目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 発覚から告知までテキスト / 動画
- 治療から現在までテキスト / 動画
- 家族(親・妹・子ども)テキスト / 動画
- 遺伝テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- 後遺症テキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:松坂
- 治療を続けながらウィッグ製作の仕事に取り組む松坂さん
- 「脱水症状」から始まった卵巣がんの発見
- 10年間の治療経過 手術・抗がん剤・分子標的薬・放射線治療
- 母から受け継いだウィッグと遺伝性がんへの向き合い方
- 遺伝性がんとの向き合い方 家族への想いと次世代への責任
- がん告知後の退職から理解ある職場との出会いまで
- 経済的負担と克服への道のり 保険・家族支援・患者会での繋がり
- 後遺症との向き合い方 しびれと脱毛を前向きに受け入れる工夫
- 医療者への想いと人生観 感謝と要望、そして「ケ・セラ・セラ」の精神
- 次世代のために がん患者が自由に過ごせる社会を目指して
- 病気との歩み 発症から現在まで12年間の治療経過
- 同じ境遇の方々へ「ケセラセラ」に込めた想いと体験談の意義
治療を続けながらウィッグ製作の仕事に取り組む松坂さん
松坂 長くN(地名)に住んでいる、松坂.Cといいます。49歳です。よろしくお願いします。仕事はS(社名)というところでパートとして働いていて、体調がいいときだけ行かせてもらっている形です。
岸田 松坂さん、そのS(社名)って何をしている会社なんですか?
松坂 最近立ち上げた仕事なんですけど、「和毛」というもので、自分の髪の毛を使って部分ウイッグを作る仕事です。
岸田 ありがとうございます。
松坂 私は卵巣がんで、2012年、38歳のときに診断されました。手術、薬物療法、放射線、そしてラジオ波治療も受けました。今も仕事をしながら治療を続けています。以上です。
岸田 ありがとうございます。すごいですね。手術、薬物療法、放射線、ラジオ波まで受けられていて…。2012年からだと、もう10年以上いろいろな治療をされているということですよね。
松坂 そうですね。
岸田 そんなN(地名)でもご活躍されている松坂さんに、今日はぜひいろいろお話を伺っていきたいと思います。よろしくお願いします。
松坂 お願いします。
「脱水症状」から始まった卵巣がんの発見
岸田 早速ですが、今回は発覚から告知までを、松坂さんの経験談としてお聞きしていきたいと思います。松坂さんは、どのようにしてがんが見つかったのか、簡単にお話しいただけますか。
松坂 2012年の7月、暑いなと思いながら、体調も悪くて、「太ってきたな」とか、いろんな不調があったんです。それで近くの病院に行ったら「脱水ですね」と言われて、1週間くらい点滴をしてもらいました。もともと太ってはいたんですが、さらにズボンが入らなくなってきて…。脱水も良くなったかなと思ったので、母の実家がある松坂県に旅行に行ったんです。
ところが帰ってきたら、おなかがカエルみたいにパンパンになっていて。妊娠6〜8カ月ぐらいの大きさになっていたんです。それでまた病院に行ったら「ここでは対応できないので、大きい病院へ」と紹介状を書いてもらい、一つ目の病院に行きました。
でも、そこでちょっと嫌な対応があって、「今日帰っていいよ」と言われてしまったんです。
岸田 普通のクリニックじゃなくて?
松坂 少し大きめの病院です。でも「入院しないなら帰っていいよ」と言われ、そのまま帰って、今通っている病院に行きました。そこの先生が「もしかしたら良くないものかもしれない」と言って、翌日入院セットを準備して来るように言われたんです。
それで入院して腹水を抜いたら、4リットル以上ありました。吐き気もひどくて、手術日程は決まっていたんですが、前倒しで入院させてもらいました。卵巣がんはおなかを開けるまで分からないことが多いんですが、このときも「おそらく卵巣がんでしょう」と言われ、手術の結果、卵巣がんと確定しました。
岸田 そんな経緯で分かったんですね。中でも「ん?」と思う部分があったので、もう少し聞きたいんですが…。
最初の脱水症状で点滴を受けたのは、本当に脱水だったんですか? それとも、がんが原因でそうなっていたんでしょうか。
松坂 最初の病院は小さなクリニックだったので検査項目も限られていて、血液検査の結果から「脱水でしょう」という診断でした。でも旅行から帰ってきたときにはおなかの様子がおかしくて、先生も「脱水だと思うけど…」と首をひねり、そこでようやくCTを撮ってもらい、おかしいからと大きな病院を紹介されました。
岸田 その時点でおなかはかなり大きくなってたんですよね。
松坂 そうです。おなかだけじゃなくお尻も大きかったですが、とにかくおなかが硬くて大きくて、普通なら太っていると横になると脂肪や皮が横に流れるんですけど、全くならない状態でした。布団で寝るのもつらくて、起きたまま横になるような感じでした。
岸田 一つ目の大きな病院では、CTは撮らなかったんですか?
松坂 血液検査はしましたが、CTを撮った記憶はないです。腹水はあると言われ、「入院して抜きましょう」と最初は言われたんですけど…嫌な思いをしたので「すみません、やめます」と伝えました。そしたら「入院しないなら帰っていい」と言われ、その場で「どこの病院にする?」と聞かれて…。でも家族にも相談したかったので「今すぐは決められない」と答えたら、「今決めて」と迫られて、本当に最悪でした。
岸田 でも、ちゃんと「嫌です」と意思表示したんですね。
松坂 はい。そこはがん拠点病院でもなかったですし。
岸田 そうですよね。すでに「がんかもしれない」と言われてたわけですもんね。
松坂 はい。
岸田 それなら専門病院のほうが安心ですよね。紹介状はその場で書いてもらったんですか。
松坂 はい。でも苦しい状態で、「帰っていい」と言われたので、本当にこれで大丈夫なのかと思いながら帰りました。
岸田 その後、がん診療連携拠点病院に移って、腹水を抜いてもらったんですね。
松坂 はい。
岸田 4.3リットルって、2リットルのペットボトル2本以上ですよね。
松坂 そうです。抜いただけで「ご飯食べられそう」と思ったくらいです。
岸田 それが卵巣がんによる「がん性腹膜炎」だったんですね。
松坂 だと思います。でも私は医者じゃないので詳しくは分かりません。
岸田 はい、ありがとうございます。あくまで患者さんの経験談としてお聞きいただき、医療的な判断は必ず主治医に相談してくださいね。そして、松坂さんはその後、開腹手術をされたんですよね。
松坂 はい。おなかを開けたら、右側の卵巣が大きく腫れていて、左はそれほどではなかったですが腸と癒着していて取れませんでした。右側はひどかったので、付属器と一緒にすべて取りました。
岸田 最終的には両方とも取られたんですよね。
松坂 はい。1年後に左側も取り、大網もがんで真っ白になっていたので切除しました。
岸田 そして病理検査で卵巣がんと確定した、と。
松坂 そうです。
岸田 卵巣がんの中で、何という種類でしたっけ。
松坂 漿液性腺がんといいます。
岸田 それは珍しいんですか?
松坂 いえ、卵巣がんの中では一番多いと言われています。
岸田 なるほど。それが分かった上で、告知を受けたときはどうでしたか。
松坂 「やっぱりな」という感じで、あまり驚きませんでした。何となく自分で予感もしていたし…。卵巣がんになる少し前から、夢見がとても悪くて。
岸田 夢見?
松坂 はい。嫌な夢を見ることが続いていたんです。それで父に「私、卵巣とか子宮とか取ろうかな」と話したこともありました。その頃から、気持ちの面で何かおかしかったのかもしれません。だから「がんです」と言われたときも、自分が映画を観ているような感覚でした。
岸田 そうなりますよね。
松坂 なので、衝撃で立ちすくむほどではありませんでした。
岸田 自分のことなのに、自分のことじゃないように聞こえるというか…誰か別の人の話をされているような感覚。
松坂 そうです。まさにそんな感じでした。でも、それを家族に話したときに、「あ、やっぱり自分のことなんだ」と実感しました。
岸田 少しずつ現実として受け止めていったわけですね。
さて、ここでコメントをいただいているので読み上げます。Kさんから。「松坂さん、岸田さん、こんにちは」。
松坂 こんにちは。
岸田 「私もN県のサバイバーです。がんは慢性骨髄性白血病ですが、同じN県の方と知ってうれしくてメッセージしました」。
松坂 ありがとうございます。うれしいです。
岸田 ありがとうございます。N県の方も見てくださっていてよかったです。
続いて、Yさんから。「いつもありがとうございます。腹水の量がすごいですね。兆候はあったんですか?」と質問をいただいています。兆候はどうでしたか。
松坂 腹水に関しては、最初は全然分かりませんでした。自分ではただ太っただけだと思っていて、「ズボンが入らなくなったから買い替えなきゃ」としか思っていませんでした。
岸田 つまり、兆候というよりは、単に太ったのかなという感覚だったんですね。
松坂 そうです。
岸田 いつ頃から太ったと感じましたか?
松坂 急激に増えたのは、夏の暑い7月くらいですね。
岸田 じゃあ、その7月から腹水を抜くまでの間、だいたい1カ月くらいで一気におなかが大きくなったということですか。
松坂 そうです。
10年間の治療経過 手術・抗がん剤・分子標的薬・放射線治療
岸田 では次に、治療から現在に至るまでの経過を伺いたいと思います。波瀾万丈すぎて本当にすごいのですが…。まずはこちらに書いてある「CVポート留置」「2度目の手術」「経過観察」について、お話しいただけますか。どのように治療が進んでいったのか、お願いします。
松坂 分かりました。ありがとうございます。ずっと抗がん剤治療を続けてきて、最初はかなり長時間かかる抗がん剤だったので入院で行っていました。看護師さんたちからも「お願いだから入れて」と言われて、CVポートを留置しました。
岸田 CVポートって、どのあたりに入れるんですか。
松坂 この左側、鎖骨の下です。
岸田 そこから抗がん剤を流すんですね。そうすると…
松坂 失敗もないし、時間通りに終わります。それで数値が上がってきたので、2度目の手術になりました。同じ場所をきれいに切ってもらって、そこから…。
岸田 ごめんなさい。2度目の手術というのは、最初に片方を取ったけれども、まだ残していた方があるから?
松坂 はい。残っていたほうが大きくなってきて、数値も上がってきたので「取りましょう」という話になりました。
岸田 なるほど。その後に抗がん剤を追加でやって、1回経過観察に入ったわけですね。
松坂 そうです。
岸田 CVポートを入れて、2度目の手術も開腹手術ですか。
松坂 はい。すべて開腹手術です。
岸田 開腹手術は体への負担が大きいと思いますが、どうでしたか。
松坂 1回目のときは吐き気がひどくて…。看護師さんに相談したら「吐き気が出にくいようにしてあげる」と言われ、そうしてもらいました。ただ、その代わりに目が覚めるまでの時間が遅くなってしまって。
岸田 というと? 例えば?
松坂 手術後、通常なら1時間で目が覚めるところが、3時間や4時間後になってしまったんです。面会時間が終わってしまって、親は帰ってしまう…なんてこともありました。でも「これで良くなるなら」という思いが強かったので、あまり気になりませんでした。
同じ場所を開けるので、「先生はどんなふうに切るんだろう、上手かな下手かな」なんて考えていたくらいです。
岸田 なるほど、そういうことですね。
松坂 でも、開けて縫ったのを見たら、本当にきれいにくっついていて、やってもらえたので、手術に関して特に不満はありませんでした。
岸田 手術に関しては、時間を気にするくらいで、特に気にならなかったということですね。
松坂 そうです。
岸田 同じ場所を切るって、本当に同じ場所を切ってくれるんですか。
松坂 はい。同じ場所を切ってくれます。でも、切った部分の線はだんだん太くなっていくような気がします。
岸田 確かに、それはありますよね。
松坂 でも、きれいに縫ってくれていたので良かったです。
岸田 その後、抗がん剤も少しやって、経過観察に入った。経過観察になるということは、取り切れたという判断だったんですね。
松坂 はい、そうです。
岸田 そして、その後…2015年。さっきが2013年でしたから、2015年9月に腫瘍マーカーが悪化します。これは経過観察中に数値がだんだん上がってきたということですよね。
松坂 そうですね。診察の間隔が空いてきて、「だいぶ良くなったな」と油断していた頃に悪化しました。「がんで…がーん」という感じで、すごくショックでしたけど、「また何とかなるだろうな」という気持ちで挑みました。
岸田 悪化してもすぐ治療を始めたわけではなく、2016年2月まで様子を見ていたんですね。
松坂 はい。検査をしながら様子を見ていました。
岸田 そこから、経過を見ていく中で3度目の手術となったわけですが、次はどこをどう切ったんですか。
松坂 また同じ場所を切りました。腹膜の中に再発していたので、そこを取りました。
岸田 腹膜って、腸などを包んでいる膜のところですね。
松坂 そうです。中に播種的にできた腫瘍を取りましょうということで、手術しました。同じ場所をきれいに切って縫ってくれて、「さすが先生」という感じでした。
岸田 3度目になると、傷跡もまた太くなっている感じですか。
松坂 はい。後で見たら、やっぱり少し太くなっていました。
岸田 開腹手術は、みぞおちの下ぐらいから切るんですか。
松坂 いえ、みぞおちより下ではなく、おへそから下です。
岸田 おへそから下を切ったんですね。なるほど。では、その後に「カルボプラチンでアレルギー発症」とありますが。
松坂 はい。CVポートを入れているので、抗がん剤はケモ室で行っていました。少しかゆいなと感じていたんですが、自分でかいている感覚もあまりなくて…。看護師さんが慌てて飛んできて「かゆいの?」と見たら、全身が真っ赤になっていました。その瞬間、気持ち悪さや息苦しさが出て、すぐ中止になりました。
岸田 こういうアレルギーが出ることもあるんですね。でも何回かやってきた中でのことですよね。
松坂 そうです。
岸田 最初からではないんですよね。
松坂 はい。その後、もう一度試したのですが、やっぱり症状が出てしまって、「もうこれは使えません」ということになりました。
岸田 それで経過観察に入ったんですね。
松坂 はい。そのタイミングで数値が下がっていたので、「経過観察にしましょうか」ということになり、そのまま経過観察になりました。
岸田 治療を終えて経過観察になったことで、恐怖ではなく一区切りついた感覚だったわけですね。
そして、その後…2020年に再び悪化。さっきのが2016年だったので、そこから4年後ですね。
松坂 はい。「もうすぐ5年目だね」という話をしていたら、悪化していました。
岸田 その悪化は何で分かったんですか。
松坂 数値が上がってきて、体も少し痛くなっていました。
岸田 数値も上がって、体も痛くなってきた。それで次は、どこにできていたんですか。
松坂 肝臓の少し下あたりです。おへそから下を切り、さらにおへそをぐるっと回って、みぞおちの下あたりまで切りました。下の部分は以前と同じ場所なので…。
岸田 4度目の手術ですね。また傷が広がっていく。
松坂 そうです。傷もまた太くなっていきました。
岸田 松坂さんは軽く話されていますけど、想像するとかなり大変なことですよ。
松坂 そうなんですかね、きっと。
岸田 こんなふうに悪化が見つかったとき、「またかよ」とか、せっかく4年経ってもうすぐ5年だったのに…というショックはなかったんですか。
松坂 「またかよ」という気持ちは、すごくありました。
岸田 ですよね。
松坂 でも、これまでも何とかなってきたので、「また何とかなるかな」という気持ちでした。肝臓の下であって、肝臓そのものではなかったですし。そのときは。
岸田 リンパとかにも?
松坂 リンパや腹膜、中にもあったので、「取ればまた何とかなるかな」と。そんな気持ちでした。ただ、このときはちょうどコロナが始まった頃だったので…。
岸田 2020年ですね。
松坂 はい。家族とも面会できず、そういう意味での不安はありました。
岸田 ああ、この時期か。
松坂 でも、自分の中ではコロナよりもがんのほうが怖かったですね。入院中でしたし、テレビでは芸能人の方がコロナで亡くなっていくニュースもあって、「がんだとそういうリスクも高いのかな」という不安はありましたが、手術自体への不安はあまりありませんでした。
岸田 そんな中でテレビ取材を受けるっていう、ちゃっかりした一面も。
松坂 そうなんです。ちゃっかりしてます(笑)。
岸田 これは密着取材だったんですか。
松坂 はい。4月から7月の終わりくらいまで密着を受けました。
岸田 それは、自分の経験を残そうとか、何か貢献したいという気持ちがあったんですか。
松坂 そうですね。自分を振り返るきっかけにもなりましたし、息子が「がんになったことはあまり言わないで」と言っていたのが、私が元気になった姿を見て「他の人たちも元気になるならいいんじゃない?」と言ってくれて。それなら、自分の経験をさらけ出して話し、参考の一つになればと思いました。もちろん、みんなが私と同じではないけれど、「私はこうだった」というのを見てもらえたらと。
岸田 この「がんノート」もそうですが、あくまでも一つの事例として持ってもらえたら、ということですね。取材はどういうきっかけだったんですか。テレビ局から声がかかるなんて珍しいですよね。
松坂 当時、がんカフェがあって、毎月参加していたんです。そこで「やってみませんか」とお話をいただいて、「やります」という形になりました。
岸田 イベントやそういった場に参加していて声がかかったわけですね。そして、その3カ月後、2020年7月に分子標的薬での治療が始まります。これは、先ほどの抗がん剤とは違う薬ですか。
松坂 はい、違います。
岸田 それを使うことになったのは、医師からの提案ですか。
松坂 それもありますし、「効くんじゃないか」という期待もありました。「こんな薬がありますよ」と教えてもらいましたし、私もブログを巡って調べていて、その薬を使っている人が多かったんです。
岸田 しかもこのとき、「やったー」という気持ちだったとか。
松坂 そうです。抗がん剤で毎月通院するのではなく、毎日飲むタイプの薬なので、「やったー」という感じでした。病院に行かなくていいし、時間の拘束もないので。
岸田 そういう薬での治療をスタートさせたわけですね。その後どうなっていったかというと、次は2021年2月から9月までの流れ。まず、副作用として貧血が出たんですね。
松坂 はい。顔が真っ青になって、頭の中でガンガン音が鳴っているような感じでした。食べても吐いてしまうほど具合が悪くて。治療まで1週間あったので「我慢していればいいや」と思っていたんですが、病院に行ったら先生が「顔、真っ青だよ」と。血液検査をしたら病的な貧血で、「車いす、すぐ持ってきて」と言われ、そのまま輸血になりました。
岸田 そんな状態だったんですね。
松坂 はい、そのまま輸血してもらいました。
岸田 「休薬」と書かれていますが、これは薬を一旦やめようという判断になったということですか。
松坂 そうです。あまりにも症状がひどかったので、ヘモグロビンなどの数値が上がるまではやめましょうと。白血球も低かったので、数値が戻るまでは休薬になりました。
岸田 どうなんでしょう。ご自身としては、休薬というのは「治療をしない」という選択になりますよね。副作用が出ても治療は続けたいという気持ちとのせめぎ合いはなかったですか。
松坂 ありました。治療はしていたい。でも、薬を飲んで具合が悪くなるほうがつらかったので…。
岸田 そのときは、とにかく一旦リセットしたいという感じだったんですね。
松坂 そうですね。「はぁ…」という感じでした。
岸田 輸血で何とか復活した後、次に肝転移が見つかったんですか。
松坂 はい。休薬していたせいなのかは分かりません。それが原因かどうかもはっきりしません。自分の体ですが、本当に分からない。ただ、治療を再開しようという頃になって肝転移が見つかりました。
岸田 肝転移が分かったときは、かなりこたえたんじゃないですか。
松坂 そうですね。「せっかくここまで頑張ったのに」という気持ちはありました。でもやっぱり、「治療すれば何とかなるだろう」と思っていました。そのときの消化器外科の先生が、とても明るい方で、「やるのもフィフティーフィフティー」と言われたんです。場所が場所だったので難しい手術でしたが、「できるよ」と言ってくれたので、「じゃあ先生、お願いします」という感じでした。
岸田 医療者の言葉や態度が、自分の治療に対する前向きな気持ちを支えてくれたわけですね。
松坂 はい。とても心強かったです。
岸田 肝転移は肝臓のどのあたりだったんですか。
松坂 右上の端っこで、少し見えづらい場所でした。ラジオ波治療も時間がかかったようで、本来なら1〜2時間で終わる予定だったのが、午後1時に入って、終わったのは夕方5〜6時ごろでした。探すのにとても苦労してくださったようで、「よし!」と言われたときに「まだ刺してないよ」と(笑)。見つかったこと自体が「よし!」だったんです。治療中も先生が声をかけてくれて、楽しく進めてくれました。
岸田 経皮的ラジオ波焼灼術ですね。
松坂 はい、焼灼術です。
岸田 簡単に説明していただけますか。
松坂 電気を流して腫瘍を焼く治療です。肝臓に麻酔をかけるのですが、それが一番痛かったです。肝臓の部分を焼いてもらうのですが、よく分からない感覚で…。電流を流すと、体中に「ずしん」と響くような感じがします。骨まで響くような重さです。
岸田 「ずしん」というのは、電気が通っている感覚ですか。
松坂 はい。足に対極板のようなものを付けて行うので、腰や足も熱くなって、背骨から骨全体が「ずしん」と重くなる感じでした。
岸田 電流を流している間、ずっとその感覚があるんですね。
松坂 そうです。でも流している時間はそれほど長くなく、数秒を何回か繰り返す感じです。その後ベッドに戻るのですが、数時間は体を動かしてはいけないと言われます。首は動かしていいけれど、体は動かしてはいけないという、ちょっと難しい姿勢でじっとしていました。うまく説明できないんですけれども…。
岸田 体への副作用は特になかったんですか。
松坂 なかったですね。
岸田 松坂さんの場合はなかった。
松坂 はい、私の場合は。
岸田 もちろん人によってはあるかもしれないけれど、松坂さんのときはなかったんですね。それで、肝臓はしっかり焼けたんですか。
松坂 はい、そのときはうまく焼けました。「大丈夫ですよ」という感じで、翌日またCTを撮ったんですけど、やったー!「先生、ありがとう」って。
岸田 このときはね。
松坂 先生も「難しかったけど、次また来ても、うまく焼いてあげるから」という感じで。
岸田 「うまく焼いてあげるから」って、なかなかのセリフですね。
松坂 なので、ほっとしました。先生の声掛けって、人によっては受け取り方が違うかもしれませんが、私にとっては「ありがとう、またよろしくお願いします」という気持ちで退院しました。
岸田 退院後に「がんゲノム外来」という言葉が出ていますが、これはどういうことですか。
松坂 退院後というより、その間にもお話をいただいていました。ゲノム解析によって治療法があるかどうかを探してみませんか、という提案です。
岸田 今後の治療法を探すために、ゲノム検査を受けてみないかと。
松坂 そうです。その時点で、かなりの治療を経験していたので、婦人科の先生からがんゲノム外来を紹介され、「やってみます」という形で受けました。結果が出たのは、肝転移のラジオ波治療の後です。
岸田 その後、新たな分子標的薬を開始したということは、何かが見つかったんですか。
松坂 それとはまた別です。ゲノム検査では見つからなかったのですが、新しい分子標的薬が発売されたばかりで、「やってみませんか」と勧められ、始めました。
岸田 分子標的薬についてはまた後で詳しく伺いますが、この新しい薬はどうでした? 副作用や体調面は。これも経口薬、飲み薬ですか。
松坂 はい。前回もそうでしたが、分子標的薬って本当に高いんですよ。
岸田 どういうことです?
松坂 前回は1錠5,000円くらいの薬を1日2回、計4錠飲んでいたので、1日で2万円。その後に飲んだ薬は、1錠がなんと2万円。
岸田 それは1回1錠だけ?
松坂 そうです。1日1回。高額療養費制度を使っているので金銭的にはそこまで困らないですが、とにかく大事に飲みました。同じ時間に飲まなくてはいけないので、目覚ましをかけて忘れないようにしていました。
岸田 確かに、大事に飲みますよね。落として踏んだら終わりですもんね。
松坂 そうなんです。副作用よりも、そっちのほうが気になっていました。しかも色が紫と白っぽくて、「なんて気持ち悪い色なんだろう」と思いながら。
岸田 紫色ってなかなかないですよね。
松坂 ないですよね。変な話ですが、副作用より色のほうが気になるくらいで、治療自体についてはあまり考えすぎませんでした。
岸田 紫色なら、グレープフルーツ味だったらいいのに…グレープ系。
松坂 そうですよね。でも、この薬を飲むときはグレープフルーツ系は食べたり飲んだりしてはいけないんです。
岸田 言われたんですね。
松坂 はい。
岸田 組み合わせによって効果が変わったりしますからね。めちゃくちゃグレープフルーツ好きだった、なんてことは?
松坂 結構好きでした。柑橘系が大好きで。なので、アロマオイルの香りで我慢していました。
岸田 すごいですね。アロマで我慢って、相当好きだったんですね。
松坂 だから、車の芳香剤もグレープフルーツ系にしていました。
岸田 禁止されている中でも、別の形で楽しむ工夫をしていたわけですね。すごい。そんな話、初めて聞きました。さすがです。
松坂 好きなものはそこで我慢しました。
岸田 その後、2022年1月に2度目の肝転移。これはまた焼いてもらえる…というわけではなかったんですね?
松坂 はい、そこでは焼けないと言われました。場所が肝門部というところのそばで、血管のすぐ近くだと焼けないそうなんです。
岸田 焼けないのか…先生のうそつき(笑)。
松坂 「もう…」と思いました。でも、別の先生が「放射線ならできる」と言ってくださって、可能性を見つけてもらえました。
岸田 素晴らしいですね。
松坂 それで「放射線治療をやりましょう」となって、年末に型取りをしました。お正月に食べ過ぎて太ると型取りしたサイズに体が合わなくなるから、食べ過ぎないようにと言われて…。お正月は食べたいし飲みたいし…と悩みましたが、我慢しました。
岸田 そのときは1月くらいだったんですね。
松坂 はい。12月に型取りして、年明け1月4日から治療をスタートしました。
岸田 お正月は食べたいけど、そこはぐっと我慢して。
松坂 はい。「食っちゃ寝」の生活はしていませんでした。
岸田 型取りをすると、体重を変えられないんですね。放射線治療はどれくらいやったんですか。
松坂 5日間です。午後の治療だったので、何時以降は食べてはいけないとか、肝臓を動かさないようにという指示がありました。
岸田 プチ断食みたいですね。
松坂 そうなんです。治療は本当に数分なんですが、その前から食べられなくて…。
岸田 午後にやったんですよね。
松坂 はい。お昼前くらいから食べられなくなって、治療が終わるのは3時か4時くらいです。
岸田 放射線は通院ですよね。
松坂 はい、通いです。
岸田 副作用は特になかったですか。
松坂 大丈夫でした。赤くもならなかったですし、何よりおなかがすいていたので、終わったあとは夕飯をしっかり食べられました。
岸田 それは大事ですね。食べられるときに食べて体力をつけないと。
松坂 そうですね。
岸田 でも、その後3度目の肝転移。これは同じ場所? 違う場所?
松坂 同じ場所というより、播種的にたくさんありました。
岸田 播種的…つまり散らばっていたということですね。
松坂 そうです。だから抗がん剤治療以外は何もできないと言われました。
岸田 手術も難しい。
松坂 はい。一つか二つなら焼けるかもしれないと思って、前の消化器内科の先生にも相談し、検査もしましたが「播種があるのでできません」と言われました。
岸田 このときはどうでしたか。今まで「治療すれば何とかなる」と思ってきたけれど、さすがに…という気持ちもあったのでは。
松坂 それもありました。でも、いつもの先生が「抗がん剤で播種がなくなれば、また治療できる」と言ってくれたので、「そうなんだ」と思えました。ただ、肝臓全体に広がっていて、片方には最大で5センチ近い腫瘍もありました。
岸田 5センチもあったんですね。
松坂 そうなんです。「あぁ…」ってならないわけがないですよね。気持ち的には落ち込みました。でも、抗がん剤で小さくなれば、また方法があるかもしれないという気持ちもあったので、その間はいろんな抗がん剤を試していました。
岸田 肝転移しても、抗がん剤治療は並行してやっていたと。これは先ほどの分子標的薬? それとも別の?
松坂 肝転移が分かった時点で、2度目に使った分子標的薬は効いていないということだったので、通常の抗がん剤に切り替えました。
岸田 つまり、まだ他の治療手段があったということですね。
松坂 はい、そうです。
岸田 その後、「仕事を始める」とありますが、ここから仕事をスタートしたんですね。
松坂 はい。自分でも「勇気あるな」と思いました。治療中に…という迷いもありましたし、いろんな気持ちが交錯していました。
岸田 それでも仕事をやってみようと思った。
松坂 声をかけてもらったし、せっかくだから何かとつながっていたいという思いがありました。マイナスじゃないことを考えられるきっかけにもなりますし、職場の代表が「治療中でもできる環境を作りたい」と言ってくれたのも大きかったです。
岸田 いい話ですね。
松坂 はい。それなら自分にできることがあれば、という気持ちで始めました。
岸田 そして最後のフリップです。今年、両足首を骨折したと。
松坂 本当に…。
岸田 両果部?
松坂 はい、両果部です。足首の、くるぶしの内側と外側の両方です。
岸田 何をして骨折したんですか。
松坂 大雪警報が出た日に転びました。
岸田 それは仕方ないですね。
松坂 普段からしびれがあるので気を付けて歩いていたんですが、それでも転んでしまって。
岸田 その後に「腫瘍マーカー悪化」とありますが、これは骨折と関係があるんですか。
松坂 直接ではなく、治療をしていなかったことが原因です。骨折後、足が象のように腫れて入院していたので、その間は抗がん剤ができず、手術後も1カ月間はできませんでした。いざ再開しようと検査をしたら、悪化していたんです。
岸田 基準値の10倍?
松坂 すみません、私の説明が悪かったです。基準値の10倍ではなく、その時点での自分の数値の10倍です。基準値は35くらいなんですが、そのときは700ほどありました。
岸田 10倍どころじゃないですね。もっとですね。
松坂 そうなんです。家族にも「お前が転んだからだ」と言われましたけど、変な意味ではなく心配してくれた言葉でした。私も「もっと気を付ければよかった」と思いましたし、ちゃんと受け止めて「この後また治療を頑張ろう」と。10倍になったときは「私、このまま死んじゃうのかな」とか、家族のことや先のことをいろいろ考えました。
岸田 今後どうなるか不安ですもんね。それまでで一番悪化した数値だったんですか。
松坂 一番悪化したのは、実は今なんです。
岸田 えっ、どういうことですか? 今、下で「腫瘍マーカーがちょっと良くなってきている」と書いてありますが。
松坂 はい。でも、この間、本当に2〜3週間前の検査では、7000から4000くらいに下がっていたはずが、再検査で9000を超えていました。「やばい」と思いましたが、先生が「1週間後にもう一度測ってみましょう」と。そうしたら6000台に下がっていました。この差は何なのか分かりませんが、確実にがんは体の中で増えていると感じます。CTを撮ったら、やはりあちこちに播種がありました。
岸田 肝転移の時点でステージⅣと言われるケースもありますよね。
松坂 そうですね。でも、私は今も食べたり、しゃべったり、動いたりできているので、「末期」だと思わず、可能性はあると考えています。どうせ寝ていてがんが増えるのも、遊んで歩いてがんが増えるのも同じなら、楽しいほうがいいと思って生活しています。
岸田 がんノートにも出演してくださって、本当にありがとうございます。
松坂 こちらこそ、きっかけをいただき感謝しています。
岸田 ではお写真を3枚ご紹介します。まず1枚目、こちらはどんなときのお写真ですか。
松坂 本当はがんになる前の写真を出したかったんですが、その時期は忙しくて残っていませんでした。これは経過観察が長く続いていたときに撮った写真です。サプライズで誕生日会をしてもらったときで、「がんになると死ぬのかな」という思いもあったので、年を取ることは悪いことじゃないんだと感じられてうれしかったです。
岸田 なるほど。これは最初の経過観察のときですか。
松坂 2回目くらいですね、最初ではありません。
岸田 次の写真はこちらです。それぞれお話しいただけますか。
松坂 同じ時期に撮ったもので、髪の短いほうは私がいつも行っているウィッグ専門店で撮った写真です。お名前、出していいですか。
岸田 はい、もちろん。
松坂 S(店名)さんというお店なんですけど、髪が抜けると分かったときに、すぐに見てもらいました。実は、これ、母のウィッグなんです。
岸田 お母さんのウィッグ? どういうことですか。
松坂 母もがんで、しかも同じ卵巣がんだったんです。これは母が作ったウィッグをきれいに手直ししてもらったものです。昔の人ってパーマがすごく強くて、正直ちょっと変だったんですけど(笑)、私に似合うように上手に整えてくれて。うれしくて、しばらく使っていました。
岸田 素敵ですね、それは。
松坂 ありがとうございます。ショートヘアなんてしたことがなかったので、いいきっかけになりました。
岸田 ウィッグだとは全然分からないですね。
松坂 反対側の写真は、最近N県のNHKから取材を受けたときのものです。今かぶっているウィッグは、髪が抜ける前に自分の髪を切って、それを縫い合わせて作ったものなんです。
岸田 そんな方法もあるんですね。
松坂 作ってくれた方も、同じがん患者さんなんです。抜けてしまう気持ちが分かるからこそ、とてもありがたかったです。自分の髪が自分のもとに戻ってくるなんて、なかなかないじゃないですか。以前、私はヘアドネーションをしたことがありますけど、それは誰かのため。でもこれは、自分の髪が自分のもとに戻ってきて、その当時の自分を思い出させてくれるんです。
岸田 素敵です。
松坂 しかもフィット感が違うし、かゆくならないし、くせが自然に出てきていいなと思います。
岸田 そういう作り方もあるんですね。ちなみに今もウィッグですか。
松坂 はい、これは私ががんになった当時に買ったウィッグです。もともとは長かったんですけど、人毛と化学繊維の混合で、使っているうちに絡まったり傷んできてしまって。
岸田 なるほど、化学繊維が入っているとそうなるんですね。
松坂 それをS(店名)さんが私に似合うようにカットしてくれて、どんどん短くなっていったんです。でも、気に入っているので今も使っています。
岸田 では、一旦ここで闘病経験談は区切りとして、コメントをいくつかご紹介しますね。Kさんから「病気なんかに負けないでね!」、Cさんからは「初めまして! 私も同じ卵巣がんで、AYA世代です。去年の年末に手術をして、病理検査の結果を受け、2月から化学療法を始め、来週末でラストケモになります」。
松坂 すごいですね。
岸田 「同じ卵巣がんでも、何度も治療を受けながら前向きに元気なサバイバーの方を見ると、とても元気が出ます! がんに負けずに頑張りましょう!」と。
松坂 頑張りましょう。
岸田 頑張りましょう。すごいです。
松坂 本当にすごいです。
岸田 他にも「分子標的薬って高いんですね!」というQちゃんさんからのコメントや、「イヤリング素敵です」というSさんからのコメントも届いています。
松坂 ありがとうございます。自分で作ったんです。
岸田 そうなんですね、すごい。
松坂 趣味のひとつです。自分で作って楽しんでいます。
岸田 Kさんからは「松坂さんファイト!」、さらに「あなたは私の誇りです」「おいしい料理も作って、仕事もしていて尊敬しています」というコメントも届いています。
松坂 ありがとうございます。
母から受け継いだウィッグと遺伝性がんへの向き合い方
松坂 S(店名)さんというお店なんですけど、髪が抜けると分かったときに、すぐに見てもらいました。実は、これ、母のウィッグなんです。
岸田 お母さんのウィッグ? どういうことですか。
松坂 母もがんで、しかも同じ卵巣がんだったんです。これは母が作ったウィッグをきれいに手直ししてもらったものです。昔の人ってパーマがすごく強くて、正直ちょっと変だったんですけど(笑)、私に似合うように上手に整えてくれて。うれしくて、しばらく使っていました。
岸田 素敵ですね、それは。
松坂 ありがとうございます。ショートヘアなんてしたことがなかったので、いいきっかけになりました。
岸田 ウィッグだとは全然分からないですね。
松坂 反対側の写真は、最近N県のNHKから取材を受けたときのものです。今かぶっているウィッグは、髪が抜ける前に自分の髪を切って、それを縫い合わせて作ったものなんです。
岸田 そんな方法もあるんですね。
松坂 作ってくれた方も、同じがん患者さんなんです。抜けてしまう気持ちが分かるからこそ、とてもありがたかったです。自分の髪が自分のもとに戻ってくるなんて、なかなかないじゃないですか。以前、私はヘアドネーションをしたことがありますけど、それは誰かのため。でもこれは、自分の髪が自分のもとに戻ってきて、その当時の自分を思い出させてくれるんです。
岸田 素敵です。
松坂 しかもフィット感が違うし、かゆくならないし、くせが自然に出てきていいなと思います。
岸田 そういう作り方もあるんですね。ちなみに今もウィッグですか。
松坂 はい、これは私ががんになった当時に買ったウィッグです。もともとは長かったんですけど、人毛と化学繊維の混合で、使っているうちに絡まったり傷んできてしまって。
岸田 なるほど、化学繊維が入っているとそうなるんですね。
松坂 それをS(店名)さんが私に似合うようにカットしてくれて、どんどん短くなっていったんです。でも、気に入っているので今も使っています。
岸田 では、一旦ここで闘病経験談は区切りとして、コメントをいくつかご紹介しますね。Kさんから「病気なんかに負けないでね!」、Cさんからは「初めまして! 私も同じ卵巣がんで、AYA世代です。去年の年末に手術をして、病理検査の結果を受け、2月から化学療法を始め、来週末でラストケモになります」。
松坂 すごいですね。
岸田 「同じ卵巣がんでも、何度も治療を受けながら前向きに元気なサバイバーの方を見ると、とても元気が出ます! がんに負けずに頑張りましょう!」と。
松坂 頑張りましょう。
岸田 頑張りましょう。すごいです。
松坂 本当にすごいです。
岸田 他にも「分子標的薬って高いんですね!」というQちゃんさんからのコメントや、「イヤリング素敵です」というSさんからのコメントも届いています。
松坂 ありがとうございます。自分で作ったんです。
岸田 そうなんですね、すごい。
松坂 趣味のひとつです。自分で作って楽しんでいます。
岸田 Kさんからは「松坂さんファイト!」、さらに「あなたは私の誇りです」「おいしい料理も作って、仕事もしていて尊敬しています」というコメントも届いています。
松坂 ありがとうございます。
遺伝性がんとの向き合い方 家族への想いと次世代への責任
岸田 先ほどお母さまのお話も出たので、遺伝について伺いたいと思います。がんゲノム外来にも行かれたとのことですが、お母さまのがんが遺伝によるものだと分かっていたのか、また松坂さんご自身のが遺伝性なのか、そのあたりをお聞きしてもいいですか。
松坂 すみません、ちょっと泣きそうになってしまって…。
岸田 大丈夫です。話したくないことは無理に話さなくてもいいですよ。
松坂 話せる範囲でお話ししますね。お母さんもがんでしたし、自分もがんになったので、もしかしたら遺伝の可能性があるかもしれないと思って遺伝子検査を受けました。
岸田 それは、がんゲノム外来で治療法を探すために受けた検査ですよね。
松坂 はい。先生からも「治療法を見つけるきっかけにもなるし、もし妹や息子に遺伝があれば、早期検査や予防にもつながる」と丁寧に説明を受けました。その結果、私は遺伝性の卵巣がんだと分かりましたが、妹は何もありませんでした。
岸田 妹さんはセーフだったんですね。
松坂 はい。小さい子どももいるので、本当に安心しました。私で済むならいい、と思いましたし。私ならこうして前向きに話せますけど、妹はそうはいかないかもしれないので。
岸田 息子さんについてはどうでしたか。
松坂 遺伝子のことを詳しく聞くために大きな病院にも行きました。そこで「息子さんも検査してみますか」と言われましたが、男の子の場合は確率的には低いそうです。でも、もし見つかれば、ライフプランを早めに立てることもできるし、早期検査で抑えることもできます。
岸田 確かにそうですね。
松坂 ただ、やっぱり息子も怖いと思うんです。分かることが安心につながるのか、それとも恐怖が先にくるのか…。まだ若く、仕事を始めたばかりなので、本人は「25歳になったら検査を受ける」と決めています。
岸田 息子さんが自分で決めたんですね。
松坂 はい。先生も「それでいい」と言ってくださったので、その時を目安にしています。
岸田 そういう話を息子さんとするとき、緊張しませんでしたか。
松坂 私は緊張しませんでした。「お母さんはこうだったから、あなたも可能性があるかもしれない」と伝えました。ただ、遺伝性だと分かったときの怖さはあります。妹やその子どもにも影響があるかもしれないし、息子が将来結婚するときに相手の家族から心配される可能性もある。だから話すときは少し迷いもありました。
でも、だからこそ、検査で早く見つけて予防できることが大事だと思っています。それに、将来的に保険の加入条件が厳しくなる可能性もありますし。
岸田 遺伝性が分かったことで保険に入れなくなることがあれば大変ですし、差別や偏見がない社会になってほしいですよね。
松坂 はい。逆に、同じような人が増えていけば、オープンにしても大丈夫な世の中になると思います。
岸田 コメントもいただいています。「今、とても良好な親子関係ですね」というものや、「遺伝子検査は保険適用ですか?」という質問もありますが、費用はどうでしたか。
松坂 保険適用かどうかは分かりませんが、高額療養費制度の対象にはなりました。
岸田 公的制度の対象になっているということですね。がん情報サービスなどでしっかり確認して、必要があれば検査を受けてもらえればと思います。
がん告知後の退職から理解ある職場との出会いまで
岸田 その次のもの、お仕事で。お仕事は先ほど、今、少しされているっていうことでしたけど、どうされてたんですか、10年前、発覚したときは。
松坂 きっぱり辞めました。治療に専念したいと思ったので。
岸田 辞めたんですね。
松坂 はい。その当時はパソコンの講師をちょろっとやったりしていて。きっぱり辞めました。辞めたいなっていう部分もあったので、いいきっかけだったかなとか思いました。その当時は。
岸田 仕事をそっから辞められて、今のお仕事されるまで10年弱ぐらいは、仕事をしない期間。
松坂 その間に、もう一つお仕事をしようと思ってやったんですけど。やって3カ月後ぐらいに再発が分かったので、こうなんですってお話をしたら、いつでも戻っといでっていうんではなくて、お仕事よりも治療を優先していいから、お仕事は、みたいな。辞めていいよみたいなのを遠回しに言われた感じですかね。その言葉もいろいろあるので言わないでおきます。
岸田 そうですけど。そこはね。松坂さん的には、辞めようなのか、ちょっと寂しいななのか。感情としてはどうでした?
松坂 寂しいし、気に入っていたので辞めたくないなっていうのはありました。
岸田 遠回しにいろいろあって、辞めざるを得なくなって。そんなことならない世の中になればいいんですけどね。
松坂 じゃないと、がんだってことを隠して生きていかなくちゃいけないじゃないですか。
岸田 本当、それです。
松坂 そんな隠さなくても、今、私が働かせてもらっているお仕事場みたいに、体調のいいときに来て、自分とお仕事をしながら社会とのつながりを持ったりできる場所が、もっと増えてくれればいいなと思います。
岸田 今の所はどういうことで知ったんですか。ハローワークとかですか。じゃなくて?
松坂 じゃなくて、そこの代表がウイッグのお店をやっていて。お客さまが、こんなのがあったらいいなっていうのから、やってみる?っていうお話で、そこからとんとんっていう形で。最初に立ち上げたときのメンバーさんに入れていただいて。
岸田 そういった形で、お仕事は。今もお仕事は体調いいときにされている。
松坂 行かせてもらってます。
経済的負担と克服への道のり 保険・家族支援・患者会での繋がり
岸田 貴重なお話、ありがとうございます。お金や保険のことについてですが、コメントでも「お父さんから『がん保険に入れ』と言われた」というものがあります。松坂さんは保険に入っていましたか?
松坂 はい。20歳のときに入りました。当時は母も健在で、「入っておきなさい」という感じで勧められて。お店をやっていたので、個人ではなく仕事の関係で加入した保険でしたが、とても内容のいいものでした。
岸田 治療費はその保険でまかなえましたか?
松坂 手術に関してはそうですね。当時は通院保障がなかったので、通院分は対象外でした。
岸田 昔の保険だとそうですよね。
松坂 30年近く前なので、入院も5日目からの保障でした。ただ、手術の給付倍率は良かったです。
岸田 治療費全体では、保険でカバーできましたか? それとも自己負担が出ました?
松坂 手術は高額療養費制度も使って賄えました。ただ、通院費などは本当にお金がなくて、貯金もゼロだったので…。
岸田 分かります。
松坂 父、いわゆる“大蔵省”にお願いしました。
岸田 家族の力を借りるのは大事ですよ。
松坂 はい、助けてもらいました。年度末調整で戻ってきたお金や、保険金などはすべて父に渡す形で。
岸田 納税のように(笑)。
松坂 そんな感じです。
岸田 治療は今も続いていますが、累計だと数百万円は超えていそうですよね。
松坂 いや、もしかしたらそれ以上かもしれません。この10年を考えると…。
岸田 4桁(1,000万円単位)いっている可能性も?
松坂 あると思います。3か月ごとに高額療養費制度の自己負担額が定額になるとしても、例えば月4万4,000円だとして、それが10か月で44万円。それが10年続けば相当な額になります。そこに入院費や薬代も加わりますから。
岸田 考えたくなくなりますね。
松坂 本当に、経済的にも父に助けられています。
岸田 ありがとうございます。では、お金や保険の話の次は、「つらさ」と「克服」について伺います。肉体的、精神的、それぞれのつらかった時期と、それをどう乗り越えたのか教えてください。
松坂 抗がん剤で体調が悪く、全身が痛いときは、ひたすら布団に潜って泣きながら寝ていました。食べられない、吐き気もひどい、何もやる気が起きない…。そんなときは寝るしかありませんでした。精神的には、ブログを通じて同じように苦しんでいる人の存在を知り、「この人も頑張っているから自分も」と思えたり。患者会に参加して実際に会ったりしました。あとは、R(団体名)ですね。
岸田 Rとは?
松坂 がん患者支援をしている団体で、全国各地で24時間歩くイベントを開催しています。
岸田 松坂さんは、その実行委員長をされているんですよね?
松坂 はい、今年は実行委員長になりました。引き受けたときは、自分の病状がここまで進行しているとは思っていなかったので…。でも、「元気になってやりたい」という目標があると頑張れるので、やります。
岸田 確かに、目標は大事ですよね。
松坂 よかったら来てください。
岸田 N県で開催されますので、皆さんぜひ。いつですか?
松坂 9月の…9日か10日くらいだったと思います。
岸田 皆さん、ぜひ調べてください(笑)。
松坂 お願いします。台風が来ないことを祈っています。
後遺症との向き合い方 しびれと脱毛を前向きに受け入れる工夫
岸田 後遺症についてもお伺いしたいと思います。松坂さんは今、後遺症がたくさんあると思いますが、具体的にはどんなことに困っていますか?
松坂 現在も治療中なので、後遺症と言っていいのか分かりませんが…手先や足先のしびれがひどいです。常にグローブをはめているような感覚があります。
岸田 グローブをつけたまま何でもやっているような感じなんですね。
松坂 はい。歩くのが大変なときもありますし、温度感覚も鈍くなっています。普通は熱く感じない程度でも熱く感じてしまうんです。例えば、家族は40度のお風呂に入っていても、私は38度や36度くらいでも十分なくらいです。
岸田 なるほど、そういう温度調整が必要なんですね。
松坂 そうなんです。ただ、長く入らないと、手足は熱いのに体は寒いということがあるので、長めに入浴するようにしています。一番は、ウィッグを使っていることもあって、髪の毛がなくて頭がつるつるなことですね。
岸田 脳の中はしわしわかもしれませんけどね(笑)。
松坂 しわしわだと思います(笑)。でも、頭はつるつるです。手足のしびれについては、自分で気をつけられる部分は気をつけて、マッサージもたまにやることで何とか動けています。髪の毛についても、今はウィッグを楽しむようになりました。最初は嫌で外に出るのも嫌だったんですが、今は「今日は短め」「今日は長め」と、気分で変えて楽しんでいます。後遺症については、自分なりにクリアできていると思います。
岸田 素晴らしいですね。自分なりの工夫で前向きに過ごされていて。皆さんも、参考になれば試してみてほしいと思います。
医療者への想いと人生観 感謝と要望、そして「ケ・セラ・セラ」の精神
岸田 次はこちら、「医療者へ」。先ほど、とてもいい医療者に巡り合えたというお話がありましたが、医療者にもいろいろな方がいらっしゃいます。その方たちに対して、感謝の気持ちや「こういうときはこうしてほしい」という要望があれば教えてください。
松坂 本当に私は恵まれていて、先生も看護師さんもいつも寄り添ってくれています。寄り添うといっても、ただ一緒にいるだけじゃなく、気持ちの部分が大きくて。例えば先生なのに、診察室に入ったら車いすを押してくれるとか。
岸田 素敵ですね。
松坂 外まで出てきてくれたり、いろいろしてくれます。子どもの参観日や試合など、私がやりたいことを優先してくれるんです。これは主治医だけでなく、ほかの先生たちにもそうしてほしいなと思います。看護師さんについては、私は再発した最初のときからずっと緩和ケアに入ってもらっています。悪くなったからではなく、心の支えとしていてくれるんです。だから皆さんにも、緩和ケアを「もう終わり」だと捉えず、支えの一つとして受け入れてほしいですね。もちろん、医療者さん全員が同じ対応ではないですが、患者さんとうまく向き合ってくれると嬉しいです。…でも一番は、点滴が上手な看護師さんがいいです(笑)。
岸田 そういう落ち(笑)。
松坂 すみません(笑)。看護師さんも検査技師さんもそうですが、針を刺す人は上手な方がいいです。
岸田 けっこうミスされたんですね。
松坂 はい。先日もCTのときに「看護師泣かせだね」と言われました。私は左側にポートを入れ直しているので右腕しか使えず、採血しにくいらしいです。毎週やっていると同じ場所が硬くなってしまうこともあって…。なので、申し訳ないですが、できれば上手な方にお願いしたいです。
岸田 皆さん、練習しましょう。
松坂 お願いします(笑)。
岸田 次は「過去の自分へ」。さまざまなタイミングがあると思いますが、どこかのタイミングで過去の自分にアドバイスをするとしたら、どんな言葉を掛けますか?
松坂 最初から「ケ・セラ・セラ」です。
岸田 というと?
松坂 私は「何とかなる」と思っていて。先生たちもいい方ばかりで、看護師さんも一緒に考えてくれる人がいました。これまでもなるようになってきたので、悩まずにケ・セラ・セラでいればいいと思います。これは過去の自分だけじゃなく、未来の自分にも伝えたいですね。
岸田 がんになったとき、告知の段階からそういう気持ちだったんですね。
松坂 はい、そうです。
岸田 次は「Cancer Gift」。がんになって失ったものは多いと思いますが、あえて得たものにフォーカスすると、松坂さんの場合は何でしょうか。
松坂 失ったものは計り知れないと思います。それは私だけじゃなく、みんなそうだと思います。でも私のGiftは…母も同じがんで亡くなっていて、そのとき母は我慢ばかりしていたと思うんです。外に出られない、注射がつらい…いろんなことを我慢していたはずです。私も同じがんになって、その気持ちが分かるようになりました。今、私がやっていることは、母が本当はやりたかったこと。友達と遊ぶことも、美味しいものを食べに行くことも、我慢しなくていいよと母が言ってくれているように感じます。一緒に出掛けるときも、母もそばにいるような気がするんです。それが私のGiftです。周りの人と楽しめている今があるのは、昔があったからこそ。そう思っています。
岸田 いい言葉ですね。「昔があったから今がある」。お母さまがやりたかったことを、今、松坂さんが。
松坂 はい。今、それをGiftとしていただいています。
次世代のために がん患者が自由に過ごせる社会を目指して
岸田 では次は「今後の夢」について。もちろん、治ることが一番の願いだと思いますが、この先どうしていきたいですか?夢はなんでしょう。
松坂 もちろん治ることが夢です。でも以前、「もう大丈夫ですか?」と聞いたら、「残念だけど、それはないよ」と言われました。だったら、今できることをやりたいと思ったんです。その「やりたいこと」は、種まきです。
岸田 松坂さんの種を、いろんな場所にまいていくということですね。
松坂 やだ、自分の(笑)。
岸田 大丈夫です(笑)。その「松坂の種」とは何なのか、ぜひ教えてください。
松坂 今、ウイッグの助成制度など、アピアランスケアに関する取り組みが多くの地域で始まっています。昔に比べて本当に活発になってきました。私の住むN県もそうで、少しでもその動きの手助けになれていたら嬉しいなと思っています。
岸田 N県も助成金を出すようになったんですね。
松坂 はい、始まりました。
岸田 すごいですね。
松坂 メディアに出たり、いろんな場所で話をさせてもらう中で、少しは役に立てたのかなと思っています。アピアランスケアだけでなく、保険のことや遺伝のことなど、私が話すことで種をまき、それが将来、自分の子どもや未来ある子どもたちの世代のときに、今はかなわない夢でもかなうようになったらいいなと思うんです。そうなれば、もっと生きやすい世の中になると思います。
岸田 いいこと言ってます。大丈夫です、みんなちゃんといい話として聞いてますから。
松坂 よかったです。だから、自分のかなわなかった夢が将来かなうように、これからも種をまきたい。そして、がん患者でも狭い思いをせず、もっと自由に過ごせる世の中になったらいいなと思っています。
岸田 素晴らしい。
松坂 きれいごとばかりに聞こえたらごめんなさい。
岸田 いや、自分の夢ですし、何より松坂さんがこのままうまくいって、それを全部かなえていけることが一番です。種をいろんな場所に落としていくことも、とても大事なことです。
病気との歩み 発症から現在まで12年間の治療経過
岸田 では、ペイシェントジャーニーを振り返っていきたいと思います。画面共有しますね…はい、こちらです。
まず、お子さんのPTA役員などをされていたときに脱水症状で病院へ行き、そこから気持ちが上がっていく。腹水を抜いたときも良くなると思っていた。そしてCVポートを留置し、手術。このときにがん告知も受けます。その後は経過観察を続ける中で腫瘍マーカーが上昇し、再び手術。薬物療法を始めますがアレルギー症状が出る。その後、経過観察を続け、5年近く経ったころにまたがんが発覚し、手術。そして取材も受けます。分子標的薬の治療を行いますが、途中で休薬。肝転移が分かり、ラジオ波での治療。その中でがんゲノム外来も受け、自分に合う治療法を探しますが見つからず。家族のことも気にかけ、妹さんには問題がないことを確認。その後も薬物療法を続ける中で再び肝転移が見つかり、今度は放射線治療。しかし、その後は転移がいろいろな場所に広がっていく状況に。そして今のお仕事を始められましたが、左足首を骨折して治療できない期間があり、血液マーカーが悪化。最近は下がったり上がったりを繰り返している…というのが現在の状況です。
松坂さん、このペイシェントジャーニーについて、補足や言い足りないことはありますか?
松坂 大丈夫です。
同じ境遇の方々へ「ケセラセラ」に込めた想いと体験談の意義
岸田 では最後の項目、「今、闘病中のあなたへ」というテーマに入っていきます。コメントもたくさんいただいていますので、少しご紹介します。
「両立支援をしてくれる厚労省のサイトもありますよ」
「R(団体名)参加します」
「点滴が上手なのは、本当にありがたいですね」
そして「私の自慢のお姉ちゃんです!」というKさんからのコメント。
Rさんからは「お話ありがとうございました。これからも一緒に♡ ナースより」と看護師の方からのメッセージも。
「松坂さんのお話に大変、心に力をいただいております」というコメントも届いています。
今も闘病中で、この配信をご覧くださっている方がいらっしゃいます。そういった方に向けて、松坂さんからのメッセージは――『ケセラセラ』。
松坂 やっぱりここです。
岸田 では、この言葉の意図も含めて、読んでいただけますか?
松坂 がんになったことは、すぐには受け入れられませんでした。受け入れるには本当に時間がかかりました。
「何とかなる」と思いながら過ごしてきた中でも、すごく落ち込むこともあったし、今でも泣きそうになることがあります。
耐えられないこともたくさんありました。子どものことや親のことを考えると、涙が出てしまうんです。
でも、それでも少しずつ受け入れて、自分のことを考えられるようになってからは、本当に何とかなってきました。なるようになってきました。
だから皆さんも、そういう気持ちをどこか心の片隅に置いて、治療を続けてもらえたらうれしいです。
岸田 松坂さんが今まで何度も再発を経験しながらも、「何とかなる」「ケセラセラ」という気持ちで乗り越えてきた。今こうして輝いて生きていて、新たにお仕事を始めたり、R(団体名)の実行委員長を務めたり。
松坂 来年も頑張ります。
岸田 まだまだやることがたくさんありますね。
松坂 欲を持っていれば、何とかなると思います。
岸田 本当に大事なことです。目標を持って進んでいく。そんな松坂さんの経験談でした。皆さん、いかがだったでしょうか。松坂さん、90分以上経ちましたが、どうでしたか?
松坂 あっという間でした。きっしー(岸田さん)の進行が良かったので、いっぱいしゃべらせてもらいました。
岸田 進行が良かったら90分で終わってるはずなんですけど(笑)、僕がいろいろ聞きたくて。松坂さんの紆余曲折、たくさんあったと思います。この経験談が、視聴者の皆さんの中で「こうしろ」という話ではなくても、何かしらのヒントになればうれしいです。
松坂 ありがとうございます。
岸田 では、これで「がんノートorigin」終了です。ご視聴ありがとうございました!
松坂 ありがとうございました!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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