インタビュアー:岸田 / ゲスト:深澤

【発覚・宣告】

深澤 深澤愛子と申します。私は2005年7月、急性骨髄性白血病に23歳で罹患し、12年経ち35歳になった今も元気に暮らしています。2005年というのは、私が社会人2年目になった年で、1年目の春ぐらいから微熱が続いていて、朝は下がるんですけれど夜になると37度5分ぐらいの熱が出るっていうのを毎日繰り返してました。その当時は22時とか、遅いときは夜中の2時とかまで働いていたのでちょっと働きすぎで疲れているんだろうぐらいに思ってたんですけど、そのうち、シャワー浴びただけでちょっと疲れてしまうようになり、やはり少しおかしいかなって。終業後に診療所に行って血液検査したところ、ちょっと値がおかしいから総合病院に行ってくれということになりました。

岸田 体調悪くなったのは、結構いきなりでした?その前の予兆みたいなのはありましたか。

深澤 これが、具合の悪くなるちょっと前ぐらいに友人たちと旅行に行ったんですけど、そのときに熱を出して、旅行中3日間ずっと夜には熱があったんです。ただ、昼間は下がる。そこからずっと具合が悪くなった感じがしています。

岸田 友達が遊びに来て、観光している日中は熱は下がって体調は良くなるけれども、夜がちょっときつかったと。分かります。僕が発覚したときはめっちゃ寝汗とか出て大変だけど、朝にはけろっとしてたりだとか、そういうことも結構あった。深澤さんもそのときは風邪か、過労かなぐらいで思ってたんですよね。

深澤 思ってました。だから、頭痛薬とか解熱剤とかすごい飲んでました、勝手に。
その後、おじいちゃん先生が1人でやってるような診療所にいきました。そもそも、私、血液検査をしてもらうような症状の訴え方はしてなかった。ちょっと気持ちが悪いんですとか、頭痛がって言ったんですけど、その先生が、「貧血がひどいから血液検査しましょう」と。実際早い段階で異常を見つけていただいたので、ラッキーではあったんですけどその当時は喜べなかった。

岸田 確かに。だけど、良かったですね、早期に病気を発見してくれたお医者さんに出会って。

深澤 白血球が普通の人より少なかったので、どっちにしろ異常値だということで、総合病院に行きました。

岸田 総合病院に行ってどんな検査を受けたんですか。

深澤 まずは血液検査をしました。その血液検査してくださった先生が、教科書とかにもよく載っているような有名な名医らしくて。すぐに、ちょっと入院が必要なので親元に帰って治療をしてくださいと言われました。

岸田 総合病院の血液検査で、白血病ですと言われて、深澤さんはそれをどう受け止めましたか。

深澤 その当時は、先生からは直接言われたわけではなくて、ちょっと長期で入院する必要があるので、親元に帰って治療をしてくださいという形で、まだここでは白血病だとは言われなかったです。

岸田 じゃあ、自分でもがんとは思わず長期で入院必要だから、ちょっと実家帰ろうかぐらいに思っていた。

深澤 実家に戻る前に、仕事の引き継ぎがあったので、そのまま会社に行って引き継ぎしてるところ父親から電話がかかってきて、「お前白血病らしいぞ」って、電話でいわれました。その日中に両親が迎えに来て、東京に帰って、東京の病院ですぐに治療を始めました。

岸田 引き継ぎの為に何日かいたんですか。

深澤 いえ、その時点で上司にも総合病院の先生から電話が来ていて、一刻も早く親元に戻れっていうことで、その日中に、ほぼ引き継ぎできないまま東京に帰りました。

岸田 白血病って知ったのが、お父さんからの電話じゃないですか。聞いたとき、なんか頭真っ白になったとか、なんか落ち込んだとかありました?

深澤 それがその後も、きちっとした診断をしていただいて入院しても、あんまり落ち込まなかったんです。実感がなかったというわけではなく、治療をやるしかないじゃないかと思って。だかから結構大丈夫だったんです。

【治療】

岸田 そこからの治療について聞いていきたいと思います。東京での病院は近くでしたか?

深澤 実家から車で15分ぐらいの大きな総合病院です。

岸田 それからどんな治療や経過を辿ったんですか。

深澤 白血病の治療は全て入院治療なんですけど、大半が最初にまず抗がん剤の治療を1週間ぐらい行って、それで寛解と呼ばれる、がん細胞が目に見えない状態になったら、当時は地固め療法といって、抗がん剤のタイプの違うものを投与するっていう治療をします。私は3回やって、合計4回やりました。1回の抗がん剤治療に1カ月ぐらいかかりますので、7月から始めて、11月まで治療をしました。

岸田 2005年の7月、発覚、診断されまして、そこで7月から計4回、11月から12月ぐらいまで抗がん剤治療をしたと。そのとき、抗がん剤はつらかったですか。

深澤 そんなに私は抗がん剤自体に副作用がでなかったので、嘔吐してしまうとか、そういうことはなかったんですけど、急性骨髄性白血病になると、血小板という値が下がってしまう。血小板って血を固める作用があるんですけど、それがすごく下がってしまったので、病院内が乾燥していて、1回鼻血が出た時に止まらなくなってしまって、夜中に出ちゃったので、先生もいらっしゃらなかったので、タオルをいっぱいもらって、タオルを当てるっていうことしかできなくて、タオルがどんどん血で真っ赤に染まって、何枚も染まっていくときに、これは本当に怖いと思いました。出血しすぎで、ちょっとどうにかなっちゃうんじゃないかっていう恐怖がすごいありましたね。同じ日にまたトイレに行こうと思ったら、血がいっぱい出すぎてて貧血になっちゃって、トイレで意識を失って、気付いたときにはベッドにいました。すぐに処置していただいたので、大丈夫だったんですけど、そこから1週間ぐらいは不安でした。今後何が起こるんだろうっていうのは。

岸田 そうですよね。まだ止まったからいいけど、他の所で、もうちょっと大きな所切ったりだとかしたら大変ですよね。

深澤 だから、転倒とかにはすごい気を付けてました。

 

【副作用】

岸田 抗がん剤自体の副作用は、そのときは大丈夫だったんですね。

深澤 ちょっと気持ち悪いとかはありましたけど、周りの患者さんとかを見てると、私は大したことがないんだなとは思ってました。

岸田 抗がん剤を乗り越えて、次の治療が2006年1月。

深澤 急性骨髄性白血病も抗がん剤だけで治る可能性が高い場合には、それで治療が終了なんですけど、私、ちょっとあんまり良くない染色体の異常があって、その場合だと移植をしないと、ちょっと再発のリスクが高いということで、末梢血幹細胞移植を勧められまして、それを、この2006年2月から実施をすることにしました。

ただ、抗がん剤をやった病院では移植治療はしてないので、移植治療をしている所の、専門の病院で聞いてくださいということで2月からはそこで治療をしました。

岸田 2月にその移植前処置、2006年2月抗がん剤と放射線をまたやると。

深澤 ここの治療は、それまでの抗がん剤の治療とは比べ物にならないほど、ちょっと大変でした。意識が結構もうろうとしていて、2、3週間あんま覚えてないぐらいです。抗がん剤の量も、放射線の量も、すごく多いもので、そのまま外にいたらすぐに死んでしまうぐらいの量を浴びるんです。一度自分の血液をつくる能力をなくして、他の人の健康な血液をつくる素に取り換えるっていうものなので、自分の血液を作る能力をなくすために、この強い治療をすることになります。

岸田 自分の免疫とかを全部なくすために、抗がん剤でたたくわけですね。全部まっさらな状態になるみたいな。そのための抗がん剤だからすごく強いし、放射線も強いのを浴びるということを1カ月する。

深澤 移植前処置自体は、5日間なんです。その次の日か、2日後ぐらいに、末梢血幹細胞移植というのをして、そこからがちょっと大変になってきました。

岸田 この3月6日に、デイゼロって書いてますね。

 

 

深澤 これが、移植中の写真です。移植っていうと手術みたいなイメージかもしれないですが、手術ではなくて点滴のような感じです。私は弟がドナーになってくれて、幹細胞をくれたんです。この血液のパックが弟のもので、それを私のここに入れるっていう。

岸田 鎖骨から弟さんの血を入れていく。逆に、なんか本当に素人考えだったら、背骨になんかでっかい注射を入れてとか、切開してとか、そういうイメージなんですけど、そういうもんでもないんですね。造血幹細胞移植。献血みたいな感じですね。10年前の治療なんで、今の治療は違うかもしれないですけど。髪の毛は抜けた?

深澤 このときは多分、つるっぱげです。
眉毛も抜けて、まつ毛も抜ける。

岸田 そんな状況で、ここからつらい闘病も始まり、その2カ月後には退院ができたんですね。その後、3日後再入院って書いてますけど。

深澤 そうなんです。もう退院していいよって言われて、家に帰ったら、3日後に咳が止まらなくなり病院に来てみたら、肺炎になっていた。移植で、自分の免疫をなくして、弟の免疫で病気をたたくっていうことをしているので、弟の造血の細胞を異物とみなして、肺に攻撃をした模様です。

岸田 肺炎になって、再入院した。

深澤 幸いにもステロイドがよく効いたので、すぐにまた1カ月後には退院できましたけれど。

岸田 再入院から復活して、その後はどれぐらいの頻度で病院にいったんですか。

深澤 移植終わった後、免疫抑制剤を飲むんです。それの量をどんどん減らしていって、自分に馴染ませるんですけど、半年ぐらいはそれを飲んでいたので、週に1回とか、2週に1回とかは病院に来てました。

岸田 約1年後、職場復帰してそこから3カ月後にも入院してますが?

深澤 また肺炎になりました。今度は特発性間質性肺炎って、要するに原因が分かりませんと言われた肺炎で、結局何が原因かは今でも分かってないんですけど、これも、恐らくGVHDの一種じゃないかとは言われてます。白血病が分かったときには、さっき、あんまり落ち込みませんでしたと言ったんですけど、これが分かったときはすごく落ち込みました。頑張って治療して、やっと上がってきた、もう大丈夫だと思って働き始めて、また、がんと、病気だっていうのが分かったので、ちょっとつらかったですね。プラスで、このときに原因が分からないので、治療法も分かりませんと。ステロイドしかなくて、「ステロイドしかないんだけど、ステロイドも効くか分かりません」と言われて、そしたらもう打ち手がありませんっていうのを最初に先生から言われていたので、さすがにちょっとそこはつらかった。これもまた、たまたま運よくステロイドが効いたのでまたなんとか結構2週間ぐらいで退院できましたが。

岸田 よかったですね。そこから、また職場復帰したという形ですね。2007年の9月まで、最初から数えたら本当に2年ぐらいは、ずっと闘病していたという形ですね。

深澤 M0とかM1とかいう分類だとM2のプラスで、MDS(骨髄異形成症候群)からの移行です。

【家族・結婚】

岸田 次家族について。がんが発覚してからの関係がどうだったのかとか、あのときもうちょっとこうしてくれたらなとか、これ助かったなというものがあれば、お聞かせいただけますか。

深澤 母はほとんど毎日といっていいほど病室に来てくれて、洗濯物やってくれました。移植のときは、本当に動くのがしんどかったので、そういうのはすごく助かりました。ドナーにも少し負担が掛かるので、弟にドナー提供を切り出すときも、ちょっとちゃんと言わなきゃと思ったんですけど、そこは当たり前のように協力をしてくれたので、すごい感謝してます。
私は弟のおかげで生きてるとは思ってます。骨髄バンクのドナー探しもしたんですけど合う人がかなり少なかったので、恐らく弟が駄目だったら、なかなか移植までたどり着けてなかったんじゃないかなと思っています。

【恋愛】

岸田 いいご家族。 では、ちょっと次に、恋愛について。

深澤 はい、5年付き合っている彼氏いました。

岸田 5年付き合った彼氏さんがいらっしゃった。闘病中どうですか、支えてくれましたか。

深澤 最初の抗がん剤のときの病院では、結構お見舞いに来てくれて、すごい支えてもらいました。でもその後の移植のときは、家族1人が面会OKっていうのが基本。雑菌とかを持ち込んではいけないので、基本的に面会は1人だった。母が来てくれていたので、父もそんなに来れないという中で、彼氏には来なくて大丈夫だという話を私からして、あんまり連絡は取らなくなりました。結果私からお別れしました。

岸田 連絡を取らなくて大丈夫になっちゃったらあかんのか。その後、恋や恋愛はあったんですか。

深澤 2013年に結婚しました。
結婚を考えない恋愛にがんだったことはそんなに障害となるものはないので、普通の恋愛はしていました。闘病後に自分から告白したこともあります。

岸田 自分から告白したり、旦那さんとも出会って結婚できて、今4年目に突入してる。すごいですね。本当に、がん患者からっていうので、恋愛とか結婚とか臆することなく、普通の人と同じような形で恋愛している。

深澤 でもやっぱり、この人とだったら結婚できるかもと思ったのは、今の旦那さんだけでした。付き合う時点で、妊孕性の話もしていた。付き合う前にそれを話した上で、それでも付き合おうということになったので結婚できた。

岸田 素晴らしい。

 

【仕事】

深澤 一般企業に勤めていて病気発覚当時は2年目でした。会社の福利厚生制度は結構整っていて、3年間は休職ができたので私は2年間休職をさせていただきその後、復帰をしています。原則、休みのときにいた部署に復帰するっていうのが大原則なんですけど、退院して復帰しても免疫力が戻ってるわけではないので、まだ親元にいたほうがいいだろうと会社が考慮してくれて、特例措置として、実家から通える所に転勤の上復職をさせてもらいました。

岸田 復職までにやったこととか、なんかこういうふうに気を付けたとかあります?

深澤 1年間休んでいて、仕事ができるのかすごい不安だったんです。なので、自宅から近い所に、フィリピンの支援をしているNGO団体があって、復帰するまでそこで事務のお手伝いを週3ぐらいでしました、ボランティアで。

岸田 ボランティアをして良かったですか。

深澤 家族以外の人と全然話をしなくなるので、話の仕方とかも分からなくなるんです。友達とはお話しできるんですけど、順序立てて話すとかができなくなってたので、リハビリがてらやって良かったと思います。 復職までなので、半年以上ぐらいしました。職場復帰後は9時半に行って14時半に帰るという短時間勤務から始めて、それで少しずつ長くしていただいたので、体力的にはすごく良かったです。

岸田 最初に復帰したときって、どういう仕事振られるんですか。

深澤 営業系だとちょっとハードなので、総務系の仕事をまずやらせていただきました。今は営業系です。

【お金・保険】

岸田 次に、お金、保険。

深澤 治療費はその2年目までに稼いだ貯金で出しました。日常の生活の足りない物を買ってくるとかは両親に助けていただきました。

岸田 治療トータルでどれぐらいかかりましたか。

深澤 いったん、100万ぐらいお支払いはしてると思うんですけど3割負担なんで、戻ってきてます。当時まだ高額療養費制度っていうのはなかったので、先に決まった金額でいいっていうような形じゃなかった。移植で100万ぐらいかもしれない。最初の入院で63万なんです。

岸田 最初の入院だけで63万なら合計すると100万から200万弱ぐらいかな。そのとき、保険入ってましたか。

深澤 入ってませんでした。入らなきゃなって思ってたところだったんですけど。
まだいいんじゃないかと思って。皆さん、入ってください。

【闘病・克服】

岸田 本当にいろんな治療をしてきた愛子さんが肉体的につらかったときと、精神的につらかったとき、どうやって克服したか。

深澤 移植後は高熱が出たりとか、ご飯も食べれなくて1、2週間は栄養点滴だったり、下痢が止まらなくなったりいろいろ辛いことがたくさんあったんですが、一番つらかったのが、弟の骨髄が私のものになるっていうのを生着っていうんですけど、その生着するときに、白血球をどんどんつくろうとしてくれるんですね。それが、骨がものすごく痛くて、なんか全身がバラバラになる感じぐらい痛かった、その痛さかな。そのとき看護師さんが、多分もうその時間その方の勤務は終わってたと思うんですけど、病室に来てくれてずっとさすって、足が痛かったんですけど、さすってくださったので、すごくそれはありがたくて、克服できたと思ってます。

岸田 じゃあ精神的につらかったとき。

深澤 入院してるときに、友達がすごいたくさんお見舞いに来てくれてすごいうれしかったんですけど、その友達に対して、自分が何もできないっていうのが、すごく心苦しくて。あとは、看護師さんとか他のサポートしてくださる方も、やってもらってるばっかりで、自分が何も返せないなっていうのが結構つらかった。
でもあるとき友達が、私にメールをくれて、私が闘病してる姿を見て、励まされましたと言ってくれた。自分ももっと頑張ろうと思えるんだよね、みたいなことを言ってくれたときに、あ、これでいいんだなと思ったんです。頑張って治療に当たってるだけでも、誰かが喜んでくれるんだったら、それもいいなと思って、そっからはそんなにつらくなくなりました。

岸田 確かに、そうやって頑張って闘ってるだけでも、そうやって励まされてると思ってる人いたらいいですよね。

 

【後遺症】

岸田 今、愛子さんの後遺症、どんな後遺症がありますか。

深澤 大きく分けて二つありまして一つはドライアイとドライマウスと、あとは爪がすごい薄くなってしまったっていうのがあります。もう一つはさっきお伝えした妊孕性です。

岸田 妊娠ができるかどうかっていうものですよね。

深澤 一番最初の抗がん剤4回のときには、大丈夫だったんです。生理もありました。でも移植をすると、ほぼ100パーセント不妊になる。これが後遺症で、私ももれなく、もう不妊になっているんです。移植をするかどうかっていうときに、その話はお医者さんからされて、当時結婚するかも分かんなかったけれど、可能性が全くつぶれてしまうっていうのはかなりつらいなと思って、自分でネットでいろいろ調べて、未受精卵の保存っていうのをやっている施設を見つけて、未受精卵の採卵っていうのをやりました。

岸田 具体的にどんな感じなんですか。未受精卵の排卵っていうのは、普通に受精卵子を採って凍結する?

深澤 顕微授精のときに、卵子を採って、精子を採って、外で合わせるんですけど、それを受精させないまま、卵子のままで凍結させて保管をするという、当時は本当に始まったばっかりぐらいの治療で、保険も適用されない。今は、がん患者に限っては、この治療は保険が適用になったんですけどその当時はなかったので、結構お金がチャリンチャリンと消えました。1卵10万。
あと、保管料が毎年かかってくる。それは今もあんまり変わってないと思います。

岸田 そうですね。僕の精子保存も、毎年やっぱお金かかってます。

深澤 その後結婚をして、じゃあどうしましょうかと旦那さんと話し合って、やるだけやってみようということで、去年チャレンジをしたんですけど、残念ながら駄目でした。
正確には、一回は着床しかけたんですけど駄目で、もう一回は受精させることもちょっとできなかったので、卵の状態がやっぱり、治療後なので。もう一回、本当はできたんですけど、治療のスケジュール上、今考えてもできたと思うんですけど、ここの入院が重なって、「ちょっとやめてもらえますか」と言われて、やめました。

岸田 今となっては、あそここうしておけばっていうのはあるかもしんないですけど、当時は分かんないですもんね。愛子さんの経験が貴重だと思います。そういうのができるっていうことがあるだけでも。

【キャンサーギフト】

岸田 キャンサーギフト、愛子さんの場合はなんですか?

深澤 人への感謝の気持ちっていうのを改めて持ちました。本当にそれまで、あんまそんな深く考えてなかったので、友達からの連絡とかも次の日でいいやとか、そういう感じだったんですけど、人に支えられて、全てきてるなっていうのを感じて、すごく。それは、がんにならなかったら、もしかしたら気付かなかったかもしれない。あとは、NPOの活動だとかで知り合った皆さん、ここにいる、きょういらっしゃってる方も、私ががんにならなければ、お目にかかることもなかったと思いますので、キャンサーギフトとしては、新たな出会いをいただけたというところですね。

岸田 そのNPOというのは?

深澤 『血液患者コミュニティももの木』という、NPO法人がありまして、主には、血液の患者さんの患者会ですね。家族にも言えないような悩みを共有したりだとか、あとは、こういった体験を小学校で授業をするということもしてます。
『いのちの授業』といって、闘病の経験を小学校の道徳の授業や、総合学習の授業で、命の大切さ、命ってなんだろうねっていうことを、小学生と勉強をしていく活動をしています。他には、がんになってもみんな運動はできるんだよっていうことで、ももの木運動部というものがありまして、運動部の部長とか、部員の皆さんもきょう来てるんですけど、マラソンを走ったりだとか。

岸田 ももの木さんという、NPOの活動で、いろいろ血液の患者さんたち、どれぐらいの会員がいますか。

深澤 分かりません。会員制度を採っていない団体でして、1回でも、ももの木に遊びに来たら、その方はもう会員です。

【夢】

岸田 じゃあ、夢。愛子さんの夢。

深澤 特になくてですね。さっきも言ったんですけど、私お酒飲むことが好きなので、おいしいご飯とおいしいお酒を飲みつつ、元気に定年まで働いていきたいなというのが夢かな。せっかくいただいた命なので、長く細く、太く短くではなくて。

岸田 すごい大事ですよ。夢を持たないといけないとか、そういうのもなんかね。
だって平凡に暮らすっていうのが一番難しくないですか。闘病してたときって、平凡がどんだけ奇跡の連続なんだっていうのをすごく思いますよね。

深澤 朝起きてどこも痛くないとか、素晴らしいことですよね。

【闘病中のあなたへ】

深澤 今自分にできることをできる範囲で、希望を持ってやれば、それだけでいいと伝えたいです。早く治らなきゃとか焦ったり、もう少しリハビリちょっと頑張ってみようとか頑張ることはいいと思う。それで無理して悪化させることも多々あると思うので、できる範囲で。休むときは休んで。取りあえず自分の力を信じてあげて。

岸田 自分を信じて、自分の治癒能力や行く末をちゃんと見て、希望を持って治療に励んでほしいという、愛子さんからの言葉でした。

深澤 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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