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インタビュアー:岸田 / ゲスト:後藤

岸田 ライブ配信開始ということで、がんノートorigin始まりました。よろしくお願いします。では、がんノートorigin、スタートしていきたいと思います。まず私の自己紹介をさせていただきます。NPO法人がんノートの代表理事の岸田と申します。本日、MCを務めさせていただくんですけれども、僕は25歳と27歳の時にがんになりまして、胚細胞腫瘍という珍しいがんでした。

岸田 それを抗がん剤治療や手術などで乗り越えて今に至ってるわけなんですけれども、当時、医療情報はお医者さんだったりとか、病院の方に色々聞いたら良かったんですけど、それ以外の情報ですね。家族にどう打ち明けたの?だったりだとか、お金どうしたの?だったりとか、仕事との両立どうしたの?とか、そういった患者側の情報というか、結構センシティブな情報も含めて、そういった情報ってまだまだ少ないなと。ただ、患者さんに聞いたら結構答えてくれてたりだとかして、こういった情報って大事やと、それをみんなとシェア出来ればということで、インターネットでインタビューして答えていただくがんノートというものをスタートいたしました。

岸田 そして、このがんノートoriginはその原点となりまして、90分のロングインタビューという形になります。今日は骨髄異形成症候群の後藤千英さんに来ていただいて色々根掘り葉掘り聞いていきたいということを思っております。後藤千英さん、宜しくお願いします。

後藤 宜しくお願いします。

岸田 では早速なんですが、後藤千英さんの自己紹介ということで、千英さんのプロフィール、こちらになっております。千英さん、こちら読んでいただけますでしょうか。

後藤 はい。後藤千英と申します。名前がちょっと変化球なので、ちえいというのが、戸籍上はそうなってるんですけど、よくちえさんとか、ちえちゃんとかって呼ばれてる、本当に、会社員です。出身は香川県高松市で、今、仕事の関係で広島に住んでます。仕事は現在、営業職をやっておりまして、これは家庭用品って呼ばれる生活雑貨の、かっこよく言うと商社で販売の業務をしてるということになります。

後藤 病気自体は、骨髄異形成症候群という、あんまり聞き慣れない病気かと思うんですけど、この病気というのは高齢者の男性に多いっていう、患者さんの年齢の中央値はかなり高くて、しかも男性に多いっていう病気に私は17歳、高校2年生の時に診断をされました。今、実は44歳なんですけど、かなり発覚してから治療するまでの期間が長かったっていうのが私のこのがんの闘病なんですけど、この病気に関して言うと、症候群って付いてるだけあって、色んなパターンの人がいらっしゃいます。

後藤 その中で、私は凄く長く経過観察をして治療を受けたっていうタイプの患者でした。治療自体は薬による治療と、最終的には骨髄移植、造血幹細胞移植を受けまして、今は経過観察中という感じで、とても元気に会社員をしております。今日、宜しくお願いいたします。

岸田 宜しくお願いいたします。千英さん、骨髄異形成症候群って僕もあんまり聞かないなと思っているんですけれども、男性の高齢者に多いっていうことなんですね。

後藤 そうなんですよ。高齢者の男性に多いっていう。どんな病気でも年齢の患者の中央値とか出ると思うんですけど、高齢の方が多くてっていう病気なんですね。

後藤 あんまり、骨髄異形成症候群ってぱって聞いても、これがまさか血液の病気やって思う人も少ないんじゃないかなって思うんですけど、最初、私が告知された時も、何じゃそりゃっていう印象だっていうのが本当正直な気持ちなので、恐らく今、そういう方も沢山いらっしゃるんじゃないかなというふうに思います。

岸田 僕も昔は骨髄異形成症候群って、がんじゃないんじゃないかって思ってたんやけど、これはあれなんよね、血液の値がなんかいけば白血病なったりとか、そういうやつですっけ?

後藤 血液の病気っていうのは基本的に繋がっているんですよね。再生不良性貧血っていわれる、これは良性の腫瘍なんですけど、と、骨髄異形成症候群、被るところがあって、骨髄異形成症候群と急性骨髄性白血病はまた被るところがあるんですよ。

後藤 ていうような感じで、病気になる所は骨髄っていわれる造血器なので、その中のどこの段階で病気になるかっていうので病名が変わるっていうようなことらしいです。

【発覚から告知まで】

岸田 へー、ていう形みたいなので、僕も改めて今回で色々勉強させていただきたいなと思っておりますので、是非是非宜しくお願いいたします。それではですね、千英さんに、早速なんですけれども、発覚から告知までをお伺いしていきたいなということを思っています。

岸田 さっきの話では、17歳の時にっていったところで発覚したのが、29歳というふうな話もありましたけれども、どのように発覚して告知されていくかといったところをお伺いしていきたいんですけれども、まず、その17歳当時、どういったことをして分かっていったんでしょうか、千英さん。

後藤 えーとですね、当時、もうこれ、95年っていうだけで超古いんですけど・・・。

岸田 95年ってもう、何の時代やろうな。多分、『幽遊白書』とか見てた。再放送で・・・。

後藤 みんな何してたっていう感じやね、本当に。この私も高校生だったんですね、この時。95年の1月、阪神大震災が起きた年ですね。確か阪神大震災、1月ですよね。この頃なんですよ。だからすごく記憶にあるんだけど、当時、私はバスケットボールを凄くやってました。

後藤 かなりの強い学校でもやってたしっていうのがあって。その時に、ある日突然、手の甲が、手のこの辺がポコッと腫れちゃった、朝起きると。これ、凄くその前の日も本当に死ぬほど走ってたので、今日休めるぞと。

後藤 これはちょっと無理やなっていうので病院に行ったんですね。当然、手が腫れたから、打ち身なのか、骨折なのか分かんないけど、病院に行って、整形外科に行った所、そこの病院の先生が、何故か、今でこそ結構若い子でも血液検査受けると思うんだけど、この95年の辺りであんまり若い子が血液検査受けるっていうことは無かったと思うんですね。

後藤 偶然、本当にそこの整形外科の先生が何故か血液検査をして、そこで、「貧血がかなりきついので、これはもう大きな病院に行ってください」って言われたのが一番最初のきっかけです。

岸田 まあ、確かに整形外科とかで血液検査とかあんまりイメージないですけどね。

後藤 無いよね。だし、高校生の女子なんで手が腫れたって、「レントゲンも撮るけど、血液検査もついでにやっとこうか?」ぐらいの本当に軽い感じで、その先生、本当、超ファインプレーやと思うんやけどね。今でも良かったなって思ってるんですけどね。その後、その大っきな、血液内科っていう診療科があることすら初めて知って・・・。

岸田 血液内科とか普通知らへんから、本当に。

後藤 血液内科って何よ、みたいな。

岸田 血液だけを見る科があるんですよね。

後藤 そう。まず「どこの病院にあんの? そんな血液内科」って。街歩いてても見かけないから。で、まあ、大っきな病院っていうことで、地元の総合病院に受診をして、血液内科に行ったんですね。で、行ったその日に、当然、最初は軽い検査をします。

後藤 血液検査だったりとか、レントゲンだったりとかっていう本当に軽い検査をして、で、その結果を先生が見て、「これはもうちょっと詳しく調べたほうが良いですよ」。午前中に行ったのね。初診なんで午前中に行って、「もうちょっとこれは詳しく調べたほうが良いですよ」って言われて、午後から、「骨髄を調べさせてください」って先生が言うわけ。その時点でもう怖いよね。「何? 骨髄って」っていう、高校生の女子が。

岸田 怖い。怖い!怖い!

後藤 怖いでしょ。で、母に、母と行ってたから。で、一回、「お昼食べてきてください。また戻ってきて」っていう。で、お母さんに、「もう行かんとこ」って、昼から。「やめよう」って、みたいな。

岸田 行かへんとかあんの?

後藤 「怖いからやめよう」って言って。「行きたくない」って。

岸田 どうしたん? ブッチしたん?

後藤 ブッチしたかったけど、母親はやっぱりそらもう連れて行くよね。

岸田 まあね。怖いけど、行かないとね。

後藤 「行って、帰りにケーキ食べよう」とか、なんかそういう、ちょっと高校生の女子が引きずられるようなこと言われて行ったわけですよ。で、骨髄の検査を受けたっていうのが一番最初で。当時、骨髄の検査って凄く、今は違うんですけど、ここから、この辺に太いボールペンの芯ぐらいの針をブスッと刺して・・・。

岸田 胸に?

後藤 うん。骨髄って骨の中の、骨の髄って書く骨の真ん中の部分なんで、そこに造血幹細胞っていうのがあって、それを採って調べるわけなんですよ。今はお尻の大っきな骨から採ること多いんだけど、当時は胸から採る先生もいたのね。

岸田 はーー、なかなかやな。

後藤 私の主治医の先生は胸派で、ここからもう。寝かされて、「ちょっと痛いよ」とか言われて、採って。本当、凄い痛かったしっていう記憶がすごく鮮明ですね。

岸田 今はもう胸じゃないんや。お尻の骨。

後藤 今はもう胸からはやったら駄目ってなってるらしいんですよ。

岸田 そうなん?

後藤 極力。胸はやっぱり心臓に近いので。

岸田 そうやんな。ちょっと「あっ」ってなったらもう心臓いってもうて。

後藤 「あっ」ってやったらそう。本当そうで。だから今はここの大腿骨、お尻の大っきな骨からやるか。ただ、これも、病気が進行して悪くなるとここから採れなくなってしまうんですね。その時は胸からすることもあるっていう。ただ、昔よりは減ってるっていう状況らしいです。

岸田 で、それを採りました。そしたら?

後藤 で、「1週間後ぐらいにまた来てください」って言って、1週間後ぐらいに検査の結果を聞きにいったところ、「骨髄異形成症候群です」っていうふうに言われて。骨髄異形成症候群って、それこそ本当、さっきのキッシーの感想と一緒で、「は?」っていう。母親も、「ちょっと紙に書いてください。どういう漢字ですか」みたいな感じで、先生がこう、スラスラスラと書いて、「はあ、、」みたいな。

後藤 取りあえずこの時、1月やったから、「春休み、もう直ぐ来るでしょ。春休みにはもう入院してください」って言われた、最初に。で、バスケは、先生もバスケ凄いやってるの知ってたし、「バスケはもう今日から止めてください」って言われたんですね。「もう、そんな走ってる場合じゃないよ。今、直ぐ止めて」って言われたのが凄いショックで。昨日と今日で私は何が変わったんや。何も変わってないやんっていう。

岸田 手の甲腫れたぐらいやもんね。

後藤 そう。昨日まであんなにもう死ぬほど走ってた私が。で、休みたいと思ったのに、「止めて」って言われたら「え?」みたいな。

岸田 そうなるわな。

後藤 うん。

岸田 告知を受けたっていうのは、その時に骨髄異形成症候群って。じゃあお母さんと千英さんにも言われたってことね、その場で。

後藤 そうですね。当時はそんな告知する時代じゃないと思うんだけど、その先生、大胆やったよね。普通に言ったし。まあ白血病って言われたら、もしかしたら隠されたかもしれないけど、グレーな病気だったので、バサッと言われちゃったっていう感じですね。

岸田 いやあ、そうか。バサッと言われて、そこから、ここから治療に入っていくというふうな形になるかと思うんですけれども、治療から現在までについてお伺いしていきたいと思います。まず、こちらの次、フリップ的にはこちらになります。2009年。え? 結構・・・。

後藤 いっぱい飛びましたね。

岸田 いや、結構飛んで。ちょっと待ってね。結構飛んで・・・。

後藤 2009年。

岸田 95年1月から、いや、ここで大事なのは、1995年の10月から『エヴァンゲリオン』のテレビアニメはスタートという、そこも抜けてるしっていうふうな処でね。コメントもいただいてるのでちょっと読んでいきたいと思います。よしさん、『おはようございます、今日も楽しみです』だったりとか。mikaさんも、『おはようございます、楽しみにしています』。加地さんも、Jitsuharaさんも。『後藤さん、今日はオフィスからですか』って質問もいただいておりますけれども。

後藤 分かりますか。Wi-Fi環境が良い所に来ました。

岸田 Wi-Fi環境が良い所からやっていただいてます。『整形外科の先生、凄いですね。何かピンと来たんでしょうね』という言葉だったりとか。白木さんも、『ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです』ということもいただいております。そして、皆さん、どんどん質問いただいたら千英さんにも質問をしていきたいと思いますので、是非是非コメントや質問お待ちしております。

【治療から現在まで】

岸田 そして、治療から現在までということで、どういうふうに治療していったのか。さっきのね、ありました。2009年にいきなり飛ぶということで。これ、僕が推測で言うと、もう逃げた? いや、分かんないけど。治療してないの?

後藤 治療してないんですよ、これが、あのー。経過観察はしてたけど。もうこれ、だってミレニアムを超えてるもんね。

岸田 そうよ。95年・・・。

後藤 ミレニアム飛んでるからね。

岸田 10年以上経ってるよ。骨髄異形成症候群って宣告されたよね?

後藤 そう。だから、本当もう私も、「直ぐバスケは今日止めてくれ」って言われたけども、そこから先生の予想ではどんどん悪くなっていって、この子はもう。当時、高松の病院では移植なんかやって無かった。

後藤 骨髄バンク出来て間無しぐらいの時で、この子はもう自分の出身大学に送らないと助けられないって先生は思ってたらしいんだけど、その先生の予想を軽く裏切って、なんだろう、貧血は貧血、病気はあるんやけど、めちゃくちゃ悪くならずに、直ぐ治療をしないといけないっていう状態になるのに十数年かかったっていうことなんですね。

後藤 この間は本当に普通に生活してたんですよ。何も治療とか、薬も、骨髄異形成症候群ってこんな大変な病気なのに、薬も飲み薬とかないのかよって思ってたけど、そういうのなくて、本当に経過観察、たまに病院、3カ月に1回とか病院に行って血液検査をするっていうとこを繰り返しで。

後藤 でも、大学生になったりとか、社会人になったりとかすると時間ないでしょ。だから段々その期間も延びていって、自分が病気、そういう診断をされたっていうことをもう自分自身も、家族も、みんな忘れてたぐらいな感じで、普通に、なんやろ。私、元々バスケやってたぐらいですごい運動するのは大好きだったので、友達と富士山行きたいから山登りまくったりとか、スポーツクラブでずっとエアロビクスで踊りまくったりとか、ジムで走ったりとか、マラソンやったりとか、色々やってたんですよ、スポーツを。

岸田 えっ、ということは、その時、バスケはどうしたん? バスケは止めろって言われたけど。

後藤 バスケは止めろって言われたから取り敢えず一回休んだ。

岸田 一回休んだのね。

後藤 しばらく休んで。でも、体調的に何も変わらないからやってもええんちゃうかっていうのでちょっとずつやり始めた。

岸田 止めろって言われたけど、悪く・・・。

後藤 先生には言ってない感じ。言わずに、まあまあ、ボチボチやろうかなぐらいの感じで卒業までやったんだけど、特に、告知の時もそうやけど、昨日と今日で私、何が変わったんよっていうふうに思ってたぐらいなので。で、て感じなんです。

岸田 骨髄異形成症候群、当時は治療法無かった。今はどうなん?

後藤 今も正直なところ言うと、この病気の、ドストライクの治療っていうのは無いんですよ。治せる治療が無いんですよ。唯一、造血幹細胞移植って骨髄移植のみといわれてまして。で、さっきも言ったように、高齢の方に多い病気なので、移植の適用が無い年齢。大体移植って今、65歳ぐらいまでっていわれてるので。ていう病気なんですね、だから、経過観察っていうのを凄く長く続ける方が実際沢山いらっしゃると思う病気ですね。

岸田 ありがとうございます。これは今、2022年の4月17日現在というふうなことで。

後藤 そう。だから95年から変わってないっていうこの。

岸田 そうなんや。だから、それで経過観察をずっとしてて、2009年の2月になっていくと。

後藤 そう。飛びました、いきなり。で、この時は本当、私、普通に会社員で事務職をしてたんですね。で、さっき言ったように、友達と遊びに行ったり、旅行行ったり、山登り行ったりとか、色んなことに本当に、どっちかっていうとアクティブに動きまくってた人なんだけど、何となく、さっきも言ったように、ジムで、仕事が終わったら毎日ジム行って走って、運動して、シャワー浴びて家帰るみたいな生活をしてる中で、何かドンドン自分の体力が落ちていくことを何となく実感してたのね。

後藤 で、会社の階段を上がるのとかすっごい辛いし、自分の体調が保てないことに凄いイライラするし、頭がずっと痛いとか、全然気力が無い。何もしたくないとかね。ていうことが、色んなことが積み重なって、これ、何なんやろうっていう。何かおかしいぞっていったときに、やっぱりもしかしてっていうのは・・・。

岸田 頭の片隅にはあった感じ。

後藤 そう、やっぱ片隅にはあったから、フラッシュバックをしたような感じで、血液内科の先生の顔がプイって思い浮かんで、ヤバいぞこれはっていう感じで血液内科に素直に行ったっていうのが2009年の2月頃ですね。

岸田 それまでも体調悪い時はあるじゃないですか。例えばインフルエンザになったりだとか。その時は別に血液内科のことをぱっと思い出すっていうのは無かった?

後藤 無い。私、本当、今思えば、この時の、2009年2月辺りの体調が悪いっていうのと、普段のちょっと重症の風邪とか、インフルエンザの体の辛さって種類が全然違くて、これはヤバいぞっていうのがなんか分かった。本能かな?何か分かって。でも本当に、血液の病気なので、超元気な十数年の間もインフルエンザとかには無茶苦茶もう、一般的な人の多分10倍ぐらいかかってる。毎年、A型とB型両方かかるとか。

岸田 うそ。

後藤 本当。そんなの本当にこないだも高校の友人と話してて、「毎年インフルエンザなってたよね」とか言われるぐらい本当にやっぱり強くは無かったんだけど、そういうことはグッと押し殺して、蓋をして、楽しく生活をしてた。だけど、今回のこの2009年2月は、これはちょっとそういう押し込めるようなもんじゃないなっていうのを何となく本能で感じて、素直に病院行ったっていう。で、先生に、「ようこんなんで今、頑張ってたね」みたいなこと言われたっていうのが凄い印象的で。「入院しましょうか?」ってサクッと言われましたね。

岸田 で、即入院していくというふうなことなんですね。

後藤 そうなんですよ。

岸田 で、じゃあ即入院していってから・・・。

後藤 とはいえ、さっきも言ったように、この病気って治療法が無いわけですよ、根本的な。

岸田 そうよね、そうよね。

後藤 治すっていう治療がなくて。完全に治すっていうのは、病気になった造血幹細胞をもう、血液の製造工場を全部取っ換えてしまうっていう骨髄移植しか無いので、これに効くんじゃないかっていわれてる治療法をやっていきましょうと。最初に「移植したほうが良いよ」って言われたけど、移植って怖いじゃないですか。

岸田 いや、まあね、色々。血液が全部変わるわけですしね。

後藤 当時、何故か骨髄移植のドキュメンタリー番組を見ちゃったのよね。そこで映し出されてる女性が凄く辛そうで。もうー、あの、それを見た時に、私はこれ無理と思って。なんで今、私がこんなん見なあかんねんっていうぐらい衝撃を受けて、私はこれは耐えられないから、私はもう移植は絶対したくないって思って、先生に「移植は嫌だ」って言ったら、「じゃあやれることをやっていきましょう」っていうので始めたのがこの免疫抑制療法っていって、これは再生不良性貧血っていう病気があるんですけど、それの治療法。

後藤 私の骨髄異形成症候群はどっちかというとその再生不良性貧血に最初近かったっていうのもあって、免疫抑制剤を服用するっていう治療を2009年の3月から始めました。

岸田 そうなんですね、再生不良性貧血で。そこで、この時は移植は考えへんかったってことね?特に。

後藤 私はね。私はしたくない、私は考えないけど、主治医の先生は考えてたと思いますよ。

岸田 主治医の先生は。

後藤 それしか、治せないからだと思うんだけど。ただ、本人があまりにも嫌がるから、じゃあ出来ることをっていうので、この免疫抑制剤を服用するっていうのをやったっていう。

岸田 この時、これは効果あったん?

後藤 全然無い。これって本当に、1日に2回、12時間置きにネオーラルっていう免疫抑制剤を飲むんですよ。赤血球の回復を目的としてするんだけど、副作用だけはガッツリ出て、凄く毛が濃くなるっていう副作用があって、足のすねの毛とか、もう男子。私、兄弟は兄と弟がいますけど、お兄ちゃんとか弟より全然私のほうが濃いぐらい毛が濃くなった。まつ毛もバサってなった。けど、血球は全然増えずっていう感じでした。

岸田 はい、そっか。それじゃその治療を経て、次、こういう形になっていきます。病状が悪化していくというふうなところで。

後藤 どんどん悪化していく。どんどん悪化してったね、本当に。で、先生は、最終的に移植しかないと思ってるから、まずは兄弟、血縁者で移植をしたほうが、絶対成功率も高いし、都合が良い時に移植出来るんですよね、兄弟であれば。骨髄バンクとかになると、どうしても先方の方のことが分からないので。

後藤 兄弟だったら、今、移植のタイミングやからっていうのがちょっと合わせられるっていうのもあって、血縁者の移植っていうのがやっぱり一番目指したいところではあるんだけど、HLAっていう白血球の血液型が一致しないと移植出来ないんですよ。普段みんなが言ってる、A型、B型、O型、AB型は赤血球の血液型で、移植のときは白血球の血液型を一致さすっていう必要があって。

岸田 そっか、A型とかO型は赤血球の型か。

後藤 そう。赤血球の。輸血の時はそれ使います。移植の時はHLAの白血球の血液型を合わすっていうことをするんです。

岸田 因みにこのHLAについてちょっとだけ纏めておりますので、こちらのスライドになります。HLAとは人の持つ白血球の型。さっきのね、白血球のその型があって。造血幹細胞移植をするには型が合ってる必要がある。赤血球もそうね。O型はO型って合わないといけないしね。

岸田 で、兄弟、姉妹間で完全一致の確立4分の1。4人に1人、25パーセント。で、非血縁者の間でその確率は極めて低くて、骨髄バンクの登録の中で探すということをしないといけないというのが、がん情報サービスによると書いてありましたということですね。4分の1なんや、型の確率が。

後藤 そうなんですよ。だから、単純に兄弟が4人いれば誰か合うやろっていう。まあ確率の問題なんで必ずとは言えないと思うんですけど、あのー、お父さんから・・・。

岸田 そう、お父さん、お母さんどうなん?

後藤 お父さん、お母さんから受け継ぐものなので、兄弟であれば合うっていうことなんだけどね。今は骨髄バンクは8個合わせるっていう。簡単に言うと、A型、B型、O型、C型、D型、H型、F型、I型まであるうちの。

岸田 そんなあるんや。8個。

後藤 それを8個持ってるうちの、お父さんから4個、お母さんから4個もらって子どもが生まれるっていうことなんですよ。お父さんは8個持ってて、お母さんも8個持ってるのを、子どもが4個ずつ貰って1人の子どもが生まれるので、兄弟間は合い易い。

岸田 そういう感じなんね。

後藤 だから、うちの兄弟で言うと、私、さっきも言ったけど、兄と弟がいて3人兄弟で、3人兄弟もいれば誰かが合うやろと。で、兄と私は凄く性格とか見た目が似てるんですね。顔が似てるとか。で、弟とは全然似てないんだけど、血液型が一緒だったんですよ。

後藤 で、お兄ちゃんも、弟も、「大丈夫や、俺らのどっちかが絶対合ってるから、絶対どっちかが助けられるから」って言ってくれてて、私も絶対大丈夫や、このどっちかと合ってるから、もし最悪移植になっても、兄弟に助けて貰おうと思ってたんだけど、さっきのHLAの検査の結果は、お兄ちゃんと弟は一致してたの。

岸田 そっちか、、、

後藤 本当、そっちか、で。で、私は違う。だから、兄と弟どっちかがこの病気になれば移植出来る、融通し合えるんだけど、私は合わないから出来ませんっていう結果を聞いたのが、えーーと、エープリルフールだったんですよ。

岸田 エープリルフールなん?

後藤 2009年の4月1日だった。

岸田 うわ。それほんま、嘘なのか、本当なのか、マジでちょっと。

後藤 先生に言ったよね、苦し紛れに。「嘘じゃ無いんですか?」みたいなね。

岸田 そやね、言いたくなるよね。

後藤 言いたくなる。本当に凄いショックで、これは。どっちかが合うと思ってたので。やりたくない移植がもっとやりたくなくなったっていう。

岸田 そうね。やりたくなくなった。ただ、その下に輸血を受けるって書いてあるけど、これはどういうこと?

後藤 凄く貧血が強かったので。さっきの症状のとこで、イライラするとか、ドンドン自分のパフォーマンスが、体力が無いとか、そういうの全部、貧血が原因で、ヘモグロビンがすごく低い状態だったんですね。で、輸血っていうのも、何かちょっと罪悪感無い? 輸血受けるってなると。

後藤 みんなねえ、若年がん経験者の方は輸血受けてる方沢山いらっしゃるから抵抗ないかもしれないですけど、私、最初の時凄く抵抗があって。そんなん勝手にやっていいんかなみたいな。輸血っていうのは、事故とか、あと、緊急の外科手術をした人が受けるものであって、私、そんなんどっちもないし、なんで私が輸血っていう凄い抵抗があったんですね。

後藤 ただ、輸血を先生に言われたのは、「後藤さん、輸血を受けないと心不全起こすよ」って言われたのね。『心不全? 何で?』と思って。どういうこと?っていう。その時、本当無知だったんだけど、ヘモグロビンって酸素を運ぶものが凄く不足してたので、体をちゃんと維持出来るだけの酸素が身体の中に無いわけ。

後藤 それを無理やり心臓が動かすから「心臓に凄く負担が掛かって、心不全で貧血で死ぬこともあるよ」って言われて、『えっ、死んじゃうの? 死ぬの?』っていうので渋々輸血を受けたっていうのが一番最初なんですよ。

岸田 そこから9月に入っていって、効果が無く服用中止。これはさっきあったネオーラルってやつ?

後藤 そうだね。ネオーラルを半年ぐらい飲んだけどあんまり効果、あんまりというか、ほぼ効果が無かったので、免疫抑制剤っていうだけあって、やっぱり免疫力を抑えるっていうこともあるので、止めましょうっていうので止めました。で、尚更、骨髄移植を勧められると。

岸田 そらそうよね。根本的な治療が無かったらそら骨髄移植しましょうっていうのは思いますよね。ただ、それを拒否していくと。さっき言った・・・。

後藤 もう無理。テレビ見たことと、兄弟と合ってないということ。で、無理ってなって。

岸田 無理ってなって。拒否してたらどうなんのやろっていうのは、次のフリップになります。ドンと。その1年後。

後藤 1年拒否し続けたわけ。

岸田 そして、高熱が下がらず入院していくと。

後藤 そう。もう熱が全然下がらなくて。外来で治療してたんだけど、全く下がらなくなって、それこそもうこの時も、もう無理、家じゃ無理っていう。ご飯も食べられないし、先生にも「入院しましょうか?」って言われて、入院して、この病気を、ベーチェット病っていう。私がその時に言った症状が、もう、このベーチェット病の症状に全て当てはまってて、実際そうだったっていう。

岸田 さっき言ってたのは、骨髄異形成症候群のなんか作用とかじゃなくて、ベーチェット病やったってこと?

後藤 いや、この熱っていうのが、高熱が出るというのがベーチェット病の・・・。

岸田 そういうことね。

後藤 だから、1個病気が追加されたみたいな感じかな。

岸田 ベーチェット病っていうのがあんまりよく分かってないんやけど、指定難病で、高熱が下がらへんってやつなん?

後藤 そう。いくつか症状があって、高熱が下がらないとか、口内炎。口内炎っていっても、普通に出来る口内炎じゃなくて、半端ない口内炎。粘膜に症状が出るのね。痛過ぎて。だからご飯が食べられないとか、そういう症状が出るんですよ。これも、ややこしい、本当に厄介な病気で、自己免疫疾患なんですよね。

岸田 自己免疫疾患で・・・。

後藤 自分で自分を攻撃するみたいな感じで、言うたらね。

岸田 はーー、それが9月診断受けて、10月に、血球回復目的。さっきのあれかな、輸血したとか、そういうレベルの血球の回復?

後藤 これも再生不良性貧血の治療の一つでATGっていうのがあって、移植したくないって言うから、「じゃあATGやってみましょうか?」って言って、ATGもやってみたっていう。

岸田 ウサギATGって言うんやね。なんか新鮮な名前。

後藤 これはなんかウサギから作ってるらしい。

岸田 皆さん、しっかりした情報はがん情報サービスだったり・・・。

後藤 調べてください。私もこれ凄く気になって、あんなにかわいらしいウサギからどうやって薬作るのっていうのを先生に聞いたら、薬剤師さんが飛んで来ましたね。「いや、そういうのじゃないんです」って言って。何か昔は、馬だったらしいんだけど、今、ウサギに変わってるらしい。

岸田 ていう。

後藤 何ですかね。ちょっと詳しいこと私も分からないんだけど、とにかく何かウサギATGっていうのをやりました。

岸田 免疫抑制のお薬で、しっかりまたそれで治療していくというふうな形になっていきます。そしてその後、こちらになります。2011年。また少し・・・。

後藤 また効果無い。

岸田 効果が無く治療中止ということで。じゃあやっただけという形で、あんまり変わらなかったのね。

後藤 ガッカリです。空振りばっかりで、本当に。期待したんだけどね。まあしょうがない。それはやっぱり病気がそれだけ進行していたということなんだと思うんだけど。で、この11年3月に、本当に、さっき最初にも言ったように、骨髄異形成症候群のために発売されてる薬って無かったんですね、当時は。

後藤 この11年3月にアザシチジンっていう薬が初めて発売されたんです。骨髄異形成症候群の人のための治療薬。待望の、やっと。凄い期待するやん。これで、もしかしたら私は治るかもしれないと思って、先生も「直ぐやりましょう」って言って、直ぐやったわけ、それも。

岸田 そっかあ、それは即しましょうっていう形ですよね、そんなん出たら。やった、感じで。ただ、その下にもう治療中止って直ぐ書いちゃってるからちょっと・・・。

後藤 よっしゃーと思って、めちゃめちゃ頑張ってやったんだけど、これも本当に。実際、骨髄異形成症候群の方でアザシチジンの治療受けて凄く血球回復されてる方、沢山いらっしゃるんですよ。上手くいってる人も沢山いるんだけど、私の場合は上手くいかなくて、血球が全く上がらなかったんですね。効果無しと判定をされて、中止っていうのが大体4クール、5クールぐらいやって判断をされてしまったんですね。

岸田 そっか。何もね、全部空振りばっかって感じですね。

後藤 何やってもアウトになるっていうね。

岸田 今も骨髄異形成症候群の人はそのアザシチジンっていうのをする方もいらっしゃるの?

後藤 皆なほぼ。症状が経過観察っていう期間を超えて一定以上の症状が出ると、基本的にはアザシチジン使うと思います。今、もう本当に凄く多剤併用の基本になるような薬の一つで、MDS界には本当にありがたい薬なんですよ。私には効かなかっただけで。

岸田 MDSっていうのは骨髄異形成症候群の略?

後藤 そうですね。MDSって。ややこしい、長いからみんなMDS、MDSって言うんだけど、MDS界には本当にありがたい、ビダーザっていう薬品名なんですけど、重宝な、本当にお宝のような薬です、今でも。

岸田 ただ、まあ、千英さんはそれが効果なくて中止って。ようやくここで決意していくんですね、造血幹細胞移植。

後藤 そうなんですよ。もう八方塞がりで。この頃にはもう身体も限界やったんですね、やっぱり。

岸田 そらねえ、熱・・・。

後藤 熱も40度ぐらいバンバン出てね、輸血しないと。週に1回ぐらい輸血してて。それぐらいになると、例えば寝返りをバッと打つ、寝てる時に。それだけでも動悸がするの。

岸田 えっ、寝返り、そんな大したことして・・・。

後藤 寝返り、体力使わないと思うでしょ。でも、こうやってやっただけで心臓バクバクバクってなるし、お風呂とか入るのもやっぱりちょっと。お風呂の前に椅子置いて、湯船に入る前に一回座ってじゃないと入れないとかね。湯船から上がろうと思ったら、ぐっと力入れるともうそれだけで動悸がするとか、今思ったら、冬場とか大根おろしをするじゃん。あれだけで心臓がダッシュした後みたいになる。

岸田 けど、僕も抗がん剤治療の後、そんな感じなってたから結構分かる。

後藤 それが日常的な色んな処でそういうのが出て来て、輸血毎週しててもこんなんやから、このまま、一生生きていくのは無理やなと思うんですね。

岸田 それで、ようやくそこでやろうと思って決意していきます。その後のフリップがこちらになります。2012年1月。ちょっと、数カ月経って、セカンドオピニオンして転院していく。セカンドオピニオン受けたんや、その後。

後藤 これは当時、私の行ってた病院が、私、ドナーが兄弟いなかったので、骨髄バンクっていう所に登録をするんですね。で、バンクっていうのは移植の指定の病院があって、どこででも出来るわけじゃないんですよ。で、私の病院は指定病院では当時無かったので、病院を変わろうっていうので、どこの病院行こうかなっていうのでセカンドオピニオン。

後藤 で、またこれ、移植したくないから、最後の、何ていうのか、もう一あがきしようかなと思ってセカンドオピニオン行ったっていうのと、移植どこでしようかなっていうのを探すっていう目的もちょっとあって、何カ所かセカンドオピニオン行きましたね。

岸田 何カ所か行ったんや。

後藤 3カ所行ったかな。

岸田 そこに転院しようと思った、転院する先の決めたのは何かあったん?

後藤 そのセカンドオピニオン行った先の一つの病院の先生が凄くフィーリングが合ったというか。その時も私と母と2人でセカンドオピニオン3カ所受けたんだけど、どの病院の先生も言われることは本当に同じで、もう厳しいことしか言わない。まあ、ごもっとも。もう本当に、何ていうのかな?やっぱりそうなんやなっていう現実を突き付けられる中でも一番こう。

後藤 で、セカンドオピニオン終えた後に、「お母さん、どうする?どこの病院の先生が良かった?」とか、いつもそういう話を母とすると、うちの母は、「お母さんは分からへんわ」って言う人なんですよ。

後藤 「お母さんは分からへんわ」って言うタイプの人が、何を聞いてもそうなのね。そういう人が、「お母さん、どうやった?」って聞いたら、その時だけ、「あそこの病院、あの先生の所が良いなって直感でそう思った」って言った所と、私が思ってる所がばちっと合ってたわけ。

岸田 ホーホーホー、凄い。

後藤 で、もうここやな、その先生やなと思って、主治医にその話をして、「ここの病院に転院したいです」っていう話をちゃんとして。で、その元の病院の主治医の先生も凄く本当に良い先生で、セカンドオピニオン行く先の病院、一緒に探してくれたりとか。本当に先生や看護師さんにも凄く恵まれて治療のスタートラインを切ることが出来たっていうのは本当に今も感謝してることですね。

岸田 ありがとうございます。そこで付いていくということを決めて、4月に卵子保存をされていく。ここに関しては後でちょっと妊孕性の話でまた伺っていきたいということを思っております。その後のフリップはこちらになります。ようやく造血幹細胞移植をしていくというふうなところで。じゃあ見つかったんですね、ドナーが。

後藤 見つかったんですよ。これも本当に、私と完全に一致してる人っていなかったんですね。さっき言った8個合わせるから。

岸田 8個は無理や。

後藤 これって凄く不思議で、合いやすい人、日本人らしいHLAを持ってる人っていうのは、完全一致が100人とかいる人もいるんだって。100人、200人、フルマッチの人がバンクに登録があるっていう患者さんもいれば、私みたいに一人もいないっていう人もいるし、本当にこれって面白いんだけど、HLAって遺伝子情報なので、先祖を辿っていくと繋がるっていう凄い壮大な話でね。私も自分のHLAを検査に出した時に、日本人には少ない型ですよって出てた。てことは、私、日本人らしくないHLA。だから、先祖がどっか大陸のほうからやって来たのか、そんな感じなんでしょうね。

岸田 ちょっと渡って来た的なね。

後藤 多分そうなんだよね。で、日本人らしくない型なんだけど、一部合わない、ちょっとだけ合わない人っていうのがバンクに2人いて。ちょっとだけ合わなくても、DR座っていうのが合わない人だったらそんなにフルマッチとそう大差無いですよっていうことが、今、もう分かってるんですよ、研究で。

岸田 そうなんや。

後藤 この座が合わない、言うたら、AB型は合わないけど、ここは合わなくても何とかなるよっていう。

岸田 じゃあ8個全部合わなくても、ちょっとぐらい合わなくても何とかなる的な感じはなって来てるんや、今。

後藤 ていうのがあるみたいなんですよね。ていう状況のドナーさんが2人いて、その方たちにバンクから患者さんがいますよっていうお手紙が行って、その方が同意をしてくださって、移植提供者が見つかったんですよ。

後藤 だから本当に、人数が2人って少ないから、コーディネート始まっても一発で終わっちゃうわけなんだけど。めちゃくちゃ早かったですね、だから。沢山いたら沢山調べていくけど。より条件の良い人にっていう。

岸田 そういうことね。

後藤 調べるパイが少ないから、もうパサッて一発で終わって。だから、1月に患者登録して、6月って、5カ月しか経ってないっていうのは本当に超スピード移植が出来たっていう、本当にありがたい移植でしたね。

岸田 そして色々、多分この移植の後も大変だったでしょうけど、退院をしていき、そしてその翌年6月に職場復帰が出来ていくということなんですね。1年ぐらいで復帰出来たんや、逆に。

後藤 そうなんですよ。でも、私、遅いほう。結構早いですよ、みんな。移植後、復帰する人は。私、4カ月も入院してたけど、最近もう、1カ月半とか2カ月で退院する人もいるし。ただ、退院後、やっぱりちょっと、通院が凄く頻回で、週1回、毎週行かないといけないとか、そういう時期が段々延びていって、1カ月に1回になったぐらいで復帰をしましたね。1年後ぐらいに。

岸田 ありがとうございます。仕事の話はまた後でお伺いしていきたいと思います。で、ようやく今、何とかなるさということで。今はどうなん? 状況的には。

後藤 今はですね、実はもう、これ、2012年、今、2022年なので、移植は今年で10年経つ。

岸田 そやんね、10年や。

後藤 がんって5年たったらもう寛解ってよく言われるんだけど、血液の病気だからなのか、私、未だに病院にはしっかり通ってて、去年の夏後ぐらいから、ちょっとなんか血液の動きが怪しくて、ずっと4カ月に1回ぐらい通院してたのが、今、ちょっと何かまた怪しいデータがちょくちょく見られるようになって、今、月に1回、経過観察の意味を込めて血液内科に通ってるのと、あと、やっぱり移植をしたことでいろんな、後遺症とは言わないけども、女性ホルモンを投与してる治療を受けてたりとか、あとは甲状腺にちょっと、「放射線の副作用じゃないかな?」って血液内科の先生は言ってるけども。

後藤 ちょっと問題があって、そっちも薬飲んで治療してたりとかっていうことはあるけども、でも、元の移植する前の体のことを思うと全然もう何とかなるっていうふうに思えてる、有難い、本当に幸せな状況ですね、今。

岸田 そうね、当時に比べたらというところで、今、過ごされているということですけれども、お写真を数枚頂いておりますので、闘病前と、闘病中と、闘病後のお写真を少しだけ振り返って見ていきたいと思います。まず闘病前のお写真、こんな感じになってます。ああ、やん、やんちゃじゃないな、すごい、もうすごい感じの。

後藤 これ、だから、10年、謎の時ね。

岸田 完全に『獲ったどー』みたいになってる。

後藤 そう。富士山凄い登りたくて。山登り滅茶苦茶やってたんですよ。だけど、いまだに富士山行けてないんやけど、今回、この時に、色々写真を探ってて、何か良い写真ないかなと思ったら、そうや、登ってたなと思って、こんな写真があったわと思って出して来たんだけど。

岸田 山登りとかアクティブやった時ね。

後藤 そう。

岸田 今もアクティブやけど、よりやってた時。

後藤 全然今とは違う。

岸田 そして、治療中の写真、こんな写真頂いてます。ドン。

後藤 キャー。

岸田 なかなか。

後藤 本当に私、この右の写真、このまま、この顔が治らないんやったらもう死んだほうがマシやなと思ったのね。

岸田 なかなかインパクトあるね、これ。

後藤 こんなんで外出られるかっていう。で、先生に、「先生、この顔って治る?」って聞いても、「うん、多分」みたいなこと言うわけ。

岸田 これ、どのタイミングの時? 因みに。

後藤 これは、左、移植の時の写真なんだけど、周りは本当に看護師さんとか、主治医とか、うちの母親とかも写ってる。これ、無菌室なんですね。これ、髪の毛もあるけど、この本当に数日後はこんななるわけ。

岸田 あっ、そうなん? この数日後が右なん?

後藤 うん。

岸田 わお。

後藤 怖いよね。エンドキサンっていう抗がん剤が、もう強烈過ぎて。

岸田 抗がん剤してたんや、エンドキサン。

後藤 移植の時、使うんで。放射線と抗がん剤で前処置っていう移植の前の、何て言うのかな、自分の持ってる血液工場、私の不良品だらけを作る血液工場をブッ壊すわけですよ。それでエンドキサンと放射線を12グレイ浴びるっていうのをやって。本当にだからそれやってるとこがこの左側の写真で、その数日後に本当こんななるんですよ、右側みたいに。この落差が半端無いんだけど。いや、本当にこの右の時はつらかった。

岸田 そうね。ここから、けど、髪の毛はまた生えてきたのね、治療終わったら。

後藤 生えて来た。抗がん剤ってみんなきれいに抜けるイメージがあるけど、そんななんか酷い、なんやろう、落ち武者みたいな感じでね。でも、これを切れば良いんだけど、この時に、この子たちって、こんなに酷い薬、浴びても抜けずに残ったこの髪の毛が凄くいとおしくて。

岸田 あーー、そういうことで残してんのか。

後藤 そう。この子ら凄いなと思って、半端無い生命力やなと思って。結構みんな、剃るとか、気になる人も多いと思うんだけど、私、何かこの子たちがいとおし過ぎて残してた。

岸田 そういうことね。最終的には全部抜けたん? 大丈夫やったん? 残った?

後藤 いや、抜けますよ、やっぱり。

岸田 抜けたんや。そっか、いとおしくて残していたという。

後藤 いとおしかったね、やっぱり。凄いなと。本当にもう顔もパンパンだし、湿疹だらけでね、全身。

岸田 それで治療、それを経て、そして今は、こんな感じでおられます。またアクティブな。山ではなくて、次、川

後藤 これはラフティング行った時の写真で。四国に吉野川っていうのがラフティングでは結構、聖地らしいですけどね。楽しかったですね。

岸田 右下の方が千英さんですね?

後藤 え?

岸田 青色の、この右下・・・。

後藤 そうそう、そうですね。

岸田 ラフティング。今はもう・・・。

後藤 もう元に戻ってますね、本当に。

岸田 ているということですね。ありがとうございます。そして、色々コメントをいただいているので、ちょっとコメントを読ませていただきたいと思います。Kazumiさんや、マーシーさんも、『よろしくお願いします』ということで来てますし、Nさんも、『身体のつらさで分かるんですね。やっぱ自分の身体で感じることって大切だと思いました』。

岸田 体調不良の時ね。『毎年インフルエンザヤバいっすね』だったりだとか、『急性骨髄性白血病で亡くなった父も当初は再生不良性貧血と診断されました。血液の病気はそれぞれグレーなんですよね』だったりとか。

後藤 変わっていくんですよ。

岸田 ということで、Kazumiさんも、『忘れもしない2009年4月』ということだったりとか、『HLA検査をする時に兄弟の方は進んで検査を受けてくれるのでしょうか?』。検査の場合は進んで検査受けてくれたんよね?

後藤 そうですね。うちの兄弟は進んで受けてくれました。これはさっき言った骨髄の検査みたいじゃなくて、採血で。血液を採ることとか、今はスワブでもHLAを調べられるので簡単なんですよ。

岸田 ありがとうございます。そうなんですね。スワブ?

後藤 うん。粘膜をこう。

岸田 そっか。そっか、そっか。

後藤 でもHLAの検査出来るんで。

岸田 簡単。

後藤 簡単なんですよ。

岸田 ありがとうございます。それで、『骨髄移植を拒否されていた時はどのようにお仕事されていたんですか』っていう質問をいただいてるんですけども。

後藤 基本的には輸血を週に1回受けるために病院に行って、輸血、私、ハイオクって言ってましたけど、ハイオクを満タンにして会社行く。で、仕事をパーっとやる。で、また次の週、午前中は休んで輸血を受けてっていうような生活してましたね。

岸田 そうなんですね。ありがとうございます。そして、『難病だと自治体によって手当も出ますよね』だったりとか、『寝返りで動悸なんて恐ろし過ぎます』ということだったりとか、『フィーリング、治療する上で大事ですよね』とか、『写真の髪型のインパクトが半端ない』という言葉もいただき・・・。

後藤 この写真は、私、人生でこんな酷い顔の時は無いだろうと思って撮ってもらったんですよ。

岸田 無いね。

後藤 これをもう底辺にしようと。

岸田 流石に無いわ。ここは凄い。インパクト大でございました。

後藤 なかなか出したくないというか。でも、やっぱり、これがスタートやなって思うので大事に取ってる写真です。

岸田 ありがとうございます。凄くこちらもこんな大変だったんやっていうようなことが分かり易くて凄い良かったです。そして、ここから色々な項目について30分程度でここからパパッと聞いていきたいと思っております。

【家族(親)】

岸田 それでは次、家族のことといったところで、まず親。お母さんの話は出て来ましたけれども、お母さんと色んな病院行ってということで、ご両親どういうふうにサポートしてくれたりとかしました? こうして欲しかったなとか逆にあったりとかしますか。

後藤 そうですね、基本的には、やっぱり高校生の時に診断された時も母と一緒に行って、社会人になって調子が悪くなった2009年辺りはもう20代半ば、後半ぐらいだったので、もうしっかりとした一大人なんで、やっぱ親には言いづらかったんですよね。心配掛けるっていうのがまず一番。言って、心配掛けたくないなというので、まず兄弟だけに話をして、「何かちょっとおかしくて病院行ったらこういうふうに言われたよ」と。

後藤 兄弟はほら、骨髄移植、もしかしたら受ける時に助けてもらわないといけないかもしれないから、一応、兄弟だけには話をして、で、両親には言いたくないよっていう同意も兄弟に得て、で、暫く過ごせたんだけど、いよいよHLAの検査受けないといけないよとか、輸血とか、治療しないといけないのを隠すわけにいかないですよね。

後藤 ただ、どうしても母だけにはやっぱり言いたくなくて。凄い心配するの。だから、まずお父さんだけに話をして、で、「お母さんには、ちょっとまだ言いたくない」って言ったら、お父さんも、「分かった。それで良いと思うよ」って言ってくれたんでしばらく隠してたわけですよ、母親にだけ。

後藤 で、病院に呼ばれた時も、お父さんだけに付いていってもらって、お父さんに話、聞いてもらってっていう感じでやってたんだけど、何かのタイミングで先生が間違えて家に電話かけて来て。で、お母さんが、平日の日中なんかいないから、私たち。で、母が出て。えらいことになりましたよね。

岸田 そうなんや。

後藤 私の携帯の着信がもう、『お母さん』、『お母さん』で埋まるぐらい、電話の着信、ブワーってかかって来て、「何?」みたいな。

岸田 わーー、で、どうなったん? そこから。お母さんは。

後藤 お母さんはだからもう本当、緊急家族会議みたいになって。当時、私は実家にいたけど、お兄ちゃんとかもう独立してたので、本当に緊急家族会議みたいになって皆なが集まって来て、「実はこうこうで、お母さんには隠してたというか、心配掛けたくないから内緒にしてたんやけど」っていう話をしたら、「ごめんね」って感じで、逆に凄くそこで絆が深まったっていうことにはなるんだけど。だから、先生が電話したことは一瞬青ざめましたけど・・・。

岸田 本当は、本当は、あかんやんってなりますよね。

後藤 そうなん。先生にも言ってたんよ。お母さんには言ってないからっていうことを。わざとちゃうかって思うけど。でも、本当それがきっかけで、家族が治療に向けて絆が深まったっていう一件ではあるので、今思えばあれはあれで、当時はもう倒れそうになりましたけど、良かったかなって思ってます。

岸田 いやあ、凄い、結果良ければ全て良しじゃないけどね。

後藤 本当そうですね。

【恋愛・結婚】

岸田 そんな中で、家族ではそういった絆が深まっていったといったことはありますけれども、その後の、こちら、恋愛や結婚っていったところはどうしていくのか。今は千英さんは独身ですよね?

後藤 そうですね。独身ですね。だから私は基本的に元気な、超元気でアクティブっていうのでずっと生まれてこのかた来てたので、あんまり自分がそういう病気、まあ17歳で診断されてるので、そういう病気であることって人に言いたくなかったんですよ。

岸田 もう元気なキャラ通ってますもんね。

後藤 そう。なのに一方そういうところがあるっていうことは誰にも知られたくなくて、本当、最小限の人にしか言ってない。だから、恋愛においても言ってない。

岸田 わお。そうなんや。じゃあ言わへんでお付き合いして。どうどう、カミングアウトはするの? しないの?

後藤 だから、治療の頃にはもうそういうのは一回全部ばっと何も無くしてフラットにして、恋愛とか無し。

岸田 フラットにして、もう全部解消して。

後藤 そう。て感じやね。

岸田 てことは、お付き合いとかそういったところはもう全部切って、自分の治療に専念していったってこと?

後藤 そう。

岸田 男をばっさりばっさりしていって、治療の専念していって。で、治療は終わるやん、造血幹細胞移植も終わります。そこからは・・・。

後藤 そこからは、今、こういう感じで、がんノート出させてもらったりとか、色んな患者会活動とかしてるんですよね。何だろうな、最初、嫌やというか、隠したいと思ってたこの病気のことであるとか、この経験っていうのは、もう私の履歴書、最初は履歴書に書きたくないことだったんだけど、私の人生の履歴書があるとするならば、絶対書くべきことやなっていうことの一つになったんですよね。それを経験したことで得たものが凄く大っきいので、今は、もしそういうことになれば話すと思うし、言わないといけないことだなというふうに思ってます。

岸田 じゃあ骨髄移植してからは、お付き合いするんだったら言うということ?

後藤 本当そう。言うっていうか、もう分かるよね。殆ど、そうなっちゃってるので。

岸田 そうよね、もうググったら出て来ますもんね、こういうの。

後藤 そうなんですよ。だから、最初はそれにすごく抵抗があったから。障害でしかないと思ってたね。若くして、がんになったことっていうのは私の人生において汚点っていうか、黒いことでしかないと思ってて、誰にも言いたくないし、知られたくもなかったんだけど、今は全然それは悪いことじゃないなっていうふうに思えるようになって来たっていうことですね。

岸田 何がそれ、転換点やったん?それは。

後藤 なんやろうね。変な達成感?何だろう。治療を受けて、あの、言ったら修羅場?

岸田 造血幹細胞移植?

後藤 うん。私、生き地獄やと思ってるので、その治療っていうのは。生き地獄みたいなところを経験して、生きるか、死ぬかっていうことを何回も乗り越えていくと、そんな経験をしたことを隠すっていうのは勿体無いなっていう。勿体無いというか、全然そんな人生の隠すことじゃ無いなっていうふうに思える。何か自然とそういうふうになっていったんですよね。

岸田 だから今はもうオープンにしているという。

後藤 うん、全然。

岸田 その後、もし言いたくなかったら大丈夫なんですけど、造血幹細胞移植してからお付き合いされた方はいらっしゃった?

後藤 うーーん、いるような、いないような。

岸田 いるような、いないような。大人な恋愛の。その方は勿論知ってたってことよね?

後藤 そう、勿論。で、やっぱ病院も行くしね。て、いうのもあって。全然それは今なら言う。

岸田 それがハードルになるというわけでは無いということ。

後藤 無いですね。

【妊よう性】

岸田 ありがとうございます。そして、その次の話題なんですが、妊孕性といった言葉。こちら、子どもを作る能力といったところで、千英さんも色んな活動されている中で、妊孕性、子どもを作る能力、それを、セカンドオピニオン行った後かな、移植の時に妊孕性温存の卵子保存をしたということが、さっき書かれていましたけれども、これはどういうタイミングで、どういうふうにしようということを思ったんですかね?

後藤 移植を受けたくないって思った原因の一つは、子ども産めなくなるっていうこと、やっぱ凄い大っきかったんですよね。移植を受けると100パーセントに近い、もう99.9パーセント子どもは産めなくなっちゃいますよということを言われた時に、それ知らなかったんですよね。

後藤 超ショックで、「え?」みたいな。そういう病気になった時点で普通の一般的な20代、30代の女性よりかなりビハインドしてんのに、もっとそれが下がっちゃうというか、ビハインドするのかよと思ったら凄いショックで。

後藤 でも、この先生が、「ただ、卵子の保存っていうのが」。これ、でも10年前の話なんで、今より施設も少なかったしね、保存出来る施設も。ましてや、高松、四国には無かったんですね、当時。東京か大阪に行って保存をするっていう時代で。この10年、本当にそこは変わったと思うんだけど、転院先の病院の先生が、ちょうどそこの血液内科の不妊治療のクリニックなんですけど、卵子とか精子の保存の勉強会を始めたっていうとこだったんですよ。

後藤 で、「紹介状書くから直ぐ行ってきて」って言って、行ったっていうのが最初で。ただ、やっぱ血液の病気の人は、移植前の人が保存するって結構ハードルが高くて。移植の日が決まってるから。

岸田 あーー、日程的な問題で?

後藤 そうなんですよ。で、女性の場合はやっぱり生理のコントロールをして卵子を採れるタイミングっていうのを逆算してやっていかないといけないので、注射を打ちに通うとか、凄くスケジュールを細かく組み立ててもらって。で、私は入院して保存をしたっていう感じです。

岸田 ただ、それを調整して卵子保存は出来たってことよね?

後藤 出来ました。本当、運良く。1回、4月に保存をしたんだけど、1回で一定数の卵子が採れたので、それを凍結出来たっていうのは本当ラッキーで。これ、もしこの時駄目だったら、次の月ではもう全然、移植のスケジュールに影響が出てくるので諦めないといけないっていう状況だったんだけど、それは本当にうまいこといったっていう、良かったっていう感じですね。

岸田 今だとね、本当にこの妊孕性温存出来る施設も増えて、こちらは助成金とかも色々出るようになったりとかもしておりますのでね。当時は結構、お金もかかったんじゃないかなというのは・・・。

後藤 そうやね。だから全部で50万はかかってると思う。

【仕事】

岸田 それぐらいかかるよね。お金の話をまた後ほどしたいと思います。ありがとうございます。そして次、仕事のことといった中で、お仕事ね。さっきも質問でありました。治療してる時のお仕事どうしてるのかってところ。

岸田 これを、治療してる時のお仕事どうしてるのかっていうことだったりとか、復帰する時に、時間かかったっていうことですけども、時間かかってどうだったのかだったり、周りの反応とか、そういったところをお伺い出来ますでしょうか。

後藤 最初、事務職で仕事をしてて、治療の時に、病院へ行って、昼から出勤してみたいなことやってたんですよね。で、移植を終えた後っていうのは結構この。事務職っていうのは、1カ月のスケジュールは決まってるわけ。20日になったらこれをする、10日はこれをしないといけないとか。ただ、治療を終えた移植後っていうのは、結構、病院に行くことがあったりとか、いつ調子が悪くなるかもしれないっていうこともあって、営業に変わったんですよね、そのタイミングで。

後藤 営業のほうがまだ自分で何とか時間の遣り繰りがつくんちゃうかっていうこともあって、営業に職種を変わるっていうことをやりました。で、しんどい時はしんどいなりにセーブして、行ける時は行ける時でバーっとやってっていう感じで、今も、だから復帰してもう10年? 9年目か。ずっと移植後はそういう感じで営業職で、今もやってます。周りは割と、会社でもう皆な知ってるんで、協力的にやってくれるし、得意先とか、得意先の人は知らない人もいるけど、仕入れ先の人とかは知ってる人もいるから、それをネタの一つにしたりとかしつつ営業活動してますけどね。

岸田 ネタの一つ? どういうこと?

後藤 会話の中で、最近やっぱり多いじゃないですか、若い人の病気とか。そういうので、「実は私も」。本当に仕事上で出会った友人も、岸田君も知ってるメグちゃんとか、本当にそういう感じで結構いるんですよね、経験者が。若くて、がんを経験してるっていう人が割といて、何かグッと近づくよね、それだけで。同じような経験をしてるっていうだけで。

岸田 そういう話をしていったら、たまたまその患者さんがいらっしゃるとかっていうのがあったりして、そうすると共通の話題とかでグッといくっていうね。

後藤 そう。

【お金・保険】

岸田 そういう、仕事でもカミングアウトして。ただ、周りもそれを知って進んでいってる。ただ、事務職だと日が決まって色々しないといけないことがあるから、営業職でちょっと仕事の分量を調整しているということですね。ありがとうございます。そして次、こちら。お金や保険。さっき妊孕性の温存に50万円以上はかかっているということありましたけど、保険は当時。やけど、10代の時は入ってないよね? もちろん。

後藤 そうなんですよ。ただ、空白の期間があって、就職した時に一つ保険入ったんですよね。国内の生命保険会社の保険に入って。その時って、若いから、何年以内にこういう病気に診断された、そういうの全部クリア出来るわけ、10年空いてるから。

岸田 そうか。で、国内の保険に入って。

後藤 入って、2009年辺りに調子がちょっとおかしいぞっていう頃に、持病がある人が入れる保険、告知が緩いやつを・・・。

岸田 緩和型的なやつね。ちょっと緩和して緩いやつ。

後藤 そう、そういうのに、これはなんか怪しいなと思う時に入った。

岸田 そうね、備えとくもんやからね、保険は。何かあったらあかんなと思って。

後藤 何かちょっとおかしい、ヤバいなっていう時に一応入りました。だから、保険は結構充実っていうか、かなり、本当に助かったので、若い新入社員の子とかには、「保険入ったほうが良いよ」って言ってますね。

岸田 治療費としては、さっきの妊孕性の温存50万以上だったりとか、骨髄バンクも、どうなん? お金はどれぐらいかかんの?

後藤 骨髄バンクはやっぱり結構高いですよ。バンクの利用料っていうのが何十万かかかるんで。それは保険とかじゃなくて、もう直接骨髄バンクに振り込むっていう費用があるんで。ただ、色んな、所得によって上下はあるんですけど。

岸田 じゃあ、骨髄移植だったりだとか、さっきの抗がん剤だったりとか、色んな免疫抑制剤とかの治療は、高額療養費っていう上限が決まっているお金で、10万円弱だったりだとかで済んでいったっていうことかな。

後藤 そうですね。それ以外に、バンクの利用料と、ドナーさんが検査に行ったら検査の費用とかね。

岸田 ドナーのお金も出すんや。そっか。

後藤 ドナーのお金も出す。ドナーさんが入院した時の個室の費用とかいうのも患者が負担することに一応なってます。

岸田 じゃあそれだけでも結構。だって、バンク登録しても数十万で、そういったものも出したら、それだけでもう50万ぐらいはいくと。

後藤 結構何だかんだでやっぱりお金はかかる。

岸田 かかるね。で、それらを保険で全部カバー出来た? 一寸、足が出たりとか。

後藤 保険と、仕事をしてたので、最初は傷病手当を貰って。傷病手当、1年半かな、もらった後は、これまた、困ったぞと。高額療養費でも最低8万とか10万ぐらいかかるじゃないですか、上限値で。それが毎月出ていくっていうのはやっぱりちょっとしんどいし、保険って基本的に、私が入ってる保険、入院すれば1日幾らっていうので出るけども、外来通院の場合は出ないわけですね。

岸田 そうなんや。

後藤 私が入ってた保険はね。だから、日常の時が困るなっていうので、障害年金を申請しようっていうので、社会保険事務所に行って色いろ話を聞きに行くんだけど、やっぱりこういう若いっていうか、20代、30代の人がひょっこり行って、しかも、見た目全然分からないわけ。

岸田 そやんなそうやな。

後藤 こんな感じで、「障害年金の申請したいんですけど」って行っても、窓口の人は「は?」みたいな。「いや、あなたみたいな人はそういうのに該当しませんよ」とか言われつつも、何この人と思いながら。あれって申請書を書くわけですよ。患者さんが書くやつも結構なボリュームがあって。これ、労務士さんに頼む人もいらっしゃると思うんですけど、私は自分で書きました。で、医師、先生に書いていただく欄もあって。

後藤 これも、先生って忙しいので、あんまりそこの、障害年金っていうシステムがあることは知ってると思うけど、先生の診断っていうのが凄い重要っていうことは多分知らない人も沢山いるんで、そこはネットでちょっと勉強して、先生にこれ書いて欲しいって渡す時に、「ここの所をしっかり書いてください」って言ってお願いをして、出して。

後藤 で、私は17歳の時が、あれって診断日からっていうふうになるので、17歳の時は保険入ってないじゃないですか、国民保険も、厚生年金も。なので、私、当時、厚生年金やけど、国民保険の扱いなんよ。10代で発症した人は国民保険は守られるんですよ。払ってなくてもね、当時。なので、障害者年金の一応1級に該当してたので、症状的に。

岸田 そうなんや。その障害はどの障害? 色んな障害持ってるから。

後藤 重度の貧血。日常生活が送れないっていう。日常的に横になってないと生活が出来ないっていうような。寝返りをするだけで心臓がバクバクするみたいな、そういう状況であったので、そこに該当して。確か国民年金で障害者年金1級になると、月、確か8万ぐらい貰えるんですよ。

岸田 じゃあ治療費は相殺出来るで。

後藤 ちょうど高額療養費ぐらい。

岸田 そうやんね。

後藤 だからうまいことそこは国にも助けてもらって切り抜けられたっていう感じです。なので、ぜひ本当に、障害年金っていうのは該当しそうであれば申請してみるべきですね。

岸田 勿論該当しない場合も結構あったりだとかして。千英さんの場合は該当したということなので、そこら辺は社会・・・。

後藤 してみれば良いと思うんですよね、やっぱり困った時は。

【辛い・克服】

岸田 相談してみていただければと思います。ありがとうございます。そして、ちょっと時間も迫って来ましたけれども、いきたいと思います。辛い、克服といったところで、千英さんが、この時、辛かったなと思ったとき、どういうふうに克服していったのか、身体や心、どういうふうにやっていったでしょうか。

後藤 これはやっぱり無菌室にいる間っていうのは凄い辛いんですね。閉鎖的だし、お医者さんとか看護師さんにしか会えないわけですよ。友達とかも会えないし、家族にも殆ど会えないしっていう中で、身体が辛かったら寝て誤魔化すっていうのが一番良いと思うんだけど、マックスに辛い時って寝れないんですよね。つら過ぎて寝れないっていう時があって。その時はもうひたすら、何かをしたっていうのなくて、病院の時計の秒針をずっと見てたみたいな。

岸田 秒針をずっと見て耐えるという。

後藤 はよ過ぎろっていうだけ。何か音楽を聴くとか色々、入院の時にパソコン持ち込んでとかやったけども、私の場合、音っていうの凄く敏感になって、あんまり音も要らないし。修行みたいなもんでね、本当に。ただ時間が過ぎるのを。ていうか、何にも無いんですよ、本当に。ただ時間が過ぎるのを待つ。だから本当に、いつまででも雨は降らないよっていう感じかな。

岸田 耐えるという。

後藤 耐える。忍耐。

岸田 体育会系的な。これ冗談。

後藤 このノリにはね、結局は。

【後遺症】

岸田 まあみんな、耐えているよっていうことですね。次、そして後遺症のことといったところでちょっとお伺いしていくんですけど、今、どうですか。後遺症は何か、特に目立った後遺症ありますか。

後藤 本当に無いんですよね。移植後ってやっぱり、ドナーさんの血液で私は生きてるわけだけど、GVHDっていう、移植片対宿主病っていう病気があって、それを抱えてずっと生活されてる方もいるんですけど、私は本当に幸いなことに目に見えるものは無くて。

後藤 今、さっきもちょろっとお話ししたように、恐らく放射線の影響で、甲状腺、橋本病っていう病気になったことであるとか、甲状腺にちょっとした腫瘍があって、多分それが、がんなのか、がんじゃないのかっていうのは一応生検はしたんだけど、濾胞性腫瘍っていって、甲状腺を摘出しないと白か黒か分からないっていう腫瘍らしいんですよね。

後藤 でも、何か別に。それも経過観察で、半年に1回エコーで大っきくならないかを検査をして経過観察をしてる、あと、今、血液が一寸怪しいぞっていう以外は本当に何もなくて、日常的には凄く元気に生活を出来てるので、特に気にしてる後遺症は無いって言えますかね。

岸田 だからあれですかね、さっきのコメントに、何とかなるさみたいな形でやって。

後藤 そう、何とかなると思ってる。

岸田 ただ、血液の値が良くないっていうのは、それが悪化していったらまた・・・。

後藤 そう、悪化したら再発するんですよ。

岸田 骨髄異形成症候群ってこと?

後藤 そう。

岸田 また移植をしないといけなくなるってこと?

後藤 そう。こないだも先生に、「もう一回移植したくないよな?」とか言われて、したいわけないやんっていう話ですよね。

岸田 けど、その可能性も、もし悪化していったらそういうとこもあるけど、何とかなるさっていうふうな形で今、思ってると。

後藤 なった時に考えようと思ってる。

【医療者へ】

岸田 そうですよね。今から考えてもあれですしね。ありがとうございます。そして、医療者へという項目。こちら、見てくださっている方、医療者の卵たちだったりだとか、学生さんだったりだとか、研修医だったりとか、看護師さんだったりとか、本当、色んな方が、勿論お医者さんも見てくださってるんですけれども、医療者へ、こうしてくれて良かったよだったりだとか、こうしてくれよみたいな要望だったりとかありますでしょうか?

後藤 私は、ビビッと来た先生、転院した時の先生が、治療を始める前に、「ちょっと後藤さん、一緒に行こう」って言って、無菌室にね。その時に、そこの病院に新しく無菌室が出来たの。で、そこの無菌室に私が入る1号で入れてもらったのね。

後藤 「新しく出来たから見に行こう」って言われて行った時に、凄い開放的で、皆なが知ってるような、ガラス張りで、ガラスのこっちと向こうで、電話でしかしゃべれないような無菌室ではなくて、凄い開放的で良い無菌室だったんだけど、とはいえやっぱり怖いわけ。

後藤 そこで何がどうなっていくのか怖いっていう中で、先生に、「先生、こんな所見せられても、私は怖いもんは怖いよ」って言った時に、先生が言ったのがね、「僕らには自信と経験がある。だから絶対助けるから」って言ってくれたんですよ。

岸田 かっこいい。

後藤 かっこいいでしょ。「僕らには自信と経験があるから。後藤さん、絶対助けるから。絶対元気になって帰ってもらうで」って先生が言ったのね。

岸田 ほれてまうな、それは。

後藤 でしょ。で、やっぱりここの病院選んで良かったなと思って。その先生、血液内科の部長の先生で、そのボスの下で働いてるスタッフっていうのは、やっぱりみんな同じマインドを持って凄く同じ目標に向かってヘルプをしてくれて、「後藤さんは、何も頑張らなくて良いです。薬飲むことだけ頑張って」って言ってくれるんやけどね。

岸田 それは良いね。

後藤 やっぱり先生、看護師さんの一言っていうのは凄い心に残ってて、今でもそれが励みになってる処はあるので、本当に感謝しかないですね。今もずっと感謝してるし、これから医療の道に進まれる方なんかにも、言葉って凄く、患者さんって、やっぱ心の中ってかなりグチャグチャなってるので、一つ一つが凄く響くわけですよ。

後藤 良いものも悪いものも。なので、やっぱり言葉には魂あるっていうふうに思ってもらったほうが。良くも悪くもね。患者さんもその言葉でコントロールされてしまうので、上手くコントロールをしてくれると良いなって思います。

【Cancer Gift】

岸田 言葉ね。本当大事。凄い、なので、皆さんもね。これ、医療者もそうですけど、他の皆さんも言葉大事にしていきましょう。そして次が、Cancer Giftということで、こちら、がんになって様々なことあったと思いますけれども、がんになってこれは良かったんじゃないかなと思うような出来事や言葉、ありますでしょうか。

後藤 これはやっぱり友達ですね。私とキッシーもそうだと思うんだけど、がんになって出会ったわけで、そういう友達が日本中にいるわけですね。

岸田 そうですね、全国に出来ますもんね、患者と。

後藤 北海道から沖縄までそういう友達がいて繋がれるっていうのは、本当に凄い大っきなCancer Giftで、思いも共有出来るし、一気に近くなるよね、距離が。

後藤 さっきの仕事で出会った若年がん経験者の人たちもそうだけど、こんな出会いっていうのは中々無くて、これは本当に感謝をしてるし、あと、人の面と、あと、気持ちの面でも、知れないことが知ったというか。朝、目が覚めることは当たり前だとみんな思って。

後藤 当たり前なんですけどね。治療を受けてると、それって当たり前じゃなくて、朝、目が覚めて、朝、ご飯が美味しいことも、朝、コーヒーが飲めることも、健康だから楽しめることであって、身体の調子が悪くなるとコーヒーなんか欲しく無い、朝ご飯も食べれない、晩ご飯も食べれないっていう中で、元気で健康だから、心も身体も健康やからご飯も美味しいし、コーヒーも美味しいし、仕事も出来るし、笑えるしっていうことが一個ずつ実感出来ることに気付いたっていうのはCancer Giftかなって思ってます。

【夢】

岸田 本当、そういう健康がなければいろんな活動も出来ないし、そういう幸せを感じることも出来へんなって、マジで本当に思います。ありがとうございます。そして、千英さんの今後の夢。今後どうしていきたいか。千英さん、どうでしょうか。

後藤 さっきのこの写真もあったんだけど、富士山に登りたいっていう夢はずっと持ってるんだけど、まだ実行出来てなくて、いつかは登りたいなと思ってるので、これ見てる人で一緒に登っても良いよっていう人がいれば、是非声掛けて欲しいなと思います。

岸田 そうですね、千英さん、本当に。千英さん、今、患者会の活動もされてますもんね。

後藤 そうですね。血液情報広場つばさっていう所に所属をしてて、これ、血液がんの患者さんに治療の情報を届けるっていう患者会なんです。患者会っていうか、NPOなんですけど。そこで活動したりとか。あともう一つ夢があって、さっきの妊孕性の温存、卵子を保存する時に凄くお金がかかったので、私、4年ぐらい前からこれを保険適用にして欲しいっていうのを言ってるんですね。

後藤 岸田君も色々本当にご尽力をいただいて、色んな多方面の皆さんのご尽力で、この4月から、助成金か、出るようになったっていうのは、本当に皆なの力で凄いなと思ってるんですけど、これをもう一歩先に進めて保険になれば、みんな保存のチャンスに触れれる可能性も上がるし、高額医療にも含められるので、何とかそれも実現したいなと思ってます。

岸田 そうですね、保険。まだ今、助成金が出るといった形なんですけど、これが保険適用になれば3割負担で済むし、かつ、高額な場合は高額療養費制度を活用出来たりとかするので、より患者さんにとっては、有難いなっていうことになるんですね。

後藤 そうですね。障害もあるんでしょうけど、チャレンジはしてみるべきかなと思ってます。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。そして、その後、千英さんのペイシェントジャーニーを伺っていくんですけれども、これ伺った後にちょっと皆さんのコメントを読ませていただきたいと思います。まずペイシェントジャーニー。千英さんのペイシェントジャーニーはこんな形になっておりますので、今までの闘病をちょっと振り返っていきたいなと思っています。千英さんが、まず最初、バスケ。バスケめちゃくちゃやっていたと。

岸田 で、手の甲の腫れがあって病院へ行く。ただ、これ、バスケの練習が休めるからということで、ヤッホーみたいな形でね。赤色がちょっとポジティブな事象になります。で、青色がネガティブになっていくんですけれども、そのネガティブなことということで、骨髄検査をして、その時に骨髄異形成症候群を告知されていきます。

岸田 そんな中、時は過ぎ、就職をしてまいります。就職をしていった後に、無気力になったりとか、色んな身体のだるさ、そういったところからまた入院をしていって、その中でHLAの検査。この時に、兄弟と合うと思っていたけど合わなかったというようなことがありました。そこからネオーラルという薬物療法をしていって。ただ、それが効果が無かった。

岸田 そんな中でベーチェット病にも、難病になっていくといった中で、さっきのATG療法というふうなところで治療をしていった中でも、これもまた合わなかった、治療効果なかったという中で、アザシチジンというものが発売されて、それをやってみたけれども、これも合わなかった、効果無かったといったこともあり、造血幹細胞移植を決意してまいります。

岸田 そこから造血幹細胞移植が出来る病院を探していった中で、セカンドオピニオンで、ここで先ほどあった良い医療者と出会えて、その中で卵子保存も出来ていくということになります。で、造血幹細胞移植をしていって、様々な後遺症も色々あったでしょうけれども、退院をして、やったーといった中で職場復帰をしていきます。

岸田 そこからは今はもろもろ経過観察をしているという流れになっております。千英さん、色々ペイシェントジャーニー、今、様々伺ってますけれども、他に補足等々如何でしょうか。あったりとかしますか?

後藤 すごい上下が激しいですね。

岸田 本当に、本当に

後藤 これからはずっと上だけで、ゼロ以上で行きたいなと思いますね。

岸田 上に行けば行くほどポジティブで、下に行けばネガティブになる。

後藤 そう。もう下には行きたくないね。

岸田 そうですよね。

後藤 でも、何かこの前半とは違って、これから先、何かがあったとしても、こんなに落ち込まないかもしれないなっていうふうに思いました。マイナス10に行くことはもう無いんちゃうかなっていう。何かかわし方を分かったっていうか、そんな気がする。

岸田 こうなってもこういうふうに乗り切れるぞみたいなことがもう培われて来たという。ありがとうございます。そして、コメントもいただいております。Anneさんからもコメントだったりとか、よしさん、『ドナー受けるにもかなりお金がかかるんですね』とか、kajiさんも、『障害年金ありがたいですよね』とか、やまやんさんも、『ドナーさんの入院代も移植側が支払うなんて知らなかったです』ということだったりとか、『自信と経験があるって素晴らしい先生ですね』だったりとか、『一緒に富士山登りましょう』という言葉。オレンジティの小磯さんから、『富士山一緒に登りたいです。静岡出身なのに一度も登ったことがありません』といただいております。

後藤 行きましょう。

岸田 「みんなで登りましょう」というコメントもいただいておりますので、是非登りたい人は、つばさのほうまで、千英さんのほうまで・・・。

後藤 キッシーも登ろうよ、一緒に。

岸田 登りますか。

後藤 登りましょう、皆なで。

岸田 皆なで登って濃い時間を過ごしていければと思います。僕も登ったことないんで、是非そういう機会があれば登りたいなと思ってます。なので、またそういった企画をしてみたいなということを思いますし、KOさんからは、『リアルタイムで見たかったけど仕事で残念。後でゆっくり見ます』。そういった感じでアーカイブでも見れますので、是非読んでもらえたらと思います。

岸田 それではここからは次回の告知等々になっていくんですけれども、まずここの放送を支援してくださっている企業さんを紹介していきたいと思います。アフラック様、IBM様、I-TONGUE様になります。いつも支援してくださってありがとうございます。

岸田 そしてまた、コメント、見てくださってる皆さんもありがとうございます。そして次回の告知になるんですけども、次回は、5月のがんノートoriginは、悪性リンパ腫の牧野さんに来ていただいて、悪性リンパ腫の闘病のことについて色々お話を伺っていきたいなと思っております。

岸田 そして、最後、ゲストへのメッセージ入力のお願いがあります。もし見てくださってる皆さん、アーカイブで見てくださってる皆さんも、今、チャットボックスだったりだとか、あと、概要欄にもゲストへのメッセージが入力出来るようなフォーマットを記載させていただきます。

岸田 そこのGoogleフォームのほうから、今日見てくださった感想だったりだとか、千英さんに後で画像上での色紙としてお渡ししようということを思っておりますので、メッセージを是非、こう思っただったりとか、千英さんへのメッセージをいただければと思います。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 それでは、最後の最後の項目になります。今、闘病中のあなたへということで、今、闘病中で病院のベッドの上から見てる方だったりだとか、通院中の方、色んな方が見てくださってると思います。千英さんからその経験を通してこういった言葉をいただいております。

岸田 『雨が降るから虹も出る』という言葉。この言葉、千英さん、意図だったりだとか、その言葉に対する思い、伺えますでしょうか?

後藤 私、結構前向きなほうだと思うんですね、どっちかっていうと。でも、やっぱり治療とか、病気を経験する中で、凄い落ち込むこととか、もう嫌になって、今直ぐこのまま止めたいって思ったこと山ほどあって、その度に全然前なんか向けないわけですよ。後ろ向いたりとか、下向いたりとか、うずくまったりとかしながら時を重ねて来たわけなんですけど、やっぱり雨が。

後藤 その間って豪雨やと思ってて、集中豪雨の中で、本当孤独なんで、治療って。孤独で、結局全ては1人で決めないといけないことって沢山あると思うんですね。治療を受ける・受けない、やる・やらないっていうのは、周りの人はアドバイスもくれるけど、先生もアドバイスはくれるんだけど、決断って最終的には自分なんですよ。

後藤 で、若い世代の人たちってそこに凄く心が揺れて、私、自分の命を懸けた決断を自分ですることっていうのは凄く抵抗あったんですね。何でかって、自分に自信が無いので、自分の決断に自信が無い中で、凄くそこには動揺もしたし、戸惑ったんだけど、集中豪雨の中でただ一人ずっと、うずくまってるなと思ってたけども、でもやっぱり雨はいつか止むんですよ。

後藤 で、虹も出るっていうことは本当にあるなと思って。1人じゃないし、辛い時もあるけども、必ずそれは時が解決をしてくれて、虹が出て明るい未来は必ずあるっていうふうに思うので、皆な一緒やと。

後藤 自分だけがそんなに後ろ向きで、私って後ろ向きやなと思ってる人、多分沢山いらっしゃるんだけど、そんなこと無くて、皆な後ろ向きやし、皆なそういう時を越えて社会に戻って来てると思うので、『雨が降るから虹も出る』っていう言葉は凄い好きで、今回、出させてもらいました。

岸田 そうですよね。千英さん的に雨が降ってた時、辛かった時はずっと秒針を見てたわけですもんね。

後藤 そう。

岸田 けど、こうやって、それを耐えて、今、職場復帰もして、こうやってがんノートにも出てくださってというふうな形で、もう本当に活発に見える、虹も出てるように見えるけど、色々なそういった経験もあったということで。千英さんのことを見たら何か凄く勇気も湧いてくる方も沢山いらっしゃると思いますので、本当にがんノート見てくださってどうもありがとうございます。

岸田 これにてがんノートoriginを終了していきたいなということを思っております。皆さん、本当に長い時間ご視聴いただきましてどうもありがとうございました。皆さん、また次回お会いしましょう。それではお大事に。お大事にじゃない。

後藤 お大事に。

岸田 いつもこの時言うの迷うねんけど。またね、バイバイ。

後藤 バイバイ。

岸田 ライブ配信終了。

後藤 ありがとうございます。お大事に。

岸田 お大事にじゃないよな。

 

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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