目次

※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。

インタビュアー:岸田 / ゲスト:友寄・泉川・保坂・川口・清水

【自己紹介】

岸田 きょうのがんノートは毎年1回開催されるジャパンキャンサーフォーラムに来られている方だったり、歴代のゲストたちをお招きし、フォーラムの中でゲリラ配信していくという形になっています。早速きょうの1人目のゲストを紹介します。自己紹介をお願いします。

土橋  土橋武彦です。5年前にGISTを発症しし今年6年目です。発症当時はステージが不明で、腫瘍が小さかったのと完全切除できてたということで恐らくそんなに進んでなかったと思います。今は分子標的薬グリベックを毎日飲んで治療中です。

土橋  GISTというのは肉腫、いわゆる希少がんで、10万人に1人か2人とかいわれている、非常にまれな病気です。同じ病気の人をなかなか見つけられなくて孤独を感じる方が多かったりします。ステージが不明というのはGISTならではで、多分転移していたらステージはⅣとかになると思う。、自分の場合は良性の腫瘍と思って手術で取ったら実は悪性だった。

岸田 2014年から分子標的薬を使って今ずっと治療をされていますが、どういうことがきっかけで発覚したのですか。

土橋  会社の健康診断の、胃のバリウム検査で実は胃の外側に腫瘍が見つかった。そこで経過観察というか精密検査で胃カメラを飲んだところ、腫瘍があるということが確定して地元の病院で半年後に再検査で胃カメラを飲んだんですけども、「少し大きくなってる」と主治医から言われました。

土橋  「良性なんだけど」っていう感じだったんですけど、何か胸騒ぎというか、すっきりしない。手術してすっきりしよう、それがきっかけで手術をお願いしたら実はGISTだったんです。

【治療】

岸田 病院はどうやって決めたんですか。

土橋  もともと会社の健康診断だったんですけど、地元の病院で知り合いの看護師さんが、「うちの病院に消化器のスペシャリストがいる」って言っていただいて近いこともありますし気軽にお願いしたら、実はGISTも知ってる先生でした。

土橋  うちはがん家系で祖父が食道がん、叔母が乳がんだった。そういった経緯もあって自分もひょっとしたらっていうのがあったので、思い切って手術してすっきりしたいと。手術自体は全身麻酔で、時間も1時間かかってなかったことには驚きました。

土橋  胃の10分の1を切りましたが、障害とかは全くないです。腫瘍が大体2センチから3センチぐらいで、小さいうちに、僕は良性の小さいときに取ってるんです。実際の中身は悪性やったんですけども、見た目は良性。

土橋  実は、前日までは腹腔鏡の予定でしたが、前夜に主治医から「開腹手術にするから」と言われました。主治医も何かを感じたらしいです。後から考えれば、すごくいいほうにいいほうに全部転がっていった。

土橋  手術後 1回目に検査結果を聞いたとき、「一つは出てるけどもう一つは出てない」って言われたんです。悪性なのは確定でしたが、遺伝子変異の検査をしてたみたいです。

土橋  グリベック効く効かないの、保険適用の検査をしてたらしく、それがまだ出てなくて、そのときにもしや悪性かもっていうのはありました。良性って言われてたんですけど、胃の粘膜下腫瘍を調べてるうちにGISTは出てきてたんです。GISTっていうのは10万人に1人か2人とか、希少がんっていうのも知ってましたし、そっちかみたいな、そういう感じでした。

岸田 その後、治療的には。

土橋  グリベックという分子標的薬で治療でしました。ただまれながんですので、自分自身でセカンドオピニオンを聞きたいと主治医に申し出て、行きました。

土橋  セカンドオピニオンには、もちろんGIST専門医へ。当時は大阪に居たので、より詳しく遺伝子解析してもらって、自分で納得できてる治療方法であったということも分かって、そこからは主治医とコミュニケーション取りながら、いろいろな副作用にも対処しながら今まできてます。

岸田 じゃあ、腫瘍を取ったら、一つ目が悪性腫瘍だった。グリベックが効いて今はそれを毎日1回4錠飲んで、今は生活しているっていう形ですね。今、何か大変なことあったりします?

土橋  薬を飲み始めて1年半は毎日、吐き気ありました。仕事もしてるんで、仕事行く前に副作用を終わらして出勤する。

土橋  交代現場なので、2日目は仕事終わってから薬を飲む。仕事は鉄道業です。

岸田 鉄道だと朝早いんじゃないですか。

土橋  早いときもありますけど、遅いときもあります。定期的に、じゃあ、この時間で飲もうってなっても、朝早かったら、仕事終わってから飲んだり。

土橋  1日、どっかで、1回飲めば問題ない。吐き気は1年半で止まりました。今は、台風とか低気圧が近づくと吐き気と下痢に襲われます。上と下。それがちょっと大変ですね。

岸田 それ以外は、今、基本的に普通に生活できてるんですか。

土橋  疲労感と倦怠感はすごくつらくて。朝起きれないです。出勤時間が遅いときは早めに早めに行動して、職場に早く着いて仕事モードに変えるっていうふうにはしてますけど。

岸田 2014年から治療されてきて、今でもう約5年以上。今何かご自身でされていることはありますか。

土橋  僕はGISTでも比較的元気なほうで、治療中はどうしても外に出られないとか遠方に行くことができない人がいるので、リレー・フォー・ライフで活動しています。

土橋  そのリレー・フォー・ライフの活動を通じて同じGISTの仲間の方に会いに行ったり、最近始めたんですけど、社内で同じがんや難病と闘っているメンバーで一緒にコーヒーでも飲みながらカフェのようなことを立ち上げたとこです。リレー・フォー・ライフ、僕は和歌山の実行委員として活動しています。

【2020に向けてひとこと】

岸田 最後の質問。今、2020年に向けてっていうのを一言、お願いします。

土橋  僕も仕事しながら治療としていて、同じ職場にもそういった方いらっしゃるんです。まず身近なとこから独りじゃないっていうことを実感してもらうということと、情報共有とか、お互いいろんな悩みを吐き出せる場所をちょっとつくっていこうかなと思って、社内でランチ会をやろうかなって思って。

土橋  スタートした今は取りあえず3人4人なんですけれども、不定期で集まっていて、そのときの様子を社内誌に載せてもらって、社内全体で知ってもらって、関心持ってもらおうかなっていうのがあります。

土橋  そこからいろんな方に、がんであったり難病のことを理解してもらおうかなっていうのは自分の中では思ってることです。基本的には社内の患者もしくは家族の方を対象にしようと思っています。

岸田 できるところから。ありがとうございます。また、がんノートに出てきていただいたときご報告をお願いします。

【自己紹介】

岸田 次のゲストは島村清子さんです。島村さん、自己紹介をお願いします。

島村 島村清子です。今から5年前くらいに急性前骨髄性白血病に罹患しました。今は寛解期で、特に生活には制限なく過ごせています。

島村 普段は病院で栄養士として働いているんですけれども、患者スピーカーバンクというNPO法人でも活動をしているので、普段は二つの仕事をしています。

岸田 島村さんの治療だったりとか、分かってきたことを少しお伺いしたいです。まず急性骨髄性白血病というのは聞いたことあるんですけど、「急性前」って?

島村 急性前とは、血液がつくられる途中の前骨髄芽球ががん化する白血病です。血液がつくられるまでにいろいろな段階を踏むんですけど、その中の一つの細胞ががん化した白血病です。

島村 自覚症状が出たのは2014年の4月で、仕事をしていたとき床に膝を突く作業で、膝を突いただけで両膝にすごいあざができてしまった。そのあざがなかなか消えなかったのが始まりでした。

島村 歯磨きをして出血し、一晩中それが止まらないで、朝起きるとナメクジみたいな血の塊が出てきるようになって、それで思いきって病院に行ったのが始まりでした。自分がいつも行っている地元の病院で診てくれた先生が、血液の病気であることは間違いないので入院できる大きな病院を紹介してくれました。

島村 最初、歯茎の腫れもひどくて歯医者にも行ったんです。そのときは腫れを抑えるお薬を塗ってもらって治療も終了したけど、なかなか治らなかった。大きな病院に行ってすぐ骨髄検査をして入院になりました。

島村 治療は、飲み薬の抗がん剤と点滴の抗がん剤の2種類使って8カ月ぐらい治療を行いました。大きな病院で検査をする前からこれは絶対に血液の病気だと言われていたので、私も自分で病院に行く前に何となく予想はしてたので、ショックはそこまではなかったです。逆に原因が分かってちょっとすっきりした。

島村 入院して2種類のお薬を8カ月ぐらい、3日間くらいの一時退院を2、3回挟みながら投与して治療しました。徐々に出血だったりとかはなくなってきたんですけれども、髪の毛全部抜けちゃったりとか、副作用がすごく強かったので辛かったです。

島村 治療中に辛かったのは外見と吐き気。吐き気がもうつらくて今より多分10キロぐらい体重少なかった。吐き気止め点滴をもう上限量まで打ってくれるんですけど、それでも吐き気が酷かったのでもう我慢するしかなかったです。

島村 その8カ月が終わって退院した後はもう普通の生活をして大丈夫だとは言われています。骨髄検査にたまに通うだけで、今のところ治療っていうものはしてない。

島村 白血病の種類によっては継続治療もあるみたいなんですけど、私の場合は今のところもうしていません。白血病でも私の場合、骨髄移植はしてません。種類によるみたいで、いろんなタイプによって治療が違ってくるみたいです。無菌室は入りましたけれど。

岸田 先ほど自己紹介で患者スピーカーバンクもされているという話がありましたが、どんな活動なのか、参加したきっかけなど簡単にお願いできますか。

島村 患者スピーカーバンクは病気や何か障害を持ったりした自分の経験を人に伝える活動をしている団体です。

島村 病気や障害っていうのは、一見マイナスのイメージしかないように思うんですけれども、その中でも私たちはこの経験をして得たものっていうのがあります。悪いことだけではなく自分のプラスになる部分があるので、それを例えば企業や医療の方等、本当にさまざまな方に伝える活動しています。

島村 参加したきっかけは、たまたま新聞か何かで見つけたんですけど、どういう団体なのか気になったっていうのと、自分以外に病気をしている人と接したことがなかったので、他の人と会ってみたかったというのが最初の始まりです。

【2020に向けてひとこと】

岸田 2020年に向けて一言、この1年かけて何かやりたいことや考えてることがあったりしますか。

島村 来年に向けてというか今も頑張っていることであれば、患者スピーカーバンクで活動していて私自身が講演させていただくこともあるんですけれども、病気をして初めて知った気持ちであったりとか知った事実っていうのが本当にたくさんあります。

島村 患者スピーカーバンクに参加してくださっている方、これから参加する方、あとは講演を聴いてくださる方、全ての皆さんの気持ちが少しでも楽になったらいいなという思いで活動させてもらっていますので、皆さんがより穏やかな気持ちで日々過ごせるようこれからも頑張っていきたいと思います。

【自己紹介】

岸田 3人目のゲストはキャンサーペアレンツのグ西口洋平さんです。

西口 西口洋平です。僕は2015年に胆管がんが分かって、今5年目です。このがんは5年生存率3パーセントですから、もうすごいですね、本当に。

西口 罹患して1年後にこのキャンサーペアレンツを立ち上げまして、キャンサーペアレンツも今4年目です。

【治療】

岸田 治療というか、グッチさんの近況はどうですか。

西口 今はこの放送が行われている国立がん研究センターで、治験をやっています。治験に入って半年ぐらいです。

西口 治験内容は、分子標的薬という飲み薬を2週間ずっと飲み続けて1週間休薬、また2週間ずっと飲んで1週間休薬してっていうサイクルです。

岸田 治験ってどうやって入るんですか。

西口 セカンドオピニオンに行って、治験に入れるかどうかを確認した上で入ります。僕の場合は第2相の試験を行っていて、治験の本物の薬か、もしくはプラセボと呼ばれる偽物の薬かどっちか分からない状態で、その効果を比較する試験をやっています。

西口 僕が今、日々飲んでる薬は、ひょっとすると偽物かもしれない。でも今のところがんはコントロールできてるようなので、偽物でもいいなと思っていたり。そんな状況です。

西口 もともと通院していた病院から「セカンドオピニオンに行ったほうがいいんじゃないか」と言われたのでセカンドオピニオンに行ったんです。そういう意味では当時の主治医に感謝ですね。「何かあったら言ってくださいね」とかいつも言ってくれてるので、すごくありがたいです。

岸田 順調ですね。他の患者さんの希望なります。この放送を初めて聞かれた方のために、キャンサーペアレンツの代表をされているということを、ちょっとご紹介頂けますでしょうか。

西口 僕ががんだと分かったとき、娘が6歳だったんです。今は10歳ですけど、6歳の時はがんだということを子どもに伝えられなかったんです。

西口 その時にみんなはどうしてるんだろうと思ったんですけれど、周囲に同世代の人が全くいなかったので、インターネットで、そういうお父さんお母さんが集まるような場所をつくって、みんなで子どもに対してどう接しているのかということをシェアできたらすごくいいなと思って立ち上げたのが、このキャンサーペアレンツです。

西口 今、会員さんが3200人ぐらいいて、お子さんのことだけじゃなくて、仕事のこととか、治療のこととか、お金のこととか、親のこととか、いろんなことを日々話し合っているような、そういう場所になっています。

【2020に向けてひとこと】

岸田 今後、グッチさんの2020年に向けて一言。

西口 2020年が告知から5年目、丸5年の年なんです。告知されたときは2020年生きてると全く思ってなかったんです。

西口 2020年は生きる、これが目標ですね、本当に。そう、生きる。本当に僕にとっては節目の年なんですよ、2020年っていうのは。

西口 なんで、今、その丸5年に向けて、何とか頑張って生きたい。6年目に入ればもう、5年生存率3パーセントを超えていく人になりますから、そこまで行ったらかっこよくないですか?

岸田 すごいですね、本当に。そして5年6年7年8年9年10年と、毎年がんノートでもお待ちしておりますので、ぜひぜひよろしくお願いいたします。

【自己紹介】

岸田 がんノート第4人目は歴代ゲストの大吾君に来ていただきました。まずは自己紹介をお願いします。

鳥井 鳥井大吾です。私は2014年の7月、今から約5年前に肉腫ステージⅡになりました。

鳥井 肉腫のうち、粘液型脂肪肉腫というタイプの肉腫です。今はがん情報サイトオンコロというがんに関する医療情報を発信するウェブサイト運営会社で働いています。

鳥井 脂肪肉腫って大きな種類があって、その中の粘液型っていうタイプになります。当時も何となくは知ってたんですけど、いまいちよく分かってなくて今改めてがんに関わるような仕事を始めてからちょっといろいろ主治医にも質問するようになりました。

【治療】

岸田 治療について、闘病経過なども簡単にお願いします。

鳥井 実はがんが発覚する前から、もう2012年の4月ぐらいには自覚症状があって、2回地元の整形外科と大学病院の整形外科で診てもらったんですけど、そのときは全然原因が分からないというふうに言われていました。原発は左足のふくらはぎです。

鳥井 それから2年間、そのままずっと放置していて、あらためて病院をいくつか回って三つ目でがん研有明を受診し、そこで初めて肉腫であるということが発覚しました。当時、がんに関する知識が何もなかったので、何もない気持ちで普通に病院に行ったらいきなり告知を受けた感じです。

鳥井 最初、肉腫って言われたんで、肉腫ががんっていうのもいまいち自分の中ではぴんときていなかったし、足の痛みとかの自覚症状も全然少なかったので、言われても全く実感できなかった。診てもらうきっかけは腫れですね。痛みもその時は全然なかったです。

鳥井 2014年7月8日に入院して、9日に手術で肉腫の腫瘍部分と、腫瘍と接してた血管とか腓骨というすねの細い骨を摘出し、そこからリハビリ生活でした。手術の時間は、8時間9時間ぐらいだった気がします。薬の治療はしていません。

鳥井 手術後は立つことすらできなかったですね。血管を2本摘出したので立ってると血が上がってこない。今でも長時間立っているとすぐしびれてしまいます。

鳥井 結局それってどうなるかっていうと、今は皮膚の下の毛細血管が補ってくれてるような形になってるらしくて、歩くと足がポンプの役割をするらしく、そうすると血液がちょっとは上がってくるから、ずっと立ちっぱなしよりは歩いてるほうがまだしびれないみたいです。

鳥井 足首の筋肉とかも摘出したので、足首もあまり上がりません。足首を曲げる練習とかも並行してやって、術後1週間でようやく5メートル10メートルぐらい歩けるような状況でした。

鳥井 長時間立ってるとしんどいとか、しゃがむことができないって後遺症はずっとありますが、それ以外なら今は普通に散歩したり、軽くランニングするぐらいは問題なくできます。

【近況】

岸田 近況報告として、今はどうですか。

鳥井 治療して2年後の7月にがんノートに出させてもらって丸3年経ちました。がんノートに出させてもらう2、3カ月ぐらい前からオンコロを運営しているサイトで働き始めました。

鳥井 自分が扱う仕事内容も変わってきて、今まではがんについてのサービスのうち、ウェブサイトの運営やセミナーの運営をずっとやってたんですけど、最近はうちの会社で運営しているウェブサイト全般を見たり、今特に関心のある領域としてはウェブサイトを運営していく中でユーザーエクスペリエンスっていう、ユーザー体験をどう高めていくかっていうところです。

鳥井 他にもアプリの運営とか、そこら辺を今いろいろ勉強している感じです。

【2020に向けて】

岸田 2020年に向けて一言というのをいただいてるんですけど、自分自身がこの1年かけて何かやっていこうというのをお願いします。

鳥井 がんノート出させてもらってからもう丸3年たっちゃって、当時27だった僕もう30歳。そろそろ結婚したいなと思っていて、まずはちょっと相手探し辺から本気出そうかなと。

岸田 来年には彼女ができているという報告をいただけるとうれしく思います。ありがとうございました。

【自己紹介】

岸田 5人目のゲストは初めてのご出演になります、小田村美歌さんです。自己紹介をお願いします。

小田村 小田村美歌と申します。2016年6月に乳がんステージⅡと診断されまして、転移とかではなく、両側に異所性の乳がんが見つかりました。別々の乳がんが同時に見つかったので、同時に治療できたという感じです。

岸田 2016年6月に見つかって、今はキャンサーペアレンツさんのえほんプロジェクトリーダーをされています。その両側乳がんはどうやって見つけたんですか。

小田村 最初に左乳がんは1年に1回の定期検診で見つかりました。妹も10年前に乳がんをしていたし、石灰化も毎年あったので、1年に1回はフォローしたほうがいいって言われていました。

小田村 でももう5、6年ずっと変わらない、という感じだったのに、普通に検診に行ったらエコーで左の乳がんにごろっとしたのが見つかって、その時点で99パーセントがんだと先生にも言われて、とうとうみたいな感じでした。

小田村 乳がんは今、すごく細かく分かれてるので、治療方針を出していく過程のMRIで、次は右側見つかったんです。こういうこと言うと不安になっちゃう人もいるかもしれないけど、エコーでもマンモでも右は指摘されず、MRIを撮ったら影が見つかった。

小田村 どうせ両方手術するし生検やってみる?みたいな感じで取ったら、がんだったみたいな。しかも右側はがんの中でも小葉がんっていう割と珍しいがんで、しこりにならない、乳腺に沿って広がっていくタイプのがんだったので、実は左よりも広がりは右のほうがあったぐらいだった。

小田村 広がり的には乳房で収まってましたが、左側の全摘前の検査で右側にもがんが見つかって、結局右側も全摘しました。

【近況】

岸田 今キャンサーペアレンツのえほんプロジェクトリーダーをされていると思うんですけれど、そういったことも含めてご紹介いただけますでしょうか。

小田村 私は2016年にがんになったんですけど、1年ぐらい治療していく中で家族崩壊みたいになって、これは誰が救ってくれるんだろうみたいになったときに、キャンサーペアレンツに出会いました。どこにもぶつけられない夫の愚痴とか、子ども反抗期に関する悩みを共感し合えたのがここだったんです。

小田村 がんを子どもにどう伝えるかというコミュニティーの中で何かできることないかということで、2017年にえほんプロジェクトというのを立ち上げました。

小田村 子どもとがんについて話したり伝えるだけじゃなくて、もっと別の方法を模索していた時、絵本がツールにならないかと発案をしてくれた方がいて、そこからプロジェクトが動きだして、この『ママのバレッタ』という、髪留めが使えなくなるという絵本ができました。この夏初めての原画展を聖路加国際病院の第二画廊というところで開催しました。

【2020に向けてひとこと】

岸田 2020年に向け、自分の来年の今を想像して一言お願いします。

小田村 なかなか今しかなくて来年まで想像できないんですけど、来年は仕事します。諸事情があって先月失業したんです。

小田村 私は在宅の看護師をずっとやっていまして、一度復帰していたんですが、ちょっといろいろあって一回辞めようと。何十年ぶりぐらいで夫の扶養に入ってしまったので、2020年は夫の扶養から抜けること目標にします。

岸田 小田村さん、短い時間でしたけれど、どうもありがとうございました。

【自己紹介】

岸田 今回はお二人に来ていただきました。まず吉野さんの自己紹介からお願いします。

吉野 吉野彩と申します。私は乳がんでステージⅡBでした。2015年2月に告知され、3月に左側の手術を行いました。

吉野 毎年行政のがん検診は受けてたんですが、そちらでは全く見つからず、新しく入った会社で人間ドックを受けたらそれに引っ掛かってしまって。それまで会社勤めではなかったので市の検診だけ受けていましたが、会社指定の医療機関で検査を受けたら要精密検査という結果が届きました。

吉野 そのときはエコーだけの検査でしたが、それで分かった。改めて検査に行ってもマンモグラフィーには何も映らなかったんですが、実際手術してみたら5.5センチもあったんです。

岸田 精密検査して、告知を聞いたとき、どう思いました? 告知を受けたときの心境は当時どうでした?

吉野 もう何も聞こえなくなったというか、えっうそでしょ、私が、どうしてっていうことを。もう私死ぬんだ、これから先どうしよう、もうそれだけです。

吉野 手術が終わってから私は抗がん剤をやりました。私の場合HER2は陰性で、ホルモンが陽性だったので、抗がん剤を終えて、その抗がん剤も、本来早く見つかっていればやらなくても済んだ、おとなしいタイプのがんでした。

吉野 ただ、大きさが5センチを超えてしまっているので抗がん剤はやったほうがいいねっていう話になって、抗がん剤をやりました。私は全摘をしたので、放射線やらずに済み、今はホルモン治療中です。

吉野 行った病院があまり再建に対して積極的ではなく、あまり情報が入ってこなかった。胸がなく髪も抜けてしまって、女性としてどうなんだろうと落ち込んでた時に患者会に足を運んで、そこで再建の情報を得て、今は再建済みです。保険も適用できました。

吉野 乳房を一度失ってしまってそれを再建できたことでやっと病気から離れられたような気がしたんです。ない状態だと、ずっとがん患者っていうものを背負ってる気がして。やっと元に戻れたような気がして満足してます。

吉野 今は幸せで、がんのお友達もたくさんできましたし、私イベントのお手伝いも毎年させてもらっていて、そういった仲間とのコミュニケーションが自分の生きがいになってます。

【2020に向けてひとこと】

岸田 2020年に向けて一言ありますでしょうか。

吉野 今行っている活動をそのまま引き続き続けていければなと。KSHSという団体で、主に乳房再建の情報を発信してる患者会なんですけれども、そちらで活動させていただいてます。

吉野 私はそこでたくさんの仲間と、勇気と、知識と全てもらったので、今悩んでいるかたがたにも同じようにできればなという思いでいます。「キチンと手術・ホンネで再建」で、KSHS。「ホンネで再建」が大事なところなんです。

吉野 みんな遠慮があって、このことでお金かけていいのかな、手術していいのかな、これは贅沢なのかな。いろんな思いがあると思うんですけど、そこは本音でいきましょうっていう。

岸田 ちゃんと本音で話し合っていろんな相談に乗ってもらえるということですね。続いて内田さんの自己紹介をお願いします。

【自己紹介】

内田 内田美奈と申します。ステージⅡの乳がんで、罹患したのは2013年12月、翌年2014年1月に左乳房を全摘しています。

内田 同じ左ですが、乳がんのタイプとしてはホルモン陽性なので、私は手術とホルモン療法だけしてます。

岸田 2013年からもう6年目。まだホルモン療法はしている。今、乳がんのそのホルモン療法に関しては、今まで5年で問題ないということだったんですけど、10年やった人と比較したら、10年やった人のほうが再発が少なかったということで、今10年を推奨されています。だからまだお薬を飲み続けているっていう形ですね。治療はどういうふうに?がんが分かったきっかけは?

【治療】

内田 職場の健康診断で腫瘍マーカーの検査がきっかけでした。もともと消化器系の腫瘍マーカーがすごく高くて、再検査で胃や大腸の検査やったけどどこも見つからなくて、でも腫瘍マーカー測ると高い。一番最後に乳房のマンモを撮ったらがんが見つかりました。

内田 最初のきっかけから分かるまで半年ぐらいかかってしまって、その間乳腺炎みたいに真っ赤になって腫れ上がって痛くて大学病院の産婦人科に行ったら、「乳腺炎だね」って言われちゃったんです、最初。でもその診断に違和感があったから自分で調べて予約してマンモを撮りました。

内田 多分乳腺炎だとおもってたたらもっと発見が遅かったんじゃないかなって思います。知り合いで、乳腺炎って言われたのに結局、乳がんで若くして亡くなった方もいた。

内田 ある程度、覚悟はしてたけど、がんだと聞いたときは頭が真っ白で、先生が今後の予定を説明してるのも全然頭に入らなかった。治療中は副作用が半端なくてホットフラッシュや関節痛、倦怠感に苦しみました。6年経った今でもつらい。

内田 先生は「だんだん慣れる」って言ってましたが全く慣れない。慣れないけど、しょうがないみたいな諦めの境地です。再建はしてますが、まだ途中です。自家再建したいなっていう気持ちもあって、今勉強中です。

【近況報告】

岸田 内田さんの近況報告。活動は一緒?

内田 そうです。同じKSHSで活動してます。ピンクリングもやってます。ピンクリングっていう若年性乳がんの患者団体さんも両方兼用してやっております。

【2020に向けてひとこと】

岸田 2020年に向けて一言。

内田 佐倉市の花火大会で花火を打ち上げてるんですが、もともとなんで花火をやろうかって思ったかというと、病気になったからといって自分がやりたいって思うことを諦めてしまうのは、ちょっと違うんじゃないかなって思って、やろうかなって思ったのがきっかけです。

内田 あとは、今、病気と闘って頑張ってる人たちに向けて何か、私が命を懸けて花火をやることで勇気が与えられたらなと思ってやってます。だから来年も頑張ろうかなと思って。

内田 佐倉市の花火大会、今年もたくさんのサバイバーの方が見に来てくれてみんな泣いて。来年も頑張るのでよかったら見に来てください。

岸田 ありがとうございます。お二人、本当に貴重な時間いただきましてありがとうございました。

【自己紹介】

岸田 次、ラストのゲストの患者さん、片岡紀子さんに来ていただきましたので、自己紹介をお願いします。

片岡 片岡紀子です。今から12年前に肝内胆管がんになりまして、手術をして肝臓の40パーセントを取りました。

片岡 リンパ節に転移があったのでステージⅣという診断を受けました。今は患者スピーカーバンクという団体で、事務局スタッフとして働いてます。

片岡 当時はなんか調子が悪かったのでいろんな病院回りました。産婦人科、呼吸器内科、精神科といろいろ回って検査しましたが全然よくならなくて、最終的に近くにできた肝臓のマークが付いてる病院に行ったら、「何かあるよ」って言われて手術になりました。やっと分かったよって感じです。

片岡 これでやっと治療が始まるわって思って、うれしいほうが大きかった。ステージⅣは手術してからそうだと分かりました。

【治療】

岸田 どういう治療を受けてこられました? 発覚してから。

片岡 発覚してからは、「とにかく切るしかない」と言われて40パーセント取って、あとは1年間、抗がん剤やりました。

片岡 最初1回目は入院したんですけど、そのときは点滴の抗がん剤をやって、その後あまりにも副作用が酷くて、飲み薬に変えて、あとは通院でやりました。ちなみに、ジェムザールとティーエスワン。

片岡 肝臓も40パー取ったけど、今、一応、大きさは元通りは大きくはなってるけど、左葉を取ってるから形が変なんです。ステージⅣだったので他のリンパとかもたくさん取って、全部この辺の郭清っていうやつをしました。

片岡 抗がん剤のジェムザールの副作用がひどかったけど、ティーエスワンに変えてからは何とか乗り越えました。今は経過観察中です。後遺症としては、おなかいっぱい食べると、もう何か戻ってきそうな感じ何して、今までこんだけ食べても全然平気だった量は食べれないことくらいです。

【近況報告】

岸田 近況報告として、今やっている活動について。患者スピーカーバンクについて、あらためてお願いします。

片岡 患者スピーカーバンクは、今私がお話ししたような、自分の経験とかそういったことを、例えば製薬企業や学校に行ってお話ししています。話すにあたって研修を受けて、みんなでここがいいとかここはこうしたほうがいいんじゃないかとか、切磋琢磨しながらみんなで一つの講演をつくり上げてお話しする活動をしています。

【2020に向けてひとこと】

岸田  2020年に向けて一言お願いします。

片岡 2020年は患者スピーカーバンクですとか他の団体のこととか、今、学校に関わりながら地域コーディネーターなんかの仕事もしてるので。

片岡 最近できた地域の学校をコーディネート仕事なんですけれども、例えば学校でがん教育するにあたって、どんどんいろんながんの患者さんを呼んで、子どもたちに、がんに限らず、明日から何か困難なことがあっても、どうやって乗り越えていこうかっていうのを、みんなでグループワークしたりして話し合ってもらったりってするような活動をしています。

片岡 2020年はそれを基に、この患者スピーカーバンクもそうだし、子どもたちに対して何を残していけるかを考えて活動したい。最初からそれはテーマとして持っていたんですけど、まあこんなに生きると思わなかったんで、最初は自分の孫に残してあげようと思って始めたスピーカーバンクなんですけど、こうなったらもっと生きて、たくさんの子どもたちのために、そういう語りを届けて、みんなで一緒に考えていきたいなって思ってます。

岸田 もっともっと生きてください、本当に。今日はいろんな方に本当にご出演いただきました。今、闘病中の方、そして闘病を終えて今、活動していらっしゃる方、いろんな方がいらっしゃったかと思いますけれども、このロールモデルが皆さんに届いていければなと思っておりますので、これからもがんノート、よろしくお願いいたします。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連するみんなの経験談