目次

※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。

インタビュアー:岸田 / ゲスト:野口

【オープニング】

岸田 はい、それではがんノートのmini、スタートをしていきたいと思います。きょうのゲストは野口さん、のぐっちゃんときょうは呼ばせていただきます。よろしくお願いします。

野口 お願いします。じゃあ私はきっしーでいいかな。

岸田 そうやね。はい。

野口 よろしくお願いします。

【ゲスト紹介】

岸田 よろしくお願いします。では、まず僕の自己紹介を簡単になんですけれども。25歳と27歳のときにがんになりまして、その経験から今、がんノートの代表理事をしております。きょうのMCを務めさせていただきます。そしてきょうのゲスト、のぐっちゃん。野口千奈さん、きょうは番になります。野口千奈さんは大阪のご出身で今は大阪にいらっしゃるということで。そして公文の先生もされています。そんな野口さん、のぐっちゃんの趣味は歌うことって書いてあるんですが歌うことってどういうことですか。

野口 カラオケも大好きやし、お友達とユニット、組んでるんやけど。

岸田 ユニット組んでるん?

野口 うん。子どもが好きそうな、みんなの歌ってあるけどNHKで。ああいうふうなところで流れてるような曲、歌うのも好きやし、糸とか中島みゆきさんの。

岸田 中島みゆきさん、名曲ですね。

野口 歌謡曲じゃないな、なんやろな。ニューミュージックなの、そういうの、歌うのも好きやし。なんせ歌うのが好きな。

岸田 歌うのが好き。ありがとうございます。そんな、のぐっちゃんはがんの種類が急性骨髄性白血病ということで。22歳のとき経験して43歳、もう20年近くたつんですね、のぐっちゃん。

野口 そうなのね。こんなちょっと前のことを話してもいいのかなと思いながら気がついたらご応募してました。

岸田 いや、逆にこんぐらい、20年後どうなってんのかとかみんな知りたいから。逆にのぐっちゃんの経験談は、ぜひ今こんな感じだよっていうのを皆さんのロールモデルとして発信してほしいなと思っております。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 そんな、のぐっちゃんのペーシェントジャーニーをお伺いしていきたいと思うんですけど。まず、ちょっと説明すると上に行けば行くほど気持ちが上がっている、そして下に行けば行くほどちょっと下がっている、右に行けば行くほど時間というふうな感じになっています。

岸田 吹き出しも、こういうふうに四つありまして。ポジティブなこと、ネガティブなこと、普通、どちらでもないこと。そして指標などとありますので、また見てもらえたらと思います。そんな、のぐっちゃんのペーシェントジャーニーこんな感じで。なかなか、最初の前半はちょっと低くて最後のほうに行くともうジェットコースターみたいな感じの、のぐっちゃんですが。

野口 なんかね、でもよく見て。22と23って感じだから、年齢が。ほとんどもう1年たってるよね。それ以降が思いっきりはしょってるよねっていう。

岸田 22歳のときに治療してたからそのときの曲線があるっていうことですね

野口 そう。うん。

岸田 じゃあ、のぐっちゃんの一番最初のところ、こちらになります。熊本の大学に入学。大阪出身やのに熊本の大学、行ったんや。

野口 実は、母が熊本の出身の人でね。高校2年生のときに学校見学あるでしょ。そのときに熊本に行きたいって決めてたから。許しももらってたから熊本の大学の見学しに行ったってぐらい、熊本の大学に早くもう行くぞって決めてた。

岸田 熊本の大学に入学してその後。就職で、大手の居酒屋に就職。これ、もう体力勝負なんじゃないですか。

野口 ちょうど私らのとき、超絶氷河期っていわれてたときで、就職難って言われてて。あんまり意識はしてなかったんだけど、他の子は50社100社説明会聞きに行ったとかって言って。私は20社ぐらいやったと思うんだけど。今の子はどうなんか知らんよ。その中で、全国的に支社というか店舗が展開されてる会社やったし、居酒屋におったわけじゃないんやけど全国展開してるっていうのに惹かれて、探したら居酒屋だったという。で、内定いただいたという。

岸田 就職をしていって、そんな中で22歳。だんだんこちら、微熱関節痛が出てくるということやけど、これはどんな感じやったん? 当時。

野口 1週間くらい熱がずっと続いてたんですね。で、関節も痛いし、なんかがおかしい。インフルエンザにしては咳も出てない。どういうこっちゃいなって思って、病院、近くにある病院、クリニック探して引きずりながら行って。

岸田 近くの病院にね。

野口 そのとき会社の寮にいたんだけどね。

岸田 これがそうやね、近くのクリニックに行ったと。その近くのクリニックに行ったら。このときの診断とかは何やったん。

野口 最初の最初は採血だけやって、結果1週間後に聞きに来てくださいね、みたいな感じで言われた。そこの先生に。でも1週間も待ってられへんって気になって多分、翌日やったと思うんやけど電話したら、すぐ来てくださいって言われて、逆に。えっ、何って感じやったんやけど。

野口 なぜ。今はどうなんでしょうね。当時は、病院は向こうから、こうだから来てくださいっていう電話も入れない。私たち患者のほうが連絡してきてから始めて次に動くみたいな感じだったみたいで。とにかく来てくれって言われて行って。

野口 で、採血の結果、ばっと広げられて、白血球が異常に多いですって。僕が本当は検査はできるんだけども、今でいうマルクね、骨髄、採ってマルクできるんだけどもでも設備がそろってない。だから近くの大きな市立大学病院の付属病院に行ってください、紹介状、書きますので今すぐ行ってくださいって言われたんですね。そんな冷静に言ってないと思うね。

野口 ちゃんとそんな感じだったという。私、本当にそのとき体も痛いしもう訳が分からんからとにかく「えっ、会社、休まなあかんの、痛い、体、痛い、やばい」とか言いながらタクシーに乗って、その紹介された所に行って、再び採血して。もうそのとき私、全然覚えてないのは体が痛すぎて。そのときベッドがなかったのね、そこの病院の。

岸田 そこの病院のね。

野口 あったかもしれないけどベッドに横にさせてもらえず。本当に待合室の椅子にこーんと。

岸田 ここのときにね、大学病院に行ったとき。じゃあそのクリニックからすぐ大きな病院に行ってくれっていうことがあって、大学病院に行ったということね。

野口 これも体を引きずりながらですよね、本当に。タクシーだったけど気持ちは引きずりながらですよね。はいつくばってっていう感じ。

岸田 で、待合室で横になってって感じか。

野口 そう。お名前、いつ、呼ばれるんやろう。何やねん、この痛み、ずっと。

岸田 それは全身の痛さも、関節痛とかも全部?

野口 そうですね。もう全身、もう全部。もう体の全部。

岸田 それでも痛かったっていったところで。ちょっとだけまた上がります。それは、疑いやったんや。

野口 そのときはちょっとね。こっちがどっちやったか分からないよね。多分クリニックに言われたんだと思うんだけど。多分これ白血病だと思うって言われたという記憶があるんだけど、どっちに言われたかっていうのが分からなくて。

岸田 20年前やからね。

野口 もしかしたらどっちも言われたかもしれないけどね。

岸田 疑いに言われたときどうやった? めちゃくちゃこう、うわー、白血病かみたいな。

野口 それがね。私に聞かされてなかったんよ、当時は。告知されたのは両親だったんだよ。

岸田 ああ、そっか。

野口 両親に電話してもらったとか。病院から、両親に電話があったときに白血病の疑いなんでっていうのを言ったらしくて。父の日記に残ってたっていうので。ああ、そのときあったんやっていうのを私はこの20年ぐらいたって初めて知る事実だったんですね。

岸田 じゃあ当時は自分は分からないまま治療していこうみたいな感じになっていくっていうこと?

野口 じゃなくて、採血の結果待ち。大阪に急いで帰れ。え、何?みたいな感じ。頭の中はジェットコースター、体は痛い。何もできない、痛い。誰か助けて、この痛み、みたいな。

岸田 まだ疑いがクリニックや大学病院のときにあって、そこからちょっと下がっていくのは。地元の大きな病院へ。それはさっき言った大阪に戻れって言われたってやつか。

野口 そう。ちなみに実は大手居酒屋の就職が関東にありまして、本社が。そのとき、横浜におりまして。私。横浜の病院に入れさせられてまして。もとい、入院をしてまして。それで横浜で。本当は速攻入院してくれって言われたんね。白血球がえらい上がってるから治療せなあかんみたいな感じですよね多分、病院からしたらね。

野口 今で言ったら白血病やったら、分かってるんやったら。だから地元で大きな病院を。血液内科っていう所で有名な所を紹介してもらえっていうふうに指令があったらしいですわ。父の日記によると。

野口 そこでいろいろと母のつながりがあって私が入院したところに所属してた主治医を紹介され、そこの主治医が働いているというか勤務されている病院に入院が決まりました。それが9月の1日ということで、1週間、10日ぐらい関節痛の痛みを抱えながらの本当にジェットコースターの。

岸田 したんやなあ。

野口 1週間、2週間ですよね、ここは。22歳。

岸田 痛いだろうな。その中で大きな病院へお母さんつながりで行って、そして入院を。もう即入院? もう1週間たって。

野口 2日待たされたかな、大阪に帰ってから。ていうのも、空きがないって言われて。病院に。

岸田 ベッドのね。

野口 本当はめちゃくちゃ大きい大学病院に言われたんやけど、そこはもともと満床と言われて。そのもう一つ、付属病院的なところがあってそこに入ることになるんだけど。そこにいると。血液内科の有名な先生がいるから。でも今、満床だから2日待ってくれって言われて。2日、また家の実家で「痛いよ、痛いよ、何も食べれないよ」「何も食べたくないけど、食べれないよ」で過ごして。9月1日に車で連れられ、そのまま入院。

岸田 入院していく。

野口 はい、入院。

岸田 じゃあまたそんな。そのとき痛いよな。入院していってそこから? はい、マルク。

野口 飲み薬をいただいて、やっとちょっと落ち着いたところにマルク。初めての経験っていう。

岸田 骨髄穿刺検査ということで。これは直接骨髄に刺して骨の髄。

野口 腰の辺りに大きな注射針をどうやら刺したらしい。見てたことないので分かりません。シュッみたいなね。この抜くときが、今でもムズムズするんやけど、魂を抜かれるような感じという形容をする患者さんもおって。私はなんかうわーっていう何ともならんのを経験して。

岸田 これがめっちゃ結構、下がっているってことは、これも痛かったっとかっていうことかな。

野口 何が起こっているのか分からなかった。私の体に。体が痛い、何この今の体の痛いのと熱とこの大きな飲み薬とか、ばたばたとする看護師さん、家族っていう。なんでこんな所に私、おるんかな、何してるの私、されてるの、みたいな感じやったから。

岸田 そういう状態やったんやね。

野口 そういう意味では、訳が分からんという意味ではゼロなんだけど。でもなんかが起こっているぞ、怖いぞっていう感覚がずっとあったからマイナスに近い。

岸田 近かったんやね。そこからちょっと上がってくんよね。ようやくここで告知。

野口 そう。悪くなった後に。確定しましたみたいな感じやった。

岸田 この告知は本人に?

野口 本人に。その主治医に当たる先生から初めて。カンファレンスルームみたいな所、通され、両親のどちらがいたか忘れちゃったけど、どっちもいたような気がするんだけども、初めて、野口さんの病気、そのときは野口じゃないと、「千奈さんの病気は骨髄性白血病です」「急性の骨髄性白血病です」「そこでM2というタイプがついてます」ていうふうに告知を初めて受けました。やっと原因が分かったっていう意味で、浮上をしたんですね。

岸田 原因が分かったっていう、そういう。告知を受けてショックっていうより、ようやく原因が分かったっていうのにちょっと上がっているってことやね。

野口 やっと正体が分かったんや、私、みたいな。知らされたとも言うけどね。そのときはね。そのときに知らされたんですね、正確に言うと。私は知らなかったからもうなんか安心したんですね、知ることで。やっと。

岸田 やっとやと。そこからちょっと下がって上がってっていったところは。ここからは薬物療法。次は骨髄穿刺で薬物療法していく。骨髄に刺してくんの、なんか。

野口 化学療法。抗がん剤を点滴で打つものと1回だけあったんかな。ルンバールって腰椎穿刺っていうのは、なんかのときに「腰椎から髄液を採りましょう」て言われたときがあって。なんでだったかちょっと忘れちゃったんだけど。本当にこれも20年前やから忘れたんやけど。骨髄は腰なんですよね。

野口 腰の方で、腰椎は背中。だからこれを採った後が移動は何しちゃいけませんって言われて。動かないでねって言われて。何時間だったかな、2時間だったかな、もっとあったかな。なぜ動くな。でも、この腰椎、採ることでビリビリビリビリって電気が走るような感じのがあって。採られた後ね。動かない、無理じゃないですか。

岸田 動いちゃう。

野口 えびぞりになりそうなの。このベッドの柵を持ちなかったような感じのがあって。そんなん初めてだから、生まれて。しかもちょっとお下品な話になっちゃうけど、これ、終わった後に、動いてよくなった後にリバースと下からすごいことになって。それで、もう何これ、なんでこんなことになってる、あたし、みたいなんなって。

岸田 そっか、もう生きた心地しない。本当にもう動くな言われて、動いてよくなったらリバースしてみたいな。もう大変なことになってたってことね。

野口 そのときの5カ月入院してたんだけど、総合的に。一番最悪やったんちゃうかなっていう。ルンバール。気持ちの上ではね。

岸田 気持ちの上ではね。ただこの中でまだまだ下がっていく所がありますからね。5カ月の中では結構、抗がん剤の治療と骨髄穿刺をしていた。そこからちょっと。ちなみに皆さん、治療についてはまた20年前と今では全然違いますので。

野口 全然違うと思います。

岸田 ちゃんと主治医や病院に確認してくださいね。あくまでも経験などございますので。そしてようやく退院できていくということで。5カ月。5カ月間ずっと入院やったんや、じゃあ。

野口 1回か2回しか外出許可、出なかって。外出許可というか外泊ですね。出なかったんで、やっと退院。

岸田 やっと退院や。退院したけどその後。

野口 大失恋。

岸田 失恋。失恋、どういうことこれは。当時お付き合いしてる人がいたってことよね、もちろん。そこの中で失恋ってどういうことでしょう。

野口 居酒屋に就職したのも、全国展開してる居酒屋に就職したのも、福岡出身の彼と一緒になりたいという思いが残ってたからなんですよね。

岸田 ほう。

野口 関東が本社は分かっています。研修も本社、関東近く、分かってます。でもそれ終わったら九州に転属できる可能性があるというふうに面接で聞いたので決めたんですよね。だから就職して九州に戻れたら彼と一緒になるつもりで私はいたんですよ。私はね。学年が1個下で同学年だったんですよ。同学年でない、同い年だったんで結婚を考えたんです、ちらっと。幼き私は。

岸田 そうなると闘病中は、その彼は結構サポートしてくれてたん?

野口 メール、くれてたの。手紙もくれたし。筆無精の彼が。2通3通どっちやったかな、くれたんです、写真と共に。なのに。

岸田 メールのやり取りしたりとかしてたけども。なのに、退院してから。

野口 退院して割りかしすぐに「ごめん、別れてほしい」です。好きな子ができた。まじか、ですね。

岸田 そっか。

野口 何のために私、帰ってきたんっていうね。

岸田 そうだね。

野口 うん。

岸田 治療、頑張ってたのも、ゆくゆくはそこよね。

野口 彼に会うため。彼とまたいろんな話したい、しゃべりたい楽しいこといっぱいしたい、映画、見に行きたいって思ってたから。

岸田 それは、それを。くじかれるな。本当。

野口 うん。そうやね。

岸田 ただ、そこから、下がってくけど、また上がってく。それはどうやって上がってくのか。大丈夫なんだ。上がってくけど。ちょっと待って、退職ってこれネガティブでもないってことは。どういうこと、これは。

野口 何、どれが。退職?

岸田 うん。

野口 退職は入院中から実は結構ずっと父に言われてて、お父さんに。このままやったらきっと会社には戻られへんと思うと。うちの父はとある会社の人事課的な所にもいたことがあるらしくて、長期で休む社員っていうのは正直、使い物ならないんですよ。お金だけを。しかも白血病だから、いつ治るか分からない病気やったから、奇病やから、保証がないんですよね。在籍させてるメリットもなければっていう感じで。

野口 だから、病院から出たら退職届、出しに行くよっていうふうに言われてたんで。ずっと言われてたんで。ちょっとでもましになったら横浜に一緒に行くからねとかって言われてたんで。割りかしフラットだったんですよ、そのときは。退職だけど。正直、ふられてるし、もう思いはないから、そこの会社に。

岸田 そうなんですよね。そういう意味でね。確かに。

野口 そういう意味でね。

岸田 退職届を出し、そして。

野口 また通院した。

岸田 また通院で薬物療法が始まったんや。これ、治療は前回だけで終わったんじゃないん?

野口 その辺りはどのようなんでしょうね。うちの骨髄性発血病は入院中にそういうたたくたたく治療、戻ってきました。たたくたたくが。何回かあって落ち着いた頃に退院してもう一回またクールをするんですよってのが当時はあったんで。通院しながらの治療はまた来てねって言われてたんで、1カ月に1回は行ってましたね。主治医に会いに行ってましたね

岸田 どれぐらい期間やったん。

野口 忘れた。1年はあったんちゃうかな、最低。そこで通院しての点滴やから。点滴も3時間4時間が当たり前やったから朝、行って帰る頃はへろへろですわね。だから入院してでもできるよ、そうなんですかって言ってて。最初は。いいんやと思ってた、行かんでも。入院せんでもいけるやろと思ってたらせなあかんこともあって。それが書いてくれてる。出ないかな。この後。

岸田 この後、これかな。

野口 結膜炎になったりインフルエンザ菌にやられたんちゃうかって言われたりして再入院みたいな感じになったり。

岸田 そっか。このときはもういろんな意味で入退院を繰り返してたのね。

野口 このときの、でも、入退院はそんなにショックじゃなかったんですよね。だから。そういう意味で。本当はね。大失恋が。そこだと思ってるから、私の中で。

岸田 それに比べたら。

野口 比べたらかわいいもんやと。

岸田 それに比べたらこの入退院は。

野口 まだ治すための治療だから。しかも弱っている体を守ってくれるための治療だったから。治療っていうか入院だったから。本当の意味での。入院中の一番気持ちの悪いマルクもなかったしルンバールもなかったしって思ったら。

岸田 まだ全然、耐えれると。

野口 耐えれたかな。耐えれないときもあったのは、これは心の問題やったかなと思います。体力的というか。

岸田 そこからね、またちょっと上がっていきます。次は、公文の先生にと。このタイミングになったんですね。

野口 入退院、繰り返した後にだいぶん落ち着いてきたときに。もうそれこそ2カ月3カ月に1回の通院になってからいろいろへて、ボランティアやったりなんやらしてて。結果的にうちの母がやってる公文の先生になろうって決めていろいろ動いて、30歳のときに公文の先生の資格をいただきました。

岸田 公文の先生になった後。次、こちらになります。

野口 ばん。

岸田 ご結婚。

野口 いえい。いろいろとありましたけど。彼には会ったけど。

岸田 この失恋したときとは全然違う人ですかね。

野口 全然違う。もう全く違う。思いっきり地元に近い人です。

岸田 がんのことも、もちろんご存じって。

野口 もう10年以上前の話だけどね。こういうキャリアがあるんだけど。あ、そうなん。で終わって。不安とか言ったりするけど元気だよって。もう10年たってたしね。

岸田 ただね、その後下がってるんですよ。いやなんか怖い、怖いんですけど。何か。

野口 せっかく宿した命。めっちゃうれしかったんですよ。こんな私でも妊娠できる体くらいに元気になったんやって思ってたんですけど。育たなかったですね。体の中で育ってくれなかったんですね。本当にちっぽけな写真が1枚あります。

岸田 そっか。心にぐっときますよね。本当に。

野口 抗がん剤が入ってたからなのかなって。主治医はそんなことないですっていうふうに言ってくれて。「また妊娠したらいつでも大きい病院の紹介状、書いてあげるから言ってね」て言ってもらえたっていうのがね。あきませんでした。

岸田 本当にもう人のあれにもよると思いますけれども、野口さんの場合はそうだったということですね。

野口 そういうことになります。

岸田 そしてその後。

野口 またさらに。

岸田 またさらに、お父さま。日記をつけてくれてたお父さま。

野口 はい。最初、入院してすぐの頃の1週間2週間ぐらいの入院に付き合ってくれてて。ほぼもうほとんどっていうか毎日かな、病院にお見舞いに来てくれた父が。その妊娠、分かって流産もへた後に、亡くなってしまいました。

岸田 なかなか結構、ボディーブローのようにきますね。

野口 きますね。きたね。

岸田 けどそれを今はそれを乗り越えて。今は、完治と言われる。これは誰に?

野口 主治医です。

岸田 主治医に完治と言われ。これ最近のことですかね。

野口 割かし最近ですね。去年ですもんね。去年11月の診察のときに。でも先生、私って、もう完治っていう状態なんですかねって聞いたことがあって。「えっ、僕はもう既に完治だと思うよ」て。「思ってたよ」て言われて。

野口 「えっ」みたいな。じゃあ言ってよ、先生みたいな。そういうふうに言われたのがあって。これからの私、これを胸に生きていける、生きていけるんだ、先生ありがとうってすごく思いましたね。本当にありがたい。

岸田 だからそう思ってて。ようやく言われたから。それで心の荷物、おりたっていう感じなんですかね。

野口 白血病という大きな自分にとっての荷物というか、爆弾ですね。抱えてて。ずっと、何かにつけふっと思ったら白血病やしなとか思うときもあったけど。でもこれを笑い話ないしにしたり。それこそ、このがんノートのようにいろんな苦しみを抱えてはる方にいい形で伝えられるようになったんやなと思いましたね。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 こうやって出てくださって本当にありがたい限りです。そしてその中でゲストエクストラといったところで、のぐっちゃんの大変やったことというのが。病棟で年上の人ばかりやったと。それを。

野口 そういえばそうでした。

岸田 どう乗り越えたかというと。看護実習生がよく来てくれたということやけど、これはどういうこと。

野口 もう困ったことはそのまんまですね。もう私からしたら年上の方ばっかりで話が分からない、できない。

岸田 分からない。

野口 何、話したらいいかもう分からない。関西ウォーカー読んでて、これ、行きたいねとかいう話もできない。

岸田 行きたいなんか。

野口 例えば、ラーメン屋さんとか。

岸田 イルミネーションとか。ラーメン屋さんとか。

野口 スポットとか。そんな中。私がいた病院の裏に看護学校があったんですね。その実習がそこの病院にっていうふうな流れがあたって。ちょうど本当に看護師のたまごちゃん、かわいい子たちが実習に来てくれてた時期で。

野口 ほぼ毎日のように違うメンバーが来てくれて。そのうち、顔見知りになるわけじゃないですか、5カ月もおるもんだから。「アイちゃん、きょう、これ、あったけど結果出てる?」とか。

岸田 そういう話で、ちゃんと同世代でフレンドリーに話せる人が実習生で来てくれたと。

野口 それはすごく支えでした。

岸田 いや本当ね。実習生の人、見てたら、本当にね。若い患者さんには支えですからね。本当いろんな話してほしいなということも。

野口 聞いてあげてほしいです、患者さんの。みんな苦しんでるから。どっかで。

【メッセージ】

岸田 ほんまやね。ありがとうございます。そんな、のぐっちゃんの、今、見てくださっている方へのメッセージをいただいております。それはこちらになります。どん。

野口 はい。今の治療をすごく信じてほしいなって思ってます。私が受けた治療ってもう20年以上前だから全然違うと思うんですよね。

野口 それこそ髪の毛が抜けにくいって言われる抗がん剤だったり、吐き気を伴う、要するに副作用がちょっと弱めにできてきてるのかなっていう薬もいっぱいあると思うんで、その治療を信じて。今もうすごいしんどいことも多いと思うんですけど、その治療を信じて頑張ってほしいなと思ってます。

野口 あともう一つが、この私が今、元気でいられてるのは主治医がいてくださったからだと思っているので。ありがたいです。だから、そんな主治医とどんどんいろんな話をしてほしいと思ってます。なぜなら先生は自分の体を預けている大事な先生で。先生が分かってくださることっていうのはひと握りかもしれないけど、こうやって元気になることによって主治医の冥利に尽きるんじゃないかなって思ったりしてるので。

野口 実はこのがんノートに出ることも主治医にこの後、話ができることが光栄だと思っているので。それぐらい、いろんな話ができるように、そんな関係を築いていただけたらいいなと思ってます。

岸田 ありがとうございます。本当、主治医ともいっぱいしゃべって。そして他の看護師さんと他の人ともいっぱいしゃべっているもんね。さっきの実習生とかもありますしね。

野口 うん。

岸田 本当に。

野口 掃除をしてくれている方でもいいんですよ。とにかく。

岸田 いいね。

野口 とにかく病院に関わってくださっている方、誰でもいいんで。1人でもいいんで。自分の気持ちが話せそうな方に声、掛けてほしい。声、掛けてほしいって言ったらおかしいですね。話ができるような感じでいたらなって。病院側もそういうふうにいてくれたらいいなってすごく思います。

岸田 ありがとうございます。本当に野口さん、のぐっちゃんは、今から20年前に治療して、今もこうやって。一応、元気っていうことでいいんですよね。

野口 一応じゃないですよ、めっちゃ元気ですよ。

岸田 めっちゃ元気。

野口 めっちゃ元気やで。何も。

岸田 めっちゃ元気な感じでこうやって出てくださっているっていうのは、本当に今の患者さんにとっての一つの見通しになるんじゃないかということを思いますので。みんな人それぞれかと思いますけれども、のぐっちゃんの場合はこういうふうに今は生きているということを少しでも皆さんに知っていただけたらうれしいなということを思っています。

岸田 もう本当にあっという間の30分でございましたけれども、これにてがんノートmini、終わっていきたいと思います。どうも、では、皆さんありがとうございました。バイバイ。

野口 ありがとうございました。

岸田 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連するみんなの経験談