目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:和手

【オープニング】

岸田 それではがんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは和手さんです。よろしくお願いします。

和手 よろしくお願いします。

岸田 和手さんって、お名前、なかなか珍しくないですか。

和手 そうですね。結婚してから初めて知ったんですけれども、大体、全国で100名もいないぐらいの珍しい名前とは聞いてます。

岸田 そうなんですね。ありがとうございます。まず、このがんノートminiの紹介をさせてください。まず、私、MCの岸田と申します。25歳と27歳で肺細胞腫瘍というがんになりまして、がん経験者さんのインタビュー等々の発信をするがんノートというものの代表理事をしております。

岸田 がんの、医療情報はお医者さんだったり、いろんな人に聞いたらいいと思うんですけれども、患者さんの情報っていったところがまだ多くないなといったところで、こうやってきょうみたいにインタビューの発信をしているというふうな形になります。

【ゲスト紹介】

岸田 そんなきょうのゲストは和手さんになります。和手さんは広島県のご出身に、今も広島に住んでおられます。お仕事が在宅ワークや、総合医療センターの窓口をされているというふうな感じだと思います。そして趣味は、料理、川遊び、読書ということで、なかなか川遊びって聞かないんですけれども、これ、どういう?

和手 小学校1年生の息子と2歳の娘がいるんですけれども、今、住んでいる広島がとても田舎なので、すぐそこに川がありまして。川に行きたい、魚が釣りたいという欲望に応えるために一緒に川に行っていると私もはまって、小さい魚を探して、捕るのが趣味になってしまいました。

岸田 いいですね。川遊びが趣味。やってみたいな。すごい。本当、そんな自然があっていいなと思います。そしてがんの種類が甲状腺がん、そしてステージはⅠ、28歳のときに告知を受けて、今38歳と。治療が薬物療法や手術をされていたっていうところですけれども。ちょっと最初に突っ込むかどうか迷ったんですけど、これ、何を持ってるんですかね、写真は。

和手 すいません。ポン酢の瓶、持ってます。仕事で、在宅ワークをしている中で、もともと調理師でもあるんですけれども、レシピを載せるっていう仕事もちょっとあったので、その写真を使わせていただきました。

岸田 そういうことですね。納得しました。そういうことなんですね。ありがとうございます。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 そんな和手さんのペイシェントジャーニーに移っていきたいなということを思っております。ペイシェントジャーニー、このような形、吹き出しで色分け等々もしておりますので、分かりやすくなっているかなと思います。和手さんのペイシェントジャーニー、こんな感じになっております。中盤に大きな山が来て、谷が来てっていうふうな形で、またその後もっていうふうな形かと思いますけれども、早速お伺いしていきたいと思います。

岸田 和手さん、初め、食品メーカーで商品開発。だから、ポン酢持ってたりとかね。分かんないけど。そしてその後、こんな感じです。疲れが取れない、首の腫れといったところがありますけれども、だんだん体調が悪くなっていった感じなんですか。

和手 ちょっと忙しくて、全然自分の体調に構う暇はなかったんですけれども、なんか寝れないなとか、寝ても疲れが取れないなって思ったときに、ちょっと風邪っぽいなと思って耳鼻科に行ったんですよね。そしたら首が、顔と同平行ぐらいまで腫れているって言われて。

和手 そこで甲状腺って調べたことがない?って聞かれたんですよね。そのとき、私、甲状腺って何?と思って、全然知らなかったんですけども、そこから甲状腺っていうものを調べようかなというきっかけになりました。

岸田 甲状腺を調べて、ただ甲状腺がおかしいと分かっていったということですかね。そこで、専門の病院を紹介されていくというふうな形で。このときはもう体調的にはどんな感じでしたか。

和手 もともと食品メーカーで白装束みたいに、仕事場では目しか見えないんですよね。だから首の状態なんて見るときがなくて、周りも、自分も、全然首の状態っていうのに気が付くときがなかったんですけど、あらためて首見てみたらすごい腫れてるし。そのときになるともう頻脈、脈が速くなり過ぎて、はって仕事に行くというか、タクシーに乗って仕事に行くような感じの体調の悪さでした。

岸田 けど分かります。僕もワイシャツとか着たら、僕も首、腫れたんですけど、全然やっぱ着たら見えないから、全然それもすることがなく。

和手 気付かないですね。

岸田 そして専門病院を紹介してもらいます。この後、意識不明で倒れる。母に直前に電話ってありますけど、その後、倒れられたんですか。

和手 病院に行って、やっぱり甲状腺の数値おかしいよって、専門病院、いい病院があるから、すぐ紹介する、すぐ行ってねって言われた次の日ぐらいに、もう仕事にも行けず、多分ベッドにぱたんって倒れ込んだんですよね。そのとき、唯一よかったのが、直前に母に電話をしていて、もう駄目だ、倒れるとか言ったんだと思うんですよ。

和手 それで、実際に倒れてしまって。次に気が付いたのが、母がドアをどんどんってたたく音で。実家、広島なんですけども、神戸まで来てくれて。それで、なんか助かったと思って、そのときに気が付いたって感じです。

岸田 そっか、お母さん、そうですよね。実家が広島で、もう、ファインプレーですね、本当。

和手 そうですね、多分、それ切った瞬間に、もう出なきゃと思って新幹線に乗ってくれて、神戸の住所は伝えてあったので。来たことなかったんですけど、訪ねて来てくれて、そこで意識が戻った感じです。

岸田 その後、下がっていきます。何かというとバセドウ病の診断、甲状腺がんじゃないんですね。

和手 このとき、まだ専門病院に行ってなかったんですけど、母と連れ立って行って、そこであらためて甲状腺の数値を測ると、これはもうバセドウ病ですねって言われて。バセドウ病って?って思ったんですけども、バセドウ病って、ここにある甲状腺のホルモンが出過ぎる状態で、全身のホルモンバランスを調整する甲状腺の機能があるんですけども、それが出過ぎて、普通に座ってても走ってるかのような状態まで、自分が動悸、息切れ、頻脈を繰り返すような症状でした。

岸田 そうなんや。そういったことでバセドウ病の診断を受けて、っていう感じですね。そこでその後、そのための休養だったりとか、転職をされていくというふうな形で。どれくらい休まれたんですか。

和手 この後、神戸に住んでたんですけども、地元の広島に母と戻りまして、3カ月ほど休養しました。そこでバセドウ病の薬物療法もちょっと落ち着いてきたので、今度は転職を、やっぱり仕事してみようと思って仕事を探したときに、ちょうど薬局を経営している会社がありまして、そこの本社の事務があったので、そこに転職をいたしました。

和手 そこは、すごく経営人がみんな薬剤師で、私の病気のことも、薬の治療のこともよく理解をしていただいて、その体調不良になったときも、もう休んでいいよって、この病気だったらしょうがないよねっていう感じでずっと見守ってくださいました。

岸田 じゃあしっかり病気のことを伝えて、周りの理解もあってということだったんですね。そしてそこから上がっていきます。何かというと、バセドウ病寛解。寛解するんですね、バセドウ病も。

和手 バセドウ病の場合、いつも血液の数値で甲状腺のホルモン出過ぎてないか、低いかっていうのを見るんですけども、それがやっと正常の数値に戻ったっていうのを言われて、そこで薬も飲まなくていいよっていう。半年に1回だけの受診でいいよっていうふうに言われて、やっと終わったって思ってました。

岸田 やった、よかったって、バセドウ病の寛解をして。ただ、まだがんは出てきてないんですよね。その後、まだいい時期があります。それは何か。婚約、東京へ。お付き合いされてた方と婚約して、それで、その関係で東京に出られてくるんですかね?

和手 そうですね。転職を今の夫がしたので、それとともに退職をして東京に転居しました。

岸田 ただそこから、バセドウ病が悪化。そうなんや。治療は安定、うまくいってたんじゃなかったの?

和手 寛解したときに、半年に1回の受診でいいよって言われたときに、ちょうどそのとき半年たってたんですよね。今後、東京で生活する上で新しい病院も探さなきゃいけないなと思って、あらためて甲状腺の専門病院に行って、定期検診のつもりで血液検査と超音波の検査を受けたんですけども、そこで今まで何だったんだろうっていうくらい、どーんって数値が悪化してしまってました。同時に超音波の、いつもの検査なんですけど、そこで、あれ? 腫瘍があるよっていうことを言われました。

岸田 そのときに言われるんや? 定期検診のときに、その検診のときに。

和手 大体、血液検査と超音波でここの、首に腫瘍がないかっていうのをいつも見てたんですよね。バセドウ病になったときもずっと見てたんですけど、そこでは気が付かなかったんですが、転院してみて、そのときにもう5年ぐらい前からある腫瘍ですねってそのときに言われて。え? 今まで言われたことないよって思って、すごい動揺したのを覚えてます。ずっと甲状腺について専門家のように調べてきたつもりだったんですけど、腫瘍?って思って。

岸田 そこで甲状腺がんですっていう告知を受けてっていうことなんですよね。受けた後、どうでした? 動揺してっていったこともおっしゃってましたけれども、甲状腺がん。

和手 腫瘍があっても良性かもしれないしなっていうのはずっと頭にありながら。良性か悪性かの検査を調べるの、ちょうど11月ぐらいに受診をして、1月まで検査結果待ちが開いちゃったんですよね。そこで良性か悪性か言いますって言われて、その年末年始、すごい生きた心地がしなかったんですけれども。

和手 でも今まで、まだ若いし、大丈夫だろうって思って過ごしてたんですけども。次、1月に診察室呼ばれたときに、今まで内科だったのが外科になったんですよね。そこで入る前に、もしかしてがん?っていうのは思いました。

岸田 がん告知、そこで。

和手 そこで甲状腺の乳頭がんですと言われまして。甲状腺がん、五つぐらい種類がある中で、一番、9割方その乳頭がんっていうがんなんですけれども、その乳頭がんの、ただ、幸運なことに超初期ですと、やっぱり今まで見つからなかったけれども、超初期の段階です、よかったですって言われて。そこで、ただ、自分の中ではがんっていうことしか頭にはなかったので、本当にネガティブな気分でした。

岸田 そんな中で、この、書かれてるんですけど、7カ月後に手術って書かれてるんですけど、これは?

和手 この通っていた病院が、東京にあるすごく有名な甲状腺の専門病院で、全国から患者さんが集まる病院だったんですよね。それで最短でも7カ月後になりますと。

岸田 手術が?

和手 はい。7カ月後ですか、7カ月?と思って。もし、お医者さまが7カ月より早くしたいんだったら、3カ月後に別の総合病院を紹介はできますよっていうふうにはおっしゃっていただいたんですけれども、ただ、そのときの思いとしては、この皆さんが集まる有名病院で、7カ月待ったとしても、超初期ですし、ちょっと転移が見られないから、この病院に託してみようって、そのときに決心したんですよね。

岸田 すげえな、7カ月、俺、なんか待てるかなぁ、それやったら。

和手 とんとんっていけばよかったんですけど、身を任せれたんですけど、そのとき、かなり、そのセカンドオピニオンを受けるかどうかっていうのもかなり迷いましたし、その病院は全摘っていう、甲状腺を全部取るっていう手術を推奨している時期だったんですけども、もともと通ってた神戸の病院のほうでは、そういうことがあっても温存を選択するような病院だったんですよね。そういう違いとかも、いろいろ調べてしまって。どうしようっていう。

岸田 最終的に、有名な専門病院やし、そこに身を委ねようっていうか、そこでやろうっていうことを決心されたということですよね。その後、ちょっとこうなっていきます。仕事、介護学校へってなかなか。どういうことですか、介護学校へ行ったんですか。

和手 7カ月後なので、7カ月をどう過ごそうかなって思ったときに、最初1カ月はずっとひれ伏してたんですよ。寝て過ごしてたんですけども、あと7カ月で人生終わったら何しようかなっていうのと、7カ月後に手術した後に体が不自由になるんじゃないかなっていうのを思ったんですよね。

和手 元気になればいいんですけども、そういう状態になったときに、じゃあどうしようって思って、自分で自分の体を動かせるような知識があれば、もしかしたら役に立つこともあるかなと思って、平日はちょっと7カ月で終わる仕事をさせてもらいながら、土曜日は介護の学校へ行くっていう生活をしてました。

岸田 自分がそういう手術を受けて、ちょっとなんか身体的なところだったり不自由が出るかもしれないから、その勉強を兼ねて介護学校に行ったってこと?

和手 そうです。

岸田 すごい。ほんま? 向上心がすごいな、なんか。

和手 本当に、仕事もして、バセドウもひどくなってたのでつらかったのはつらかったんですけども、やっぱり、あと7カ月しかないって思うと、なんかやってかなきゃ、なんか残しとかなきゃ、みたいな。

岸田 確かに。

和手 自分に負荷をかけて頑張ってました。

岸田 その7カ月を有効に使おうと思われたんですよね。せっかく手術までそんな時間あるんだったらっていったところで。で、手術を受けてまいりますといったところで、全摘の手術、これはもう無事いきましたか。

和手 そうですね、もう無事いって、全て取り除きました。

岸田 全て取り除いて、無事に終わって。その後、プラマイゼロのところで職業訓練、アルバイト。次は職業訓練やアルバイトをされていく感じ。

和手 手術の後に、ここを切ってるのと、リンパもついでに切って、副甲状腺っていうのが、甲状腺に付いてるのが取れちゃったんですけど、二つ残ったものを右肩に埋め込んでるんですよね。そういう手術をしていって、そうすると、ちょっと戻るのに時間がかかるんですよね。

和手 首をちょっと固定して、動かすのにだいぶ時間がかかったんですけども、その状態でもやれることをまたやってみようと思って、手術をする前に職業訓練にもう申し込んでいたので、それをまず始めてみようと思って、始めて。ちょっと落ち着いた頃に、じゃあプラスしてアルバイトなら行けるかなと思って、それも座ってできる仕事をちょっとしてみようと思ってしてました。

岸田 術後何カ月くらいで? もう1カ月、2カ月ぐらい?

和手 そうですね、1、2カ月たった頃ですね。

岸田 手術の痕、全然分からないですね、本当に。

和手 もう10年たってるから、見えてないですけど。結構きれいに、この首のもともとあるしわに沿ってやってくださって。切ったのと、ここに管を通してる穴があったんですけども、手術した後にここから血液を出さなきゃいけなくて、そのとき穴が開いた傷があったんですけども、それも結構治っていて、今ではまた、ここ、動かせる状態ではあります。

岸田 ありがとうございます。そんな職業訓練もされて、アルバイトもされ、そして入籍して新婚旅行といったところで。そのお付き合いをされていた方と入籍をされてといったところで、特にその間にがんになったと思うんですけれども、そのパートナーの方と何かあったりとかしました? 大丈夫でした?

和手 がんが分かる直前に婚約をしていて、がんが分かって、手術をするときの身元引受人というので、結婚してしまうと新婚の夫に死亡時受取人を頼むべきか、どうしようかっていうのをまず迷ったんですよね。そもそも結婚自体をするべきなのかどうなのかっていうのも迷いました。

和手 両親にも相談したんですけども、やっぱりそれはちょっと、がんの前に入籍してしまうと何かあったとき申し訳ないよねということで、その受取人の名前は父の名前を書かせてもらって。彼には説明をしたときは、もう付き合ってきて、情もあるし、大丈夫だよ、待ってるって言ってくれましたね。だからちゃんと、術後半年の時点で、結構、日常生活に支障がないぐらいにはなってきたので、そのタイミングで入籍しました。

岸田 そして新婚旅行に行かれたといったところで、どういった所に行かれたんでしょうか。

和手 これはヨーロッパと東南アジアを周遊する旅行に出ました。

岸田 どこがよかったですか。

和手 友達に、死ぬまでに1回は見ておいたほうがいいって言われた、スペインの南部にあるフリヒリアナっていう、白い壁でできた街なんですけども、そこに行きました。そこが一番印象に残ってます。

岸田 それもやっぱ病気されて、友達が死ぬまでに見といたほうがいいよみたいなことを言われたところってことですよね?

和手 そうですね。もう、がんになってねっていうのも相談した友達に、じゃあもうこれ、絶対今行くか、治ったら行ってよって、すごいんだからっていうのを言ってくれて。なのでその7カ月待ちの間にいろいろ調べて、じゃあ、もう絶対元気になったら行ってみようっていうふうに思ってました。

岸田 その先の予定を立てるっていうのも、闘病中、大事だったりしますからね。そしてそこから上がっていきます。それは再就職といったところで、これはあれですかね、やっぱり職業訓練とかそういったところが功を奏して再就職していったみたいな感じですか。

和手 それがもう全然違うことになってしまって。その前に行った新婚旅行で、旅行の楽しさに目覚めてしまったんですよね。

岸田 目覚めちゃったか。

和手 職業訓練、せっかくやったんですけど、新婚旅行、旅行っていいなと思って、その再就職では、経理っていう座ってできる仕事ではあったものの、職種としては留学を生徒さんにあっせんする会社に就職しました。

岸田 人生、何が起こるか分からないですからね。本当に、どのタイミングでね。ありがとうございます。そしてそこからちょっと下がっていくんです。ちょっと怖いんですけれども、何かな。よかった、妊娠出産して中国へということで、お子さんが、第1子、出産されて中国に行かれる。これは旦那さんのこと関連ですかね。

和手 そうですね。主人の中国赴任。主人はもうこの第1子の妊娠出産、妊娠してすぐに中国に住んでたので、その間、1人で出産をして、2年間育てて、中国に一緒に行きました。

岸田 そしてその後、また下がっていくんですよ。それは何かというと。流産というと、これ、結構来ますよね、心にも体にも負担が。

和手 そうですね。中国に住みながら、なかなかホルモンバランス、ここを切っているとちょっと不調があったりするんですよね。やっぱりそれって女性の体ならではなんですけれども、生殖機能にも影響を及ぼすのかなというところで、中国にいながら日本と中国を行き来して、日本の高度不妊治療に踏み切ったんですよね。

和手 薬物療法でやっぱりホルモンを足していくとかそういうことをしてたら、結果、妊娠ができたんですけれども、ちょっと残念なことになってしまって。さらに薬の影響で卵巣って部分が10倍ぐらいに腫れてしまったんですよね。

和手 やっぱり私も甲状腺のホルモンをずっと飲みながら治療してたので、やっぱりちょっとホルモンに関しては、もうこれ以上続け、治療することはできないかなというふうに、諦め半分で中国に帰りました。

岸田 そしてその後、体調を整えられていくんですよね。そしてその後、妊娠出産ができるという、第2子の妊娠出産ができて日本へということですけれども、やっぱりもうその後は体調に気遣われてという形だったんですかね。

和手 流産の後はやっぱりホルモンバランスを調整すること、それに中国にちょうどいたので、中国は東洋医学、中医学というものが発達をしていて、やっぱり甲状腺を全部取ってるから、やっぱりホルモンバランスは崩れるのは当たり前だよって言われまして、とにかく体を温めて不摂生はしないようにということで、はりの治療とか、おきゅうで体をあっためたりだとか、食生活を改善したりとか、とにかく体全体の調子を良くするように意識していました。

岸田 そうすると自然にまた妊娠することができているんですね。自然妊娠があって、そして前回は中国に行ったけど、今回は日本に帰ってきたというふうな感じですかね。

和手 ちょうど出産前、出産をしてすぐに、出産は日本に帰ってきてたんですけれども、その後コロナになったのもあって、日本に居住地を移そうということで、日本に帰ってきました。

岸田 そして2022年、告知から10年たっていたといったところで。本当に今、この10年前に告知されて、それで今、10年後といったところでこのminiにもご出演いただいたというところもあるんですけど。どうですか、この10年振り返って、何か思うこととかありますか。

和手 この10年間って、手術を受けて、常に再発をしていないかっていうのを気にして生きてきたような気がします。というのも10年前、入院をしているときに、病棟の前の患者さんが10年前に甲状腺を全部取って、リンパも全部取ったのに、がんが残っていてリンパ節に転移されていたんですよね。

和手 おばあちゃんの方だったんですけど、そのおばあちゃんが、なんか10年たったのに再発しちゃってたよって。今から手術してくるわって言ってたんですよ。まあこんなこともあるよねって、ただ私はめげないよって。今後やることがいっぱいあり過ぎるからね。じゃあ行ってくるわって言って、バイバイってしたんですよね。

和手 そのときの私、手術後で結構つらかったんですけど、その言葉がずっと頭に残っていて、10年後に再発するかもしれないっていうのはあったんです。そして10年っていうのを一つの節目として考えてた部分があったんですよね。

和手 だから10年間はこのがんのことを忘れないように過ごしてきて、10年たって今、本当にそのおばあちゃんに出会って、その言葉、めげないっていう言葉を聞いたおかげで、私もいろいろやりたいことをやってこれたと思うので、すごく幸せだなと今、感じています。

岸田 そうですよね。がんになったりとか、バセドウ病になってからも、介護学校通ったりとか、職業訓練したりとか、もう本当にさまざまなことにもチャレンジされてね。すごい、ありがとうございます。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 そんな和手さんが大変だと思ったとき、困ったとき、どう乗り越えたかといったところで、この回答をいただいております。

岸田 大変だった困ったことっていうのは、甲状腺を失うことへの恐怖と不安、そして術後の首や喉の違和感、日常生活への支障、これらをどう乗り越えたかっていったところに関しては、先生に聞いたり、本で調べる。首に負担がかからない体の使い方をマスターとあります。こちらについて説明していただけますでしょうか。

和手 まず甲状腺というものに関して、今までバセドウ病も患っていたので、知っていたんですけれども、それと同時に今まであったものを全て失うことっていうのが急に怖くなってしまったんですよね。もう恐怖と不安になったんですけれども、その当時インターネットでじゃあ同じ病名の人いるかなと思っても、なかなか見つからなかったんですよね。

和手 1人いるかなっていうぐらいだったんですけれども、それ以外に調べられるのってもう先生に直接聞くか、本で調べるかしかなかったんですけれども、やっぱり病状って個々それぞれ違うと思うんですよね。だから、医療従事者の方に聞くのが、一番自分の中では安心できたっていうのがあります。

岸田 この日常生活への支障は、首の使い方をマスター、首の使い方じゃない、体の使い方をマスターとありますけど、どんな使い方なんですか、マスターって。

和手 これ、介護学校に通って習得した技術がここで役立ったんですけど。ここを切ってると動かしたくないんですよね。痛いしと思って。そうすると、テコの原理で起き上がる技術だったりとか、首を動かすときに首だけじゃなくて、体と手ごとを一緒に動かすことによって、無理なく動かせるっていう。それをちょっと教科書を見たりして思い出しつつ、それを使って乗り越えていけました。

【メッセージ】

岸田 そっか、介護学校、偉大やな。しっかりちゃんと身に付けて。そうやって闘病経験を乗り越えてこられた和手さんなんですけども、和手さんから、闘病中の方だったりとか、ご覧になられる方たちへのメッセージをいただいております。メッセージはこちらになります。

和手 『「がん」を人生の転機と捉え、自分にとって大切な「ひと・こと・もの」に向き合ってみること』としました。私ががんって聞くと、イコール死を連想してしまいます。こんなにつらい思いをするなんてと、心穏やかに過ごせないと思うんですけれども、私もがんを発見できたことを喜ぶべきなんですが、落ち込む毎日でした。

和手 でも今、つらい思いをされている方も、どこにこの気持ちを向けていいか分からないかとは思うんですけれども、どうか1人で抱え込まずに大切な人と話をしてみてほしいと思っています。

和手 また、少しずつがんの患者以外の方と接する中で、希望を持って生きていくことの大切さを学んだり、心に余裕を持つことができると思います。それと同時にやりたいこともふつふつと湧いて前向きに行動できるかなと思っています。ただ、がんになったけれども、がんの後の人生はこれからまだまだあるので、どうか前向きに捉えていただきたいと思います。治療がうまくいくことを祈っております。

岸田 ありがとうございます。本当、大切な人と時間をつくって話してみるとか、いろんなそういうタイミングをつくっていただいたりだとか、今も和手さんがおっしゃっていただいた、人、こと、ものっていったところを本当にまた考える機会になるのかなということをあらためて思いました。ありがとうございます。

岸田 それでは、これにてがんノートmini、終了していきたいと思います。ありがとうございます。バイバイ。

和手 さようなら。

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