目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:小林

【発覚・告知】

岸田 きょうのゲストは、小林さんです。

小林 小林睦弥です。2008年の3月、高校卒業して大学も決まっている春休みに、顆粒球肉腫急性骨髄性白血病を発病しました。

岸田 今29歳ですが当時は18歳ですよね。この顆粒球肉腫急性骨髄性白血病、あまり聞いたことがないので、僕も、小林さんに聞きながら、配信していければと思います。

小林 高校卒業してから体調が悪くなりました。

小林 食欲旺盛な時期だし結構食べる方だったせいか、腹水がたまっておなかがどんどん大きくなってきたんです。

小林 でも、太ってきたなぐらいの感じで過ごしてたら、動けなくなるくらいしんどくなって、病院に行きました。

小林 病院では内科に行ったんですけど、診察はレントゲンと触診だけで、「おかしいけど、うちでは分からへんな」って言われ、市民病院へ連れていかれました。

小林 MRIは撮ってもらったけどそれを見れる科がないから分からないなと言われ、最後に兵庫県立がんセンターを紹介してもらって行きました。

小林 なんか臓器ではない、ちょうど腎臓と腸の間の辺に腫瘍が写ってるけど、詳しく検査してみないと分からないと言われました。

岸田 MRIで検査しても分からなかったので、がんが、疑いがある。じゃあもう、血液の値とか、結構異常だった感じですかね。

小林 多分、そうだと思います。

小林 兵庫県立がんセンターでも腫瘍の詳細は分からなかったのでいったん自宅に帰ったんですが、そのとき腸閉塞も起こしてて、緊急入院で最初に行った市民病院の救急外来みたいな所に行って、すぐに鼻から管を入れて、胃液出すみたいな感じでした。

小林 一旦市民病院に入院させてもらって、がんセンターのベッド待ちを1週間くらいしてから、がんセンターに転院した感じです。

小林 がんセンターで、取ってもらっていた腹水からその血液のがんっていうのが分かったみたいです。

小林 がんセンター入ったとき血液内科の主治医の先生が来てくれて初めて血液のがんが分かって、そこでもう一回2リットルぐらい腹水抜いてもらいました。

小林 その時は泌尿器科だったんですが、その後血液内科に移動し、そこから抗がん剤治療がスタートしました。

岸田 がんは兵庫県立がんセンターで腹水取ってみて宣告された感じ?

小林 ざっくり病状を聞いた後、抗がん剤を投与する前くらいに、先生から顆粒球肉腫急性骨髄性白血病という病気だと伺いました。

岸田 1人で受けたんですか、がんの宣告は。宣告受けたときどうでした?

小林 家族と親と一緒に聞きました。

小林 がんだと分かった時は、ショックというか、病気したときからもうおかしいし、それこそ、もう、やばい、死ぬの?みたいな状態だったけれど原因が分かったので。

小林 取りあえず、がんか、がんは受け入れないと仕方ないな、と。

小林 でも、なんで今なんやろう、なんで私なんやろうとか、ずっと思いながら話を聞いてました。

小林 これからの治療の方法とかも、結構、大変そうやし、その治療、全部受けれるんかなとか、取りあえず受け入れるしかないけど、情報が多過ぎてパニック状態だった。

小林 スタートが結構バタバタしたので落ち込むというよりかは、気持ち的には、後からきた感じです。

小林 聞いた時点で、病気だということは受け止めました。

【治療】

岸田 入院してからその後どんな治療を?どういうことをして、どういうことがつらかったかとか大変だったかと。

小林 1回目の抗がん剤はイダマイシンっていうのを腫瘍がちっちゃくなるまで投薬しました。

小林 その間もずっと鼻、管入ったままで、ご飯も食べれなくって、点滴栄養でした。

小林 投薬で腫瘍が縮んでくれたので、次の治療ではキロサイド大量療法っていう、結構、強めの治療が始まって、それを3、4回はしたかな。

小林 何回かして顆粒球肉腫は小さくなりました。顆粒球肉腫っていうのは将来的に骨髄性の白血病になるみたいなんですが症例が少なくて、先生も手探りだったんです。

小林 顆粒球肉腫の人は大抵、白血病も合併するようで、実際、抗がん剤をする前に、一回骨髄取ってもらって検査したら、やっぱりその白血病の兆候が出てきたので、白血病の治療もしていきましょうということになりました。

小林 最初の病気発見は顆粒球肉腫だったけど、将来的には白血病にも発展するから、つなげた名前でこんな病名になりました。

岸田 じゃあ、最初の抗がん剤はどちらかというと、肉腫の治療なのか。腫瘍がちっちゃくなりました。そこから、白血病の治療に入るの?

小林 告知の段階で治療が二段階になる説明は受けてたので、もう白血病と同じ治療をしていきましょうと、急性骨髄性白血病の方と同じような治療の流れで、抗がん剤とキロサイド大量療法で、治療自体は他の白血病患者さんと同じような感じでした。

小林 抗がん剤の後、顆粒球肉腫は再発しやすいし血液の病気だから、根本的な骨髄自体を変えたほうがいいので骨髄移植もやっときましょう、骨髄移植するなら、全身、放射線も当てちゃいましょうみたいな感じで治療しました。

岸田 治療しましょうと言ったのが、10月。抗がん剤やって、そのまんま、その流れで?

小林 この抗がん剤入れた後に、ドナーさんを探すのに、取りあえず、家族を当たったんですけど、家族の誰とも合わなかった。

小林 ドナー登録のバンクで探してもらっても、フルマッチする方がいなくって、型1個ずれた5、6人の方に声掛けてもらって、その中から1人、OK、出してもらってたんですが、その方が検査の段階で駄目になって、いったん保留に。次の方に声掛けてもらい、10月ぐらいにOK出ました。

岸田 1人目が難しくって、2人目の人からもOKもらって10月移植をしたと。その移植は大変でしたか?

小林 大変でしたね。

小林 その前の、放射線も結構大変で、本当はがんセンターで受ける予定だったんですけど他の人と重なって放射線が空いてなくて、神戸の赤十字病院に放射線だけ当てに行きました。

小林 4日間全身照射で当てたんで、船酔いみたいな状態でがんセンターで骨髄移植を受けたんでその段階で、もうふらふらのよろよろでかなりしんどかった。

小林 いただいたときの骨髄は点滴みたいな状態で、輸血みたいに骨髄をいただくので、すごい痛みがあるというよりかは、最後まで入れてもらってなじむまでが不安な状態というか、拒否反応が出ないかが不安でした。

小林 この後、少し肝臓の数値悪くなったりとかいろいろあったんですけど、比較的早く退院できました。

小林 すごい心配やったんですけど、何とかなじんでくれて。

小林 多分、期間でいうと長いんでしょうけど、退院までの間の症状としては、割と比較的まだ軽いほう。

小林 何もなかったわけではないですけど、軽いほうで済みました。

岸田 で、治療を終えて、退院し、そこから2009年9月に大学に復学すると。

小林 半年間、自宅療養で、体力作りをして3年半で卒業しました。

小林 4年制の教育大学だったので、免許取る為の必修科目がたくさんあったので結構頑張りました。

小林 私、保育士なりたくて、保育士の資格が取れる大学に入学したのに、入学式がちょうど1回目のイダマイシンの抗がん剤投与した日で、入学式に出席していることが保育士資格を取る必須条件だったのに出れなかった。

小林 大学には幼稚園、保育所のコースと小学校か幼稚園のコースがあったんですが、保育士資格を取れなくなったので、大学では頑張って小学校と幼稚園の免許を取りました。

岸田 2012年の4月には医療事務の専門学校に行った…?

小林 医療事務専門の学校で勉強して医療事務の資格を取り就職活動したのですが内定後に白内障になりました。

小林 年配の人がなるイメージがありますが、放射線や抗がん剤で治療してる方は、結構、早めに出るらしくステロイド性の白内障を発症し、医療事務は数字を扱う仕事なのに、その数字が全然見えない。

小林 これだと全然役立てないと思い、結局辞職しました。

岸田 コメントで、自分も白内障、治療中です。失明が怖いですよねって。

小林 怖かったです。どんどん真っ白になって、光がすごいまぶしくて、本当に見えないって怖いなって思った。

小林 手術で両目に眼内レンズが入ってるんです。私の場合、親に付き添ってもらわないと歩けないくらいになってから、やっと手術をしました。

小林 普通の目だと調整できるところが調整できなかったりとかして慣れるまではずっと船酔いみたいな感じです。

小林 でも、本当に見えるようになるので手術はぜひ。

【家族】

岸田 家族のお話をお願いします。。

小林 家族構成は父母兄、私の4人です。

岸田 最初にがんだと分かった時、家族ではどういうコミュニケーションをとられてたんですか。

小林 明石に兵庫県立がんセンターがあるんですけれど、母は当初から車で1時間半かかるところを毎日通ってくれていました。

小林 病気についてはある程度、親は知ってたんかもしれないです。

小林 告知する段階では、親は子どもには言わないで欲しかったようですが先生は、本人の体のことだからちゃんと話を全部聞いてもらいますと。

小林 私も自分の体のことやから知りたかったのでみんなで話を聞きました。

岸田 そうやね。そうしたほうが、ちゃんと、自分の体のことやしね。そのほうが良かったですよね?

小林 病気が何か分からないまま心構えもなく治療するのも怖い。

小林 身体は明らかにおかしいし、その原因が何か知りたかったので私は説明してもらって納得しました。

岸田 そのときしてもらってよかったってことや、これしてほしかったけどなっていうことありますか。

小林 白内障の原因にもなったステロイドを投薬すると食欲が湧くんです。

小林 だから病院のご飯だけ足りなくて、母がくるときはコンビニでパンやおにぎりとかを買ってきてくれてそれが日々の楽しみでした。

小林 免疫が低い状態だと食事の制限が結構あったんで、好きなものが全然食べれなかったんです。

小林 生クリームを使ってるものやはちみつとかも駄目。生のサラダとかも駄目でした。

岸田 こうしてほしかったなっていうのはありますか。

小林 母は毎日お見舞いに来てくれてたんですけど、その毎日来ることが、18の結構年頃で、自立もしたいときだったのでたまにお休みというか、自分でする期間がほしいなってぜいたくな悩みがありました。

小林 難しい年頃ですね。休みというか、自分で考える時間が欲しかった。

小林 本当に、朝から面会ぎりぎりまで、ずっといてくれてたので。

小林 兄はその頃家を離れていたのであんまり会う機会がなかったんですが、病気きっかけに、お見舞いで来てくれたりしました。

小林 バイトしたお金でDSや CDを買ってくれたり暇つぶしになるものをたくさん買ってもらいました。

岸田 当時、恋愛はされてました?

小林 いなかったですね。

岸田 治療後に恋愛するときとかって、カミングアウトの問題があるじゃないですか。妊孕性の問題だったりとか。どういうタイミングでカミングアウトとかしました?

小林 私は基本、全部初めに言います。
恋愛対象になるならない関係なく、、お互いの自己紹介のときに、ある程度は話しします。

小林 仕事とかで、わざわざ、関係ないときは話さないですけどプライベートで会う方には、初めにある程度、話しします。

小林 話して後悔することもありました。割と早い段階で婚活を頑張ってたんです。

小林 婚活とかしてるときも、結婚する前提で会ってたら、相手の人はもう子どもがほしい。

小林 妊孕性の問題で、相手に子どもができないという話をしたら、人間性なんて全然見ずにスッパリと駄目になる婚活パーティーとかの自己紹介である程度、病気について軽く話したら、駄目でした基本的に全部最初に話してしまうので、それでもいいよって言ってくれる人も、やっぱり中にはいて、そうするとあとは人間同士が合うかどうかっていう問題だけですよね。

小林 仲良くなって、すごい年月がたってからカミングアウトしたときに、「やっぱり、自分、子どもほしいから」って言われて断られたときのショックのほうが多分すごい大きいなと。

小林 その経験も結構しました。

岸田 今、お話になった妊孕性について詳しく聞かせてください。この妊孕性については、お医者さんにどういう説明受けましたか?

小林 抗がん剤と放射線を当てる時点で、「子どもは、99.9999パーセントできないと思ってください」って言われました。

小林 「子どもは、もう望まないでください」と。そのとき、採卵という方法も知ってはいたんですけど、当時はもうそれどころじゃない。

小林 血液の病気だから放射線を全身に当てないと次どこで再発するかも分からないから全身に当てます、だから、子供はもう無理ですと言われました。

小林 卵子保存、卵巣保存する時間はなかったんですよ。そういう選択肢がなくって、自分で調べる余裕もないまま、治療のほうが先にいっちゃった感じでした。

小林 すごく泣いて受け入れるまでは、結構落ち込みましたが受け入れないと仕方ない。

小林 子どもはもうできません、でも取りあえず、今、生きないといけない。

小林 とりあえず、今、一日一日、生きようと、これから今後子供を産むことができなくなったことについては考えないように、今は治療を先行することに気持ちを切り替えました。

小林 でもやっぱり、周りで、子どもさんがお見舞いきてたりとかっていうのを見たら、複雑な気持ちになります。

小林 当時は、これから先どれくらい生きられるかどうか分からないのに、先の子どものことまでは考えてられなかったけれど、今は、あのときもっと何かできなかったのかなと思います。

【復学・就職】

岸田 高校卒業して大学に復学するまでと、そこでのエピソードを教えていただけますか。

小林 病気をして休学が決まったとき、大学からは先生とか職員さん達が来てくれました。

小林 休学届を出して退院したら復学する手続きをしました。大学に復学してからはもう本当に大変でした。

小林 体力がないままの復学だったし、みんなに置いてかれるっていう焦りがずっとありました。

小林 同世代の子達の楽しい情報だけが入ってきて「ちょっと早いんちゃうか」と周囲に言われつつ9月に復学しました。

小林 自分で行きたいって言ったから頑張らないとと思って頑張ってたけど、体のほうはやっぱり付いてこなくって、通学で電車やバスを途中で降りたりしながら、ちょっとずつ慣れていった感じでした半年分押してたので授業を無理やり詰めて、朝から晩まで学校にいましたね。

小林 途中で体調は悪くなると保健室に行って、寝かしてもらってまた授業を受けに行ってみたいな感じでした。

小林 自分のゼミクラスの子は、なんとなく病気のことを知っていたようで、いろいろ教えてもらったりちょっとずつ友達も増えて、つらかったけれど何とか乗り越えた感じです。

岸田 その後初めての就活。そのとき、がんのことを伝えましたか。

小林 専門学校の就活のときは何個か受けましたが病気のことを履歴書に書いたり、書かなかったりでした。

小林 書いて面接までいったけど落とされた所もあれば、書かずに行ったけど単純に私が面接で落ちたりとかいろんなパターンで試しました。

小林 内定をもらったところは書かずに出して、面接のときに全部話しました。

小林 治療のことや今の状態小学校とか幼稚園の免許のこと、医療事務資格のこと等など。

小林 面接はOKだったんですが、先ほどお話しした白内障で泣く泣く辞職しました。。

【仕事】

岸田 白内障の手術をしてから、その後4年間で7回の転職と書かれているんですが、詳しくお聞かせいただけますか。

小林 手術した後、医療事務のパートで働いたのですが、人間関係という病気とは別の理由で辞めました。

小林 その後、医療事務とは別の資格がほしいと思って、ハローワークの職業訓練でMicrosoft Officeスペシャリストの資格を取りまして、そこから事務系のほうでお仕事デスクワークを一年間おこなってました。

小林 その職場には発達障害の方の支援員が来てくださっていてそこの職場で働いてみたいなと思ってまして、ハローワークへ探しに行ったら次の職場として採用されました。

小林 そこの職場は教育の免許がいる所で、ちょっと発達障害持ってる子の、お勉強のお手伝いをしたり未就学の子の保育したり、幅広い支援をする所でした。

小林 自分的には教育のほうにも興味が残ってたので、そういう部分で経験をさしてもらったものの、体力的な部分でしんどくなって半年で辞めました。

岸田 体力的なところで辞めてってるって感じか。今の職業になったのは?今、正社員?

小林 正社員です。その支援施設で働き始めてからは、基本的にずっと正社員でした。

小林 ちょっとずつですが体力は付いてきてる。ただ、基本、免疫下がってるときは、風邪にもかかりやすくて長引くし、治りが悪いみたいな感じはまだあるかな。

小林 仕事は普通にできてますが、残業が多かったりすると土日にしっかり休まないと体調は良くないです。

【つらかったこと】

岸田 肉体的に、精神的につらかったとき、どう乗り越えたか。

小林 治療のときは、取りあえず、今、生きることを優先すること。

小林 今、1分、1秒でも生きれてるんやったら、取りあえず、生きてる今を大事に生きないと思って、何とか気持ちの部分ではそれで乗り越えてた。

小林 あとは、入院中やったら他の患者さんと励まし合いながら、同じような治療をしてたらこれしんどいなとか、これはこうしたほうがええでとかお互いに情報共有しながら乗り越えたりとかしてました。

小林 結構、今までも仲良くしてもらっていますよ。

岸田 肉体的には?

小林 肉体的には痛いとかしんどいとか、すごいいっぱいあったんですけど食べることとか、目の前のちょっとした幸せで、何とかごまかし、耐えてました。

小林 一番初めに生きるか死ぬかってなったとき、今、生きてる、ありがたい。“生きてるだけ、取りあえず丸もうけ”ってあれをすごい感じました。

【後遺症】

岸田 後遺症はありますか。

小林 白内障も出たし、あと妊孕性の部分でしょうか。本来出るべきホルモンが出ないので、今も婦人科行ってホルモン補充してます。

小林 骨粗しょう症とかを防ぐために1カ月とか3カ月とか行って、その分のお薬を朝晩で毎日飲んでます。面倒くさいですけど、体のためには飲まなければいけない。

【反省・失敗】

岸田 反省、失敗。あのとき、こうしておけばよかったなということ。

小林 いっぱいあります。妊孕性のことも、何かできなかったのかな、もうちょっといろいろ調べられられたんじゃないかなとか、反省っていうか後悔ですかね。

小林 あんまり情報が入ってこなかった。あとは、家族に対してもですね。

小林 18の思春期で、親への反発とかもある時期に発病したから当時もっとちゃんとありがとうと感謝の気持ちを言ってたほうがよかったなと反省してます。

小林 当時、もっとちゃんと感謝の気持ちを伝えてたら、もうちょっと親も気が楽やったんちゃうかなという反省がありますね。

【医療従事者への感謝・要望】

岸田 医療従事者へ感謝したこと。

小林 感謝はもう本当に、たくさんの看護師さんとかお医者さんが関わってくださってたんで。

小林 病気分かるまでも、たくさんのお医者さん経由して、すごい必死で調べてもらったりしたんで、本当に病気見つけてもらえたことに感謝だし、それに対して最善を尽くしてくれたこと、先生も手探りだけど、ずっと体調見ながら薬もいろいろ調整しながら治療してもらったんで、何とか今生きてる。

小林 本当にそれに対して感謝です。

小林 看護師さんも、病棟で数少ない10代の患者だからどう扱っていいかも分からないながらも、歳が近めの若い看護師さんを担当にしてくれたりとか、定期的にきて、体調の心配や相談事に乗ってくれたりして、その辺はすごいありがたかったです。

【キャンサーギフト】

岸田 キャンサーギフト。がんになって、失ったこともいっぱいあると思いますが、得たもの、得たこと、なんでしょうか。

小林 得たことはまずこんな場に立てるということ。こんな経験、多分、病気してなかったら、絶対できてないし、新しい人生を貰ったという意味で、大きなギフト。

小林 病気してなかったら、がんのこととかにも興味もそこまでは湧かんかったやろうし。

小林 こういう活動を通して増えた仲間っていうのは、がんにならへんかったら、会うことも多分なかった。

小林 そういう全ての今が、キャンサーギフトかなと思っています。

【夢】

岸田 今に対してのキャンサーギフトといったところで、その後の夢。後、どうしていきますか。

小林 まだまだいっぱい、やりたいこともあるんで。

小林 ちょっとずつ、体力とお金を調整しながらいろんな経験を増やして。自分がいつまで生きれるかって、誰にも分からないじゃないですか。

小林 その残されてる人生に対して、自分が後悔しないように、できる範囲でいろんな経験値を積んでいきたいなって思ってます。

小林 例えば、南国が好きなんで、いろんな島、行ってみたいなとか。

小林 まだ、スキューバダイビングとかもしてみたくって。呼吸器があんまり丈夫じゃないんで、できるか分かんないけど、チャレンジしたいのは、そういういろんなアクティビティ満喫したろうかなと思ったりしてます。

【闘病中のあなたへ】

岸田 今、闘病中のあなたへのメッセージをお願いしてもいいですか。

小林 ご縁とタイミングを大切に、1分、1秒をしっかり生き切りましょう、です。

小林 なんでもそうなんですけど、ご縁があって、出会いがなければ始まらないですし。病気にしても、いいことではないですけど、病気をしたという一つのご縁っていうんですか、そういうタイミングがまた合って。

小林 ご縁があるだけでは始まらないけど、タイミングが合えば、一緒にこういう活動をしたり。

小林 全てご縁とタイミングがいろいろあっての人生なのかなと思うんで、そのタイミング、タイミングで、ご縁の一つ一つを大事にしてもらえたらと。

小林 私自身が、心に置いてる言葉なんですけど。残されたその人生に対しても、1分、1秒、ちゃんと生き切ること。精いっぱい生き切ること。

小林 悔いの残らないように。しっかり、味わう、余すことなくみたいな。

小林 自分の人生を、しっかり、全部、私のものにするというか、大事に生きたい。

岸田 そうですね。生き切りましょう。ありがとうございました。

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