目次
- 発覚・告知テキスト / 動画
- 治療テキスト / 動画
- 家族・お金テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- 保険・お金テキスト / 動画
- つらかったことテキスト / 動画
- 医療従事者への感謝要望テキスト / 動画
- キャンサーギフトテキスト / 動画
- 闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:坂井
【発覚・告知】
岸田 きょうのゲストは坂井さんです。よろしくお願いします。
坂井 よろしくお願いします。坂井広志と申します。現在48歳で、今年49歳になります。がんの種類は小腸がんです。小腸がんに加えて小腸が破れており、がん細胞が腹膜に散ってしまいました。いわゆる腹膜播種で、遠隔転移にあたり、ステージ4と診断されました。46歳のときに発覚しました。
岸田 小腸がんは珍しいのではないですか。
坂井 一般的に、小腸や心臓はがんになりにくいと言われています。発症率は10万人に0.2~0.7人ほどのレベルだそうです。担当医の説明では、小腸は栄養分を吸収し、それ以外のものを大腸へ送る役割があるため、悪いものがとどまりにくいのが通常だそうです。しかし、私の場合はなぜか悪いものが残ってしまったということでした。
岸田 どのようにしてがんが発覚したのでしょうか。
坂井 当時、産経新聞社に勤務しており、水戸支局でデスクをしていました。若い記者に原稿の指示や発注を行い、上がってきた原稿を確認・修正する仕事です。
ある時期から、数メートル歩いただけで息切れをするようになりました。階段を少し上がるだけでも息が上がる状態でした。最初は「年齢のせいかな」「疲れているのかな」程度に考えていましたが、周囲からも「おかしいのではないか」と言われるようになり、さすがに普通ではないと感じ始めました。
肺炎などであればまずいと思い、水戸の町医者を受診し、レントゲンや心電図を撮ってもらうつもりでした。ついでに血液検査も行ったところ、「非常に深刻な貧血です。すぐ大きな病院に行ってください」と言われ、紹介状を書いてもらい、茨城県内で最寄りの大きな病院を受診しました。
ヘモグロビンは通常14程度必要ですが、私の場合は5.1しかありませんでした。
国立水戸医療センターで検査を受けましたが、貧血の原因が分かりませんでした。胃カメラをしても異常は見つからず、小腸は胃と大腸に挟まれているため、通常の検査では見つけにくい部位です。血便もなく、なぜここまで貧血が進んでいるのか分からない状態でした。呼吸困難は貧血が原因と考えられましたが、医師たちも原因を特定できませんでした。
次に大腸カメラを行う予定でしたが、その前に倒れてしまいました。
ある日、県議の方と焼き肉を食べに行った翌日、昼食後から強い吐き気に襲われました。昼から夕方にかけて10回ほど嘔吐し、ぐったりしてしまいました。当時は12月の忘年会シーズンで、支局長や若手記者も不在がちでしたが、部下の若手記者が私の様子がおかしいと支局長に連絡してくれました。
「すぐ帰りなさい」と言われ、後輩に肩を担がれて午後7時頃に帰宅しました。何度も吐いたことで心身ともに限界でした。自宅で倒れると、妻がすぐにタクシーを呼び、水戸医療センターへ向かいました。妻によると、当時の私の顔色は土色だったそうで、顔を見た瞬間に「これは入院だ」と思ったと言っていました。
病院でCTを撮ると、小腸が大きく膨らみ、腸閉塞を起こしていることが分かりました。すぐに緊急入院となりました。
岸田 その後、小腸摘出手術をされたのですね。
坂井 はい。ただし、この手術はがんそのものの手術ではなく、腸閉塞を起こしている部分を部分的に摘出するものでした。食事ができない状態だったため、早急に手術が必要でした。2016年12月13日に入院し、19日に手術を受けました。
執刀医は手術中に、ほぼがんだと分かったようです。小腸が破れており、どす黒く変色していたため、悪性である可能性が高いと判断されたようです。
岸田 告知はその手術後だったのですか。
坂井 実は、12月13日の緊急入院時、内科の医師から「手術が必要です」と言われました。私は大きな手術の経験がなかったため、「もう少し様子を見られませんか」と難色を示しました。するとその医師から、「これだけ手術を勧めているのは、がんの可能性があるからです」と突然言われました。
それまでは単なる腸閉塞だと思っていましたので、いきなり「がん」と言われた衝撃は非常に大きなものでした。その瞬間から抵抗できなくなり、言葉も出なくなりました。医師が部屋を出た後、ショックのあまり泣き崩れました。

【治療】

坂井 実際、現在も足のしびれは完全には取れていません。ただ、膝までしびれが広がる前にやめたほうがよいと医師から言われていました。
点滴をやめて、もしがんが再び大きくなったらどうしようという恐怖はありました。しかし担当医とよく話し合い、当時服用していたゼローダを6錠から7錠に増やし、その代わりに点滴は中止するという方針になりました。
点滴でがんが小さくなったからやめたというよりも、副作用が強く、このまま続けるとQOL(生活の質)が大きく低下してしまうという判断でした。
岸田 主治医と合意の上で点滴をやめ、QOLが向上し、仕事にも波に乗れるようになったのですね。
坂井 復帰後1年ほどはなかなか調子が上がりませんでしたが、徐々に仕事に慣れてきました。
オキサルプラチン投与中は手足が荒れ、関節が切れ、皮膚も薄くなりました。足の裏も薄くなって切れやすく、テープを貼ると皮膚ごとはがれてしまうこともありました。血小板の数値も低下していたため、鼻血が出てもなかなか止まりませんでした。冷たい風に当たると顔が痛む症状もありました。
点滴をやめて、そうした症状から解放されたことは大きかったです。現在残っているのは、多少の吐き気と手足のしびれ、皮膚が切れやすいことの3つです。この程度であれば何とかやっていけると思えるようになり、仕事も波に乗ってきました。
平成から令和へと時代が移るタイミングで、産経新聞では「平成30年史」という企画がありました。その中で細川元総理に取材できたことは、自分にとって非常に大きな出来事でした。
細川氏は政局について語りたくないというお考えがあり、総理退任後はあまり取材を受けていませんでした。実際、最初は取材依頼を断られました。そこで手紙を書き、自分がステージ4のがん患者であること、当時の政治史を振り返りたいこと、そしてこれを政治記者人生の集大成にしたいと考えていることを率直に伝えました。
その後、秘書の方から「取材を受けましょう」と連絡をいただきました。取材後も体調を気遣っていただき、手紙に綴った熱意をくんでいただけたことが本当にうれしかったです。
取材準備の過程では、かつて築いた人脈が生き、多くの関係者に協力していただきました。がんで1年ほど途切れていたものが徐々に復活していく感覚があり、仕事が楽しくなり、気持ちも前向きになっていきました。
岸田 厚生労働省の取材も担当されるようになったのですね。
坂井 復帰にあたり、会社もどの業務を任せるべきか悩んだと思います。結果として、厚生労働省担当になりました。これまで政党や外務省は担当していましたが、厚労省は未経験でした。自分が病気になったことで医療に関心を持つようになったのではないかという、上司の配慮もあったのだと思います。
確かに、以前は厚労行政に特別な関心はありませんでした。しかし病気を経験し、医療への関心が高まったのは事実です。がんに関する情報も入ってくるのではないかという期待もありました。
小腸がんにはいまだに専用の治療薬がありません。希少がんの患者は、とにかく情報を求めています。そうした背景もあり、厚労省担当を引き受けました。行政は難しい分野ですが、医療への関心が深まるにつれ、仕事も次第に楽しくなっていきました。
岸田 その後のPET-CT検査の結果はいかがでしたか。
坂井 それまでは主にCT検査でしたが、CTはモノクロ画像で、がんなのか血液なのか判別しづらい部分があります。PET検査はブドウ糖を用いて、がん細胞の活動をカラーで可視化する検査です。私が受けたのはPET-MRIでした。
結果として、がん細胞が完全になくなったわけではありませんが、大きくなって活発に増殖している状態ではないと分かりました。その結果を聞き、ほっとしました。

【家族・お金】
【仕事】
岸田 現在、産経新聞で「希少がんと共に生きる」というコラムも執筆されていますね。
坂井 はい。このようなコーナーを作りたいと会社に希望し、闘病記を書いたり、病状に大きな変化がないときは、がんに関する取材内容を紹介したりと、情報発信を続けています。
発信することは自分の使命の一つだと感じています。特に希少がんの患者になった以上、情報発信をすべきだと思っています。自分自身が、希少がんの情報を欲しくてたまらなかったからです。ですので、この活動は今後も続けていきたいと考えています。
岸田 厚生労働省担当としてのお仕事にもつながっていますね。
坂井 はい。現在は厚生労働省担当で、自民党の厚労部会長である小泉進次郎さんの番記者のような立場になります。記者は政治家に密着して取材を続ける仕事ですので、小泉氏が厚労部会長に就任されたとき、「この注目度の高い方を四六時中追い続けたら、自分は倒れてしまうのではないか」と正直思いました。
そこである時、小泉氏に直接、「私はがん患者で、他の記者のように四六時中張り込むことはできません。どうかご理解ください」とお伝えしました。
それ以降、厚労部会の取材などの際にも、体調を気にかけていただくようになりました。
坂井 がん患者になったとき、「人に甘えるべきか」ということで非常に悩みました。甘えたくないという思い、弱いところを見せたくないという思いが強かったからです。しかし、多くの方が「そんなことはない、甘えていいのだ」と言ってくれました。
がんになって2年が経ち、今では「甘えるべきところは堂々と甘えたほうがよい」と、多くのがん患者の方に伝えたいと思っています。病気になったことを卑屈に思う必要はありません。命あってこそですから、無理をして倒れてしまっては意味がありません。
小泉氏にそのような話をしたとき、自分としては記者として情けないことを言っていると感じました。「四六時中追いかけられません」というのは、敗北宣言のようにも思えましたし、格好悪いとも思いました。しかし、伝えておかなければ本当に倒れてしまうかもしれません。
ですから、最初から「自分はがん患者です」と明らかにし、無理をしすぎない働き方を選ぶことにしました。
【保険・お金】
【つらかったこと】
【医療従事者への感謝要望】
岸田 看護師さんやお医者さんに対して、「ありがとう」と思われることはありますか。
坂井 実名は申し上げませんが、執刀医の先生には本当に感謝しています。その先生はもともと東京で勤務されていた方で、たまたま私が入院していた期間に水戸医療センターへ派遣されてきていました。
茨城県内の医師は筑波大学出身の先生が多いのですが、私の執刀医は東京の先生でした。
その先生がおっしゃっていた言葉が印象に残っています。希少がんの場合、自分の病院で症例として持ちたいと考える医師もいる、という話です。実際、「化学療法はどこでやっても変わりませんから、こちらで続けてもよいのでは」と言われたこともありました。
しかし、その東京から来ていた先生は、「どうせ東京に戻るのであれば、最初から東京で治療を始めたほうがよいですよ」と言ってくださいました。
患者にとって何が最善かを優先してくださったのだと思います。その判断と助言には、今でも深く感謝しています。

【キャンサーギフト】
岸田 がんになって失ったものも多いと思いますが、逆に得たもの、得たことは何でしょうか。
坂井 自分の性格が少し丸くなったように思います。記者という仕事は、どうしてもネタを取るために相手を強く追及する場面があります。その中で、性格がとがっていく部分もあったと思います。
自分が病気になったことで、人に優しくしなければいけないと自然に思うようになりました。また、病気をきっかけに多くの方が励ましてくださり、その経験を通して、感謝の気持ちを忘れてはいけないと強く感じました。
それから、がんにならなければ、おそらく私は政局専門の記者で終わっていたと思います。医療政策に関わる記者になることはなかったでしょう。
そういう意味では、がんという経験が自分の仕事の幅を広げてくれました。がんの経験が、今の仕事をつくってくれたとも言えると思います。
【闘病中のあなたへ】
岸田 最後に、今闘病中のあなたへというメッセージをお願いできますでしょうか。

坂井 「絶対に生きる」という強い意思です。これは本当に、多くの患者の方にお伝えしたいことです。
当たり前のように聞こえるかもしれませんが、「絶対に生きる」という気持ちを持ち続けることは、実はとても難しいことです。体調が本当に悪いときは、「生きよう」と考える以前に、「少しでも楽になりたい」という気持ちのほうが強くなります。
それでも、少し気持ちが戻ったときには、「絶対に生きなければならない」「必ず治すのだ」という強い意思を持つことが大切だと思います。その意思があってこそ、医師と二人三脚で歩んでいけるのだと思います。
私は仕事を優先している人間だと思われがちですが、決してそうではありません。やはり、生きることが第一です。それを忘れてしまっては、何も始まりません。
仕事は大切です。しかし、生きてこそです。その強い意思がなければ前には進めません。「医者が何とかしてくれるだろう」という姿勢ではいけないと思います。
「絶対に生きる」という鉄のように強い意思だけは、どうか持ち続けてほしいと心から思います。ありがとうございました。
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