目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:山添

【オープニング】

岸田 それではがんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは山添さんです。

山添 よろしくお願いします。

【ゲスト紹介】

岸田 それでは次に、山添さんの自己紹介スライドをご紹介したいと思います。こちらです。山添さんは東京のご出身で、現在も東京にお住まいです。お仕事は経営コンサルタント。そして趣味は料理、ガーデニング、バイオリンと本当に多彩ですね。料理は普段からよくされるんですか。

山添 はい。実は治療が終わって休職していた期間に、近所の料理スタジオでレッスンを受けたのがきっかけなんです。さらにコロナ禍で外食ができなかったので、「家でおいしいものを作ろう」と思い、どんどん料理にハマっていきました。

岸田 習った中で、特に得意な料理というと?

山添 パエリアは何度も作っています。昨日はローストポークを作りました。イギリスの“サンデーロースト”という料理を教わったんですが、低温でじっくり焼くのでとても柔らかく仕上がるんです。家族にも好評でした。

岸田 低温調理は本当にやわらかくできますよね。

山添 はい。すごくしっとり仕上がるんです。それから、自家製の梅干しや梅ジャムなども作るようになってしまって。昨日のローストポークも、自家製の梅ジャムに漬け込んで作りました。調味料まで手作りする方向にどんどんハマっています。

岸田 本格的ですね。料理、ガーデニング、バイオリンと幅広く楽しまれている山添さんですが、罹患されたがんの種類は急性リンパ性白血病。告知は43歳のときで、現在は46歳。そして治療は薬物療法を中心に行われたということです。本日はどうぞよろしくお願いします。

山添 よろしくお願いします。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 では早速、山添さんのペイシェントジャーニーについてお伺いしていきたいと思います。こちらのスライドになります。ご覧のとおり、本当に紆余曲折のあるグラフで、上に行けば行くほどハッピー、下に行けば行くほどアンハッピーという気持ちの動きを示しています。

 どういった経過をたどられてきたのか、気持ちの動きと合わせてグラフに整理させていただいています。では、山添さんのペイシェントジャーニーを順番にお伺いしていきたいと思います。

 まず最初に少し上昇しているポイント、こちらが「コロンビア大学大学院への入学」です。いきなり海外から始まるジャーニーですが、コロンビア大学といえば世界的にもよく知られた名門校ですよね。この時期はどのような気持ちで過ごされていたんでしょうか。

岸田 NHKの教育番組で、コロンビア大学の名前を聞いたことがあるような気がします。

山添 はい。ニューヨークにある大学院です。著名な先生もたくさんいらっしゃいますね。私はそのレベルではないんですけれども(笑)。

岸田 いえいえ。そもそも、なぜ入学しようと思われたんですか。

山添 私はアメリカの高校に通っていたので、その後日本の大学に戻り、日本で仕事をしていました。ただ、もう一度アメリカで高等教育を受けたいという気持ちがずっとありました。それに加えて、当時は今ほど一般的ではなかったのですが、サステナビリティや環境経営に関心があり、そうした分野は日本より欧州やアメリカの大学院のほうが進んでいると感じていたんです。そのため、留学を決めました。

岸田 かっこいいですね。本当に。そんな中で、次にグラフが一気に大きく下がります。マイナス10に落ち込むのが、第一子の死産……触れても大丈夫でしょうか。

山添 はい。大丈夫です。留学中に妊娠し、ニューヨークでの出産を予定していました。しかし、予定日当日に心音が聞こえず、そのまま死産という形になってしまいました。大量出血もあって体調も悪く、精神的にも本当にどん底で……。今までの人生で最もつらい出来事だったと思います。その後、体も心も回復するまでにかなりの時間がかかりました。

岸田 ……つらいですね、本当に。ただ、この経験があったからこそ、がんの治療をされたときに、がんノートで発信したいと思ってくださったんですよね。

山添 そうですね。あまりにもつらくて、当時は誰にも話したくない、誰とも会いたくないという時期が長く続きました。ただ、妊娠・出産では同じように苦しんでいる女性がたくさんいると知ったので、本当はいつか自分の経験をシェアしたいとも思っていました。でも当時はできなかったんです。
 今回のがんの治療については、今こうして元気になれたので、社会に恩返しをしたい、今頑張っている方の力になりたいという思いで、積極的に活動しようと決めました。

岸田 ありがとうございます。そうした思いで出演してくださって、本当に感謝です。そこから気持ちが上がっていくのが、ご長女の出産、そして転職活動、次女の出産ですね。お子さんが無事に生まれて、本当に良かったです。

山添 はい。本当にほっとしました。

岸田 ただ、ここからまた下がっていきます。皆さんも察しがつくかもしれませんが、昇進のあたりで下がっていますね。

山添 昇進すると本当に忙しくなってしまって……。子どもが2人になった中で、自分の時間がまったく取れず、余裕のない日々でした。仕事でも新たな役割が増え、プロジェクトマネージャーとしての責任も大きくなり、子育てとの両立で私も子どもたちも大変だったと思います。

岸田 しかも経営コンサルタントのお仕事ですもんね。頭を使うし、時間も読めないですし。

山添 そうですね。周囲はみんな長時間働いていましたが、私は育児勤務制度を使って必ず夕方には帰っていたので、その中で周囲に迷惑をかけずに成果を出すにはどうしたらいいのか、ずっと悩みながら働いていました。

岸田 そんな忙しい時期を経て、グラフが一気に下に落ちます。急性リンパ性白血病の告知ですね。

山添 はい。会社の健康診断で見つかりました。40代に入ってからは毎年、「何も見つかりませんように」と祈りながら受けていたんですが、まさかこんな重い病気が見つかるなんて……本当に驚きました。

岸田 自覚症状は全くなかったんですか。

山添 はい、ゼロでした。だからこそ、なおさら衝撃でしたね。

岸田 会社の健康診断で「血液の数値が良くない」と言われたんですよね。

山添 はい。検査結果では、白血病細胞が血中の70%を占めている状態でした。もう、見間違いようのない数値ですよね。

岸田 そこから大きな病院に行って検査して、もう即入院という流れですか。

山添 はい。診断当日に即入院が必要な状態でした。ただ、子どもがいるということで「準備のために1日だけ猶予をあげます。明後日には入院してください」と言われました。健康診断を受けてから10日以内には入院生活が始まっていましたね。

岸田 そうなんですね。そして入院が始まり、そこからグラフが少し上向きになります。医師からの説明で気持ちが上がったんですね。これはなぜですか。

山添 白血病だと告げられた瞬間、医学の知識もなかったので「もう治らないのかな」「どれくらい生きられるんだろう」と考えてしまって、本当に目の前が真っ暗になりました。
 うつむきながら先生の話を聞いていたら、「最近は白血病は治る病気になってきているんですよ」とおっしゃったんです。

岸田 ええ……!

山添 私も驚いて、「本当なんですか?」と聞き返しました。ただし、治療期間は長く、最低でも半年は入院が必要だと説明されました。でも、治るのならやれることは全部やろう、子どもがいる自分は絶対治さなきゃいけない──そう思えたんです。
 治る病気だと分かった瞬間、気持ちが“戦う側”に切り替わりました。だからグラフも上向いたんだと思います。

岸田 治すために覚悟を決めたということですね。そのとき、お子さんお二人にはどう伝えたんですか。

山添 当時、上の子が小学5年生、下の子が小学1年生でした。難しい説明をしても伝わらないし、かといって簡単な病気だとごまかしても、入院が半年ですから現実と合わないので……。
 「血液の病気で、治るけど時間がすごくかかるみたい。8月から1月までは家に帰れないらしい」と、正直に話しました。

岸田 お子さんたちも受け止めてくれたんですね。

山添 はい。我慢は必要だけど、治るなら仕方ないよね、という受け止め方でした。途中からは「白血病」という言葉も使って、ちゃんと説明していました。池江璃花子さんのニュースもあったので、理解しやすかったと思います。

岸田 ありがとうございます。そしてそこからまた、グラフが大きく下がっていきます。何があったかというと……「薬物療法」ですよね。寛解導入療法で大量の抗がん剤を投与した──この期間、印象的だったことはありますか。

山添 はい。副作用で腸閉塞になってしまい、のたうち回る痛みが続きました。それが少し落ち着いた頃、寝たきりで絶食状態の中で、右手でiPhoneを取ろうとしたら、持てないんです。
 左手なら普通に持てるので、「筋力が落ちたのかな?」と思って何度か試しましたが、右手だけ力が入らない。まひに近い状態でした。

岸田 右手だけ……。

山添 はい。先生に相談したところ、「念のため調べましょう」と言われ、画像検査をしたら、左脳に膿瘍──つまり膿が溜まってしまっていることが分かりました。それが原因で右手が動かなくなっていたんです。
 白血病の治療中に突然手がまひして、「このまま治らなかったらどうなるんだろう」と恐怖でいっぱいになりました。鉛筆も持てず、字も書けず、お箸も使えない。手が固まって曲がらないような状態で、本当に大ピンチでした。

岸田 膿瘍……。頭に膿が溜まることがあるんですね。

山添 本当にレアケースみたいで、原因が明確に分かったわけではないんですが、血液に乗って脳に“血栓のようなもの”が飛び、そこで膿が形成されたのではないか、という説明を受けました。
 それまで腸閉塞でのたうち回るような腹痛があり、落ち着いたと思ったら右手が突然動かない……。髪の毛も大量に抜け始めていた時期と重なって、もう“三重苦”という感じで。
 「私、何か悪いことしたのかな?罰を受けてるのかな?」と思うほど、精神的にも追い詰められました。

岸田 利き手の右手が動かなくなるなんて……本当にきついですね。

山添 そうなんです。何もできなくなるんですよ。コンタクトを入れるのに30分。食べるのも、字を書くのも、生活が全て止まってしまうような感覚でした。

岸田 そのときの治療というのは?

山添 抗がん剤はいったん中断し、強力な抗生剤を投与する治療に切り替わりました。ただ、医療って基本的に「体格の大きい男性」を基準にしたデータが多いんですよね。
 私は体重がその半分程度なので「投与量も半分でいいよね」と最初は減量されたんですが、全然効かなくて……。
 そのことでまたストレスが増してしまって。でも、投与量を調整し直してくださったことで症状が改善し、そこからはリハビリを続けました。

岸田 リハビリではどんなことを?

山添 本当に基本の基本からです。指を1本ずつ動かす練習、腕を持ち上げて筋力を戻す練習、肩から動かす練習など、5種類ほどプログラムを作っていただきました。
 「眉毛が描けない」という困りごとを話したら、先生が“眉毛を描くための動作トレーニング”まで作ってくださったんです。生活動作に合わせてリハビリをカスタマイズしてくれて、本当にありがたかったです。
 毎日、朝昼晩とタイマーをつけて必ず続けるうちに、ある日ふっと腕が軽くなって、少しずつ動くようになっていきました。

岸田 今はどうですか?

山添 今は普通に使えます。完全に元通りとは言えませんが、90〜95%は戻りました。本当に奇跡のような回復でした。

岸田 白血病の治療中に腕が動かなくなるなんて、誰も予想しないですよね。

山添 はい。全く考えていなかったです。

岸田 そこから地固め療法へ進むわけですが、このときはどうでした? また別の副作用などは?

山添 地固め療法に入った頃から、むしろ“安定した患者”になりました。感染症にもならず、発熱もほとんどなくて。寛解導入のときが本当に大変だったので、その後は淡々と治療をこなすフェーズでしたね。

岸田 それは良かったです。最初の山場があまりに大きかったので……。そして気持ちもグッと上がり、ようやく「退院」となったんですね。入院期間はどれくらいでした?

山添 9カ月です。
 地固めになってからは体調も安定していたので、治療の合間に2〜3日だけ自宅に戻らせてもらえることもありましたが、それでも“長期入院”に変わりはなくて。
 最終的にしっかり退院できたのは、入院から9カ月後。8月に入院して翌年4月でした。長かったですね。

岸田 本当に長い期間でしたね。そんな中、グラフにもハッピーな項目として「ご長女の中学受験」があります。

山添 はい。入院は娘が小学5年生のときでした。6年生の受験期は一緒に家で過ごせるようになって、勉強にも寄り添い、無事に受験を終えることができました。
 家族として大きなプロジェクトだったので、治療の合間でしたが、やっと一区切りついた……という気持ちでした。

岸田 なるほど。ここはまた後ほど伺いたいと思います。
 そしてグラフの次の項目では、少し下がっていますが、青色なのでネガティブというわけでもないですよね。

山添 そうですね。

岸田 普通に比べたら……ということですね。

山添 はい。受験が終わってから、特に大きなイベントもなく落ち着いた日々だったので、「自分の体験をそろそろ書き残してみようかな」と思い始めました。誰かの役に立つかもしれないという気持ちもあって。
 とはいえ文章の経験が全くなかったので、まずオンラインのライティングゼミを受講して、書く練習を始めました。

岸田 ライティングゼミを受けて、そんな中で治療も終了へ向かっていった、と。退院してからも治療は続いていたんですね。

山添 はい。維持療法といって、粉薬の抗がん剤とステロイドを一定期間飲み続ける治療が続きました。ですので自宅に戻っても副作用のある日々で。
 急性リンパ性白血病は、発症から約2年間治療を続けるのが標準ということもあって、外来で薬を飲む生活を続け、ようやく2020年の8月で治療がすべて終わりました。

岸田 それも含めると、本当に長い闘病だったんですね。

山添 丸2年でしたね。

岸田 丸2年……。そして、治療が終わり、執筆を続け、ついに本を出版された。ライティングゼミから出版まで、実行力がすごいですね。

山添 本当に偶然の連続で……気づいたら出版していたという感じです。

岸田 もしよかったら、その本をご紹介いただけますか。

山添 『経営コンサルタントでワーキングマザーの私ががんにかかったら』というタイトルの本です。副題は「仕事と人生にプラスになる闘病記」。
 あまり“つらい話ばかり”ではなく、つらいときにどういう思考で乗り越えたか、どんな工夫をしたか——そうした“前向きなヒント”が多めの内容になっています。
 忙しく働いている方や、子育て中で「もし自分が体調を崩したらどうなるんだろう」と不安に思う方などにも読んでいただけるよう意識しました。

岸田 Amazonで検索したら……。

山添 普通に出てきます(笑)。

岸田 皆さんもぜひご覧ください。読みやすいし、ハウツー要素もあって、実用的ですよね。
 そして、そんな中で復職をされましたが……大変でしたか?

山添 かなり大変でした。結果的に丸3年の休職期間になったんですが、実はもっと前に復職する予定で動いていたんです。
 治療が終わった2020年の夏に職場復帰するつもりで会社とも話していたのですが、帯状疱疹になってしまい、「免疫が十分に戻っていないから延期したほうがいい」と主治医に言われて。

 しかも当時はコロナが急拡大していた時期。年明けの2021年1月に延ばすことにしたら、今度は「白血病の既往があるなら、ワクチン接種を終えてからが安全」と言われ、再び延期。
 結局、「復職します」「やっぱ延期です」が2回続いて、“復職するする詐欺”みたいな状況になってしまいました。
 そしてようやくワクチンを打ち終え、2021年10月に本当に復職できました。

岸田 やっと……ですね。復職してみてどうですか? すぐバリバリ働ける感じでした?

山添 いえ、全然バリバリじゃなくて(笑)。
 ありがたいことに会社に“リハビリ勤務制度”があり、半年間は時短勤務ができるので、それを利用しています。
 まずパソコンも返却してしまっていたので、環境のセットアップからスタート。使っていたソフトも変わっていたり、記憶が抜けていたりで、思い出すまで時間がかかりました。
 この3週間で少しずつ感覚は戻ってきましたが、それでも当時のようにはまだ動けないですね。何をするにも時間が必要な段階です。

岸田 数年ぶりの職場は、人も環境も変化していますもんね。

山添 はい。周りも変わっていますし、自分のペースを取り戻すのにも時間がかかっています。でもようやくスタートラインに立てた、という気持ちです。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 そして、ここからは山添さんの“ゲストエクストラ”について伺っていきたいと思います。治療中に大変だったことや困ったこととして、「子育て」と「長女の中学受験」が挙がっています。どのような点が特につらかったのでしょうか。

山添 子育てについては、食事や睡眠、通学といった“基本的な生活部分”は両親が頑張ってくれたので何とか回っていました。ただ、細かいケアは正直、難しかったと思います。
 学校に持っていく物の確認、行事の準備、急な連絡事項……そうした細かいところは、やはり現役のお母さんでないと気づけない部分が多くて。長女が小学校1年生の頃から仲良くしていたママ友に、LINEでお願いしながら助けてもらっていました。
 また、週末も家にいるだけになってしまうと子どもたちが寂しくなってしまうので、友達のお母さんに「どこかに連れ出してもらえないかな」とお願いすることも多かったです。本当に周りの方々に支えてもらいました。

岸田 単身赴任のご主人がおられて、山添さんは入院……となると、お子さんの生活拠点はどうされていたんですか?

山添 私の両親が家に泊まり込みで来てくれました。子どもたちは学校が近所だったので、私の実家に預けるよりも、両親に家へ来てもらったほうが生活がスムーズだったんです。
 本当に大変だったと思いますが、両親が支えてくれたおかげで子どもたちも日常を続けることができました。

岸田 そして、細かいケアはママ友やご友人がフォローしてくださった、と。

山添 はい。学校の情報、行事の準備、忘れ物のチェックなど、現役のお母さんだからこそ気づける部分をたくさん助けてもらいました。
 大学時代の友人で近所に住んでいる子も、頻繁に家に来てくれましたし、小さなお子さんのいる家庭の友人が「今日はハロウィーンだから」と誘ってくれたり、いろいろと気にかけてもらったんです。
 本当に、“女性の友達の存在”がこれほど尊く感じたことはありません。

岸田 いざというとき、周りの人に頼るって大事ですよね。

山添 本当にそう思います。

岸田 白血病の病棟って、お子さんが簡単に入れないんですよね。

山添 はい。中学生以上でないと入れないので、小学生の娘たちは基本的に病棟に入れませんでした。面会もガラス越しだったり、血球が安定したときだけ、別フロアの会議室を使って会えたり……本当に限られた環境でした。
 さらに長女は中学受験を控えていて、同じ塾に通うお母さんが細かい情報を教えてくれたり、勉強のサポートの形まで心配してくれたり。本当に支えられて、乗り越えられた受験でした。

岸田 無事に受験も乗り越えられたんですね。

山添 はい。医師の皆さんもとても理解があって、「どうしても勉強を見る時間をつくりたい」と相談したら、血球が安定しているときに限り、会議室を1時間だけ貸してくださったこともありました。
 点滴を受けながら、会議室で娘の勉強を見ることもありました。本当に医療者の方々の温かいサポートに救われましたね。

岸田 素晴らしいサポートですね。

山添 感謝しかありません。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 では最後に、山添さんが今回のがん経験から「学んだこと」について伺っていきたいと思います。スライドはこちらです――《楽しみを見つける訓練を》。これはどういう意味でしょうか。

山添 がんの治療は、身体的にも本当に厳しいですが、それと同じくらい精神的にもつらくなります。そういう“しんどい時間”の中で、自分の気持ちをどう上げるか――そこがとても大きなポイントだと痛感しました。
 入院中は、つらいことも、副作用も、制限も多い。だからこそ、ほんの小さな“楽しみ”を自分の中で持てるかどうかが、精神面に大きく影響すると思うんです。自分を励ます方法、気持ちを上向ける方法を持っている人は強い、と感じました。
 私の場合は、音楽や食べ物でした。食べられないときでも「退院したらまず何を食べに行こうかな」と考えるだけで、少し気持ちが軽くなる。そんなふうに、自分の機嫌を自分で取るというか、小さな楽しみを見つける“訓練”が、入院前からできているといいなと思いました。

岸田 ありがとうございます。確かに僕も入院中、旅行のことを考えたりして気持ちを保っていました。

山添 そうですよね。楽しい未来のイメージがあるだけで、頑張れるんです。それと、自分を否定しないこともすごく大切だと思います。

岸田 否定していくと、どんどん暗いほうにいってしまいますよね。

山添 はい。自分を責めても何も良いことはありません。「あれが悪かったのかな、あのとき無理したからかな」と、誰でも考えてしまうと思うんですが、それを続けると悪循環になるだけです。
 それよりも「治療を乗り越えたら何がしたいか」「退院後の生活をどう楽しむか」と前向きなほうに意識を向けたほうが、精神的には圧倒的に良い。治療は確かにつらいです。でも、どうせ同じ時間を過ごすなら、できるだけ明るいほうに、自分の心を向けてほしいと思います。

岸田 ネガティブに沈むのではなく、ポジティブに、そして楽しみを見つけながら向き合っていく――山添さんの闘病の仕方がすごく伝わってきました。ありがとうございます。
 コロンビア大学での勉強の話から始まり、つらい時間を乗り越えての復職、そして本の出版まで、本当にいろいろな示唆をいただきました。僕自身も、きょうのお話で前向きに生きる姿勢を改めて学ばせていただきました。
 本日はご出演いただき、本当にありがとうございました。

山添 ありがとうございました。

岸田 これにて、がんノート mini を終了したいと思います。ご覧いただいた皆さんも、ありがとうございました。

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