性別 | 男性 |
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がん種 | 精巣腫瘍 |
治療方法 | 抗がん剤 |
ステージ | III |
罹患年齢 | 20代 |
インタビュアー:岸田 / ゲスト:曽我
【発覚~宣告】
岸田 では曽我さんの簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか。
曽我 曽我隆洋と申します。がん腫は精巣腫瘍、2014年の10月頃から発病。今は半年に1回ぐらい経過観察でみているという状況です。
岸田 どうやってがんって分かったのですか?
曽我 まずは、ちょうど発病する少し前に新婚旅行に行っていたんです。その時、なんとなく向こうで調子が悪かったんです。おなかがなんとなく痛かったりとか、全身の倦怠感があったりとか。長時間の移動だったりとか、食べものの影響だったりするのかな、ぐらいでなんとなく過ごしてたんですけど、帰ってきたらものすごくおなかが痛くて、下ってたりもして一回病院に行ったんです。病院に行ったら特に分からなくて、旅行もあったから、食当たりとかじゃないのっていう感じで薬をもらいました。下痢は治まったんですけど、だんだん痛みが強くなってきて家の近くの大きい病院に行って、そこでもなんか腫瘍があるけど何なのか分かんないと。取りあえずそれが大きいから摘出しましょうということで、他のがんの病院に行ったんです。それで検査していく中で、摘出する直前ぐらいにがんだったと。だからまずは抗がん剤やりましょうみたいな感じで発覚しました。
岸田 食当たりだと思ったけどまだ痛いから、大きい病院に行ったんですね。
曽我 最初は普通に生活するというか特に何もせず、我慢してました。我慢する中でだんだん痛みが強くなって、本当我慢できないぐらいになりました。奥さんにも病院行こうって言われたんで、家のすぐ近くに当時は大きい病院があったんで夜間に行ったという感じです。
岸田 それは最初の病院とあえて別にした感じ?
曽我 そうですね。あとは近いところで大きいところがあったから、とにかく一回早く診てもらおうと。
岸田 それでそこの病院の先生に検査してもらって、それで。
曽我 取りあえず腫瘍があることは分かったという状態で。その腫瘍が何で起きているのか、良性なのか悪性なのかも含めて分からないということで、その病院に入院して摘出しましょうという流れになりました。おなかに転移していたもうすごい大きい腫瘍があったのでまずそこを摘出することになりました。
岸田 その大きな病院で取ろうとなったんですね。
曽我 最初家の近くの病院で診てて分かんなかったんです、結局。最終的にがん研有明の病院の先生がたまたまその病院に来てて、じゃあ、がん研で一回いろいろ検査しましょうって転院して、そこで分かった感じです。
岸田 がん研有明って多分、分からない人もいるのでざっくり説明してもらっていいですか。
曽我 がんに特化した、症例数とかもすごく多い、そういう病院です。いろんなところから患者さんが集まってきて、実績もあるような素晴らしい病院だと思います。
岸田 がん研有明にはすぐ行けましたか。
曽我 特に何カ月待つとかはなく、すぐ行きました。最初は本当にずっと検査、検査っていう感じでした。
岸田 その検査の中で、何か大変だったこととかありました?特になく?
曽我 注腸検査をやりました。
岸田 何、注腸検査?
曽我 腸に空気を入れて膨らまして何か検査するみたいな。それがものすごいつらくて。
岸田 つらいっていうのは。
曽我 痛みというか、腹が膨れるような感じとか、とにかくその検査がきつかったってことは覚えてます。それで、記憶ではそれを入れた状態でぐるぐる回らされるみたいな感じで。痛みもあったし、なんとも言えない不快感があった記憶があります。
岸田 告知されたのはどの病院でしたか。
曽我 がん研有明病院でした。ただ腫瘍が何なのか分かんないから、その大きさでここにもあるというのがやばいということは聞いてたんです。ただ、もし精巣腫瘍の転移の腫瘍だったら、しっかりと治療すれば良くなる可能性が高いですよと聞いていて、僕含め家族としては精巣腫瘍であってほしいと思っていたんです。
岸田 告知されたとき、どうでした。
曽我 他の看護師さんに聞いたらどよんとしてしまったりとか、奥さんが取り乱したりする人がいる中、僕ら夫婦はそんなにならずに、「がーん」とか言って笑ってた。
岸田 ポジティブに受け止めてたって感じですか。
曽我 そうですね。僕らは。ただこれもよくある話ですけど、自分の両親も同席したんですけど、親の表情とかはやっぱショックを受けてた感じでした。
【治療】
岸田 最初はどんな治療をしたんですか。
曽我 抗がん剤をまず6クールやりました。転移が3カ所あったんで、その転移を殺すとか、おなかにある腫瘍を小さくするっていう目的でまず抗がん剤治療をして。最後におなかにまだ残ってるのがあるんで、それを手術して取り出してという流れです。
岸田 抗がん剤、6クール。
曽我 当初4クールっていう話でやってたんですけど。そこでまだ数値が、腫瘍マーカーが正常なとこまでいっていなくて、違う薬にしてやるか、また同じのをやるかっていうことで2クール追加しました。
岸田 じゃあ結構強いのでやってたんですね。腫瘍は小さくなってきました?
曽我 そうです。肺と腋窩は消えたのかな。
岸田 当時、おなかだけじゃないの?
曽我 検査してるときにどんどん転移してった状況で、肺とあと腋窩リンパにも転移してると。そっちは抗がん剤でOKだったんですけど、おなかは残ったんで最後摘出すると。
岸田 精巣にあったのがおなかとか肺に転移していったんですね。じゃあ精巣の治療は手術でした?
曽我 後腹膜の、おなかの手術したときに一緒に精巣も摘出しました。
岸田 抗がん剤とか手術で辛かったことは何がありますか。
曽我 抗がん剤はやっぱりものすごい副作用が強かったりとかして辛かったです。自分は接骨院で働いているんですけど、日常で患者さんが手術したていうのがある話で、あと手術乗り切れば終わりだみたいな感じで思ってたです。抗がん剤もつらかったですけど、手術も傷が大きいので、終わった後の痛みっていうのはかなりつらくて、今でも覚えてます。
岸田 どれくらい入院してたんですか。
曽我 手術してから2週間ぐらいかな。あとは抗がん剤やってるときだけ入院でした。やってるときはやる時だけ入院して、終わったら退院して。次の2クール目やる時、また入院して終わったら退院してっていう感じで。出たり入ったり。
岸田 そういう治療をしてきた曽我ちゃんなんですけども、入院中の写真がこちらで。いいっすね。曽我ちゃん、めっちゃ髪がある。これは抗がん剤前ですか。
曽我 前です。これから抜けるからっていう感じで、一応髪あるとこ撮っておこうか、みたいな。
岸田 そういう感じですね。夜、病院ですね。これはもうがん研有明さんのところで行っているときの。
曽我 そうです。
岸田 これから抗がん剤受けるぞといったところで。抗がん剤を受けたらこんな感じですかね。
曽我 そうです。このときに奥さんも毛が抜けるからっていうことで髪を切ってという感じで。
岸田 すごい、奥さんも切って。ええ話やん。
【恋愛・結婚】
岸田 次に恋愛、結婚で、曽我ちゃんの場合は新婚旅行のときに発覚したっていうところだと思うんですけど。そのとき、奥さんにどういうふうに、がんが分かったとき伝えたんですか。それとも一緒にいた。
曽我 一緒にいました。
岸田 逐次報告していた感じですか。
曽我 そうです、そんな感じです。
岸田 がんが分かった時の奥さんのリアクションはどうでした。
曽我 笑ってました。最初の家の近くの病院に行ったときにいろいろ検査して、自分は痛みがあるから処置室で寝かされるじゃないですか。これは後から聞いたんですけど、奥さんはそのときにお医者さんに呼ばれて、多分もう駄目ですみたいなことを言われたって。1年後ぐらいに聞きました。
岸田 時間差。まじで、1年。もう駄目かもしれないみたいな。がんがめっちゃちらばってってことですもんね。
曽我 そのときはおなかだけだったんですけど、はっきりと診断は分からないけど、このサイズがそこにあって今の状況だともしかしたら、みたいな話はあったということです。
岸田 そうなのか、まじかそういうことがあって。じゃあ奥さんのほうが先にそういうことを知って。
曽我 奥さんのほうがやばいって思ってたのかもしれないですね。自分の中ではむしろその診断が出るまで、がんなわけないよな、みたいな。そんな感じでした。
岸田 みんなが比較的前向きに捉えてたから自分もって形ですね。
【妊よう性】
岸田 ちょっとセンシティブなところで、妊よう性の部分について、僕たちでいうと精子とかの低下っていうのは説明されました?
曽我 抗がん剤で精子が死ぬっていう話もあるんですけど、その前におなかの摘出をするっていう説明のときに、後腹膜っておなかの奥のところを取らないといけないから、そのときに射精障害が起きてしまうという話は受けました。それによって自然妊娠は難しいから、まず手術前に出したのを凍結して、妊娠を希望するのだったらそれを使って治療しないといけないよっていう話はされました。
岸田 抗がん剤をする前にそれはしてくれたんですね。凍結しました?
曽我 しました。これはまた違う病院で。そういう不妊治療専門のところに行ってやったという感じです。
岸田 自分で調べて行ったんですか。
曽我 奥さんが結構やってくれたっていうのがあると思います。抗がん剤も精巣腫瘍って転移が早いっていうことで、早く始めないといけないし。なるべく早く受け入れてくれるところで、通いやすかったりとかいろんなところで選んだ病院です。
岸田 いくらぐらいかかりました。
曽我 凍結は、そこまですごい高額じゃないけど、更新が必要なんです。だから1年ごとにいくら、1本いくらみたいな感じで。数万円、1万円かな。
岸田 ちゃんとかかっていくんですよね、凍結するのも。また解凍してどうこうするってお金かかりますしね。じゃあ保存するのはそこまでお金かからない、それも10万円以上は超えなかったって感じですか。
曽我 10ちょいぐらい、そんなにかからなかった。ただ、今、不妊治療をしているんですけど、そこはかなり高額ですよね。
岸田 そうですよね。結構かかります?
曽我 結構かかります。それがもちろん1回でうまくいけばあれですけど、うちの場合は何回かもうやってるんで、やっぱり1回の額も大きいし。
岸田 1回の額、10万超える?
曽我 軽自動車、中古ぐらい。
岸田 まじか。めっちゃ金いるやん。
【仕事】
岸田 次、曽我ちゃんのお仕事、接骨院をされているそうですが、どう休んで、どうしたのかといったところもお話しいただければと思います。
曽我 最初は家の近くの救急で行って、即入院になって、そこからはずっと仕事を休んでた状態でした。院の代表の先生も休めと言ってくださって、仕事のことは本当に一切せずという感じで。たまに顔を出すようなくらいで、本当に治療に専念してくださいっていうふうに言われました。
岸田 どれくらい結局休んだんですか。2014年の10月に発症してから、どこくらいまで休みましたか。
曽我 2015年の夏ぐらいに、フルじゃなくて徐々に、受付業務をしたり治療の補助とかから始めました。午前中だけとか午後だけとかからスタートして、徐々にフルにしていくという感じでした。
岸田 どうでした、仕事復帰してから、受付業務からすぐ慣れていきました?
曽我 最初は体力的にもきつかったです。やっぱり1日はとても無理なような状況で。かなりきつかったのを覚えています。
岸田 休みだして1年弱で復帰ですもんね。
曽我 そうですね。徐々にやっていくという感じでした。
岸田 もうちょっと休もうとか思わなかったんですか、体力面からして。それよりも早く仕事復帰したかった?
曽我 それもあります。あとやっぱ、思い的にはずっと迷惑かけてるっていうのもありましたし、早くしなきゃなと思ってましたけど。でも、そんだけいただいたら自分の中で十分だったと思います。
岸田 その復帰の方法としてはどうでした、自分的には成功でした。それとももうちょっとこうしておけばよかったなってあります?
曽我 いや、そんな感じが自分としてはありがたかったんで。長い期間休んでフルでっていうよりかは、徐々にやってって体力付けてくっていう方法は、自分としてはよかったかと思います。
岸田 会社もすごい、院の人たちに恵まれてっていう形ですよね。このときに職場でこうしてくれてありがたかったなっていうのはあったりしますか。
曽我 本当にもう、休んでくださいっていう感じで、治療に専念させていただいたので特にないです。
岸田 引き継ぎはないんですか。
曽我 治療のところとかある程度あったんですけど、その他の事務とかは他のスタッフで手分けしてやってくれました。後はスタッフとか患者さまが千羽鶴みたいなのを作ってくれて、それを持って来てくれてベッドに置いてました。
岸田 それはうれしいですね。
【辛い・克服】
岸田 じゃあ次に、曽我ちゃんがつらかったときどう克服したかちょっとお聞かせいただければと思います。
曽我 抗がん剤中は、抗がん剤の種類でも結構つらい副作用が出るもので、とにかくつらかったです。改善する方法っていうのはそんなになくて、ひたすら本当に耐えるみたいな感じでした。肉体的に、例えばしびれが出たりとかっていうのも、直接これで乗り越えたっていうのはないかもしれないですね。
岸田 副作用はどんなのが出たんですか。
曽我 基本的には毛が全体抜けて。あとは吐き気、あとしびれ。味覚障害もありました。
岸田 あと嗅覚は。
曽我 それも敏感になるというか、結構食事のにおいが嫌になったりとかありました。ちょうどしんどいときに、向かいの人がマクドナルド買ってきたんです。ベッドたたきましたね。
岸田 まじで、向かいの人ので。
曽我 油っぽくて無理だって。あとは病院の食事のにおいとか、そういうのも本当に全部嫌になる感じでした。あとは、精神的なところでいうと、やっぱりずっと病室にいるっていう状況だと少し良くないんで、がん研の中庭をひたすら歩いてました。体動かしてないと嫌だなと思って、そこで歩いて。他の患者さんとちょっとしゃべったりしました。
【後遺症】
岸田 次に後遺症というところで、曽我ちゃんの射精障害以外の後遺症で何か大変なことありますか。
曽我 基本的には、自分の中で全部の能力が下がった感覚っていうか、体力とかも含めありました。特に最初きつかったのが、手足のしびれ。職業柄もう、細かい動作ができなかったりとかしびれがあると、本当に治療に関わることなんで、このまま取れなかったらかなりまずいなとはずっと思ってたんですけど、徐々に今取れてきて、ほとんど手はもうない。ちょっと足の裏の感覚が若干残ってます。手は半年から1年ぐらいで戻ったかなって感じ。
岸田 仕事復帰するときはどうでした。
曽我 仕事復帰し始めぐらいは、まだやっぱり残ってたって感じで最初は、たまにペンとかも落としちゃうぐらい。でも徐々に取れていった感じですね。
【反省・失敗】
岸田 曽我ちゃんがあのときこうしておけばよかったという反省すること、失敗したこと、何かありますか。
曽我 もっとたくさんの本読んだりとかしてたらよかったなと思います。ほとんど寝てたので。そのときはもうきつかったんで、他のことを考えられなかったんですけど。こういう活動も当時って本当にしてなかったし、知らなかったので。この『がんノート』等含めて、いろんなことを知ってたらよかったなと思います。
岸田 自分のがんは調べましたか?
曽我 お医者さんからちらっと出たのが、あんまり人のブログとか読まないほうがいいよって。なんかいいこと悪いこと書いてあって、大体書くのって悪いことだよみたいなことを言ってたんで。忠実に守ってました。あとは怖かったっていうのもあります。希少がんだけに、怖い事実をあんまり知りたくないなっていうのもあったんで。あんまり自分では取りに行ってなかったんです。だけど、こういう放送とかもその当時見てたら多分もっと違ったと思うし。すごい閉じこもってた感覚があったんで、もっと周りに目を向けたら良かったかなと思います。
【医療従事者への感謝&要望】
岸田 次に医療従事者に、こういうことはありがたかった、けどこうしてほしかったっていうことがあれば伺いたいです。
曽我 当時は、自分がつらいっていうこともあったんで、本当にささいなことがちょっと気になったりもしたんですけど、今考えて、人のお見舞いに行ったりとかいろんな病院に行くと、本当にがん研有明病院さんは素晴らしい場所だったなと思っています。施設も含めて。あとは看護師さん、お医者さん、いろんな検査する方の対応とかはかなりレベルの高い病院なのかなと思うんですけど。
岸田 どういうところが良かったですか。
曽我 当時、担当の看護師さんが男性の方なんです。場所的にも、いろんなナイーブなところというところで、いろいろ相談しやすかったりとか。年代も近い男性の看護師さんだったんで、本当に親身に自分の話を聞いてくれたりとかしてもらって、本当に感謝して。もちろんお医者さんとかにも感謝してるんですけど、一番はその担当してくれた看護師さんが自分を支えてくれてたなと思います。
岸田 逆にこうしてほしかったなっていうのは何かありますか。
曽我 本当にないですけど、お医者さんとかカーテンから入ってきて話しますよね。出ていくとき10分の8ぐらいまで閉めて、2開いてる。それがいちいちなんか気になったりするもんですよね。
岸田 それは患者さんあるあるやわ。ちょっとそういうのに敏感になりますもんね。
【キャンサーギフト】
岸田 がんになって悪かったことっていっぱいあると思うんですけど、キャンサーギフトということで何かあるでしょうか。
曽我 家族、友人、職場の人含め、本当に人のありがたさを知れた期間だったなと思うんです。僕はずっとサッカーやってて、中学校のサッカーチームの人たちとか、卒業してから本当に何年も会ってなかったりした人とかもいるんですけど、病気をしてみんなが集まって、いろんな全国から集まってお見舞いに来てくれたりとか、いろいろメッセージくれたりとか。本当に離れ離れだったんだけど、そういうところで自分は支えてもらったりとかっていうのが本当に気付けた。もっと人のためにこうしたいっていうのを、より病気をしたことで思うようになったかなと思います。
【夢】
岸田 今後の夢はなんでしょうか。
曽我 メディカル的なところで、お医者さんのできることとできないことってあると思うんですけど、自分のやってる職業柄、手で治すっていうのがあるので。もちろん全てのものに適応ではないと思うんですけど、抗がん剤の副作用を楽にすることができたりとか、あとは今回自分が不妊の治療を進めていく中で、不妊症ですごい悩まれてる方っていうのがたくさんいるということを知れて、ちょっとそれで整体的な見方でそういう妊娠しやすい体質を作って差し上げるような治療院をつくったりして、貢献できたらいいなと思っています。
【今 闘病中のあなたへ】
岸田 最後になりますけれども、今、闘病中のあなたへというメッセージを曽我ちゃんにいただいているので、お願いします。
曽我 気付きのチャンスです。本当に自分自身を振り返るチャンスでもあると思うんです。生活習慣含め、考え方とか。あとは周りの人たちのありがたさとか。今当たり前に行われていることが当たり前じゃなかったということに、本当に気付けた。病気のおかげで気付けたり、こういうところに僕が今いるのも、病気のおかげなのかなと思えるんで。今、闘病中って苦しいしつらいんですけど、何かいいことっていうのは絶対自分自身で気付けると思うんで、今、頑張られている方はぜひいろんなことに目を向けていただきたいなと思います。