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インタビュアー:岸田 / ゲスト:入江

岸田 配信スタートということで、ライブ配信開始しました。がんノートorigin、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは入江真依ちゃんでございますので、いつも、真依さん、真依ちゃんと呼ばせてもらっているので、真依ちゃんと呼んでいきたいと思いますが。

岸田 まず、そんながんノートoriginは90分のインタビューウェブ配信にはなるのですが、僕の自己紹介をちょっとさせていただければと思っております。岸田徹と申しまして、僕、自分25歳と27歳のときに胚細胞腫瘍っていう珍しいがんに、首、胸、おなかや、あと、精巣にもなりまして、それを抗がん剤の治療だったり手術などでやっていきました。今は、経過観察中になっております。

岸田 当時、医療者さんたちに、がんの情報とか治療の情報は聞いたら答えてくれるんですけれど、それ以外の情報、親とどうコミュニケーション取ったのだったり、あと、お金どう工面したのだったり、恋愛、結婚、どうするのとか、プライベートなそういったところの情報ってあんまりなかったので、それを患者会などで先輩たちに聞いたら、結構、答えてくれるんですよね。

岸田 これ、自分のものにするのだけじゃなくて、みんなとシェア出来たらということを思って、がんノートというものでウェブ配信でみんなとシェア出来たらと思ってスタートをいたしました。今日は、MCを務めさせていただいて、真依ちゃんにいろんなことを聞いていきたいと思いますので、是非よろしくお願いいたします。

岸田 そんな真依ちゃんなんですけれど、真依ちゃんの自己紹介のスライドがこちらになります。簡単に、真依ちゃん、自己紹介していただいてもいいですか。

入江 入江真依と申します。今、29歳です。もともと京都出身で、今は、愛知県に住んでいます。職業は医療ソーシャルワーカーで、病院で勤務しています。私は、小学校6年生の時に急性リンパ性白血病の診断を受けて、約7カ月間の入院での抗がん剤治療と、その後、1年半の外来治療を経て、今は寛解状態で、長期フォローアップ外来に定期的に通院しています。よろしくお願いします。

岸田 お願いします。ちょうど昨日が誕生日だったということで。

入江 はい。

岸田 誕生日にピザを食べられてたんですか。

入江 そうです。

岸田 ピザの写真がSNSで上がっていたので。お誕生日の次の日、29歳になりたての真依ちゃんのお話。真依ちゃんは、実は、以前は高橋真依という形で、がんノートminiに出てくださっていて、お気付きのとおり、名字が変わっている、そういったところも含めて、今日、お話もいただればと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

入江 お願いします。

【発覚から告知まで】

岸田 ではですね、真依ちゃん、早速なんですけれど、がんの発覚から告知までについてお伺いしていきたいと思っております。発覚から告知まで、どのようにがんと分かっていったのか。まずは、小学6年生の頃のウキウキしてたところからお願い出来ますでしょうか。

入江 小学校6年生になって、修学旅行に行ったり、あとは、友達から誘ってもらってミュージカルのオーディションを受けたり、結構、外で活発に遊ぶ元気な小学生だったんですけれども。気付いた時には、頭と左耳の後ろ、頭のここなんですけど、ここと耳の後ろにできものが出来ていて。

入江 特に何にも、痛くも何とも無かったんですけど、気になるので近くの皮膚科を受診してみようかっていうことで受診したことがきっかけで、大きい病院でちゃんと検査してもらったほうが良いんじゃないかなっていうことで、大学病院のほうに紹介いただいて、そこで、一応、手術を局所麻酔でして、それで、病理検査に出したっていう感じです。

岸田 真依ちゃんは講演とか色んなことを発表してるから凄いすらっと言ったけれど、がんノートoriginではそっから一歩踏み込んでと思いますので、よろしくお願いします。2005年の、まず、4月からの話やねんけれど、修学旅行ということで。真依ちゃん、修学旅行って、どこに行った?

入江 伊勢、志摩に行きました。

岸田 伊勢、志摩か。この時、そっか、関西在住やもんな。

入江 はい。

岸田 だから、志摩に行って。スパーランドとかか。

入江 いや、伊勢神宮、鳥羽水族館です。

岸田 そっちね。結構しっかりしたほうに、しっかりしたほうにね。伊勢、志摩に行って、スパーランドは行かずって言うたところで。ミュージカルの。ミュージカルは、何かきっかけがあったん? 自分で出たいなってあったん?

入江 いや、幼なじみの友達がミュージカルに出てて、今度、そのオーディションがあるから一緒に受けるっていう感じで、一緒に軽い気持ちで受けました。

岸田 だから、友達と一緒に受けてっていう形で。どんな感じのオーディションやったの? 普通に?

入江 エキストラ兼みたいな感じの子ども達をたくさん募集してたので、どんなオーディションだったか、あんまり覚えてないんですけど、歌とかダンスとかやった記憶はあります。

岸田 それで・・・。

入江 そんな経験者でも無いので、言われるがままにやってたって感じです。

岸田 けど、もうこの時から、表現するというか、そういったところ、また後でも、色んなところで出てきますけれど、そういうのが好きやったっていうのもあるのかもしれないですね。

入江 そうですね。

岸田 そして、そんな中で、その翌月からか、頭と耳の後ろ。さっき、頭って、ここって言ってたけど、ここが、たんこぶのように腫れんの?

入江 そうです。ここに、ポコっと触ってたら、ポコっていうできものがあったのに気付いて、何だろうなっていうぐらいでした。

岸田 左耳の後ろにもなんかポコっとなっていて。

入江 そうです。

岸田 痛いとかはないの?

入江 何も痛みとかもなくて。ただ、触ってたら、あ、なんか気になるな、ぐらいでした。

岸田 気になるんだ、それぐらいか。じゃ、そんな悪いもんやということは思わずっていうことね。

入江 そうです。

岸田 、皮膚科に行ったと、できものが出来たっていうことで。その皮膚科、クリニックの皮膚科よね? 最初から大学じゃないもんね。

入江 近所の皮膚科です。

岸田 近所の皮膚科行って。ただ、そこから、大学病院紹介されるのは、取ってもらったほうが良いよって、大学病院のほうが良いよって言われたから?

入江 そうですね。特に悪いものじゃなさそうだけど、でも、例えば、手術するんだったら、もし大きくなっていったら傷口が大きくなるから、先に診てもらって、安心のためにじゃないですけど、行って診といてもらったらっていう感じで大学病院を紹介してもらいました。

岸田 安心のためも含めてね。大学病院に行ってといったところで、大学病院の皮膚科で診てもらいますと。そっから、その大学病院には、いや、やっぱ、取ったほうがいいねっていう形になったってことかな。

入江 そうですね。その日ちょうど、教授回診があって、午前中にも診てもらって、午後からその回診があるからそこでみんなに診てもらおうってなってて、診てもらって、みんなでここの頭のところのぞきこまれて。

岸田 みんなで診る感じね、回診でね。

入江 特に悪いものじゃなさそうだけど、一応、取りますかっていう感じで取る方向になった感じです。

岸田 取る方向になっていったと。じゃ、その後にもう、直ぐ手術して頭のところと耳の後ろも取っていった?

入江 そうです。

岸田 それは、1日、2日ぐらいで出来るような感じ? 手術は。

入江 局所麻酔なので、本当は入院してやる予定やったんですけど、入院も初めてで、最初、すごいワクワクしてたんですけど、実際に行ったら手術が怖くって、「もう手術しない」とか言い出して。

入江 ずっと半日ぐらい、皆さんに迷惑を掛けて、じゃ、もう全身麻酔に変えるかってなった時に、「今日、やります」って言って、4時ぐらいに、もう手術も終わりの時間なのに、そこからやっていただいた感じでした。その日は「帰ります」って言って家に帰りました。

岸田 ここにね、書かれているように、それで終わっていって、2005年6月、その翌月ぐらいかな、抜糸時の細胞診で。あれ、変わっちゃった。ありがとうございます。抜糸時の細胞診で急性リンパ性白血病の疑いがあると。そっから、やってみたら、病理検査で分かっていって感じなんや。

入江 そうです。1週間後に、ここの抜糸をするためにもう一回受診をして、そこで病理検査の結果が出てて、ちょうど。帰る時に、あ、出ましたっていう感じでお母さん呼び止められて、怪しいからこのまま小児科受診してくださいっていうことを言われて、そのままの流れで私はランドセルを持ったまま皮膚科から小児科に行った感じでした。

岸田 先ほど、すいません、翌月、細胞診って言ってましたけど、今、真依ちゃんが言ったように、翌週で、その当月、やってといったところで。そのままランドセル持って皮膚科から小児科へ移っていったということで。もう検査入院? そこから。

入江 そこで、その日にっていうわけではなかったんですけど、日を改めて検査入院でしてくださいって言われたので、その日は、多分、採血とかそれぐらいしかしてなくて、検査入院の時に骨髄検査とかをしました。

岸田 それらを全部やって、どれぐらいで白血病って分かってくん?

入江 6月の2日の日に手術をして、入院をしたのが6月の19。私の父の誕生日に手術をして父の日に入院したんですよ。

岸田 お父さん、いたたまれないな。

入江 なので、多分、その期間は10日ちょっとぐらい。その間に検査入院して、告知受けてっていう感じでした。

岸田 その時、当時、小学6年生やん。どうなん? バタバタしてんなぐらいで、自分の気持ちとしてはどうやった?

入江 検査入院をした時かな、あんまりはっきり覚えてないんですけど、なんで、こんな検査をしたり入院したり、普通じゃないなってのは分かってたと思うんですけど。でも、周りも頭がツルツルの子たちがたくさんいてっていう病棟なので、大丈夫かなみたいな心配はあった気がします。

岸田 白血病って、診断書かれてるやん、この時に。これは、当時、2005年の時は、真依ちゃんに告知されたってこと? それとも、ご両親だけは知ってるとか、どういう感じやった?

入江 最初、多分、両親が主治医の先生から話を聞いて、娘さんに言いますかみたいな。私の両親は、6年生だったら、例えば、だましだましで入院って多分出来ないから言ってくださいっていうことを主治医の先生に言ってくれて。私の両親もいて、主治医の先生とか看護師さんとか、みんな部屋に来てくれて、そこで、どういう病気でねとかっていう話で告知を私は受けました。

岸田 それで、自分で納得して治療していくというか、あ、白血病なんやっていう。当時の小学6年生の認識でどうなん? 結構、もう分かるもん?

入江 がんっていうものが身近にそんないない病気だったので、そもそもなんか、血液のがんでとか言われても、やっぱり、イメージが分からないんですけど。

入江 でも、そのがんによって、じゃ、抗がん剤っていう薬を使って髪の毛が抜けたりとか、気持ち悪くなったりするよということを、そっちを言われたので、そっちのほうが印象としては残ってて、そんな怖いことを今からするんだなっていう感じのそっちが心配。がんがっていうよりかは、副作用を聞いたときにすごい怖くなって、そっちで怖かったなっていうのは覚えてます。

岸田 副作用の話ばっかりするからね、医療者さんたちはね。こうなるよ、あなるよっていうね。それが怖かったなっていうことか。ありがとうございます。

岸田 コメントもいただいているので読んでいきたいと思います。ナツミさん、やまやんさん、豊田さんも、こんにちはといただいております。アオキさんも、かわいい方ですねっていうことだったり、よしさんも、今日も楽しみですと。「最初に受診した皮膚科のクリニックの先生の判断、良かったですね」って言われてます。今となっては良かったですよね、そこから。

入江 そう思います。

岸田 大学病院行かないと気付かなかったことでもありますもんね。

入江 多分、体調が悪くなって、何だろうっていうふうになってたんだろうなって思います。

岸田 発見を遅くなってたってことですよね。ヨシモトさんも、こんにちはということと、あと、ミカさん、おはようございます、来週、手術、2週間入院なので準備をしますということで、来週、手術をされる。見守っておりますので、遠くから。手術、しっかり受けてきていただければと思います。ありがとうございます。

【治療から現在まで】

岸田 そんな中で、次の項目として、真依さんに治療から現在までのことをお伺いしていきたいと思います。治療、どんなことをしていったのか、こんな形になってきています。現在まで。ありがとうございます。2005年6月、入院し抗がん剤治療の開始していくということですけれども。どんな抗がん剤やったとか覚えてます? 当時。

入江 当時は、今は、多分、白血病のプロトコルって、全国統一のやつを、皆さん、導入していると思うんですけど、当時は、私の入院した病院でされてた標準プロトコルみたいなものを受けていて。

入江 最初、寛解導入療法で薬をバーンとたくさん入れて、そこで白血病細胞がゼロになるかどうかで、そのまま強化療法で抗がん剤だけにするか、移植をするかっていう、ステージが分かれるみたいな、そういうざっくりとしたのは聞いていて。そこの最初の寛解導入療法っていうところでたくさん抗がん剤を入れて、結構、骨髄を叩くんですけど。それは、どんな薬を使ったかというのは、正直、その当時は知らなくて、今、私の母がプロトコルを全部置いてくれてるので

岸田 へーー、すご。

入江 それを見て、あ、この名前の薬を使ったんだとか、そういうのは分かるんですけど、何色の薬が入ったら足が痺れるとか、そんな感じで当時は思ってやってました。

岸田 そういう時に何色って来たら、大体、赤色がイメージされるんですけど、合ってます?

入江 赤とか黄色とか、この色の薬が入って大丈夫なんだろうかみたいな色の抗がん剤たくさんありました。

岸田 黄色とかもあるのね、抗がん剤で。凄い。そういった時に、こうなるからこういう対処しようみたいな、ご両親はそういうところでやってらっしゃったんですね。印象に残ってる抗がん剤とかある? これ、つらかったなとか、これ、大変やったなとか。

入江 私は、抗がん剤っていうか、ステロイドなんですけど、二つのクールを交互にやっていくっていう治療だったので、1個はステロイドを沢山使う治療法だったので、その時、凄い顔が丸くなって気分も凄いハイになって、朝7時ぐらいからラジオ体操しに行ったり、凄い活動的になるというか。食事の好みも、濃いものばっかり食べたくなるとか。ステロイドで顔が凄く丸くなったり、それが凄いつらかったなって思いました。

岸田 よくありますね、ムーンフェイスって言われて、顔がぷっくら丸くなったりしてね。抗がん剤やってステロイドやって、抗がん剤やってステロイドやってみたいな感じ? それとも・・・。

入江 多分、その抗がん剤の中に・・・。

岸田 中にあるって感じなんや。

入江 その中にステロイドを使っているって感じです。

岸田 ありがとうございます。そういった治療をして。ちなみに、最終的に、どれぐらいやんの? 数カ月レベル? 数年レベル?

入江 小学校6年生の6月から、結局、6年生の1月ぐらいまで、何だかんだやってました、入院では。その後、外来で量を減らしながら維持療法っていうのをずっとやっていくので、最後は中学2年生の秋まで。

岸田 うおー、やってたのね。数年レベルや。その後、2005年9月、12歳の誕生日を病室で迎えて看護師になりたいと思う出来事、これについて伺えますか。

入江 私の当時入院していた病棟のプライマリーの担当の看護師さんがメッセージ付きのフォトブックを作ってくださって、病棟の看護師さんとか主治医の先生とかみんなの写真とメッセージを集めたものを1個のブックにしてくださったんですけど。それを持ってハッピーバースデーの歌を歌って、先生とか看護師さんがみんな誕生日の日の朝、教室に来てくれて。

入江 それを見た時に、看護師さんの忙しさを肌で感じてるからこそ、こういう子どもたちが喜ぶことっていうのをやってくださるのって凄いなって思って。

入江 看護師さんって凄い仕事だなとは思ってたけれど、このメッセージのブックを見た時に、その子が喜ぶことを考えてケアをするお仕事って凄く素敵だなっていうふうに思って、私もいつか、やってもらったような、子どもたちが喜ぶようなことが出来る看護師になりたいなって思いました。

岸田 看護師さん、忙しいもんね。看護師さんに限らず、医療従事者の方たちね。そんな中、自分の時間を使ってフォトブック作ってくれて。朝一でハッピーバースデー歌って入って来てくれるとか、めっちゃいい病棟やね。普通やったら、うるさいわみたい感じになる

入江 凄い嬉しかったです。

岸田 そら、なりたいとはなるよね、将来の夢はね。

岸田 そして、その後、2006年の3月に地元の小学校の卒業式に出席。これは、退院、そうか、して、通院治療の時に卒業式には出席出来たってこと?

入江 そうです。小学生なので、義務教育だから地元の小学校から、養護学校の分校が病院の中に院内学級としてあるんですけど、そこに、一応、養護学校に転校をするんですけど、転校してそっちで勉強してて。退院したら、元の小学校にまた転校っていう形で戻って、卒業式にみんなと出たいっていう目標があったので、無事出れた感じです。

岸田 そういうことね。院内学級って、一回転校しないといけないのね、システムとしてね。もう一回戻ってきて、地元のみんなと卒業出来たというたところになります。コメントでも、さっきの看護師さんのところ、素晴らしい看護師さんですねっていうコメントもいただいております。

岸田 その後、どうなっていくかと申し上げますと、真依ちゃんは、2007年9月、そこから、さっき言った中学校2年生のところまで通院治療していくと。学校でパーティーを開いてもらうとあるんですけれども。通院治療まで結構、中2まで全部ちゃんと出来た? ちゃんと出来たっていうか、飛ばしたりっていう、体調も含めてあったりすると思うねんけれど、どうでした? そこら辺。

入江 一応、風邪ひいたりイベントが起こってしまうと治療を中断しないといけなくなるので、取りあえず、風邪をひかないようにとか、感染症にかからないようにっていうのを私の家族も学校側も気を付けてくださって。でも、みんなとちょっとでも同じことが出来るようにっていうことも凄い配慮していただいて、無事に、特に、少し遅れてでも、中断しないといけないことにはならずに無事に治療が受けられました。

岸田 風邪引かへんとか感染症ならへんとか、そういったところには注意してってことよね。

入江 はい。

岸田 この時さ、学校のプールとかって入れんの?

入江 学校のプールは駄目でした。

岸田 やっぱ、あかんねや。

入江 なので、マスクして、体育とか見学してって感じでした。

岸田 そっか。また後で、学校のことでもお伺いしたいと思います。やっぱ、体育とか無理ってことよね。

岸田 そして、ようやく、中学校2年生の時に通院治療していくと。その後、学校でパーティーを開いてもらうってあんねんけれど、これはどういうこと? 学校でパーティー?

入江 学校で、最後の薬を入れ終わった日に、私はいつも通院治療を受けながら中学に通ってたので、朝、病院に行って、ここに点滴の針を入れてもらって、抗がん剤入れて、また夕方にも病院に戻って薬を入れてっていうこともしてたので、その間の時間だけ学校に行ったりっていうのもしてて。朝、病院が終わって学校に行った時に、友達がそわそわしてるなと思ったら、教室を飾り付けしてくれてて。担任の先生が、手作りのゼリーみたいな、簡単に出来るっていう。

岸田 手作りのゼリー?

入江 男の先生なんですけど、そういうのもクラスのみんな分作ってきて。その時に、確か、お花と筆箱とか、みんなから、治療、よく頑張ったねってお祝いしてもらって。あとは、みんなが合唱コンクールで練習してる歌を歌ってくれてっていう感じで、盛大にパーティーを開いてもらいました。その時の映像も撮って、担任の先生が残してくれて、今も実家にあります。

岸田 凄い。それは、今まで、治療頑張ったねみたいな感じで。

入江 そうです。

岸田 すげえな。手作りのゼリーに、俺はちょっと衝撃をうけ。パーティーを開いてもらって、そういう仲間たちというか、友達とか担任の先生とか、恵まれてますね。コメントでも、良い先生とクラスメイトですねっていただいてますし、さっきの病棟の看護師さんの皆さんの思いやりも素晴らしいといただいてます。

岸田 通院治療中、先生や友達はどのように接してくれたんですかっていうふうなありますけれど、どうでした? 友達や先生たちの接し方について、コミュニケーションというか。

入江 私が病気だっていうことも、地元の小学校からそのまま地元の中学に行ったので、半分ぐらいはそのままみんな上がって来てるから、私の病気のことも知ってくれていて。

入江 クラスの子も、みんな、それぞれの理解はあると思うんですけど、みんな、担任の先生から聞いて知ってくれてたので、私が2時間だけ学校に行くとかそういうのをしてても、教室入ったら「おはよう」って言ってくれたり、あとは、カバンとかもリュックとか、重いと持つよって持ってくれたり。気にかけてくれるけど、でも、普通に接してくれるじゃないですけど、遊びに誘ってくれたり、そこは本当に、みんなの対応が凄い大人だったなって思います。

岸田 みんなの対応がね、素敵。周りにも恵まれ、そんな治療を終えていって、2008年9月、晩期合併症の、これ、読み方教えてください。

入江 特発性大腿骨頭壊死症です。

岸田 すごいな。漫画のアニメのキャラクターの必殺技レベルの感じですけれども。これ、どういうことですか。

入江 この病気は、一応、治療で使ったステロイドが原因で、両方の股関節の骨頭って丸くなってて、こうやって動いて足が開いたりっていう構造らしいんですけど。

入江 この骨頭の丸いところが3分の2ぐらいが潰れちゃってて壊死しているので、いびつになりながら動かしてるから、こっちの軟骨が擦り減っていくと痛みが出るので、人工の関節と本当は取り換えないといけないっていうような病気です。治療法は特に今のところな無いっていう。

岸田 だから、大腿骨のところ、そこを人工関節せなあかんっていう感じになってくるのね。

入江 痛みが出ると代えないといけないっていう感じです。

岸田 人工関節にしたの?

入江 結局、今、入れてしまうと、やっぱり、耐久性の問題で、20年とか25年とか言われてるんですけど、例えば、入れる年齢が高齢の方とかだとそんなに激しく動かないけど、若い時に入れちゃうと、使えば使うほど早く悪くもなるから、20年とか25年がもたないこともあるから、取りあえず、保存療法で痛みが出ないようにっていうので。

入江 最初は、かなり安静に、全部運動制限とかかけながら、レントゲンとかでつぶれが進ん出来てないかっていうのは診てもらってたんですけど、今は、リハビリと出会ってからは、逆に、運動して筋肉を付けましょうっていう、血流を良くしましょうっていう感じの治療といいますか、対処療法みたいなん教えていただいて、そこからは痛みも本当になく、人工関節入れることもなく生活出来てます。

岸田 へーー、時代が変わってくるとね。今まで、動いたらあかんよ、やったけれど、逆に、動いて血流を良くしたほうが良いよっていう形になって、今、そういう対処をされているってことね。ゆくゆくはまた、しないといけない時は来るんかな? 今のところ、大丈夫そう?

入江 経過を診てみないと分からないと言われたんですけど、でも、入れないといけないかもしれないって感じです。

岸田 ありがとうございます。

岸田 そして、その後の、今に至るまでは、自転車で転倒していくと。それで、顎と骨を、骨折し緊急搬送。そして、バセドウ病と診断。どういうこと? これ。関わってんの? どうなの?

入江 これがまたまたまなんですけど、ちょうど高校3年生の6月ぐらいに、私の母が、私の目が突出してるから、バセドウなんじゃないかっていうことを言って。私はそんなに気にならなかったんですけど、でも、確かに、ずっと喉が乾くっていうのはあって。

入江 しんどいとかは無かったんですけど、小児科の先生に相談をしたら、じゃ、甲状腺の検査しとくかみたいな感じになって、それを検査、オーダー入れてもらってた。そのちょうど直前に、高校でバーベキューに課外学習行った時に、その帰り道に自転車でこけて、自転車で1回転してたんですけど。そこで、顎と、あと、腕の骨折をして、そのまま、いつもお世話になってる大学病院に救急搬送されて。

入江 たまたま、その検査を入れてもらってた日が翌日とかだったので、この状態で行ったら、先生が、エッ!ていう感じでびっくりして。採血の結果でもバセドウ病っていうのが分かって。本当は、顎とかも外れた状態というか、骨折していると手術をして固定しないといけないんですけど、バセドウ病で甲状腺の値が高いと全身麻酔をかけての手術が危険だっていうことで、局所麻酔で出来る範囲の手術をしましょうっていう感じになってっていう感じでした。

岸田 情報量が多過ぎてちょと、ちょっと待って。まず、自転車で1回転したところからやばいなと思うねんけど。どんだけスピード出してたの? それほんと。

入江 坂道だったんですよ。その日、課外学習でバーベキューした時にシャボン玉をしてて、みんなで、多分、靴の後ろがツルツルになってたんですよ。それのまま、自転車に乗ってて、ペタルからツルっと足が滑って前輪に挟まって。

岸田 わーー、それは骨折するわ。それで、病院に行っていろいろ検査をしたら、血液の値でっていったっけ、バセドウって。

入江 そうです。

岸田 ていうのが分かっていってっていうことか。

入江 でも、それは全く別だったというか、たまたま検査のオーダーを入れてもらってた時の直前にこけてたので。この入院している間に検査を受けたら、結局、バセドウ病だったっていう感じなんですよ。

岸田 たまたま前日に入院して、その翌日に検査を受けて、たまたまバセドウ病って分かって、じゃ、手術っていうか、治療どうするのかっていうとこなってくるってことね。

入江 そうです。

岸田 治療としては、最終的には、局所麻酔で?

入江 局所麻酔で顎関固定術っていうのをやってもらって、この歯茎のところにワイヤーを通して、上下ワイヤーを入れてゴムで固定して、口を開かないようにして、ここの治癒を待つみたいな感じ。

岸田 そんなんあるんや。それをしつつ、バセドウ病と診断されたか、そっちの治療もしなあかんやろ?

入江 そうです。薬を、一応、飲まないといけないっていうふうになってっていう感じでしたよ。

岸田 薬を飲んでという形でと。そっから、コメントでもいただいております。すいません。さっきのクラスメイトの話は、素敵なサプライズが待っていましたねっていうことだったり、芸能人の坂口憲二、千原ジュニアっていうのは、これは壊死症のやつか、大腿骨の。

岸田 あと、1回転、痛そうですとかっていったところと、先生が、バセドウ病の検査の時、治療どうしようと思われたんでしょうねっていう、えっていう表情が目に浮かびますっていうところで。そうよね、先生としても、全然、そう思ってなかったって感じやもんね。

入江 そうです。だから、たまたま同じ病院で、大学病院だから色んな科の先生がいてくださったので、みんなでどうしようって考えてくださって。でも、ここも、ほっといたら、ずれたまま固まっちゃうと、今後、将来に影響が及ぼすからっていうので、口腔外科の先生と内分泌の先生と小児科の先生とが、みんなで相談してくれた感じでした。

岸田 そういう意味でも、大学病院で良かったね、いろんな科があって。

岸田 そして、その後、2011年の1月に赤十字社のPR活動だったり、映画四つの空 いのちにありがとうに出演したり講演の活動を開始されていくということですけれども。この時から、さっきの、自分でやっていく、表現していくというか、そういったところっていうのをやり始めたのは2011年1月?

入江 そうですね。日本赤十字のイベントとかに出させてもらうきっかけが、大学に献血バスが来たことなんですけど。献血バスが来て、友達が献血しに行こうって誘ってくれたんですけど、私は輸血したことがあるので献血が出来なくて。

入江 でも、一緒に行こうと思って献血バスついて行って、友達が献血してる間、私はバスのおじさんと、私、輸血したことあるんですよねとかってしゃべってたら、えってなって。じゃ、ありがとうメッセージみたいなの、そういうの書いてくれないって言われて、書いたことがきっかけで、献血の啓発のイベント一緒に行かないとか声掛けてもらって、日赤の方と一緒に活動したり。

入江 そのご縁とかもあって、いろいろ大学とか学校とかからそういうがんの教育とか命のこととかのお話をしに来てっていうふうに声掛けてもらったり。映画も、声掛けていただいて家族で出演しました。

岸田 そうなんやね。その時のおっちゃんと話さなかったら、こういう感じにはなってなかったってことか。

入江 そうですね、そうかもしれないです。

岸田 大学に来たその献血の車に一緒に行ったっていうのがそのきっかけやったんですね。そして、その後、こういう形になっていきます。2012年1月、京都、新洗組と出会い。これは、新洗組って、漢字が違いますけれど、大丈夫なやつですよね。

入江 お掃除の清掃ボランティアの団体で。

岸田 そういう意味の新洗組ね。

入江 映画の上映会を京都でやるってなった時にスタッフをしてくださった方たちがここの、お掃除の会の方たちで。最初は、企画してくださってありがとうございましたっていう感じでお礼も兼ねて行ったんですけど、学生が、一応、主体だけど、ご高齢の方も、たくさん、いろんな世代の方が来ている団体で、その魅力にはまり。もう、そこに、ずっと大学生活ほとんど、みんなと一緒に過ごしたっていう思い出のボランティア団体です。

岸田 出会って。その後、全摘の手術を受けた。それ、バセドウの関係で?

入江 そうです。甲状腺の、ずっとお薬飲んでたんですけど。でも、大学2年生で成人式がちょうどあった時だったんですけど、大学3年生から看護学科の実習とかも始まるし、ずっとお茶を持ちながら実習するっていうのも不可能だし、足が悪い以外のことは同級生と足並みを揃えたくて、この時期に成人式も終わったし、春休みに手術を受けようと思って受けました。

岸田 手術を受けたらどう? どうなった? 体調とかいろんなところは。

入江 体調は、そもそも、すごい悪くて分かったわけじゃなかったので、わー、楽になったとかはそんなないんですけど。でも、今、飲んでる薬がホルモンを補充するほうの薬なので、まだ副作用はそっちのほうが少ないって言われて。一応、ここ取ってるんですけど。

岸田 分からへんな。

入江 分かんないぐらいにきれいにしていただいたので。結果的には、長い目で見ると、取って良かったのかなとは思います。

岸田 ありがとうございます。そして、2014年の4月、念願の看護師にということで、看護師になりたかったところから勉強し看護師になったというたところ。なった時は、よし、なれたぞみたいな感じでね。

入江 そうですね。もう、やっとって。10年後にやっと夢がかなったって思いました。

岸田 夢をかなえた真依ちゃんも素晴らしいねんけれど、その下の文字が気になり過ぎて。2014年10月、「看護師を辞めたほうがいい」と言われるということで。これは、誰にどういうふうに、どんなことで言われた感じなんやろ。

入江 みんなと病棟配属でずっと働いてたんですけど。でも、私は足が悪かったので、当時はまだ、リハビリとかじゃなくても安静にしてましょうっていう感じの方針でいたので、体育も全部、中学校、結局、治療中も見学して、中学2年生の秋に終わったけど、中学3年生の時に足が悪いのが分かったから、結局、ずっと体育やってないみたいな感じだったので体力も基本ないし。

入江 家族とかも、なるべく私が楽に過ごせるようにっていうので送り迎えしてくれたりって、凄い協力してくれたので、周りの同級生と比べると、基本的に体力が無くて。でも、同じように患者さんにケアをしてて、看護師業務は楽しかったんですけど、身体にはすごい負担がかかってて。

入江 そんなこんなの時に、階段から落ちて靱帯を損傷したんですけど。松葉づえをついたら生活出来るけど、私は両方の股関節が悪いから「松葉づえをついたらいけない」って言われて。

岸田 そんなんあんの?

入江 負担がかかるから、片方に。だから、それは「止めてください」って言われたから、「自宅で安静にしててください」って言われたんですけど。でも、結局、なかなか、忙しい現場だし、ずっとお休みするのは難しくて、ちょこちょこ出勤はしてたんですけど。でも、やっぱり、みんなと同じように、なかなか、いつから夜勤出来るとかっていうことを言われると、あ、これ続けてって、また同じことになって自分がつぶれたらどうしようっていうのはちょっと思ってたんですけど。

入江 その時に、当時の病棟の師長さんとか先輩たちとかからは、もともと、そういう病気があるんだったら看護師って大変じゃないみたいなことを言われて、もっと他にも仕事あるから看護師は諦めたほうがいいんじゃないっていうことを言われたんです。

岸田 どうやった? その時、念願の看護師になれて、ただ、看護師がそういう状況からっていうふうなとこなったら。

入江 なんか、やっぱり、看護師って、色んな看護師さんがいてもいいんじゃないかなって私は個人的には思ってたんですけど。でも、実際、現場は、患者さんの命がかかっててすごい忙しい現場で、みんなと同じことが出来ないと1としてみなされないっていう現実はあって。

入江 そこで、看護師さんなりたいって、最初、6年生で思った時にみんなに言ったら、看護師さんとか先生たちもみんな、「良い看護師さんなれるよ」って言ってくれてたんですけど、気持ちが分かるしって。実際、なったら、あ、みんなそういうふうに思うんだと思って、じゃ、なんで、あんなこと言ったんだろうって、こうなるの分かってたかもしれんよねって、当時、何かちょっと、人間不信になりました。

岸田 なるわ、それは。そういうの、ちゃんと、現実も伝えて欲しいよね、分からんけど。それでも、ちゃんと有言実行する真衣ちゃんが凄いねんけれど、そっからね。人間不死は、今は、治ってんの? 大丈夫?

入江 治りました。

岸田 良かった。そんな形で「辞めたほうがいい」と言われるといったことがありました。

岸田 そして、その次のスライドがこちらになります。そっから、社会福祉士の勉強開始してAYAの会の中心メンバー、AYAっていう若年世代の、がん患者さんの世代の中心メンバーとして活動。そっから、看護師を。けど、その後、手術部へ移動って書いてある。看護師を辞めずに社会福祉士の勉強開始したってこと?

入江 そうです。私は、勤務してた病院で看護師として働いたんですけど。そこの2年目のときに、「看護師辞めたほうがいいんじゃないかな」って言われて、どうしようかなって思ってた時に、そこの大学病院には小児がんの相談員さんっていう方がいらっしゃって、ずっと私の話を毎日聞いてくださって。

入江 頑張ってるね、頑張ってるねっていつも褒めてくれて、私も、いろいろ、自分で話してるうちに、じゃ、自分は何がしたいんかなっていうことも客観的にいろいろ考えられるようになって。

入江 病気の子どもたちとかAYA世代のみんなの役に立ちたいっていうところの夢をかなえるんだったら、看護師っていうのは1個の手段であって、別に他の手段でもその夢ってかなえられるんじゃないかなって、その相談者さんと話してて思って。その方の存在がすごい、私は大きくて。その方に、私もこういうことを出来るようになりたいんですけどって言って、病気を、寛解ではあるけれど、色々を悩みながら生活している子たちの役に立ちたいなと思って。

入江 なんの資格取ったらこの仕事できますかって聞いたら、社会福祉士の資格持ってるよって教えていただいて、じゃ、それを取得しようと思って、働いている時、2年目の秋に通信で社会福祉士の学校に入学して、働きながら通信でレポートとか出してっていう感じでした。

岸田 凄い、働きながらね。大変な職場やのに、それにプラス、自分でも勉強してといったところ。

岸田 そして、その後、手術部へ異動っていったところで、異動は、これは、させてもらったって感じ? 普通に部署の異動って感じか。

入江 病棟勤務が大変なんじゃないかなって、患者さんの介助とかもいろいろあるから大変なんじゃないかなって言われて。手術部だったら、例えば、外回りでちょこちょこ動くけど、座って記録書いたり、色んな術前の問診取ったり、色々あるから、手術部で出来る手術につかせていただいて、仕事をしたらどうっていうことを、一応、提案いただいて。

入江 でも、私は、最初は、病棟の看護師さんで患者さんのベッドサイドで話を聞いてっていう看護師さんにすごい憧れてたので、手術部に行ったらみんな麻酔で寝てて、全身状態を管理するっていうタイプの違う看護師だったので、最初、それに戸惑いはあったというか、こういうことをするために看護師になったのかなとか思ったりはしてしまったんですけど。

入江 でも、働いてる中で、局所麻酔の患者さん、私が頭の手術した時にお世話になった手術室とかだったので、局所麻酔の患者さんもたくさんいて。その時に、ちょっとお話したり。私にとっては毎日あるいろんな手術だけど、患者さんにとって一大イベントだから、そこを大切に出来るように関われたらいいなと思って、そこからは凄い楽しくて、手術部で約1年間お世話になりました。

岸田 そういう自分の考え方を切り替えたりして、それでやっていくっていうのは素晴らしいなと思います。

岸田 そんな中で、2018年8月、彼氏とけんかをしていく。これは、また後での、恋愛、結婚のとこで色々聞いていきたいと思います。めっちゃ気になるんでね。そして、その次のスライドがこちらになります。

岸田 社会福祉士の試験に合格、おめでとうございます。そして、名古屋へということですけれども。これは、当時、関西から名古屋に行ったってことね、社会福祉士合格して。そこで、病院で勤めたってこと?

入江 そうです。名古屋でAYA世代のことを取り組んでらっしゃる病院っていうのは聞いてて、そこの先生に会いたいなと思って、名古屋に、なんの、別に、知り合いがいるわけでも、ゆかりがあるわけでもないけど、ポーンと来たっていう感じです。

岸田 行動力が半端ない。そこで、社会福祉士として働いたのね。

入江 はい。

岸田 そして、2020年4月にインスタで闘病アカウントを開設し、ご結婚されていくということですけど。インスタで開設したのはなんか理由があるの?

入江 もともと講演活動をずっと地道にやってたんですけど。でも、全部、コロナの影響で対面での講演活動っていうのが無くなって。自分が出来ることないかなって思った時に、私は入院してた時に、岸田さんも、多分、いろんな生の声を聞いてっておっしゃってたと思うんですけど、私も、入院してて外来治療とかしてる中で、やっぱり、周りの友達、本当の元気な友達とかには言えないようなこととか、あとは、こういう時、どうしたらいいんだろうとか思ってても、なかなか、聞けないこととかっていうのがあって。

入江 髪の毛が無い時に、看護師さんに、治療終わったら生えるから大丈夫とか言われても、いや、こんなツルツルで本当生えますかとか、凄い気になってて。

入江 その時に、治療中の方の闘病記とか、ブログとかであったんですけど、治療が終わった方のその後の生活が分かるようなものってなかったなっていうのを、その時、思って。もし、それがあれば、あ、もしかしたら自分も将来こうなれるかもしれないっていうふうに思えることで自分のビジョンが描けたら良いなっていうのを自分の経験から思って。

入江 帽子取るときはこんなふうに取ったよとか学校生活はこんなふうに過ごしてたよとか、今まで、講演活動でしゃべってたことを、私、写真撮るのが好きなので、自分で撮った写真とその話してたことを投稿するっていうアカウントを開設しました。

岸田 そのアカウントは、何て検索したら出てくるんすか。

入江 なんだったかな。

岸田 怖い。じゃ、終わるまでに、ちょっと。もし、今、分かればですけど、大丈夫?

入江 ちょっと待ってくださいね。

岸田 いいですよ、全然。今、その間にコメント読ませていただきます。仕事に行くと同じ動きをしたくなるし、でも、現場はきついし葛藤がありますよね、私も同じ経験がありますと、お仕事の経験のこと。

岸田 そして、看護師として働きながら勉強頑張られたんですねと、考え方が素晴らしいと、自分の手術を大切にしていただいた皆さんに感謝していますということだったり、社会福祉士の合格率、すごく厳しいんですよね、働きながらの合格、凄いですといただいて。

入江 ありがとうございます。アカウント名、アルファベットでtmai.93って検索してもらうと出て来ます。

岸田 アルファベットで、tmai90・・・。

入江 .93です。

岸田 .93。ありがとうございます。また、皆さん、見ていただけたらと思います。その後、結婚っていったところは、また、恋愛、結婚のところでお伺いしていきたいと思います。

岸田 そして、真依ちゃんに写真を色々いただいているので、闘病前、闘病中、闘病後の写真。まず、闘病前の写真がこちらになります。どん。これは、まず、左側は、ご家族?

入江 そうです。あと、四つ上の姉はいるんですけど、これが小学校で撮ってもらった写真で、入院する前、最後に撮った写真なんですけど、卒業アルバムの写真を入院する前に撮っとこうって言ってくれて、その時に、行って、半袖と長袖と持ってって撮ってもらった時に、横、担任の先生も写ってるんですけど、一緒に、最後、撮ってもらった写真です。

岸田 横に担任の先生いるけど、カットしてるってことね。

入江 そうです。

岸田 了解。OKです。ありがとうございます。そして、右の写真は、体育祭の写真ってことよね。

入江 幼稚園なんですけど。

岸田 全然ちゃうやん。

入江 ちっちゃい時の、本当に元気な時の写真です。

岸田 ありがとうございます。そして、闘病中の写真はこちらになります。ありがとうございます。これ、さっき言ってた、ムーフェイスってやつ?

入江 そうです。お顔がまん丸になって、眉毛とか、まつ毛とかも抜けてっていう感じ。なので、本当に顔が全然違うというか。

岸田 全然ちゃうね、さっきの顔とね。これが治療中。千羽鶴ももらったのね、学校の友達から?

入江 学校とか、あとは、皮膚科でその手術をしてもらって、そこで小児がんで分かったことも、多分、かなりレアなケースだったので、皮膚科の先生とか看護師さんとかも作ってくれたり、色んなところからたくさんいただきました。

岸田 いいね、本当、周りの人たちに生まれてね。いや、いい、すてき。

岸田 そして、治療後、こんな感じになっております。これ、早く聞きたいな。治療後、今、写真が趣味ということで写真をいっぱい撮られて、すてきな写真やな。これ、ご結婚のときの写真ですよね。

入江 そうです。結婚式の時の写真です

岸田 だったり、あとは、お花の写真も凄くすてきな写真ですね。今、色んな所にも行かれてという感じかな。

入江 そうですね。

岸田 ありがとうございます。早く聞きたくてウズウズしてるのですが。ここから、各項目に分かれていろいろお話を聞いていきたいと思います。

【家族】

岸田 まずは、家族のことといったところで、ご家族のところ。ご両親のサポートだったり、兄弟のサポート、どうでしたかっていうふうなこと、こうして欲しかったとか、そういったものってどうでしょう、ありますか。

入江 良くしてもらい過ぎたなって思うぐらい家族にはよくしてもらって、入院中も24時間付き添いがあったので、母が、最初、付き添ってくれて、その後、父も付き添ってくれて、姉も高校1年生だったんですけど、部活入らずに、毎日、学校終わったら自転車で来てくれてっていう感じだったので。闘病中もだし、退院してからも私の手足となって動いてくれるような家族で、本当に感謝してます。

岸田 本当に家族は、もう全て。姉ちゃんもサポートしてくれた?

入江 はい。それまでは、結構、けんかとかもしてたんですけど、この時に、妹が死んじゃうかもしれないって思ったみたいで、そこから凄く仲良くなりました。

岸田 げんきんなお姉さんですね。嘘です。冗談。凄く素晴らしいお姉さん。そうやって命の大切さが分かってくると、また接し方が変わりますもんね。

【学校】

岸田 そして、その後、学校のことについてもお伺いしたいんですけれども。学校、さっき、院内学級の話とかも出て来たと思うんですけれど、どのように学校生活をやっていったのか。友達とか先生のコミュニケーション、さっきお伺いしたので、その後、学校の生活っていうところ、どういったこと気を付けてたよとかあれば教えてもらえたらなと思うのですが、どうでしょう。

入江 院内学級に転校して、そこのお部屋に通うっていう感じだったんですけど、私が学校に行く目的が友達に会うためだったので、そもそも。勉強がすごい嫌いで、もともと。だから、院内学級に行くメリットが自分は無いと思って、ずっと登校拒否をしたりしてたんですけど。

入江 でも、やっぱり、卒業文集、元々いた小学校からこれ書いてねって持って来てもらったり、ちょっとでも、戻ったときに困らないように元の学校がプリントを持ってきてくれたりして、そういう最低限のことはやらないといけないなって思いながら葛藤して、葛藤しながら小学校生活を過ごしてました、院内学級の。

岸田 院内学級、どうなん? 小児病棟の子たちが通う感じやんか。

入江 同い年ぐらいの子がいなくって、低学年と高学年と分かれてたんですけど、高学年も1人で、先生とマンツーマンで、これは学校というんだろうかって思ってて。多分、入院する時期とかタイミングにもよると思うんですけど、私の時は、みんな、結構ちっちゃい子たちばっかりだったので友達がいなくて、それが、学校に行かないといけないけど行きたくないなって思ってた原因でした。

岸田 先生とマンツーマンって、なかなかのタフさが必要になってくるでしょ。それで、最終的には、卒業式も地元の小学校でできたといったことですけれども。

岸田 その後、体育はやらないようにだったり、いろんなことに気を付けてたと思うんですけど、他になんか気を付けてたこととかってありますか。

入江 他は、私の中学、小学校もそうなんですけど、多分、環境的には恵まれてたというか、宿泊学習に行く時とかも、主治医の先生の所に、校長先生とか学年主任の先生、担任の先生、養護教諭の先生、みんなが、真依ちゃんを連れて行くのに何を気を付けたらいいですかってのを聞きに行ってくれて。

入江 小学校戻る時も、主治医の先生が、小児がんってどんな病気っていう話をしに来てくれて。なので、そこが凄く、家族が入らなくても連携してやってくださってたのでで。

入江 そこで、例えば、バイキングでみんなが取るようなご飯は感染の問題があるからちょっと難しいねってなったら、学校側が宿泊先と交渉してくれて、先に全部取ってラップをかけて置いとこうかとか、いろいろ手配をしてくださったり。本人が行きたいって言うんだったら全部一緒に連れていきますっていうふうに言ってくださったので、そのために、学校側として何が出来るかっていうのも病院に聞きに行ってくれたり、先生たちが考えてくださって。

入江 冬とかだと、風邪が流行ったりインフルエンザがはやる時に、私がワクチンが打てないので、保健室に行くと体調が悪い子がいるから行けない、でも、学校には行きたいってなったら、じゃ、図書室開放してそこで勉強しようかとか。中学2年生の秋まで学校行けなかったりっていう時も多かったので、補習をやってくださったり、本当に学校には凄い恵まれたなって思います。

岸田 学校、すげえな、本当に。そこまでやってくれるって、すてきな学校さんだなと思います。学校によってカラーが違いますからね。真依ちゃんの時は、すごい良い学校だったんだなと思います。ありがとうございます。

【恋愛・結婚】

岸田 そして、その後、恋愛、結婚、もう、これは聞きたくて仕方なかった。けれども。恋愛、結婚とありますけれども。すごく気になってたのは、さっきの年表でも、彼氏とけんかしてみたいなところがあったと思うんですけれど、これ、病気が原因でっていったことはあったかと思うんですが、詳しく伺ってもいいですか。

入江 もともと私は病気を隠して付き合うつもりとかもなかったので言ってたんですよ、自分はこういう病気だったとかっていう話をしてた上で、一応、お付き合いをしてたんですけど。でも、やっぱり、どうしても、小児がんとか病気があるっていうのは偏見を持たれる方も少なくはないと思うので。

入江 その方は特に大丈夫かなと思ってたけど、ご両親がその辺りが凄く心配というか、あんま賛成ではなくて。なんで、たくさんいる中でそんな病気の子が良いのみたいな感じだったみたいで。

入江 でも、私は、自分が病気だから、今、こんなに大丈夫だよとかって言っても、将来、病気があったことで起こる晩期合併症とかの保証は出来ないというか。みんな、元気な人でもいつ何があるか分からないと思うんですけど、ただ、それよりも、リスクを負ってる子を選ぶっていうことが、なかなか、そこを両親とかはなんでっていう感じだったみたいで。

入江 それを言われた時に、彼氏から、それ言われてもっていう感じやったんですけど。でも、やっぱり、自分は、その時は、なんで、そんなふうに思うんだろうってすごく思ってたんですけど。

入江 じゃ、逆の立場になった時に、私が、すごい病気の方で、自分はすっごい元気で、それ関係なくお付き合い出来るかっていわれたら、今だったら、自分がこうやって病気を経験して、その人の全部が良ければ全部含めてその人だって思うけど、でも、逆の立場だったらどう思ってたかなって考えた時に、うんって言ったかなっていうのは、正直、分かんないので、それは本当に価値観だなって思うので。

入江 それが悪いとかではないんですけど、そういう病気が原因で、その辺りが、いくら説明をしてもとか自分が行動してることで表しても、なかなか理解が得られなかったっていう経験はありました。

岸田 めっちゃ、今、理性的にお話しいただいてますが、あの時、大げんかって書いてますからね、けんかでね。意見の食い違いっていうのはいろいろあった、先方のご家庭っていうか、ご両親も色々あって。その後、どうなんの?

入江 その後、それは、全部、病気だった過去も含めて私だから、病気じゃなかったら良かったねって言われた時に、病気じゃなかったらそこの過去が無いわけだから今の自分も形成されてないわけで、だったら、じゃ、私じゃなかったんだなって思えた時に、あ、じゃ、私じゃなかっただけだからって思えてからは、吹っ切れたし、自分が闘病してた期間っていうのも自分にとっては凄い大事な過去だし、頑張った自分がいるから今の自分がいるわけで、そこの自分を認めてあげたいなって思ってるので、そこを理解してくださるような方がいたら良いなって思って過ごしてたんですけど。

入江 今の旦那さんと出会って、病気のことも全部分かってくれてて。ご両親も、私が全部説明をしなくても「何も気にしなくて良いからね」って言ってくださって、それが凄い嬉しくて。

入江 だから、世の中には、そうやって思ってくださる方、そのご家庭も別に病気の子を抱えているわけじゃないのにそうやって思ってくださる方もいるんだなっていうこと、テレビとか見てて、こんなドラマみたいな話あるんかなとか思ってたんですけど、いてくださるんだなってことが本当に嬉しかったです。

岸田 その前が大変やったからこそ、その次にお付き合いされた方の周りというか、そういったところから後押ししてくださってっていったところもあって。もう一度、写真見せてもらえますでしょうか、ご結婚。この結婚の時も、旦那さまが真依さんの全てを分かって、それでも結婚しようっていう。プロポーズの言葉とか覚えてますか?

入江 プロポーズが、あんまり、結婚しよう、え、みたいな感じじゃなかったので、いつ結婚するみたいな感じでいたから、あんまりはっきり覚えてないんですけど。でも、例えば、妊孕性の問題とか、今後、晩期合併症が起こってくるかもしれないとか、そういうのも全部含めて結婚しようと思ってるから、別に、その辺心配しなくて良いからねって言ってくれて、それは本当に嬉しかったです。

岸田 めっちゃええ旦那さんですね。旦那さんが最高です。

入江 ありがとうございます。

岸田 それで、今、幸せな結婚生活を過ごされているということですね。

入江 はい。

岸田 このような旦那さんをいろんな方もぜひ見つけて欲しいと思います。すてきです。ありがとうございます。

【妊よう性】

岸田 その中で、次の項目なんですけど、さっき、妊孕性の言葉が出て来たと思います。妊孕性について。真依ちゃんは、妊孕性って、子どもを持つ能力についてなんですけれど、ここはどうなんでしょうか。

入江 私は、治療を受ける時に、聞いたかもしれないんですけど、今後、起こること、足の病気のこともそうですけど、そこまで説明があったかなって思うぐらい自分には残ってなくて。多分、病気が分かったっていうところでいっぱい、いっぱいだから、説明していただいてたかもしれないけど、入ってなかったっていうのが実際のところで。

入江 自分が手術部で働いたときに、卵巣凍結の手術を導入しますっていう話から、婦人科の先生が、なんで卵素凍結っていうことをするんかっていう話を看護師にレクチャーしてくださった時に、この薬とこの薬とかを使うと卵巣の機能が低下するからその前に取ってっていう、そういうのが必要なんだよっていう話から、その薬、聞いたことあるなと思って、帰って自分のプロトコル見たら、その薬使ってるなっていうのを思って。

入江 そのレクチャーしてくださった先生に院内メールで、私、その薬使ったことあるんですけどって言ってメール、送ったら、一回外来おいでって言ってくださって、外来に行って、AMHっていう血液の、卵巣の予備能力を測る検査をしていただいて、そこで、普通の他の同年代の方よりかは、低いっていうことが初めて分かって。

入江 今も、例えば、授かったとしても、今後、自分が治療して来たことが影響無いよとは言われてても、やっぱり、心配な部分とかはあるなっていうのは、正直、思いますね。

岸田 当時、説明とかなくて、逆に、自分でそういうお仕事の中で知っていくということよね。

入江 そうですね。

岸田 今は、低下しているけれど、ゼロではないっていうことでもあるっていうことか。

入江 そうです。

岸田 妊孕性のところ、ありがとうございます。

【仕事】

岸田 そして、その後、次の項目がこちらにあります。お仕事のことといったところで。お仕事については、自分が看護師になりたいと思って看護師になって、そして、看護師で体力的なところもあるからっていったところで、その後はどうなってったんでしょうか。

入江 その後、社会福祉士の仕事に転職してからは、デスクワークで面談業務とか電話での調整とかっていうことが主になる入退院とかの調整をするお仕事なので、私が思ってた相談員さんとは違ったんですけど。

入江 でも、看護師と比べると、体力的な面では楽なので、自分の頑張りで何とかなる仕事。看護師は、自分がどれだけ頑張っても同じことが出来ない現実ってのがあって。今のソーシャルワーカーは、自分が頑張ればみんなと同じ土俵で働けるっていうところは、自分が申し訳ないなとか出来なくてすいませんって言わなくていいので、そこは凄い有難いなっていうのは思います。

岸田 頑張ろうと思う真依ちゃんが凄い。だんだん、擦れて来て、何か、頑張ろうって。自分がちゃんとやれば周りと同じ土俵に立てると。看護師については体力的なところもあって自分がどんなに頑張ってもその土俵に立てないから、そういったところでは、今のお仕事の方が向いてるって言い方変ですけれど、遣り甲斐も感じている?

入江 そうですね。看護師やりたいなっていう気持ちもまだゼロではないんですけど。でも、自分のこの体と付き合っていくために、長いスパンで考えた時に、自分が出来ることを仕事として考えないと、そこはいけないなって思ってるので、看護師に戻るにしても、自分に出来る形で考えないといけないなとは思います。

岸田 ありがとうございます。自分の体と対話してといったところでもありますよね、お仕事に関しては。

入江 はい。

【お金・保険】

岸田 そして、その次はこちらになります。お金、保険といったところで。真依ちゃんの場合は、小児の時に治療しているので、小児慢性特定疾病っていう医療費が無料になるような制度っていったものもあったと思うんです。それを使われた感じですかね。

入江 そうですね、小児慢性特定疾患を使ってて。今の大腿骨頭壊死は指定難病に該当するので、特定疾病の申請をしてて、レントゲン撮ったり、そういうのはそっちの難病の制度を、今、使わせてもらってます。

岸田 小児期にそうなったら、壊死のほうもあったりしたら、民間の保険って入れるの?

入江 民間の保険は、私は、自分で手続きしてとかはしてないんですけど、私の母がすごい頑張ってやってくれてて。やっぱり、掛け金がそこそこあって返ってくるようなそういう保険っていうのは、どうしても、長期フォローアップ外来にかかってるとなかなか厳しいみたいで。そんなにたくさんは返ってはこないけど、でも、困らないようにっていうので両親が凄い考えてやってくれてます。

岸田 ご両親が考えて、そういったところはちょっと出る。

入江 出るものに入ってるって感じです。

岸田 ありがとうございます。

【辛い・克服】

岸田 そして、その後、つらい、克服といったところになります。これ、肉体的や精神的にいろいろあったと思うけれど、こん時、つらかったなと。ただ、それをどういうふうに乗り越えてきたかっていうことを伺い出来たらと思いますけれども。どう? 今までのスパンの中で、これ、大変やったなって思うことって、どのタイミングやろ?

入江 やっぱり、治療中は抗がん剤で、私はすごく吐き気がするとかっていうのはあんまりなかったんですけど、でも、関節が痛いとかっていうのは結構あって、痛くて寝れないとかっていうのは結構あったので、ずっと両親がさすってくれたり、あとは、看護師さんとかが足湯してくれたり、ちょっと気分転換になるようななことしてくれたり。

入江 あとは、抗がん剤入れて血球を叩いて少なくして、その状態から自分で上がって来たら1回外服っていうのが出来るんですけど、ここの叩かれて下がってしまう期間というのが治療の回数を重ねるとどうしても長くなっちゃう、自分の骨髄が弱ってくるので。長くなってくると、そこは、部屋から出れないとか、感染、免疫が落ちている状況なので、最後のクールは、多分、1カ月ぐらい部屋から出れなくて。

入江 ベッドから動いて、トイレしか行けないっていう感じだったので、それは、いつ、状態が良くなるのかっていうのも分からないし、自分に期待しても採血の結果で駄目だったらまたそれが伸びちゃうっていう感じだったので、先が見えない時は凄いつらかったです。

岸田 先が見えへんてつらいよな。だからこそ、多分、治療中のことも治療後のこともあると思うけど、真依ちゃんはそういうインスタで、先のこと、こうなったよっていうのを発信しているということやもんね。

入江 はい。

岸田 当時は、乗り越え方って、耐えるって感じ?

入江 そうです。自分は、結構イライラしたりなんかしてたと思うんですけど、周りの家族とか看護師さんたちとか先生たちがみんな気を使って色々遊んでくれたり。姉も、高校1年生でみんなと遊んだり部活したかったと思うんですけど、毎日、病院に来てくれて、テスト前とかはずっと病室の横で勉強してくれたり、みんなで一緒に戦うっていうところをやってくれたのが凄い嬉しかったです。

岸田 お姉ちゃんも毎日来てくれるっていうことは、妹さん思いで、僕の冒頭の発言を謝罪しております。

【後遺症】

岸田 そして、その後の次、こちら、後遺症のこといったところで。今、晩期合併症とかさっきの大腿骨頭壊死とかっていうのはあったと思うけど、他にはどうでしょう。何か、これ、あるなって。

入江 他には、大腿骨頭壊死になった時に、多分、成長期と重なってたっていうのもあって、私は右と左の足の長さが違うんですけど。潰れてる面積が右のほうがおっきいのかな。なので、ちょっと足が右のが短いんですけど。

入江 それで歩いたり背が伸びてってなってるので、背骨が回旋してる、回ってる、固まってしまってるので、左右の筋肉の付き方が違ったりっていうので片方だけしか上手く使えなくて、腰が痛くなったりっていうのが、直接的では無いかもしれないですけど、そういうのはあります。

岸田 そういうことね。僕たちとしたら、両足が普通に同じ長さっていうのがあれですけど、そうなんですね、大腿骨頭壊死で。

入江 靴の中に厚底みたいなの入れて高さを合わせてもらったりやってたんですけど、あんまり、使い過ぎると痛みっていうのはありました。

岸田 それの対処って、もう、気を付けてって感じ?

入江 あとは、リハビリと出会ってからはストレッチを教えてもらって、テニスボールをここのこの痛いところに当てて自分でほぐしたり、そんな感じで気を付けるようにはしてます。

岸田 そのリハビリと出会ってっていうのも、病院から紹介されたとかやったん?

入江 そうです。痛みで、痛みで起き上がれないっていうのも結構あって、その時に、小児科の主治医の先生が「一緒にピラティス行こうか」とかいろいろ言ってくれて、いろんな民間療法を教えてくれたんですけど。あと、麻酔科にもコンサルかけてもらってブロック注射打ったりもしてたんですけど、でも、やっぱり、治らなくて。

入江 その時に、同じ病院の系列ってか、そこの医局にいらっしゃる整形の先生がリハビリテーションを推奨されてて、リハビリって、急性期の脳梗塞とかそういう病気の後じゃないと適用にならないから私もずっと断られてたんですけど、その先生は「リハビリやろう」って言ってくれて、小児科の先生からの個人的な、多分、紹介で私を受けてくださって、歩き方とかも全部見直してくれて、リハビリの先生と連携して、どういう運動だったら良いかなとかっていうのもメニューを組んでくださってっていう感じだったので。そのリハビリと出会ったから名古屋に実家を離れて来れたっていうのはあります。

岸田 それに出会えたっていうのは、真依ちゃんの転機やったのかもしれへんよね。ありがとうございます。主治医の先生、凄い。

【反省・失敗】

岸田 そして、次の項目、反省、失敗とありますが。これ、この時、こうしておけば良かったっていったこと、真依ちゃん、あったりしますか。

入江 入院してから、特に、これ、こうしたら良かったなとかっていうのは、正直、あんまり、直ぐ思い浮かばないんですけど。でも、そうですね、病気になってから自分の価値観とかも変わったので、そこからは特に無いかなと思います。

岸田 ありがとうございます。

【医療者へ】

岸田 そして、その次、医療者へというたところ。色んな看護師さんや今の主治医だったり、色んな人に支えられたとありますけれど、その人たちに感謝、もしくは、もう少しこうしておけば良かったのってありますか。

入江 私の場合は、感謝しかないなって思ってて。当時の看護師さん、私を励ますために、色々、良い看護師さん、なれるよとかも含めても言ってくださってたと思うので、自分のモチベーションを下げないためにもいろいろ工夫して関わってくださってたなって思いますし。

入江 主治医の先生たちも、もう出会って18年ぐらい経つんですけど、ずっと応援して支えてくれてっていうのは変わりないので、そこは本当にありがたいなって、先生たちとか看護師たちがいたから今の自分があるなと思います。

岸田 本当にね、素晴らしい。周りの看護師さんや医療従事者、今、こうやって真依ちゃんが元気になられているのは皆さんのおかげだと思いますし、感謝です。ありがとうございます。

【Cancer Gift】

岸田 そして、その次、キャンサーギフトについてなんですけれど、キャンサーギフト、がんになって得たこと、得たもの。色んな価値観があると思いますけれど、真依ちゃんが得たもの、得たことってなんでしょうか。

入江 がんになって一番大きく変わったのが自分の価値観かなと思ってて。毎日、家族と過ごせて、ご飯が食べれて、例えば、学校に行ったり仕事に行ったり出来ることって当たり前じゃないんだなっていうことが、その生活が全部出来なくなって初めて分かったので、その当たり前を大事にしようとは思うようになりました。

岸田 当たり前を大事にするっていう、日々ね。今の結婚生活も当たり前と思わずに、大事にしてるっていうことですよね。

入江 そうです。思った時にはありがとうって言うっていう。

岸田 すてき。良いですね。

【夢】

岸田 そして、次、この夢といったところなんですけれど、真依ちゃん、今後、こうしていきたいなっていったもの、あったりしますでしょうか。

入江 私は、やっぱり、病気の子どもたちの何か役に立ちたいなっていう思いはずっとあるので、いつか、カフェみたいな、居場所作りをしたいなと思ってて。

入江 小児がんの治療中っていっぱい制限があって、これ食べちゃいけない、これしちゃいけないっていうのがある中でみんな凄い頑張ってるので、そういう子たちがそこに来たら、何食べても良いし何してもいいよっていうような自由な空間っていうのを作ったら良いなっていうのを思ってて。

入江 病気があっても来れるように、在宅の小児看護っていうのを学びたいなと思ってるので、今は、こう色んな制度とかをここで勉強させていただいて、在宅での看護、訪問看護はやってみたいなって思います。それだと、そこに来てくれた子たちに何かしてあげられることも増えるかなと思うので、それをやりたいなと思います。

岸田 すごい。真依ちゃん、もう、また勉強もしていく感じですね。

入江 そうですね。

岸田 すごいな。その夢、心からみんなで応援してます。

入江 ありがとうございます。

岸田 そんな真依ちゃんの話を聞いてきましたけれど、色々、コメントもいっぱいあります。学校の取り組みのところが素晴らしいですねだったり、相手の立場になって考えれる、真依さん、とても素敵です。親の立場になるといきなり他人事に思えないのが身勝手かなと自分でも矛盾を感じますと。未来は誰も分からないですよねとかね。

岸田 あと、素敵なお写真ということだったり、妊孕性は、年齢で、全然、重要性の認識が変わりますよねと、ちゃんと平等に主治医の方からいろんな人たちにお話しして欲しいですよねということだったり、リハビリ、凄いですねっていただいてるんですけど。

岸田 ジンさんから、食生活が聞きたいといただいております。食生活について、今、なんか気を付けていること、もしくは、当時、何かありました?

入江 当時は、治療中は生もの、食べちゃいけないっていうのがあったので、生ものは控えるとか全部加熱しているものとか、あとは、バイキングとか外気に触れているもの食べないとか、パン屋さんでも袋に入ってないものを買わないとか、色々、そういうのは気を付けてて。

入江 今は、特別、気を付けていることは無いんですけど、でも、やっぱり、その時の名残があるので、あんまり、そういうオープンになっているものは好んでは食べないです。

岸田 バイキング系はあんまり好んでは食べへんってことね。自分の免疫のいろんな名残からっていったところでね。ありがとうございます。もし、なんか、ご自身たちで、食生活が何が不安だったってあれば、主治医の方だったり医療従事者に聞いていただければ一番ベストかなと思います。ありがとうございます。 

【ペイシェントジャーニー】

岸田 こんな中で、大詰めになってまいりました。真依ちゃんの今まで聞いたものをちょっとペイシェントジャーニーというグラフにしておりますので、こちらをご覧いただければと思っております。そうでした。出すのを、完全に、そうでした。

岸田 ちょっと待ってくださいね。僕が出すのをめっちゃ忘れてた。ごめんなさい。ペイシェントジャーニー、こちらになります。見えますでしょうか、皆さん。流れ、見ていきたいと思います。

岸田 まず、小学校6年生進級して、頭と左耳の後ろにできものができてきて、それを手術で取っていきます。そして、小児科へ行って、急性リンパ性白血病の告知を受けていって、薬物療法をしていく。そんな中で、入院してた時にこのお祝いをいただいて、その後、将来は看護師になりたいなということを思います。小学校卒業していった後に、通院治療を終了していきます。中学校2年生の時ですね。

岸田 その後、どんと下がっているのは先ほどあった特発性の大腿骨頭壊死症が発生していって、その後、自転車で転倒、自転車で1回のやつですね、顎と骨を骨折していく。そのときに、バセドウ病の診断が、たまたまっていうか、その後に、翌日の検査で見つかっていきます。

岸田 その後、献血のPR、映画の出演、公演活動をスタートし、新洗組のボランティア活動、町をきれいにしていったり。その中で甲状腺の全摘の手術をされていく。そして、念願の看護師になっていったんですが、辞めたほうが良いよということ、体力的な部分もあってということ言われて、なんでっていうふうなところになっていきます。

岸田 ただ、そこで終わらないのが真依さんの凄いところで、ここから、社会福祉士の勉強、そして、患者会の活動だったり、そして、手術部の移動へしていきます。そんな中、先ほどあった彼氏さんと病気は理由でけんかをしていくと。大げんかと書かないところが、空気読んで。

岸田 そんな中で、自分を客観的に見れるようになっていきます。そこから、社会福祉士合格し、名古屋へ行き、インスタを開始し、そして、その後にお付き合いされた彼氏さんと結婚していくという流れになります。この中で、何か、真依さん、大丈夫ですか。伝えたいこと全部伝えられてますでしょうか。

入江 はい。

岸田 自分を客観的に見れるようにっていうのは、結構、時間がかかってなっていったって感じなのかな。

入江 そうですね。色々、講演活動とかを通して、色々スライド作ったりしていく中で、なんで、こんとき、こう思ったのかなとか思っていくうちに、色々自分の中で整理は出来たかなって思います。

岸田 ありがとうございます。そんなペイシェントジャーニーでございました。 そして、ここから、一旦、真依さんの闘病記っていったところはここで区切りとなるんですけれども。色々いただいてね。

岸田 ここから、次回の告知等々、今、協賛してくださっている企業さんのお話をしていきたいと思います。「生きる」を創るアフラックさま、そして、グローバル企業のIBMさま、そして、I-TONGUEさまにご支援いただいております。いつもありがとうございます。また、見てくださってる皆さま、本当にありがとうございます。

岸田 そして、次回の今後のがんノートになるんですけど、がんノートorigin、来月は10月9日11時から。10月はピンクリボン月間でもありますので、乳がん。ただ、乳がんは乳がんでも、男性側の乳がんについてお伺いしていきたいなと思っております。ゲストは、男性乳がんの経験者のノグチさん。楽しみにしておりますので、是非、よろしくお願いいたします。

岸田 そして、11時からに、次回からなります。今まで10時半からだったんですけれど、11時から12時半になりますので、30分遅くなりますのでそこをご注意いただければというたとこ思いますし、これは今後もずっと11時からになる予定ですので、今後とも、10時半からでなく11時からと思っていただければと思います。ありがとうございます。

岸田 さらに、この後、皆さんに、チャット欄のほうに、概要欄にURLを貼らせていただいております。いただきます。

岸田 なんでかっていうと、この後、明日以降に、出てくださった入江真依さんに皆さんのコメントのメッセージをお送りしたいなと思いますので、是非、感想だったり、真依さんについて、こういったとこ、すごかったですも含めて、色んなところをコメントいただければ嬉しいなと思っております。責任を持って我々が届けさせていただきます。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 といった中で、真依ちゃん、90分の配信になってきましたけれど、真依ちゃんに最後にこのメッセージをいただいております。今、闘病中のあなたへといった中で、多分、いろんなさまざまな方が見てくださっていると思うのですが。

岸田 今、僕、がんノート、こうやって生配信している理由としても、やっぱ、闘病中、横になりながら外にも出れないながら、画面でも見てクスって笑って欲しいなだったり、見通しを持って欲しいなっていうことをさせていただいてます。今、闘病している方たちへメッセージ、真依ちゃん、このメッセージをいただいております。真依ちゃん、これを読んでいただいて、その理由も教えていただけますでしょうか。

入江 『今の頑張りはきっと将来の花を咲かせる糧になる』っていうふうに、私は、今、思ってます。一応、この言葉を出した理由としては、私も、先が見えない中、いつまで頑張ればいいんだろうとか、いつまでこのつらいのが続くんだろうっていうのをずっと思ってたんですけど。

入江 でも、その頑張りがあったからこそ、今、色々ありますけど、それでも、今の生活につながってる、その一個一個は全部無駄じゃないなって思いますし。

入江 例えば、昔、頑張って来たことが自分に返ってこなかったとしても、自分の大切な周りの人たちにきっと何かいい影響っていうか、何かその方たちに残るものっていうのがあるんじゃないかなって思ってるので、今、頑張っていることは絶対無駄にはならないなっていうことを伝えたいなと思います。

岸田 今、頑張ってることね。だって、真衣ちゃんも、頑張って看護師になって、そして、社会福祉士になって、そして、次はみたいな形で、色んなことがまた繋がってますもんね。

入江 はい。

岸田 頑張りっていうのは、入江真依さんを体現してるのかなと思いますので、この言葉、凄く良い言葉。真衣ちゃんからこれ貰った時も言ったけど、凄い良い言葉。僕が言うとめっちゃ薄っぺらくなっちゃうから本当申し訳ないねんけど、めっちゃね。ありがとうございます。

岸田 といった中で、がんノートorigin、終了していくんですけれども。先ほどのメッセージのURLは本日中に書いていただければ、皆さん、嬉しいなと思いますので、よろしくお願いいたします。どうでした? 真依ちゃん、90分。あっという間でした?

入江 あっという間でした。楽しかったです。ありがとうございました。

岸田 因みに、皆さん、今の旦那さんとの慣れ染めというか、どういうふうにお付き合いしたかのきっかけは、がんノートminiのほうで簡単に語っていただいておりますので、そちらは高橋真依という名前になっておりますが、当時のね。そっちも見ていただけるとより楽しめるんじゃない、楽しんだら、楽しむかな、深くなっていくんじゃないかなと思っております。

岸田 真依ちゃん、今日は、午前中から、お忙しいところ、ありがとうございました。

入江 ありがとうございました。

岸田 これにて、がんノートorigin、終了していきたいと思います。それでは、皆さん、またお会いしましょう。バイバイ。

入江 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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