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インタビュアー:岸田 / ゲスト:小宮

【ゲスト紹介】

岸田 はい、それでは「がんノートmini」スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは小宮さんです。よろしくお願いします。

小宮 よろしくお願いします。

A-(アップルウオッチ) なんのお手伝いをしましょうか。

岸田 ちょっと待ってください(笑)。いきなりアップルウオッチさんから話しかけられましたね。

小宮 ナイスウオッチですね。

岸田 ありがとうございます(笑)。では、そんな中で早速ですが、まずは私の自己紹介からさせていただきます。私は岸田と申します。27歳と25歳のときにがんを経験し、現在は「がんノート」の代表理事を務めております。きょうはMCとして進行させていただきます。

 さて、本日のゲストは小宮さんです。簡単にご紹介しますと、出身は東京で、現在は茨城県にお住まい。お仕事は会社員。そして趣味は音楽ということなんですが、どんな音楽をお聴きになるんですか?

小宮 今は会社員をしているんですが、その前に少しだけ音楽業界でマネージャーをしていたことがありまして。

岸田 マネージャーを?

小宮 はい。といっても下っ端の下っ端ですけど(笑)。でもその経験もあって、本当に雑多に何でも聴きます。ライブ系もクラブ系も。最近はファットボーイ・スリム(Fatboy Slim)のアルバムばっかり聴いてます。

岸田 幅広いですね(笑)。いやー、初っ端からアップルウオッチの乱入もあり、衝撃的な始まりでしたけど(笑)。このお写真もなかなか印象的ですよね。

小宮 そうなんです。

岸田 これは治療中のお写真なんですよね?

小宮 はい。38歳で発症したときに、自分の姿を記録しておこうと思って撮った写真です。この1時間後にはもう坊主になってました。

岸田 ああ、そうだったんですね。決して「この写真でお願いします」と言ったわけではなくて(笑)、プロフィール写真をお願いしたら「自撮りはこれしかない」ということで、この写真になったんですよね。

小宮 はい、すみません(笑)。

岸田 いえいえ。とても印象的なお写真です。そんな小宮さんですが、病名は急性骨髄性白血病(AML)。いわゆる“ステージ”ではなく“病型”で分類されるがんです。38歳で告知を受け、現在は40歳。発症から2年が経つということですね。

小宮 はい、そうです。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 そして治療方法は、手術・移植・放射線治療といったところで。いろいろとお伺いしていきたいと思います。今回は「ペイシェントジャーニー」というものを使って、これまでの経過を見ながらお話を聞いていきます。

 ペイシェントジャーニーというのは、上に行けば行くほど気持ちが上がっている、下に行けば行くほど落ちている。そして右に行くほど時間が経過している、というグラフになっています。
 吹き出しの色で、ポジティブなこと・ネガティブなこと・どちらでもないこと・治療内容などを表しています。あくまで参考に見ていただければと思います。

 では、そんな小宮さんのペイシェントジャーニーはこちらです。見ていくと、良いときも悪いときもある波のあるグラフになっていますね。まず最初に一番上がっているのが「友人と忘年会」。ご友人たちと楽しく過ごされていた2019年、コロナ前ですね。

小宮 はい。ちょうど発症の4カ月ほど前ですね。すごく楽しく過ごしていました。

岸田 楽しい時期から一転、急転直下ということになりますが、「インフルエンザ」と「副鼻腔炎」のダブルパンチ。

小宮 そうなんです。忘年会のあと、年が明けて1月2日にインフルエンザを発症しました。年明けから大事な仕事もあったんですが、なかなか治らず、そのまま副鼻腔炎にもなってしまって。頭痛もひどく、出社できない日が続きました。

岸田 それはつらいですね。今から振り返ると、それってがんと関係があったんですか?

小宮 ありました。実はこの忘年会の前、12月の前半に健康診断を受けていたんです。そのときの結果には気づかなかったんですが、後から見返すと、すでに白血病の兆候が出ていたような数値だったんです。つまり、免疫力が低下していたんですね。

岸田 なるほど。すでに体の中では兆しがあったんですね。
 そこから「歩行困難」という言葉が出てきますが、これはどういう状況だったんですか?

小宮 インフルエンザになったのが1月で、その後、なんとか出社はしていました。でも3月ごろ、ちょうどコロナが始まるくらいの時期ですね。
 通勤のとき、地下鉄の階段が登れなくなってきたんです。普段なら30分で行ける道が1時間半かかるようになっていて。足の痛みもひどくて、お風呂で温めてごまかしたりしていました。「仕事を休めない」と思って無理していたんですが、3連休前の夜中に熱を測ったら40度近くあって、「もう無理だ」と思って救急車を呼びました。

岸田 救急車を呼んで、そのまま運ばれて、即入院?

小宮 はい。血液検査の結果を見たら、数値がすべて異常で。「そのまま入院です」と言われました。翌日にはもっと大きな病院へ転院。救急車で高速道路を走るのは初めてでした。結局、一度も家に戻れないまま入院生活が始まりました。

岸田 救急車を呼んだとき、やばいなっていう自覚はありました?

小宮 正直、そこまでの想像はしていませんでした。「一晩寝たら帰れる」と思ってたんです。まさか入院になるとは。

岸田 なるほど。足の痛みは相当だったんですね。

小宮 はい。あとで「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」という、太ももにウイルスが入って炎症を起こす病気だと分かりました。痛みが尋常じゃなくて、もう全く歩けませんでした。高熱もうなされるように続いて、今思えば我慢しすぎていましたね。

岸田 そしてそのまま即入院。そこから薬物療法が始まっていく、と。告知はどんな形だったんですか?

小宮 救急で運ばれて血液検査をした段階で、「血液の病気の可能性が高い」と言われました。転院先で改めて詳しい検査を受け、「白血病です」と診断されました。そこからすぐ薬物療法が始まりました。

岸田 つまり、「がんなんだ」「白血病なんだ」と考える間もなく、もう治療が始まっていった感じなんですね。

小宮 そうです。気持ちが追いつかないくらいのスピードで。妻も何が起きているのか分からないまま、とりあえず治療が始まりました。

岸田 そこから始まるのが薬物療法、いわゆる「寛解導入療法」ですね。後に移植の話も出てくると思いますが、まずは抗がん剤で白血病細胞を叩いていく段階。

小宮 はい。

岸田 そしてその後はこちら、「外界との遮断生活」とありますね。遮断生活。これはどういう状況だったんでしょうか、小宮さん。

小宮 3月の後半から入院生活が始まったんですが、ちょうど2020年3月といえば、東京でコロナがまん延し始めたタイミングだったんです。入院して最初の1〜2日くらいは妻が荷物を持ってきてくれたんですが、私が入院していたのは血液内科の無菌病棟。もともと簡単には人が入れない環境なんですよね。

 それに加えて、コロナが一気に広がったことで、外部の人がまったく病院に入れなくなりました。本当は会社の人に仕事の引き継ぎをしてもらう予定だったんですが、それもできなくて。完全に外部と遮断された状態が続きました。

岸田 なるほど。いわば“軟禁生活”みたいな感じですよね。

小宮 そうですね。ただ、病棟内の医療スタッフやクラークさん、清掃員さんなど、皆さん本当に良い方ばかりでした。でも、やっぱり急に誰にも会えなくなったのは精神的にきつかったです。孤独感が強くて。

岸田 だからこの時期がペイシェントジャーニーでも一番下がっている部分なんですね。

小宮 はい。まさにそうです。

岸田 しかも、この時期はコロナが始まったばかりで、誰とも会えない状況。奥さまとも?

小宮 妻も入れませんでした。退院するまで、基本的に面会は禁止です。唯一入れたのは、**インフォームドコンセント(治療説明)**のときだけ。衣類などの受け渡しは、扉の外で看護師さん経由。直接は会えませんでした。

岸田 かなり厳しい制限ですね。

小宮 はい。もちろん当時は皆さん大変でしたけど、それでも本当に過酷でした。家でのステイホームとは違って、私は病室から一歩も出られなかったので。

岸田 そんな中でも、ここからグラフが上がっていきます。「友人からの救援物資」とありますが、これはどんなものでした?

小宮 当時は、アルコール消毒液やウェットティッシュなど、日常の衛生用品が手に入らない時期だったんですよね。私も一時退院の予定ができた頃に、外出することになるけど衛生面が心配で……。そんな不安を**SNS(Facebook)**に少し書いたら、友人たちが次々に送ってくれたんです。

岸田 あの時期、みんな品薄で大変でしたもんね。

小宮 そうなんです。そんな中で送ってくれたことが本当にうれしくて。物もありがたいけど、それ以上に「気にかけてくれる気持ち」にすごく救われました。

岸田 “小宮さんのために”と、みんなが動いてくれた。うれしかったでしょうね。そして、そこから一時退院ができたということですね。どれくらい入院していたんですか?

小宮 最初の入院が約40日間。そのあと2週間ほど一時退院できました。足の痛みがだいぶ良くなったので、少しだけ家で休めたんです。

岸田 ようやくご家族と再会できたわけですね。

小宮 そうですね。子どもが当時4歳と6歳。1カ月以上も会えなかったので、久しぶりに会ったときは思わずぎゅっと抱きしめました。

岸田 それはもう、感動の瞬間ですね。まったく会えない期間があっての再会ですもんね。
 そしてここから、またグラフが上がっていきます。「放射線治療」と「薬物療法」、そして「臍帯血移植」。これは移植の前処置として行われた放射線と抗がん剤ということですか?

小宮 はい、そうです。移植のための前処置ですね。

岸田 造血幹細胞移植とか他の移植の方法がある中で、なぜ臍帯血移植を決断したのですか?

小宮 入院生活が始まってから、入院させていただいた病院はがん拠点病院で、移植のコーディネーターさんもいらっしゃる病院でした。まずは造血幹細胞移植のために骨髄バンクのドナーさんを探してもらったんですけれども、一部不一致がずっと続いている状態で。

 どうするかという話をしていく中で、なかなか決まらない状況がありました。最終的に担当医を含めて判断したのが、臍帯血移植で適合するものを選んでいただき、その臍帯血移植を実施したという次第です。

岸田 全然ごめんなさい、僕そういうの素人で恐縮なんですけど。

小宮 いえいえ、私も素人です。

岸田 まず移植しようってなったら、血液の病気だから移植して全部血を変えないと、みたいなときに、まずきょうだいとか親御さんから選ぶんですよね。

小宮 はい。きょうだいにも実際にお願いをしました。そこで合わなかったということですね。

岸田 型がマッチしなかった。その後に骨髄バンクとかで探して、けど、そこでは小宮さんの場合は見つからなかったと。

小宮 見つからなかった。今の現状で私も医療的なところは明確に言えるわけではないんですけれども、ある程度、もし実施をするんだとすれば比較材料があると思うので、その中でドナーさんを探したけれどもいなかった、という判断ですね。

岸田 探したけれどもいなかった。そうして、臍帯血移植だと何かしら見つかったってことです?

小宮 はい。骨髄バンクの一部不一致でやるのと、臍帯血で私に適合するものを比較したときに、臍帯血のほうがリスクが少ないだろうというのが私の担当医の判断でした。

小宮 ただ、臍帯血移植も、私けっこう体が大きいんですけれども、体重があまりにも多いと臍帯血の場合は生着率が悪いとか、いろいろな諸条件もあるので。いろんな選択肢の中で、現状として今のところうまくいっているので、それはいろんな方が考えてくださった結果がいい方向に進んでいるということですね。

岸田 ありがとうございます。治療に関しては、今見てくださっている皆さんも、必ず主治医の方に相談してくださいね。ここではあくまで経験談の一つとしてお話を伺っています。

小宮 はい。そうですね。

岸田 そしてその後、ばーんと下がっていきます。そこは「移植できたが」というところですね。これ、ポジティブの赤で書かれているけど、めっちゃマイナスな感じなんですけど。どういうことですか、これは。

小宮 この治療中は、とにかく後ろ向きになってはいけないという気持ちはあったんです。でも、先ほども言ったように、たとえば移植のドナーさんが見つからなかったり、治療の中で高熱が出たり、体のあちこちに症状が出たりする中で、やっぱり気持ちが落ちてしまう部分もあって。

 前日までは「よし、頑張るぞ」と思っていても、翌日にはひとりで泣いて、「つらい、このままどうなるんだろう。子どももいるのにどうしたらいいんだろう」と、不安に押しつぶされそうになっていました。

 ほんとに毎日、ポジティブになったりネガティブになったりの繰り返しでした。相談できる人も限られていましたし、さっき話したように面会もできなかったので、気持ちを整理する手段が少なかったのかもしれません。

岸田 そっか。もう情緒不安定な時期ってことですね。このときはコロナもあるし、環境的にも孤独だし……。それは本当につらいですよね。だからマイナスな状況ではあるけど、心の中ではポジティブとネガティブを行き来していた、まさにカラフルな時期だったわけですね。

小宮 そうです。

岸田 そして、そこからまた上がっていきます。退院できて、自宅療養の期間に入っていく。そして「手術・短期入院」とありますが、これは臍帯血移植に関係する手術なんですか?

小宮 これはまたちょっと違うんです。白血病の治療自体は、この退院のタイミングで一区切りついています。入院生活はだいたい200日ほどでした。

 その後の検査で、心臓に「期外収縮」といって不整脈のような症状が見つかったんです。これは将来的にリスクになる可能性があるということで、アブレーション手術という心臓の治療を受けました。

 この不整脈は、白血病の治療とは直接関係ないんですが、長期入院や治療の過程で細かく検査していたからこそ見つかったものでした。なので「白血病の治療が終わったあとに別の手術をした」という感覚ですね。

岸田 なるほど。白血病の治療の中で心臓の異変が見つかって、その手術を行ったという流れなんですね。

小宮 そうです。

岸田 その短期入院を経て、その後に「病室Wi-Fi協議会議の参加」や「茨城がんスピーカーバンクさんへの参加」といった活動が出てきます。これらはどういったものなんですか? そして、なぜ参加されたんでしょうか?

小宮 自分自身、病気になるまでは社会とつながるような活動をほとんどしてこなかったんです。でも、この病気を経験したことで、「自分の体験を通じて誰かの役に立てることがあるんじゃないか」と思うようになって、いくつかの活動に参加するようになりました。

 一番最初に参加したのは、SNSのつながりで知った「病室にWi-Fiを設置しよう」という活動でした。これは本当に自分自身が入院中に強く感じたことで、病室で療養していても、何も情報やつながりがないのは本当につらいんですよね。外に出られないからこそ、人とつながる手段があるだけで心が保たれる。だからこの活動に共感して参加しました。

 実際に入院していたとき、コロナで面会が完全に禁止だったんですが、ご年配の方が一人、テレビに向かってずっと話しかけている姿を見たことがあったんです。人と会話できないことがどれだけつらいかを感じましたし、その方は精神的にも不安定になってしまって、看護師さんに当たってしまうこともあって……本当に見ていて胸が痛かったです。

 一方で、別のご年配の方が、お孫さんとLINEのビデオ通話で話していて、とても嬉しそうな笑顔をしていたのを見て、「こういう通信環境があるだけで、入院生活の質がまるで違う」と実感したんです。だからこそ、病室にWi-Fiを整備する活動は本当に意味があると今でも思っています。

 もう一つの「がんスピーカーバンク」は、茨城県で活動している団体で、学校などでがん教育の授業や講演を行っています。実際にがんを経験した人が、自分の体験を通して健康診断の大切さや、がんに関する正しい知識を伝える活動です。

 私自身、子どもが二人いるんですが、「もしお父さんが白血病だってことで、子どもが何か言われたらどうしよう」とすごく心配になったことがありました。「白血病ってうつるの?」「怖い病気なの?」「死んじゃうの?」――そう聞かれたときに、うちの子どもが正しいことを言えるようにしてあげたい。そう思ったのが、この活動に参加したきっかけです。

 病気について正しく知ることは、自分を守ることにも、誰かを守ることにもつながると思います。だから私も今、講演の勉強をしながら、できる範囲で自分の経験を伝える活動を続けています。うまく話せないこともありますけど、少しでも誰かの知識や勇気になればと思っています。

岸田 なるほど。お仕事以外にも、そういった社会活動をどんどん広げていかれているんですね。そして、そんな中で「尊敬している方と面談」とありますが、この方もがんの経験者なんですか?

小宮 サワダさんという方がいらっしゃいまして、私が学生の頃から読んでいた雑誌などによく登場されていた方なんです。もともとユニクロに勤められていたり、その後はご自身の会社を立ち上げて、海外の飲食店を日本に展開するような仕事をされていました。その方があるサイトでご自身のがんの経験を語っておられて、それがビジネスにも通じるような内容だったんです。

 その記事に感想を送ったところ、「ぜひ会いましょう」と言っていただけて。まだ休職中だったんですけれども、実際にお会いすることができました。

 さっきお話ししたWi-Fi協議会やスピーカーバンクの活動は社会的な側面が強いですが、この方との出会いは、私にとって「ビジネス」という別の視点を与えてくれるものでした。サワダさんは、そうした社会活動をどうすればビジネスとしても成立させ、持続的に普及させられるかという話をされていて、その考え方にとても刺激を受けました。

 自分も一会社員として、ビジネスマンとして、そういった活動を広げるためにできることがあるんじゃないか。自分の経験や知識を活かして、社会的にも経済的にも循環していく仕組みをつくれたらと思うようになったのは、この方とお会いしたことが大きなきっかけです。

岸田 すごい素敵ですね。自分から行動を起こして会いに行くというのも本当にすごいです。そして、そこから職場に復帰されたということですが、復帰はスムーズにできましたか?

小宮 本当はこの部分を「10」にしたかったんですけど……正直、うまくいった部分といかなかった部分がありました。なのでグラフではゼロの位置にしています。

岸田 例えば、どんな部分が大変でした?

小宮 白血病って、見た目からは全然わからない病気なんですよね。

岸田 そうですよね。ぱっと見、元気そうに見えますもんね。

小宮 そうなんです。だから電車の優先席に座っているだけで「なんでこの人座ってるの?」って思われてるんじゃないかって感じてしまうこともありました。復職の際も、人事の方と話をしてどの程度配慮してもらうのがいいかを相談したんですが、産業医がいるような会社ではあっても、思っていたほどは考慮してもらえなかったのが現実です。

岸田 大変でしたね……。

小宮 衛生環境を自分で確保するのが難しかったです。例えば「この場所の掃除をお願いします」と言われても、免疫が低下している私にとっては感染リスクが高く、避けなければいけない場面も多かった。でも、そういう事情まではなかなか理解してもらえなかったですね。

岸田 そっか。免疫が落ちていると、どうしても気をつけなきゃいけないことが多いですもんね。

小宮 そうですね。

岸田 部署の異動などはあったんですか?

小宮 はい。ありがたいことに、以前から私のことをよく知ってくださっている方たちが動いてくれて、外勤から内勤の仕事に変えていただきました。そうやって環境を整えてくださったおかげで、今は自分に合った働き方ができています。本当に感謝しています。

岸田 なるほど。やっぱり周りの理解やサポートがあるって大事ですよね。そしてその後は、会えなかった人たちと再会したり、今回こうしてがんノートに出演してくださったり、さらにはトレーニングにも励んでおられるとか。

小宮 ありがとうございます。

岸田 いえいえ(笑)。ちなみに、どんなトレーニングをされているんですか?

小宮 病気になった当初は「マイナスなことばかりだな」と思っていたんですけど、意外とそうでもないと思うようになって。東京マラソンには「移植者部門」というカテゴリーがあることを知ったんです。普通の抽選よりも出場できるチャンスがあるかもしれないと思って、「せっかくだから入賞を目指そう」と目標を立てました。

 今は毎日、犬と一緒に散歩したりジョギングしたりしています。来年エントリーできるかはまだ分かりませんが、そうやって目標を持てること自体がすごく幸せだなと思っています。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 いいですね。そういう、マイナスだけじゃなくて、そういった部分をしっかり拾っていくというのは本当、小宮さんらしいなと思います。そんな小宮さんの「ゲストエクストラ」、困ったこととして挙げられているのが「コロナ禍での面会謝絶」。さっきも少しお話がありましたが、誰にも会えなかったとき、どうやってそれを乗り越えたんですか? ここに「スマートディスプレー(Amazon Echo Show)」と書いてあるんですけど、これはどういうことですか?

小宮 こういうやつですね。

岸田 はいはい、CMで見たことあります。

小宮 「アレクサ」って呼びかけると反応してくれるやつです。このディスプレーを使いました。さっきもお話ししたように、うちの子どもは当時4歳と6歳で、当然スマートフォンなんて持っていなかったんですよね。

 でもコロナ禍で面会が完全に禁止されていたので、どうにかして子どもとつながる方法を考えて、このスマートディスプレーを自宅のダイニングに置いたんです。夜ごはんの時間になると、私のほうから病院のスマートフォンを使ってこのディスプレーにつなぐ。そうすると、自宅のテーブルの上に置かれたディスプレーに私の顔が映るんです。

 子どもたちはそこに向かって「パパだ!」って話しかけてくれて、私は「やっほー、ご飯一緒に食べよー!」って声をかけて。病室と家をつなぐ、まさに家族の時間がそこにありました。たったこれだけのことなんですけど、このつながりがあるかないかで、心の支えがまったく違いましたね。

岸田 そっか……。子どもたちとは会えなかったけど、そのスマートディスプレーを通じてちゃんとつながっていたんですね。お父さんが毎日そこから見守ってくれていた、と。

小宮 でも、いいことばかりじゃないんです(笑)。子どもたちにとっては、私がディスプレー越しに映ってるのがちょっと“うざかった”と思います。私が「ちゃんとお箸持ちなさい」とか「こぼさないように食べなさい」とか言うんで。

岸田 あはは(笑)。なるほど、まさに“遠隔しつけ”ですね。でも、それも含めて家族の団らんだなって思います。

小宮 そうですね。本当に、病院という“非日常”の中に、こうして少しでも“日常”を取り戻せたことは、精神的にすごく大きかったです。これがあったからこそ、気持ちを保てた部分は本当にありました。

【メッセージ】

岸田 ありがとうございます。そんな小宮さんに、ここで最後の質問です。視聴者の皆さんの中には、患者さんやご家族の方など、いろいろな立場の方がいらっしゃると思います。そうした方々に向けて、小宮さんからメッセージをいただいております。

小宮 一言ということで、私は「再生中」という言葉を選びました。もともと音楽が好きで、音楽プレーヤーとかで「Now Playing(再生中)」って表示されるじゃないですか。あの言葉がすごくしっくりきたんです。

 病室でお会いした方の中にはご年配の方も多くいらっしゃって、同じ病気でも体力的に移植を選べない方もいらっしゃいました。そうした方々と出会って、自分自身の病気の経験を通して思ったのは、「過去や未来を考えることも大事だけど、“今”を生きることが何より大事だ」ということです。

 これは病気の人だけじゃなくて、健康な人にも、ご家族にも言えることだと思います。どんな状況でも「今を楽しむ」ことに意識を向けることで、その先にきっといい未来が開ける。私はそう信じています。だから、この「再生中」という言葉を選びました。今、闘病中の方がいらっしゃるなら、どうか“今”を少しでも楽しく、生きてほしいと思います。以上です。

岸田 なるほど、「Now Playing=再生中」ですね。さすが元音楽マネージャーさんらしい視点です。最初聞いたとき、「再生中ってどういう意味だろう?」と思いましたけど、お話を聞いてとても納得しました。やっぱり、がんを経験することで「今を生きる」ということに気づかされる部分ってありますよね。僕自身もそう感じています。

 だからこそ、こうして「がんノート」という活動を通じて、皆さんにメッセージを届けたいなと思っています。ということで、お時間になりました。本日は本当にたくさんの経験をシェアしてくださってありがとうございました。

小宮 ありがとうございました。

岸田 これにて「がんノートmini」終了です。それでは皆さん、バイバイ。

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