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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松尾

25歳・理学療法士、4度のがんを経験——松尾さんの自己紹介

岸田 それでは、がんノートをスタートしていきたいと思います!今日のゲストは松尾さんです!!よろしくお願いします!松尾さん、簡単に自己紹介をお願いできますでしょうか?

松尾 松尾未来と申します。年齢は25歳です。私は福島県出身で、大学で筑波に、茨城県の筑波に来て、今筑波にそのまま住んでます!

岸田 そんな松尾さんなんですけれども、未来と書いてミクですかね?素敵なお名前で!って思いますし、今理学療法士もされているということなんですね?

松尾 はい、そうですね。

岸田 医療者という立場でもあるということです。そして趣味は音楽や読書、ファッションなどありまして、音楽は…どんな音楽を聴かれますか?

松尾 そうですね!私は結構昔の音楽が好きで、一番好きなバンドはTHE BLUE HEARTSっていう…。

岸田 THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)!『リンダリンダ』『人にやさしく』。

松尾 そうですね!父の影響で、父がTHE BLUE HEARTSのバンド…コピーバンドをやってて、で、その影響でCDとか聴くようになって。本当に中学生の時はTHE BLUE HEARTSが大好きで、今は知らない曲がないぐらい…好きなんですけど、今の同じ年代のお友達とかにTHE BLUE HEARTSが好きって言ったら知らないって言われちゃうので。

岸田 そうよね!

松尾 あんまり言わないようにしてるんですけど。

岸田 いやいやいや(笑)

松尾 今の人たちだと結構…バンドが好きなので、Official髭男dismとかマカロニえんぴつとかそういうバンドで演奏している方の曲をよく聴きます!

岸田 そうなんですね〜!マカロニえんぴつはミュージックビデオの聖地巡礼とかも(僕も好きで)したことあります。

松尾 そうなんですか!

岸田 アニメの主題歌とかね。

松尾 そうですね。

岸田 その影響で。そしてその中でがんのことにはなるんですけれども、がんはね、網膜芽細胞腫、横紋筋肉腫、骨肉腫、子宮血管肉腫という4つのがんを経験されているということになります。ステージはそれぞれ4・4・不明・不明となっておりまして、0歳・2歳・12歳・24歳で罹患をされているということです。治療も手術や薬物療法、放射線をされていて今も治療中と、抗がん剤治療中というふうな形でございますので、この4つのがんについてそれぞれこの後お伺いしていきたいなということを思います。

松尾 はい。

0歳・2歳・12歳・24歳——4度の告知をたどるペイシェントジャーニー

岸田 これからお話を聞いていくんですけれども、個人の経験なんですよということと、治療がいろいろ出てきますけれど、それを推奨しているわけではなくて必ず主治医の方に治療に関しては相談してもらえたらと思います。この後ですね、ペイシェントジャーニーというグラフが出てきますけれども、これを参考にしてもらえたら嬉しいなと思います。

岸田 ではですね、松尾さんのグラフこちらとなっています。

松尾 はい。

「祖父母が目の色の変化に気づいた」——生後2か月で見つかった遺伝性の網膜芽細胞腫

岸田 なかなかいろいろ、0歳の時から今25歳ということでね、間が飛んでる時期もありますけれども、ちょっとそれぞれお伺いしていきたいな!と思います。まず2000年、ミレニアムの時にですね、誕生されていく!ということでね。誕生がよかった、一番上のところでよかったです!ポジティブなところで誕生していって。そこからですね、下がっていくのはこちら、網膜芽細胞腫の告知を受けていって手術や放射線をされていくということなんですけれども、これが…2歳の時?

松尾 これは…0歳。

岸田 0歳か!そっかそっか!

松尾 生まれて多分2か月ぐらいですかね

岸田 これは0歳の時に罹患をされてということで、生まれてから?

松尾 生まれてすぐです。

岸田 生まれてすぐ。これは…この時の記憶はないかと思いますので、この時はどういうふうな…見つかり方というか どうだったんでしょう?

松尾 もともと私は父が網膜芽細胞腫で全盲なんですよね。そこから…遺伝する可能性はあるって多分親は思ってたんですけど、最初私が生まれて目が同じように網膜芽細胞腫特有の…色調変化っていうか普通の目と違ったっていうところを両親は私は見えないので、祖母、祖父母がそれを発見して、すぐ…父もかかってた国立がん(研究)センター中央病院に紹介していただいたという経緯で発覚しました。

岸田 祖父母さんが発見してくれたんですね?

松尾 そうですね、目の色自体は祖父母が見てちょっとおかしいということで。

岸田 そうなんですね!それですぐ病院に行って、手術や放射線をしていくと?

松尾 はい。

岸田 これはもう、どれぐらいの治療だったとかっていうのは聞いてます?

松尾 あっ、そうですね、これも多分1年ぐらい長くやったんだと…。その時代…2000年っていう時代もあって。

岸田 そっかそっか!

松尾 そんなに網膜芽細胞腫が多分たくさんいなかった時代なので、そうですね。私の場合は右目は多分摘出しないといけない状況で左目は視力が残せたので、左目の放射線治療をやったんだと思いますね。

岸田 右目は摘出して、左目の放射線治療?

松尾 私は両側性網膜芽細胞腫っていう両目ともなっちゃった人で、片側性…片方だけの人もいるんですけど。

岸田 えっ!?そうなんや?両目になってる?のか。

松尾 なので、左目が弱視っていう感じで視力が下がっちゃったっていうところで。

岸田 普通にね、白杖(はくじょう)は持たれていましたけれども、左目もね、もちろん視力は低くなっているということは存じ上げていましたけれども、左目も治療したんですね?

松尾 そうです。

岸田 こっちにも腫瘍があった?

松尾 そうですね。両側性なので両目にあった…けど、右目はひどかったので取っちゃってって感じです。父はそれができなくて両目とも取っちゃったっていう感じの人で。人それぞれ網膜芽細胞腫のなり方っていうか重症度とかも違うので。最近は多分視力を結構…残せる人増えてるのかなっていう印象は私も感じてるんですけど。

岸田 今さらっと言いましたけど、お父様も同じ?

松尾 そうですね、父の遺伝ですね、私は。遺伝性の網膜芽細胞腫。

岸田 小児の目のがんっていうのはね、遺伝の場合もあるっていうのも伺っておりますので。必ずしもそうっていうわけではないですけれども。

松尾 はい。

岸田 そっか!それでじゃあ…治療してっていうふうな形で、両側やけどこちらの方は視力が残せてというふうなことだったんですね?

松尾 はい。

「遠くの看板や時刻表が見えにくい」——スマホとルーペで補う日常

岸田 もう物心がついた時には、もう…こちらだけの視力でっていうことですけれども、今不自由なこととか、もちろん近くならないと見えないとかいろいろありますけれども…日常生活どうですか?

松尾 はい、そうですね、最初からこの視力なので、そんなにこう何かがすごく…できなくなったとかっていうのは感じないんですけど、やっぱり一番困るのは私の場合は遠くがちょっと見えにくいので、初めての場所に行ったりとかした時に道の看板とか電車の時刻表とかがちょっと見づらいので、それを今スマホとかで拡大したりして見てるっていうところが一番不便で。ちょっと地図の…道の認識とかも結構…難しいので、例えば地図を見て今どこに行ってどこに行きたいとかっていうのがあんまりうまくできなくて、そういう時はなんか…人に聞いたりとかするようにしてなるべく過ごしてるんですけど、遠いところが見づらいっていうのが一番あって。あと近くは、細かい字とかはルーペっていう虫眼鏡みたいなレンズの…ちょっと視覚障害者用のライトとかが点くやつがあって、そういうのを使って細かい字とか手元で見るっていう感じで。今スマホとかタブレットとか結構発達してるので、そんなに多分…困ったっていうことは私の視力ではないですね。

岸田 そっか!それが日常だというね。いろいろな工夫されて今過ごされているということですね〜。

松尾 はい。

「首の腫れに父が気づいた」——2歳、上顎洞の横紋筋肉腫と1年間の抗がん剤

岸田 そんな中で、次こちら、次は2歳で横紋筋肉腫の告知を受け、薬物療法されていくっていうのが出ているんですけれども、その後…この横紋筋肉腫…肉腫ですよね?これはどちらにできたんでしょう?

松尾 上顎洞(じょうがくどう)っていう…副鼻腔っていう鼻のところにある穴の一つで、そこにできて、首のところの頸部リンパ節に転移があったっていう状態でしたね、見つかった時に。

岸田 見つかった時には。じゃあ頭頸部にできたってこと?

松尾 そうですね。

岸田 おおっ。これはどういうふうに。だって…2歳の頃でしょ?誰かが見つけてくれる…それも祖父母さんが見つけてくれるとかですか?

松尾 これは聞いた話なんですけど、なんか…父が首を触った時に首が結構腫れてる…なんか変な腫れ方をしてるみたいなのに気づいて。父も実はあんまマッサージ指圧師と鍼灸師なので、医療関係の資格を持っているので、普通じゃない腫れ方っていうか…コリコリした何かがあったんだと思うんですけど、もともと網膜芽細胞腫があったので、このがんセンターにはかかってたので…この病院にかかってた…。

岸田 国立がん(研究)センター中央病院へかかってた。

松尾 はい、中央病院にかかってたので、そこにもうすぐ行ったっていって検査とかを多分して発覚したっていうところです。

岸田 じゃあ、もうそこですぐなんかここに疑いがあるぞっていうのを、すぐ診てもらえた状況があったってことですね〜。

松尾 原発の鼻の方は分からなかったんですけど、触って。転移で見つかったっていう感じですね。

岸田 そっか!ここが腫れてたから、それで分かったっていうことなのか!おお〜。それで、その治療としては、あれ?これは手術はせず薬物療法だけ?

松尾 そうです。これは顔なので、手術すると顔が結構…傷が一生残る感じになっちゃうっていうのを親が心配して、そんなに傷を残さなくても治療できる方法はないのか?ってなった時に、抗がん剤だったんですけど、この時網膜芽細胞腫が治ったのにそれで1年ぐらいで横紋筋肉腫が出てきてるっていう症例が日本にあんまりなかったみたいで、抗がん剤も効くかどうか分からないって親は言われてて。でも、手術で顔が傷だらけになっちゃうよりは抗がん剤で治してあげたいって親が思ったから抗がん剤やってみたっていう感じ、アメリカとかの論文をこう取ってきてそれを使ったみたいなふうに私は先生と親からは聞いてますね。

岸田 ほー!そういうことね?

松尾 はい。

岸田 それを薬物療法していってちょっと下がっているのは、結構あれ…この時ってけど2歳やからあんまり記憶はない?

松尾 そうですね。この下がっているのは多分…両親が感じたネガティブだと思います。

岸田 こうだろうという。治療を終えたとこなのに、またこのがんだなってみたいな形でね。

松尾 はい。多分手術で…やっぱり手術ができなかったというか手術ができないから、もう…抗がん剤しか選択肢がないというところで、すごいネガティブだったのかな?っていうのを話聞くと感じますね。

岸田 そっかそっか!その中で治療は、薬物療法どれくらいやったとか聞いてる?

松尾 これは1年くらいですね、合計で。この時代は…今のがんの治療って結構入退院を繰り返してやると思うんですよ、2〜3日入院して・帰ってみたいな。でもこの時代ずっと…入院しなきゃいけなかったので、多分10か月くらいかな?入院ずっとして、で、帰ってみたいな感じなので、1年ぐらい多分 治療はしたかなって聞いてますね。

岸田 で、その後、これはうまくいったってことですよね?その次がもう中学生になっているから。

松尾 そうです。この治療は…多分誰もがびっくりするぐらいの勢いで、1回目薬を投与しただけで全部消えた!みたいな、それでみんなびっくりしたっていうのは聞いてて。当時子どもだったので全然覚えてないんですけど、この時気持ち悪かったな〜っていう記憶だけはうっすらあって、ピンクのガーグルベースンあるじゃないですか?吐くやつをいつも子どもの時持ってたなっていう記憶が、それぐらいしか逆に言うと覚えてないですね。

岸田 そっか!まあそれで1回目の投与でめちゃくちゃ消えて、うまくいった!っていうふうなことだったということですが。

「何もしなくてもズキンズキン痛い」——12歳、右かかとの骨肉腫と骨移植

岸田 そしてですね、次がこのね、2013年の12歳の頃、これが中学校の時というふうなことをお伺いしているんですけれども、それが…中学校1年生の夏、かかとが痛いということで、もう…この中学生、小学生期間は特に何も?治療とか再発含めそこは大丈夫だったってことですね?

松尾 そうですね、定期的に通院は半年に1回ぐらいしてたんですけど、特に何もなく過ごしてました。

岸田 特に何もなく過ごして、ただ中学校になった時にかかとが痛くなってくる。かかと…どっちのかかととかあるんですか?

松尾 右足のかかとが痛くなってくる。

岸田 右足のかかとね、うんうん。

松尾 痛みが結構強くて、特に怪我とかしたわけでもないのに急に痛くなってすごい痛くなってきて…なんだろう?みたいな感じでその時は率直に。別にスポーツとかもやってなかったので、怪我するようなことはしてないなっていう。

岸田 どんな痛さなんですか?ジンジンするとか…それとも…キンキンするとか?

松尾 ズキンズキン!痛い感じ。

岸田 歩くたびに?

松尾 いや、何もしなくても痛い。座っているだけで痛い!っていう日があって。でも、それが多分2〜3週間に1回ぐらいだったので何だろう?っていう感じで。親もちょっとよく分からない感じだったし、私自身も分からなかったので。

岸田 それで、かかとが痛く分からないって言ったところで、その後に次がこちらですね、大学病院に行かれていくということで。この時は…この時に治療してた病院、がん専門病院に行くとかじゃなくて、大学病院に行ったんですね?

松尾 そうなんです。これはもともと私は網膜芽細胞腫はがんセンターの中央病院で治療してて、さっき言った横紋筋肉腫は東京慈恵会医科大学附属病院に。

岸田 あっ、そうなんや!違うんや。

松尾 慈恵医大と中央病院が一緒に一緒のチームになって治療してたので、私は13歳の時はどっちにも通ってたんですよ。

岸田 え〜!!大変!

松尾 中央病院は眼科で、その慈恵医大が肉腫の方でかかってて。肉腫の方でかかったので、この時慈恵医大に行ったっていう感じで、血液検査とかもそこでしてたので。

岸田 それで検査をしてもらったところ、がん専門病院の検査って書いてますけど、これはあれ?

松尾 中央病院で。

岸田 これは大学病院から…がん専門病院行った方がいいよみたいな?

松尾 そうです。足のところだったので、その時専門の骨軟部腫瘍科の先生が慈恵医大にいないので、中央病院で診てもらった方がいいよって言われて。

岸田 それで…ちょっとこう中央病院に紹介されていくと。

松尾 今まで眼科しかかかってなかったのを、小児科と整形(外科)でかかるようにって言われて。

岸田 ということですね。検査されていった中でちょこっとだけ上がりますが、骨肉腫の告知、おっ。

松尾 (告知は)3度目ですね。

岸田 え〜!このかかとのやつが骨肉腫ですよって言われるってことですよね?

松尾 そうです。検査は実はその…生検っていって手術で骨に針を刺して細胞を取ってくる検査をした時に、この時悪性か良性かちょっとちょうど間みたいな感じだったんですけど、でももし悪性だった時にほっといちゃうと大きくなっちゃうからって言って治療を…骨肉腫にもう近い細胞ですって言われて、治療しましょうって言われました。

岸田 これ骨肉腫なんでしょうって言われた時は…気持ち、気持ち、さっきちょっと検査してる時よりちょっと上がってるんですよね、もちろんネガティブでありますけれども。それは何でなんですか?

松尾 私は結構性格上、病名とか原因が分かった方が受け入れられるタイプなんですよ。

岸田 ほお〜!

松尾 だから足が痛いのが何か分からないとか、何が起こっているか分からないのに症状だけ出てきた!みたいな方が結構不安になっちゃうタイプで。病名が決まってこれから治療と手術っていう方向性が決まった方が頑張れるかなっていうところで、ちょっと上がったと思います、気持ち的には。

岸田 そっか!原因が分かったっていうことでね、ちょっと上がったということですけれども、ここから治療がスタートしていきます。薬物療法そして手術をされていくということなんですけれども、薬物療法もこれ…高いですね?

松尾 そうですね結構薬が、抗がん剤の自体はつらかったんですけど、薬が効いている感じで途中の検査とかでも腫瘍マーカーが下がったりとか、あとその腫瘍がPET検査とかで腫瘍が光らなくなってるみたいなことを途中で言われてたので、あっ、効いてるのかな?っていうところで自分でも感じてて。

岸田 効いてるなっていうことで高くなっていって。手術が…プラスマイナスゼロのフラットな状況なんですけれども、右…くるぶし、ちゃう、右かかと?

松尾 踵骨(しょうこつ)、かかとの骨です。

岸田 かかとの骨を取っていくというふうに…えっ、右かかとの骨を取るってどういうこと?

松尾 かかとの骨って大きくついてるんですけど、そこを全部取っちゃって、自分の左足のふくらはぎのところの腓骨(ひこつ)っていう細い骨を移植したっていう手術方法です。

岸田 はまるんですね!?そこに。ちょっと形は変えるか分からないですけど。

松尾 レントゲンで見ると、結構腓骨って細長い骨を2つに多分折ってかかとの形っぽくしてる。

岸田 すごっ!!

松尾 ボルトで何か所か止めてるっていう感じを、私が自分のレントゲンを見るとそういう感じかなって。

岸田 今は普通に歩けてるって言い方変ですけど、白杖(はくじょう)はついてても歩けてますよね?

松尾 あっ、そうですね。

岸田 違和感はないですか?

松尾 実は17歳くらいまで 杖(つえ)を使ってT字杖…普通のT字の杖をついてたんですけど、その時までバランスが悪かったり足が痛くなったりとかしやすかったので杖をついてたんですけど、そこから普段の日常の生活が結構リハビリになるみたいなことを先生にも言われて、なるべく歩くようにした方がいいっていうこととか。あと柔軟体操ですね、結構足を背屈(はいくつ)っていってこう上げる、こういうふうに。人間って放っておくとこうなっていって足がこうなっていっちゃうので、こうなっていくと歩けないので、背屈するようなストレッチをしたりとかしてちょっとずつ戻していったって感じです。

岸田 そういうリハビリじゃないけど、そういうことを取り入れて今は普通通り歩けているということなんですね。

松尾 そうですね。スポーツとかちょっと難しいんですけど、普通に生活する分には全然大丈夫です。

岸田 じゃあ、無事にこれで骨肉腫は取り除けた感じ?

松尾 はい。

岸田 大丈夫?次、行っても大丈夫?

松尾 はい。

帽子とマスクと松葉杖で教室へ——半年ぶりの中学校復帰

岸田 取り除けて…おー!復帰してる!あ〜よかった!中学校の復帰。

松尾 復帰の時は抗がん剤で髪もなかったので、帽子とマスクと松葉杖みたいな。結構周りから中学生って結構いろんなこと言うんで、周りから結構大丈夫?みたいな目で見られたりとかもあったんですけど、でも徐々に戻っていったって感じです、学校に。

岸田 中学の時期…もちろん高めであるけどネガティブな青色ってことは、あまり…楽しくなかったってこと?

松尾 そうですね、見た目の問題とかもあったりとかして、髪がないとかっていうのは結構自分でも嫌で、そういうなんか引け目だったりとか。私(中学)1年生の時病気になっちゃったので、半年ぐらい学校に通えてなかったので、勉強があんまり分からなくなっちゃった。

岸田 あ〜そっか!

松尾 っていうところが、一番多分自分では不安だった。

岸田 勉強ね〜。今もウィッグですよね?

松尾 今も治療して髪が抜けてるので、ウィッグかぶってます。

岸田 中学校の時からずっとウィッグ?

松尾 中学校の時に治療終わって1年ぐらいで髪が生えてきて、今回の病気になるまではずっと地毛で。

岸田 地毛でいたってことか。今回の病気でまたウィッグにしてるってことですね。

松尾 そうです。

理学療法士を目指して大学へ——母の看病での休学と、働き始めてからの1年

岸田 その後ちょっと上がっていきます、それがこちら、おっ、大学を進学!ということで。この大学を進学ここで理学療法士を目指されるための大学に進学していくと?

松尾 はい、そうです。

岸田 理学療法士は何で目指そうと思ったの?

松尾 私は小さい時から病院に入院することが多かったので、医療職にずっとなりたいと思ってたんですよね。で、一番多分私の面倒とか見てくれたのは看護師さんで、看護師さんにずっとなりたいって思った…。小学生の時とか思ったんですけど、目が悪いと看護師さんになってから大変になる…みたいなことを、なんか親と相談とかしたりした時にちょっと厳しい話だけどそういうこともあるんだよって言われて、だったら看護師さんにはならないほうがいいなと思って。自分が足のリハビリの時にリハビリしてもらって、リハの先生が結構…女性の先生ですごいサバサバしている先生で厳しい先生だったんですよ。自分はその先生のおかげでリハして、こう歩けるようになったっていうのもあるし、自分だったらその先生とはまた別の形で、優しい理学療法士という形でちょっと関わっていきたいなって思ったのが一番の理由ですね。

岸田 優しい方がよかったと申し上げておりました(笑)まあまあね、やらないといけない時はね、しっかりね、あるから。そこはそれでね、いろんな人のスタイルがありますよね。こちら、そこで大学進学して学ばれていって、その後にお母様が亡くなっていくのか…。お母様…これはやっぱり…自分の中ですごくターニングポイントにもなる?

松尾 そうですね。母親が2016年、私が高校1年生の時に大腸がんが分かって、その時点で腹膜播種(ふくまくはしゅ)まで起こしてて。結構治療を頑張ったんですけど、3年半ぐらい頑張ったんですけど、最後難しくて亡くなってしまったっていうところで。私大学1年休んで母親の看病をしてるんですよ。

岸田 1年間、じゃあずっと休学して?

松尾 そうです、最期…終末期の時にはやっぱりそばにいてあげたいっていうのと、父親がやっぱり全盲なので現実的に父親だけで看病をするのはちょっと難しいっていうところで、地元に帰って1年間休んでました。

岸田 ご兄弟はいらっしゃらない?

松尾 はい、いないです。

岸田 そっかそっか。じゃあ娘として母を看病してっていうのをされていったということなんですね〜。

松尾 そうですね。

岸田 それだけでもいろいろお話聞きたいんですけどね、本当にもう…すごく大変だったと思います。その看病をしてお亡くなりになられて、そこの中でそこから病院や小児施設の勤務と書いてあります。これは…大学を卒業して仕事っていうことかな?

松尾 そうですね、お仕事で。理学療法士として回復期の病院に1年いて、その後結婚して筑波に引っ越してきたのもあるので、小児の施設で働いてました。

岸田 小児の施設で働いていてということで。

松尾 はい。

岸田 これは…結構低いのは、体力的にキツかったからとかなんですか?

松尾 そうですね、自分は結構勉強することは好きだったんですけど、やっぱり体力がそんなになくて、理学療法士って結構すごく体力を使う仕事なんですよね。患者さんを支えたりとか全てが自分の体を使わないとできないので、そこで挫折をしたっていう。すごい時間も、結構…労働時間が長いんですよね。朝の8時から残業で夜の8時・9時まで、毎日1年目だったので症例報告とかいろいろ書類作ったりとかもしなきゃいけなくて、9時ぐらいまで仕事をしているとやっぱりちょっと疲れてしまって、もうちょっと続けられないなっていうところで病院は退職してますね。

岸田 そっか!体力的にちょっと続くことが難しく…(勤務)時間もね、ちょっと長くあったりだとかしてということで、それでやめられていく。

「世界で50例ほどしか論文がない」——24歳、不正出血から子宮血管肉腫の告知へ

岸田 その後ですね、これが昨年2025年になりますが、不正出血や生理痛が悪化していく。不正出血ってことは…生理じゃない時に出血するということで、生理痛が悪化していく。この時はどうだったんですか?

松尾 最初は不正出血が少しずつ出るようになってきて、別に生理痛とかそんなにもともとなかったんですけど、不正出血の量が増えるごとに生理の時にすごいお腹が痛くなってきてしまって、あれっ、なんかおかしいな?っていうのがあって。でも不正出血とか生理痛が…ってなった時に、一番にがんはやっぱり思いつかなかったので、子宮筋腫とかそういう感じなのかな?って思って。ちょっと仕事が忙しかったのもあってすぐには行かなかったんですけど、病院に。

岸田 そういう…ちょっとなんか仕事も忙しいし、子宮筋腫かもしれないな〜ぐらいの気持ちでいたというのがこの時ですね。その後、近所のクリニックに受診をされていきます。その近所のクリニックに受診していった時に、大学病院に、これは検査というか大学病院に行けと言われる?

松尾 はい。

岸田 この時は何でしょう…脅されてとかなかったですか?大丈夫ですか?

松尾 脅されてはないんですけど、やっぱり先生ってお医者さんって大体分かっててもあまり言えないじゃないですか、その不確かな状態で。

岸田 ちゃんと撮ったりとかね、いろいろしないとね。

松尾 多分その時エコーした時にそのお医者さんは分かってたんだと思うんですけど、そのちょっと異常が…子宮内膜がすごい厚くなってたっていうことだったので分かってたんだろうなと思うんですけど、あまり言ってくれなくて。ちょっと今の状態分かんないから大学病院行ってみようかっていう感じで。多分私は分かってるんだろうなと思ってたんですけど、その時。

岸田 はいはい、まあね〜。そっか…松尾さん的にはちょっと、チラッとでも言ってほしい?その時に。

松尾 なんか、その悪い可能性があるのかっていうことはやっぱり言ってほしいです、覚悟がやっぱできないんで。別になんか…がんじゃないかもよって言われてて、あっ、がんだったっていう方がキツいじゃないですか?

岸田 そうね。この時松尾さんは…なんかあるぞ?という気持ちで大学病院に行って検査をし、その後、子宮血管肉腫の告知と書いてあります。

松尾 すごい珍しい病気ですね。

岸田 …聞いたことないです。

松尾 聞いたことないですよね!私もなかったです、告知された時に。

岸田 子宮血管肉腫…これは血管肉腫ってやつが子宮にできた?

松尾 はい、そうですね。

岸田 これも松尾さん医療者なんで説明してほしいんですけど、どういうやつなんですか?

松尾 血管肉腫ですか?

岸田 血管肉腫について、子宮についてちょっとだけ皆さんイメージがないと思うけど、血管にがんができるのかどういうイメージなのか、ちょっとだけ説明してもらってもいいですか?

松尾 はい、そうですね。血管肉腫って肉腫の一部で、肉腫ってがん肉腫とか平滑筋肉腫とかいろいろあるんですけど、その平滑筋だったら筋肉にできる肉腫なんですけど、私の場合は血管内皮細胞という血管を作る細胞から発生したがんだったので、筋肉とかではなくて血管…。

岸田 血管がバーってあったら外側にできるの?内側にできるの?そういうものではない?

松尾 そういうところではない、血管を作る前にがんになっちゃうので。

岸田 そういうこと?

松尾 はい。だから結構予後も悪いし・転移もしやすい・再発もしやすいっていう、結構…ひどいタイプのがんですね、悪性度が高くて。

岸田 へー!そうなんや。それが子宮にできる…なんか、本来ならどこにできる?もう全身 結構できやすい?

松尾 全身できる可能性はあるんですけど、多いって聞いたのは皮膚とか皮膚血管肉腫が一番多いって筑波大の先生にも聞いて。

岸田 皮膚血管…皮膚とかのその血管にできやすいっていうのが多いんですね。ただ…この子宮血管肉腫ということで、子宮のところの部分になってしまったと。

松尾 はい。

岸田 これはあれですよね、日本でも世界的に見ても少ないんですよね?

松尾 はい。なんか筑波大の先生には50例ぐらいしか世界に論文がないって言われて、その中で薬とかを論文から拾ってやってみるみたいなことを言われている。

岸田 世界で50例しかない!!論文ではね。そんな珍しいがんの告知を受けて、その後ちょっと下がっていきますが、手術、子宮や卵巣、そして腹膜にも転移していったと?

松尾 そうです、腹膜播種(ふくまくはしゅ)っていう腹膜にこう腫をまいたみたいに細胞が散らばってしまっていたっていう…。

岸田 うわー、結構…告知された時…キツくなかったですか?

松尾 そうですね、告知された時はがん…だろうなっていうのは予想してたんですけど、そこまで難しい・珍しいがんだっていうことを考えてなかったので、そこがショックでしたね。自分が治療法も確立していないがんになってしまったというところが、一番ちょっと悲しかった。

岸田 そうですよね〜。さらに手術の時に…めちゃくちゃ、一番下がっていると思うんですけれども、これは手術がキツかったということですか?

松尾 そうですね、今まで足を手術したりとかしてたんですけど、やっぱお腹を切るってすごい痛くて。手術の後のリハビリとかも自分が理学療法士なのでどういうふうにやるかとか大体分かってるんですけど、想像を絶するお腹の痛みで、起きれない!みたいな感じになっちゃって、それがキツかったですね。体のつらさっていう。

岸田 想像を絶する痛みが…あったということですね。手術を受けられていって、これ全部大学病院でされていった認識でいいですか?

松尾 はい、筑波大で。

「絶対に松尾さんを助けるから」——再発の告知が、グラフでは上向きだった理由

岸田 筑波大でされていって、その後は上がっていきますが、それがこちら、再発、腹膜播種(ふくまくはしゅ)、そして薬物療法されていくということなんですけれども、…あれ?ちょっと僕の目が間違ってなければ、再発、腹膜播種(ふくまくはしゅ)が上へ上がっていてポジティブな感じになっているんですけど…合ってますか?

松尾 合ってます!この時に私結構主治医の先生にすごく恵まれて、手術自体も結構、広がって…お腹の中で広がっている状態で、だったので難しいって判断する先生も多いかなと思うんですけど、私が診てもらった先生は、絶対に僕が取るって言ったんですよ、全摘する!って。それ約束する!ってまで言ってくれて、そういうことってあんまりお医者さん言わないじゃないですか?やっぱりできなかった時に。でも、それを本当に宣言してくれて、それが多分 一番心強かったんですよ。で、再発した時もいろいろその病理の結果とか説明される中で、再発はしてきてるけど絶対に松尾さんを助けるからって言ってくれたのが本当に心の支えになって、この先生とだったらずっと治療で一緒に頑張っていけるなっていうところで。再発をしてしまったけれど、抗がん剤の可能性を信じて、私はずっと抗がん剤を効いてきたので、今回も効くんじゃないか!っていうところで、その先生の後押しがあって頑張ろう!って思った。

岸田 そっか!そう…やっぱ、この先生との信頼関係というのもあってっていうことなんですね〜。だって再発した時は、普通だって…なんで!?とかショック受けると思うんですけど、それが…この医療者との関係でよし頑張ろう!となれたというのが上がっているということなんですね。

松尾 はい。

抗がん剤の5日後に挙げた結婚式——25人の式と、いまの安定した生活

岸田 で、そこから結婚式を挙げる〜!!ということで、つい先日ですよね?

松尾 そうですね、(2026年)3月21日に結婚式をさせていただきました。

岸田 結婚式を挙げられていって、またね、この恋愛・結婚のところは後でもお話を聞きたいんですけれども、治療をいろいろ頑張ってきた中で結婚式いかがでしたか?

松尾 すごい楽しくて。結婚式の5日前ぐらいに抗がん剤をやっていて

岸田 えぇ〜っ!?

松尾 結婚式の3日前まですごい気持ち悪くて、大丈夫かなこれ?って感じだったんですけど、やっぱりなんでしょうね、スイッチが入ると具合もそんな悪くなくなってきて。友達とか結構お世話になった先生とか、25人ぐらいの結構小規模な結婚式ではあったんですけど、すごい温かい感じになって。

岸田 いいですね〜!

松尾 お父さんへの感謝の気持ちとかも手紙に書けたので、すごいよかったです!

岸田 素敵!そして今新婚ホヤホヤといったところで今は安定した生活と書いていますけれども、この安定した生活ということは抗がん剤は効いているということ?

松尾 そうですね1月末のCTで腹膜播種(ふくまくはしゅ)が縮小していたのと、あと腹水が減少してたっていうところで。別に再発した時もそんなに症状ってなくて、再発っていっても小さい腹膜播種(ふくまくはしゅ)が出てきたみたいな感じが、さらに1月の抗がん剤 3回目で小さくなっているので、あんまりそのがんがいっぱいない状態っていうふうに先生にも言われているので。がんによって何か症状があるとかは今なくて、抗がん剤やった直後は具合悪いんですけど、でも3〜4日経つと回復するので、その後は普通に生活できている感じなのですごく安定しているなって感じていますね。

岸田 抗がん剤治療をしつつ、生活のリズムがしっかりできてきているということなんですね〜。

松尾 はい。

岸田 皆さん、いかがでしたでしょうか?松尾さんの今までの4度のがんが、どのようにがんと向き合ってきてといったところが現れているのかなということを思います。

「がんセンターでやってもいいよ」と言われても——筑波大に残ると決めた理由

岸田 ここからですね、少し一つずつテーマをもって聞いていきたいなということを思っております!一つ目のテーマこちら、病院や治療の選択というものがございまして、病院や治療をどのように選択していきましたか?ということだったりとか。治療法は今SDMと呼ばれる、シェアード・ディシジョン・メイキングという言葉があって、医療者と一緒に決めていこう!という流れにはなっているんですけれども、これはどうでしたか?ということをちょっとお伺いをしていきたいなということを思うんですが。まずこちらですね、松尾さんのこの治療、最初こう国立がん研究センター中央病院に行って慈恵医大に行かれて、また国立がん研究センター中央病院に戻ってきて治療をして、ここら辺は筑波の病院に行って治療されてということがありましたけれども、基本的にあれですかね?病院は紹介されてというふうな形でいった感じですか?

松尾 そうですね、もともと網膜芽細胞腫でがんセンターの中央病院に行っていたので、そこのつながりで慈恵医大とかも、そこが多分始まりでいろいろ紹介していただいたりしている感じですね。

岸田 最近の方の筑波の方に関しては、引っ越しをされていった中での大きな病院で、ということですね?

松尾 そうですね、がんセンターには通いながら筑波で今の血管肉腫の治療はしているという感じで、がんセンターは目の網膜芽細胞腫が、がんセンターが専門的に診ているので、それちょっと筑波大では診れないのでがんセンターで診てもらっていますね。

岸田 目はがんセンター、そして今こっちの横紋筋肉腫の方はいったんフォローは終わっている?

松尾 そうですね。

岸田 終わっていて。そしてその後の…かかとの方は?

松尾 そっちはもう卒業でいいよって先生に言われて…なので、今血管肉腫のところだけですね、体の中では。

岸田 治療方法に関しては…そうだね、やっぱりこう珍しい病気が立て続けに続いていくから、どちらかというと自分で調べてというよりは医療者の方がこうしていこうということに関して、それでしていきましょうみたいな感じですかね?

松尾 あっ、そうですね。多分子どもの時は親が先生に言われて決めて、今の血管肉腫は全部 自分で選択して。

岸田 え〜!そうなんや。例えばどういう形で?

松尾 例えば…血管肉腫自体が分かった時に、がんセンターに多分来ても別によかったっていうか、がんセンターががん専門なのでって思うんですけど、やっぱその筑波大のさっき言った主治医の先生がそこまで言ってくださったから、なんか私はその先生と頑張りたいっていうところがあったので、病院を変えずに筑波大でずっといこうって思ったっていうのが多分一番自分で決めた選択で。結構がんセンターの先生とかに相談した時に、がんセンターでやってもいいよっていうふうに言われたんですけど、やっぱりその先生との信頼関係があったのでそこでやっていって。

岸田 そこまで言い切ってくれる先生がね!僕は取るからっていうね、全部取るからっていうことでね。なので、その先生を信頼して治療されていったっていうところでありますかね。

「まさかお腹の中で感染を起こすとは」——手術のあと、退院してすぐ再入院に

岸田 次こちら、つらかったこと、副作用や後遺症などといったところがありますけれども…本当にさまざまな治療をされていった中で言い出したらキリないと思うんですけど、印象に残っているもの、もしくは…こう一番大変だった時とかいろいろ思い出すと…どうですかね?

松尾 そうですね…抗がん剤だったら、多分一番足の骨肉腫の時の抗がん剤がひどくて、多分ドキソルビシンっていうお薬が結構しんどくて、吐き気とか…何とも言えないけん怠感・だるさとか子どもの時あって。あと結構ちょっと便秘になっちゃったりとか、完全に(便が)出なくなっちゃったりとかが結構ひどくて…本当に体調悪かったですね、この時期は。

岸田 そっか〜。それに対して体調悪い時は…どうするの?寝て過ごすとか、何か違うことするとか?

松尾 そうですね、子どもの時は、でも体調悪い時はそうですね、あんまり何もしないで。

岸田 何もしなく?

松尾 はい。

岸田 もう耐える?

松尾 そう、吐き気止めとかを使いながら、食べられるものを食べる。ゼリーとか…ちょっと今もそれは重なるんですけど、どうしても気持ち悪い時に無理にごはんを食べようとすると余計気持ち悪くなるので、今だったらそうめんとか食べやすいものをちょっとずつ食べるみたいなことは、多分子どもの時もやってました。

岸田 そうね〜、だから薬物療法はこの時が一番…体調悪くて。

松尾 そうですね。

岸田 ということで、他にはありますか?

松尾 あと手術のことも。

岸田 ぜひぜひ!手術は…こっち?

松尾 そうですね。でも一番大変だったのは、多分今回の血管肉腫の手術で、痛くて。実は血管肉腫の手術をした後に、実はお腹の中で感染を起こしちゃったんですよね。

岸田 えっ!?

松尾 去年。お腹の中にリンパ液という手術の後の、いい液体がたまっちゃってそこから感染しちゃったんですけど、感染した時に38度5分くらい熱が出ちゃって、水もたまっているからごはんも食べれない・熱がひどいみたいな感じで入院に、手術して・退院して・もうすぐ入院!みたいな感じになっちゃって、その時が結構つらかったんですけど。どうやって切り抜けたかっていうと…結論から言うと、2回目また手術をしてその感染を洗い流したんですよ。

岸田 え〜!そうなん?じゃあ、この手術の後にもう一回手術してるんや!

松尾 そうなんです!感染を取る。

岸田 感染を取る手術なんてあるんや!

松尾 膿(うみ)を全部お腹の中で洗って。その時にリンパ嚢胞(のうほう)っていう袋みたいなやつもできてて、そこから感染しちゃったっていうのもあったので、その袋も全部取るみたいな感じの2回目のお腹を開ける手術をして。それでその症状は結構よくなったんですけど、その2回目の手術の周辺でも主治医の先生がよく来てくれて。結構主治医の先生も偉い方、准教授の方で…そんなにその患者さんに密に来る感じの先生じゃないんですけど、松尾さんのことは僕が見に来るからって言って、週に本当に何回…週の半分ぐらいは来てくれたりして。

岸田 すごい嬉しい!

松尾 そういう励ましがあって。結構体がしんどいから今後どうなるんだろう?みたいな気持ちはすごいあったんですけど、その先生と話して…で、よくなるかなっていう。2回目の手術終わった辺りから、その炎症とかも取れてきて、抗生剤とかも入れながらだったので感染は治ったっていう感じで。

岸田 そっか〜そういうことね!じゃあその…手術の後、感染とかいろいろあってそれが大変だったっていうことですね〜。

松尾 普通手術だけで終わると思ってたので、まさかお腹の中で感染を起こすって誰も思ってなかったので。

岸田 あれですよね、本来であればこの薬物療法とかもっと早くする予定だったけれども、それが遅くなっちゃったんですよね?

松尾 そうです、感染の影響で遅くなっちゃいましたね。

岸田 その影響で、もしかしたら再発したかもしれないかどうかというところですかね。手術した後 大変だったというところがありました。

「そっとしといてくれ」と思っていた13歳——それでも毎日来てくれた母と、ギターを持った父

岸田 そして次はですね、家族のことについてちょっとお話を聞きたいなということを思います。家族のこと、こちらどちらかというとご両親のことについてなんですけれども、治療中ね、いろいろ支えてくださった、そんな家族に対してどんな支えが嬉しかったよ〜なのか、もうちょっとこうしてほしかったよみたいなものあったりとかしますでしょうか?

松尾 はい、そうですね。うちの両親とても親身にいろいろ手伝ってくれてありがたかったんですけど、母親は結構…真面目な貴重面な人で、結構…助けてはくれたんですけど、途中13歳の時の病気とかの時に学校に行きなさいって言ってたんですよ、よく。院内学級に行きなさいって。でも、それは…ちょっとプレッシャーだったんですよね、私にとっては。13歳の時の骨肉腫の。

岸田 この時ね。

松尾 はい、抗がん剤治療中です。

岸田 はいはいはい、こことか。

松尾 はい。

岸田 院内学級でもいいから行きなさいと。

松尾 はい。で、自分は行けるほど具合がよくなかったから行けないってなって。結構、私母親に対して反抗期がすごい長かったので。

岸田 あっ、そうなのね?

松尾 そうなんですよ!母親がよかれと思ってやってくれる、学校行きなさいとか、あと病院に食べ物買ってくるとか…もう…そういうのがすごく嫌で、もう…そっとしといてくれ!って思ってたんですよ、その時。でも多分そういう強く当たられても毎日来てくれて、食べれそうなものとか買ってきてくれて、心配からやってくれてたんだろうなと思うんですけど、その時は体調悪かったのもあって強く当たっちゃって…っていうことはあった感じですね。父親は自分もがん経験者なので、結構気持ちを分かってくれて…父親は結構病院に付き添ってくれたりもしたんですけど、多分何より楽しみを教えてくれて。

岸田 ほう!

松尾 この時に音楽。

岸田 あっ、THE BLUE HEARTS!!

松尾 そうですね。THE BLUE HEARTSと自分のピアノの演奏の場とかを院内学級で演奏してみよう!とか言ってくれたりとか。

岸田 自分のっていうのは…松尾さんの?

松尾 はい。私ピアノやってて、気分転換じゃないんですけど楽しいことが増えるようにって言って、一緒にお父さんギターやってたので、一緒に演奏してくれたりとか。

岸田 お父様は、両目もちろん見えない状態ですよね?がんの影響で。…ですけど、めちゃくちゃこう…上手いんや!

松尾 あっ、そうです!ヘヴィメタル系の。

岸田 すげぇ〜!

松尾 速(はや)弾きとかすごい得意な人。

岸田 えー!!そうなんや!

松尾 そうなんですよ。

岸田 わあ〜!すごいな!そういう楽しみの場を作ってくれたりとか、いろいろやってくれたってことだね。

松尾 はい。

「隠せないタイプなので」——4度のがんを最初から話して、受け入れてくれた夫

岸田 へぇ〜!そっか!いろいろね、本当家族で支えてくれてっていうふうなこともあった中で、そんな次の項目がこちらになります、恋愛や結婚のことということでね、こちらは松尾さんは今新婚ホヤホヤということではございますけれども、旦那さんは…どういうきっかけで知り合ったんですか?

松尾 はい、旦那は私がいた大学の時に知り合いました。

岸田 理学療法士を目指すところの大学で知り合ってということで。ただ、がんという…その告知をするというか、そういったところっていうのは、なんかちゅうちょとかなかったですか?

松尾 がんのことを旦那に伝える時ですか?あんまりないですね。私はその…自分の病気を隠したりとかあんまりできないタイプなので、そういうことを話しても分かってくれる人と一緒にいたいっていう感じで。全然抵抗なく話して、旦那もそれを偏見とかなく受け入れてくれて、頑張ってきたんだねっていう感じで聞いてくれてました。

岸田 そっか〜。なんかきっかけがあったんですか?お付き合いするに至るまでに。

松尾 そうですね、私が…理学療法士って実習に行かなきゃいけないんですよ、病院に。実習で結構つらい思いをしてた時に、しんどかった時に話を聞いてくれたっていうところが一番最初ですね。

岸田 そっかそっか!しかもその旦那様も、ご病気されたことはあったんですかね?

松尾 旦那はもともと目が見えない先天性の病気で、生まれた時から目が見えない人ですね。

岸田 あっ、そっか、ということはお父様と一緒?

松尾 病気は一緒じゃないんですけど。

岸田 (旦那様は)先天性ね?目の状態は。

松尾 目の状態は一緒です、全盲ですね。

岸田 全盲の方ということで。えっ!?じゃあ…その時…未来の旦那さんも何かしら…医療職種になろうということで通われてたってこと?

松尾 旦那は…その私が卒業した大学は3つの学科があって、鍼灸と私が行ったリハ(ビリテーション)と情報システム学科っていうパソコンのプログラミングとかをやる学科があって、そこの出身ですね。

岸田 えっ!そうなんや!いや…もういや〜…俺ほんとステレオタイプかも……。なんかあの…目が見えないと、こう触ってというかそっちの方に進むのかなと思ったら…情報なんですね?

松尾 そうですね!目が今見えなくてもパソコンとかは読んでくれるソフトが、PCとかあるので、それでもう全部できちゃう。

岸田 うわー!そっか。

松尾 だから…夫はゲームを作る、もともとゲームクリエイターなんですよ

岸田 そうなんや!!

松尾 はい。

岸田 じゃあ医療系とか全く関係ないんや?

松尾 関係ないです、全然。ゲームを…(目が)見えない人と見える人が一緒にできるゲームを作ろうって。

岸田 そういうことね!

松尾 頑張っている人です。

岸田 へぇ〜!理解しました。そういうことか。それでお付き合いをされていってご結婚されていくという中では、ご結婚されていく中では、何かしらハードルとかありましたか?

松尾 そうですね…そんなになかった気がしますね…なんか意外とうまくいってて。

子宮と卵巣の摘出——「子どもが欲しい」と言っていた夫と、二人で受け入れたこと

岸田 いやいや!もうそれは、それに越したことはないです。そんなね、中で妊よう性のことっていったところに関してもちょっと伺っていきたいと思うんですけれども、今ね、卵巣とか子宮とかそういったところを摘出されていますよね。妊よう性…子どもを作る能力っていったところに関して、こちらに関してはいかがでしたか?

松尾 もともと夫は子どもが欲しいってずっと言ってて、でも私はそんなになんか…そこまで…強く思ってなかったんですよ、もともと病気になる前から。で、病気になって卵巣・子宮を取っちゃったんですけど、そこはやっぱり子どもが欲しいって思ってた夫にはすごい申し訳ないと…いつも思ってて、父親になって欲しかったっていう気持ちはあるんですけど。自分がやっぱり作れないから、作れないことを言ってもしょうがないので、どうやったら二人でうまくいくかみたいなところを考えていく方向になっていて。そんなに夫もそれを責めたりする人じゃないし、自分も過剰に申し訳ないと思いすぎないっていうか、私が生きるためには子宮・卵巣を取るしかなかったので、それをしなければ多分生きる選択肢はなかったから、そこは多分受け入れて、私も受け入れて夫も受け入れてると思います。

岸田 そっか…手術するかどうか。ただ手術をしなければ…最悪の事態になってしまうっていうところもありますからね…。

松尾 はい。

岸田 じゃあ今は2人で受け止めて、前向きに今考えているということですね。ありがとうございます。

生徒会も、軽音楽部の立ち上げも——「今までで一番努力した」盲学校の3年間

岸田 次こちらのことですね、学校といたしまして、さっきね、ちょっと院内学級の話はありましたけれども、こちらの時にですね、学校復帰とかっていったところが大変だったりとか高校のところが抜けていたりとかするので、そこら辺も補足いただきたいなと思っております。学校の勉強ってついていけました?

松尾 私はあまりついていけなかったタイプで、小学校・中学校そんなに勉強が好きじゃなかったので、あと黒板がやっぱり見づらいっていうのがあって。

岸田 あぁ〜!そうやんね!

松尾 そうなんですよ。一番前の席にしてもらって、それでも見えない時は単眼鏡っていって覗く機械があるのでそれを使って見てたんですけど、見え…てないっていうのと、やっぱり一回分かんない!ってなっちゃうとずっとこう分かんない、自分はそれを解決しようとか あんまりなくて、中学の時とか音楽してたら楽しいしみたいな感じで、あんまり勉強を一生懸命やってなかったタイプでした。

岸田 その中で、高校はどうしたんですか?。

松尾 高校は私、中学校3年生の時に理学療法士になりたいって思って、だからその大学に行きたいってその時思ったんですよ。大学に行くためにはその勉強をしなきゃいけないし、(勉強を)する環境があったらいいかなと思って。各県に今あるんですけど、盲学校…今視覚特別支援学校っていうところも多いんですけど、そういう特別支援学校ですね、要は視覚に関してのそこの高等部に進学して、高校3年間で遅れた分とか分かんなかった分とかを全部取り戻そう!と思って。盲学校とかは結構…人数が少ないので、クラスが本当に1人・2人のとこも少なくないし、マンツーマンで先生にこう教えてもらえる、質問とかもしやすい環境だったので、そこに行けばその自分は頑張れるかな?と思って、で、両親の母校でもあったので。

岸田 あー!そうなのね。

松尾 そういうのもあって、ちょっとこう…環境を変えたいというところで。

岸田 そっか…ご両親の母校、そのお父様は…目が見えないって、お母さんもそうだったんですか?

松尾 そうですね。

岸田 あっ、そうだったんですね!

松尾 お母さんは網膜色素変性症っていう難病で、どんどん視力が下がっていく病気で20代半ばで失明してしまって。

岸田 あ〜、そうだったんですね。そっか!その中で盲学校に通って、それで一生懸命…取り戻して大学に行くと?

松尾 そうですね!その学校の中でも、やっぱり今まで中学校の時まで内気の性格で、あんまり外に出たりとか積極的にしなかったんですけど。盲学校入って生徒会やったりとか、あと…部活を作ったりとか音楽の軽音楽部を作ったりとか、結構一生懸命やってて。そこでやっとこう、一生懸命やってるなっていう自分で感じる。多分そこが…高校3年間が一番多分努力した期間かなって思います!今までで。

岸田 素敵〜!大学に進学ができて、そこで一生懸命また勉強して、今はね、資格を取ってということですよね、医療者になって。

松尾 そうですね。

臨床から療育、そして研究へ——治療を続けながら働き方を変えていく

岸田 ありがとうございます。そんな中で次こちらですね、お仕事についてちょっとお伺いしたいんですけれども、お仕事で体力的なところで大変だったといったところ、その後就かれて…だと思いますけれども、いかがでした?というか…ちょっと待って、治療中はだからこの時はがんにはもうなってないのか、なってないというか、一応取り切っているからがんじゃないのか。

松尾 はい、仕事をして最初の時。

岸田 仕事をやっぱりこう…さっきね、ハードワークって言葉もありましたけど、お仕事…職場にはがんのこととかいろいろそういったところは伝えて?

松尾 あっ、そうですね伝えてますね、全部。

岸田 で、仕事って言ったところで、1年目と2年目で病院から小児施設へっていったところは、それはあれですか?やっぱり体力的なところでっていうことですか?

松尾 そうですね、体力的にちょっと病院でその臨床をやるのは厳しいかなと思って。小児だったら自分が小児がんとかの経験があるので、子どもたちに同じ目線ですることできるかな?と思って小児の施設に就職しました。

岸田 そうですね。その後どうでした?

松尾 そうですね、結構小児の施設だったんですけど、その…なんだろう、理学療法士の業務っていうよりは療育なので全般…子どもたちの全般を見なきゃいけなくて、コミュニケーションの取り方を教えたりとか文字を書くのを教えたりとかっていう感じで、そっちもそっちで結構ハードだったんですね、入ったら。で、目がちょっと悪いので子どもたちが走ってどっかに行ったりとかするのを、やっぱり見つけられなかったりとか。

岸田 そっか〜。

松尾 おもちゃの誤嚥(ごえん)とか口に入れちゃったりとかするのはあんまりこう…すぐに見つけられなくて、結構悩んだっていう時期はあって。やっぱ自分の視覚障害がなければ…もうちょっと…いい仕事ができたのかな?っていうのはすごい思って。

岸田 そっか…そこら辺も難しいですよね〜。

松尾 はい。

岸田 体力的なところと、やっぱ視覚のところということか。そっか〜そんな中で、今は…もうお仕事は辞められて?

松尾 はい、そうですね。去年の10月末で治療が大変になるので退職してます、この小児の施設は。

岸田 そうか!ご自身のがんの治療…といったところがあるから?

松尾 はい。

岸田 ただ、あれですよね?また仕事を…違う形でまた復帰されるんですよね?

松尾 そうなんです。実は私が卒業した大学は筑波技術大学っていう、視覚と聴覚に障害がある方が通う大学なんですけど、そこの先生にがんのこととかもお話ししてたんですけど、研究のお手伝いをしてほしいっていうところと、あと私自身の研究したいテーマが一つあって、視覚障害者の運動支援っていうところを研究したらどうですか?っていうか、研究やってみませんか?って。

岸田 お〜!声がけしてくれたんですね?

松尾 はい。で、やっぱりフルタイムで勤務するのはキツいので、今治療とかもやっぱりあって…という状況なので、アルバイトで週2日くらいから始めてみて、研究の論文も研究室に所属しているので書いてくださいという感じで言われて、それをちょっとお仕事にしていく感じに今なっています。

岸田 おー!じゃあ、あれですね?体力的にもありがたいし、しかも自分でやりたいことでもあるし、めちゃくちゃぴったりですね!!じゃあそういった研究もされていくというのが、今後の松尾さんかなということを思います!

民間保険には入れない——限度額と多数回該当でしのぐ治療費

岸田 はい、次こちら、お金や保険のことといたしまして、治療費どれくらいかかったの?とかね、民間の保険入っているの?入っていないの?ってありますけれども、民間の保険って……?

松尾 入れないですね、入ってないです。

岸田 治療費とかは…もちろん20歳、18歳延長して20歳になるまでは、小児慢性特定疾病のね。

松尾 そうですね。

岸田 そこで医療費が助成されるのかなと思うんですが、大学…今とか治療費かかってるでしょ?

松尾 かかってますね。

岸田 それはどうするんですか…?

松尾 それはあの…旦那が払ってくれてて。限度額が一応あるので、限度額まではかかるけどそれ以上かからないっていうところがあって。最初…多分、多数回該当って言って4回目から下がるじゃないですか?

岸田 (月額自己負担)4万4千円になるやつね?

松尾 それまでは結構キツくて、どうしよう!って思ってたんですけど、でも旦那が…治療できるなら全然大丈夫!って言ってくれて。自分も4月から…ちょっと働くから少し協力できるかな?っていうところで。でも、お金の問題は多分…ずっとありますね不安は…。

岸田 治療続けていく限りはね〜。

松尾 多分治療も長く続けなきゃいけない、細胞の悪性度が高いので、すぐにはやめれないので…やっぱりお金は考えますね。

岸田 ちょっと質問やねんけれども、今…視覚的な障害を持たれているということであれば、障害年金はもらえて…ちゃんと…いる?

松尾 私は視覚の障害が軽いので…もらってないです、障害年金は。

岸田 ないのか!

松尾 1級とか2級とかになるともらえるんですけど、私…視覚はそんなに重度じゃないので、5級って扱いになっているので(障害)年金は もらえてないんですよ。

岸田 いろんなところ手術して…とかね、いろいろやってるけれども…っていうことだね。

松尾 結構珍しい病気になっているのに、難病とかではないので。難しいですよね!その辺はね。

岸田 難しいですね〜!!お聞かせいただいてありがとうございます!

「ネットの情報はあんまり見ない方がいい」——主治医からもらった英語論文と翻訳アプリ

岸田 その中で次、情報のことといったところをお伺いしたいんですけれども。いろんな医療情報を調べていくってある中で、特に子宮血管肉腫というのが、情報が…限りなく少ないかなと思うんですけれども、松尾さんなりにこう…工夫したというか、インターネットなのか医療者からなのか、どうでしたか?

松尾 そうですね、血管肉腫って分かった時は結構自分で調べたりもして…。でも正直言うと、自分で調べた論文って厳しい結果しかなかったんですよ。お亡くなりになられたとか、ちょっと悪化してしまったとか。それをやると…自分がすごい不安になっちゃって、自分もそういうふうになっちゃうんじゃないか?みたいな感じがやっぱり…私は一回思っちゃうとそうやって思っちゃうタイプなので、それは…やめた方がいいよって先生に言われて。
主治医の先生じゃないんですけど、一緒に診てくれてる先生に、ネットの情報をあんまり見ない方がいいよって言われて、じゃあ先生どうしたらいいですか?って言った時に、私は医療職なので、医療の論文がある程度読めるから、その先生が僕が読んでる論文をあげるよって言って、で、くれたんですよ!英語のその…全部英語の…ボーン!みたいな厚い論文を。ここから全部薬とかもやってるからみたいに言われて、で、今結構翻訳のアプリとかもあるので、それで全部日本語訳して読んで。そういう先生にもらった論文とかは、厳しい結果もあるんですけど、全てが厳しかったっていう結果じゃなくて。例えばパクリタキセルとか使ったら、奏効してよくなってますよみたいな話も結構あって。
そこで…自分の調べた情報って、限定的で狭かったな〜って思って。医療のことで分かんないことがあったら先生に聞こう!って思ったのが、信頼関係の確立にもなるし、自分で調べて自分の妄想がひどくなるよりは、先生とコミュニケーションしていっぱい解消していったほうがいいかなと思って。あとは、筑波大にがん相談支援センターっていう部分があって、看護師さんとかソーシャルワーカーさんとかがいるところに相談に行ったりはしてて。そこの看護師さんと結構慣れてるから、いろんな…がんの人の情報とか教えてくれてというので、結構安心して治療に取り組めているというのもあります。

知らないまま治療されるのが一番つらい——松尾さんの「納得して受ける」基準

岸田 がん相談支援センターを活用したりだとか、医療者に論文を見せてもらったりとか、そういったところで情報を仕入れているということですね〜。ちなみに…あったらでいいんですけれども、治療中とか入院中、これ工夫してたなっていうのはあったりとかしますか?

松尾 そうですね…やっぱり私が一番工夫っていうか重視してたのは、自分が納得して治療をしたかったので、疑問とか不安が大きいままで治療をしないとか検査をしないっていうのは思ってて。例えばCTを撮りますって言われた時に、なんで今の時期にCTを撮るんですか?って聞いたりとかして。例えば…2回目終わった評価で撮るんだよとか、治療を始める前の最初の状態で撮りますとかって言われて、だったら納得する。CTって放射線も結構あるから、放射線浴びる検査を2か月とか3か月に1回するんですか?みたいな話とかも結構聞きますし。抗がん剤とか…例えば、今その白血球とかの数値が上がらなくて1週間延期とかなったりするんですけど、それもなんか本当に延期して大丈夫なんですか?みたいな、効果はあるんですか?みたいな、結構そういうキツい質問も私はします。医療の先生に…医療職の方っていうか。

岸田 そっかそっかそっか!ちゃんと納得して、ちゃんと…だったらしますけどっていうところで。

松尾 そうですね…なんか、自分のそのやっぱり知らない状態でされるっていうのが一番自分はキツいので、全部自分の状態を知った上で治療とか検査をしたいっていうのは結構考えて過ごしてます。

岸田 すごい!さすが。それがね、ちゃんと納得してね、治療を受けていくっていうのは自分の体のことですもんね。

松尾 はい。

「2年先、3年先が当たり前じゃなくなった」——今日お寿司が食べたいと思ったら食べる

岸田 次、がんになる前と後で変わったことってあるんですけれども、こちらね、もう0歳からもうね、罹患をされていらっしゃいますので(がんに)なる前と後でっていうよりは、がんになったからこそ…考えることとかそういったところ…。今がんになったからこそ……難しいですね、もし聞かれたらどう答えますか…?

松尾 前と後で変わったことですよね。でも…なんか前、例えば今回の子宮血管肉腫の限定。

岸田 そうしましょう。いろいろね、0歳の時からがんに罹患されているので、この質問っていうのは結構…ね、ナンセンスかもしれないですけれども、例えば最近罹患された子宮血管肉腫になる前と後で、何か変わったこととかはありますか?

松尾 はい、そうですね。前は…なんかこう…その(子宮血管肉腫に)なる前って、2年・3年先があるのが当たり前だと思ってて、だから2年後・3年後自分はこういうふうになって例えば仕事してるんだろうとか、なる前とか結構(仕事で)疲れてたので、2年・3年先も自分はこうずっと疲れた感じで過ごしていくのかな?みたいな予測がついてた部分があって。
でも…なった後って、やっぱり私の場合本当にその…半年後・一年後が分からないです、自分で。でも、それって人間本来そうだと思うんですよ、2年・3年先なんて予想ができないことが当たり前なので、(仕事で)疲れてた前みたいに2年・3年先を考えて疲れるっていうよりは今楽しいことをしたいっていうのと、今日・明日やりたいことをやりたい。だから、すごい小さなところでいうと、今日お寿司が食べたいと思ったら食べる!みたいな、明日はどっかに行きたいと思ったら行く、結構仕事も始まるのでそんな自由にはいかないんですけど、これのこともあるのであれなんですけど、自分のその…気持ちに正直に生きていった方が、たとえ半年・1年後どうなったとしても自分に後悔ないんじゃないかな?っていうところを考えます。

「思い描いたすぐ前のことをやっていく」——松尾さんの目標の立て方

岸田 自分に後悔ないようにね、といった形で考えているということですが。そして次こちらね、大切にしたいこと、夢や目標などというのは今あったりとかしますか?という質問なんですけれども、いかがでしょうか?

松尾 そうですね、やっぱり…私すごい壮大な夢とかはもともと持ってないので、一番大事なのはやっぱり…さっきも言ったんですけど、自分のしたいことをして過ごすことだと思うんですよね。何かこう…よく私も結構聞くんですけど、何か目標があった方がいいっていうことは確かにそうだと思っていて。私のすごい小さな目標で言えば、研究を、研究成果を出すとか、今後の仕事、就職をしたいとか大学院に行きたいとかそういう部分なんですけど、そういう一個一個のことを確実にやっていくっていう方が自分は大事かなって思ってて、コツコツ努力型なので、もともと。そんなにいろんなことを器用にできないので、自分の思い描いたすぐ前のことをやっていくっていういうところが、すごい大事にしています。

岸田 それでね、一歩ずつ前に進んでいってというのは松尾さんらしいなということを思いますし、今も本当にそれを体現されているような、そんな松尾さんかなと思います!ありがとうございます。

「がんは、私をつないでくれたもの」——松尾さんからのメッセージ

岸田 では、最後にメッセージをいただこうかなと思います。松尾さんからメッセージ、こちらになります!

松尾 がんは、私をつないでくれたもの。私がこういうふうにメッセージを伝えたいと思った理由なんですけど、私は25歳で4回のがんになってしまって、がんっていうのはとても私にとってはつらいもので、(がんに)ならなきゃならないで…ならないほうがよかったなと思うんですけど。逆に言えばがんになって、例えば足のがんになったからこそ自分は理学療法士になりたいとか考えて、母親ががんで亡くなったからやっぱり優しい理学療法士、緩和ケアの方とかも勉強したいと思って。私の人生の中で、何かしたいと思ったきっかけが全部ほとんど、がんなんですよね。がんはすごい敵なんですけど、自分にとってはいろんな…自分にとって大事なものとか気持ちを教えてくれたものでもあると思ってて、それはすごく…がんになったからこそ今の自分があると思っているので、がんをすごく悪いものだと思って毛嫌いするっていうか避けるよりは、私はがんに教えてもらったことを大事にしながら今後も生きていきたいと思っています。

岸田 ありがとうございます!がんは私をつないでくれたもの。そっか!もうね…0歳の時からね、がんに罹患してね、直近も罹患されて…さまざまなところで、やっぱり進路もそうですし、さまざまなところで病気は考えないといけないところですけれども、それが逆につないでいってくれたということなんですね。

松尾 はい。

岸田 いや〜!そこまで…考えられるようになったのはいつからですか?

松尾 あぁ、でも最近の血管肉腫の時ですね、一番。本当にいろんなこう…波があって、診断される前はつらかったし、本当になんか…手術する前とか腹水がたまりすぎてお腹がすごい出ちゃって、自分はいつ破裂するんだろうとかいつ具合悪くなるんだろう?って本当に思ってた時期があるからこそ、今自分が元気なことがすごい嬉しいし、この状態が長く続けばいいなっていうのが、コントロールできればいいなって思っているので。がんって必ずしも自分にとってマイナスなことだけじゃなかったなっていうふうに考えています、今は。

岸田 はい、ということですね。こういったマインドになったのも、子宮血管肉腫になったといったところからということですね。はい、それではですね、もう本当にこのがんノートこれにて終わっていくのですが…松尾さん、いかがでしたか?

松尾 はい。今日お話できて、自分の今までの人生のあったこととかも整理できたし、自分の元気な姿を皆さんにお見せして、がんになっても元気で過ごすことができるっていうのを本当に一番伝えたいですね!それをお話しさせていただいて、すごいありがたいです!ありがとうございました。

岸田 いやいやいや!こちらこそです。本当にね、4つのがんを経験されて、それでもこういうふうに松尾さんの生き生きとした姿というか、そういったことを皆さんにお伝えできて本当に嬉しいなと思いますし、もし何かね、皆さん何か松尾さんの生き方、もしくは選択だったりとかそういったところでヒントになってもらえたら嬉しいなということを思っております!それでは、これにてがんノート終了していきたいと思います!また皆さん次の動画でお会いしましょう〜!それでは皆さん、バイバイ〜!

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