インタビュアー:岸田 / ゲスト:永江

【宣告】

岸田 発覚宣告当時、どうやって精巣腫瘍って分かったんでしょうか、永江さん。

永江 当時、2010年の8月は、仕事がすごく忙しい時期だったんですね。かつ、そのときに社会人向けの大学院にも通い始めていて、運動不足を感じていたんです。でも、ちょっと運動しなきゃいけないなと思って、まだやったことなかったんですけど、まずはトライアスロンの大会に申し込んだんですよ。

岸田 いますよね、トライアスロン好きな人。経営者層とかに多いですよね。あと、意識高い系の人たち。なんでトライアスロンだったんですか。

永江 当時そうやって流行ってたんですよね。流行ってて、ちょっとやってみようかなって思った。夏だったんですけれども、そろそろ大会1カ月ぐらい前になってきたんで、競技用の自転車買わなきゃなって思って。自宅、今、川崎にあるんですけれども、御茶ノ水に専門のショップがあるんですね。そこで購入をして、そのまま乗って帰ることになったんです。そういうの乗ったことなくて、炎天下の中、2、3時間ぐらいかけて帰ったわけなんです。そしたら、その後、ちょっと睾丸の辺りが痛いなって思ったんですけど、そういうことやったんで、慣れない中で、かつ炎天下の中で、そういう影響があったのかなと思って、放っておいたんです。激痛とかでは全然なかったんですけど、痛みが完全になくなるってことがなくて、なんとなく気になるぐらいな感じで、何日か続いたんですよね。それで、一応泌尿器科に行こうかなって思って行ったのがきっかけだったんです。

岸田 自転車で、そのサドルが固かったからかもしれないと思っていたんだけど、そうじゃないかもしれないということも思って?

永江 そうですね。8月11日に検査行ったときは、「こういう状況で痛くなったんですけど」って言ったら、先生は、「大丈夫かな、だったら炎症なんじゃない?」って言われて。「ただ、念のため検査しようか」っていうふうに言ってたぐらいだったんで、先生が大丈夫って言うんだったら、大丈夫かなと思って。

岸田 このがんの告知をそこから受けるんですかね、8月18日。

永江 本当は午前休だけ取って、ちょっと一応結果を聞いて、もう忙しいんで、すぐ会社行こうかなっていうふうに思ってたんですけど。別の先生方もこられて、ご家族は、みたいな話からスタートして。「腫瘍マーカーの値が極めて高いので、がんの可能性が高いだろう」というふうに言われて。「念のため超音波とかやるけど、もうきょう手術の日だから、手術台が空いたら手術したほうがいい」って言われたんですよ。「進行が早いがんだから、1日でも早く手術はしたほうがいい、どうする?」って聞かれて、やりませんっていう答えはないのかなって思って、もう、その場で「じゃあ、今日お願いします」って言って。その日の多分3時半ぐらいには手術台には乗っていた。8月の18日ですね。

岸田 すごいですね。じゃあ、準備も何もしなかったんじゃないですか。

永江 準備なんもしてなかったですね。家族とも朝は普通に別れて。

岸田 病院行ってくるわぐらいの。

永江 行ってくるわって言って、当時、妻、共働きだったんですけれども。がんになったよっていう連絡をしたときに、彼女は仕事をしていて、飛行機の中だったんですね。

岸田 キャビンアテンダント的な?

永江 そうですね。なので、仕事中って携帯電話取れないんです。がんになったっていうメールを送ったというのが、その日だったんですよ。妻が気がついて戻ってきたときには、夜になっちゃったんで、手術が終わっていたという。午前中に病院に行って、いったん家に戻っていろんな入院の準備してきてねとか、そういうのがあって。2時間ぐらいだったら時間があったんで、そこでやること全部整理して、持ち物そろえて、会社にもすぐ電話してっていうことをバタバタっとやって、あっという間に手術を開始するっていうことをしてましたね。

岸田 1日で。

永江 はい、やりましたね。

岸田 告知受けたときって、永江さんの心境的にどうでした?

永江 意外と冷静でしたね、びっくりしたんですけど。がんっていう響きって重いじゃないですか、なので、ショックを受けたとは思うんですけど、あまりにも実感がなさすぎて。意外と、良い意味でも不安を感じる時間がなかったのかなと思いますね。

 

【治療】

岸田 今、質問が来ていて、それだけの説明で手術は不安はなかったんですかと。

永江 不安、そうですね。短すぎると逆に不安を感じることなくできるんじゃないかなと思います。一晩寝るとか、1週間後に手術される方ってすごい不安なんじゃないかなと思うんですけど、そこは自分の場合はあんまりなかったですね。あっという間でしたからね。不安はあまり感じることはなかったですね。

岸田 もうそこからすぐ手術をして。

永江 そうなんですよ。僕もきょう手術するからねって言われたときに、あそこ、チョキンと切られるのかって思って、それを覚悟したんですよ。でも、説明を受けたら、切る場所はそこを外側から切るんじゃなくて。鼠蹊部って、股のあたりなんですけど、そこを切って、内部からチョキンって切って、玉を抜き出すっていうような、そういう手術をするのを全然知らずに受けた。

岸田 9月9日再入院。なぜ再入院を?

永江 病理検査をやって、CTとかの結果を見て、抗がん剤の治療をしたほうがいいのかの判断をするということで、いったん退院したんですね。やっぱりステージ2という判断をしたので、明確な転移は見られないんだけれども、CTとかそういうので写んない転移をしている可能性あるというところで、抗がん剤はやったほうがいいという医師の判断で、もう一回再入院して、抗がん剤治療を受けるために入院をしました。

岸田 コメントも来ています。手術向かうときにはどんなことを考えていましたか。

永江 もう手術するんだって、思いましたね。精巣腫瘍だって分かると調べるじゃないですか。でも、そこまでの心構えもなく、あっという間になってしまったんで。がんっていうと、死ぬのかなっていうイメージがあったんですよ。でも、当時まだ子どもは2歳、3歳とかだったので、死ねないなって思いましたね。

岸田 ありがとうございます。9月13日、抗がん剤治療開始したときはどういった抗がん剤を、どれぐらいされたんですかね。

永江 精巣腫瘍になると、BEP療法って言われるものをやります。精巣腫瘍の場合は、シスプラチンという、治療にものすごく有効なものが見つかって。治療成績はすごく良くなってます。ただ、副作用がものすごい強いというふうにも言われていて、それに加えて3剤、それと二つ加えて三つの種類の抗がん剤を同時に使ってやるという療法をやるんですね。大体、期間としては、1クール2週間ぐらいやって、その後しばらく休憩して、また2週間ぐらいということをやる治療を行いました。

岸田 2クールやって、そこで退院をすると。抗がん剤治療つらかったですか。

永江 しんどかったですね。外科の痛みは全然耐えられるんですけど。抗がん剤は全身をやられるっていうところと、あとは吐き気であるとか、倦怠感。これ、言語化するのすごく難しいんですけど、ものすごくだるいのが、頭まで動かなくなるみたいなところがあったんで、これのつらさは本当に説明が難しいぐらいしんどいなと思いました。

岸田 当時の永江さんの写真がこちらになります。どん。いい笑顔ですね。

永江 子どもがちょうどお見舞いに来てくれてたときだったんで、笑ってますけど。しんどかったですけどね。

岸田 これは2クール目?

永江 2クール目ですね。完全に体毛とか、他のところも全部抜けたところですかね。眉毛は比較的最後まで残りますね。

【家族】

永江 まず、やっぱり子どもが小さすぎたので、自分、まだ何も子どもに教えられてないなって思ったんですよね、あらためて。生きる術とかを何も伝えることなく自分がいなくなったら、残された妻と子どもとか、収入とか含めて、一体どうなっちゃうんだろうっていうふうに、そのとき、まずは思ったんですね。やっぱり入院中いろいろ考えて、いろいろ調べていくと、生存率が大体これぐらいだけど、100パーセントではなく1割ぐらい5年以内になくなる方だっていると。そう思ったとき、死を意識せざるを得なかったんですけれども。子どもがそこからは生きる目標にはなっていって、まずは保育園を卒業して小学校に入るまで生きたいなって。それが達成することができるのであれば、中学校になるまで生きたいな。その後は高校生になるまで生きたいな。その後は成人するまで生きたいなっていうように、少しずつ、一つずつステップをクリアしていきたいっていう生きる目標ができたっていうのはあります。

岸田 当時、伝えました? 自分ががんだって。

永江 当時は伝えてないです。

岸田 どこのタイミングで?

永江 それは結構悩んで。だんだん分かってくるんですよね。そのときは3歳ぐらいだったんで良くも悪くも分かってなかったんですよ、状況を。病院とか来ても、一緒に帰ろうっていうぐらいな感じで。あとは、入院をしててもがんという言葉も当然ながら知らないし、どれぐらいの重さのものかが分からないので、子どもはそんなに深刻に受け取ってなかったんですね。ただ、だんだん小学校に上がるにしたがって、ニュースとかも見るようになり、有名な人ががんで亡くなったみたいな報道とか出てきて。ショックをどれぐらい受けるのかなみたいなところで、いつどうやってっていうふうにすごく悩んでたんですね。そんな中で実は割と妻がカジュアルに、パパ、がんだったよみたいなことを言ってたらしく。ちょっとそこはギャップがあったなというふうに思った。

岸田 じゃあ、ちょっと拍子抜けというか。

永江 そうですね。ただ、自分はすっかり元気になって、もう大丈夫だろうっていうところがあったので、そんなに深刻すぎず受け止めてくれて、結果的にはすごく良かったなって思ってるんですけど。

岸田 では、質問が来てますので、読ませていただきます。病気になって家族への考え方は変わりましたか。

永江 変わりましたね。当時、先ほど少しお話しさせていただいたとおりで、仕事はたくさんして、大学院にも通い。家族のために働いて、どんどん変わっていく世の中の中でも通用するためには、どんどんスキルを上げたりとか、勉強したりとか、そういうことはやっていかなきゃいけないというふうに思っていたからこそ、やっていたんですね。がんになって、子どもがまだ小さいときに家族で自宅療養することになり、2カ月ぐらい家にいて過ごすことができたのは、ものすごく貴重な時間でした。あとは、入院中に思ったんですけど、結果的には2クールで終わったんですが、もしかしたら転移が進んで、治療がうまくいかなくなって、長引く可能性もゼロではなかったんですね。そんなときに、もしも無事に退院することができたなら、自分は一体何をしたいんだろうって思うと、その当時、よく行っていた近所の公園に、もう一度子どもと、うちの奥さんと一緒に行きたいなって思ったんですよ、自分で意外だったんですけど。そんなたいしたことじゃないんですけど、でもそういうふうに思って、気がついたことがあったんです。自分はその当時、今を生きてないんだなと思ったんですよね。常に先のことを考えて、一生懸命自分としては未来のために自己投資をして、勉強をして、スキルを上げて、変化に耐えられるようになっていく。なんだけど、今、目の前にいる人にちゃんと目を向けているんだろうかとか、じゃあ家族が大切っていうんだったら、じゃあ家族と過ごす時間ってどれぐらい作っているのか。仕事で土日とかもほとんどいなかったですし、平日も夜全然いなかったし、朝はいましたけどっていうような生活はそれで良かったのかなって思って。今はもう、ちょっとずつ昔の生活に戻っちゃうところもあるんですけど。でも、そのときに思ったことはやっぱり忘れてはいなくて、ちゃんと今を家族ともしっかり生きようって思って。今でもたまに向き合わないこともあるんですけど、今を向き合わなきゃいけないなというふうに変わったというのがあります。

【仕事】

岸田 当時の永江さんがお仕事で何をされていたのかと、会社側と自分の患者側の両方の視点もお持ちなので永江さんの仕事論をお伺いしたいです。

永江 仕事は、当時も今もそうなんですけど、IT企業に勤めていまして、そのときは、人事担当の執行役員をしていました。自分の上司、社長なんですよね。がんに関して、会社にお勤めの方が気になるところって、会社の人事や上司からどういうふうに思われるかがすごく大きなポイントになるんじゃないかなと思うんですけど。そのときに、自分はすごく幸いなことに、自分が人事の一番の責任者でもあり、社長とは会話できてたので、そこの不安は全くなかったんですね。

岸田 それは永江さんが今までの仕事でいろいろ信頼されてたからこそだと思うんですけれども。そうは言ってもじゃないですか、なったときって。そこをどう乗り越えたんですか。

永江 まず引き継ぎに関しては人事、そのときは採用とか、あとは教育とかも担当して、あと品質保証っていうところも一通り担当してた時期ではあったので、それを三つに分けさせていただいて、それをその当時の別の執行役員の人にそれぞれ電話をして、お願いしますって言って引き継いだ。

岸田 そこから社会復帰するときにどうしたんですか。

永江 半年弱ぐらい、結果的には休むことになったんですけれども、その後は1月に復帰をして、元の仕事を再びやるということになりましたね。

岸田 それって永江さんのスペックだからできたかもしれないんで、こうしておいたほうが良いよっていうアドバイスってありますか。

永江 実は、そこについてはあんまりなくてですね。当時、すごく忙しい中で、自分としてはすごい責任があるポジションにいて、夜遅くまでずっと働いてた人が急に来なくなったりとかすると、事業に影響があるんじゃないかとすごく心配したんですけど。ふたを開けてみると、そういう状況であっても増収増益はできているというとこがあり、ある程度の組織になってきたら、1人が一時的に欠けたりしても、何とかなるんだなと思いました。ただ、戻ったときに場所がないかっていうと、そんなことなくて、それなりにやることはたくさんあったんです。そういうところが、自分としては少し安心もし、少し寂しくもありっていうところはあったかなと思いますね。

岸田 がんでなくても病気でちょっと休職するだったりあると思うんですけれども、企業人としてのアドバイスや思ってることはありますか。

永江 恐らくどこの会社でも、できる限りのことはしたいなと、人事の責任者であるとか、経営陣というのは考えているんじゃないかなと想像はしています。ただ、全ての企業が同じような状況ではないですし、体力もそれぞれ違うと思うんですよね。できる範囲というのが、それぞれ個々の状況によって大きく異なるんじゃないかなって思うんです。あとは、がんに限らず病気になられた方が、その時点でどれぐらい所属している組織に対して貢献できる武器みたいなものを持っていて、それがどれぐらい制限されることになるのかっていう個々の状況が違うと思うんです。ひとくくりに語ると、企業はもっと配慮すべきみたいなことになるかもしれないんですけど、一概にそういうことを乱暴にくくってしまうと、何にも解決しないんじゃないかなと思います。企業側だけじゃなく、働く側も、それぞれ何か努力しなきゃいけない部分がきっとあるんじゃないかなと思っていて。例えばすごく極端な話、こういう話って、自分が罹患者だから言えるのかなと思うんですけど、その方がもともとどこの企業からも引っ張りだこの人なのか、あるいは転職しようとしても転職できない人なのかっていうところが語られずに、いつも話されてますよねっていうことが多い。立場が弱くなった途端に全ての人がげたを履いてしまうっていうのはちょっとおかしいかなっていうのが自分の考えですね。

【辛かったこと&克服法】

岸田 永江さんが肉体的と精神的につらかったとき、それをどう克服しましたか?

永江 入院中はつらいなっていうときで言うと、吐き気であるとか、あとは白血球が少なくなったときの造血剤で自分は結構副作用が出て、背中がものすごい痛くなったんですよね。

岸田 腰の辺りが痛くなるんですよね。

永江 それ以外にも、抗がん剤のつらさみたいのが、他の方と同様にあったんじゃないかなと思うんです。そういう意味だと、克服というのは、自分も入院した後とかに、ブログみたいな他の方の記録とか探すんですよね。そうするとパターンが分かるんですよ。人って予測できるものより、予測できないほうが、恐怖とかあると思うんですけど、大体パターンをそうやって予測して、これぐらいかなと思って、大体それが当てはまったりとかすると、精神的には助かりました。それで肉体的に変わるわけじゃないんですけど、だいぶ、もうちょっと頑張ればピークは過ぎるっていうのがあったので、すごく参考になりましたね。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって失うものもいっぱいある中でも、がんになったからこそ得られたものってなんでしょうか。

永江 がんになって大変になることとか、時間をその半年分キャリアを失うとかっていうのはあったんですけれども、それを補った、それ以上のプラスになったことが、やっぱりあったのかなと思ってます。主には、もう一回自分を見つめ直し反省して、生き方ってどうなんだろうみたいなところを、あらためて考えることができたっていうところと。あとは、人との出会いがものすごく変わったということがありますね。今日、この場に、こうやって呼んでいただけたということもそうですし。他にも、自分は自分の病気のことをオープンにしてるので、いろんなとこで呼んでもらって。それによってまた出会いがあったりとかっていうことも、昔だったらなかったと思うんですよ。あとは、それこそ昔はTwitterでたくさん一気にフォロワーが増えたんですよね。それによって毎日見てくださる方と、あとは会ったことないのに連絡をくれる方とかいらっしゃって。そんな出会いって、同じ仕事やってるだけだったらなかっただろうなっていうのがたくさんあったり。共通項って人を仲良くさせるところがあるじゃないですか。がんになった後でも、ものすごく活躍されてる方ってたくさんいて、そういう方々と仲良くなりやすくなったのは、すごく自分にとってはいいなというところです。

【夢】

永江 さっきもちょっと話をした、がんと就労に関してなのか、あとは自分のがんになった経験をもっと生かすようなことで、社会にもっと役に立てるようになっていきたいというのが、今、本当にやりたいことです。ボランティアだけで終わると、やっぱりできる範囲ってすごく小っちゃくなってしまうので、そこは収益にも変えていきつつ、人の役にも立てるというところにうまく変えていきたいなと思っています。残りの人生、できるかどうかすら分からないんですけど。

【今、闘病中のあなたへ】

永江 ランスアームストロングっていう、同じ精巣腫瘍で死ぬんじゃないかっていうぐらいまでいったんですけど、その後にツールドフランスって自転車の競技で世界最高峰のところで7連覇した、すごい超人的な方がいらっしゃって。その方の本を入院中読んでたんですよ。「がんになる前よりも、なった後のほうがより良い人生にすることだってできる」っていうことを書いてあって。それを胸に、自分はがんになったあと、生きてきたところがあります。実際に、なる前よりもなった後のほうが自分は幸せに生きていると思っているんですね。全ての方がポジティブになれば何でもできるっていうのはちょっと違うと思っているんですけど、でも、がんになった後でも幸せな人だって世の中たくさんいて、その中の一人であるということは伝え続けていけるような生き方をしたいなと思ってます。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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