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インタビュアー:岸田 / ゲスト:YASUKO

【発覚・告知】

YASUKO YASUKOと申します。私は2011年3月にステージⅠの卵巣がんと子宮体がんだと告知をされて、3月10日の東日本大震災前日に手術をしました。

YASUKO 現在、経過観察中の38歳です。がんが発覚する1年前の2010年の3月に不正出血があり、このときに町のクリニックに行き子宮がん検診や血液検査などをして、特にがんは見当たらないということだったので、ホルモン療法をして、2010年12月ぐらいにホルモン剤の治療をやめました。

YASUKO その後、2011年1月にまた再び不正出血があったので、また町のクリニックに行きました。

YASUKO このとき町のクリニックの検査ではなんでもなかったんですが、会社の先輩が産休に入るタイミングだったので、会社の上司に「ちょっと今体調が悪くて、場合によっては手術をするかもしれない」っていうのを事前に予告しときました。

YASUKO これが私にとってはとてもラッキーで、この上司がお姉さんを乳がんで亡くされていたり奥さんもちょっと婦人科系の疾患があった経験から「町のクリニックだとMRIとか設備が整っていないから、大きな病院へ行け」って言われ、紹介状も持たずに水戸の赤十字病院に足を運び、いざ検査をしてみたら子宮体がんと卵巣がんが見つかりました。

岸田 2010年3月に不正出血?

YASUKO そうです。基礎体温にも波があったっていうのもあって、「ホルモン予防しましょう」って言われて、それでホルモン剤を飲んでました。

YASUKO 生理の周期も基礎体温も安定するまで2010年の12月ぐらいまで飲んでましたが、やめてから11年の翌月に再び出血があった。

YASUKO 幼なじみが日赤の産婦人科で働いていて信頼できて大きな病院は、日赤しかなかったのでそこへ行きました。

岸田 日赤病院では具体的にはどんな検査をしましたか。

YASUKO 最初の内診の時点で先生が「これ、良くないね」って言われてもうその時点で手術の話になり、その日のうちに他の科、血液検査とか、手術に際して肺活量とかも心電図とかも撮りました。

YASUKO CTかMRI、どっちかの予約も後日入れてもらってっていう形で、「次回、来るときは家族と来てね」ってお医者さんに言われて、告知をされたの2月の末ぐらいです。

YASUKO 「包み隠さず話しますね」って言われて、「卵巣と子宮に、おそらくがんがあります。もうちょっと深く検査したい」ということで、その後追加でMRIを入れてもらって、同じ週末に病院に行ったら、「先日の検査の結果、やはりがんです」と、正式に告知を受けました。

岸田 具体的にどんな治療をしたんですか。

YASUKO 当初はステージⅡのがんを予想されていたのですが、卵巣と子宮体がんでどっちかからどっちかへの転移じゃないのか先生も診断しきれないところがあったので、抗がん剤は術後の予定だったんですけれど、手術をして、迅速病理診断をしてみたら、子宮体がんだったので両卵巣と子宮と胎嚢とリンパ節、全てを摘出しました告知をされたのが2月の末で、手術が3月10日だから、その間にも追加のMRIやったり麻酔科行ったり、セカンドオピニオンにもこの短時間で行けるかっていうぐらいで行ってたから、もう本当にバタバタでした。

岸田 告知されて、ショックは受けませんでした?

YASUKO 受けました。私は母と母方の祖父の2人をがんで亡くしてるから、お母さんみたいな抗がん剤をやりたくないって大騒ぎして先生を困らせた。

YASUKO 母の頃の治療から10年ちょっとたってるから、「今はいい薬ができてるから、あんなにつらくないから大丈夫」という風に、一つ一つ先生がうまく説得し、伝えてくれました。

岸田 全摘出に際し誰かに相談しましたか。

YASUKO セカンドオピニオンで東京の病院に行ったのと、あとは先述の上司に話をしました。

YASUKO 会社も喉頭がんで亡くなった方がいたり前立腺がんを患った先輩や肺がんをやってる先輩もいたのでそういう人の対応も慣れているようでした。

【治療】

岸田 治療の話に戻すと、YASUKOさんは、手術後に抗がん剤治療はしなくてよかったということですか。

YASUKO 幸いと言うか、先生も「非常に珍しい」と仰っていたのですが、私の場合卵巣と子宮両方の原発でどちらかの転移によるものじゃなかったから抗がん剤治療はしなくてよかった。

YASUKO 母の闘病生活を見てたから抗がん剤治療は怖くて、万が一、再発したらどうしようっていう不安はあったけれどやらなくていいならと思って。

岸田 手術の前、不安じゃなかったですか。

YASUKO 手術の前は、意外に落ち着いていました。

YASUKO 告知されて入院までがわずかだったから、その間に仕事の引き継ぎも、入院準備もしないといけなかったので、あまり心の準備ができていなかったというか、実感がなかった。

岸田 何時間くらいの手術でした? 手術後は大変でしたか?

YASUKO 正直、手術の時間もその後の痛みなんかもあまり覚えていないんです。翌日に東日本大震災が起きちゃって。

岸田 実際にそこの話をお聞きしたいんですが、手術してその翌日、一人部屋に戻ってそこで3.11を経験されたっていうことですよね?どんな感じでしたか。

YASUKO あの日は妹が付き添ってくれたんですけれど、午後の処置があるから席を外してました。

YASUKO 処置が終わり1人でいたら地震が。揺れ始めて、すぐ終わると思ってたら、すごい大きくなってきて、点滴もしてるし、起き上がれないしとか思ってしばらくしたらやっと看護婦さんが助けにきてくださいました。

YASUKO 点滴もしてたし、前の日におなか切ったから起き上がるのも大変だった。

YASUKO 看護婦さんが来てくださって「車いす持ってくる?」って聞かれたんですけど、車いすで逃げたら、いざ外に逃げるときに一番、後回しにされちゃうとか思って、自分で頑張って歩いて逃げました。

YASUKO 上に羽織るものだけ着て。で、みんなのいる多目的ホールに行きました。40~50人いて、しばらくそこにみんな避難してました。

YASUKO 病院も洗濯機が倒れて床も水浸しだし、スプリンクラーが誤作動したり、外の駐車場のほうで地割れをしたとかしないとか、その上、日赤病院だから今度は救急車で搬送されてくるしで、病院の中は本当、大変でした。

YASUKO 軽症な人とかは一回退院させられて、病院にいるのは遠方の人と、私みたいな手術したばっかりな重症な人しかその期間いませんでした。

岸田 多目的室に行って、その後は?

YASUKO パンと水が支給されたんですけれど、私は自分でトイレにも行けないし、まだ水も飲めないから水だけもらってのどをうがいして湿らせるくらいでした。

YASUKO トイレも行けない、水も飲めない。ご飯も要らないから何も不自由しなかった。多目的ホールには10日ぐらいいたかな。起き上がるのにも一苦労でした。

【家族】

岸田 次に家族のことですが、がんを宣告されて、両親にはどうやってお伝えしました? YASUKOさんの家族構成は?

YASUKO 父と妹と祖母です。日赤に行くまでは父親には何も言ってなかったので日赤で「家族を連れてきてください」って言われたとき父に伝え一緒にがんの告知を受けました。

YASUKO でも、まさかがんだなんて思ってなかった。

YASUKO 父親は、母親を悪性リンパ腫で亡くしてたから、動揺してるのはあんまり私にはそのときには見せてなかったけれど、退院した後に父を見たら痩せてたから、ああ、心配かけてるんだなっていうのはありましたし、父親からきたメールで、「代わってあげられなくてごめんね」っていうのには、すごい親不孝してるなと思いました。

岸田 家族の中で、こういうサポートしてほしかったなとか、こういうサポートしてもらってうれしかったなっていうの、ありますか。

YASUKO 短い入院期間だったんですけど、退院した後とかの接し方で、祖母が「どこどこの誰々さんが、がんで亡くなった」とか平気で言ってくるから、それに私はすごい動揺しちゃって、怖かった。

岸田 普段どおりに接するのも大事だけど、がんで、そういうちょっとネガティブなことを言うのはそのときは控えてほしかったなということがあったりしたと。

YASUKO はい。

【恋愛、結婚】

岸田 YASUKOさんの恋愛、結婚のことというところですが、ご結婚はされて?

YASUKO ないです。当時は彼氏がいましたけれどさよならしました。入院する前は、結構サポートしてくれてました。退院後には見に来てくれたかな。割とまめだった。

岸田 当時の元彼さんは、がんになったって言ったらびっくりされてたんじゃないですか。

YASUKO びっくりされてましたけど、私が退院した後に、彼の親もすい臓に見つかったとかで結構バタバタでした。

岸田 お別れした原因はがんが原因ですか。

YASUKO だんだん私がモンスター化じゃないけど、最初は本当、ビクビク、「怖い」って言ってたけれど、自分で子どもが産めなくなっちゃったとき、すごく引け目を感じてすごい八つ当たりっていうか、ちょっと強く出しちゃったという部分があると思います。妊孕性の問題っていうのは大きいなあと思いました。

【妊孕性】

岸田 その妊孕性のお話にいきたいんですけれども、自分の卵巣と子宮がなくなったというところ、本当にショックだったと思いますし、当時の彼氏さんにもちょっとそういうことで当たってしまったっていうのもありますけれども、今は自分なりの落としどころが見つかっているんでしょうか?今後、子どもとかどう考えていらっしゃるのか、差し障りない範囲でお聞かせください。

YASUKO いろんながんがあるから、それぞれにショックだと思うんですけれど、婦人科のがんは、子どもが産めなくなるっていうのが一番ショックだと思うんです。

YASUKO がんを告知されたっていう事実や、がんの実感より、子供が産めなくなるっていうほうが、私はつらかったかなと思います。

YASUKO 先生に結構いろんな提案をして全摘出することに対する逃げ道を探したんですが、「がん患者は妊娠しづらいし、したとしても自分の命のほうを優先させます」って言われちゃって、ああ、やっぱりもう駄目なんだと思った。がんだと言われた時、子どもが産めないっていうほうがショックが大きかったかな。

YASUKO 自分もいつか結婚したら親になりたいけれど、でも万が一何かあったときはと。手術で取った後は結構、落ち込んで、退院してからは子どもを見るのも嫌だし、テレビで見るのも嫌だし、買い物、町に行けば親子連れを見るのが嫌で、すごい落ち込みました。

YASUKO 一時は外出するのも、家族連れ見るのも嫌だっていうときがあって子ども避けてたけれど、時間の経過とともに、今では友達の子どももすごいかわいがれるようになりました。

YASUKO 特に何かあったっていうわけじゃないけれど、子供が産めなくなったという心の傷も時間が癒してくれた。

YASUKO 仲のいい友達にお子さんが生まれて、最初の頃は、やはり周りにこういう、患者経験した人とかに、「いろんな面で時間が解決してくれるよ」って言って、本当にそんなことあるの?とか思ったんですけれど、いざ自分が今まで経過すると、時間の解決っていうのもあるんだって思います。

岸田 今後、彼氏さんができたときには、自分のがんの体験を先に伝えますか、後に伝えますか?

YASUKO 私は先に言ったほうがいいのかなと思うんですけれど、お医者さんからは、後のほうがいいんじゃないかと。

YASUKO その先生はいろんな話聞いてくださっていて、精神的に落ち込んでいた時は全部、先生に話を聞いてもらいました。

YASUKO がんになると気持ちが追いつかなくて、メンタルもやられて心療内科に行ったりするじゃないですか。うつ病とかも心配するじゃないですか。

YASUKO もうずっと困ったことがあれば先生に話しています。

YASUKO 手術する前にできていたこと、体力的にもここまでできた、こういうこともできたことが、オペをしたら、体力が自分でもびっくりなほど落ちた。それがすごいショックでした。

YASUKO だから「あれもできない、これもできない」と先生に愚痴ばっかり言ってたんですけど、外来に行ったあるとき、1回行くたびに一つは、いいことを先生に話そうって心の中で決めました。

YASUKO やっぱり、先生に救ってもらった命だから、それをちゃんと自分で。何より、大切に生きてるよっていうことを伝えたいなっていうのがあったので。

【仕事】

岸田 次に仕事のこと。当時は旅行会社に勤めていらっしゃり病気に対する理解も会社にあったとおっしゃっていましたが、休職、復職はどの様になさったんでしょうか。

YASUKO 仕事は休職扱いにしていただき2カ月休んで復帰しました。

YASUKO 復帰後は管理職が割と仕事をセーブさせようとして、周りの方がもうちょっとやらせてもいいんじゃない?っていう空気でした。

YASUKO 分担も減らされたし、震災の後だったから実際の仕事自体も、社会が旅行行ってる場合じゃないっていう雰囲気だったので少なかった。

YASUKO あれで普通に仕事してたら、私、体が持たなかったと思います。でも、最初はきつかった。

YASUKO 今思うとなんでもっと時間短縮とかいうのをしなかったんだろうと思いました。

YASUKO 当時はフレックスタイム制とかなかったですし。でも半年ぐらいたてば大丈夫でした。

【お金・保険】

岸田 次。お金、保険のことというところ。当時、保険は入ってましたか。

YASUKO 入ってましたけれど、養老保険だから支給はあんまりありませんでした。ただ、父ががん保険入っててくれたので非常に助かりました。

YASUKO 私のほうは少なかったんだけど、父親のほうは、がんと診断されたら100万は出ました。アフラックと会社の団体保険で結構どうにかなった。

YASUKO 再発したり何かあったときのためにちゃんと保管しておこうっていうぐらいの額が支給されました。

岸田 治療費は大体どれぐらいかかりました?

YASUKO 入院のときだけでいくと20万円いくかいかないかぐらい。抗がん剤やらなかったから術後一年目はCTとMRIを3カ月1度、両方やってたんですよ。

YASUKO だから結構費用がかかりました。1年目は毎月病院も行ってたし、3カ月におきにCTとMRIで2万円。あと普通の外来で3万円ぐらいかかりました。

YASUKO 限度額認定があったので非常に助かりました。

【辛い・克服】

岸田 精神的、肉体的に何がつらくて、そのときどう克服したかを教えていただけますか。

YASUKO 精神的につらかったのは妊孕性問題も含めて、がんになった自分自身を追い詰めちゃって。

YASUKO 子供を産めないっていうことで、よく一人、お風呂で泣いてました。

YASUKO そんな時、岸田さんもご存じのリレー・フォー・ライフで同じ卵巣がんを経験したお友達に会ったら、随分と気持ち的に軽くなったんです。

YASUKO それこそ、一人じゃないっていうのが分かった。そこからちょっと、気持ちの持ち方が変わってきたというところはあると思います。

岸田 じゃあ、肉体的につらかったことはどの様に克服しましたか。

YASUKO 肉体的には、体力の低下が著しかったので、職場復帰する前は家の近くとかを散歩をして体力は付けるようにはしてました。

YASUKO 幸いなことに後遺症は特になくて、天気が悪いときに下半身、脚がむくんだりするっていうぐらい。

【医療従事者への感謝】

岸田 医療従事者に感謝、要望というところ、何かあれば。

YASUKO 看護婦さんやお医者さんには、本当よくしてもらいました。

YASUKO 本当にこんなによくしてもらっていいのかって思うことばかりだったんですけれど、強いて言うなら、退院するときとかに患者会とかの案内冊子みたいなのを配ってもらえたらいいなっていうのはあります。

YASUKO リンパ節を取ったから、リンパ郭清とかのちょっとした冊子みたいなのとかは頂いたんですけれど、こういう患者会がありますよっていうのは周知されなかった。

YASUKO 行く・行かないは本人次第なんですけど、あまり周知がないかなっていうところはちょっと気になりました。

YASUKO 私、退院した後に外来へ行って「待ってる時間に患者のおしゃべり会、行ってきてもいいですか」って受付に聞いたんです。

YASUKO すると、病院の受付の方が「それは乳がん患者さんだけので、予約が必要なんだよ」って言ってたので、病院のスタッフでも、患者のおしゃべり会とか、患者の横のネットワークを知らないみたいで。

YASUKO さっき言ったように、リレー・フォー・ライフで同じ病気したお友達に出会えて精神的にすごく救われたから、病院の中でやってる患者会なんかをもう少し看護婦さんとかも耳に入れといてくれて、困ってる患者さんやちょっと悩んでるかなって感じた患者さんがいたら、こういうのもあるし、どう?とか、声を掛けてくれたら、患者さんの気持ちが少しは楽になるのかなとは思いますし、そういうのがあるとすごい心強いと思います。

YASUKO でも看護師の方も、今自分の担当してる先生にも、感謝しても感謝しきれない。本当、先生もフレンドリーで悩みも聞いてくれて、助かってます。

【キャンサーギフト】

岸田 キャンサーギフト。がんになって、マイナスなことも多いと思いますが、何かプラスになったこととかをギフトという形で思えば、何かありますか。

YASUKO 私のキャンサーギフトは、助産婦をしている幼なじみとの絆も含め、私にがんが見つかったっていうときに高校からの友達がすごく一生懸命いろんなことをサポートしてくれたので、友達との絆が以前よりもすごい深まったんです。

YASUKO がんになった後に知り合ったサバイバーの友達がキャンサーギフトって言う方、よくいらっしゃるとは思うんですけど、私は高校からの友達とこんなに密になれるのかと思ったし、患者の悩みって割と患者同士にしか話せないのに、病気をしてないその友達には本当にいろんなこと話せるんですね。

YASUKO だから本当にその子との絆っていうのがすごく深まって、助産婦やってる友達もそうなんですけれど、自分が病気したときに、自分のことのためにこんなにしてくれる。

YASUKO 助産師ではない友達は、がんが決定して最終告知を受ける時に「会社を休んで一緒に病院に行こうか」って言ってくれたのがすごくうれしかった。

YASUKO いつも私のことをサポートしてくれて本当に信頼しているんです。

YASUKO 一時はがんを経験している人じゃないと、私の気持ちなんて分からないと思ったこともあったんですけれど、その友達たちは私が落ち込んでもちゃんと寄り添ってくれる。

YASUKO そんな友達が私にとってはキャンサーギフトだなって思います。

【闘病中のあなたへ】

岸田 最後に闘病中のあなたへというメッセージをお願いいたします。

YASUKO これは過去の自分にもなんですけれど、『泣いて過ごすより笑って過ごそう』です。日々そうしたいなと思ったので、この言葉にしました。

YASUKO 周りに友達がいない、同じような病気をした友達がいないとき、一人でよく部屋やお風呂で泣いてばっかりいました。

YASUKO でもそんなに泣いてばっかりいなくても大丈夫だよっていう思いと、泣いて過ごすより、同じ一日だったら、笑顔で笑って過ごすそちらのほうが体にも気持ち的にもいいんじゃないのかなと思って。

YASUKO 無理して笑わなくてもいいけれど、泣いて過ごすよりは笑って過ごした方がいい。そんな思いです。

岸田 その転換期だったのは、リレー・フォー・ライフに参加して、同じ患者さんを見つけた時ですよね。思わぬ出会いが泣いてた自分を救ってくれた。

岸田 「泣いて過ごすより笑って過ごそう」という言葉をYASUKOさんからいただきました。きょうのがんノートは以上になります。ありがとうございました。

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