとしても、それを毎日続けていくこと。

 検査にしても、つらかったろうが、それを毎回、毎回こなしていくこと。普通の生活も一緒ですけど、そういうことを、続けていくことで、そういうことの今までのこと全てが、全部、自分の自信につながっているっていうのが、自分の中で、そうなった今、あるっていうのが、本当のところかなとは思います、自分で。

岸田 じゃあ、綾子さん自体も今、結構、不安。病気に関しては不安なんですね。

 私は多分、不安になる人です。全然へっちゃらな人じゃない。平気な人もいるんですけど、私はやっぱり常に気になっちゃう人ですね。

 ましてや今、最初に乳がんになって、子宮頸がん、32と35でなって、今48歳に差し掛かってくると、その他の部分ももちろん、なる可能性が増えてくる年齢に差し掛かるじゃないですか。

岸田 その不安をここに書いてくださってるように、治療などはこなすしかないっていう、いろんな日々の生活だったり、それをこなしていくことで、粛々とこなすことが、今の自信につながって、不安の感じ方も、がんに対する、病気に対しても、不安の感じ方も変わってくるっていうことなんですね。

 私はそう思います。だから、今、起きてることって、そのときと、前のときとは違うのは、そういうことをずっと続けてきているので、仮に今なったとしても、昔みたいなそういう不安に陥ることはないとは思うんですね。

 情報もあるし、自分の中の経験値もあるし、ないとは思うんですけど、それでもまた、同じことを繰り返しなったとしても、何かこれから自分の中に、他の、がんじゃないことでも、何でもあったとしても、それは、がんだけじゃなくて、今回のコロナもそうかもしれないですよね。

 でも分からないですけど、いろんなことを、今、与えられたものを、粛々と本当にこなしていくことで、それがつながって、振り返ったときに、ああ、でも、あのときこうだったから大丈夫とか、そういった自信につながっていけるだろうっていう自信はあります、自分に。

岸田 なんかそういうふうにね。だからあれですよね。ゆくゆく気付くのであって、今、治療とか頑張ってね。今こうやって粛々と過ごしていくことが、のちのちの何かの、自分の自信になってるっていうことですよね。今、不安な中でも。

 そう。私はそう思う。自分自身がすごく不安感の強い人間なので。私はそう思いますね。

 それじゃないとやり過ごせないときも、多分あると思うし。

 でも、時間だけは平等じゃないですか、過ごしていく。健康だろうが、そうじゃなかろうが、多分、同じ時間は流れていくので、そこはぐっと耐えるとか、時にはちょっと明るい何かを見て、楽しい思いをするとか、そんなことの繰り返しなのかなとは、ちょっと思ったりもします。

岸田 そうですね。いや、すごい勉強になります。先生。

 とんでもないです。本当、申し訳ないです。偉そうに。

岸田 C、A、V、A、サヴァを、検索してみてください。それでは、きょうのがんノートmini、以上となります。本当、綾子さん、どうもありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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