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インタビュアー:岸田 / ゲスト:池内

岸田 ライブ配信開始ということで、がんのノートoriginスタートしていきたいと思います。パンパンパンパーン。池内さん、今日はよろしくお願いいたします。

池内 よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。それではですね、まず、originや僕のちょっと自己紹介をさせていただければということを思っております。私、岸田と申しまして、25歳か、25歳と27歳の時にがんを罹患しました。当時、胚細胞腫瘍という、今日、池内さん、精巣腫瘍のあれでもあるので、そういったところも同じだと思いますけれども、そういったところで僕も精巣腫瘍にもなりました。

岸田 当時、手術や抗がん剤とか色々あったんですけれども、医療情報をお医者さんに聞いたら結構答えてくれるんですけど、それ以外の情報ですね、どうやって家族に打ち明けたのだったりとか、お金どう工面したのだったりだとか、恋愛、結婚どうするの、そういった情報っていうのはまだまだ無かったので、そうした情報を色んな人に聞いてそれをシェア出来ればということを思って、2014年からがんノートというものをスタートしております。

岸田 今日はMCとして池内さんの話をいっぱい聞いていきたいと思いますので、よろしくお願いします

池内 よろしくお願いします

岸田 そして、池内さんのこちら自己紹介のプロフィールになっております。池内さん、簡単に自己紹介をお願い出来ますか。

池内 はい。池内健一と申します。今、埼玉県に住んでおります。年齢は51歳です。今、岸田さんからお話があったように精巣腫瘍です。ステージが3bというところで、肺までが転移がありました。発覚は2006年35歳の時です。手術をしまして、抗がん剤、手術、また大きい手術をもう一回しております。再発も1度経験したんですけれども、今は経過観察で元気に過ごしております。よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。そして、池内さんあれなんですよね。今日、背景真っ白でTシャツも真っ白ですけど、Tシャツがなんか、今日。

池内 そうなんです。この色で。

岸田 わざわざそれにしてくださったんですよね。

池内 はい。Tシャツ、結構集めるのが好きなものですから、結構、旅先でTシャツよく買ってたんですね。これがですね分かります?

岸田 ベトナム?

池内 テレコム。

岸田 テレコム。

池内 これなんの絵か分かります? これ。

岸田 電線?

池内 はい。よくアジア方面行くと電線がもう凄いゴチャホチャになってるんですよね。そういうのがもうそのまま描かれているという、向こうのベトナムのホーチミン行った時に買ってきたものです。なので、旅先で買ったりですとか、あとは最近ちょっと流行りですけれどもサウナ好きでよく行ってましてね。

岸田 僕も今、サウナ、はまってますけれども。

池内 結構、サウナのお店でTシャツ売ってたりっていうのありまして、サウナちょっとこういったですね。分かりますか。

岸田 はい。ロウリュウを。

池内 ロウリュウのこういうTシャツであったりとか、あとは。

岸田 ロウリュウって、あのバーッてやってる。

池内 そう。あの熱いのがまた良いんですよ。あれがまた。あとはこれは横浜のサウナ。

岸田 オー。

池内 スカイスパっていう横浜の駅の近くにあるサウナの。

岸田 凄い。

池内 こういうTシャツも最近ちょっと集めてたりとか。

岸田 集めているということなんですね。がん関係あらへんけれども、そういう。

池内 全く無いですね。

岸田 イベントのTシャツかなと思ったら、全然ベトナムのTシャツっていうね。

池内 そうなんです。全然違ってすみません。

岸田 いえ、大丈夫です。そういったお茶目な池内さんですけれども、池内さんのまた色々闘病経験談も聞いていきたいと思います。またスマホからでも皆さんのライブ配信でコメントもいただいております。

岸田 よしさんこんばんはとか、こんばんはじゃない、こんにちは。こんにちは。今日も楽しみです。池内さんも楽しみにしていますとか、ミイミイさん、精巣腫瘍に関する情報が少ないので、貴重なお話を期待していますとか、Tシャツおしゃれですねということで、配信したらここから上しか見えないから、全く分かんないんだけどね。

池内 大変ですね。

岸田 サウナ行きたいなっていうコメントもいただいております。是非是非、皆さんまた聞きたいこととかコメント是非是非お待ちしております。それでは早速なんですけれども、池内さんの闘病の経験談を色々お伺いしていきたいと思います。

【発覚から告知まで】

岸田 まずは発覚から告知までをお伺いしていきたいと思うんですけれども、どういうふうに池内さんが、がん分かっていたんでしょうか。お聞かせいただけますか。

池内 はい。最初、分かったきっかけっていうのは、普通にお風呂入っていて身体洗いますよね。その時に睾丸のところ触った時に硬いな、こんなだったかなっていうのがまずきっかけだったですね。 その時、別に腫れたりとかそういうのもなくて、ただ、何となく硬いな、でも痛くもないし、何だろうな。でも、こんなに硬かったかなって思いながらもやっぱり場所が場所だけに、なかなか病院に行くっていうの、こう躊躇しちゃう。

岸田 何かしたら、ちょっと恥ずかしい的なありますよね。

池内 変な病気貰ったんじゃないかななんて一瞬思っちゃったりもしたわけですよ、その時にね。おかしい、でも、何かこんなだったかなっていうのがずっと気になりつつ。たまたまその時、父親が入院してたものですから、そこの病院に泌尿器科もあって、思い切って、もう聞いてみようかな、そこで異常が無いって言われればそれまでだしと思って意を決して行ってみたらエコーを当てられて、もう即座にこれは腫瘍の疑いが高いですっていうんで直ぐ手術になってっていう流れですね。

岸田 そこで実際お父さまのその入院というか、そういう治療してたっていうのがあるからそれで行ったっていうことですね。

池内 そうですね。なので、中々、他のところに行くってなると、ちょっと躊躇しちゃうのもあって、たまたま、お見舞いで行ってた病院のところに泌尿器科もあって、じゃあ、そこで思い切って聞いてみようかなっていうのがきっかけでした。

池内 そこの病院であの入院してその左側の精巣の摘出の手術出来たので、その時は親子で同じ病院に入院していたっていう。

岸田 そうなんや。本当にそこは、ラッキーって言い方変ですけれども、自分で病院行ってたから良かったっていうところで、どれぐらい腫れたんですか、その時は。

池内 大きさは変わらなかったんですよ。よく腫れる人もいるみたい。実は変わんなかった。

岸田 そうなんや。変わんなかった。いや、僕の時、腫れたんすよね。

池内 結構、卵ぐらいの大きさになるとか、結構腫れる方多いんですよね。

岸田 僕、結構、こぶし大ぐらいはいきました。

池内 僕は全然腫れなかったんですよ。

岸田 硬くなった?

池内 硬くなっただけだったんです。

岸田 今、フリップにも出てますけど、左側が硬くなった?

池内 そうですね。男性なら分かると思うんですけど、そんなに硬いものではないじゃないですか。でも、明らかに。

岸田 そうですね。柔らかくてデリケートなやつですよね。

池内 そうなんです。明らかに硬さが違う状態だったんですよね。それがもういやこんなだったかなって思いながらも、やっぱり躊躇して悶々として中々1歩が踏み出せずに、そこで多少、時間がかかったのはあるのかなって今思うところはあります。

岸田 ありがとうございます。そして手術をしていくわけなんですけど、コメントでもいただいてます。トランスミッターさんが、池内さん、J-TAG副代表として思う存分お話しされてくださいだということですね。J-TAGっていう患者会の精巣腫瘍の患者、だったりとか、ナツミさんから、異変に気付いてから病院に行くまではどれぐらいの期間があったんですかと言ってますけれども。

池内 そうですね、あの頃だと、3週間ぐらいは経っちゃったかもしれないです。

岸田 結構それぐらいそうなんですね。

池内 悩んじゃうというか、どうしようか、どうしようかっていう間に結構そのぐらいに時間が経ってしまったのはありましたね。

岸田 泌尿器科行って先生に診てもらって精巣腫瘍かもしれないという診断かと思いますけれども。

池内 実際さっき直ぐ手術ってお話ししたんですけれども、実際は、診断を受けてから実はそこの手術するまでも1週間ちょっと実は空いてるんです。結構。

岸田 そうですね。お願いします。

池内 結構、診断されると当日とか、その翌日でも緊急でなる方って多いと思うんですけれども、たまたまその時は、いつにするみたいな感じで言われて、そういう感じで良いのかなっていうんで、仕事をもしてたので仕事の都合もあってここからっていうふうに決めて、そこもだからちょっと間が空いちゃってたのも若干あるのかな。

岸田 そうなんですよ。皆さん、精巣腫瘍って直ぐ手術とか治療しないとやばいという、やつの部類でもあるので、結構、当日もしくは翌日には手術することが多いんですよね、池内さんね。

池内 そうなんです。

岸田 だから1週間待たされるっていうのは、なかなか聞かへんけど。

池内 聞かないですよね。僕も結局その時って何も知らないので、そういうもんなのかなと思って、いきなり直ぐだと仕事休むのもとか色々考えたりもしたんで、そのぐらい、いつにするっていう感覚があったんで、それでいつぐらいからっていうふうに決めたのはもう今でも。

岸田 そうなんですね。 Jitsuharaさんも翌日、手術凄いですねっていうのはそうなんですよね。だから本当に手術枠がなくても強引にねじ込むというか、その最後の最後の先生終わった後にもやるみたいなことも多いですもんね、本当に。

池内 そうですね。

岸田 腫瘍は片玉が多いんでしょうか。両方に出来る方もいらっしゃるんでしょうかっていただいてますけどどうです?

池内 実際、両方なってしまう方もいらっしゃいます。最初、片側なったんだけれども後から残っている方に出来て両方、摘出っていう方もいらっしゃいます。

岸田 池内さんの場合は片方で良かったっていうふうなんですね。

池内 そうですね。

岸田 手術をしていくというふうな形ですけど、手術も結構、精巣腫瘍の手術、僕も左精巣に出来たら精巣のところの玉を玉袋から取ると思ってたんですよ。違うんですよ、手術の仕方。

池内 違います。何ていうのでしょうか、鼠径部っていうんですかね。足の付け根の辺りを切ってそこからスッと抜き取るようなそういう感じなんですかね。

岸田 鼠径部で、陰の毛が生えてるところのね。

池内 そうですね。その通り。

岸田 切って、そこから芋づる式みたいな感じで取るんですよね。

池内 そうなんですよね。それもなって初めてこういうふうに取るんだっていうのを。

岸田 玉袋を、そのままチョッキンって切られるわけじゃないっていうね。

池内 そういう印象ありますよね。

岸田 そうなんですよね。手術は直ぐ1日で終わるって当たり前か。結構ですよね。

池内 そうですね。最初の手術は夕方始まって多分1時間か1時間半ぐらいで終わっちゃったような感じですね。

岸田 ありがとうございます。コメントでセキさんからも、僕も発覚して翌日に入院でその翌日に手術しました。僕も両方ありますよ。摘出は片方ですというふうなこともいただいてます。手術をしていったということで、フリップで一番上のところにトライアスロンとか水泳とか海外旅行っていうのは、アクティブに結構過ごされてたってことですよね、池内さんね

池内 そうですね。それまでは結構、海外旅行も僕1人で行くのが好きでして、結構いろんな、一番多いのはでもアジア方面ですかね。タイですとかベトナム、あとは台湾、あとはアンコールワット見にカンボジア行ったりですとか、あとはヨーロッパ方面もイギリスとかフランス、ドイツとか、あとはアメリカも1回だけニューヨーク、あとはハワイですね。ハワイは実はホノルルマラソンで行ってます。

【治療から現在まで】

岸田 ホノルルマラソンに行かれている、結構アクティブに過ごされていたというふうな池内さんです。そして、今、発覚そして手術のところまでいきましたけど、ここから、治療からそして現在までということで、治療終わったやんと皆さん思われるかもしれないですがここからが本番です。

岸田 ということで、次こちらのフリップいきましょう。その後、腫瘍マーカーが下がらないということありましたけれども、手術したら精巣腫瘍の腫瘍マーカーが下がるのが一般的ですよね。

池内 そうですね。色々マーカーも3種類ぐらいありますかね。その中でAFPっていうものがあるんですけども、それだけがどうしてもその陰性化しきらない、下がりきらないと。その頃手術した後だったので、月1ぐらいでCTを撮ってたんですよね。CTでは画像写らなかったんですけれども、2007年の1月のCTを撮った時にリンパ節から肺まで転移が見つかって。

岸田 これって、あれですよね。勝手に個人的な妄想ですけど、絶対見つけるね。手術、直ぐせなあかんのにちょっと延びたりだとか、結構見つかるのがちょっと時間かかったからなんですかね。

池内 そこがちょっと分からないんですけれども、そうですね、年明けのところで肺にも何カ所かっていうのを言われて、今でも覚えてるのが、その時の主治医の先生にいきなり家族の方呼んでくださいって言われて、え、何があったのっていう、呼んでくれというんで呼んで来てもらって、バーッと画像の写真を貼って、ただここに転移のこれがあって、分かんないんですよね、素人だと画像見たところで。

池内 黙ってそれを聞かされて、取り敢えず、取り敢えず抗がん剤やるんだと病院移らないと駄目ですよ、病院変わんなきゃいけないのか、どこ行けばいいんですか、そうですね、築地の国立がんセンターとか、がんセンターか、僕、埼玉に住んでるものですから築地のここがちょっと遠いな、どこか他ないんですかねって聞いたら、あと板橋のところに帝京大学病院って住所のとこにあるって言われて、そこがたまたま昔、姉が入院したことがあったものですからあそこの病院か、場所も分かりますし、そこだったらそんなに遠くはないからそこでお願いしますっていうんでそこで転院をして行ったわけです。

岸田 自分の病院では抗がん剤出来なかったんですね。そんなに大きな病院じゃなかったということ?

池内 大きい病院じゃなかったんです。そうなんです。

岸田 そうなんや。

池内 大学病院とかの大きい病院ではない本当に地元にあるちょっと入院設備のあるぐらいの規模だったものですね。

岸田 そしてその奇跡の出来事が凄く気になんねんけど。何があったんですか、奇跡の出来事。

池内 これがこの闘病する上でどうしても僕にとっては外せないものなんですけれども。岸田さんは入院中って、どういうことして過ごしてました? 例えば、ネットとかもそうですけど、本読んだりとか、入院中の過ごし方ってどういう過ごし方ありました?

岸田 入院中はアニメを全部一気見出来るぞということで、ずっとアニメを1日で12話とかも見て、凄く感慨に浸ってたなっていうのがありますね。また今、コロナ禍で面会とか制限されてますけど、色んな友達に来てもらって話したりやとか、それかアニメかみたいな感じでしたね。

池内 結構、話してもらうって結構、大事ですよね。実は僕、この入院中で欠かせなかったものが分かります?

岸田 あっ、それはラジオ的な?

池内 はい。結構、ラジオに実はその時に初めて投稿したんですね。僕、埼玉に住んでるんで、FMのNACK5っていうFM局あるんですけれども、そこのたまたま平日夕方やっている番組があって、それまで投稿ってしたこと無かったんですけれども、ちょうど転院して抗がん剤が始まる直前になって、やっぱりその何が起きるか分からないっていう不安な気持ちとかもあったりして、たまたまその番組に、今、入院しててこうなってっていうのをメールを送ったんですね。

池内 そしたらそのメールを、その日読んでくれて、それで頑張れよっていう応援のメッセージをくれたんですね、そのパーソナリティーの方が。それから何度か送って読んでもらったりっていうのが続いたんですけれども。その番組っていうのがよく公開生放送、よく見えるスタジオでやっている番組でして、大宮の駅の近くにサテライトスタジオがあって、そこでやっている番組だったんですね。

池内 そこのパーソナリティーの方、ケイザブロウさんって男性のパーソナリティーだったんですけれども、そうやって読んで応援してくれてる。1度、お礼をしに行きたいなというか、と思って、入院中もたまに外泊許可で家に帰れるので、その病院へ戻る途中に大宮に立ち寄って、そこのスタジオの前まで行ったんですね。

池内 最初は放送中だから話したりは出来ないかなと思ったら、丁度、合間コマーシャルとか交通情報やってる間に、スタジオの前に出て来てくれてたんですね。見に来てる人と話して。そこで初めてその方とも話しすることが出来て。

岸田 あの時のこの投稿した者ですと。

池内 そうですね。その時に、その時が初めて会ったのが、抗がん剤2クールやる直前の時だったんですね。読んでくれた嬉しさとこの先の不安でそこで僕、涙流しちゃったんですね。そしたら、パッと見たら、そのケイザブロウさんってそのパーソナリティーの方も涙流してくれてて、初めて会ったのにそこまで気に掛けてくれてるっていうのが本当に嬉しくて、その後もその番組にずっとメールを送って、状況、現状っていうとか、その時の気持ちっていうのもメールで送って、時折読んでくれたりっていうのがあったんですね。

池内 ある時に番組のディレクターから急にメールをいただいて、その番組で実は命の特集を実は組もうと思っていて、その送ってくれたディレクターさんが後で聞いたら、そのディレクターさんの奥さんが、がんで亡くなられていると。

池内 そのパーソナリティーの方、ケイザブロウさんのお母さんもがんで亡くしていたりですとか、その方の先輩ですとか同僚も若くしてがんで亡くなっている人もいて、そういう特集、実は考えていてね、今回、僕、その時ラジオネーム池ちゃんっていうラジオネームで出してたんですけども。

岸田 安易な、安易な。

池内 安易な。すみません。何の工夫も出来ずに。そのパーソナリティーのケイザブロウさんと話しするのを録音したいんだっていうんでメールいただいて。僕、実際、闘病中ってブログ書いたり、日記書いたりとか、写真残したりっていうのをあまりして来なかったんですね。

池内 闘病中って残すのが怖いっていうのが、ちょっと思いがあって。でも、そこで話をして欲しいっていうのをいただいて、そこはもう、それで何か力になれるんであればと思ってそこを承諾して、2人で色々とそういう話をして、その番組の特集で僕の声、その録音したのを流して。

岸田 流したりね。

池内 そうしましたら、また色んな方から凄い励ましの言葉だとか、応援の言葉っていうのを他の沢山のリスナーさんからいただいてっていう、そういうのが励みになって、抗がん剤きつかったんですよね。副作用も僕、結構強く出ちゃった方だったんで。

池内 そういう中でも本当に会ったこと無い人も多いですけれども、そういうリスナーさんですとかそのパーソナリティーのケイザブロウさんですとかに、支えてもらってこの闘病、その抗がん剤の治療であるとか大きな手術を何とか乗り越えることが出来たなっていうのがあります。

岸田 あー、そういう、しかもラジオで取り上げてもらって色々お話し出来て、そして、それで励まされて、パーソナイティの方からも励まされて、そして周りの方からも励ましていただいて、それメチャクチャ勇気になりますよね。

池内 それですね。本当に今、ラジオはもうどうしてもこの僕の闘病でも欠かせないもの。

岸田 分かります。僕もラジオはめっちゃ確かに、今思い出したら聞いてたなと思います。今もラジオ、結構、僕も日曜の黄昏時にアベレージというラジオ聞いてるんですけれども。そんなやつもあったりとかして、結構、ラジオ良いですよね。ありがとうございます。

岸田 そんな中で、池内さん、めちゃくちゃ色々ここから4、5個、まだフリップありますので、ちょっとだけ色々またお伺いしていきたいと思うんですけれども。その後のフリップはこちらになります。薬を変え、引き続き抗がん剤の治療ということで抗がん剤も、転院を無事出来たんですよね。その帝京さんね。

池内 はい。

岸田 そして、抗がん剤治療をしていって、その後、後腹膜にリンパ節郭清の手術ということで、後腹膜、おなかのとこのリンパですよね、に転移してたっていうことですか。肺だけじゃなくて。

池内 そうですね。肺のところは抗がん剤で、ほぼほぼ消えてくれたんですね。最後、CTを撮ってる中でそのリンパ節のところに、どうしても影っていうか残っているのがある。

池内 そこはちょっと取ってみないと分からないからっていう話になって、ちょうど抗がん剤を全部であの時は5クールやったんですけれども、その後にこの後腹膜リンパ節郭清っていう大きな手術をしました。最初は主治医から俺、手術どのくらいかかるんですかって聞いたら、半日はぐらいかかるよとか、ほぼほぼ1日かかったりもするよみたいな。

岸田 そうなのか。それを乗り越えて、それで10カ月ぶりに仕事復帰をしていくということですね。またこれも後で色々聞きたいんですけれども、やっぱり、手術していったら、結構、体力的に大変でした?

池内 かなりそうですね。手術直後っていうのは体力がもう想像以上に落ちていて。だんだん管が外れてきて少しずつ歩けるようになって、たまたま外出許可もらった時に病院の外少し歩こう、病院から最寄りの駅まで15分ぐらいあるので、ちょっとそこ行って帰って来てって行こうと思ったら、行って5分ぐらい経ってもうヘトヘトになって疲れちゃってすぐ戻ってきたりだとか、もう想像以上に体力落ちてたり、後は仕事に復帰してからでも、ちょうど9月に仕事を復帰して段々寒くなってくる季節じゃないですか。

池内 そうすると、お腹に大体15センチくらいの傷あるんですけれども、傷が段々こ寒くなってくると引っ張られるというか、突っ張るような感じになって結構お腹痛くなって来たりとかで、結構痛くて動けなくなったりですとか、そういうのってのは結構ありました。

岸田 ありがとうございます。コメントもちょっといただいております。さっきのラジオのリスナーさんに応援して貰えるって凄いですね、それ力になりますよね。メディア、ラジオはつながりは感じられるメディアですよねだったりとか。あと、薬を変え引き続き抗がん剤治療っていうことに関して、抗がん剤は何をされたんですかってありますけれども、簡単にちょっとご紹介いただけますか。

池内 最初にやった抗がん剤っていうのがまず3種類ありまして、薬の名前がシスプラチン、エトポシド、ブレオマイシンっていうよくBPっていうその3種類があるんですけれども、それをまず3クールやりました。その後にまだCT撮ると残ってるところがあるというので、薬の種類を変えて、今度は2剤でイリノテカンとネダプラチンという2剤を使っています。

岸田 薬変えたってことはこれ効果なかったってこと? 最初のやつが。そういうわけではない?

池内 そういうわけではないと思うんですね。そこの最初の3クールで肺のところが消えたりですとか、リンパのところも減っては来てたようなんですけれども、あまり何クールも何クールも同じ薬は使えるわけではないようなので、ここでもう薬の種類を変えましょうということで、その2剤に変えたというのがあります。

岸田 3、4カ月ぐらいはずっと抗がん剤治療してたってことですかね。3月から始まって。

池内 そうですね。1月に。

岸田 1月か。

池内 はい。1月からで3クールやって、そうですね。5月ぐらいまで抗がん剤やってました。

岸田 やってたんですね。ありがとうございます。そしてその後、お父さまが他界されると、闘病されていたお父さまが他界されたということですね。

池内 そうですね。うちの父が入院してたのが、脳梗塞を患いまして長いこと入院をしてたんですね。ずっと、脳梗塞で左側が動かなくなったりですとか、しゃべるのもあまり出来なくなってたので、自分ががんで闘病してるっていう話は全然してなかったんですけれども、仕事にも復帰して、また父のところお見舞い行った時に初めてそこで、いや実はがんになっちゃって、闘病したんだよってそこで初めて言って、普段も出る言葉が限られてる中ででも、それを伝えたら最後にうちの父が一言「よく頑張った」、今までそんな言葉なんか一言も言ったこともないのにその時だけよく頑張ったっていうんで、褒めてくれたっていうのが、それが父に掛けてもらった最後の言葉なのかなっていうのがあって、それが今でも忘れられないところがありますね。

池内 それがその言葉を言われて、ひと月ぐらいで父が旅立った。本当に実はどっか分かってて取りあえず良くなったっていうのを今思うとこうやって見届けてくれたのかなっていうふうに思えるところですね。

岸田 ありがとうございます。そして、その後2008年に残ったリンパに再発し抗がん剤治療をして、中断しながらも奥歯の抜歯などで。

池内 僕、抗がん剤やってる時って虫歯があると駄目ですよっていうのを、岸田さんいわれたことあります?

岸田 あります。ていうか、メチャクチャ僕も歯は1回目の抗がん剤治療の時に結構、抵抗力弱くなっちゃって、めちゃくちゃ口内炎出来たりとか、色々ありました。

池内 そうですよね。よく口内炎、氷を入れてだとか、やったりもしたんですけど、ちょうど何か歯が浮いてる感じがするなと思って気になるなと思って、また入院してたとこで口腔外科で診てもらったんですね。そしたら、レントゲンを撮ったら歯茎の中に袋みたいな何か出来ちゃってて、これはもう抜かないと駄目っていうんで、4本ですから、結構、時間もかかっちゃうので、丸々1クールがひと月ぐらいずれ込んじゃってっていうのがありましたね。

岸田 不安ですよね、なんかね。

池内 そうですね。まさかでもこの治療やってる中でただでさえ身体に負担が掛かってるのに歯が無くなるなんて正直思ってない。

岸田 確かに。歯が無くなるの結構きつくないですか。歯が無くなるの。

池内 ちょうど下だったんですけど、2本2本で抜くっていうことになって、今度そうすると、今度、食事するのも中々不自由を感じたり。ただ抗がん剤やってる最中なので歯の治療っていうのは直ぐには取り掛かれない、暫くはずっと無いままの状態。

岸田 へーー、そうか。その後、転移したりとか、本当、抗がん剤はこれはまた違う抗がん剤したんですか。

池内 実はこれ、さっきお話しした中でイリノテカンとネダプラチンっていう薬を同じのを使ってます。そこでは転移した部分っていうのは画像上、CT上では消えてたんですけれども、ただ、マーカー、さっきお話ししたAFPっていうのがそこがまだ陰性化がほんのちょっとのところでどうしても下がりきらないっていう状態が続いてました。

岸田 そうなんや。だから、それが下がりきらへんからやったっていうことですね。

池内 そうですね。

岸田 そして、青木さんからもコメントいただいております。私は乳がんで早期発見早期治療でしたから左胸全摘と同時再建をしてホルモン治療を10年服用しますと、抗がん剤治療、経験された皆さん尊敬しています。私もyoutubeで手術前に励ましていただいて力になりました。

岸田 嬉しいですよねということで、こういう励まし合える、こういう形って良いですよね。お父さまの言葉、嬉しいですね、素敵ですと。抗がん剤を中断しても歯の治療って大事なんですねっていうことですよね。確かに抗がん剤の方が先にされるような感じですけど、それよりも歯の方が中断しても歯っていうことだったんですね。

池内 そうですね。僕、言われたの虫歯の菌が抵抗力を落ちている時に、身体に回って特に脳に入ってしまうと命取りになるからっていうのは、言われたことなんですけどね。

岸田 そうか。ていうことらしいです。ありがとうございます。そして、その次、フリップで次、セカンドオピニオン、あれ、これまた治療は続いてた?

池内 そうですね。歯を抜いて遅れていた抗がん剤、もう1クールやって、その時にお話しする、画像は消えてるんだけれども、AFPが下がりきらないよ。その時に、やっぱり、抗がん剤やるって体、体力的にももの凄い負担がやる度に掛かってきて、画像は消えてる、でもAFPがほんのちょっと下がりきらない、でもそこのその時の主治医は、まだ下がりきらないから抗がん剤だよ。

池内 でも、このままで大丈夫なのかなっていうのが、自分で思うようになって来て、そこでもしかしたら他のところ、他の先生に聞いたら何か違う道あるんじゃないのかなと思うようになってセカンドオピニオンっていうのを考えるようになりました。

岸田 セカンドオピニオン先は、どうやって決めたんですか。

池内 最初はですね、もう全く分からなくて、まず最初に行ったのが築地の国がんだったんですね。国立がんセンター。そこも最初のその地元の病院行った時に最初どこに行ったらって聞いた時に、築地の国立がんセンターって言われたのを覚えていたので、まずそこに行ってみようと思って、築地の国立がんセンターにセカンドオピニオン行ったんですね。

池内 ただ、その時に丁度その時の国がん泌尿器科ですと、あんまり話を聞いているとあまり今、精巣腫瘍が得意ではない感じでおっしゃってたんですね。最初、素人考えで国立がんセンターっていったらどんながんでも、ってイメージあったんですけれども、がんの種類によって確かに精巣腫瘍ってなる人少ない状況ですからそういうのもあるんだな、そこの話を聞いてくれた先生がもし池内さん次にセカンドオピニオン行くんだったら、京都に三木先生っていうのがいます。

池内 あと関東だと筑波に河合先生っていう先生がいるからそこの先生、もし行くんであれば聞いてみるとどうですかみたいな話をいただいたんですね。そこでまず、関東で近い所でその筑波大附属病院行ってみようっていうので。

池内 国がん行った時も何の資料も持っていかないでいきなり半ば行ったようなもんだったんで、じゃあ、次行く時はちゃんと画像とかの資料を持っていきなさいってアドバイスも貰って、2度目、筑波の河合先生のところにセカンドオピニオンに行ったんですね。

岸田 話を聞いてもらって転院って書いてるのでそのままそこに転院したんですか。

池内 そうですね。その筑波の先生から言われたのは、もし抗がん剤続けるんだったら今度も薬の種類は変えなさいと。今までの薬はもう、多分効かないだろうから、そこから薬を変えなさい。後はこの状況だから経過観察っていう道もあるんじゃないかっていう話をいただいたんですね。

池内 その話を入院していた病院の先生に主治医にそのまま持ち帰ってこういう話をいただいてるんですっていうのを伝えたら、でもうちの病院ではこの状態だったら経過観察はないから、このまま抗がん剤続けるよっていう話になって、その先、自分でどっちを選ぶかってなった時に、経過観察っていう道があるんであれば自分はそこにかけていきたい。

池内 仮にその道を選んだとしてもその道を選んでその先再発あったとしたら、でも、あの時、最善の判断をして自分でこっちを選んだんだから、後悔は無いんじゃないかと思って経過観察という道を選び、転院という形になってますね。

岸田 ありがとうございます。先ほど見始めました。症状は玉が硬くなるだけだったようですが、どれぐらいの硬さだったんですかってありますけど、硬さ、何かに例えるとどれぐらいですかね。

池内 あーー、そうか、何だろう、何て言えばいいんだろうな。うーん。

岸田 スーパーボール大、スーパーボールぐらい?

池内 そう。スーパーボール。

岸田 スーパーボール。

池内 まさに。

岸田 ということみたいです。

池内 大きさもちょうどそのぐらいですかね。本当に普通ではちょっと考えられないような硬さであったのはよく覚えてます。

岸田 ありがとうございます。セカンドオピニオンって直ぐ予約は取れたんですかっていうことありますけれども、すぐ取れました?

池内 その時は比較的。

岸田 1週間ぐらい?

池内 1週間そうですね、そのぐらいで取れましたね。

岸田 凄い。ありがとうございます。皆さん、今の話って2008年当時の話ですからね。また今は先生たちも、もう引退されてる方もいらっしゃいますし、変わって来ておりますので、当時は国がんもそうだったのかな。精巣腫瘍あまり診てなかったかもしれないですけど、今はちゃんと診てますし、そこら辺は色々また変わってますので。

池内 そうですね。誤解の無いように。

岸田 ちゃんと主治医の先生に治療のことは相談してください。精巣腫瘍に関しても。ありがとうございます。そして、経過観察になって仕事を復帰され、その後、患者会を立ち上げると聞き参加されると、それが今の池内さんも参加されてるJ-TAGという団体ですよね。

池内 はい。経過観察になって外来でずっと主治医のところ行ってる時に、主治医が今度こういうのが立ち上がるんだけどっていうんでチラシを下さったんですね。今までで患者会っていうのも聞いたことなかったですし、あ、やっとこの自分が経験した精巣腫瘍で患者会というのが立ち上がるんだ、もし出来るんであればそういうのって参加してみたいなっていうのを思いまして、10月、その立ち上げるイベントっていうのも参加しました。

岸田 ということで、その後、次のフリップにいきます。こちら次、お姉さまが、すい臓がんと宣告されたということで。

池内 そうですね。

岸田 これは。

池内 七つ上の姉だったんですけれども、ちょうど腰が痛い、腰が痛いっていうのを言い出して、丁度、勤め出てるのに重いものを持つのもあったりするので、それで腰痛なんじゃないかなんていう話をしてたんですけれども、中々痛みが治らない。

池内 詳しく検査をしてみたら、すい臓がんでその段階で肝臓まで転移をしてしまっていて、手術が出来ない状態ですっていうところまで言われてしまったんですね。初めて姉からその話を聞いて、すい臓がんっていうとなかなか見つかった時には結構進んでいて、っていうのも以前から聞いてましたし、今までは自分ががんを経験していた立場だったんですけど、家族の立場になった時に、まして姉がそのすい臓がんっていう結構重いものであったのもあるんですけれども、自分が姉に対してどうしたら良いのか、どう接して良いのかっていうのが凄く分からない。

池内 どう声を掛けどう話したら良いのかっていうのも分からない、それが何よりも自分が、がん経験した時よりもそれがもう何十倍、何百倍も辛いなっていう、家族の立場ってこんなに辛いものなのかっていうのも、凄い思い知らされた出来事でしたね。

岸田 周りは今まで通り接して欲しいみたいな患者さんがよくおっしゃっていただきますけど、どうでした? 接し方としては。

池内 なるべくそう出来ればっていうふうにも思うんですけれども、かといってその中でどうしてもそういう事実を知っている中で、中々どう接したら良いのかっていうのもありますし、1度、今後の治療を続けていく、するって中で抗がん剤を、その抗がん剤ってなった時に、姉が抗がん剤を怖がってしまって泣き出してしまったんですね。

池内 それも、もしかしたら自分が抗がん剤、結構、副作用、吐き気とかっていうの出てたほうだったんで、そういう姿を見せてしまったから姉にそういう思いをさせてしまったんじゃないかっていう自責の念っていうか、そういうのもちょっと思うのが実際ありましたね、その時は。それがあるが故に、余計に普通にしたいんだけれども、もう気持ちの中ではどうしたら良いのっていう不安がすごく続いてました。

岸田 そして抗がん剤治療を開始されますが、その甲斐も無くというか、他界をされてしまうんですね。

池内 そうですね。ずっと通院で抗がん剤を続けていて、途中から7月ぐらいかな、入院をしまして、その後も抗がん剤は、一応続けたんですけれども、がん細胞が消えることは無く、段々、別の副作用で脳梗塞出て来てしまったりだとか、あまり結果としては良くなくて、最後は緩和ケアの病棟に移って、8月に旅立ちました。

岸田 本当、コメントでも、お姉さんもがんだったんですね。身近な家族ががんになるって自分がなるより大変な思いをしそうだなって考えてしまいますっていうことでね、本当、家族は第2の患者っていうの、本当そうですよね。

池内 そうですね。

岸田 そういうこともあって、そしてその次のフリップにいきますが、次こちら、そこから啓発イベントの参加やJ-TAGさんの公開講座、開催されたりとかして、今はJ-TAGさんの副代表にもなられているということなんですね。

池内 そうですね。ちょうど、姉がすい臓がんって分かったという2015年のところでピアサポートっていう、僕たちサバイバー経験者が患者さん本人であるとか、ご家族の色んな話を伺う機会っていうのがちょうど始まりまして、それが茨城県の筑波で始まったんですけれども。

池内 それが始まってから、今度は2016年にそれ以外のイベント、例えば、ジャパンキャンサーフォーラムっていうこうがん啓発のイベントであったりとか、モーフェスタっていう男性特有がん、男性ですと、あとは前立腺がんですとか、こういう面のところで、そういった男性特有のがん啓発イベントですとか、そういうものに参加をして、そういうところに参加してまた色んな人との出会い、繋がりっていうのがドンドン広がっていって、そこでまた自分も色々勉強する機会っていうのも与えて貰ってるっていうのがあって、そういうところで少しでも、精巣腫瘍っていうものも沢山の人に知ってもらいたいっていう思いもあって参加しております。

岸田 J-TAGさんでも講座を開催されたりだとか、そして今もそれを引っ張っていく立場になっていらっしゃるということかと思います。その中で、今、闘病前と闘病中と闘病後のお写真をいただいておりますので、こちらを見ていきたいと思います。まず闘病前のお写真こちらになります。おー、結構ちゃんとしっかり、勿論ですけど走ってますね。

池内 そうですね。向かってこれは、左側で良いのかな。走ってる上、お臍の辺りがちょっと見えちゃってるやつですかね。これはアクアスロンっていうスイムとランとの2種類の競技だったんですけれども、この時も1キロぐらい泳いで5キロだったかな、10キロだったか走るっていうものです。

岸田 一番右は何ですか、因みに。

池内 これは海外旅行行った時の写真でして、これが精巣腫瘍になった年の頭ですね。精巣腫瘍になる直前に行った海外旅行、これ実は、ネパールのカトマンズに行ったんですけれども。その時に行った、撮った写真です。あまり自分を撮るっていうのが無いので、自分でも貴重な写真ですね。

岸田 パッと見た時、一番最初、ジョイマンの若かりし頃かな?みたいな思いました。いや、そんなこと無いですよ。池内さんが本当に走って。

池内 そうですね。

岸田 そして、治療中はこんなお写真になります。一気に、反社的な感じになっていますけど大丈夫ですか。

池内 そうですね。まさかこの写真はどうしようかなと思いつつも、ただ、このサングラスをかけて坊主頭っていうか、これはだいぶ髪の毛これでも戻って来てるほうなんですよね。なので、これが抗がん剤、5クール終わったぐらいの頃の写真です。なので、髭もこれだけあったりですとか、実際。

岸田 サングラスかけられてるのは、何か目が副作用でどうたらこうたらとかってあるんですか。

池内 全然無いんです。

岸田 無いんだ。

池内 たままた。例えば、右側の写真ですとハンチング帽を被ってるんですけれども、抗がん剤って髪の毛が無くなってしまってっていうんで、結構こういう帽子を被ったりっていうのが多くて、あとはそうですね。色々、普段、サングラスするって僕、殆ど無かったんですけれども、おしゃれの一環としてサングラス、安いのでも色々見て色々買ってたりして、その買った中の一つがこれだったんですけれども。そうですね、あまりこの人相の段階でするものではなかった。今、反省。

岸田 いや、帽子はみんな買ったりとかしますからね。

池内 そうですね。真ん中の写真っていうのが本当に入院中ですか、病院にいる中で自分の姿を撮ってる多分これ唯一の写真だと思うんですよね。これが後腹膜リンパ節郭清っていうお腹を切る手術をした直後ですね。その手術をして数日後というところで、ちょっとお腹のところにこう。

岸田 何か白いの見えてますね。

池内 白いのがこれはもうお腹、今、まだ傷、ここよくホッチキスの針みたいなので留めてたんで、そこさらしで巻いて留めてるような状態であったりですとか、ぶら下げてるペットボトルみたいなこれは多分、痛み止めですね。痛み止めの薬をそのとき背中からまだ針入れてた頃だったんで、そういうのぶら下げてっていう、それが本当に病院いる時の唯一の自分の姿です。

岸田 そして闘病後はこちらになります。先ほど、おっしゃっていたイベントとかですよね。

池内 そうですね。左側、後ろはモーフェスタって書いてあるんですけれども、モーフェスタの宣伝もしつつ、これは確かキャンサーフォーラムですか、築地の国がん、他の色んな団体の方も参加されているところでJ-TAGのブースを出展して、あのJ-TAGの紹介ですとかしてたりするところですね。右側のがJ-TAGの先ほどお話しいただいた公開講座というところで。

岸田 お話をされた。

池内 そうですね。

【家族】

岸田 こういうふうに今こういうイベント等々でされているということですね。ありがとうございます。そこで、ここから各項目にいろいろお話を聞いていきたい、それぞれの詳細聞いていきたいと思うんですけれども、まず家族のことについてお伺いしたいと思うんですが、お姉さまだったり、お父さまだったりとかお話をお伺いしましたけれども、家族にどうやって伝えて、例えば、どういうサポートをした、もしくはされて良かった、もしくはこうして欲しかったっていうのはあったりとかしますか。

池内 家族の場合は、僕、一番最初に伝えたのは同居している母親で、最初の診断、エコーを当ててその疑いが高いってなった時にも、その時はもう、そのまんま伝えてました。そうですね、もう包み隠してもしょうがないとも思い、それはもう真実をそのまま伝えて、入院する病院も最初は父と同じところでしたので、そういうところで少しでも余計な心配はかけないようにっていうんで、最初の手術をそこの病院で選んだのもありますし、そこは正直に伝えましたし、その時、姉にもそのまま正直に伝えてました。

池内 さっきお話ししましたけど、転移があって病院変わらなきゃいけないってなった時も母も姉も来て一緒に話を聞いたりもしたので、もう全部そこは包み隠さず。父ですね、どうしても入院している中で伝えてしまって、変にまた動揺してしまってもこっちもちょっと嫌だなってのもあったので、全部一通り手術まで終わって、落ち着いた時にそっと一言伝えたっていう感じですね。

岸田 そうか。家族からのサポートっていったところは?

池内 うちの母親ももう結構年でしたから、あまり無理はしないで良いよっていう感じではいたんですけれども、時折お見舞いに来たりですとか、抗がん剤抗がん剤やるのに病院を転移した時っていうのはたまに姉とはメールとかでも連絡を取って、結構その時にはこういう雑誌を買いたいんだけどとか、こういう新聞買いたいんだけどっていうのを伝えて、たまに来る時に買って来て貰ったりですとか、そういうちょっと甘えっていうのはありましたけれども。そういうぐらいですかね。あまり。

岸田 池内さんは、ご結婚はされては?

池内 いないんです。そうなんです。

岸田 独身貴族でございましたね。

池内 ねえ、良いんだか、悪いんだか分かんないですけど。なかなか。

【妊よう性】

岸田 ありがとうございます。そして、その後の妊孕性について今のお話を聞いていきたいと思うんですけれども、妊孕性、妊娠する能力というか、生殖機能についてに関してなんですけれども、こちら、池内さん、すみません、こちら、池内さん、妊孕性っていう子どもを作る能力ってどうなんですか。抗がん剤治療したりとかして。

池内 実際、今の段階ですと、さっき言いました後腹膜リンパ節郭清っていうその手術の影響がありまして、射精障害というのがあります。なので、自然に妊娠をするっていうのはまず難しい状態で、あとは精子保存というところも、最初、地元の病院で入院した時には、実際、話っていうのはあったのはあったんですけれども、その時って、その先まさか自分が抗がん剤をしてだとかっていうところまでが、正直、想像が出来なくて、そこまでなるっていう、なることは無いみたいな思い込みが実はあって、認識が甘かったのか実はその段階で精子保存っていうのをしなかったんですね。

池内 なので、今、実際、もし子どもが欲しいってなった場合には、本当に不妊治療で色々睾丸の部分から、直接、採取したりとか色々やり方はあると思うんですけど、そういうところをしないとなかなか難しいところでありますね。

岸田 ということですね。そうか。精子保存をしておらず、射精障害になっているといったところですね。これ、恋愛結婚する時に妊孕性のこととかっていうのは池内さんはどの段階で言います?

池内 そこも黙っているわけにはいかないとも思いますんで、結婚したいなっていう相手が、そうですね、いたとしてもそれは伝えるは伝えるんですけれども、例えば、付き合ってる段階でその先を考えてってなった時に、相手が子ども欲しいねってなった時には自分に今そういう力がなかなか無いっていうのもありますし、なかなか辛いなっていうのありますね。

池内 ただ、自分の場合って、もし結婚したら子どもが欲しいなっていう思いはずっとあったんですよね。だから、そういう辛さっていうのもありますし。ただ、現実は現実なんで、そこは伝えなきゃいけないのかなっていうのは思います。

岸田 相当、現実で本当、患者って凄く揺れますよね。本当その揺らぎ、本当に僕も射精障害はあったりとかして、僕は精子凍結はしてましたけれども、凄く気持ち分かります。そういう自分の男としてのアイデンティティーとか色々考えちゃいますからね。ありがとうございます。そして、その後、仕事のことって聞くんですけれども、コメントも結構いただいているので、ちょっと待ってくださいね。読ませていただきますね。

岸田 青木さんは凄くがんノート見てくださって、原澤つぐみちゃんの動画を見てくださって、幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せという言葉ですごく勇気を貰いましたっていうふうな言葉もいただいております。そして、患者会のJ-TAGって何の略っていったところに関してはJ-TAGの会員さんですかね。TransmitterさんがJapanese Association of Testicular cancer Assist GroupっていうのをJ-TAG。

池内 そうですね。Testicular cancerっていうのが精巣腫瘍っていう意味合いのところになりますね。ありがとうございます。そうです。

 

岸田 こちらがJ-TAGさんのホームページになりますかね。ジェータッグなの? 俺、ジェータグって言ってたけど、ジェータッグなの?

池内 大丈夫です。そこはあまり細かいところはいってないので。この名称っていうのを本当、皆さんにも覚えててくれると本当にそれで良いので。ありがとうございます。今こうして出していただいて。

【仕事】

岸田 僕も精巣腫瘍なってるんで入ってるんですけど、毎年、年会費を払い忘れるっていう、ちゃんと払います。去年まで払って、今年は払って無いからちゃんと払います。すみません。ていうJ-TAGでございました。そして、仕事のことにちょっと触れていきたいと思うんですけれども、さっき1回目の治療の時は10カ月そして2回目の時は7カ月して仕事に復帰したというふうなことがありましたけど、仕事を休む上でだったり、復帰してしていく上で何か気を付けたことだったりとか、職場の仲間たちの関係だったりとかどうでしたでしょうか?

池内 そうですね。

岸田 どんなお仕事されているんですか。池内さん。

池内 会社員ではあるんですけれども仕事ですと、鉄道に関連したところというところですね。例えば、電車の運転とかそういうところに携わる部署ではないんですけれども、鉄道と若干関係があるようなまあ業にはなってます。

岸田 そのお仕事でどうでした? 休む、休職するだったりとか、そういったのスムーズにいけました?

池内 そうですね。その時は結構その時にいた職場の人たちっていうのもそういった理解っていうのは意外として貰えたのかなというふうに思います。結構その時35歳でしたから、若い人たち自分の後輩たちっていうのも結構いて、そういった人たちも支えてくれましたし、同僚、上司の方っていうのも結構温かく接してくれてたっていうのはあります。

池内 復帰する時もちょうど夏場に手術もしたものですから、直ぐ復帰だと丁度7月8月でちょっと熱い中だから、お盆過ぎてからそれでゆっくりやって行こうよっていう感じで声も掛けてくれてたので、その辺りは今でも本当凄くありがたいです、本当、感謝しております。

岸田 そうか。本当ね。職場に復帰してから体力的なところだったり色んなことありますけれども、何か工夫したこととかありますか。仕事に関して。

池内 丁度そのなった時にいた職場っていうのも、そこはちょっと夜勤もある職場だったので、最初、暫くのうちは夜勤ってそういう不規則なところのシフトには入らず、朝行って夕方までのシフトっていうのを暫くさせてもらったりですとかっていうので、ある程度、体力が少しずつ回復して来てから一つ一つステップ上げていくみたいな感じで、そこは凄く恵まれていたというか、周りの方にも凄く気遣っていただいたっていうのはあります。

岸田 そうなんですね。会社の制度とかも休職的なので使ったりとかもしました?

池内 そうですね。一応、休職っていうか、そういうちゃんと元の職場に戻れてだとか、そういうそこの制度っていうのは使わせて貰っていましたので、その辺は凄く助かってます。

【お金・保険】

岸田 ありがとうございます。仕事とは切っても切れないお金についてもお伺いしたいんですけれども、その時は自分の貯金を切り崩して?もしくは、保険入ってた?

池内 保険は生命保険入っていて入院の時の給付っていうのは、あとは手術の時の給付ですね。そういうのは頂いてたんですけれども、最初の抗がん剤、5クールで結構、入院も長くなったので入院給付っていうのが日にちが限られてるんです。確か僕の場合120日かな。なんで、その入院の期間っていうのが長過ぎちゃって、途中からもう入院給付・・・。

岸田 出なくなったんや。

池内 出なくなってしまって、そのぐらいに長くなってしまったので、そうなってからは途中で自分の貯金も使いつつっていうところで。で、休んでますから収入も途絶えてしまうんですよね。ただ、収入途絶えてる中でも、例えば、年金だとか、税金だとか払っていかなきゃいけないものも、それが、結構、金額が大きくて、本当に収入が今、全く無いのにこれを何万も支払え、更に入院費も保険でカバー出来なくなってしまった部分っていうのもあったので、結構、後半は中々厳しいなって。

池内 後は先ほどありました歯を抜いた。その後に、インプラントというものを入れたんですけれど、あれの費用がまたそうなんです、中々そこは保険とかでは全然カバー出来ないんで自分の貯金を。

岸田 インプラントって数十万しません? 

池内 そこも中々、そこが予想外のところでもありましたね。なんで、保険で全部カバー出来たかっていうとそうではないのが現実でした。

岸田 ザックリで構わないんですけれども、治療でトータルどれぐらいかかりました?

池内 抗がん剤やってるその全部ふくめて?

岸田 全部含めて。

池内 全部含めて、そうすると、どのくらいなんだろう。保険でカバーしてるのもあるから、それは自分で支払った金額ですね。それはもう全部。

岸田 そう。こんぐらいかかってそれで保険でこれぐらいカバー出来てっていうふうなことが。

池内 そうですね、確か抗がん剤で月々で入院の費用とかがかかってたのが十何万とか20万近くかかってましたから、それが5カ月、100で再発もあるから、あとは歯の治療代も入れたりすると。

岸田 200万超えてくる?

池内 超えてますね。多分、全部ひっくるめるとこのぐらいになってしまうかもしれないですね。

岸田 おー。これぐらいいったと。

池内 そうですね。

岸田 ただ、後半からは保険出ないからこれの半分ぐらいしか。

池内 そうですね。もうそれで言うと半分ぐらいになりますね。

岸田 色々本当そういうのをちゃんと自分でチェックしておかないといけないですよね。

池内 本当にそう。こうなって自分の入っている保険の契約内容が改めて分かったりですとか、その有難みは分かりましたね。

岸田 しかも、歯をそっから治療するなんて思わないですからね。

池内 それが結構大きかったです。

【辛い・克服】

岸田 ありがとうございます。そしてその後、辛い、克服という中で、池内さんが闘病の中で一番辛かったタイミングってどこですか。

池内 辛かったタイミングはやっぱり、最初の抗がん剤とシスプラチンですとかの3剤使っている時の吐き気ですね。

岸田 吐き気か。今、吐き気は良いお薬出てますけど、当時のなかったのか。

池内 そうなんですね。本当に、色んな方の話聞くとビックリするぐらいに、え、あの薬使って吐かなかったのっていう。僕の場合はシスプラチンを使っている時で吐き気止めの点滴ってあったんですけれども、点滴入れても全然効かない状態でして、その時に今、シスプラチンっていうのって多分、1周目5日間ぐらいに分けて投与するらしいんですけれども、僕、初日にその投与する全量、全部入れられて。

岸田 全部。本当?

池内 今、あり得ないみたいなんですね。

岸田 あり得へんですね。メチャクチャ強い抗がん剤なので、本当。

池内 ですよね。

岸田 すげえな。

池内 なので、初日にシスプラチンを投与して、お昼は食べられても、夕方からは吐くのと病棟に運ばれてくるあの食事あるじゃないですか、ワゴンで。あの臭い嗅いだだけで気持ち悪くて吐いてて、1週間ぐらいずっと吐きっ放しみたいな感じでしたね。それが一番。

岸田 それを克服するってお薬で無理やし、どうするんですか。もう耐えるしかない?

池内 耐えるしかないですね。ただ、自分の中でまず一番きついのは投与したその日なんだ、でも、次の日になったら少しは良くなる、少しは楽になるっていう暗示じゃないですけどそう思うようにして、実際はかなりきつかったんですけど、いやでも明日になったら少しは良くなる、今日よりかは良くなるってずっと信じながらやってたのは覚えてますね。

岸田 ありがとうございます。良くなる、良くなると思ってね。

池内 そうですね。それはありましたね。

【後遺症】

岸田 了解です。ありがとうございます。そして、次、後遺症のことということですけれども、後遺症は、さっきあったその射精障害だったりとか以外には何かありますか。

池内 あとは痺れっていうのも治療した直後ぐらいっていうのは若干残ってまして、指先ですとか、あとは足先もあったんですかね。何にもないところでよくつまずいてたんですよ。

岸田 え? 危ない、危ない。

池内 結構そういう、急に足がもつれちゃうだとか、そういうのがよくあったなって思うんですけど、そういう痺れとかは、僕の場合って比較的早くそんなに回復したというか、半年、最初の再発前だと手術して半年なるかならないかぐらいで落ち着いてきました。なので、今は。

岸田 今は大丈夫?

池内 今はもう、全然、普通に大丈夫です。なので、今、一番辛いのは射精障害っていうところが辛いですね。どうしても、男としてのっていう部分の失われてしまってるのは辛いなっていうのは僕は今でも残っちゃってますね。

岸田 メッチャ分かります。結構どうなんですか。患者会ではそういった方とかそれなりにいらっしゃるんですか。どうなんでしょう?

池内 そうです。後遺症というか、どうしても射精障害、今、手術でも温存出来る場合もあるみたいですけど、必ずみんなが出来るわけではないでしょうから、それが残ってる人もいますし。後は一番多いの痺れが残ってるっていう方はとても多いですね。それが中々、箸が持ちづらいであるとか、字が書きづらいであるとか、そういうのが中々いつまでも残ってる方っていうのも結構いますね。

【反省・失敗】

岸田 ありがとうございます。それと上手く付き合っていくっていう感じですよね。そして、その後、次、こちら反省、失敗ということで池内さんがあの時こうしとけば良かったなっていうのは何かありますでしょうか。

池内 さっきもお話ししましたけれども、一番大きいのは精子保存をしておけばっていうところで、もしその精子保存をしていたら例えば誰かを好きになって、この人とならって思えた時に踏み込めたんじゃないかなっていう思いはあるんですね。

池内 さっきもお話ししましたけど、自分も子どもが好きなもんですから自分が結婚したら子どもが欲しいなっていうのは思っていましたから、やっぱり、今こういう状態になってしまってなかなか不妊治療ってなると女性もかなり身体にも負担掛かるじゃないですか。

池内 何かそういう思いをさせてしまうっていう自分の思いというか、辛さみたいなのもあるので、負い目っていうのかな。もし、それがしてあったら、誰かを好きになるのももう一寸踏み込めたかなって思うのがあります。

岸田 そうか。そういう意味でもちゃんと保存しておくとかっていうのは大事になってくるんですね。

池内 そう思います。

岸田 ありがとうございます。一応、玉から頑張って、残ってる玉からっていうのありますけど、あれも結構・・・。

池内 そうですね。

岸田 ・・・大変かもですもんね。

池内 自分の身体にも勿論負担は掛かると思うんですけれども、そういうやり方もあるので、全くゼロでは無いとは思うんですけれども。

岸田 いかんせねっていうことですね。

池内 そうですね。

【医療者へ】

岸田 ありがとうございます。そして、次こちら、医療従事者への方へというふうなものになります。こちら医療従事者への方への感謝だったりとか、あん時こうしてくれよみたいな要望だったりとかっていうのはあったりとかしますか。

池内 でも、本当、今まで僕の治療に関わってくださった方、先生もそうですけれども、やっぱり、入院していた時の看護師さんってスタッフの方にも凄く良くしてもらいましたし。だから、僕はどっちかっていうと感謝の気持ちの方がとても大きいです。

池内 今も主治医の先生であったりですとか、あとは今こういう活動させてもらっている中で、そこの病院のがん相談支援センターの方にも色々とお世話になってたりもするので、本当、そういう方たちも含めて、本当に感謝の気持ちで、はい、一杯ですね。

池内 もし何かっていうのがあるんであれば、今までお話ししたみたいに妊孕性ですとか、そういったところっていうのも結構関わって来たりもするので、例えば、僕、後腹膜のリンパ節郭清する時に射精障害になるっていう話って聞いた覚えが無いんですね。その時に言われたのは、勃起障害が起きるかもしれないよっていうのは覚えてるんですよ。

池内 ただ、射精障害っていう話を最初の説明でどうも聞いた覚えがなくて、やっぱり、患者側からすると僕もそうだったんですけどまさかそういう大きい手術するって思わなかったので、若干そこの話してる中で動揺している部分もあったと思うんですよ。なので、そういうところの、その妊孕性に関わる大事な説明でもあるので、そういうところはじっくり話をしていただければ有難いなっていうところを、そこだけですかね、お願いしたいところは。

岸田 いや、本当、大事ですからね。本当に。それもサラっとじゃなくてしっかりちゃんと伝えて欲しいなっていうのはありますしね。

池内 そうですね。中々その時に聞いているだけですと、結構、どうでしょうね、お医者さんの話って中々難しい言葉も出てくるので。全部聞き取れてるかっていうとそうでも無いこともあると思いますんで、そこ凄く大事なところなんでじっくり説明していただければありがたいかなと思います。

岸田 ありがとうございます。そして、コメントでもその「患者会でよく出る話題ってどんなものなんですか?」ってありますけど、どういう話題、結構、多いですか、患者会では。

池内 結構、患者さん本人が参加してくださる今まだ闘病してるって方で参加してくる中ですと、今後の一番多いのは再発に対する不安っていうのが多いのかな。あとは治療、一段落してという方もそうですけれども、再発ってするんでしょうかだったりとか、そういったところの不安であったりですとか。

池内 後は、仕事に復帰をして中には職場の方にも、うまく自分がなった病気についても伝えられないとか、中々理解して貰えないっていう方もいたりもしましたんで。後は、ご家族の方、例えば、奥さまだとか、お母さまとかいらした時は本人とどう接して良いのか分からなくてっていう方もいらっしゃいましたね。

岸田 その時はどういうふうにアドバイスするんでしょう? 人にそれぞれによって変わるか。

池内 そうですね、中々。例えば、再発をするんでしょうかっていうと、そこも必ずするとも限らないですし、後は今、ちゃんと経過観察の方でしたら外来で定期的に診ているでしょうから、そこでたまに行かなくなっちゃう人も中にはいるみたいなんですけれども、そこはちゃんと定期的に通ってそういうチェックをしてというところと、後は中々ご家族の方ですと確かにどう接していいかっていうのが難しいところですから、がつがつ色々、ああしたほうが、こうしたほうがっていうよりかは、ちょっとそっと見守ってみてっていうほうがまず良いですかね。これもケースバイケースです、人によって。

【Cancer gift】

岸田 ですよね。ありがとうございます、その1例でもお示しくださって。そして、その後にこちらキャンサーギフト、がんになって失ったものも色々ありますけれども、得たこと、得たものっていったものに関しては池内さんはあったりとかしますでしょうか。

池内 得たものっていうのももの凄く大きくて、失ったもの、片方の睾丸もそうですし、そういった男性としての機能を失ってしまったところっていうのもあるんですけれども、

池内 この精巣腫瘍になったからこそ、出会えた人たちっていうのも存在が僕にとっては大きくて、本当、岸田さんもそうですし、こういう経験を僕してなかったら出会えなかった人たち、その出会えた人たちの影響っていいますか、そこで色々教えて貰えたりですとか、人に支えて貰ったっていうその人との出会いっていうのが一番大きいと思います。

池内 なので、これだけの出会いをもたらしてくれたって思うと、こうやって精巣腫瘍になったことも無駄ではないのかなって、今、自分では思えてますし、その精巣腫瘍を経験したっていうのはこの自分の人生、今こうやって患者会だとか色々活動もさせてもらってます。この人生の一つの使命、ミッションなのかなっていうふうには、今、思えてます。

【夢】

岸田 ありがとうございます。そんなミッションを得たというか、掲げてられてるそんな池内さんの今後の夢、教えていただけますでしょうか。

池内 精巣腫瘍になる前、海外旅行色々行っててっていう話もしたんですけれども、まだ行ったことない所も色々あったりもするのでもう一寸色んな所、海外、国内も含めて自分の行ったことない所、色んな世界をもっともっと見てみたいなっていうのはあります。その中で一番、今、行ってみたいのが海外ですと、えっと、インド。

岸田 インド。

池内 インドのバラナシっていうガンジス川が流れている所で、ヒンズー教の聖地ってよく言われている所なんですけれども、川沿いの所にガートっていう火葬場がいっぱいあるんですね。そういう所でそれこそ命を見つめ直すじゃないですけれども、僕そこで火葬場で身体焼いてその灰を川に流すっていう所みたいなので、そういうこう、命に関わる。

岸田 分かります。そうですよね。

池内 そこを見つめてみたいなっていうのは凄く思います。なので、一生のうち1度行ってみたいなっていう、一番そこが行ってみたい所ですね。

岸田 バラナシですね。バラナシ、本当に聖地なので是非是非皆さんも気になればまたググッて貰って見ていただけたらと思います。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 そこでペイシェントジャーニーについて、ここから池内さんに最後振り返っていきたいと思うんですけれども、ペイシェントジャーニーですね。こちら私のほうでさっと共有をさせていただきます。

岸田 こちらですね、池内さんのペイシェントジャーニー、こんな感じになっております。赤がポジティブ、青がネガティブ、そして白色が普通というふうなことですけれども。こちらですね。池内さんのペイシェントジャーニーは水泳やトライアスロンされていたそんな時代ありましたよね。

岸田 そこから玉の形に違和感、スーパーボールぐらいの硬さだったといったところで、そのままお父さまのところで診てもらって、そのまま手術をしていきます。そして、そこから肺に転移が分かって転移をしていって帝京さんですね、行ってそこから副作用も色々あるけれども、先ほどのラジオの奇跡が起こっているわけになります。

岸田 そこから、またちょっと下がっていくんですけれども、抗がん剤治療だったりだとかそういうところを乗り越えて、10カ月後、仕事に復帰していった中でのお父さまの旅立ちっていったところですね。そこから再発をまたリンパ節に転移が見つかってっていったところで、また薬物療法を行っていきます。

岸田 一通り終わったんですけれども、今後の経過といったところを鑑みてセカンドオピニオンにまず国がんに行ったら、国がんから他の病院もっていうふうなところを紹介を受けて、そして、そういったところしていき、そして経過観察をしていくことになります。最終的には経過観察、筑波でしたんですよね。

池内 そうです。

岸田 そうですよね。筑波のセカンドオピニオンして行った。そして、その後、J-TAG患者会が始まるよといったところでそのキックオフに参加し、その後、イベントにも積極的に参加されていきます。そして、病院でピアサポートってありますけれども、これは自分の行っている筑波病院にピアサポート?

池内 筑波で始まるというので、ここ第1回から僕は参加していました。

岸田 していったということですね。そんな中でのお姉さまのすい臓がんの経験、そしたら、お姉さまが旅立っていくといったところで、そこからのところで家族の経験をし、そこから筑波のファシリテーターに、これはその筑波の病院のファシリテーター?

池内 そうです。この筑波でピアサポートが始まって、初めはあの参加している立場だったんですけれども、ずっとそこ、何回かずっと最初始まってから参加をしていて、J-TAGの代表にファシリテーター、今度は話を聞く側のほう、そっちやってみてっていうオファーがありまして、そこで今度は参加する側から色々話を伺うというので参加させていただきました。

岸田 ありがとうございます。啓発イベントをしていき、その患者会登壇、ただ、コロナ禍でピアサポートも出来なくなっているけれども、今、Zoomのおしゃべり会などをしていって、そして、患者会の今、副代表になっているというふうなそんな流れでいるんですが、ですよね。

池内 はい。

岸田 ありがとうございます。今、コロナ禍で、結構、活動は制限されてますけれども、そういうオンラインを使って、今されているということですよね。

池内 そうですね。Zoomを使って、今、月1回を目安にして開催してるんですけれども。オンラインでやっている中での一つのメリットとして、今までJ-TAGですと関東ですと筑波、あとは京都ですとか、大阪で、今、院内で場所を借りて開催してたんですが、オンラインやることによって、もっと別の所に住んでいる方、遠い所ですと、宮古島だったかな、そういう遠い所ですとか、鹿児島の方ですとか、今も参加してくれてる中でも名古屋在住だったりとか、佐賀県に住んでますとか、以前、参加してくれた方も本当に大阪だったり横浜だったり色んな所から参加してくださっていますので、そういったところっていうのも一つのメリットかなっていうのもあります。

岸田 ありがとうございます。そして、精巣腫瘍になったら池内さんに相談したいと思いましただったりやとか、あと、Transmitterは私も精巣腫瘍患ってしまったことは不運でしたが、J-TAGとの出会いで色々と救われましたということでアシスタントKTさんよりいただいています。ありがとうございます。

岸田 そういった池内さんのペイシェントジャーニー、本当に様々色々ありましたけれども、少しだけここからお知らせをさせてくださいということで、まず、がんノートを応援してくださっている企業様、Aflac様、IBM様、I-TONGUE様、いつも応援ありがとうございます。

岸田 そして、次回の告知になるんですけれども、次回は腺様嚢胞がんの経験者の柴田敦巨さん、絶対、敦巨って読まれへんやろうと思いながらですね、腺様嚢胞がんの経験者さん、猫舌堂の代表という、スプーン、カトラリー販売してますけれども、色々そういったお話を来月お伺いしていきたいなということを思っておりますので、またまた是非是非見ていただければと思います。

岸田 そしてこれを見てくださっている皆さまにちょっとお願いなんですけれども、こちら、お願いなんですけれども、またここからチャット欄だったりとか、動画の概要欄に池内さんへのメッセージを書けるようなそういったメッセージフォームを貼らせて頂きますので、そちらを出来れば今日中に頂けますと、明日以降、池内さんにそのメッセージを届けたいと思いますので、是非是非ご協力お願いいたします。

岸田 そんな中で本当90分やってまいりましたけれども、池内さん最後のメッセージということで、今、闘病中のあなたへのメッセージを頂ければと思っております。そして、池内さんからはこのメッセージを頂いております。

池内 闘病中の方に『「わがまま」になっていいんだよ』っていう。これ実際、僕も掛けてもらった言葉なんですけれども、ちょうど掛けてくれた方っていうのも、ご主人を若くしてがんで亡くされた方から掛けていただいた言葉だったんですね。

池内 丁度この掛けて貰った時ってまだ抗がん剤もやってる途中であったりだとか、どうしても入院だとかそういう治療しているとどうしても生活に制限されてしまうものもあったりすると思うんですよね。今まで出来たことが出来なかったり、好きなことがやれなかったりとか、気持ちの中でも我慢することっていうのがもの凄く多くて、そういうのがストレスになってしまうこともあったんですけれども。

池内 その言葉を掛けて貰った時に、このわがままっていうのも人様に迷惑掛けるようなわがままでは無く、何でも我慢するんでは無く、今の現状の中でも自分がやりたいと思うこと、出来ることはやっても良いんだよっていうふうに、僕の中ではそういうふうに思えてきて、その言葉を掛けて貰った時に、今でも覚えてます、凄く涙が出るほど、すっと心が気持ちが楽になったのがあるんですよ。

池内 どうしても治療中って辛いことばっかり、確かに辛い、身体にも負担も掛かるし。その中でささやかかもしれないけれども、自分のやりたいこととか、出来ることをやってください挑戦してくださいっていう意味で、今回ここに挙げさせていただきました。がん患者はわがままになっていいんですよ。それをお伝えしたいと思いました。

岸田 人に迷惑掛けなければ、自分のやりたいことでも、全てわがままに自分本位で全然構わないんで、やっていって欲しいっていうことですね。

池内 そうですね。

岸田 ありがとうございます。素敵な言葉いただきました。本当、長丁場のお話色々いただきましたけれども、池内さん、最初、緊張されているっていうことを放送前におっしゃってましたけれども、大丈夫でした?

池内 はい。始まる時は、最近めったに心臓がドキドキするようなことないんですけれども、顔どうしよう、緊張で真っ青になったらどうしようとか思いながらも。

岸田 J-TAGの仲間たちもいっぱいコメントをくれましたし、凄く素敵な90分となりました。どうもありがとうございます。

岸田 これにて、がんノートorigin、終了していきたいと思います。また皆さん次回お会いしましょう。それではバイバイ。

池内 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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