インタビュアー:岸田 / ゲスト:宮澤

【発覚・告知】

宮澤 私が中学2年生の時、学校で避難訓練がありました。教室から避難して校庭にみんなが並ぶわけですね。今思えば予兆だったのかなと思うんですけど…そのときに私人生で初めて貧血で倒れたんですね。

岸田 だけど何百人もいたら、大体一人はいますよね。

宮澤 私も初めてその当事者になってしまいまして。その後は問題もなく過ごしてたんですが、とある朝起きたらとてもだるくて、起きられなくて、今日学校行きたくないと思って。言い訳になればと思ってこっそり熱を測ったんです。するといつもは平熱が35度台とかで低いんですけど、その日は36度7分あったんです。微妙だけど私にとっては高熱なんですよ。「やった、熱があった、休める」と思いました。それから体温計を喜んで持っていって「熱があったから、今日は学校を休む」って言って、また寝たわけです。私は1日休めれば良かったんですけど、どんどん熱が上がっていって、その日の夜には38度をぐんぐん超えてしまい慌ててしまって。

岸田 だけど38度を超えたら、確かにちょっとおかしいですよね。

宮澤 「おかしい、おかしい」と言って、初日に近くの町のお医者さんから風邪薬をもらってきて飲んだんです。でもおかしい。次の日になってもまだ熱が下がらないので、また同じ病院に行くとやはり風邪薬を出されるんですが、駄目だということで。で、3日目です。

岸田 高熱は続いたんですか?

宮澤 続いたんです。3日目になって同じお医者さんに行って、うちの母親が「あまりにも咳がひどいので、レントゲン撮ってもらえませんか」と先生にお願いしました。でもその先生はレントゲンを撮ってくれなかったんです。母がさらに頼むとようやく撮ってもらえて、それで肺炎だと分かり、慌てて隣の市の市民病院に転院して1週間の入院となりました。そこで入院してるときに「これはおかしいぞ」と気づいた先生がおられて、血液検査をしたところ「ちょっとおかしい」と。「では骨髄の検査をしましょう」となり、なんか面白くて珍しい検査なので病棟中の看護師さんも先生も集まってきて、みんなの前でお尻を出して骨髄の検査をしました。痛いんですよ、あれ。そこで白血病と分かりました。

岸田 じゃあ骨髄の検査をして分かったということですが、最初に先生から理恵さんに「白血病ですよ」という話はあったんですか。

宮澤 今は治療も終えて20年以上たつんですが、じつは一度も先生に白血病ですって言われたことはありません。

岸田 子どもには話さないと。では、どうやって知ったんですか?

宮澤 大学病院に移って入院しているときに。両親はもちろん知ってるので、母から「実は、あなたは白血病なんだよ」って聞きましたね。「でも、ここの病棟に入院してる子どもたちはみんな知らないことだから、絶対に言っちゃいけないよ」とすごく固く口止めされました。

岸田 同じフロアの人たちは、みんな分からずに入院してて…

宮澤 なんかうちの親は、さすが親だけに鋭いと思うんです。私は考えちゃうほうなので、母が「理恵には言ったほうがいい」という判断で言ったそうです。

 

【治療】

岸田 どんな治療をされましたか?理恵さん。

宮澤 その当時だと、化学療法、骨髄移植、あと放射線療法とかありましたけど、でもだいたい化学療法か骨髄移植のどちらかに分かれますね。どちらにせよ、最初は化学療法である程度抑えるんです。その後落ち着いてきたときに、じゃあいよいよ化学療法でこの先も行くのか、骨髄移植をするのかという選択を迫られます。人によっては決められちゃう場合もあるらしいんですが、私の場合はありがたいことに、たった1人の弟がちょうど骨髄の型が合ったので2つの選択肢がありました。

岸田 (骨髄の型について)なんか結構聞きますよね。

宮澤 骨髄バンクとかありますけど、あれは型が合う人がなかなかいないということで。普通の血液型だと、A・B・O・ABだけなんですけど、骨髄の型ってものすごいいっぱいあるらしくって。同じ兄弟でも4分の1、両親で12分の1だっけ、25分の1かな。とにかくなんかすごい少ないらしいんですね。だけど弟がたまたま私と合ったんですよ。だから「移植することもできる」と言われました。また母には「(治療法は)自分で決めていい」と言われました。私の場合は移植しても、化学療法でやってもどっちも確率的には変わらないということでした。

岸田 当時はね、1990年代のときは。

宮澤 そう、私の場合は。人によっては分からないですけど、私はそう言われました。どちらにするか迷いましたが、私は化学療法を選びました。

岸田 それはなぜ?

宮澤 移植をした場合、もし拒否反応が出ると当時はそれでアウトだったんですね。なのでいきなり最後の手段を使ってしまって、アウトになったら怖いでしょう?

岸田 確かに。最後の砦として残しておきたいですもんね、人の心理として。

宮澤 そう、残しておきたかったの。だから私は、つらいのは分かってるけれど頑張れば何とかなるかもしれない、ということで化学療法を選びました。確か1週間単位で、ある特定のお薬を24時間ずっと点滴で入れるんですけど。

岸田 で、抗がん剤をやってたと。

宮澤 抗がん剤を入れ終わる頃になると、ずっと気持ち悪い日々が続くわけですよ。抗がん剤で吐き気がものすごくって、髪は抜けるし、だるさももう半端じゃなくて、足がすごくムズムズしたりとかします。足がもうどうしようもなくだるくって、母が横でマッサージしてくれてましたね。あとはもう寝てるのが気持ち悪くて、でも貧血で起きていられないんです。だからベッドを起こして、寄りかかって一日中過ごしてました。寝るときもこの体勢じゃないと寝らんないんですよ。横になっちゃうと駄目でした。

岸田 何カ月ぐらい入院してましたか?

宮澤 1年半入院してました。

岸田 当時は何かやっていたこととかありますか?

宮澤 今は1人1台テレビがありますけど、その頃は病棟に1つしかなかったんです。

岸田 ちょっと待って、病棟?

宮澤 病棟に1つです。病棟を出たホールみたいな所にテレビが1台あって、それを見てました。

岸田 まじか。じゃあ、みんなでどのチャンネルにするかっていうのを。

宮澤 そうそう。

岸田 医師や看護師さんとは、どのような付き合い方をしていましたか?

宮澤 中学生だったので一応勉強もしてました。問題集を買ってきてもらって。本当はいけないんですけど、9時の消灯後に入院してる中学生たちが集まってナースステーションへ行って。インターンの先生がいた時代だったので、その先生たちが教えてくれるんですよ。

【家族】

宮澤 うちは、父、母、弟の4人家族でした。実家と入院していた病院が電車で1~2時間かかるくらい離れていたので、親がちょくちょく来るというわけにはいかなかったんです。だから母親がずっと付きっきりで、一緒に病院で生活してるような状態でした。結局、うちには父と弟しかいないと。弟がまだその頃小学校5年生か6年生で、学校の行事でつらい思いをしたりとかデリケートな時期で大変だったんですけど、母を私が1人で独占してしまってる状態で。だから弟はつらい思いもいっぱいしたと思うので、姉としてはとっても申し訳ない気持ちで頭が上がらないですね。

岸田 頭が上がらないですね。すごいです。だけど、家族一緒に闘病を頑張ったということもあると思います。「付き添いがいないと、寂しくなかったですか?」(動画視聴者からのコメント)という質問がありました。

宮澤 母がいないときは寂しいというか、やっぱりストレスたまるじゃないですか。でも他の人には怒れないでしょう?だから母に全部愚痴とか言っちゃうので、母がいないとストレスがたまりました。

【学校】

岸田 次に学校のこと。学校の授業の遅れについての心配はありましたか?

宮澤 私が退院したのは中学校3年生の9月なので、みんなは高校受験勉強真っ最中だったんですね。私は色々と考えて悩んだ結果、もう一回3年生をやり直そうということに決めました。理由としては、私が白血病になった頃に5年後生存率というものを調べて知ったんですが、それは20パーセントだったんです。ということは私は中学2年生だったので、もし5年後までしか生きられなかった場合は高校を卒業できずに死んじゃうんですよ。その当時、私は入院してる時に「(将来)やりたい」と思える仕事ができたんですね。それは自分の病気の経験を生かして、病院でカウンセリングみたいな仕事をしたいというものでした。今でいう医療相談室とかのワーカーさんですね。その頃はなかったので、まだ未知の世界でしたけど。だから大学まで何とか行って、資格も取って、その仕事をしたいと思ってたんですが…。でも高校も卒業できずに死んじゃうと、何もできないじゃないかと。

岸田 道半ばでね。

宮澤 そう。だからそれがあるからもう嫌だと思って。「私は別にどうなってもいい、何もしないでそのまま死んじゃってもいい」と、「(このまま)学校も卒業しちゃう」って初めは言ってたんです。だけどそこで母に「じゃあ、もし生きてたらどうするの?」って言われたんですね。そうすると「もし勉強も分からないまま中学を卒業すると、やっていく気力がなくなってるだろうな」「もし5年以上生きてたらどうするんだ」と思って、ちょっと頑張んなきゃなあと思って。

岸田 ちゃんと前向きにやっていくということで。それで卒業はできたんですか?

宮澤 一つ学年を遅らせて、4月からは2度目の3年生をやって、だから、一つ下のクラスに編入しました。修学旅行とかいろいろイベントも参加したりしつつ、勉強もしつつ、翌年の3月に無事卒業しまして、無事高校にも入りました。

岸田 1年下の人たちと一緒に授業をするって、どんな感じになるんですか。

宮澤 ちょっと複雑ではありましたけど、私が入ったクラスが、すごくいいクラスだったんです。すごい仲のいいクラスで、男子も女子もニックネームで呼び合うような仲のいいクラスだったんですね。だから修学旅行に行くにも、楽しく行けたし、すごくいいクラスで幸せでした。

岸田 髪は?そのときは、もうない。

宮澤 はい、かつらで通ってました。だから修学旅行に行くと、どうしてもかつらを取る時があるじゃないですか。どうしようかって迷ったんですけど。私自身が「このクラスはすごくいいクラスだから。(かつらのことを)言っても、多分問題ないだろう」と自分で判断しました。そして担任の先生に「私はこのクラスのことを、みんなを信じてるから、先生から言ってください」とお願いして話してもらいました。だけどその後も、いじめや突かれることも何もなく普通に生活できて、修学旅行も無事に行き、お風呂もみんなと一緒にかつらを取って入りました。

岸田 その後、高校へ行って、大学に行きますと。

宮澤 大学も希望どおり、社会福祉の学部のある学校に入学することができました。それで勉強を始めるんですが、2年生になった春に、今度は精神的に障害を抱えてしまいます。

岸田 「精神病はがんのせいで?」(動画視聴者からのコメント)という質問が来ています。

宮澤 それは違いますね。

岸田 その後、精神科へ通って。だけどちゃんと3年後には大学を卒業したと。

宮澤 はい、卒業しました。実習行ったりとか、何とか頑張って行きましたね。

【仕事】

岸田 それでは2017年。お仕事のところをお願いします。

宮澤 卒業してからも入退院を繰り返し、「もう仕事なんかとんでもないと」いう感じでいたんですけど。あるときから家を出て、実家の長野から千葉に来ることになって、病院が変わったんですね。ここに来てから通い始めた病院で、すごく私と先生の相性が合ったというか、とっても良かったのですごく前向きになってきたんです。その先生に会ったおかげで落ち着いてきて、やっと就職できるまでになって。

岸田 就職したことで、何か変わったことってあるんじゃないですか?

宮澤 中学のときもそうですけど、一般的な生活とちょっと違ったところにいたのでコミュニケーションを取るのがちょっと苦手だったんですね。だから、障害者の訓練のための就職先なんですけど、自分より上の世代のいろんな方と一緒にいるっていうのが初めてだったので、それが苦手で人間関係にちょっと苦労をしたりとか。仕事の独特の人間関係ってあるじゃないですか、上司と自分とか。職員と自分の立場の違いとか。そういったもので、例えば言葉遣いから始まって、色々と一般社会の人間関係って学生同士とは違うじゃないですか。この年になっていきなりそういうところに入ったので、慣れないことがいっぱいあって、結構注意されたりもしました。

岸田 今の就職先っていうのは、事務関係ですか?

宮澤 食堂です。NPOの機関なんで、そこで請け負ってやってるという、そこで仕事をしてます。

岸田 じゃあ、昔、自分がなりたかったといったところとはちょっと違うところで、ただそれでも、自分の居場所を見つけられたと。

宮澤 はい、そうですね。

岸田 すごい、今頑張られてる。「理恵さんすごい。多くの人の希望になります」というコメントも来てます。

 

【恋愛】

岸田 じゃあ、ちょっとだけ深掘りたいことがありまして。恋愛。入院していた時、中学生、高校生、大学生の多感な時期だと「誰が好きなの?」とかあるじゃないですか。

宮澤 いやあ、もうすごい好きな先生がいまして。愛想の良くない先生もいる中、その先生は一緒に遊んでくれて大好きだったんです。

岸田 その後の恋愛では、自分ががんだったことをカミングアウトしましたか。

宮澤 私は常に言ってました。高校のときも片思いはしましたし、大学のときも初めてお付き合いした方もいましたけど、私は内緒で付き合うのとか嫌なんですよ。「自分を全部出せたほうがいい」と思ってるので、だから私はいつもみんな伝えて、それでOKじゃないと駄目ですね。

【辛いこと・克服】

岸田 精神的に肉体的に辛かったとき、どうやって克服したかっていうのを教えてください。

宮澤 先ほど「精神的につらくてリストカットしましたって」という話をしましたね(動画参照)。その後が、とってもつらかったんです。なぜかというと、私は白血病で皆さんから輸血してもらった血で元気になったんです。だけど精神的に病んだときには、生きてるのがつらくてしょうがない。生きてるのが苦しくて苦しくて、死にたくて死にたくてしょうがないのに、生きてる自分がいて。リストカットすると血が出ますよね。だから実家にいた頃は、親にものすごくそれを言われて。「あなたは人からもらった血で元気になったのに、なんでそんな無駄な、血を捨てるなんてことをするんだ」と。それに対して私は「いや、私は別に、輸血してくれとは一度も言ってない」と「私はこんなに今死にたくてしょうがないのに、あのときなんで死ねなかったんだろう」って。
命を助けてもらった身なんだけど、今はそれを捨てたくてしょうがないって状態になって。その間でものすごい、ものすごい悩んだんですよ。あれはもう、病気で治療してるときよりもつらかったと思います。自分に命があるってことが。

岸田 それをどう克服したんですか?そのきっかけとかあったんですか?

宮澤 きっかけはいろいろあったんですが…。一つ言うなら…。私がリストカットをしてることを、ある方に「自分勝手だ」と言われたことがあったんです。その方は私のその傷を手当して、その後に「ちゃんとこれは、周りのことも考えてやったか」って言ったんですよ。リストカットすること自体は、私が傷つくだけだし、私が痛いだけですよね。「だから別にいいよ。だけど怪我をすると、手当してくれる人が必要だよね。あと手を切ったら、できなくなっちゃうことがあるよね。代わりにやる人のこと考えた?」って言われて、ものすごいびっくりしましたね。私が自分で勝手にリストカットすることで、誰かに迷惑掛けてるって、考えたこともなかったんですよ。そこで、はっと目が覚めて「そうか、私だけがそれによって影響を得てるわけじゃないんだ」とていうことに初めて気付かされて、そのときにやっと目が覚めました。それからリストカットやってないです。

岸田 次は後遺症のことです。理恵さんの後遺症、結構あるんじゃないですか。

宮澤 私としては特に考えてないですね。精神的な病気のことも、私は(がんとは)関係ないと思ってますし、つながりはないと思ってます。強いて言うなら…私まだ髪が薄くて毛も細いんですよ。もう20年以上経ってるんですけど、頭皮が見えちゃんです。だからたまに子どもとかに「なんではげてるの?」って言われます。私も知りたいですけどね。まあ、私はあまり気にしてないですけど。

【キャンサーギフト】

岸田 先ほど、がんになって良かったっていうこともおっしゃっていただきましたけれども、キャンサーギフトとして、がんになって良かったことは何でしょうか。

宮澤 「これ」というのはちょっと難しいんですけど…。私が今まで生きてきて夢とかができたのは、白血病を経験したからだからこそだと思っているので。夢を与えてもらったことが一番だと思ってます。

【夢】

宮澤 私、もともとは大学まで行って資格を取って、そういう専門の仕事に就きたいと思ってたんです。だけど、ちょっと精神的なものがあって、とてもじゃないけど今は「もう駄目かな」って思ってるんです。だから、中学生の当時の自分には申し訳ないけど、どうもその資格は取れそうにないと。だから「ごめん、その仕事、もうできないや私」って。
だけど、私その後に色々な人たちと関わる中で、自分の病気とかの経験を人に語るっていう大事なものを知ったんですね。それだったら、今の私でできると思って。私の場合だったら、もともと白血病で苦しんだ経験もあるし、その後に大学のときから精神的にもすごく苦しんだって経験もある。あとは、リストカットした経験もある。薬いっぱい飲んだ経験もある。今、そこで何とか復活してて、仕事に就けるまでになった。その過程がある人はなかなかいないと思うんですよ。がんを経験して、命を救ってもらった人はいると思いますし、つらくてつらくて自殺しようと思った。そういう人もいると思うんです。だけど、それを両方を経験した人って、そうそういないと思うんですよ。だからそれは私の強みだと思ってます。そういう自分なりの経験したことのメッセージとして、いろんな方にそれを発信していって、それを受け取った方が私のことを聞いて。その人が、自分の人生の中で、自分にとってのこの部分は、じゃあこうしてみようかなって。まさにこの『がんノート』じゃないですけど、そういうことを伝える。そういう役目を担っていきたいなと、それが夢ですね。

【今、闘病中のあなたへ】

宮澤 『ぼちぼちいこう』と書きました。私は、すごい焦っていたと思うんです。「早く頑張って資格取らなきゃ」「仕事就かなきゃ」とかいろいろ思ったんです。だけど、いろいろ焦った時期はあったけど、「結局は資格が取れない、どうしよう」とか「もう駄目だ」とか思ったけど、そんなに焦ることないなと。死ぬのも焦って死ぬんじゃなくて、「あとでいずれ死ぬんだから、そのときまで待っていよう」と思ったみたいに。別に人生は普通に流れていくから、たとえ波瀾万丈だろうがなんだろうが進んでいくので、そこはゆっくり行けばいいかなあ、自分のテンポでっていう、そういう感じですかね。

岸田 そうか…せかせかせず、「ぼちぼち自分のペースで」。理恵さんからのメッセージでした。ありがとうございます。

 

 

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