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インタビュアー:岸田 / ゲスト:新宮

【オープニング】

岸田 それでは、がんノートminiスタートしていきたいと思います。きょうのゲストは新宮さんです。よろしくお願いします。

新宮 よろしくお願いします。

岸田 お願いします。慢性骨髄性白血病の経験者でもある新宮さん。早速ですが、新宮さんのプロフィールをご紹介していきたいと思います。ご出身は福岡県、そして今も福岡県にお住まいとのこと。現在は大学生で、薬学部に在籍されているんですよね。趣味は野球観戦、読書、アニメと伺っています。野球は……福岡県出身の方は、やはりホークスファンですよね。

新宮 おっしゃるとおりです。

岸田 ですよね。では、読書についても伺いたいのですが、おすすめの本などはありますか?

新宮 『アンサングシンデレラ』とか、最近ドラマにもなりましたよね。薬剤師が主人公のマンガです。あと小説も読みます。小説だと『マカン・マラン』というシリーズがあって、食べ物を題材にした、ほっこりする作品が最近のお気に入りです。

岸田 小説も読まれて、アニメも観られると。幅広いですね。その中で、がんの種類は「慢性骨髄性白血病」ということですが、この病気については後ほど詳しく伺えればと思います。
 ステージが「急性転化」とありますが、これはかなり珍しいケースなんですよね。

新宮 そうですね。なかなかいないんじゃないかなと思います。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ということで、またそのあたりも詳しく伺っていきたいと思います。告知を受けられたのは17歳、高校生のときだったんですよね。そして現在は23歳、大学生として薬学部で学ばれているということになります。治療については、薬物療法、放射線、そして移植と、複数の治療を経験されていると伺っています。このあたりの詳しい経過は、この後ご紹介するペイシェントジャーニーとともに、お話を伺っていければと思います。



岸田 体調としてはそこまで悪くなかったわけですが、治療の効果が十分に出ていないということで、「移植が必要かもしれない」と宣告されたのですね。

新宮 はい。普通に学校生活もできていたので、「そんなに深刻なの?」という気持ちでした。でも医師から「このままだと危険」と言われて……ショックでしたね。

岸田 見た目や日常生活が普通に送れていても、数値が深刻ということはありますよね。そこからまた少し上がっていきます。こちら──移植前の自宅療養。しばらく自宅に戻れたんですね。

新宮 そうですね。いったん治療を調整しながら、体力を戻す意味もあって少し自宅に帰ることができました。家で過ごせるのはやっぱり気持ちが落ち着きましたね。

岸田 そしてその後、グラフが大きく下がっていきます。こちらが──移植と放射線治療。移植となると、本当に大変な治療ですが、どんな状況だったのでしょうか。

新宮 移植の前処置が本当にきつかったです。放射線に加えて抗がん剤も強いのを使って……体がもうボロボロって感じでした。ご飯も食べられないし、一日中つらくて。

岸田 移植前処置は本当に過酷だと、多くの方から伺います。精神的にも相当しんどかったでしょう。

新宮 はい、精神的にもかなりきつかったです。声が出ない日もあったし、話す気力もない。でも、家族や友達がメッセージをくれたりして、なんとか持ちこたえたって感じです。

岸田 そして移植本番があり、その後しばらくグラフは低空飛行ですが……ここから徐々に上がっていきますね。まずは──退院。移植の後、どれくらいで退院できたんですか?

新宮 2カ月ぐらいですね。自分としては「もう?」って思いましたけど、移植後としては早いほうだったみたいです。

岸田 それはすごい。退院できたときの気持ちはどうでしたか?

新宮 外の空気を吸った瞬間、「あ、生きてる」って思って泣きそうになりました。病棟と外の世界のギャップがすごかったです。

岸田 そこから一段と気持ちが上がる出来事がこちら──高校卒業。無事に卒業できたんですね。

新宮 はい。途中何度も無理だと思ってたので、本当にうれしかったです。私がいない間も席を空けて待ってくれていた友達や先生のおかげです。

岸田 すごいことですよ。闘病と高校生活を両立するのは簡単じゃないですからね。そしてその後、大きく上がっているのが──大学入学

新宮 薬学部に進んで、今は薬剤師を目指してます。自分が病気になった経験があったから、いつか誰かの役に立ちたいって気持ちになりました。

岸田 自身の経験が将来の道につながっているというのは、本当にすばらしいことだと思います。ただ、その一方で「移植が必要」という宣告も受けることになりました。当時の心境はいかがでしたか。

新宮 実は、移植の宣告を受ける1週間前に、放送部の全国大会行きが決まったんですよ。

岸田 えっ、すごい! めちゃくちゃ強いじゃないですか。

新宮 興味本位で入った放送部だったのに、たまたま良い成績が残せて。「全国大会に行けるんだ!」とみんなに喜んでもらえていたんです。でもその1週間後に移植宣告で……。大会は棄権せざるを得なくなりました。

岸田 それはつらいですね。夢が折られたような感覚ですよね。

新宮 本当にショックでした。でも、治療はしないといけないので、受け入れるしかなくて……複雑でした。

岸田 そこから少し上向くのが、移植前の薬物療法と放射線治療の時期ですね。これは前処置ということですよね。

新宮 はい。悪い細胞を徹底的にたたくために、抗がん剤をかなり強めに入れました。放射線治療も同時に行われました。

岸田 グラフが少し上がっているのは、気持ちが前向きになったからですか。

新宮 もう吹っ切れたんです。「やるなら徹底的にやってやろう」と覚悟が決まりました。

岸田 そこから移植。ドナーはお母さまだったんですよね。

新宮 そうなんです。かなり珍しいケースなんですけど、HLA型が母と一致していました。親とは基本、型が合わないことが多いのに……本当に奇跡的でした。

岸田 きょうだいでは合わなかった?

新宮 弟がいるんですが、弟とは全く一致しなかったんです。なので母から造血幹細胞移植を受けることになりました。

岸田 移植後、またグラフが大きく下がっていますね。副作用がかなり強く出た時期でしょうか。

新宮 そうですね。前処置で抗がん剤をしっかり入れられた分、しっかり副作用も出ました。

岸田 具体的には、どんな症状が?

新宮 一番きつかったのは消化管障害です。消化管の粘膜が全部やられてしまって、胃や腸だけじゃなく、口や喉の粘膜も腫れて、食べ物も飲み物も受け付けませんでした。吐き気も下痢もありました。

岸田 本当につらいですね。

新宮 下痢で皮膚に傷ができて、そこから菌が入って感染を起こし、足の付け根に膿が溜まるほど悪化したこともありました。痛くて歩けなくなっちゃって。

岸田 そんなことまで……。

新宮 さらに、副作用で「脳がむくむ」という状態にもなりました。

岸田 脳がむくむ……?

新宮 「脳浮腫」っていう症状なんですけど、脳が圧迫されてけいれんを起こし、そのまま意識を失いました。朝、看護師さんがバイタルチェックに来たときに、私が「視点が合わないんですよね」と言った直後に白目をむいて倒れたらしいです。

岸田 それは本当に危険な状態でしたね……。

新宮 記憶は全くないんですけど、相当やばかったみたいです。すぐに処置してもらって、なんとか持ち直しました。

岸田 その副作用の期間はどれくらい続いたんですか。

新宮 2カ月ほどですね。長かったです……。

岸田 2カ月……。その間は本当につらかったと思います。

新宮 めちゃくちゃきつかったです。本当に副作用のオンパレードで……。あの時期が、私の人生でいちばんのどん底でした。

岸田 そんな状況を乗り越え、そこから少しだけ上向いていくんですよね。「早退して出席日数を確保した」というのは、学校での出来事ですか?

新宮 生着して白血球の数が増えてきた頃、高校3年生だったので、「卒業できるのかな」「進路どうしよう」と少しずつ考え始めました。でも出席日数が全然足りなくて、このままだと留年になりそうだったんです。

岸田 たしかに、高校は出席日数が重要ですもんね。

新宮 私はどうしても、今まで一緒に過ごしてきた友達と同じタイミングで卒業したかったんです。

岸田 その気持ちはすごく分かります。

新宮 そこで学校側が特別措置をとってくれて、点滴を一時的に止めてもらって外出届を出し、学校に行って担任の先生と5分か10分ほど「元気です」って話をして、また病院に戻る──ということを何度も繰り返しました。

岸田 すごい……。学校に「行った実績」を積み上げて、出席扱いにしてもらったんですね。

新宮 はい。そんなことする人、あまりいないと思いますけど、先生方の配慮のおかげで何とか出席日数を確保できました。

岸田 病院と学校を往復しながら出席日数を稼ぐなんて、本当に努力の結晶ですね。そして退院して、ついに念願の卒業式に出られたんですね。

新宮 はい、無事に出席できました。本当に感謝しかないです。

岸田 新宮さんの頑張り、医療者、そして高校側のサポートが重なって実現した卒業式だったんですね。そこをピークに、少し下がる時期が来ます。浪人生活が始まったと。

新宮 高校にほとんど通えてなかったので、授業内容が全然身についてなかったんです。他の浪人生と違って私は受験経験すらなくて、学力がとにかく追いついていませんでした。最初の模試はひどいものでしたね。

岸田 分かります、僕も浪人したので……。予備校には通ってたんですか?

新宮 通ってました。必死でしたね。

岸田 そんな浪人生活の中に突然「美容室へ」という項目があるんですが、これは……?

新宮 闘病中、髪が抜ける前にショートにしたんですけど、そのショートがあまりにも似合わなくて(笑)。「髪が伸びてきたら絶対おしゃれな美容室に行く!」ってずっと夢にしてたんです。で、やっと行けるぐらいに伸びたので、念願をかなえたんです。

岸田 闘病中からの夢がかなったんですね。

新宮 はい、すごくうれしかったです。

岸田 そして2浪目に入り……そこから一気に上がっていきます。薬学部に合格!

新宮 ありがとうございます。

岸田 薬学部を選んだ理由は?

新宮 医学部も興味があったんですが、自分が飲んでいた薬についてちゃんと知りたい気持ちが強くて……。薬の仕組みを理解したくて薬学部に進みました。

岸田 実際、学んでみてどうですか?

新宮 今ちょうど、免疫抑制剤や抗がん剤について授業で学んでいて、作用機序とか理解できるようになってきました。

岸田 すばらしい。きっと、すごく良い薬剤師さんになりますね。

新宮 そうなれたらいいなと思います。

岸田 そして、移植から5年。病気との付き合い方、変わってきましたか?

新宮 人とのつながりがすごく増えたなと思います。白血病を通して出会った方も多いし、友達が支えてくれたことのありがたさも、改めて強く感じました。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 この経験の中で気付いたこと、感じたことは、また後ほど伺いますね。では次に、大変だったことと、どのように乗り越えたのかについてお聞きしていきたいと思います。

 大変だったこととして挙げていただいたのが、「体調と勉強のバランス」「多くの薬を時間どおりに飲むこと」「慢性GVHD」。そして、それを「自分の状態を周囲に発信すること」「人との縁を大切にすること」で乗り越えられたと書いていただいています。それぞれ詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか。

新宮 浪人中も輸血で病院に通いながら勉強していたので、頑張りすぎると体調を崩すし、でも受験勉強もしないといけないし……そのバランスが本当に難しかったですね。

岸田 体調と勉強、そのバランスに悩む人って多いと思います。もし後輩に「どうやってバランス取ってたの?」って聞かれたら、新宮さんならどう答えますか。

新宮 私は「できるときはとことん頑張る。でも、今日は無理そうだなって感じた日は、一日まるごと休む」と決めてました。思い切って“オフの日”にするんです。で、翌日に切り替えて頑張る、そんな感じです。

岸田 オンとオフをしっかり切り替えていたんですね。すばらしい。そして“時間どおり薬を飲む”というのも、かなり大変だと思いますが。

新宮 受験勉強していると生活リズムが不規則になりがちなんですよね。でも薬は時間どおりに飲まないといけなくて……朝早くから大量のお薬を飲むのが、正直すごくつらかったです。

岸田 一日でもサボれない種類の薬もありますしね。では、慢性GVHDについても教えていただけますか。

新宮 今も続いているんですけど、皮膚が弱くなってしまって、ところどころ茶色く色素沈着しているんです。日焼けすると悪化するので、夏は特に大変ですね。

岸田 移植の後遺症の一つですよね。今も付き合っていかないといけない。

新宮 はい、そうですね。

岸田 そのような体調の不安や制限を、「自分を発信すること」「縁を大切にすることで乗り越えた」とありましたが、具体的にはどんなことがあったんでしょう。

新宮 あるとき友達に「助けたいけど、何をすればいいか分からない」と言われたんです。そのとき、たしかに私のことは私が分かってるけど、周りの人はがんのことを詳しく知っているわけじゃないよなって気づいて。

 だから、自分から「ここはできるけど、ここはちょっと助けてほしい」ということをしっかり伝えるようにしたんです。そうしたら私も助けてもらえるし、友達の周りに同じような状況の人が現れたときに、アドバイスできるじゃないですか。お互いにいいことだなと思って。

岸田 その発信があったから、周りの人たちも支えやすくなったんですね。それに、こうやってがんノートminiに出演してくださっていることも、その“発信”の一つですよね。ありがとうございます。

新宮 はい、そう思います。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 では、新宮さんが「がんの経験から学んだこと」として挙げてくださった言葉について、お伺いしたいと思います。こちらです。「努力でカバーできない諦めは人を強くする」。とても深い言葉だと思います。この意味を教えていただけますか。

新宮 病気って、自分の努力じゃどうにもならないことじゃないですか。いくら頑張っても変えられないし、ショックも大きいし、どうしていいか分からなくなる。でも、だからこそ“諦めるしかないこと”って出てきますよね。だけど諦めるだけじゃなくて、「じゃあ他に方法はないかな」「自分にできることは何かあるかな」って考えるようになるんです。

 そうやって別の方向に目を向けたり、新しい可能性を探したりすることで、自分の世界がどんどん広がっていく──そんな実感があったので、この言葉を選びました。

岸田 なるほど。“諦め”がただの終わりじゃなくて、逆に可能性を広げてくれる、ということですね。

新宮 はい。私自身、夢を何度も折られてきました。でもその分、新しい夢も見つかったし、そこからまた違う未来が開けたりしたんです。だから諦めたことで終わりじゃなくて、むしろ先が広がったという感覚があります。

岸田 すばらしい考え方ですね。今この配信を見てくださっている方の中にも、病気や環境で「諦めざるを得ない」ことがある人がたくさんいらっしゃると思うんですが、だからこそ見えてくる景色、気づける可能性ってあるんだと、勇気をもらえる言葉だと思います。

新宮 そうだとうれしいです。

岸田 僕自身も勉強になりました。本当にありがとうございます。

新宮 こちらこそ、ありがとうございます。

岸田 ということで、きょうのがんノートmini、ゲストは新宮さんでした。ご出演いただき、本当にありがとうございました。

新宮 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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