目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 病院や治療の選択テキスト / 動画
- 副作用や後遺症テキスト / 動画
- 妊孕性のことテキスト / 動画
- 恋愛・結婚テキスト / 動画
- 家族のことテキスト / 動画
- 学校のことテキスト / 動画
- 仕事のことテキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- 工夫していることテキスト / 動画
- 夢・目標テキスト / 動画
- メッセージテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:多田
- 御朱印帳を持って一人旅へ——心理師・多田詩織さんの自己紹介
- 姉の一言が命を救った——2歳での発見から始まった長い旅
- 治療できる病院が少ない——網膜芽細胞腫と形成手術の病院選び
- 右目のコンプレックスと10年以上の形成治療——後遺症と向き合う日々
- 2歳の治療が20年後に影響する——早期閉経・不妊リスクと向き合って
- 「どこまで伝えるべきか」——がん経験者として恋愛・結婚を考える
- 面会時間だけが家族の時間——病院での孤独な入院生活
- 休みがちなのになぜ特進?——周囲の目と戦いながら勉強を続けた高校時代
- 保健室の先生との出会いが夢になった——心理師を目指したきっかけ
- 給料の使い道は通院費が最優先——治療が続く限り終わらないお金の問題
- 病院のあとはスイーツを——治療を続けるための「ご褒美制」のすすめ
- 「受け入れなきゃ」と考えないことが目標——ありのままの自分へ
- 「ゆるく楽しく、たまに真面目に」——多田詩織さんから届けたい言葉
御朱印帳を持って一人旅へ——心理師・多田詩織さんの自己紹介

岸田 それでは、がんノートをスタートしていきたいと思います。今日のゲストは多田詩織さんです。よろしくお願いします。
多田 お願いします。
岸田 多田さん、簡単に自己紹介お願いできますでしょうか?
多田 多田詩織と申します。現在大阪に住んでおりまして、家族は母親と姉が 4人おりまして、私は5人姉妹の末っ子です。仕事は国家資格である公認心理師と民間の資格であります臨床心理士を持っております。趣味は一人旅をしております。
岸田 ありがとうございます。そうなの、心理士っていうのは民間の資格と国家資格が2つあって、2つを持ってるってことだね?
多田 はい、そうです。
岸田 これ2つ持ってる人は多かったりするの?
多田 どうでしょうね。公認心理師は最近意外と最近できたものなので、臨床心理士もともと持ってる人がだんだん取っていってるっていう感じではあると思います。
岸田 どちらも心理師のお仕事には変わりないということですね。そして一人旅ってありますけれども、一人旅、ちなみにどこを一人旅とか行ったりとかするの?おすすめとかあったりとかする?
多田 基本的には日本国内の旅なんですけど、今まで私が一番良かったのが、もともと神社仏閣が好きなので栃木県の日光東照宮とか一人でゆっくり巡るのがすごく楽しかったですね。
岸田 日光ね、素敵よね。おごそかな雰囲気も含めてね。
多田 そうですね、ご朱印帳を持って巡るっていうのが好きですね。
岸田 そうだ、ご朱印帳を持ってね、いいね。そんな一人旅が趣味な多田さんですけれども、がんのことについても ちょっとお願いできますか?
多田 私は網膜芽細胞腫という網膜にできる小児がんでして、私は右目の片眼性です。ステージ的には当時はちゃんと告知はされてなかったんですけど、分類的にはステージEになるかなと思います。発病は2歳の時で発覚して、すぐに手術、右目の摘出手術と抗がん剤と放射線治療をしました。
岸田 今はもう取り切ってるっていうことですよね、というふうな感じで。さっき一緒にステージについても確認したら、がん情報サービスさんでステージ、普通っていうか一般的には 1・2・3・4とかステージ4とか3とかっていう感じなんかなと思ったら、網膜芽細胞腫に関してはね、A・B・C・D・Eみたいな感じでね、摘出をしているとEになるみたいなそんな感じだったので今こういった形で記載させていただいております。
この後ね、いろいろ治療法もそうですしがんのこといろいろ出てきますけど、あくまでも経験ですので医療情報に関してはやっぱプロである医療従事者の方だったりだとかがん情報サービスを参照にしていただけば嬉しいなということを思っております。
いや本当ね、もう詩織ちゃんももう29歳か。当時、一番最初に会った時はまだ10年近く前やもんね?だから大学生っていうふうな形でね、改めて再会してっていうふうな形で収録をさせていただいてる形になります。
姉の一言が命を救った——2歳での発見から始まった長い旅
岸田 そんな詩織ちゃんのどのような経過をたどってきたのかというふうな形でですね、ちょっと聞いていきたいと思います。感情の浮き沈みをグラフにしてちょっとできたらなということを思っておりまして、感情や時間、そして吹き出しはこのような形となっております。
まず 0歳の時誕生ということで、1995年、平成生まれよね、もちろんやけど。平成生まれっていったところでそこからどんどん下がっていく、2歳の時っていうのががん発覚をしていくということで。
このがん発覚って、あえて発覚・告知っていうのを自分が受けるっていうわけでもないというか、もう覚えてへんやろしちょっと発覚ってさせてもらったんですけれども、どういうふうにがんが見つかってったかっていうのはちょっと多田さん当時覚えてないと思うけど、当時どんな感じだったか教えてもらっていいですか?

多田 そうですね。聞くところによると、私の姉が私の目を見て猫ちゃんみたいに光ってるっていう話をしたらしくて、網膜芽細胞腫の特徴は目が猫ちゃんみたいに光ったりフラッシュを焚いて写真を撮ると目が光ってたりという特徴があるので、それをまず姉が気づいてくれて。それを聞いた親が病院に連れて行って、そこからこれは大きい病院に行ってくださいということで発覚しました。
岸田 そうね、フラッシュ焚いたら 光ってるとかっていうのが特徴であるんや。
多田 そうですね。
岸田 それでお姉さんが気づいてくれて病院に行きますと。病院に行ってですね、その時にもうすぐ治療が始まっていくっていうふうな感じなんよね。
多田 はい。
岸田 手術や薬物療法、抗がん剤とかやって放射線をやっていてっていうところで、この時に目を全摘しちゃうの?
多田 そうですね。私の場合はちょっと発見が遅かったっていうのもあって、網膜だけじゃなくて視神経の方まで腫瘍が広がってもう脳に行きかけてたっていうところだったので、もう即摘出したと聞いてます。
岸田 そうなんや。じゃあ本当に危なかったってところだね。
多田 そうですね。
岸田 で、抗がん剤して放射線治療をしてっていうふうなことを2歳から1年ぐらいかけてやっていくのかな、治療自体?
多田 そうですね、大体そのぐらいです。
岸田 当時のことを、病院にいたこととか覚えてるの?もう覚えてへんよね、さすがに 2歳・3歳?
多田 覚えてます。なんなら私の古い記憶が病院なので、常に病院ごっこ、家庭を知らなかったので当時。なので基本ごっこ遊びは病院ごっこっていう感じでした。
岸田 そうなんや、一番古い記憶が病院にいて病院ごっこしてるみたいなそんな感じなんですね?
多田 そうです。
一生の友達は保育園でできた——病院を出て、初めて感じた喜び
岸田 へぇー、そうなんや。では、そこでずっと治療をしていって、また治療や病院のことについては後でも詳しくお伺いしていこうと思いますけれども。
そんな中でそこからちょっと上がっていきます、それがこちら、保育園でお友達ができる。この時は 4歳になったら退院してるってことなのかな?
多田 そうですね、そこから保育園に行き始めてっていう感じですね。
岸田 保育園でお友達ができる、これがちょっと待って、これが結構一番 最後の高いとこ行くまでがこれが一番高かったりすんねんけど前半で、これはすごい当時多田さんにとってはすごい良かったことだよね?めちゃくちゃ。
多田 ここでできた友達が今もずっと一番仲いい友達なので、一生の友達というかっていうのがここでできたなっていう感じですね。
岸田 一生の友達が保育園でできるの?
多田 そうですね、ずっと一緒ですねその友達とは。
岸田 そうなんや、素敵。そこでテンションも上がっていって、病院じゃないところに行ってね。ただここからね、ちょっと厳しい時期が待ってるのかもしれないですけれども、ここからどうなっていくかというと晩期合併症。晩期合併症っていうのはどんなものなのかっていうところだと、具体的にどんなことかっていうのをちょっと伺ってもいいですか?
多田 この時は私がすごい背が小さくて、それが何でだろうって調べた時に成長ホルモンが足りてないっていうことが分かって。下垂体の障害ではあるんですけど、それが過去の治療の影響だっていうことでその治療が始まった時です。
岸田 そうなんや。そういったホルモン的なところが分泌がちょっとおかしくなってというか、それで低身長になっていくみたいな感じなんだね?
多田 そうですね。
岸田 ちなみに晩期合併症って、がん治療が終了して数ヶ月とか数年とかもっと何十年もありますけれども、発症する合併症っていうところでね、治療の影響とかがんそのものだったりとかいろんなものへの影響でね、生じるものかということを思いますけれども。
注射が大の苦手なのに、毎日打ち続けた3年間
岸田 この晩期合併症、ここはもう病院に行ってなんかホルモン剤もらうとかそういう感じで対処していくの?
多田 これは通院も必要ですけど、自宅での自己注射でホルモンを補充するという治療をしていたので、家で週6日自己注射をして1ヶ月おきに病院に行って経過を診ながらホルモン注射の量を調節したりという感じでした。
岸田 結構なかなか下がってるやん、気分的に。これは低身長が嫌だみたいな、それとも治療が嫌だ、それで言うとどうなの?
多田 そうですね、低身長自体は私はそんなに気に留めてなかったので、小さいぐらいいいじゃんっていう感じだったんですけど、やっぱり治療っていうのが自己注射っていうのがあって、私はそもそも注射が大の苦手なのでそれを毎日しなきゃいけないっていうのが私の中ではすごい負担でなかなか。
自己注射なんですけど自分で1回もすることはできず、毎日親にしてもらわないとできないぐらい、こんな感じでした。
岸田 この時さ、だから嫌だ嫌だみたいな感じでもう逃げ回ることもできるわけやん?
9歳の頃やから。けど、やらなあかんっていうのは分かってて毎日やってたんやんな?
多田 はい
岸田 すごいね。そこら辺、その時もう目つぶったりとか嫌ながらちょっとどういうふうに打ってたん?
多田 嫌は嫌ですけどやらないといけないっていうのは理解はしていたので、いつか終わる日が来るからって思いながら毎日毎日を過ごしてたっていう感じでもありましたね。
岸田 いつか終わる日が来るんじゃないかということで注射を打っていって。ちなみにやねんけど、いつか終わる日が来た?
多田 あ、来ました。
岸田 おぉ!それいつぐらい?
多田 3年ぐらい続きましたけど、小学校6年生ぐらいにはもうやっと終了っていう形で。
岸田 そうなん、その時終了ってことはちゃんとホルモンが分泌されるようになったってこと?
多田 ホルモンが分泌というよりは、成長曲線の枠内に身長が入ったみたいな感じでそこで終了っていう感じで。
言いたくても「言わないで」と言えなかった——周囲の心ない言葉ともどかしい日々
岸田 そういうことね。よかった、それで終わりがちゃんと訪れてくれて。そこからちょっと上がっていきます、それがこちら、容姿についてのいじめ。そうか10歳ぐらい、小学校高学年とかなってきたタイミングぐらいか。
多田 そうですね。
岸田 これはごめんね、なんか言いづらかったら言わなくても大丈夫だけど、どんな感じでいじめられたりとかっていうのがあったのかな?
多田 そうですね、私が行ってた小学校はどちらかというと結構小規模な学校だったので、同学年はすごい理解があって全然容姿にっていうのはなかったんですけど、上級生・下級生からは結構いろいろ言われたりとか。
全然関係ない本当に街歩いてて通りすがりのおじさんとかに、どうした?みたいな言われたりとか。うつむいてるのに わざわざ覗き込んで顔を見てきたりとかっていうのは本当に日常茶飯事な感じではありましたね。
岸田 そっかぁ、その時はみんな目について言及してくるってことだね。
多田 そうですね。
岸田 その時の目は義眼をはめてたのかな?
多田 そうです 義眼をしてたんですけどやっぱり見た目的にはくぼんでいて、遠くから見てもちょっと 違和感はあるような容姿だったので。もちろん違和感がないわけじゃないので言ってることもわかるので、私自身が言わないでよって言えなかったっていうのもあって、私自身もそう思っているところはあったので、なんで そういう面でもちょっともどかしさっていうのはありました。
岸田 そっか、その時ごめんなんか対処法とかないと思うねんけれどもどういうふうに、もう仕方ないっていうふうな感じで過ごしてたのかな?
多田 そうですね、もうそれは仕方ないとは思いつつもその時にいろいろ助けてくれたりフォローしてくれたのがその保育所で出会った友達、いつも仲間にいたので結構フォローしてくれたりとかっていうのはありましたね。
岸田 そうなんだね。てっきりクラスメイトにとか同学年とか思ったけど、そうじゃないんやね。だからそういう接点がなくて分からへん、あんま分からへんから容姿をいじるじゃないけど見に行くとかいろいろあるんかもしれへんね、そっか、ありがとう。
そんな中でちょっと上がっていくねんけれども、それがこちら。義眼が入らなくなり眼帯で右目を隠すといったところ、これはポジティブな、ね、義眼が入らなくなったら結構やばいと思うねんけど、なんでこれポジティブなんでしょう?

多田 そうですね、義眼が入らないのは結構トラブルではあるんですけど、私の中でやっぱりさっきもお話があったように容姿のいじめっていうのがあったので、そのコンプレックスである部分をちょっと隠せるっていうのは一時的であってもちょっと気が楽になったなっていうので。
眼帯なんて結構してる人いっぱいいるので、ちょっとものもらいできたよぐらいな感覚でみんなと同じような理由でいられるっていうのが私の中ではちょっと楽になった部分ではあります。
岸田 眼帯をして、だからそこの容姿についても眼帯っていうね、一般の人もね、もちろんね、することもあるでしょうしっていったところでそこがちょっと気が楽になったってことなのか。ちなみにこの義眼が入らなくなることっていうのはよくあることなの?どうなの?
多田 よくあることではないですけど、まれにある…本当、成長とともに義眼は作り変えていくものなので成長過程によっては 合わなくなるっていうタイミングが出てくる方もおられましたね。
岸田 そうなんですね。成長過程でもう多田さんの場合はちょっと合わなくなってきてしまったっていうタイプってことね。
多田 そうです。
拒否反応、移植失敗、再手術——義眼を入れるための長く険しい道のり
岸田 そのまま…けど今は義眼してるから何かしら色々あったんだと思いますけれども、ちょっと見ていきましょう。その後こちら、手術、義眼台形成手術。義眼を入れようみたいな感じになっていくってことですか?
多田 そうですね、まずは義眼を入れるためのまぶたの中にスペースを作らないといけないっていうので義眼台手術をしましょうということになりまして。
そもそも義眼台って義眼の奥、まぶたの奥に入っているものなんですけど、私の場合は人工物でアクリルボールを最初のが発覚した時の手術で入れてたんですけど、それがまあ成長とともに顔が成長するのに対して大きさはそのままなのでそれが合わなくなったのでそれを取り替えましょうっていうまず一つ目の治療です。
岸田 そういった治療をしていこうというふうな感じで。ただこれは、どんと下がってるやん。これはこの手術したくなかったってこと?それとも痛かったとかそういうこと?
多田 そうですね、この手術はすごい術後の痛みがひどくってですね、なかなかこの当時はその義眼台としてアクリルボールのサイズアップしたものを入れるのと、口の中の上顎の粘膜を切り取ってまぶたに移植するっていう手術をしたので、口が痛くって何もできないんです、飲む・食べる・しゃべるっていうのはできない上に目を切ってるので頭も痛いし目も痛いし動けないっていう状態で結構しんどかったですね。
岸田 はぁー、えっ、口の上の中のやつをこっちに移植するんや。
多田 そうです。ボコボコしてると思うんですけど、私はそこが取ったのでえぐれてるんですけど、いまだに。
岸田 そしてそれが実は失敗するっていうふうな感じやねんけども、どういうこと?この失敗するっていうのはそんな手術とか失敗とかあったらあかんと思うねんけど、どういうことでしょう?
多田 そうですね、まず人工物であるアクリルボールを入れたことによって私の体が人工物を拒否して拒否反応が起きてしまったというのと、口の中の皮膚を移植したんですけどそれが確定ではないんですけど、もしかしたら過去の放射線治療の影響で皮膚がちゃんとくっつかなかったんじゃないかとは言われてるんですけど。
その両方がうまくいかず結局炎症を起こしてしまってまぶたに 逆に穴が開いてしまうっていうマイナスになってしまいまして。
岸田 うわぁ。
多田 それで失敗に終わりました。
岸田 そうなんや、そのまま失敗…のまま終わらせるんじゃなくて再手術をしていくっていうのがこちらかな?

多田 そうですね。
岸田 これは太ももの細胞と血管移植って書いてあるけどどういうこと?
多田 はい、人工物が体は受け入れなかったので、もう人工物はやめて自分の細胞を移植しましょうっていうことになったので、太ももの細胞肉ですね、肉と血管付きの肉をまぶたに移植してその血管を耳の付け根の血管とつなぎまして生きた細胞を移植しましょうということで移植をしました。
岸田 そんなことを行って、それは成功していくというふうな感じで。人工物が入ってるのがちょっとあかんかったっていうところもあるからっていうところね。
多田 はい。
岸田 そこから成功して、ただ成功してるのにちょっと下がってんのが怖いねんけれども、ちょっとそれ、次がこちら、手術、まぶたの開きを大きくということでこれはもう切って広げるみたいな?
多田 そうです。これは手術自体は簡単ではあったんですけど。
岸田 ただこの時に、ちょっと授業が心配と。
多田 そうですね、ここで高校に入学してすぐのタイミングだったので、なかなか そのタイミングで手術するとなると休まないと、数日休まないといけなくなるのでその分の授業が、スタートダッシュが遅れてしまうっていうところがあったのでやっぱり授業が心配っていうのでマイナスな部分でした。
岸田 けど、数日でいいんや?
多田 そうです、はい。
岸田 まあけどね、まぁスタートダッシュ、まあ最初はね、4月なり5月なりのそのね、数日っていうのはね、クラスにちょっと受けたりとかね、授業の開始っていうのをね、そこでつまずいたらね、結構嫌やもんね。
その後こちら、手術、次はまぶたの形成ってありますけれども、まぶたを開いて形成、どういうこと?これは。
多田 まぶたというよりは本当に移植して、試合後のボクサーみたいな感じの腫れがまだずっとあったので、それをちょっとまぶたらしくっていう。
岸田 そっか。大きくなってるをちょっとまぶたらしくというか、そっか。はぁー、それをちゃんとやっていって。ただこの時に下がっているものに関しては、こちら、また?みたいな感じで。これは、また授業が行けなくなるやんみたいな?
多田 そうですね、やっぱり手術があるとその後結構頻度が高くなるので、通院する回数も増えるので、その分授業も休まないといけないっていうのと、この当時治療してた病院が遠かったので新幹線で通院しないといけなかったのですが。
午前中学校行って午後病院とかができなくってなので、朝から丸1日学校休まないといけないっていうのがあったので、1日分の授業が全部遅れてしまうっていうのがあったので、やっぱりまたかっていう思いはありますよね。
岸田 そういうことか 1日分か、それはね、確かに、午前と午後だけだとね、なんかいいけどね。
多田 そうなんです。
岸田 そしてその後、次こちら、まぶたと眉毛の筋肉をつなげる、なんかちょっと、まぶたと眉毛の筋肉をつなげる、ん?どういうこと?
多田 これは私のまぶた、右目のまぶたが全く動かない状態なんですけど、筋肉がもう弱ってほぼない状態なので、眉毛が動くこの動きを利用してまぶたとつなげてちょっと連動して少しでも動きができるようにっていうので、ここに何かが入ってます。
岸田 じゃあ眉毛を動かすとまぶたのところも動くようにしてるってことか。
多田 そうです、はい。
岸田 そういうのもあるんやね。そうしてないとずっと開きっぱなしでちょっと違和感があるってことね?
多田 そうです。
岸田 それをやっていった時にですね、こちら、授業に遅れることがまたね、これで授業遅れちゃうんよね。
多田 はい。
4年限りの仲間と割り切って——大学で誰にも病気を明かさなかった理由
岸田 そんな中で下がっていきます。大学の入学、えっ 大学の入学って普通上がるもんなんじゃない?勝手な想像やけど、めちゃくちゃ下がってますよね。
多田 そうですね。ずっと手術をしてから眼帯姿だったので、24時間365日。なのでやっぱり最初は右目を隠せて楽だった気持ちがだんだん逆にそれも目立つんだなっていうのに気づいてくると、大学入学しました、初めましての次の言葉が目どうしたの?になるので、それを一人一人にどう説明しようかっていうのが結構私の中ではしんどくて。
そこで真実を言うのかちょっとねってごまかすのか、っていうのもちょっといろいろ考えながら毎日過ごしてました。
岸田 そっか〜確かにね。僕もね、本当多田さんとそのね、チャイルド・ケモ・ハウスっていうね、ところのイベントとかでこう知り合った時に、こうまだがんのこともあまり知らなかったから、そう、目どうしたん?って何気なく聞いちゃってたかもしれへんな、確かに。そっか、その時どう言うか本当のこと言うのかちょっと何か濁すのかっていうのを悩むってことだね。
多田 そうですね。
岸田 そっか〜ちなみに多田さん的にはどういう、なんか親しい人には言ってみたいな感じ?それとももう全員に全部 言ってって感じ?
多田 そうですね、基本的にはもうあまり大学の人には言わなくて、ちょっと治療中なんだよねっていう感じで、そもそもそこで友達を作ろうとも思ってない自分がいたので。
岸田 おぉ、そうなんや。
多田 大学4年間だけのつながり、4年間もつながってるか分かんないぐらいの仲間なので、まあ別にいっかっていうのでそんなに深くは言ってないです、誰にも。
岸田 ちなみに大学は、さっきあった心理士になるための大学ってこと?
多田 そうです、心理学部に入りました。
岸田 そうか、もう4年だけの友達やっていうことを割り切ってあまり深く踏み込まないようにしたってことね。
10年間治療したのに、まだ理想に近づけていない——葛藤の中で患者会を立ち上げるまで
岸田 そしてその後まだ下がっていきますがこちら、形成治療終わりへの葛藤。ずっとそっか、手術続けているからいつ終わんねんみたいな感じかな?

多田 そうですね、その時当時お医者さんから言われたのは、外科的な手術はこれで終わり、一旦終わりだけど、あと自分がもうちょっとここをこうしたいとかっていうのがあればそれは考えるよって、もう治療の選択は全部任せるよっていうふうに言われたんですけど。
正直ここまで約10年間治療していたのでしんどくって、まだ続くのかまだ続くのかって言いながらやっていくのがしんどくって。ただ10年間治療をしたのにまだ理想には近づけてない、目らしい目にはなってないっていうところの葛藤がすごく大きくて、もう常にそのことばっかり考えてましたね。
岸田 そっか〜、そんな中でね。この形成手術、目のしていくやんか、で、眼帯をしているって言った中で、こう義眼が、今もね、義眼が入ってると思うねんけれども、入るタイミングっていうのは。まだこの時はずっと眼帯やんな?
多田 そうです。
岸田 だからまだ終わりが見えない、ただ一旦これで終わりっていうことは言われる?
多田 そうです。ただ外科的な治療は終わりなので、まだ腫れが若干あったり術後の腫れが若干あったりとか。
義眼も仮義眼と本義眼があるんですけども、仮義眼で、本義眼っていうのは本当に左右の感じと合わせるような黒目の色とか大きさとかっていうのをちゃんと合わせて自然に見えるようにオーダーメイドで作ってもらうものなんですけど、それがまだできてない状態だったのでそれもどうなるんだろうっていう不安もあったりとか。
岸田 そうなんね。じゃあずっと仮義眼で過ごしてるわけね、そっか。そんな中でこちら、患者会を立ち上げる。ちょこっと気持ちが上がるっていうことやけど、これは網膜芽細胞腫の患者会みたいな感じ?
多田 これは疾患に関係なく義眼を焦点として義眼をしてる方の患者会になるので、私が特に網膜芽細胞腫というよりは義眼のこと、見た目のことだったりケアのことだったり、その義眼である自分をどう受け止めていくかっていうところに結構悩んでたっていうのもあったので、義眼で繋がれる人がいたらいいなっていうので立ち上げた患者会です。
岸田 ちなみに何という患者会ですか?名前は。
多田 これは「まもりがめの会」っていう会です。
岸田 「まもりがめの会」という会を立ち上げて、そこで義眼を入れてる方たちとの集まりっていうのが出来上がったってことね。
多田 そうですね。義眼ともう一個別に小児がん会も同時期、同じぐらいの時期には作ったんですけど、その両方を立ち上げながら自分の心も発散しながらっていう感じで活動してます。
岸田 そっか、それ今も活動を続けてるってことね?
多田 そうです、はい。
「やっと解放された」と思ったら、また自己注射が始まった
岸田 そんな中でなんですけれどもちょっと下がっていきますが、形成治療終了。おっ、終了したんですね?ようやく終了するが…ってありますけど、終了したら高くなるのがあるのかなと思いますけどまた下がってますよね、これはなんででしょう?
多田 やっと形成治療終了で、私が終わりますって担当に伝えて終わってやっと治療から解放されたっていう同じ月に晩期合併症が見つかりまして。そこで結局また治療が始まるっていう感じで。
岸田 そっか晩期合併症。ちなみにどんなやつですか?
多田 これが下垂体機能低下症っていうのと甲状腺機能低下症っていうので、小学生の時にやっていた自己注射が再びやってくるっていうので私の中ではテンションだだ下がりっていう感じ。
岸田 そうなんや、もう終わったと思ったまたやらないといけなくなったんや。
多田 なので、逆に前回のしんどさを知ってるのでそれをもう一回再開するっていうのに結構ダメージは大きかったです
岸田 それはもう今も続いてるの?それまたどっかでなんかやめれるタイミングあったりするの?
多田 いや、多分もうずっと続くんだろうなとは思うんですけど、ただ新しい薬ができたので自己注射も週6日から 週1回に減ったので、そこの負担っていうのはちょっと楽にはなったんですけど、これは多分 ずっと続くだろうなっていう負担はありますね。
岸田 それはだだ下がるよね。形成治療終了したってことは、さっきの本義眼ができたってこと?
多田 そうです、はい。
岸田 本義眼できて本義眼入れてっていうふうな形でね。その後またちょっと下がっていくのはこちら、現実を受け入れられないということで、これはどういうことでしょう?
多田 そうですね、その後にさらにいろいろと晩期合併症っていうものがやってきて、ここぐらいから結構なかなか 通院で経過観察行くといつもの定期的なスパンよりも短くなってきて、ちょっとここ気になるから次検査しようとかっていうのが増えてきて、どうなっちゃうの私?っていうところはあって。
そこの中で、もともと高音の難聴はあったんだけどだんだん耳が聞こえにくくなったりとか、あとはもともとあったんですけど歯の欠損があって、まだ子どもの歯があるんですけど。
子どもの歯があるのと、そもそも大人の歯がなくて歯の本数が少ないっていうのもあったりとか。あとは心臓の不調があったり婦人科系のリスクのこともあったりとか、いろいろと出てくる出てくるで現実が受け入れられないっていう状態に陥りました。
岸田 そっか。その晩期合併症、一番の要因は2歳の時に薬物療法や手術・放射線もろもろ、色々な状況が出てきてるってことだよね。20年経って出てくるってこともあったりするのか。
多田 そうですね。
中学・高校・大学、全部眼帯で——やっと眼帯なしで写真を撮れた日
岸田 そこからね、現実を受け止められないけどちょっと高くなってるのが、後半唯一の救いな部分でもありますが、それがこちら、AYA世代の振袖撮影会の参加とありますけれども、これはイベントに参加したってことかな?

多田 そうですね。そういう振袖の撮影会っていうのがあるっていう話をお話というか調べて問い合わせをしたんですけども、もともとずっと眼帯をしていたので中学・高校・大学卒業アルバム全部眼帯で全部の写真がずっと眼帯姿なんですよ。
なので、治療が終わったら眼帯外したちゃんとした綺麗な顔の写真を撮りたいっていうのはずっと夢としてあったので、それがやっと叶う時が来たっていうのがここの振袖撮影会でした。
岸田 はい、これね、ちなみにその時の写真がこちら!ドン。いいですね。すごい、眼帯をしてない姿でっていうふうなところでね。

多田 はい。
岸田 いやなんか、ここを、これ以降は眼帯せず撮影というか 写真を撮れるっていうふうな感じになってくのかな?
多田 そうですね。
岸田 そっかそっか、いや本当ね、いや素敵な写真で。もうなんかね、ようやく自分の一つの夢が叶ったっていう感じよね。
多田 本当にやっとっていう感じですね。
岸田 ありがとうございます。そんな中でね、ちょっとまたそっから下がっていくのがね、ちょっと怖いねんけれどもこちら、心臓の不調、えっ。心の不調じゃなくて心臓の方でね。
多田 そうですね、それと共に心の不調ではあるんですけど。心臓の不調っていうか今後晩期合併症として心臓にも負担がかかる薬を使ってるからっていう話はもともとあったんですけど、ここにきてやっぱり薬での治療が必要なレベルになってしまったっていうところです。
岸田 薬が必要なレベルになってしまったっていうことか。じゃあ、この心臓のお薬も飲んでいるってことね、今ね。そしてそんな中で、糖尿病の疑いギリセーフ。糖尿病にも結構 近いところになっていくってこと?
多田 そうですね、内分泌系がやられているのでその流れというか、それでちょっと糖尿病やばいかもよって言われて。検査はしたくないって言ってたんですけど、やっぱりした方がいい!した方がいい!って言われて結局検査はしてみたんですけど、ギリセーフだけど今後また検査した方がいい時は来るかもよっていう、なんだかすっきりしない状態で終わってます。
岸田 そっか…。じゃあ今さ、いろいろ本当に様々な疾患と共に生きてるっていう感じになってるのかな?がんになってからね。
多田 そうですね、だから自分がよくわからない状態ではあります。
岸田 そっか。今通院の頻度的にはどれぐらい?
多田 通院の頻度は3ヶ月に1回ぐらいなんですけど、それぞれ科が違うので、来月もとかっていうのはあるんですけど、だいたい平均でも3ヶ月に1回ぐらいではあります。
岸田 ありがとうございます。この話を聞いていきましたけれども、写真でね、さっきね、素敵な振袖姿のね、お写真いただきましたけれども、闘病時のお写真もちょっといただいてます。闘病時って言っても2歳の頃かな、こちら!どーんということで、2歳の頃の写真?これは。

多田 そうですね、ちょうどその闘病中でクリーンルームに入ってた時ですね。保母さんが写真を撮りに来てくれた時っていう感じです。
岸田 そっか、もうこの時は手術終わってるのかな?
多田 そうですね、たぶんこれは仮の義眼が入ってるんじゃないかなと思うんですけど。
岸田 2歳の頃の貴重なお写真をいただきました、ありがとうございます。
治療できる病院が少ない——網膜芽細胞腫と形成手術の病院選び
岸田 ここからちょっとね、さまざまな質問項目に分けて伺っていきたいと思います。まずこちら、 病院・治療の選択といたしまして、病院ね、網膜芽細胞腫を診れる病院とかも限られてるんじゃないかなだったりだとか、治療の選択どうしていったのか、親御さんがね、もちろん決められてるのはあると思いますけれども、そういったところも含めてちょっとお伺いできますでしょうか?
まず病院はどのように選択していったんですか?当時は。自分が選択するわけではないかもしれへんけど。
多田 そうですね、2歳の最初の発病当時は私は全然選択には関与してなかったので親が全部決めて、地元当時静岡県に住んでいたので子ども病院でずっと治療をしていました。
岸田 そっか、子ども病院でずっと治療してて。あれ?けど大阪やんなぁ。
多田 そうです、その後に治療が終わってから大阪に引っ越してって感じで。
岸田 治療終わってから、それも幼少期の頃?
多田 そうです。
岸田 保育園で親友ができるとか、保育園行く時には もう大阪に来てるってことか。
多田 そうです。保育園入るタイミング、同じ時期ぐらいかな?に 大阪に引っ越してます。
岸田 大阪でまた病院を見つけて、そこで大きめな病院で治療してってことか。
多田 はい。
岸田 ちなみにその後形成の治療を受けられていくっていったところに関してはこれは自分で決めたのかな、それとも通っている大きな病院で?
多田 そうですね、最初は通ってた病院の眼科の方に紹介してもらって診てもらったんですけど、なかなか目の形成の手術とかをしている病院がすごく少ないので。
岸田 そうよね 、うん。
多田 なので、通ってた病院ではここではちょっとできないですって言われて、そこからその病院の近くの病院に紹介してもらってそこで最初の手術をしたんですけど、結局失敗に終わってしまったのでその2回目の形成手術をそこでもう1回するのかまた違う病院でするのかっていう選択は、私にどっちにする?って聞かれて結局色々本当に悩んだ結果もともと1回目した病院でするって私は決めたんですけど。
結局私の状態的にはここでは無理だって言われて、選択肢が与えられたけど結局選択肢はなかったような状態で転院してそこでずっと治療をしました。
岸田 そっかそっか、やっぱそういうね、目のこと治療できる病院っていうのはなかなか少ないと思うんだけど、それは主治医の先生に紹介してもらってみたいな、結構大学病院系とかなんかな?
多田 そうですね、大学病院ですね。
岸田 で、目の形成の手術していったってことかな?
多田 そうですね。
岸田 じゃあ今も大学病院に通ってるってこと?
多田 今の目の形成は結局大学病院でやった後また変わっているので、今の病院はまた違うんです、大学病院ではなく。その病院というかその先生がすごいっていう感じで。
岸田 あ、理解した、そういうことね。だから病院で決めるっていうのは、その先生で決めるってことか。
多田 はい。
岸田 その先生はどうやって調べるのか、見てる方たちに参考になればと思うんですけど、どうやって調べたりとかどういうふうに、もうその業界に行けばこの先生だなって分かる感じ?
多田 そうですね、結構有名な先生ですけど、ちょうど私の運が良かったって言ってしまえばあれなんですけど、本当に相談した先生の知り合いで知り合いの恩師みたいな感じでちょうどその先生に.つながったっていう感じなので、私たちが調べてその先生にお願いしに行ったわけではなく巡り会えた先生っていう感じで。
岸田 そっか、じゃあ見てる方がそういったね、そういう先生たちにって言った時には「まもりがめの会」に聞いたらいいのか。
多田 そうですね。状態にもよりますけど一度相談してもらえれば。
岸田 ということ思います、はい。そんな中でね、医師とのコミュニケーションってところもね、結構当時いろいろあったと思うんですけれども、あれよね、スクラブ着てる人たちがちょっと怖かった時期とかもあったりとかしたんよね?
多田 そうですね。ずっと小さい時から治療していると、小さい時当時は医療者イコール嫌なことする人っていう認識なので、暴れて押さえつけられてっていう記憶もあるので、なかなか慣れるのには時間がかかりました。
岸田 今は大丈夫?もちろん。
多田 今は普通に人見知りです(笑)
岸田 普通に?(笑)
多田 本当に人見知りがひどいので、そもそもスクラブとか白衣とか関係なく人と慣れるのに時間がかかるっていう感じです。
岸田 ありがとうございます。もうそうね、やっぱここね、人と打ち明けるっていうところね、なかなかすごく気持ち分かります。最初何話していいか分からへんしね。
右目のコンプレックスと10年以上の形成治療——後遺症と向き合う日々
岸田 次こちらになります、副作用や後遺症のことといたしまして、一番大きな後遺症としてはそのね、義眼のことがあると思いますけれども、そのことも含めですね、ちょっといろんな後遺症・副作用あると思いますのでちょっと伺ってもいいでしょうか?
多田 そうですね、おっしゃる通り右目というか義眼のことがまず私の中でもコンプレックスであり副作用というか後遺症というかっていう感じなので、それに関してもずっと形成治療はしてきましたけど、なかなか自分自身が受け入れられるような状態にはならなかったりとか。
やっぱり理想が高すぎるっていうのもあると思うんですけど、私の中では普通になりたいだけなのにっていう思いがやっぱり抜け切らなくて、どうしても最近で言うとロボットの技術がすごいので、ロボットの方が綺麗にまばたきするじゃんとかっていう羨望の眼差しで見てしまう部分もあったりとかっていうので自分で自分の心を追い込んでしまってる時も結構ありますね。
岸田 そっか、自分でね。それへの対応としては、多田さんの場合どういうふうにしてるのかな?
多田 そうですね、ずっと毎日日課として日記を書いてるんですけど、そこに感情を書き殴ったり、普通の大学ノートに毎日書いてるんですけど、基本少ない時は1行ぐらいで終わったりするんですけど、いろいろ溜まってる時はもうページ 2ページぐらい文字びっしりみたいな時もあったりとか、あんまり人にもやもやした状態で人に話して傷つけたりするのが嫌なので、一旦自分の中でコントロールというか抑えて整理できるようにしたいなっていうので、一旦ちょっと色々 かき殴って落ち着かせるっていう感じです。
2歳の治療が20年後に影響する——早期閉経・不妊リスクと向き合って
岸田 すごい、さすが心理師さん、もうセルフで、そういうことね。そういうふうに折り合いをつけてっていうことをね、しているってことね。ありがとうございます。
その中でね、副作用・後遺症のところにも同列であるんですけど、あえてこちら妊よう性のことだけね、ちょっと切り出してAYA世代っていうね、若い世代、多田さんあると思います。妊よう性という子どもを作る能力、そういったところに関しては、これは医療者から説明あったりとかした?
多田 そうですね、私の場合は発病が2歳だったので、私が20歳ぐらい過ぎてから改めて主治医から再告知っていう形でもう一度こういう病気でこういう状態でこういう治療薬を使って治療しましたよっていう再告知を受けて、その時に妊よう性の話も晩期合併症とか含めその話をしてもらいまして。
その時にはやっぱり晩期合併症として早期閉経の可能性というのと不妊の可能性、そのリスクはあるよっていうのは聞きました。なので その話を聞いて一回婦人科には受診はしたんですけど、当時私は結婚・恋愛とか子ども欲しいとかっていう気持ちが全くなかったので、もうその1回きりで今のところ終わってます。
岸田 詳しい検査してないってことか?
多田 そうです。
岸田 婦人科行って 話を聞いてってところで一旦終わってるってことね。
多田 そうですね。
岸田 ありがとうございます。そういう再告知っていったところが二十歳を過ぎてからあったっていうことだね、ありがとうございます。
「どこまで伝えるべきか」——がん経験者として恋愛・結婚を考える
岸田 そんな中でちょっと、そのね、恋愛や結婚のところっていう形で、まあどのようにパートナーだったり異性だったりとかそういった方に伝えるのかだったりとか、どういうふうに考えていくのかっていうところも非常に若い世代で。
幼少期からがんになってっていうところで、しかも目に見えるような部分がっていうところがあると思いますけれども。こちらに関してはどのように考えてだったりとか、そういうのはいかがでしょう?
多田 そうですね、学生時代からずっと勉強に打ち込んできたっていうのもあります。それを理由にしてたっていうのもあるんですよ、なかなか恋愛とかまでは考えたことなくて。
まあなので結婚とかも考えたことないですし、そもそも相手にどう伝えていいのかとかどこまで何を伝えるべきかとかも、特にあの結婚とか将来を考えるのであればやっぱりそれなりの説明っていうのは必要だと思うんですけど、そうなった時に相手の反応で自分自身が傷つくのも怖いし相手のことを傷つけてしまうのも怖いしっていうので、結構恋愛に関しては なかなか踏み込めない状況で今もいます。
岸田 そうか、どういうふうに相手が思うのか、だっていろんなことを考えちゃいますもんね。ここが本当にいい形で変わっていければと思いますけれども。ここに関してはもう模索中って感じかな?
多田 そうですね。
岸田 ありがとうございます。また 5年後・10年後だったりとかする、多田さんの状況とかまた聞いていきつつ応援したいというか、見守っていきたいなと思います。ありがとうございます。
面会時間だけが家族の時間——病院での孤独な入院生活
岸田 そんな中でなんですけれども 次こちら、家族のことに関してちょっとお伺いをしていこうかなということを思います。家族、これはですね、治療中お父さんやお母さんどのようにフォローしてくれたのだったりだとか、もしくはお姉ちゃんたちがどういうふうに関わったのだったりとか、そういったご家族のことについて伺いたいんですけれども。
どうでしょう?入院中とかはさっきちらっと写真撮った時保母さんがみたいな感じで言われてたけど、どういうふうな関わり方だったりとかしたんでしょうか?
多田 そうですね、もう治療していた頃は子ども病院だったので親もつき添えない状態で。
岸田 つき添えないの?
多田 そうです、付き添えないのでもう一人っきりに、面会時間のみっていう感じなんです。だから写真で夜に暗い表情をしてたっていうのもあるんですけど。
なので、親とも面会時間内でしか会えないしきょうだいはもう子どもなので病棟には一切入れない状態なので、病棟の入口のガラスのこっちと向こうとで手を振り合うぐらいな感じをずっと過ごしていて。
今だとね、こうやってオンラインで いろいろ話もできるんでしょうけど、当時はそこまでなかったので本当にガラス越しで面会ぐらいな感じでしたね。
岸田 そうなんや、じゃあ本当に治療中はその面会時間だけの家族との触れ合い、しかもお姉ちゃんたちとは全く関わることなくみたいな本当に。ドア越しだったりとか、そのね、窓越しだったりとか、そういったところでってことなのか。
多田 そうですね。
岸田 そっかぁ。じゃあ改めて家族っていったところを認識するのは、やっぱり治療終わってからか。
多田 そうですね、たまに外泊みたいな時はあったんですけど、本当に数日っていう感じなので、退院してやっと賑やかな家庭に帰ってきたっていう感じですね。
岸田 当時のこと覚えてたりとかする?家族で戻った時にすごくいっぱい賑やかで話できてよかったよなのか、ちょっと環境が違いすぎて戸惑ったよなのか。そんな幼少期のこと覚えてへんか。
多田 そうですね、家族、入院中の記憶はすごいあるんですけど退院してからの記憶っていうのはあまりなくて。
岸田 逆に入院中の方がすごくあるんやね。
多田 強烈だったんでしょうね、いろいろと。
岸田 家族のフォローとしてはそういうふうな形で、面会に来てくれたりだとかそういったところで関わってたってことね。
多田 そうですね。
岸田 こうして欲しかったみたいなところっていうのは、特に大丈夫かな?
多田 そうですね、家族が多いので対応とか捉え方もそれぞれっていうのはもう身に染めてよく分かったので、それぞれにとっていい考え方で受け入れてくれたらというか知ってくれたらそれでいいかなっていう感じでもあります。
岸田 そっかそっか、そうね、本当ね、いろんな考え方、家族の中でもねいろんな考え方あるからね。ありがとうございます。
休みがちなのになぜ特進?——周囲の目と戦いながら勉強を続けた高校時代
岸田 そんな中で次、学校のことっていったところで、やっぱ授業にね、遅れるのが嫌だだったりだとかついていけるのがっていったところだったりとかね、そんな中で大学に行ったりだとかっていったところもあったと思いますけれども、学校の中で大変だったこと、もしくは工夫したことだったりとかそこのとこどうでしたでしょう?
多田 そうですね、特に高校入ってからっていうのが大変だったっていうのもあって。
高校は本当に普通科だったんですけど、高校2年生から普通科と特進コースっていうのがあってその2つに分かれるんですけど、私は休むことが分かってたので普通でいいって思ってたんですけど、当時の担任の先生から、多田さんは特進に行った方がいいよって言われて結局特進に進むんですけど。
やっぱり学校の中ではよく学校休んでる子っていうイメージがついちゃったので、なんであの子が特進行ってるんだみたいな感じで、コネじゃないかみたいな目で見られたりとか、特進も偏差値何以上じゃないと入れないとかっていう条件があったので、それをクリアしてるのはおかしいみたいな感じのことは結構言われましたけど。
私は部活も入らなくて、みんなが部活している時間帯に学校で一人残って勉強したりとか、たまにそれに気づいて先生が来てくれて教えてくれたりとか特別授業をしてくれたりっていう、いろいろ自分の中でも努力はしていたので、そこは全然ズルしてないよっていうので堂々といれはしたんですけど、その周りの先生方の協力っていうのはすごくありがたいことでした。
岸田 ああそっか、だからね、コースといったところでのみんなからの視線だったりだとか、ただ勉強はね、ずっとちゃんとしていてっていうことやもんね?
多田 はい。
岸田 勉強、これ聞きたいんですけど、やっぱさ治療しながらもしくは通院しながら放課後で、勉強は好きだったから続けられたのかな?それともやらないとみたいな感じなのか、どういうモチベーションで勉強してたの?
多田 そうですね、最初は本当にやらないとという気持ちはあったんですけど、勉強って不思議なもので、やり続けていくと沼る時が来るんですよ。中毒になる時が来て、ちょっと分かってくると楽しくて仕方ないっていう時期が訪れるんですよ。
でも、そこに入ってしまったらもう止まらないというか、分かる!楽しい!みたいなことになっていくのでそういう時期もあったりとかっていうので続けてきました。
岸田 そうなんね、だから勉強楽しいと思えるようになってるから特進なのよな。すごい素晴らしい。そういうふうにちゃんとね、周りよりもしっかり勉強してっていうところでちゃんと学力はつけていったってことね。ありがとうございます。
保健室の先生との出会いが夢になった——心理師を目指したきっかけ
岸田 そんな中でね、仕事のことについてもちょっと伺っていきたいなと思います。仕事に関しては、これは今心理師になってるわけやん。この中でやっぱり心理師になろうと思ったきっかけだったりとか、今心理師として働いてたりだとか、そういったところでどうなのかっていうところをちょっとお伺いしてもいいですか?
まず、どういうふうなきっかけで心理師を目指していったの?
多田 そうですね、まず心理師っていう職業を知ったのが小学生の低学年ぐらいだったかなと思うんですけど、結構嫌なことがあったら保健室に行くタイプで、保健室の先生ともすごく仲が良くて、親よりも保健室の先生に色々悩みを話せたっていうタイプなんですけど。
いろいろお話ししていく中で、保健室の先生から臨床心理士という職業があるんだよというのを聞いたのがまずきっかけ。そこから逆にそれしか見えなくなってしまって、私の中でもすごく興味がある職業だったので、もうずっとそこから 心理師になるっていう夢ができて、高校を卒業して大学から心理学部に行って大学院まで行って心理師の資格を取ったっていう流れでした。
岸田 そうなのね。心理師の資格取って、お仕事としては病院で勤めたりとかしていくのかな?
多田 そうですね、もともとは病院で働きたかったんですけどちょうど私が大学院を卒業したのが2020年の3月でコロナが流行りだしてきた時で、なかなか病院に入るっていうのがハードルが高い時期でもあって。私自身そんな免疫も強くないのであんまり病院に就職するのもなっていうので、一旦福祉の方に就職をして児童福祉の方で子どもたちと接しながら子どもたちの発達支援っていうのをメインにする仕事に就けました。
岸田 そういうことね。だから病院でそういうコロナの時期でもあったし体力的なものもあったしっていったところで、福祉の方で心理師をしてるっていうことだね。ありがとうございます。
給料の使い道は通院費が最優先——治療が続く限り終わらないお金の問題
岸田 そしてこちら次、お金や保険のことといたしまして、お金に関しては小児慢性特定疾病っていうね、子どもの治療費がちょっとタダになっていくような、18歳延長して20歳までといったところではあるのかなと思いますし、保険もね、親御さんかけてたりとかどうだったのかなってあると思いますけど、治療費に関しては その認識は合ってるかな?何か自分で払ったりとかすることあった?
多田 そうですね、20歳まではいわゆる小慢でつないでたっていうのはあるんですけど、
やっぱりその治療が20歳過ぎても必要な時もありますし今もずっと治療してるので、その辺はもうずっと払ってますし。あとはちょっと病院が遠方っていうのもあって、そして毎月新幹線代を往復必要にもなりますし、そこは全然補助してくれる対象ではないので、それは一番 負担が大きい部分ではあるかなっていうのと。
晩期合併症って難病、指定難病の晩期合併症になったので、そこからは難病の受給者証をもらってちょっと補助をしてもらっているっていう感じではありますね。
あと保険に関しては、もともと入ってなかったので改めて自分で学生の時にちょっと入っておいた方がいいのかなっていうので、保険の仲介所みたいなところに相談に行って、その時はここでは保険会社さん40社以上扱ってますよみたいなことを語ってたんですけど、私が一言 小児がん経験者ですって言った途端2社まで絞られて、どっちかだよっていう選択に 結局なりましたね。しかも保険料が高いっていうデメリットがあります。
岸田 そういう小児がんの経験者ですっていうことでかなり絞られて、選択肢がっていう ところなんね。ちなみに今は保険どうなん?入ったの?そこからは。
多田 入りました。結局高いんですけど保険だしみたいな感じで、一昨年ぐらいに改めて見直しをして、やっと2社だったところが4社まで増えて、ちょっとずつって言われるんですけども小児がん経験者に対応してる保険っていうのが出てきたのかなっていう認識はありますね。
岸田 ちょっとずつね、そういう理解っていったところも広がってるのがね、そっかそっか、ありがとうございます。そんな中でちょっとさっきちらっと言ってた新幹線のお金がかかったっていうこと言ったけれども、あれ?俺の確認やともう療養してからは大阪で治療してたっていうふうな認識やねんけれども、新幹線は静岡の子ども病院に行くための新幹線?なんかどういう新幹線?なんでしょう。
多田 子ども病院は卒業して、形成治療の病院がまた静岡になったんですけど。
岸田 そういうこと?
多田 そうなんです、なんで結局また静岡〜大阪間の新幹線での通院っていうのがいまだにあるんですけど、続いてます。
岸田 だから形成、そのまぶたをだったりだとかそういう形成のやつは静岡に行ってたんや?
多田 そうです。なので、術後とかは2週間に1回静岡行ってっていうので続けてました。
岸田 そっかそっか、そういうことね。だから1日ね、もう使ってっていうことも言ってたもんね。それがそう、静岡で行ってたってね。それで結構、今もってなったら結構かかるね 、本当ね。
多田 そうなんですよ、そこが結構負担ですね。
岸田 そうよね。それはもう自分の働いたお金からだったりとか親に援助してもらったりとか、そういうのでやるって感じよね?
多田 そうですね、基本 自分の給料の中でやりくりして、今月病院入ってるからちょっと使えないなとかっていうので、通院メインのお金の使い方になってしまうって感じですね。
岸田 そっか、そういうことね。だから給料になってもその病院代っていうのをあらかじめちょっと確保しておかなあかんってことか。
多田 そうですね。
岸田 いつかこうね、通院とか終わったらいいと思うんだけど、まぁ一応一生な感じなんかな?
多田 そうですね、終わりはまだなさそうな感じです。
病院のあとはスイーツを——治療を続けるための「ご褒美制」のすすめ
岸田 ありがとうございます。それでは次なんですけれども、次こちら、工夫していること、もしくは闘病時工夫したことといたしまして、どのようなことで気を紛らわしたりもしくは治療中こんなことで対処したよっていったところの工夫といったところをお伺いしていきたいなと思いますけれども。
治療中もしくは治療後でもいいんねんけれども、工夫したことしていること多田さんなんかありますか?
多田 そうですね、基本的には病院が嫌いなので病院に行くことは自分の中ではハードルが高いので、頑張ったらご褒美みたいな感じでちょっとご褒美制を取り入れていて。特に甘いものが好きなので、病院の後はスイーツ食べに行こうとかっていうのでご褒美を自分にあげたりとか。
あとは今自己注射の治療が続いているのでその針をペットボトルに入れてためておくんですけど、それを病院に持ってって破棄してもらうっていうのでためてるんですけど、そのためたペットボトルいっぱいに針がなった時に何か自分にご褒美をあげる、で、ちょっとモチベーションを維持しながら毎日頑張るっていう感じは今もしています。

岸田 そうね、ここまで頑張ったみたいなね。あの針とかね、あったらもう目に見えてわかるし、病院もね、行ったら何かスイーツ食べようだったりだとかね。まあね、そうやって自分でモチベーションを上げるっていう工夫をしてるってことね。
確かに、僕も確かに病院行った後コンビニでちょっと高いスイーツとかちょっといいものっていうのをちょっと買ったりだとか食べたりだとかっていうところをすることで、自分のモチベーションを保つっていうのは本当にいいと思います。ありがとうございます。
自分でいろんなところに行ったりとかもするっていうのもあったりとかするよね?
多田 はい。
岸田 患者会に参加してみたりだとかっていうところもあったりとかするんよね?
多田 そうですね。疾患に重点を置いた患者会だったりとかいろんな患者会があるので、いろんなところに行って参加者の方の話を聞いてると自分の中でもいろいろ整理できることとかもあるので、私にとってはすごく大事な居場所になっているところもあります。
岸田 そういったところにも行ってみて、いろんな話聞いてみてっていうところもあるということですね。
「受け入れなきゃ」と考えないことが目標——ありのままの自分へ
岸田 夢や目標について今後どうしていきたいかっていうところね、多田さんの中で今後の目標や夢ありますでしょうか?ありますでしょうかっていうか、何でしょうか?ですね。
多田 そうですね、ずっと右目の形成治療をしてきたんですけど、なかなか自分の中でも受け入れられない部分だとかやっぱりまだ心のどこかで理想を追い求めてしまってる自分がいたりだとかっていうので、まだまだ葛藤する日だったり悩んだりする日もあるので。
最終的な夢というか目標はそういう受け入れなきゃとか、これが現実だって受け止めなきゃとかっていうのを考えないというか、そこに執着しないでありのまま、今の自分を自分として堂々としていられるようになるっていうのが私の中での夢であり目標です。
岸田 ありのままを受け入れるようになるってことね。
多田 そうですね。
岸田 素敵。だからそういった時が来るっていうのを自分なりに模索し続けているってことだね。
多田 そうですね。
岸田 ありがとうございます。今回ね、多田さんにご出演いただいたのも、本当にね、昔多田さんが大学生の頃だったりとかね、患者会を作られたタイミングだったりとかあった時にね、ぜひ出てよ出てよっていうことをね、言ってね、それでそこからようやく応募もしていただいてっていったところで本当にありがとうございます。なんかきっかけとかあった?出てもいいかなみたいな。
多田 そうですね、なんかどこかのタイミングでがんノートの話題が出て、あっそういえばっていうので私の中で気づいたというか思い出したので、調べて。
岸田 ありがとうございます。
多田 応募フォーム応募したっていう感じです。
岸田 本当ね、小児がんの経験者でこうやって自分のことを今客観的に喋るっていうのはそういった経験談ってなかなか多くないと思いますので、ぜひ本当にやっぱり多田さんの経験談めちゃくちゃ大事かなということを思います。ありがとうございます。
「ゆるく楽しく、たまに真面目に」——多田詩織さんから届けたい言葉
岸田 そしてここからですね、メッセージに入っていきたいなということを思っています。多田さんからですね、視聴者の皆様に、経験者の皆さんだったりとかですね、の方に向けてのメッセージがこちらになります。

多田 はい。私からのメッセージはゆるく楽しくたまに真面目に!ということで、これは私の人生のモットーでもあるんですけど、物心ついた時からずっと治療をしていたり病院と距離の近い生活をしているんですけど、治療するために生きているわけではないので、治療も含めもっと楽しい動力になれたらいいなと思いますし。
いろんな経験をしてゆるく楽しく真面目であるべき時はたまに真面目に!っていう感じで、自分の人生を楽しんでいけたらいいかなと思っております。
岸田 ありがとうございます。ゆるく楽しくたまに真面目に!ということでね、本当にいい自分なりの加減で人生を楽しくできるっていうのが大事だと思いますし。
もうやっぱり多田さんも本当に人生の大半を治療に注いでるって言ったら変ですけども、あると思いますけど、そんな中でもね、勉強に励んでみたりとかね、いろんなことも、一人旅してみたいとかね、いろんなこともやってたりしますもんね。
多田 はい。
岸田 素敵なメッセージいただきました。ありがとうございます。
そしてですね、これにてがんノート終了していくんですけれども、多田さんいかがでしたか?1時間今日ちょっとお話していただいてっていう感じになりますけれども、言いたいこと全部伝えられました?大丈夫でした?
多田 そうですね、なんかいろいろお話して私の中でもいろいろ気づく点とか整理できる点があったのですごくいい時間になりました。ありがとうございます。
岸田 いえいえ、こちらこそです。やっぱね、本当晩期合併症とかいろいろ大変やと思うけれども、やっぱそういった経験談もやっぱ見てる方からしたら一人じゃないんだなっていうこともね、少しでも感じてもらえたら嬉しいなということ思いますし、はい。
がんと共に生きるというか、そういった中でも多田さんのような方もいらっしゃいますよということをお伝えできたのでよかったのかなと思います。
それではですね、これにてがんノートを終了していきたいなということを思っています。皆さん、次の動画でまたお会いできたらと思います。それでは皆さん、バイバイ。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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