インタビュアー:岸田 / ゲスト:小林聖

【発覚・治療】

岸田 では、きょうのゲストである小林聖君の自己紹介をしていければと思っています。

小林聖 小林聖です。急性リンパ性白血病で、2018年5月にフィラデルフィア染色体異常になりまして、今現在も抗がん剤治療中です。よろしくお願いします。

岸田 よろしくお願いします。去年の2018年の5月、17歳のときにがんになったんだよね。18歳、ぴっちぴちでございます。じゃあ聖君。発覚、告知ということで、どういうふうにがんが分かっていったのか、教えてもらってもいいですか。

小林聖 去年の5月にバレーボールの大会前に体調が悪くなってしまって、熱が40度近く出てしまって。

小林聖 そのときに、ちょっと無理をしてその大会に出てたときに、父兄の方の中に看護師さんがいらっしゃって、貧血の症状が出てるから、まぶたの裏を見せてほしいって言われて。

小林聖 それで見たときに、ここが、今は多分ピンク色じゃないですか。なんですけど、これがこの白い部分と全く同じ色になるまで真っ白になってしまって、ここが。

岸田 下のほうまで?

小林聖 そうです。それで、ちょっと貧血症状だから一回、病院に行ってみてもらったほうがいいって言われて、近くのクリニックに行って検査をしたら、白血球の数が異常な数値が出てるっていうことで、そこでまず白血病が発覚しました。

小林聖 そこでここのがんセンターに来て、検査をした結果、急性リンパ性白血病っていう告知を受けました。

岸田 自分の自覚症状はどうやったの?

小林聖 自覚症状はブラックアウト、目の前が暗くなったりだとか、あとは本当に立ってるのがつらくて。

小林聖 頭を下に下げないと頭がくらくらしてきてしまって。頭に血が回らないんですよ。それがつらくて。立ってるのがやっとで、ずっと中腰状態で、大会中も中腰状態でいましたね。

岸田 それ、なんか訴えんかったの?ちょっと体調悪いねんけどっていうような。

小林聖 いや、体調、みんな気付いてました。言う前から、すごい顔色悪い、顔が真っ青だよって言われてたんですけど、大会前だし、ちょっと心配かけたくなかったんで。

小林聖 どうせ風邪だろうっていう軽い気持ちでいたんで、大丈夫って言って。それで周りの心配をよそに、ちょっと無理してましたね、そのときは。

岸田 そっか。自分は風邪やと思ってたわけね。その大会は乗り切れたん?

小林聖 大会は取りあえず乗り切りました。

岸田 乗り切ったんや。病院に行くときは、最初はどの病院に行ったんですか。最終的には、国立がん研究センターっていう話してたけど。

小林聖 いや、最初からここだったんですよ。近くのクリニックに行った後に、病院を紹介する、検査しようってなったら、もうここだったんですよ、その検査結果が異常だったから、そのままここに空きがあったから入院することになりました。

岸田 そうなんやね。じゃあ、そのクリニックで白血球の値。

小林聖 そのときが6万。

岸田 6万。なんか戦闘力みたいやね。

小林聖 で、ここに来てもう一度、再検査したときに9万。それが1日後とかだったので。

岸田 普通やったらどれぐらいなん?

小林聖 普通だったら3万から5万。それぐらいが普通、発覚する値らしいんですけど。

小林聖 だけどでも自分は、そのときには6万、それ以上いっちゃって、1日たったら9万。で、また2日たったら14万。マックスで14万までいっちゃって。

小林聖 本当に異常な数値が出てしまって。大変だからっていうことで、緊急入院になりました。

岸田 最初のクリニックの人も結構びっくりしてたんじゃないの?

小林聖 親のほうに連絡が行ってたんで。親がすごい慌てた感じで電話が来たから。

小林聖 僕、そのとき学校行ってたんですよ、熱があったんですけど。休みたくないからっていうことで行ってたら、親から急いで帰ってこいっていう連絡が来て。

小林聖 帰ってきて、そこで、もしかしたら白血病かもしれないって、親から急に言われて。

小林聖 で、俺、そのとき全然そんな気持ちなかったんで、まさかとかってふざけて言ってたんですけど、本当に白血病で。

岸田 じゃあクリニックからその連絡が来て、そのまんま国立がん研究センターに行ったっていう。

小林聖 そのまま行きました。

岸田 どうでした?その告知受けたときの心境は。

小林聖 まさか自分、本当にまさか自分がっていう感じでしたよ。

岸田 その後、治療をしていくわけよね。治療はそのまま入院してどういうふうになっていったんですか。

小林聖 最初ちょっと、自分のこの年が微妙な年で。高校3年生なんで、大人病棟に入れるか小児科病棟に入れるかっていう。

小林聖 大人病棟だと子どもに比べて使える薬が少ないみたいで、小児科だとステロイド使うんですよ。

小林聖 だけど大人だと使わない。理由としてはなんか、体が大人だと耐えられない、ステロイドの急激な変化に耐えられないからっていうことで。

小林聖 でも自分、一応まだ未成年で、その小児科の扱いだから、どっちなんだろうっていう。結局、小児科になって、最初ステロイド治療から始まりました。

岸田 小児科病棟に入院しますと。その後、治療ね。抗がん剤治療、これ具体的にどんなことをしたか覚えてます?

小林聖 抗がん剤治療、大量化学、なんかいろいろな飲み薬の抗がん剤だったり、あとは薬、点滴で投与したりっていうので。

小林聖 ステロイド、キロサイドとか、あと、オンコビンっていう、なんか小児科病棟で、便秘になるからウンコビンって言われてましたけど。

岸田 そんな、あるんや。

小林聖 あとはエンドキサン少量。自分はちょっと少なめのエンドキサンの量で、ちょっと定期的に入れるっていう感じやったんですよね。

小林聖 他の人はでっかい、なんか輸血パックみたいなので一気に2、3時間でぶわあって入れるらしいんですけど、僕はそれを2、3日に分けて少量ずつ流してくっていうやつやってましたね。

岸田 これ、どれぐらいやりました?

小林聖 5月から10月まで。薬は変わってはいるんですけど。クールごとに飲み薬も、抗がん剤がまた変わってて、確かイマチニブが、第2クールでやりましたね。

小林聖 イマチニブはちょっときつかったですよね。

岸田 きつかった?

小林聖 昼に飲まなきゃいけなかったんで。昼、飲んだ後に、すごい体調が悪くなるんですよ。

岸田 そういう副作用とかいろいろあったんやね、その後、10月下旬、移植と書いてますけれども、これは骨髄移植ですか。

小林聖 そうです。骨髄移植をして。骨髄移植をしたとき、今までの抗がん剤が楽に思えるぐらいだったんです。

岸田 まじで? あんなに大量化学療法やっても?

小林聖 飯が食べられなくなっちゃって。移植病棟で移植してから、味覚が変わったりだとか、あと味がしないんですよ、ご飯の。

小林聖 味がしなくて。みそ汁が泥の味がするんですよ。みその苦味だけが残っちゃった感じで、なんか泥水飲んでるような感覚になってしまって。

小林聖 ちょっと病院食がそれで、みそ汁が一番トラウマになりましたね。移植は約1カ月やっていきました。

岸田 その骨髄移植するとき、骨髄バンクとか使った感じなんですか。

小林聖 いや、骨髄バンクは使ってないんですよ、自分。

岸田 使わず。

小林聖 日本人に少ない型みたいで。兄がドナーだったんですよ。

岸田 ああ、そうなんね。

小林聖 家族でみんな採って、調べた結果、母と兄が合って。

小林聖 だけど母だとちょっと年が離れてて、性別も違う、兄のほうが1個上なんで、年が近いっていうことで、そっちのほうが、拒絶反応が少ないんじゃないかっていうことで。それで兄がドナーになりました。

岸田 その移植、フルマッチとか、全部の型が合うかどうかとかあるじゃないですか。お兄さんは?

小林聖 兄は、半分なんですよ。ハプロっていう。

岸田 半分の型が合うっていう形で。

小林聖 そうです。

岸田 フルマッチで全部の型が合えば、自分の血液とあんまり変わらないって言い方変やけれども、半分の型が合って移植するっていうことは、どうなるの?

小林聖 自分そのとき、さっきの言ったフィラデルフィア染色体異常の、染色体異常の場所が、兄と型が合った場所とちょうど合ったんで。

小林聖 普通の健康な部分は、わざわざそうやって変える必要はないので。それなら兄の半分のやつで移植したほうがいいっていうことで。

小林聖 そのハプロ移植は、治験でやらせていただいて。だからいろいろ手探り状態で今も続けてます。

岸田 続けてるっていうことなんや。じゃあ治験でやってるってことは、周りに本当、同じような人はいないんや。

小林聖 そうですね。例は少ないっていう。

岸田 そこから、え? 1カ月後には退院できんのや。

小林聖 そうです。結構、早いって言われましたね。

小林聖 退院が長くなる理由として、体力と筋力が戻らなくて、日常生活ができないから退院が長くなるっていうことを聞いたんですよ。

小林聖 なので移植後、日常生活に戻れるよう、ずっと歩き続けました。早く退院したいっていう気持ちで。

岸田 院内学級は行ってたの?

小林聖 自分は行ってないんですよ。

岸田 そうだよね。なぜ?

小林聖 それは学校側がいろいろ配慮してくれて。でも最初は院内学級も考えてたんですよ。

小林聖 大学進学だったり、そういうのもいろいろ考えて。本当は自分移植する予定じゃなかったんですよ、そのフィラデルフィアが発覚するまでは。

小林聖 だから学校側もぎりぎりまで待ってくれて、返事を。もし移植してなかったらそのまま大学受験をして、卒業して大学に進学するっていう予定だったんですよ。

小林聖 なんですけど、移植になってしまって。大学受験の時期に移植だったんで、その時点でできないっていうことで。

小林聖 したら学校側から、じゃあ1年、留年して、1年やり直そうっていうふうに提案をしていただけて。最初は自分もちょっと留年っていう言葉に抵抗があって。

小林聖 3年間ずっと一緒にいた仲間たちと卒業したいっていう気持ちもすごくあって、最初は返事ができなくて、1週間ぐらいそこで待たしてしまって。

小林聖 でも結局、留年っていう形が一番。だから今すごい幸せなんで。留年っていう形が一番、良かったんだなって今は、思えば思うんです。

岸田 今、こういった形で社会に復帰しつつということであると思います。ちょっと質問やけど、今は抗がん剤治療中やん? どれぐらいのペースで治療してんの?

小林聖 自分、内服の抗がん剤で、1日1回1錠なんですよ。すごく楽な感じはするんですけど。

小林聖 自分、SNSとかで病気の人とつながりたくて、いろいろな人に聞いたら、アイクルシグっていう薬をやってるんですけど、すごいつらいって聞いて、じゃあ俺、量が少ないのかなと思ったら、皆さんも1日1回1錠。自分は1日置き、2日に1回なんですけど、その人は毎日だったりとかするんですけど、吐き気だったりがすごいって言ってて。

小林聖 本当に、副作用は人それぞれなんだなと思って。

岸田 1日1錠はずっとしてないといけない?

小林聖 いや、今、取りあえずいろいろと医者と話してて。

岸田 治療法がまだ確立されてないからね。

小林聖 そうです。だからいつ止めていいかっていうタイミングが、なかなか分からなくて。取りあえず1年たって、また詳しい検査をして、状態が良ければ止めるっていう話は、今、出てます。早く止めてほしいです。

岸田 ちょっとまだやっていかないといけない。副作用が出てないなら何よりのっていう形ですね。

【家族】

岸田 では次に、家族のこと。今の聖君の家族構成を教えてもらっていいですか。

小林聖 母と父と、兄弟で姉と兄がいます。

岸田 まずご両親との関わりってどうでした?

小林聖 最初は、かわいそうみたいな、そういう目で見られてて。病気になった瞬間に、大丈夫?これ取ってあげようかみたいな。

小林聖 急にどうした?みたいな。気持ち悪いみたいになって。そこで一回止めてほしいって言って。

小林聖 そこからはずっと、いつもどおりだったんで、それが本当にありがたく。自分的に素でいられた感じがします。

岸田 入院中ってどうなんですか。ご両親とかって、ずっと一緒にいらっしゃったりとかしたんですか。

小林聖 父は土日に来てくれて、母は毎日1時間ぐらいかけて来てくれて。姉と兄が大学の合間にちょくちょく来てくれたりとか、2、3日に一遍だったりとかに来てくれたりとかしてました。

岸田 いい家族やね。なんかエピソードとかあります?入院してたときに家族との関わりで。

小林聖 入院してたときっていうか、入院した日に、自分は親とかに心配かけたくなくて、泣けなかったんですよ。

小林聖 この年になって泣いたら心配かけちゃうじゃないですか。その心配かけたくないっていう気持ちが強くて。

小林聖 一切、表情変えずに、頑張るよみたいな感じで。本当にこんな状態でいたんですけど。

小林聖 兄と姉が戻ってきて、いろいろ話して、泣いていいよって言われた瞬間に、ぶわって涙出て。

小林聖 この年になって初めて泣きました、そのとき。なんで自分がっていう気持ちも一気にあふれてきて。

小林聖 なんか、いろいろやりたいこともあったしっていう、いろいろな気持ちがあふれて泣きました。

岸田 すごい、いい家族で。

小林聖 父もそれで毎週、神社行ってお参りしてくれてたんですよ。小岩にがん封じのお寺があるんですけど。そこにお参りして、来てみたいな感じで。今も、だからそれ続けてくれてて。

【恋愛・妊孕性について】

岸田 その中で、聖君は恋愛、結婚といったところで。今後、自分も恋愛するときに、自分の告白とかしなあかんやん。がんのことも言わなあかんやん。

小林聖 全然、考えてなかったです。言うつもりもなかったですね。だから彼女できたら、普通に幸せになってみたいな、ぐらいにしか。

小林聖 だからその先をあんまり考えてなかったですね。いつかばれるぐらい。だから自分から言わないです、絶対。

岸田 ほんま?

小林聖 でも友達の段階で知ってて、知った上で付き合ってくれるならありがたいですね。だけども知らないで付き合ってたら、黙って。ずっと黙ります。

岸田 そんな中で恋愛も大事やけど、結婚とか子ども持っていくっていう話をしたときに、なんかそういう話とかされた? 子どもの話。精子保存するかどうか。

小林聖 しました。

岸田 じゃあそういう、ちゃんと妊よう性の温存はしているということですね。あ

【学校・進学】

岸田 聖君の学校の話をしていきたいと思うんですけれども、どういうふうに復学していったのかを聞いていきたいんですけど。留年するっていうのは結構、抵抗あったっしょ?

小林聖 ありました、本当に。留年っていう単語が、本当に失礼なんですけど、本当に諸事情いろいろあると思うんですけど、良くない印象もあるし、一番が友達といたかったっていうのがあって。

小林聖 卒業したかったっていうことを、病院内の今一番仲いいやつに愚痴って。

小林聖 そいつも同じ留年、1年留年してるみたいで。それでそいつもそのとき、つらかったって言ってました。

小林聖 だからすごい気持ち分かるっていうことで、すごいなぐさめてくれて。留年したから悪いわけじゃないっていう。

小林聖 した後もいいことはあるっていうことを、すごいたくさん話してもらって。それもあって留年前向きに考えて。だからすごい今、仲いいですよ、今のクラス。

岸田 1個下の人たちとってことよね? 年齢的には、すごい仲良くなれるもん?

小林聖 なれます。そのクラスの子たちが本当に、快く受け入れてくれたんで。よかったです。

岸田 その後、ごめん、さっき、大学入試試験って書いてあったけど、勉強的には、大学はどうやったの。

小林聖 自分、一応、内申があったんで、一般A0で行きました。それは書類選考と面接で試験して、無事合格しました。

【キャンサーギフト・夢】

岸田 そしてキャンサーギフト。がんになって失ったこともいっぱいあると思うけれども、あえて得たもの、得たこと。なんかありますか。

小林聖 人とのつながりが。自分、千羽鶴を折っていただいたんですよ。

岸田 千羽鶴ね。

小林聖 千羽鶴を折ったときに、親族、各地いろいろな方から千羽鶴を。ていうかお守り?

小林聖 がん封じのお守りいただいて、今30個ぐらいあるんですよ。全国のがん封じが集まって、千羽鶴にのしかかる。

小林聖 がんがんじがらめみたいな感じで。そういう感じの人のつながりが多かったんで。その病院でも人との出会い、感謝ですよね。

小林聖 出会っていろいろ。それでまた退院した後も会ったりしてる人もいるんで。そういうふうに人とのつながりが大事だなって。

岸田 すごいね。これが10代の言う言葉かね。そんな中で、聖君の夢、お願いします。

小林聖 自分、教師になりたいんですよ。

岸田 何の教師さん?

小林聖 自分、今、商業系の高校で商業を勉強してるんで、商業、簿記の先生に。

岸田 商業高校とか、商業でできる先生。高校の先生?

小林聖 そうです。高校に。本当に一番の理想は自分が卒業した高校に戻る。母校に戻ること。

岸田 すごい。じゃあ先生になることか。なんか聖君みたいな先生やと、すごい受けてみたいですね。

【今闘病中のあなたへ】

岸田 最後、今、闘病中のあなたへというメッセージをいただきたいと思っています。お願いします。

小林聖 前を向いて生きよう。つらいときや悲しいときはたくさんあると思うんですけど、それでも前を向き続けていれば、絶対にいいことがあるので頑張っていってほしいです。

岸田 聖君もつらいとき、前を向いていった?

小林聖 はい。どんなにつらくても前を向いていれば必ず楽しいことがあるので、頑張って。つらいのは一瞬なんで。

小林聖 絶対にその後の楽しいことは長く続くので。それまで目いっぱい前を向いて生きてほしいです。

岸田 どうもありがとうございました。

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