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インタビュアー:岸田 / ゲスト:野嵜

今回のゲスト・野嵜容平さん――寛解10年、今はフルマラソンを目標に

岸田 それではですね、がんノートスタートしていきたいんですけれども、今日のゲストは野嵜さんになります。野嵜さんよろしくお願いします。

野嵜 よろしくお願いいたします。

岸田 自己紹介お願いできますか?

野嵜 私、野嵜容平と申します。愛知県出身で現在も愛知県に住んでおります。仕事は現在、社会保険労務士といった仕事をしております。趣味はマラソン、ゲーム、温泉といったところで。

岸田 結構、マラソン、ゲーム、温泉、いろんなね、多趣味だと思うんですけれども。例えばマラソンとかっていうのは大会で出られたりとか、結構ガチなやつですか?

野嵜 そうですね。私も愛知県に住んでいるので、名古屋シティマラソンのハーフマラソンを昨年走りました。

岸田 そういういろいろ大会にも出られて。それはがんになってから?

野嵜 そうなんです。もともと体を動かすのは好きだったんですけど、やっぱりがんになってだいぶ体力が落ちて…で、やっと最近健康的な趣味を行えるようになってきたのでまたちょっとマラソンも始めて、少しずつ距離を伸ばしていずれはフルマラソンを目標に頑張っていきたいなと思っています。

岸田 ありがとうございます。そんな中でがんのこともちょっとお伺いしてもいいですか?

野嵜 フィラデルフィア染色体陽性のタイプに罹患しました。罹患した年齢は30歳でした。抗がん剤とかの薬物療法と一部、放射線の治療も行いまして、臍帯血移植をして現在寛解状態を維持して10年が経過しております。現在42歳です。

岸田 ありがとうございます。ということは、12年前にがんの告知を受けてという感じなんですね?

野嵜 そうなんです。

健康診断で発覚した白血球の「一桁違い」――30歳、転職直後の白血病告知

岸田 そんな中でこの10年と少し、どんな経験をされてきたのかといったところをですね、こちらの感情の浮き沈みのペイシェントジャーニーをちょっと駆使してお話を聞いていきたいと思います。このような形となっています。はじめは最初上がったところからだんだん下がっていって、でまた後半で上がっていってちょっと下がっていくっていうふうな形ですね、最後今はね、上がっている状態ではあると思うんですけれども、そんなこのね、野嵜さんの今までをちょっと振り返っていきたいと思います。まず一番初めこちら、転職をされていくといったところで。転職…どんなお仕事からどんなお仕事に転職されていったんですか?この時は。

野嵜 私は大学を卒業してから主に食品メーカーで生産管理の仕事をしていたんですね。工場行って生産ラインがちゃんと動いているかどうかの確認をしたり人員の配置を考えたりとかそういった仕事をメインにしてきていて。で、30歳ぐらいになった時にいろんなノウハウを生かして違う会社でももっといろいろ新しいことにチャレンジができないかなということで物流会社、インターネットの通販会社の倉庫管理のお仕事に転職する機会がありましてそちらにちょうど転職をしたのが30歳でした。

岸田 ちょうど転職したところですね。そこからバリバリやっていくぞといったところでちょっと下がってきますが、それが健康診断で異常値が分かっていくということで、これは会社の健康診断?

野嵜 はい、そうなんです。会社に定期的な健康診断ってあると思うんですけど、それがあって、私も健康だけが取り柄みたいな当時タイプだったので、仕事忙しい中で行くのめんどくさいな〜と思いながら行ったところ、やっぱり血液の値に異常値が見られたのですぐに大きな病院に行って検査をしてくださいと言われました。

岸田 検査をしてくださいといったところで、その時の検査の値ってどれぐらいとかざっくり覚えてたりします?その異常値は。

野嵜 確か白血球の数値がですね、通常の平均のものと比べてやっぱり一桁違うぐらい。それは本当に何か大きな病気をしないとそんな数値にはならないって先生はおっしゃってました

岸田 一桁も違う!?それは相当ですね。そんな異常値が分かっていって大きな病院というかそういったクリニックに行ってくれとかというところで、精密検査を受けられていくというふうな感じなんですね?

野嵜 はい、ただ私も自覚症状は正直なかったんですよ、当時。なんか体に異変を感じてるっていうのはなかったので、何かの間違いかなとその時は本当に軽い気持ちでその大きな病院の方に行きましたね。

岸田 ここではもうあれですか、やっぱ血液の値がちょっと異常値だからっていうことで血液の値を見られていく精密検査って感じですかね?

野嵜 そうですね、まずはやっぱり血液検査をもう一回やって、で、白血病とか血液のがん患者さんだと皆さんご存じなものなんですけどやっぱりこのうつ伏せになって腰の骨に針を刺してですね、そこで骨髄液を抽出してそこの細胞を調べるっていうとても痛々しい検査をしました。

岸田 あれね。すごく何とも言えないやつですよね。

野嵜 魂が抜かれるような(笑)

「明日から入院してください」――抗がん剤5クール、地固め療法で挑んだ寛解維持

岸田 そんな精密検査をされていって、ここからちょっと下がっていくので良かった…のではないだろうというふうな感じですけれども。ここからがんの告知を受けられていくというふうな形で。この時に精密検査の値で分かったって感じなんですかね、どうでしょう?

野嵜 そうですね、詳しいタイプは分からないけども、白血病だろうということですぐにやはり治療した方がいいですよ、明日から入院してくださいっていう話をそこの病院の先生からは言われました。

岸田 明日から入院なんですね。

野嵜 もうすぐに始めた方がいいよということで。

岸田 急遽それでもう告知を受けて。その時の気持ちってどうでした?まさか…とかどういうふうな感じでしたでしょう?

野嵜 そうですね。私もずっと健康体で30歳までやってきたので、入院とかもしたことがなかったんですね。で、白血病って言われてもやっぱりちょっとピンとこなかったんですことの重大さがいまいちピンとこなくて、ん?何入院?え?どれぐらいの期間なんだろう?白血病ってなんか聞いたことあるけど何だっけ?みたいな、そんなような感じだったんですね。そうなんです。すぐ家に帰って、当時結婚はしていたので妻の方にも相談をして、これこれこういうことなんだよっていうことで伝えたら、妻の方がやはり動揺してしまって。やっぱりその様子を見た時に、これはちょっと大変なことになったのかなっていうのをその時初めて実感しました。

岸田 じゃあ奥様の反応を見て、これはちょっと大変なことなのかなっていうのを認識するというか、そんな感じですね。そこからですね、もうすぐ明日から治療するぞということで治療に入っていきます。地固め療法ということで、これは抗がん剤などを入れられていったってことですかね?体に。

野嵜 そうですね。まず抗がん剤を始めて、結構抗がん剤の反応が良くってすぐに寛解状態になったんですね。ただ白血病ってすぐにまた白血病の悪い白血病細胞が出てきてしまうので、その寛解状態をずっと維持するために抗がん剤の種類を複数クールごとに変えながらですね、どんどん投与して寛解状態を維持するのが地固め療法と言われているみたいで。やっぱり複数の抗がん剤を入れると、合う薬・合わない薬があって結構副作用が強く出た時もありましたね。

岸田 そうなんですね、結構合う・合わない。それがクールごとで違うってことですよね?

野嵜 そうです。

岸田 お〜どれぐらいしたんですか?数ヶ月レベル?

野嵜 そうですね 全部で5クールかな!?5クールやったんで、大体4〜5ヶ月だったと思います。

岸田 4〜5ヶ月そっか。そんな中でなんですけれども治療をしていって、そこからこんな形になっていきます。予後不良、お〜…せっかく。

骨髄ドナーが見つからず、臍帯血移植へ――しかし「生着不全」という壁

野嵜 そうですね。白血病のタイプ、急性リンパ性白血病でフィラデルフィア染色体陽性ということでタイプが判明したので、当時だとやっぱりそれは再発のリスクが高い種類に当たるということで私も30歳、当時30歳といった年齢を考えるとやはり骨髄移植とかそういった移植の治療を行って根治を目指していく方が望ましいだろうという先生のお話だったので、私も今後のことを考えて骨髄移植やりたいですっていうことを先生にも気持ちを伝えたんですね。だけど肝心な骨髄移植を受けるためにはドナーさんが必要なんですけど、そのドナーさんが見つからなかったんですね。

岸田 ドナーって自分の家族だったりとかそういったところから確認されると思うんですけれども、ご兄弟はいらっしゃらなかった?

野嵜 東京に弟がいて、弟もこれは大変だということで名古屋まで来て検査を受けてくれたんですけど、残念ながらやっぱり白血球の型が合わなかったんですね。血縁関係がある人だと4分の1の確率でマッチするらしいんですけど、残念ながら合わなくて。で、骨髄バンクの方に登録をして、そこで登録している方々からドナーさんを探すっていう工程に移りました。

岸田 ってことはこの中でも結構病気自体はだんだん悪化していくんですか?このドナーを待ってる間っていうのは。

野嵜 そうですね。やっぱり放っておくとまた白血病細胞が増えてきてしまうので、もう1クール追加でやりましょうっていうような形でまた抗がん剤か…っていう感じで。骨髄移植受けられるのか受けられないのかもちょっとはっきりしない中でやっぱり不安が強い時期でしたね。

岸田 そして見つからず、じゃあどうしていくのかというと次こちら、移植。臍帯血移植をして、しかもこれ生着不全って書かれていますけれども(苦笑)骨髄移植をじゃなく臍帯血にしようみたいな判断になったんですね?

野嵜 そうですね。先生からも説明があって、骨髄移植のドナーさんをこのまま待ってても見つかるとも限らないので、同じような効果が期待できる移植として赤ちゃんのへその緒を使った臍帯血の移植、これでも造血管細胞を移植することで同じような効果が得られるという説明があったので。そちらだともうすぐにドナーさん、ドナーさんというか臍帯血の保存があるのでそれで行うことができるので、それをやりませんかというお話があったんですね。

岸田 ちょっとこれ教えてほしいんです、臍帯血に関しては型とかは関係なくていいんですか?

野嵜 やっぱり白血球の方が合わないとできないんですけど、ドナーさんと違って採取された臍帯血が保存されてるんですね。臍帯血にもバンクがあって、そちらには結構な数の臍帯血が今保存されていて、臍帯血の場合はドナーさんの都合を考えなくてもいいんですよ。骨髄移植だとやっぱりドナーさん、白血球の型があったとしてもやっぱり提供するには1週間ぐらい休みを取らないと、入院しないといけないんですね。なかなか働き盛りの方とかご家庭があるような方だと、1週間まるまる入院とかなかなかハードルが高いんですよね。なので私の場合ももしかしたら白血球の型が合ってたドナーさんはいたのかもしれないけど、ちょっと提供するのは時期的に難しいのでっていうことでマッチングが進まなかったんじゃないかなと思って。

岸田 そうだったんですね。そっか、で、臍帯血移植っていったところの実施されて、ただその中での生着不全ということでこれはうまくいかなかったっていう意図であってますかね?

野嵜 結局移植をして臍帯血をですね、自分の体の中に輸血するような形で体内に入れたんですけども、結局その細胞が私の体に根付かなくてですね、最終的には自分のまた造血管細胞の方が強く出てきてしまって、結局でも自分の造血管細胞、血を作る細胞なんですけど、それはもう正しい血液を作れない、そういう機能になっちゃってるので。そうなっちゃうとまた白血病細胞が出てきてしまうということで、結局失敗だったんですね…。

岸田 そっか〜。やってもこう生着、ちゃんとね、根付いてくれないといけないんですよね。そっか〜失敗になっていく。ただそこでもね、ちょっと上がっていくのは何でなんでしょうか?こちら。薬物療法、分子標的薬をされていく。そのお薬で次、治療されていくってことなんですね?

野嵜 はい。それなりに強い抗がん剤とか放射線の治療をやってきたので、白血病細胞は結構叩けていて寛解状態は維持できていたんですね。そのままだとあれなので、今その当時だと分子標的薬っていう飲む抗がん剤のようなものがフィラデルフィア染色体陽性のタイプにも効果があるということが確認できていたのでが、じゃあそれを服薬しながらちょっと経過観察してみましょうか〜ということで退院はできたんですね。退院できたことがまず嬉しかったので。ちょっとポジティブにふれたかな。

岸田 そういうことですね。ようやく退院できたといったところで、飲み薬になっていってといったところで上がっていって。そしてその後なんですけれども。ここからまた下がっていきます。それが復職した…おぉ会社に復職できたんですね?

野嵜 はい、おかげさまで当時勤めていた会社の方に、退院もできて体調もまずまず安定してきましたっていうことをお話しして復職することはできました。

岸田 できましたが、みたいな、できましたがっていう下がってネガティブな青色でも書かせていただいてますけど、何かあったんですかね?んな中で?

野嵜 やっぱり分子標的薬も結構副作用が強くてですね、やっぱり服薬をしてその後やっぱり吐き気したりとか結構ぐったりと体が重い感じになったりとかして、なかなか体調がいい状態で仕事に向かえなかったんですね。なんで体調不良でお休みをしたりとか、出社できてもちょっと体調不良で思うように動けないみたいな。周りもちょっと大丈夫かなみたいな感じも伝わってきましたし、やっぱり自分自身満足に働けないっていうのは悔しかったっていうのもあって。

岸田 そうか、倉庫の仕事でしたよね。その時は肉体労働なんですか?それともそうではなかった?どうなんでしょう?

野嵜 そうですね、やっぱりデータ管理が中心ではあるんですけど、実際現場で現物を見に行ってっていうこともあるので。結構倉庫って広いんですよね、広くて空調は効いてるけど結構汗もかくし、肉体労働って言ってもいいような環境ではあったので、なかなかそういう副作用が強い状態で満足に働くことはできなかったし、途中でちょっと今日はもう無理なのでって言って早退することも多かったです。

退院と復職の喜びも束の間――再発告知と自然退職が重なった「人生のどん底」

岸田 そんな中で一番下がっているところ、それが再発や退職ということで。これうまく抑え込めてなかったってことですか?

野嵜 そうですね、やっぱり体調不良があまりにも続いたので、これはちょっとおかしいなと思って、やっぱり主治医に相談をして、じゃあちょっとまた精密検査してみましょうか〜になって、また例の腰の骨のやつをやってみたりとかすると、やっぱり再発してたっていうことが分かって。それによってやっぱり血液のバランスが変わってきて、また悪い白血病細胞が増えてくるのと増えてくると、やっぱり他の赤血球とか血小板とかその辺りが下がっていっちゃうんですね。悪い細胞が増えてきちゃうとその分正常な細胞が減っちゃうので、だからちょっとめまいがしたりとか体が重い感じになったりとかっていうのはやっぱりそのせいだったみたいですね。

岸田 お薬は飲み続けてたんですよね?

野嵜 そうですね、飲み続けていてある程度効果はあったという説明を受けていたんですけども、やっぱりどこか抑え込めてなかったんだと思います。

岸田 しかもそれと同時期なんですかね?退職って書いてますけれども…。

野嵜 これ、結構やっぱりショックでしたね。私30歳の時に転職したてだったんですね。転職したてで半年ぐらい働いて、健康診断で異常値が出てそこから休職という形になったんですね。会社にも一応休職の制度はあったんですけども、やっぱり勤続年数に応じて何年間休職っていう制度になっていて。転職したてだとやっぱり勤続年数1年未満で、休職期間は最大1年とかそういった形の制度だったので。再発してまた長期に離脱するっていうことであれば、もう休職期間も残っていなかったので、もうそのまま自然退職という形になりますと会社からは説明を受けました。

岸田 そうかこれ、しかも転職したてでもうがんの治療入っていったりとかするから、もう仕事もめちゃくちゃ慣れてるっていうわけでもないし、復職したら復職したでね。

野嵜 本当に一生懸命自分としてはやってたつもりなんですけど、やっぱり体もついていかないし、周りのスピードにもついていけないし結果も出せないし。無理して働くこともできないし、何してもうまくいかない中で再発の告知っていうのはやっぱり精神的にガーンと大変なことがありましたね。

岸田 しかもね、休職もそこまでできず退職した。

野嵜 そこでもう退職ですって告げられた時もやっぱりショックでしたし、頑張って復職したけどこんな結果になっちゃうのか…というのもあるし、再発したってことはまた治療しなきゃいけないのっていう思いもあって。だからもう将来再発すると、それこそ命もどうなるのかなっていうところやっぱり不安でしたし、辛かったですねこの時期は。

2度目の臍帯血移植、今度こそ生着成功――しかし続くGVHDと感染症との長い戦い

岸田 ただね、そこからちょっと上がっていきます。それがこちら。おっ、移植生着と書いてますけど、また臍帯血移植されたんですか?

野嵜 やっぱりまたドナーさんが見つからなくて骨髄移植は、今度こそは骨髄移植したいなと思ったんですけどやっぱりドナーさんが見つからなくて。で、あまり時間も悠長に構えていられる雰囲気でもなかったので、もう一回臍帯血やりましょうっていうことでやってみたら、今度はうまくいったんですね。うまく生着して移植としては成功、期待してる効果が得られそうだということになったので、ちょっとガーンと上に登りました。

岸田 臍帯血移植って何回かできるんですね?

野嵜 そうですね。でもどうなんでしょうね。3回やったっていう人は何か聞いたことありますけど、あんまり結構体への負担は大きいので。やっぱり移植受ける前に、本当に自分の造血管細胞を無力化するぐらいの抗がん剤と放射線をやるので、その時って白血球の値がゼロになるんですよ。

岸田 はいはい。

野嵜 すっからかんの状態になっちゃうので、無菌室に入ってその状態で臍帯血を迎え入れる。その状態だからこそドナーの細胞が生着するっていうシステムなので、結構ギリギリの状態ですね。

岸田 この時もやったんですか?薬物療法は。

野嵜 そうですね。

岸田 この地固め療法みたいなことをまたやったってことですね?

野嵜 そうですね、前処置でやっぱり同じ。ちょっとクールは短めなんですけど、もうすでに何度かやってるんでもうそう何回もできないよねってことで、1クールか2クールやってもうすぐに臍帯血移植という形。

岸田 されていって、ようやく生着してよかったといったところでちょっと下がっていくのが、副作用で何度か入院ということで。これは移植の影響ですか?

野嵜 はい、そうですね。やっぱり移植をすると正常な血液が作れるようにはなっていたんですけども、そこで免疫反応が副作用で出るんですね、移植すると。ドナーさんの細胞が、造血管細胞が私の元々の体を敵だと、異物だとみなして攻撃をするんですよ。結局自分の体のあちこちに臓器にですね、いろんな症状が出るようになってきて。一番私の場合ひどかったのが皮膚とか粘膜にすごく出て、体中が痒かったりとかただれちゃったりとかっていうのがあって、感染症にもやっぱりなりやすかったですね。まだ免疫が完全ではないというか、赤ちゃんの免疫みたいな。赤ちゃんから子供に成長する免疫みたいな感じなので、ありとあらゆる感染症にはなりました。帯状疱疹であったり、なんとか発疹症とかありとあらゆる感染症に、インフルエンザにもなりましたし、1ヶ月に1回はひどい風邪をひいていましたしね。

岸田 それで、もう何度か入退院をされていってっていったところなんですね…。

野嵜 そうですね、肺炎で入院したり帯状疱疹で入院したりとか。移植がうまくいったのに、なんかあんまり結局変わってないじゃんみたいな、なんかそこでまたちょっとネガティブな気持ちになりましたけど。

告知翌日に決断した妊よう性温存と、闘病中に生まれた長男

岸田 ただね、ここからもう劇的に上がっていきますが、それがこちら。あっ長男さんが誕生ということで、お子様が生まれたと。

野嵜 こんな状況の中でみたいな話なんですけど、実は話すと長くなっちゃうんですけど、結局抗がん剤の治療に入る前、結局白血病って分かった時すぐに精子を温存してたんですね。生殖機能が失われるっていう話を先生からも話があって、あらかじめそういう生殖機能として精子を採取して保存しておいた方がいいですよっていう説明を受けたのでそれをやっておいて、私の治療が進むと同時に、妻がですね、不妊治療という形で保存していた精子を使って顕微受精、人工受精をして妊活をしておりました。

岸田 お〜、このなんかすごい、やっぱそれはまた後でも話聞きたいと思いますけど、お二人でお話になってこの時期にみたいな形でされてたんですね?

野嵜 そうですね。なかなか前々からずっとやってたんですけどなかなかうまくいかなくなって、たまたまタイミングがここだったっていう。

岸田 そういうことですね。

野嵜 そうなんです。

リハビリを兼ねた通学、4度目の試験で合格――社労士資格が開いた、がん後の新しいキャリア

岸田 ありがとうございます。そんな中でなんですけど、ちょっと下がっていきますが、こちら資格の学校、下がっていくけどポジティブですね、全然ポジティブですね。資格の学校へ、何の資格ですか?これは。

野嵜 結局なかなか一度会社を退職してから、じゃあ次どこに再就職をしようかなと思った時に、多分前と同じ倉庫管理の仕事であるとか食品製造メーカーの生産管理とかっていうのはちょっと体力的に難しいのかなと思って。じゃあ何か違う仕事を考え始めてたんですね。
その時に何がいいかなっていうところで、やっぱりこの闘病の生活の中でいろんな社会保障とか勉強していろんな制度に助けられたっていうこともあって、社会保険労務士っていう資格に興味を持ってたんですね。
社会保険であるとか労務とかの、会社で言うと人事とか総務のそういった働く人たちの管理をするプロフェッショナルな仕事の資格なんですけども、それをちょっと目指してみようかなと思って。結構難しい試験だっていうことは聞いていたので、資格の学校にどうせ仕事もできないから、そういった学校に行って資格を取得をしてそれから再就職を〜ということをちょっと考えてたんですね。

岸田 それで資格の学校行かれるっていう感じなんですね。

野嵜 リハビリも兼ねて、体力もね、だいぶ落ちていたので。通学を通勤の練習みたいな感じにして実際駅前まで通学して、そこで3〜4時間の講義を受けて自習室で1〜2時間勉強して、6時間ぐらいだったらできそうだな、行って帰ってきてできそうだなっていうのをちょっとずつ時間を延ばして練習みたいなのをしてましたね。

岸田 その練習をリハビリ兼ねてされていった中でちょっと下がります。こちらが体調が安定せず不合格が続くということで、そんなうまいことにはいかなかった感じなんですか?

野嵜 そうですね。なかなか1〜2年勉強したらこうまあ合格できるかなとちょっと思ってたんですけど、やっぱりなかなか1年に1回しかない試験なんですね。

岸田 おぉ、1年に1回か。

野嵜 やっぱり体調も、体力はだいぶ戻ってきたんですけどやっぱり感染症とかには弱くて。なんか試験の1週間前からひどい風邪をひいたりとかした年もありましたし、やっぱりなかなか思うように人生いかないなっていうのも感じていて。再発はしなかったんでよかったんですけど、ただなかなか試験に受からないと再就職っていうのもいつになるかわかんないなっていうので、ちょっと将来に対する不安であるとかお金のこととかもね、いつまでも無職だと子どもを産んだばっかりなのでなかなか満足な収入も得られない中、このままではまずいなっていう焦りとか苛立ちっていうのがちょっと強くなってきた時期ですね。

岸田 そうですよね。この無職期間中は生活はどうされてたんですか?奥様が働かれて?

野嵜 そうですね。妻が出産するまではパートとかで働いていて、私も退職してからは傷病手当金を受給して、その後、障害年金を少し受給してたんですね。額としてはそんなにですけど、それプラス妻のパートとあとは貯金の切り崩しですかね。

岸田 そうだったんですね。そしてちょっと上がっていきます。それでね、働かれていく第一歩というか、パートで社労士事務所にっていうことですけど、まだここは受かってないですよね?

野嵜 そうなんです。ただ1年に1回の試験で、合格率もね、6%とか7%なんで。なかなかそこに毎年1年に1回かけるっていうのも結構ギャンブルなところがあるので、ちょっと試験が受かってないけどいいですかみたいな形で社労士事務所に一度面接に行ったらですね、パートさんであればいいですよっていうことで働けることになったので。いきなりフルタイムはちょっと体力的に厳しいので、パートから始めて勉強しながら、働きながら勉強しながら試験のチャレンジをしていこうかなということで働き始めました。

岸田 そしてようやく合格!!というところで、何度目のチャレンジで?

野嵜 多分4回目かな、4回目ですかね。

岸田 そこでようやく合格をされ、そこから体調も安定され、そんな中で正社員にもなっていきっていうふうな形でうまく続いていった感じですかね!そこからは。

野嵜 やっと軌道に乗り出したというか、やっぱり試験の合格がですね、すごく自信になったんですね。プラスやっぱり体調も安定して、感染症とかにもなりにくくなってきましたし、働く時間も事務所と相談をしながらちょっとずつパートでも時間を延ばしていったんですね。体調が安定してきてるんで、最初はもう週3日の6時間とかっていうところから、じゃあ6時間を7時間にしましょうかとか週3日を週4日でやってみましょうかっていう、段階的に相談をしながら無理ないペースで支援してもらえたっていうのはすごくありがたかったなと思ってます。

岸田 そして、なんとここで再移植から10年経つという。

野嵜 そうですね。

岸田 そんなね、今は体調はどうですか?

野嵜 おかげさまでやっぱり自分が白血病であったことを忘れるときもあるぐらい結構安定はしていますね。

岸田 そうなんですね! よかった!感染症とかも人並みというか、一般の人ぐらいのかかり具合で?

野嵜 そうです、おかげさまでコロナも乗り越えました!

岸田 そんなときにというか、治療中のお写真をいただいているので見ていきたいと思いますが、こちらです。もうなんかもうめちゃくちゃつらそうな感じのお写真ですけど、これはどのタイミングでしょう?

野嵜 多分2回目の臍帯血移植が生着して、退院できて自宅にいるときだと思うんですけど、やっぱり目が腫れぼったかったりするじゃないですか。確か血膜炎とかも日常茶飯事だったんで、そのときの様子じゃないかなと思いますね。何か症状が出るたびにかかりつけのお医者さん病院に連絡をして、今回はこの感染症っぽいんでっていう話をして、じゃあ眼科だねとか皮膚科だねみたいな、今日は何ですかみたいな、今日はこれですみたいな、じゃあこちらで〜みたいな。

岸田 それどれぐらいで落ち着いてくるもんなんですか?もう年単位ですよね?おそらく…。

野嵜 でもそうですね、やっぱり離職をして2〜3年まではやっぱり何かしらありましたね。当時資格の学校行ってた時期なんかも、やっぱりマスクをして結構感染症対策をしてたりしたんですけど、やっぱりどんだけ気をつけてても何かしらの症状が出てきたりとか、アレルギーとかの反応も結構強く出るので花粉の時期とかも辛かったです。

岸田 そっか、そっちにも影響があるんですね。

野嵜 そうなんです。

岸田 ありがとうございます。今は体調安定してということで本当に良かったなと思うんですけれども。

野嵜 ありがとうございます。

「近いから」で選んだ病院が、12年間の主治医になった――病院選びと信頼の作り方

岸田 そしてここから各項目に分けて、改めて野嵜さんの闘病の時どうしていったのかというところをお伺いしていきたいなということを思います。まずはこちら、病院や治療の選択といたしまして、どのように病院を決められていったのかというところ、最初は健康診断からその後大きな病院にということがありましたけれども、それに関しては健康診断の病院からここに行ってくださいねみたいなのがあったんですか?

野嵜 具体的にここにっていうわけではないんですけど、血液内科がある総合病院に行ってくださいっていうことで、愛知県名古屋市住んでたので名古屋であればここと、ここと、ここだね、この中で行きやすいところ行ってみてくださいっていうことでその3つの候補のうちから一番自宅から近いところを選びました。どこの病院がいいとかも当時分かんなかったので。

岸田 通いやすさ、大事ですよね。

野嵜 そうですね。精密検査を受けてくださいって言われてもやっぱりその時は、きっと何かの間違いだろうで、もうたびたび通うこともないだろうなぐらいの感じで思ってたので、一回きりだったら近いところでいいかなみたいな軽い感じでした。

岸田 今もその病院ですか?今もっていうかその治療ずっと、その後の治療。

野嵜 おかげさまでずっと、もう12年ぐらいになりますかね。ずっとその病院でお世話になってます。

岸田 ありがとうございます。治療の選択といったところではSDMと言われるシェアード・ディシジョン・メイキング、医療者と患者さんとで一緒に考えて決めていこうというふうな今の医療の流れっていうのがあったりとかするんですけれども、当時とかどうでした?治療の選択はどのようにされていきましたか?

野嵜 そうですね、当時担当の主治医がですね、すごく若い先生だったんですけど、すごく熱心にいろいろ分かりやすく説明をしてくれたので。私もとても若い主治医の先生をですね、信頼していたので、その先生がご提案してくれる内容であれば間違いないだろうという確信を持って、もうほぼ先生の提案通り、それでお願いしますっていう決定の仕方をしてきましたね。

移植後2〜3年続いたGVHDの苦しみ――今は「目の痒み程度」に

岸田 じゃあそこの信頼関係があって、主治医から提案されるものをお願いしますというふうな形でしてきたってことですね。ありがとうございます。そんな中で副作用や後遺症のこと、今は何か後遺症のようなものってあったりとかしますか?

野嵜 そうですね、やっぱりアレルギーの反応はただなんか出るようにはなってて、今もちょっと目が痒かったりとかするんですけど、でもそれぐらいですかね。

岸田 副作用で大変だったっていうと、やっぱり抗がん剤の時?

野嵜 そうですね、やっぱり抗がん剤が終わって、そうですね、当時抗がん剤を当てた時と移植をした直後っていう時はGVHD(移植片対宿主病)っていって、やっぱりその時が一番ピークだったかなと思いますね。そのGVHDも2〜3年して、年が経つごとにちょっとずつ軽くなってきてっていうところではあったんですけど。

岸田 そっか、具体的にGVHDで大変だったのってどういうやつが一番あるのかな?

野嵜 帯状疱疹、全身皮膚のただれとか粘膜障害とか肺炎にもよくなりました。感染症関係はなりますね。

岸田 免疫力が下がっているからっていうよりは、自分の免疫が暴走してそういった形になったってことなんですね?

野嵜 そうですね。多分両方あるとは思うんですけど、やっぱり胃の粘膜がすごくただれやすくてすごく吐き気がしたりとかっていうのは多分GVHDだと思いますし、肺炎になりやすいとかインフルエンザや風邪にかかりやすいっていうのはやっぱり免疫がまだ不安定な感じだったのかもしれないし。だから両方があってどっちかが悪さをするとなんかね、どっちもどっちで悪くなっていくみたいな感じでしたね。

岸田 それはだから時間の経過とともに緩くなっていくのを待つしかないという感じですよね?

野嵜 そうですね。やっぱり本当に1年1年なんとなく自分でも体力がついてきて、風邪とかひいてもそんなに、例えば1週間寝込んでっていうことはなくなって、2〜3日でちょっと鼻水とかが後引くけど熱はすぐ下がってとか症状は軽くなってきてるので、自分の免疫がちょっと強くなってきてるのかな〜っていう感じは思いましたね。

「ネガティブマイナス100」再発告知の絶望と、それでも目の前の治療に集中するしかなかった理由

岸田 ありがとうございます。そんな中でなんですけれども、野嵜さんの場合は再発を経験されてっていうふうなこともあったかと思いますけれども、この時精神的にも辛かったりとか退職もされたりとかいろいろダブルパンチを食らうような感じでしたけれども。改めて再発の時の心情だったりとか、その後の今後どう見通したかっていったところをお伺いできますか?

野嵜 やっぱり再発の告知を受けた時は、初発で告知を受けた時の何倍ものショックがありましたね。それこそ初めて白血病と言われた時は正直ピンとこなかったっていうのもあるんですけど、やっぱり再発の時は治療の大変さっていうのも、もう嫌というほど分かってましたし。やっぱり当時骨髄移植を受けることができずに臍帯血移植をしたけども生着しなかったっていうところも骨髄移植やってたらもっと違う結果になってたんじゃないのっていう気持ちも、なんかマイナスな気持ちも出てきたりとかして。当時仕事をしてた時もやっぱり満足に働けなくて、自分自身なんか悔しくてイライラする気持ちですごくメンタル的にも落ちてた時期に、本当にそこにプラス再発っていうことでダメ押しをされたような感じで、もう人生のどん底といっても間違いないなっていうぐらいもうあれもこれも何してもうまくいかないなっていう時でしたね本当に。

岸田 もうその時があれですかね、一番辛かったといっても過言ではないですかね?

野嵜 ネガティブマイナス10どころかもう100とか、そんな数字がつけられるんだったらつけたいぐらいですね。

岸田 そうなんですね。ちょっとそこの合わせてなんですけど、つらかったこととしましてね、その時のタイミングかなということを思うんですけれども、ちょっとねここのお話をお伺いしていきたいと思います。このつらかった時をどう乗り越えていくかっていうと、野嵜さん的にはどう乗り越えていくんですか?

野嵜 どう乗り越えたんですかね。

岸田 乗り越えるとかっていう感じじゃない?

野嵜 でももう仕事を結局退職するしかなかったので、仕事退職しちゃったらもうあとはただ目の前にまたやっぱり治療をもう一回やらないといけないっていうのが迫ってきてたので。まずは2回目の移植に向けてまた治療が始まるんだ、目の前の治療とあとは体調管理しっかりしていこうっていうところに、とりあえずもう目の前のことに集中して一つ一つをこなすっていうことに、しか考えられませんでしたね。

岸田 目の前のことをね、一個ずつやっていってっていったところでなんとか今に至っているっていうことかと思います。本当ありがとうございます。そしてそんな中でですね、辛かったことはあったかもしれませんけれども、その分マックスのところもありました。

泣き崩れる妻の姿が「絶対治す」という決意に――妻・両親に支えられた白血病闘病の12年

岸田 そちらね、長男さんが誕生してっていったところで、妊よう性のところ。妊よう性って子供を持つ能力を指すんですけれども、妊よう性の温存、精子の凍結をされていったかと思いますが、これは医療者からお話があったってことですか?

野嵜 はい、そうなんですね。やっぱりがんの治療にも結構力を入れてる病院で、私も30歳という年代でしたのでそういう年代のがん患者さんにはそういうお話をするっていう決まりがあったみたいで、丁寧に産科の病院も紹介してくれまして、そこに行って紹介状も書いてくれて、そこに行って精子を採取してっていうことを強く勧められたので。私も家族と相談をして、やっぱり子どもは欲しいよねって話をしていた時期でもあったので、ぜひやろうっていうことでやっぱり先のがんの治療で私自身どうなるかも分からない状況の中だけど、仮に元気になった時にやっぱり子どもを欲しかったなって後悔はしたくなかったので、そこはもう前向きに精子の凍結・妊よう性の温存をしようと決めましたね。

岸田 これどのタイミングでされたんですか?もう告知をされて次の日から地固め療法に入っていくじゃないですか?

野嵜 そうなんですよ。もう次の日に抗がん剤の治療に入る前に先生がダーッて走ってきて、ちょっと治療に入る前にこれやりませんか?みたいな。やります?みたいな(笑)

岸田 そういう感じだったんですね。

野嵜 抗がん剤の点滴が目の前に来てたんですけど、じゃあこれ午後からにしますねみたいな。午前中のうちに行って、妻と一緒に産婦人科の病院に行って、そこで採取をして午後からはまた病院に戻って抗がん剤になるね〜みたいな話をして、お昼、産婦人科の病院の近くで何かしばらくこういう外食もできなくなるね〜みたいな話をしながらご飯を食べたのを今でも覚えてますね。

岸田 そうか、じゃあ本当に治療始まる直前に採取してっていう感じだったんですね。ありがとうございます。そしてね、そんな中で今ご家族のことも出てきましたので、そういったところもお伺いしていきたいなと思うんですけれども、パートナーのことといたしまして奥様だったりだとかもしくはご両親だったりだとか、そういった方たちに伝えたときのそのときと、支えてくれたのかだったりだとか家族のことで困ったことがあったのかだったりとか、いかがでしたでしょうか?

野嵜 そうですね、やっぱり多分告知を受けた私本人よりも多分家族の方が辛かったんだろうなっていうのはやっぱり思いますので。やっぱり病院入院する前に妻も同席で今後こういう治療で進んでいきますっていう説明を受けた時にですね、私はそうなんだ抗がん剤か大変だなと思ってちょっと達観してたところがあったんですけど、やっぱり同じ隣で聞いてた妻の方はですね、もうその途中で泣き出してしまって。やっぱりその受け止め方というか、やっぱり今後に対する不安とか、もしかしたらもう治療がうまくいかないっていうところまでたぶん想像していたんじゃないかなと思うんですよね。

岸田 そっかまあね…。

野嵜 私もやっぱり泣き崩れる妻の姿を見て、これは大変なことになってしまったなと。もうこれ以上悲しませないようにしっかりと治療に向き合って体調管理もしっかりして、絶対に治してみせようっていう気持ちにはなりました。

岸田 改めてね、そこで気持ちを強く持って治療されていくといったところで。こんなサポートしてもらって嬉しかったみたいなとこあったりとかしますか?

野嵜 そうですね、妻はやっぱり毎日時間をうまく工面してお見舞いに来てくれましたし、何か先生から説明を受けるときは一緒に同席して聞いてくれましたし、いろんな白血病とかに関する本とかそういった情報を集めてきてくれたんですね。それはやっぱり現実と直面する5年生存率とかそういうデータとかもやっぱり中にはあって、ちょっと私もそれを見て不安になったりとかすることもあったんですけど、ただ例えば移植をして5年・10年元気に生きている方もいるよとかっていう情報を教えてもらったりとかするとちょっと張り合いも出てきて、私もそこを目指そうみたいな気持ちで。やっぱり抗がん剤の治療とかしてると、やっぱり体調も落ちてくる時もあって、体調が落ちてくるとやっぱりメンタルも落ちてきたりとかするので、やっぱりそういった時はすごく家族に支えられたなと思ってますね。

岸田 ありがとうございます。ちなみに野嵜さんのご両親だったりだとかご兄弟もいらっしゃったっていうことですけれども、そちらに関しては何かこうお伝えした時とか特段そこは何もトラブルなく大丈夫でしたか?

野嵜 そうですね。親もすごく冷静に多分ショックは受けてたと思うんですけど、しっかりと支えるから治療に専念してねということで、やっぱりたびたびお見舞いにも来てくれましたし、傷病手当金であるとか高額療養費であるとかそういった制度のこともですね、色々調べてきてくれてアドバイスとか手続きなんかもですね、会社と話をしてうまく円滑に進めてくれたりとか。そういった意味では多分、私が入院してる間、妻も母親もなんですけど、母親もいろいろ動いてくれてたんだなっていうことで今思うとすごく感謝をしております。

「物心ついた時には元気なお父さんだった」――10歳の長男に白血病を初めて伝えた日

岸田 ありがとうございます。そして家族のことの中でも次はこちら、子どものことといたしましてもちょうど治療中にお子様を授かってということでしたけれども、こういった経験をね、がんだったんだよって言ったところだったりとかをお子さんも10歳っておっしゃってましたけど、こちらお伝えとかっていうのはされたんですか?

野嵜 あんまりね、はっきりと伝えたことはなくてですね、今度お父さんYouTubeに出るんだよって言ったらすごく興味を示してくれて、何のYouTube?YouTuber誰?みたいな。

岸田 うーん…YouTuberではないからな(笑)

野嵜 そうなんですよね。で、その時にお父さんは昔、白血病っていう血液のがんになってその時の話をするためにYouTubeに出るんだよっていう伝え方をしたのがつい最近で、それが初めてなんじゃないかなと思うんですよね。

岸田 逆に…がんノートきっかけで?

野嵜 そうなるのか!そうかもしれない。ありがたいです!もう。

岸田 うわ〜責任重大や!けどそっか…。今はもう本当に元気でね、されているっていうことで。

野嵜 そうなんですよね。たぶん子どもが1歳・2歳とか3歳とかの時はたぶん副作用とかも出てて体調も安定しない時期もあって、たぶんその頃のことは子どもは覚えていないんですね。物心ついた時にはある程度体調も安定してきていて、それこそ試験合格してバリバリ働いているお父さんみたいなイメージがあるのかもしれないので、そういう話をするきっかけもなかったというのは正直なところですね。

岸田 じゃあちょっとね、またこの後もしね、お子様がYouTube見られたらその後どうなるのか、どういう話をされるのかっていうね、またお伺いさせてください!

野嵜 いいきっかけにしたいと思います!笑

「心身ともに余裕がなかった」――治療と仕事の両立が叶わなかった当時と、社労士になって気づいた選択肢

岸田 そして次こちら、お仕事のことといたしまして、ペイシェントジャーニーの中でもいろいろお仕事についてお伺いをしてまいりました。やっぱり倉庫の物流のお仕事をされていた中で退職をせざるを得なかったっていうことだったりだとか、今は社労士のお仕事をされていたりだったっていったところがあったりとかして。いや〜この仕事っていうところでなかなか、当時の前職の時はやっぱりなかなか難しいですよね…働いて治療もみたいな…。

野嵜 いやそうなんですよね、なかなか今だと治療と仕事の両立支援とかっていう言葉がね、なんとなく社会的にも知れ渡ってきてるんですけど、当時ってそういう発想というか私も全然そういう理解もなかったですし、会社の方もやっぱりちょっと特別扱いすることはできないから、あくまで会社の規則に沿ってっていうところで。結構結果を求められる会社さんだったんで、やっぱりチームとしてもあまり足を引っ張ってくれるなよみたいな雰囲気が出てた、サポートをしてもらえませんか?みたいなことも気軽に言えないような雰囲気だったんで、結局無理して働くしかなかったのかなって、今思うと。

岸田 そういう風土によっても全然変わりますよね。

野嵜 無理しないで何かあったら相談してねって言われてはいたんですけど、やっぱりみんな忙しそうだし、1分1秒争って結果出そうと必死でやってるチームで一体感になって進んでいくぞみたいな雰囲気が出てる中で、何かそんなことを口にするのもこれっていいのかなとかっていうのも分かんないまま結構自分で抱え込んでた気持ちの部分でも身体の部分でもあったのかなと思いますね。

岸田 そっか、いや〜まあね。それどうだったらよかったんですかね、なんか難しいですかね、そこに関しては…。

野嵜 そうですね、今思うとですね、やっぱり規則は規則なんですけど、もうちょっと例えば治療のめどが立ってたりとかしたら、もうあと半年経てばもう少し体調よく働けるようになるんで休職期間を延長してもらえませんか、何らかの形で延長してもらえませんかとか、もしくは1回退職してでもまた再就職するチャンスをいただけませんかとかということをもう少し粘ってもよかったかなっていうのはあります。やっぱり今社会保険労務士とか、あとキャリアコンサルタントの資格も持っていろんな知識を得てくると、やっぱりそういったところの発信、自分からの発信をしないとやっぱり会社側も動くに動けないっていう状況はあると思うので、もうちょっと意欲を見せてもよかったのかなと思いますね。

岸田 当時はいろいろ、いっぱいいっぱいでしたでしょうしね。

野嵜 そうですね、ただ余裕はなかったですね。なかなかそこまで考えてる余裕もなかったですし、心身ともに余裕はなかったですね。

「マイホームの貯金が闘病費用に」――自己負担200〜300万円をどう工面したか、使えた制度と正直なお金の話

岸田 今から思うと、もうちょっと意欲を見せておけばまた変わったかもしれないってことですね。ありがとうございます。
そして次こちらですね、お金や保険のことといたしましてね、本当に野嵜さんが退職された後、お金のことどうしたんですかってさっきもお伺いしましたけれども、もう少し治療費どれぐらいかかったんでしょうかだったりとかね、民間の保険とか入られてたんでしょうかだったりとかちょっとお伺いしたいんですが、治療費結構いきますよね?

野嵜 いきましたね。結構入院期間も血液のがんって入院期間長いので、多分全部合わせると私1年以上は入院してたかなと思うんですよね。

岸田 ってなるとどれぐらい治療費としてかかっていったんですか?ざっくりで全然いいんですけれども。

野嵜 当然高額療養費とかもあったので、ですけども、100万はそれこそ移植とかも結構特別な治療には当たってくるので、まあ多分200〜300万はかかってるんじゃないですか。自己負担だけでも。

岸田 えっ。

野嵜 自己負担だけでも。

岸田 それってどう工面するんですか?もう貯蓄で頑張るんですか?

野嵜 そうですね、一応民間の保険は入っていてがん特約みたいなので、移植も先進医療みたいな特約がついたりとかしたのである程度民間の保険で一時金が下りてまかなえた部分もあったんですね。それ以外はやっぱり当時勤めてた会社の健康保険の傷病手当金を退職後も継続してもらうことができたので、それで、そうなんです。あれ退職後も一応もらえるので、1年6ヶ月まではもらえるので、それで本来の給料の3分の2ぐらいはもらえてたので。

岸田 そうなんですね。

野嵜 だから直ちに収入が途絶えるわけではなくて、1年6ヶ月まではそれがあるからいいよということと、1年6ヶ月経つと傷病手当金は終わっちゃうんですね。やっぱり有限なので終わっちゃうんですけど、逆に1年6ヶ月経つと今度障害年金っていう年金の制度の方で対象になる可能性があるんですね。障害年金っていうと体に特定の障害がないともらえないんじゃないかなって思われる方も多いんですけど、それはがんでも対象になるんですね、要件さえ満たしていればですけど。私の場合結構移植した直後、GVHDとか副作用が強く出ていたのでそれを理由に申請してみたところ、障害厚生年金3級に該当して。金額的にはそんなに、年間で数十万・20万とかそれぐらいだったと思うんですけど、ただやっぱりそれはちょっと気持ちの余裕にもつながりましたし、でもそれ以降はやっぱり貯金の切り崩しとかですね、親からちょっと援助してもらった部分もありますけど。

岸田 いやいや、そこでやりくりされてっていうふうな形だったんですね、当時ね。ありがとうございます。じゃあそっか、プラマイゼロっていうかマイナスか、そうですよね、親の援助とかいろいろあればね、そうですよね。

野嵜 そうですね。私と妻もマイホームを、子どもを作ってマイホーム建てようみたいな、ちょっと貯金を結構積極的にしてたっていうのがあって。ただマイホームの代わりにもその期間ちょっと切り崩しっていう形になっちゃったんですけど。なんとかなりましたけど、ただこれがいつまで続くんだろうっていう将来的な不安はやっぱりありましたね。

メモ帳を見せながら質問、検査結果は全部スキャンして時系列管理――12年間続く野嵜さんの闘病の工夫

岸田 ありがとうございます。そしてちょっと次こちら、工夫していることといたしまして何か闘病時こういったことを工夫したよっていうことはあったりとかしますか?

野嵜 そうですね。やっぱり白血病のことを調べていくといろいろ難しい言葉であったりとか、これってどういうことなんだろうとか、薬もこれってどういう効果があってどういう副作用があるのかっていろいろ気になることが出てきたんですね。やっぱり主治医の先生と入院の時は面会をしたりとか外来の時は診察をするんですけど、時間って限られてるじゃないですか、そんな先生も忙しいのでお話できるのは数分ぐらいっていうのがあって。じゃあいざ面と向かった時に何かすぐスムーズにお話ができればいいんですけど、やっぱり私もあれも聞こうこれも聞こうでこんがらがっちゃってなんか大事なことが聞けなかっただとなんか辛いので、あらかじめメモ書きをしておいてこういうことを先生に聞こうって言って蓄積をしていたメモ帳をいつも持って行ってました。それを見ながら先生に、今日はこれとこれとこれを聞きたいんですってまず頭に言ってメモを読みながら、何ならメモを見せながら先生に質問をして疑問を解消してましたね。

岸田 そういったメモをしっかりちゃんと持参してしっかりそういうふうな準備をされていたってことですね。ありがとうございます。

野嵜 それからあと、血液検査の結果とかってすごく紙でどんどん溜まっていくんですよ、紙の用紙がどんどん溜まっていって。これをただ後から見返すこともあるかなと思って、ちょっと整理したいなと思ってで、考えついたのが自宅のパソコンにスキャナーのプリンタを付けて全部データ化していったんですね。データ化して、もうその検査をした日付とかをタイトルに付けて時系列順にパソコンのファイルの中に全部入れちゃって、後から見返すようにしてペーパーレスにしちゃってみたいなことをしてました。

岸田 ちゃんとまとめられてもいたっていう感じなんですね。なかなかね、まとめるっていうところがなかなか僕とか苦手なんですけど。もうちゃんとペーパーレスでちゃんと見返せるようにもしたってことですね。

野嵜 今でもやってますね。だからもう10年ぐらいのデータの量が私のパソコンの中には入ってます。

岸田 すごい、そういうふうにね、整理をしていたってことですね。ありがとうございます。
それでは次こちらになります、変わったこと変わらなかったこと。まあがんになった後で何かこう、なる前と何かこう意識的なところでもいいですし行動的なところでもいいんですけれども、変わったことって何かございましたか?

野嵜 やっぱり意識で変わったことは、やっぱり健康第一だなっていうのは大きく変わったところですね。やっぱり今こうしてありがたいことに体調も安定してお仕事もできているという状態なんですけど、これを当たり前と思わずに、やっぱり健康ありきで仕事をするにしても何するにしてもやっぱり健康中心で考えていかないといけないなという意識を持つようになりました。なので、仕事をしていてもちょっとでも体調に不安がある時は無理をしないで、大事をとってちょっとその病院の方に行って検査をしてみたりとかっていうことも、優先順位が変わりましたね。罹患する前はちょっとぐらい体調悪くてもやっぱり仕事しなきゃいけないでしょうみたいなそういうタイプだったんですけど、やっぱりそこの考えは改めなきゃいけないなっていうふうに、もう180度変わりましたね。

岸田 健康が一番上になってってことですね、自分の優先に。ありがとうございます。
そして次こちら、今後の夢や目標、こちらですね、野嵜さんが今後どうされていくのかといったところですね。宣言に近いような感じで申し訳ないんですけれども(笑)、いただければと思っております。

野嵜 そうですね、こうしてまあ元気に今社会保険労務士として、社会保険労務士事務所に勤務をしている形にはなっているので、まあいずれは自分で独立をして自分の事務所を持ちたいなっていうのが夢でもあり目標でもあります。やはり自分も本当に多くの社労士さんであるとかキャリアコンサルタントさんに支えられて今日ここまでやってこれたっていうのもあるので、私も支えられる側から支える側に変わっていきたいなっていう気持ちも持ってずっとやってきてますので、やっぱりそういったがん患者さんの支援をできるような社労士っていうのを目指していきたいなと思っております。

岸田 いいですね、いや、その素敵な本当社労士さんにね、今後もなられて、もう既になっていると思いますけれどもね、よりね、こうなっていくんだろうなっていうところを期待しておりますのでぜひぜひよろしくお願いいたします。

野嵜 ありがとうございます。

「自分一人で抱え込まないでほしい」――闘病を支えた”相談する勇気”と、きっと見つかる支えてくれる人

岸田 そしてですね、ここからですね、メッセージを野嵜さんからいただきたいと思います。こちらになります。

野嵜 私が伝えたいメッセージは、誰かに相談することの大切さ。きっと支えてくれる人がいる、ということです。実際私自身がんになってから多くの方に支えられてきました。いろんな人たちに相談をしました。がんの相談支援センターの人たちであったりがんのピアサポーターであったりキャリアコンサルタントであったり、多くの方に相談をして、そしていろんな解決方法を教えてもらって自分自身で考えて今日ここまでやってくることができました。きっと皆さんも今いろんなことで悩んでいるかもしれませんが、周りにいる誰かを頼っていろんなことを相談してみてください。きっと支えてくれる、応援してくれる人がいると思います。私からは以上です!

岸田 野嵜さん、ありがとうございます。やっぱね、こういろんなところに頼る・相談するっていうの大事ですよね。

野嵜 はい、やっぱり大事ですね。自分一人で抱えててもなかなか答えを出せなかったりとか、結局自分自身が辛くなっちゃうんですよね。やっぱり誰かに話すことで自分の中で整理できるところもありますし、自分では気づかなかったことを教えてもらったりとかすることもできますし、やっぱり相談すると前向きに気持ちも変わっていきますのできっと何らか変わるきっかけになるんじゃないかなと思います。

岸田 ぜひ皆さんもがん相談支援センターでもいいですし、身の周りの近しい方でもいいですし、医療者・主治医でも看護師でも誰でもいいので、また皆さん頼ってもらえたら嬉しいなということを思います!それではこれにてですね、がんノート終了していきたいということを思います。野嵜さんどうでしたか?お話しされてみて、この1時間と少しお時間いただきましたけれども、いかがでしたでしょうか?

野嵜 どうですかね大丈夫かな(笑)やっぱり私のお話が誰かの役に立てばいいなという思いでお話をさせていただきました!やっぱり人それぞれ悩みはいっぱいあると思いますけど、やっぱり自分一人で抱え込まず誰かに相談してほしいなっていう、それだけですね!お伝えしたいのは!

岸田 ありがとうございます。それではこれにて、がんノート終了していきたいと思います。それでは皆さん、次の動画でお会いしましょう。それではバイバイ!

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