目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:野口

【オープニング】

岸田 それでは、「がんノートmini」始めていきたいと思います。今日のゲストは野口さんです。今日は“のぐっちゃん”と呼ばせてください。よろしくお願いします。

野口 お願いします。じゃあ私は“きっしー”でいいかな?

岸田 はい、ぜひ!

野口 よろしくお願いします。

【ゲスト紹介】

岸田 よろしくお願いします。では、まず僕の自己紹介を簡単にさせていただきます。25歳と27歳のときにがんを経験し、その体験をきっかけに現在は「がんノート」の代表理事を務めています。本日はMCとして進行させていただきます。

そして本日のゲストは、のぐっちゃんこと野口千奈さんです。野口さんは大阪のご出身で、現在も大阪にお住まいとのこと。また、公文の先生としても活動されています。そんな野口さんの趣味は「歌うこと」と伺いましたが、どんなふうに歌うのが好きなんですか?

野口 カラオケも好きなんですが、友人と一緒に音楽ユニットを組んで活動しています。

岸田 ユニットを組んでいるんですね。

野口 はい。NHKの「みんなのうた」に出てくるような、子どもが楽しめる曲を歌うのが好きですし、「糸」など中島みゆきさんの曲を歌うのも好きです。

岸田 中島みゆきさんの「糸」、いい曲ですよね。

野口 歌謡曲というよりは、ニューミュージックに近いジャンルが好きで、とにかく歌うことが大好きなんです。

岸田 なるほど。歌うことが本当にお好きなんですね。ありがとうございます。そんな野口さんですが、がんの種類は急性骨髄性白血病で、22歳のときに発症されたんですよね。現在43歳ということは、もう20年近く経つということになりますね。

野口 そうなんです。こんな昔のことを話していいのかなと思いながらも、気がついたら応募していました。

岸田 いえいえ、むしろそういった長い時間を経た経験談を聞きたい方はたくさんいらっしゃると思います。20年後の姿を知ることができるのは、今まさに闘病中の方にとって大きな希望になります。ぜひ、のぐっちゃんの「今」を皆さんに伝えてください。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 では、そんなのぐっちゃんのペーシェントジャーニーについてお話を伺っていきたいと思います。まず簡単に説明しますね。グラフの上に行けば行くほど気持ちが上向き、下に行けば行くほど気持ちが落ち込んでいる状態を表しています。そして、右に進むほど時間の経過を示しているという構成になっています。

そして、このペーシェントジャーニーには吹き出しも4種類あります。ポジティブなこと、ネガティブなこと、どちらでもないこと、そして治療などの指標といった形で整理されています。ぜひ、そのあたりも見ながら聞いていただければと思います。

そんな、のぐっちゃんのペーシェントジャーニーがこちらです。前半は少し気持ちの落ち込みが見られますが、後半に向かってはまるでジェットコースターのように大きな変化がありますね。

岸田 なんかね、でもよく見ると、22歳と23歳って書いてありますね。年齢の流れで見ると、もう1年ほど経っています。それ以降の部分は少し端折られているようにも見えますね。

野口 そうなんです。22歳のときに治療していたので、そのあたりが中心の曲線になっています。

岸田 なるほど。じゃあ、のぐっちゃんの一番最初のところから見ていきましょう。まずは「熊本の大学に入学」。大阪出身なのに熊本の大学に行かれたんですね。

野口 はい。実は母が熊本の出身で、高校2年生のときに学校見学があって、そのときから熊本の大学に行きたいと決めていました。両親の了承も得ていたので、見学にも行って、本当に早い段階から「熊本に行く」と心に決めていたんです。

岸田 なるほど。大学進学で熊本に行かれたんですね。そして卒業後は大手の居酒屋に就職されたと。かなり体力が必要な仕事ですよね。

野口 そうですね。当時は「就職氷河期」と言われていた時代で、就職がかなり厳しかったんです。周りの学生は50社、100社と説明会に行っていたんですが、私は20社ほどでした。全国に店舗を展開している会社に惹かれて応募したら、それが居酒屋チェーンだったんです。結果的に内定をいただき、そこに就職しました。

岸田 そのお仕事を始めてから、22歳のときに「微熱と関節痛」が出てきたということですね。これはどんな症状だったんですか?

野口 1週間ほど熱がずっと下がらなかったんです。関節も痛くて、体のあちこちが重い。インフルエンザのようだけど咳も出ない。「なんかおかしいな」と思って、会社の寮の近くにあるクリニックを探して行きました。

岸田 その近くの病院で診てもらったんですね。

野口 はい。最初は採血だけして、「結果は1週間後に聞きに来てください」と言われたんです。でも、とても1週間も待てる状態じゃなくて、翌日電話したら「すぐ来てください」と言われて。もう嫌な予感しかしなかったですね。

野口 当時は病院側から直接患者に連絡することはあまりなかったので、「自分で電話してよかった」と思いました。行ってみたら、先生に「白血球の数値が異常に高いです」と言われて。「うちでも検査はできるけど、設備が整っていない。今すぐ市立大学病院の附属病院に行ってください」と紹介状を書かれたんです。

岸田 それで大学病院へ行かれたんですね。

野口 そうです。体中が痛くてほとんど覚えていないんですが、タクシーで向かいました。待合室で椅子に座ったまま動けなくて、「いつ呼ばれるんだろう」「何なんだろう、この痛みは」と思いながら必死でした。

岸田 その痛みは全身だったんですか?

野口 はい。全身、もうすべてが痛かったです。関節だけでなく、体の奥まで痛いというか…。

岸田 想像するだけでもつらいですね。そして、そのときはまだ「白血病の疑い」だったんですね。

野口 そうです。当時は私自身には直接その話はされていませんでした。病院から両親に連絡があり、「白血病の疑いがあります」と伝えられていたようです。そのことは父の日記を見て、20年ほど経ってから初めて知りました。

岸田 ということは、当時は自分では病名を知らないまま、検査や治療に進んでいったんですね。

野口 そうですね。採血結果を待っている間に「大阪に戻って大きな病院で検査を受けなさい」と言われて。頭の中は混乱していました。痛い、つらい、何が起きているのか分からない——そんな状態でした。

岸田 その後、大阪の大きな病院に移られたと。

野口 はい。当時は横浜の本社勤務だったので、最初に入院したのは横浜の病院でした。でも、血液内科で有名な大阪の病院を紹介してもらい、母のつながりもあって入院が決まりました。9月1日のことです。関節痛を抱えながらの、まさにジェットコースターのような数週間でした。

岸田 その入院もすぐだったんですか?

野口 いえ、大阪に帰ってから2日ほど待ちました。病院のベッドが空いていなかったんです。

岸田 なるほど、ベッドの空き待ちだったんですね。

野口 本当は最初、すごく大きな大学病院に行くように言われたんですけど、そこは満床で入れなかったんです。もう一つ、付属のような病院があって、そこに有名な血液内科の先生がいらっしゃるということで、そちらに入ることになりました。ただそこも満床で、「2日だけ待ってください」と言われたんです。なので、その間は実家で過ごしていましたが、「痛い、痛い」「何も食べられない」と言いながら2日間、ただひたすら耐えていました。そして9月1日、車で連れて行ってもらってそのまま入院しました。

岸田 入院が始まったんですね。

野口 はい、入院しました。

岸田 そのときも体はかなりつらい状態だったと思うんですけど、そこからまず行われたのが「マルク」、骨髄穿刺検査ですよね。

野口 そうです。飲み薬をもらって少し落ち着いたところで、マルクを初めて経験しました。腰のあたりに太い針を刺して骨の髄を採る検査です。自分では見ていないんですけど、腰にズンと響くような感覚があって、抜くときに「魂が抜けるようだ」と表現される患者さんもいるくらいで。私もまさにそんな感じで、もう何とも言えない感覚でした。

岸田 このあたり、気持ちのグラフで見ると大きく下がってますよね。痛みや不安が大きかったということですか?

野口 そうですね。何が起きているのか分からなかったんです。体は痛いし熱もあるし、看護師さんが慌ただしく動いて、家族もそわそわしていて。「私は何をされているんだろう」「なぜこんなところにいるんだろう」って。ただただ不安で、気持ち的にはすごく落ち込んでいました。

岸田 なるほど…。そのあと、少し気持ちが上向くタイミングが来るんですね。それが「告知」のとき。

野口 そうなんです。検査を終えて、主治医の先生から初めて病名を聞きました。両親も一緒にカンファレンスルームのようなところに通されて、「千奈さんの病気は急性骨髄性白血病です。タイプはM2です」と告げられました。やっと原因が分かったという気持ちで、正直ホッとしました。

岸田 ショックよりも、「ようやく正体が分かった」という安心感のほうが大きかったんですね。

野口 そうですね。知らされてようやく納得できた感じでした。ずっと理由が分からずに苦しんでいたので、「やっと分かった」と思えた瞬間でした。

岸田 そしてそこから治療が本格的に始まっていくわけですね。薬物療法や骨髄穿刺を続けていく中で。

野口 はい。化学療法、つまり抗がん剤の点滴が始まりました。それと同時に「腰椎穿刺(ルンバール)」という検査もありました。腰の背骨から髄液を採るんですが、これがまた強烈で…。

岸田 腰椎穿刺…。体験された方は皆さん「動いちゃダメ」と言われるのがつらいとおっしゃいますね。

野口 本当にそうなんです。電気がビリビリ走るような感覚がして、「動かないでね」と言われるんですけど、体が勝手に反応して動きそうになる。終わったあとは、リバースしてしまって…。もう、「私の体どうなってるの?」って、頭の中が真っ白になりました。

岸田 本当に地獄のような時間ですね…。

野口 5か月の入院生活の中でも、あのルンバールのときが一番つらかったと思います。

岸田 なるほど。ちなみに、今とは治療法がかなり変わっていると思うので、見てくださっている方は必ず主治医の先生にご確認くださいね。これは20年前の当時の体験談ですからね。

野口 そうですね。本当に今とはまったく違うと思います。

岸田 そしてようやく退院。5か月間の入院を経て退院されたんですね。

野口 はい。外泊許可が出たのは2回だけでした。ようやく退院できたんですが、そのあとに待っていたのが——大失恋でした。

岸田 失恋…。当時、お付き合いされていた方がいたんですね。

野口 はい。実は、全国展開している居酒屋に就職したのも、その彼が九州出身だったからなんです。福岡の人で、私も熊本の大学に通っていたので、九州に戻れる仕事ならと思って就職を決めました。就職して九州に戻れたら結婚できるかもしれないと、若いながらに思っていたんです。

岸田 じゃあ闘病中も、その彼が支えてくれていたんですか?

野口 はい。手紙もくれましたし、筆不精な人だったんですがメールも送ってくれました。写真付きで2通か3通ほど。でも——。

岸田 退院してから、何かがあったんですね…。

野口 退院して、わりとすぐに「ごめん、別れてほしい」って言われたんです。好きな人ができたって。……まさか、って感じでした。

岸田 ……そうでしたか。

野口 「何のために私、帰ってきたんだろう」って思いましたね。

岸田 そうですよね。治療を頑張っていたのも、どこかでその人にまた会いたいという気持ちがあったわけですもんね。

野口 そうです。彼に会いたくて、また一緒に笑ったり、話したり、映画を観に行ったりしたい——そう思っていたから。

岸田 それを断たれたら、本当に心が折れますね。

野口 ええ。本当にそうでした。

岸田 でもそのあと、少しずつまた上がっていくんですよね。ここで「退職」とありますが、これはネガティブな印象ではないようですね?

野口 はい。退職は、実は入院中から父にずっと言われていました。「このままでは会社には戻れないと思う」と。父は以前、人事の仕事をしていたことがあって、「長期で休む社員は会社としては置いておきにくい」と現実的なことを言っていたんです。しかも当時、白血病は“いつ治るか分からない病気”とされていて、在籍させておくメリットも会社にはない、という判断でした。

野口 だから、「退院したら一緒に横浜に行って退職届を出そう」と父に言われていたので、ある程度覚悟はできていたんです。ふられた直後でもありましたし、もう未練もなかったので、フラットな気持ちで辞められました。

岸田 そうか。心の整理も少しずつついていたんですね。

野口 はい、そう思います。

岸田 そして退職後はまた通院生活が始まるわけですね。

野口 そうですね。退院してからもしばらくは薬物療法を続けていました。当時の治療では、入院中に数回「叩く叩く」と呼ばれる強い治療をして落ち着いたあと、退院後も一定期間、通院で点滴を続けるという流れだったんです。1か月に1回は主治医のところへ行っていました。

岸田 その通院はどれくらい続いたんですか?

野口 正確には覚えていないけど、1年くらいは続いていたと思います。1回の点滴が3~4時間くらいかかるので、朝から行って夕方に帰る頃にはぐったりでしたね。

岸田 長い時間ですよね。それでも頑張って通われたんですね。

野口 はい。でもそのあと、結膜炎になったり、インフルエンザ菌に感染したりして、再入院もありました。

岸田 そうだったんですね。

野口 でも、そのときの再入院はあまりショックではなかったんです。もう“治すための入院”という感覚だったから。あの大失恋に比べたら、全然かわいいもんですよ(笑)。

岸田 たしかに、比べるとね(笑)。

野口 そう。しかもそのときの入院は、体を守るためのものだったので、気持ち的には落ち着いていました。あの最初の入院のときのような、痛みや恐怖とはまったく違いました。

岸田 なるほど。そこから少しずつ回復していって、次に「公文の先生」という新しいステップに進まれるんですね。

野口 はい。入退院を繰り返したあと、だいぶ落ち着いてきたタイミングで、母がやっていた公文教室を手伝うようになりました。それがきっかけで「私も先生になりたい」と思うようになって、30歳のときに正式に資格を取りました。

岸田 すばらしいですね。そこからまた人生が動き出していく。次の項目にあるのが——ご結婚。

野口 はい(笑)。いろいろありましたが、結婚しました。

岸田 あの失恋の彼とは別の方ですよね。

野口 はい、まったく別の人です。地元が近い方でした。

岸田 ご主人は病気のことも理解されていたんですか?

野口 もちろんです。もう発病から10年以上たっていましたから、「そうなんだ」と受け止めてくれて。不安を口にすることもありましたが、「元気だよ」と話していました。

岸田 なるほど。そしてそのあと、少し気持ちが下がる場面がありますね。

野口 はい……。妊娠したんです。でも、育たなかったんです。せっかく授かった命だったのに。すごくうれしかったんです。「こんな私でも、もう一度命を宿せるくらい元気になったんだ」と思えたから。でも、赤ちゃんはおなかの中で育ってくれませんでした。ほんの小さな写真が1枚だけ残っています。

岸田 ……そうでしたか。それは本当に、心に響く出来事ですね。

野口 やっぱりどこかで、「抗がん剤が体に残っていたからなのかな」と思ってしまったんです。でも主治医の先生は「それは関係ありませんよ」と言ってくださって、「また妊娠したいと思ったら、いつでも大きな病院の紹介状を書きますから言ってくださいね」と声をかけてくれました。その優しさがうれしくて……でも、結果的には、叶いませんでした。

岸田 本当に、人それぞれ経過も違いますし、野口さんの場合はそういう結果になったということですね。

野口 はい。そういうことになります。

岸田 そしてそのあと——。

野口 またさらに大きな出来事がありました。

岸田 はい。お父さま。日記をつけてくださっていたお父さまですね。

野口 はい。最初の入院のとき、1〜2週間ほど、毎日のようにお見舞いに来てくれていました。その父が……妊娠して、流産を経験したその少しあとに、亡くなってしまったんです。

岸田 ……それは本当に、ボディーブローのようにじわじわと心にきますね。

野口 そうですね。時間が経ってから、ずしんときました。きつかったです。

岸田 でも、そういった出来事を乗り越えられて。今は「完治」と言われたんですよね。

野口 はい。主治医の先生に言われました。

岸田 それは最近のことですか?

野口 はい、去年の11月の診察のときです。「先生、私ってもう完治って言える状態なんですかね?」と聞いたら、「え? 僕はもうずっと前から完治だと思ってたよ」と言われて。「えっ!? そんな、早く言ってよ先生!」って(笑)。でも本当にうれしかったです。ああ、これからはこの言葉を胸に生きていけるんだなって。心の底から「先生、ありがとう」と思いました。

岸田 長年抱えていた不安が、ようやく解けた瞬間ですね。

野口 はい。白血病という、自分の中の“重たい荷物”をずっと抱えてきたんです。ふとしたときに、「でも私、白血病やしな」って無意識にブレーキをかけていた。でも、先生の「完治ですよ」という言葉でようやくそれを手放せました。これからは、この経験を笑って話せるように、そして同じように苦しんでいる人たちに何か少しでも希望を伝えられるようにしていきたいと思っています。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 こうしてご出演いただいて、本当にありがとうございます。そして、のぐっちゃんの「ゲストエクストラ」として挙げてくださった“大変だったこと”の中に、「病棟で年上の人ばかりだった」というお話がありましたね。

野口 そういえば、そうでした。

岸田 どう乗り越えられたのかという点で、「看護実習生がよく来てくれた」と書かれていますが、これはどういうことだったんですか?

野口 本当に困ったこととして、病棟では年上の方ばかりで、話が全然合わなかったんです。何を話せばいいのか分からなくて。私が読んでいた雑誌が「関西ウォーカー」だったりして、「ここ行きたいね」とか「このラーメン屋さんおいしそう」みたいな話題を振っても、誰もピンとこない。そんな感じでした。

岸田 ああ、確かに世代が違うと、共通の話題を見つけるのが難しいですよね。

野口 そうなんです。そんな中で、私が入院していた病院の裏に看護学校があったんです。その実習先がその病院だったので、看護実習生の子たちが毎日のように病棟に来てくれて。

岸田 なるほど。ちょうど同世代の子たちが来てくれたんですね。

野口 はい。ほぼ毎日、違うメンバーが来ていたんですけど、5か月も入院していると、だんだん顔見知りになってくるんですよ。「あ、アイちゃん、今日あの検査の結果出た?」とか、「昨日の話どうなった?」なんて、ちょっとした雑談ができるようになって。

岸田 そうやって、同年代の人と話せる時間があったのは、すごく救いでしたね。

野口 本当にそうでした。あの子たちが来てくれたおかげで、気持ちが少し軽くなったと思います。心の支えでした。

岸田 今、看護師を目指している方や実習中の方が見ていたら、きっと勇気づけられると思います。若い患者さんにとって、そういう存在は本当に大きいですからね。

野口 はい。ぜひ、患者さんの話をたくさん聞いてあげてほしいです。みんな、どこかで苦しんでいるから。聞いてもらえるだけで、救われることって本当にあるんです。

【メッセージ】

岸田 本当ですね。ありがとうございます。では最後に、のぐっちゃんから今見てくださっている方々へのメッセージをいただきたいと思います。それでは、お願いします。

野口 はい。まずお伝えしたいのは、「今の治療を信じてほしい」ということです。私が受けた治療はもう20年以上前のものなので、きっと今とは全然違うと思うんです。最近では、髪の毛が抜けにくい抗がん剤や、副作用の少ない薬もたくさん出てきていますよね。だから、どうか今の治療を信じて、しんどい時期も諦めずに頑張ってほしいなと思います。

 そしてもう一つ。私が今こうして元気でいられるのは、主治医の先生がいてくださったおかげだと思っています。本当に感謝しています。だからこそ、ぜひ皆さんにも主治医とたくさん話をしてほしいです。先生は、自分の体を預ける大切な存在です。すべてを理解してもらうのは難しいかもしれませんが、少しでも気持ちを共有することで、先生にとっても「この患者さんを診てきてよかった」と思える瞬間があるんじゃないかなと思います。

 実はこの「がんノート」に出演することも、主治医に報告できるのがうれしくて。先生とまた話ができることが光栄なんです。だから皆さんも、どうか先生とたくさん話して、自分の気持ちを伝えてください。

岸田 本当に素敵なメッセージですね。主治医の先生だけじゃなく、看護師さんやスタッフさん、病院に関わるいろんな方とたくさん話してきたのぐっちゃんだからこその言葉ですね。

野口 そうですね。掃除をしてくれている方でも、受付の方でも、誰でもいいんです。とにかく、自分の気持ちを話せる相手が一人でもいることが大事だと思います。患者さんも、そして病院側の人も、そうやって話しやすい雰囲気でいられたらいいなと思っています。

岸田 ありがとうございます。本当に、20年前に治療を受けて、今もこうして元気にお話しされているというのは、多くの患者さんにとって希望になると思います。

野口 一応じゃないですよ、めっちゃ元気です!(笑)

岸田 めっちゃ元気(笑)。その姿を見ているだけで勇気をもらえます。人それぞれ経過は違うと思いますが、のぐっちゃんのように、今をしっかり生きている姿が何よりのメッセージになっていると思います。

岸田 ということで、あっという間の30分でした。これにて「がんノートmini」、終了したいと思います。どうもありがとうございました!

野口 ありがとうございました!

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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