目次
- 【オープニング】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【メッセージ】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:野口
【オープニング】
岸田 それでは、「がんノートmini」始めていきたいと思います。今日のゲストは野口さんです。今日は“のぐっちゃん”と呼ばせてください。よろしくお願いします。
野口 お願いします。じゃあ私は“きっしー”でいいかな?
岸田 はい、ぜひ!
野口 よろしくお願いします。
【ゲスト紹介】

岸田 よろしくお願いします。では、まず僕の自己紹介を簡単にさせていただきます。25歳と27歳のときにがんを経験し、その体験をきっかけに現在は「がんノート」の代表理事を務めています。本日はMCとして進行させていただきます。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 では、そんなのぐっちゃんのペーシェントジャーニーについてお話を伺っていきたいと思います。まず簡単に説明しますね。グラフの上に行けば行くほど気持ちが上向き、下に行けば行くほど気持ちが落ち込んでいる状態を表しています。そして、右に進むほど時間の経過を示しているという構成になっています。

そして、このペーシェントジャーニーには吹き出しも4種類あります。ポジティブなこと、ネガティブなこと、どちらでもないこと、そして治療などの指標といった形で整理されています。ぜひ、そのあたりも見ながら聞いていただければと思います。
そんな、のぐっちゃんのペーシェントジャーニーがこちらです。前半は少し気持ちの落ち込みが見られますが、後半に向かってはまるでジェットコースターのように大きな変化がありますね。
岸田 なんかね、でもよく見ると、22歳と23歳って書いてありますね。年齢の流れで見ると、もう1年ほど経っています。それ以降の部分は少し端折られているようにも見えますね。
野口 そうなんです。22歳のときに治療していたので、そのあたりが中心の曲線になっています。
岸田 なるほど。じゃあ、のぐっちゃんの一番最初のところから見ていきましょう。まずは「熊本の大学に入学」。大阪出身なのに熊本の大学に行かれたんですね。
野口 はい。実は母が熊本の出身で、高校2年生のときに学校見学があって、そのときから熊本の大学に行きたいと決めていました。両親の了承も得ていたので、見学にも行って、本当に早い段階から「熊本に行く」と心に決めていたんです。
岸田 なるほど。大学進学で熊本に行かれたんですね。そして卒業後は大手の居酒屋に就職されたと。かなり体力が必要な仕事ですよね。
野口 そうですね。当時は「就職氷河期」と言われていた時代で、就職がかなり厳しかったんです。周りの学生は50社、100社と説明会に行っていたんですが、私は20社ほどでした。全国に店舗を展開している会社に惹かれて応募したら、それが居酒屋チェーンだったんです。結果的に内定をいただき、そこに就職しました。
岸田 そのお仕事を始めてから、22歳のときに「微熱と関節痛」が出てきたということですね。これはどんな症状だったんですか?
野口 1週間ほど熱がずっと下がらなかったんです。関節も痛くて、体のあちこちが重い。インフルエンザのようだけど咳も出ない。「なんかおかしいな」と思って、会社の寮の近くにあるクリニックを探して行きました。
岸田 その近くの病院で診てもらったんですね。
野口 はい。最初は採血だけして、「結果は1週間後に聞きに来てください」と言われたんです。でも、とても1週間も待てる状態じゃなくて、翌日電話したら「すぐ来てください」と言われて。もう嫌な予感しかしなかったですね。
野口 当時は病院側から直接患者に連絡することはあまりなかったので、「自分で電話してよかった」と思いました。行ってみたら、先生に「白血球の数値が異常に高いです」と言われて。「うちでも検査はできるけど、設備が整っていない。今すぐ市立大学病院の附属病院に行ってください」と紹介状を書かれたんです。
岸田 それで大学病院へ行かれたんですね。
野口 そうです。体中が痛くてほとんど覚えていないんですが、タクシーで向かいました。待合室で椅子に座ったまま動けなくて、「いつ呼ばれるんだろう」「何なんだろう、この痛みは」と思いながら必死でした。
岸田 その痛みは全身だったんですか?
野口 はい。全身、もうすべてが痛かったです。関節だけでなく、体の奥まで痛いというか…。
岸田 想像するだけでもつらいですね。そして、そのときはまだ「白血病の疑い」だったんですね。
野口 そうです。当時は私自身には直接その話はされていませんでした。病院から両親に連絡があり、「白血病の疑いがあります」と伝えられていたようです。そのことは父の日記を見て、20年ほど経ってから初めて知りました。
岸田 ということは、当時は自分では病名を知らないまま、検査や治療に進んでいったんですね。
野口 そうですね。採血結果を待っている間に「大阪に戻って大きな病院で検査を受けなさい」と言われて。頭の中は混乱していました。痛い、つらい、何が起きているのか分からない——そんな状態でした。
岸田 その後、大阪の大きな病院に移られたと。
野口 はい。当時は横浜の本社勤務だったので、最初に入院したのは横浜の病院でした。でも、血液内科で有名な大阪の病院を紹介してもらい、母のつながりもあって入院が決まりました。9月1日のことです。関節痛を抱えながらの、まさにジェットコースターのような数週間でした。
岸田 その入院もすぐだったんですか?
野口 いえ、大阪に帰ってから2日ほど待ちました。病院のベッドが空いていなかったんです。
岸田 なるほど、ベッドの空き待ちだったんですね。
野口 退院して、わりとすぐに「ごめん、別れてほしい」って言われたんです。好きな人ができたって。……まさか、って感じでした。
岸田 ……そうでしたか。
野口 「何のために私、帰ってきたんだろう」って思いましたね。
岸田 そうですよね。治療を頑張っていたのも、どこかでその人にまた会いたいという気持ちがあったわけですもんね。
野口 そうです。彼に会いたくて、また一緒に笑ったり、話したり、映画を観に行ったりしたい——そう思っていたから。
岸田 それを断たれたら、本当に心が折れますね。
野口 ええ。本当にそうでした。
岸田 でもそのあと、少しずつまた上がっていくんですよね。ここで「退職」とありますが、これはネガティブな印象ではないようですね?
野口 はい。退職は、実は入院中から父にずっと言われていました。「このままでは会社には戻れないと思う」と。父は以前、人事の仕事をしていたことがあって、「長期で休む社員は会社としては置いておきにくい」と現実的なことを言っていたんです。しかも当時、白血病は“いつ治るか分からない病気”とされていて、在籍させておくメリットも会社にはない、という判断でした。
野口 だから、「退院したら一緒に横浜に行って退職届を出そう」と父に言われていたので、ある程度覚悟はできていたんです。ふられた直後でもありましたし、もう未練もなかったので、フラットな気持ちで辞められました。
岸田 そうか。心の整理も少しずつついていたんですね。
野口 はい、そう思います。
岸田 そして退職後はまた通院生活が始まるわけですね。
野口 そうですね。退院してからもしばらくは薬物療法を続けていました。当時の治療では、入院中に数回「叩く叩く」と呼ばれる強い治療をして落ち着いたあと、退院後も一定期間、通院で点滴を続けるという流れだったんです。1か月に1回は主治医のところへ行っていました。
岸田 その通院はどれくらい続いたんですか?
野口 正確には覚えていないけど、1年くらいは続いていたと思います。1回の点滴が3~4時間くらいかかるので、朝から行って夕方に帰る頃にはぐったりでしたね。
岸田 長い時間ですよね。それでも頑張って通われたんですね。
野口 はい。でもそのあと、結膜炎になったり、インフルエンザ菌に感染したりして、再入院もありました。
岸田 そうだったんですね。
野口 でも、そのときの再入院はあまりショックではなかったんです。もう“治すための入院”という感覚だったから。あの大失恋に比べたら、全然かわいいもんですよ(笑)。
岸田 たしかに、比べるとね(笑)。
野口 そう。しかもそのときの入院は、体を守るためのものだったので、気持ち的には落ち着いていました。あの最初の入院のときのような、痛みや恐怖とはまったく違いました。
岸田 なるほど。そこから少しずつ回復していって、次に「公文の先生」という新しいステップに進まれるんですね。
野口 はい。入退院を繰り返したあと、だいぶ落ち着いてきたタイミングで、母がやっていた公文教室を手伝うようになりました。それがきっかけで「私も先生になりたい」と思うようになって、30歳のときに正式に資格を取りました。
岸田 すばらしいですね。そこからまた人生が動き出していく。次の項目にあるのが——ご結婚。
野口 はい(笑)。いろいろありましたが、結婚しました。
岸田 あの失恋の彼とは別の方ですよね。
野口 はい、まったく別の人です。地元が近い方でした。
岸田 ご主人は病気のことも理解されていたんですか?
野口 もちろんです。もう発病から10年以上たっていましたから、「そうなんだ」と受け止めてくれて。不安を口にすることもありましたが、「元気だよ」と話していました。
岸田 なるほど。そしてそのあと、少し気持ちが下がる場面がありますね。
野口 はい……。妊娠したんです。でも、育たなかったんです。せっかく授かった命だったのに。すごくうれしかったんです。「こんな私でも、もう一度命を宿せるくらい元気になったんだ」と思えたから。でも、赤ちゃんはおなかの中で育ってくれませんでした。ほんの小さな写真が1枚だけ残っています。
岸田 ……そうでしたか。それは本当に、心に響く出来事ですね。
【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 こうしてご出演いただいて、本当にありがとうございます。そして、のぐっちゃんの「ゲストエクストラ」として挙げてくださった“大変だったこと”の中に、「病棟で年上の人ばかりだった」というお話がありましたね。
野口 そういえば、そうでした。
岸田 どう乗り越えられたのかという点で、「看護実習生がよく来てくれた」と書かれていますが、これはどういうことだったんですか?
野口 本当に困ったこととして、病棟では年上の方ばかりで、話が全然合わなかったんです。何を話せばいいのか分からなくて。私が読んでいた雑誌が「関西ウォーカー」だったりして、「ここ行きたいね」とか「このラーメン屋さんおいしそう」みたいな話題を振っても、誰もピンとこない。そんな感じでした。
岸田 ああ、確かに世代が違うと、共通の話題を見つけるのが難しいですよね。
野口 そうなんです。そんな中で、私が入院していた病院の裏に看護学校があったんです。その実習先がその病院だったので、看護実習生の子たちが毎日のように病棟に来てくれて。
岸田 なるほど。ちょうど同世代の子たちが来てくれたんですね。
野口 はい。ほぼ毎日、違うメンバーが来ていたんですけど、5か月も入院していると、だんだん顔見知りになってくるんですよ。「あ、アイちゃん、今日あの検査の結果出た?」とか、「昨日の話どうなった?」なんて、ちょっとした雑談ができるようになって。
岸田 そうやって、同年代の人と話せる時間があったのは、すごく救いでしたね。
野口 本当にそうでした。あの子たちが来てくれたおかげで、気持ちが少し軽くなったと思います。心の支えでした。
岸田 今、看護師を目指している方や実習中の方が見ていたら、きっと勇気づけられると思います。若い患者さんにとって、そういう存在は本当に大きいですからね。
野口 はい。ぜひ、患者さんの話をたくさん聞いてあげてほしいです。みんな、どこかで苦しんでいるから。聞いてもらえるだけで、救われることって本当にあるんです。
【メッセージ】

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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