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インタビュアー:岸田 / ゲスト:越澤・山水・梶文・和田

岸田 きょうはがんノート×AYA研のコラボセッション企画で、総勢7名でお送りします。122回目の今回はAYA研とコラボということで、滋賀医科大学の先生にも来ていただいております。よろしくお願いします。

河合 河合由紀です。本日会場になっている滋賀医科大学で医師をしております。乳腺外科と薬物療法に携わっており、普段からAYA世代の患者さんと関わることも多いので、AYA研の活動もさせてもらっています。

河合 AYA研のフルネームは「AYAがんの医療と支援のあり方研究会」という長い名前です。最近よく新聞に出てきてるAYA世代とは、日本の場合は小児に対して、15歳から39歳の世代を思春期、若年成人を略してAYAと言います。

河合 およそ1年間に約2万人ぐらい、全がん患者の2パーセント程度の割合を占めています。決して多くはありませんけれども少し年齢が変わるだけで疾患の種類ががらっと変わってしまい、それが各世代ごとでどんどん変わっていくので、もともと人口としては少ない世代なのに、がんの種類が様々に分かれるというところが、他の成人の世代と異なるところです。

河合 国が打ち出しているがん対策基本計画、がん診療進める指針の中でも、がんとの共生、治療をしながらライフステージに応じたがん対策っていうところは、特にここに当てはまると思います。

河合 決して多くはないこのAYA世代の多様性に対応し得る対策が、AYA研をはじめ各所で考えられています。人材育成や、支援チームの整備、相談窓口の見える化にも努めています。

河合 情報共有や、経験の蓄積、AYA世代のがんを社会にたくさん知ってもらうため、他の学会とは違い医療者ばかりの学会ではなく、がん経験者や、医療者でも患者でもないけどがんに興味のある一般の方とかも参加し、活動しています。

【ゲスト】

岸田 今日のたくさんのゲストの中の1人、滋賀医科大学の医学生である十河さん、自己紹介をお願いします。

十河 滋賀医科大学、医学科3年生の十河亜裕子です。今日は学生の立場から、がんに関わられた方々、関わられている方々に話を伺えればと思います。よろしくお願いします。

岸田 医療者と将来の医療者の立場から患者さんに質問していただければと思っています。次に闘病経験者4名の紹介をしていきましょう。

 梶文祥といいます。15歳のとき、慢性骨髄性白血病を発症し、19年間くらい治療を続けて、今34歳です。今は薬剤師として病院で働いています。

梶 慢性骨髄性白血病という病気は、基本的に最初の頃はほとんど症状がなく、自分のときはたまたま頭痛が2週間、3週間ぐらいずっと続いてて、親もちょっとおかしいんじゃないかということで病院に行きました。

梶 そのときCT検査とかで頭の検査をしたんですが何もなくて、たまたま血液検査をしたら白血球の数が異常に多い。再受診してどんどん白血球増えていくのでおかしいなということになりまして、静岡県立の子ども病院に行って検査をしたところ、慢性骨髄性白血病だと診断されました。

梶 今は慢性骨髄性白血病のいい治療薬ができて、今はそれを服用してるんですが、最初の1年目はインターフェロンという薬を自分で注射で打っていました。

梶 インターフェロンは副作用が出ることも多く、私もうつ状態にもなってしまい、主治医の先生と相談して、グリベックっていう薬を開始しました。

梶 今はその薬を続けながら寛解状態を保っています。病気の治療はうまくいったんですけど、就職活動という面では苦労しました。

梶 大学院まで卒業したんですが、就職活動中に健康診断書を出してみると、人事課の方から呼び出されたり、中には面接の途中で話を聞かれて、結局断られることが多かったので、結局大学院の卒業と同時に就職ができなくて、1年間は一人旅をしたり、フリーターをしたり、ニートの時間もあったりしました。

梶 その後、薬剤師としての資格が欲しいなと思って薬科大2年に編入し、3年前に薬剤師の免許を取得してやっと就職ができ、最近ようやく働きだした感じです。

岸田 次は山水さん。

山水 山水雅代と申します。罹患年齢は34歳のときで、現在は40歳になりました。がん種は腺様嚢胞がんと言って、頭頸部がんに多く発症する希少がんです。

山水 私は滋賀県民ですけれども、隣の福井県立病院で治療をしました。職業はネットショップ、楽天とかAmazonとかに出品してる側のお仕事をしています。

山水 治療は陽子線治療という、当時の先進医療だった治療と、動注化学療法っていう治療をしました。その併用治療ができるのが、福島の南東北の病院か、福井県立病院しかなかったので、福井県立病院のほうで治療をさせていただきました。

山水 がんに気づいたのはヨガをしている時です。マットにあごを乗せるポーズがあるんですけれども、そのときにあごを触るとあごが痛い。普段の生活であごを押さえることってないからちょっと放置してると喉が痛くなってきたので、7月にまず歯科に行きました。

山水 するとその先生が、これは歯ではないから大きな総合病院で、確か神経内科のほうに診てもらいなさいと言われたので大きい病院に行きました。

山水 ただ、歯医者さんからの紹介状なので、最初に口腔外科に行ってCTとかMR検査が終わった後、組織生検を急にされ、結局2日後に腺様嚢胞がんという診断をされました。

山水 初期ではなかったことと、がんの大きさが約5センチあったことで愛知のがんセンターへ行きました。

山水 そこでは舌の全摘出という手術方式を言われまして、私には舌のない人生っていうのを送る未来が見えなくて、どうしても舌を温存したい、手術以外の方法が何かあるんだったらとすがる思いでセカンドオピニオンして、先ほど言いました陽子線治療と、動注化学療法にたどりつきました。

山水 3カ月入院し11月に退院し翌年職場復帰しましたが、ストレスも多い会社だったので、このままの生活をしていたら再発、転移すぐしてしまうなと思ったので、自分を守るために退職を決意して職業訓練で、ウェブデザインの講習を3カ月受けた後、今現在のお店に採用されました。

山水 パート勤務で働いて1年もしないうちに、CTで肺に転移が見つかって職場が融通を利かせてくれたので自分のペースで手術ができ良かったです。

山水 7カ月間、経過観察をした後に手術をして今のところ肺には腫瘍がない状態です。その翌年、がんと一緒にPET検査で子宮筋腫と卵巣嚢腫が見つかって、子宮動脈塞栓術という治療しました。経過観察としては、CTとMRで胸部を診てもらってます。

岸田 次、和田さんお願いします。

和田 和田瑛と言います。今29歳です。21歳の時に右手に横紋筋肉腫という腫瘍ができました。兵庫県民ですが肉腫の治療をしてた時はちょうど大学生で、神奈川とか東京に住んでた時にがんが発覚しました。

和田 職業は保健師で、地域の高齢者の方の相談窓口で、日々高齢者の方のお宅を回る仕事をしています。治療は東京の病院でしまして、こちらに帰ってきてからは関西の病院で経過観察をしてる状況です。

和田 20歳の時、ちょうど看護師になろうと思って勉強してる途中で肉腫にかかりました。

和田 ビオラという楽器をしていて、楽器を左手で構えて、右手に弓を持って弾くんですが、その右手にだんだん筋肉がついてきたなって感じで、楽器弾いてるから筋肉ついてきたと思って様子見てたんですけど、見る見るうちに大きくなって、これはちょっとおかしいなと思いました。

和田 でも学校も忙しいし神奈川で1人暮らしをしていたので、見知らぬ土地でどこの病院へかかったらいいかよく分からず、半年くらい放ってたんです。

和田 いよいよこれはちょっとまずいかなと思った時、整形外科を受診しました。腫瘍だいうことで、そこから検査をして、最初2011年2月にかかって4月に横紋筋肉腫という診断を受けました。

和田 3月に東日本大震災があり世の中も大変なときだったんですけど、そこから化学療法をして、少し腫瘍が小さくなってきたので手術はせずに、放射線治療をしました。

和田 今も右手が動くし日常に困らないぐらいに使える。小指の付け根に腫瘍ができてたんですが、もう今そんなに目立たないようになってると思います。

和田 化学療法と抗がん剤と放射線をしてたので、だんだん血を造るっていうことができなくなってきたということで骨髄移植を受けて、しばらく免疫抑制剤を飲んだりしながら過ごしました。

和田 いつ飲み終わったのか忘れましたけど、今は薬も飲まず経過観察している状況です。手術予定を直前で抗がん剤で腫瘍を小さくしてから手術する予定でしたが思いのほかお薬が効いて手術を回避することができたので、今こうして使えている。

和田 10カ月ほど入退院しながら治療をして、2012年の2月に退院をしたんですが、4月から大学に戻ろうと思った矢先に肺炎にかかりました。

和田 でも何とか大学に戻りまして、授業も実習も何とか乗り切り、就職は関西に戻ってきて今の保健師という仕事をしています。

和田 がんのこういう活動っていうのも、本当に始めたのは就職してから、がんの後3、4年たったぐらいからです。それから少しずつ、こうして自分のことを話す場を見つけれるようになってきています。

和田 ぴあナースっていう、がんを経験した看護師の会っていう全国に会員がいる会があるんですが、看護師も人間ですからがんにかかることもあり、看護師ならではの悩みだったり、体験を共有したり、あとはがんになったからこそ、看護師としてどうやって働いていこう、どんなことができるかなっていうのを考えています。

和田 別のサバイバースピーキングセミナーは医療者に限らず、がんを経験した方がその体験を話す、しゃべるためのセミナーで、これも毎年1回継続して開催されていて、そんな所に出ていくうちに、いろんな方と出会うことができて、今は楽しく過ごしています。

岸田 次は越澤さん、自己紹介をお願いします。

越澤 越澤です。現在30歳で、出身は大阪です。がんだと分かったのが去年の12月5日、私の誕生日の2日後で、まだ29歳でした。今も、がんだと分かったときも大阪に住んでいます。

越澤 がん種としては胃がんになるんですけど、そこは後で詳しくお話します。がんだと分かってから仕事はすぐ休職となりました。

越澤 最初、おなかの下が少し痛いということで、11月に産婦人科のほうにかかって、私としては子宮か卵巣か、そこら辺かと思っていましたが子宮も卵巣も問題がなかった。

越澤 内科にも行って特に排便をするときに痛むと言うと盲腸とも違うと言われ結局内科でもよく分からず、外科に回されました。外科ではCT撮ったりエコー検査もしたけれど、それもよく分からなかった。

越澤 痛みからすると虫垂炎じゃないかということになって1週間ぐらい入院しておなかを2,3センチ切りました。

越澤 そこで初めておなかの中に白い粒が散らばっているのが分かり、その細胞を採ってみるとがん細胞が出てきた。原発はどこだろうとその後いろいろ検査しました。

越澤 そしたら胃に1センチぐらいの本当に小さなできものが見つかり、その細胞を採ってみたら一致したので胃がんだ判明しました。

越澤 よく若い人がなる胃がんは、スキルス胃がんですが、実はまだ解明されてない部分が多く広範囲で、私の場合もまだはっきり分からない状態です。

越澤 薬は大阪大学付属病院でキイトルーダという新薬と、シスプラチンとティーエスワンの3薬の治験に参加しました。

越澤 2019年6月に卵巣がすごく腫れあがって、卵巣への転移が判明し摘出することになったので治験はここで中止になりました。

越澤 7月からは標準治療のアブラキサンサイラムザという薬を使っていたんですけど、10月に痛みがひどくなり中止に。現在は第3の標準治療、オプジーボという薬を使って治療していて、2週間に1回打ちに行っています。

岸田 河合さんにちょっとお伺いしたいんですけど、越澤さんの話の中でスキルス胃がんか胃がんか分からないとありましたが、先生の中でも意見が分かれることがありますか。

河合 あります。今の医学は別に万能じゃないので、病理の先生の見立てや病院が変わるといよって診断名が変わってしまったり、それによって治療法も左右される場合とかもあったりとかします。

河合 病気がはっきり分かってるときはガイドラインどおりでいいんですが判然としない場合は、みんなで知恵を合わせる「キャンサーボード」っていうシステムがあって、いろんな種類のお医者さんとか、医療従事者とか、時には違う施設の医療従事者さんもどんどん入って、みんなでディスカッションして、治療方針とかを決めていくっていうふうなカンファレンスをやる所が最近は多くなってます。

【こども】

岸田 きょうテーマの一つとしてお子さんについて伺いたいんですけど、この中でお子さんを持っていらっしゃるのは美幸さん。妊よう性等について少しお伺いできますか。

越澤 双子の6歳の娘がいます。初めは自分自身が受け止めきれないし、娘にもどう伝えたらいいか分からなくて、とにかく元気に振る舞ってました。

越澤 でも最近病院に行くことが多いとか、注射よく刺されてると気付いていたようです。とにかく最初は子どもへの伝え方も、伝えるのがよくないと思い込んで伝えなかった。

越澤 今は赤裸々に伝えていて私が死ぬかもしれないことを伝えています。テレビ出演した時から友達に何か言われたりしたらまずいと思って向き合おうと、この子を信じてみようと思いました。

越澤 子どもの反応は、意外とどしっと構えていてくれて、6歳でも何かおかしいとうすうすわかっていたようで、やっと言ってくれたみたい顔で受け止めてくれました。

越澤 泣きもせず、そうなんだって感じでした。きつい薬を処方されているので今は薬の副作用なんかも事前に伝えてます。

越澤 子育てに関しては私の病気が分かってから夫がすぐに休職してすごく協力してくれたので、今は二人で休職しながら頑張っています。生活費は貯金と保険でまかなっています。

【妊よう性】

岸田 妊よう性に関して皆さんどうなのかをお伺いしたいんですけど、和田さんはいかがでしょうか。

和田 私の場合は抗がん剤をすることになりましたので、それが始まる前に精子を凍結するかを聞いてくださって、今は凍結して保存してる状態です。

和田 医療者になろうとして勉強はしてましたけれど、実際に自分が直面したときは抗がん剤のことしか頭になかったので、医療者から教えてくれたことでその可能性を残せたのかなって思ってます。

山水 私は妊よう性という言葉をがんノートで初めて知ったので、入院治療時にはそんなことは全く頭になかったです。今も妊よう性について確認してない状況なので分からない。

山水 ただ同じ動注化学療法をした人と話をしたときに、舌がん局所までカテーテルでとおして、そこから直接抗がん剤治療をする、通常の抗がん剤治療とは違うので、もしかしたら大丈夫なんじゃないかと、別の所で治療をした人の主治医の話は参考にさせていただいてます。

 私の場合、飲んでる薬自身に催奇形性という、精子に異常があるという薬を服用しているので、すぐに妊よう性っていうものはないんですけど長期間服用しているので、仮に服用を中止したとしてもどうなのか悩むところではあります。

岸田 美幸さん、妊よう性について医者から話はありました?

越澤 ありました。卵巣が腫れて摘出するかどかってときに産婦人科の先生から確認は、一応はありました。正直、ものすごい悲しかった。

越澤 女性の体でなくなるっていうのを自分に突き付けられた瞬間でもありましたし、生理も止まり純粋に悲しかった。でも時間がなかったので、「はい、とります」と答えました。

岸田 AYA世代特有ですよね、子どもを持つ、持たないとかそういった話。

河合 タイミングが合って治療を始める前に凍結保存できた方は、将来がんが落ち着いたとき子づくりできると希望を持って治療に当たられると思うんですが、それはつい最近のことで、少し前まではがんが治った後に気が付いたら子どもできないと気付かれる方が今までたくさんいらっしゃいました。

河合 最近は治療始める前に温存するも、しないも納得していただくことも大事なので、時間は限られていても治療者はできるだけ話をしたほうがいいっていうことになっています。

河合 事情もそれぞれなのでいったん膝を突き合わせてお話しする形にしています。将来妊よう性が残せなくても、最初にどれだけ知っていたか、知っていて諦めたのと知らなかったのでは全然違うので、滋賀県では事前の情報提供に役立つようなツールを作っています。

河合 全国的なガイドラインとかもあります。最近はがん生殖医療という専門の心理士養成が始まっており、医者から妊よう性の話を受けた後の心理ケアとか、意思決定、子どもよりも治療優先しないといけないという心のサポートする、心理士の中でも特にこの妊よう性専門の心理士養成が始まってます。

【就活】

岸田 話題を変えて就活のこと。治療後の就職はどうだったのかを、梶さんからお願いします。

 大学院2年生、25歳で就職活動を始めた時、当然病気のことはネックになるだろうと思っていました。

梶 大学の保健の先生が、健康診断書の書き方をいろいろ考えて話し合いの場を設けてくれて、そのとき病気自体は寛解になっていたので、日常生活には特に支障がなく、服薬と2カ月に1回の定期健診をしている状況だという文言を入れて健康診断書を作成してくれました。

梶 ただ就職活動で過程が進んで健康診断書を提出後は、ご縁がなかったとメールをいただいたり、企業によっては他の面接が終わった後で病気に関する説明を求められることもありました。

梶 病気や治療法、今の状態を伝えてもなかなか就職活動はうまくいかなかったんですけど、自分の研究室の先生が、ある企業の面接をあっせんしてくれたんです。

梶 その面接をしてくれた現場の方もすごくいい方で、当時の自分の研究と仕事内容も合っていたので、ぜひ欲しいと言ってくれたんですけれども、病気のことを話したら少し躊躇された。

梶 でもそこの現場の方も本当にいい人で正社員として駄目だったら、取りあえずアルバイトでもいいから来てくれないかって、そこまで考えてくれてたんです。

梶 結局、上司と交渉したけどどうしても採れないって言われてしまって。その後、一人旅に出ることになったという訳です。

梶 採用できない原因が病気なのかその現場の方に聞いてみたら、「それは守秘義務として言えないけど、そういうふうに受け取っていい」と。アルバイトの採用形態でも無理というのは、今後の発展が望めないってことだったと思う。

梶 薬学部に入って薬剤師になってからの就職活動はすんなりいきました。当時面接をしてくれた上司がすごい理解のある方で、病気のこともよく分かってらっしゃる方だったので、取りあえず採用して、駄目だったら話し合いをつけていこうっていう。

梶 最近ちょっと違うなっていうところも感じつつあるんですが、何とか働かさせてもらってるって感じです。

和田 僕は罹患したのがちょうど看護師になる勉強をしていたときでしたから、病気の治療が終わってから1年半ぐらいで就活ということになりました。

和田 看護師と保健師の資格が取れたので、保健師という家を巡回するタイプの仕事を選び、自分で役所まで行けない高齢者の、介護保険等の申請手続きの相談窓口で働いています。

和田 看護師は夜勤があるので、治療が済んで2年、3年の体ではしんどいけれど、保健師は日中の仕事なので保健師を選びました。

和田 就活での面接では、私自身も病気をして、体の衰えなど色んな葛藤があったのでそういうことを生かして働いていきたいんだと言いました。体力的な部分のアピールもしながら面接に望んで、職場の理解あって今の職場に採用してもらえました。

【仕事】

岸田 次にお仕事のことでは山水さんや美幸さんにお伺いしたいです。山水さんは転職とかもされたと思うんですけど。

山水 がん患者になってから転職活動するにあたって、まずがん患者だということを企業に言うか、言わないかっていうのが問題になってくると思うんです。私もネットで調べたけれど答えは出てこない。

山水 今はがんノートがあるのでこういうケースがあるんだと分かるけど、当時はがんノートもがん患者の就職に関する情報もネットでは見つけられなかった。

山水 そんなときちょうど通っていた職業訓練の就職支援担当者との面接でそのときに、これで聞くしかないと思って、実はがんだということを企業に言ったほうがいいか聞いたら、「そんなこと言わなくていい、もし何か不都合なことが起きた時点で言ったらいい」とアドバイスを受けたので、ハローワークの人が言うことだから間違いないだろうと思って、就職活動しました。

山水 履歴書とか面接では一切何も言わず、最後の健康状態の自己申告時に細かく、正直に書きました。すると一旦はすごい感触がよくて、雇ってもらえるって思ってたのに、後日お断りの返事がきたりして、厳しいんだなと感じました。

山水 今の職場にもハローワークで言われたとおり最初は隠してたんですけど、だんだん隠して仕事をしてることが心苦しくなって、1週間ぐらいで実はがんだということをカミングアウトしました。

山水 すると「大変だったね。でも大丈夫、もしそういうときがあっても、山水さんのタイミングで治療とかしてくれたらいいから」って言ってくれたんで、すごく感謝してますし恵まれてるなって思ってます。

岸田 美幸さんも今は休職中ということですが、職場にはどう伝えて、どうしたのか、お伺いできますか。

越澤 職場は荷物を運ぶとか体を使う仕事だったので、自分で続けるのは無理だと判断して、一番トップの方だけに言いました。山水さんと一緒でいい方で、「大変だね、待ってるから、いつでも帰ってきてください」って言ってくれて、ずっと名前残っています。

【緩和ケア】

岸田 緩和ケアという話題に移っていきたいと思います。まず河合さんに説明いただいて、美幸さんにお話を伺いたいと思います。

河合 痛みも含めて、がんと闘っていく皆さんの全てにおいてケアをしていくのが緩和ケアで、一般的なイメージである所謂「終末期」とか「みとり」だけを示すものではありません。

河合 『緩和ケアとは、全人的苦痛に対するケア』だと、元来言われています。肉体的苦痛や仕事でなかなか就職できないとか、辞めざるを得ない等の社会的苦痛。経済的な圧迫もここに入ります。

河合 それから精神的苦痛です。それから日本ではちょっと比重は落ちますが、スピリチュアルペイン。こういう全ての苦痛においてケアをしていくっていうのが緩和ケアと定義をされていますので、決してみとるだけが緩和ケアではありません。

河合 今はがんと診断されたときからの緩和ケア。比重は治療の過程の時々によって少しずつ比重は変わるんですけど、必ず治療と一緒に伴走していかなくてはいけないというものとして、全てのがんに関わる医療従事者が、この緩和ケア研修っていうのを受けなさいと必修化されています。

和田 私も抗がん剤の治療中に口内炎がとにかくたくさんできて、痛くてどうしようもない。身体的な痛みです。その時初めて緩和ケアの方が病室に来てくださった。

和田 痛みを和らげるための薬も使ってもらいながら、同時にいろんな話を聞いてくれたりマンガを貸してくれたり。

和田 退院して治療が終わってから肺炎で再入院したときに、あと2週間で学校始まるってときに肺炎になって、このままちゃんと大学に戻れるのか、もう1年休まないといけないんじゃないかと、すごく気持ちが沈んだときがあった。

和田 そのとき自分から緩和ケアチームの人たちに来てほしいって頼んだんです。とにかく不安な気持ちっていうのを吐き出して、助けてもらった記憶があります。

和田 私の場合、話を聞いてくれた、特に肺炎で入院してっていうときの不安っていうのを聞いてくれたというのが、先ほどの話で言うと精神的な痛みとか、社会的な痛みに寄り添ってくれた存在でした。

岸田 社会的な痛みとか、精神的な痛みも緩和ケアですよね。主治医に言ったらいいのか、どうしたらいいんですか。

河合 病院によっていろいろですが滋賀医大の場合は主治医から依頼することもありますし、周りのスタッフが悩んでることに気が付いて打診してくれたりすることもある。医療者であれば誰かしらに相談したらつないでくれる病院が多いと思います。

岸田 今、美幸さんはどういった緩和ケアをされているんですか。

越澤 通院している病院には緩和ケアチームというものがあり、そこのがん専門の看護師さんがついています。主治医と話すときも一緒に主治医と話を聞いて、その後のフォローもしてくれます。

越澤 その病院にはおそらく3人ぐらいいると思いますが、すごく忙しそうです。緩和を受けだしたのが今年の夏ぐらい。精神的な痛みと、身体的な痛みってすごくリンクしていてどちらもすごくつらい。

越澤 うつ一歩手前の考え方になってきてるのが自分で分かったので、先生に緩和を受けさせてくださいと言ったらすぐ紹介してくれました。

越澤 一番助かったのは和田さんと同じで、話を聞いてもらえることです。何でも好きなことを時間を気にせず話してくださいって言われて、ぽつぽつ話しだしたら涙が止まらなくなって、こんなことで自分が苦しんでたんだっていうのを、話しながら自分で発見していく。

越澤 先生は私のことを否定しないし、ただ話を聞いてくれて、解決はしないんですけど、すごい救われる。精神的な面で本当に支えられました。

【将来の医療者へ】

岸田 ここからは将来の医療従事者へということで、滋賀医科大学の十河さんからみなさんに質問をお願いします。

十河 周りの医学生や、研修医の友人から聞いて、がんを経験された方、されている方に聞きたいことはまず、がんと分かって生活や、気持ちに起きた変化を教えていただきたいです。

 がんの告知を受けたのが高校生の頃だったので、そのときはどうしようもなかった。今でも出席日数が足りてない状態で卒業してるんじゃないかというぐらい高校に行ってなかった。

梶 今も完全に病気のことを受け容れられているかと言えば、そうではないけれども今の自分に折り合いをつけて、今やれることをできる限りやっている実感があるので、それが一つ支えになっています。

梶 当然、症状がつらいときはもちろんあるんですけど、今の自分をつくってくれた家族や友人がいてくれたおかげで自分は支えられてきた。

梶 それを台無しにすることは自分からはできないので、やれる限り自分のことはやろうかなと思って日々過ごしています。

十河 今、生きていく上で、日々の生活を送る中で、一番大切にされているものは何でしょうか。

 大切にしてることは、今は自分の生活を守ること、薬剤師の仕事をできる限りのことをやりたいなと思ってます。高校生の時はよく、このまま何もできないで人生終えるのかと正直思っていました。

梶 大学生活も長く、なかなか就職もできない日々があったので、今できる限りのことをして、自分と同じように困ってる患者さんがいるのであれば、何とか助けてあげたいし、自分にできることがあればやってあげたい。

梶 同じようにがんになった患者さんがいたとしたら、その人の道しるべみたいな感じになれるように、何か残したいというのが今の思いです。

山水 がんになって変わったのは、自分を甘やかすようになったことです。

山水 がんになってからは、自分のストレスをなくすことを重視して、正社員とかにこだわらずにパートでいいやって、今までなら大学出させてもらってて、パートとかアルバイトで働くなんて、と思ってたんですけど、そういう考え方が変わりました。

山水 やりたいことをやってしまおうと、今まで先延ばしにしていたことを、どんどんやるようになりました。

和田 がんになって変わったことは正直な話、がんの診断を受けたとき自分の中で看板が一つできた、何か見つけたという感覚があったんです。

和田 それまでは何者でもなかったような感じだったのが、ようやく一つ、人生の中で見つけたなっていう感じはありました。今大切にしてることっていうのは二つあって、一つは人生楽しく生きようということ。

和田 本当に日々を楽しく、大切に生きるっていうことに気付かされたと思っています。もう一つは自分が病気と向き合ってる姿を見てもらったらいいかなと。

和田 抗がん剤でつるつるになった頭も含めて自分の生きてるそのままの姿を見てもらえたらいいかなと仕事としながらそう思っています。

越澤 私はがんの告知されてから全てが変わりました。いきなり、「あなたは半年後に死にます」と言われ、治療法はあるが助かる見込みがない上に、この治療はとてもつらいと宣告されて、病院に入るときと出てくるときの景色は全く違いました。

越澤 ものすごく孤独を感じました。生活で変わったことは、全てのことに敏感になるようになりました。花が咲いているとか、風が吹くだとか、季節もそうですし、人の優しさだとか、また反対に人の闇の部分だとか、そういうことにものすごく敏感になるようになりました。

越澤 今、大切にしていることは、一番の宝物である子どもを残して先に逝ってしまうかもしれないという状況と日々向き合っていて、何か子どもに少しでも残せることはないかっていうのを、日々模索しながら、また何か残すものをつくりながら、何か爪痕を残そうと過ごしています。

越澤 阪大で治験を受けたのも、私と同じように急に宣告されて今まで健康で生しかなかったのに、いきなり死という箱に押し込まれるっていう人に対して、少しでもいい薬が出るように、未来のがん患者に対しての助けれるように、そういう存在になれたらなという気持ちがあった。

越澤 薬が保険適用になるということは、私と同じ気持ちで治験を受けてくださった方が今までにいたんだということを気付かされて感謝しています。

十河 最後の質問です。医療者として関わらせていただく中で、どういった医療者だと話しやすいかとか、信頼しやすいか、アドバイスをいただければと思います。

 自分も今、医療者の立場になってとても難しいと日々悩んでるところです。勤務先の病院で、がん患者さんの話を聞きに行くっていうことがあって、時々自分の経験を話したりすることはあります。

梶 そういったときがんの種類は違っても、心を開いてくださる時がある。そんな経験を通じて、自分に正直に話してくれる人、話を聞いてくれるだけではなくて、医療者として自分はこう思うっていうのを、しっかり医療者の目線ではなく自分の意見として、その人を「個人」として扱ってくれるような人が、少し信頼を得てるのではないかなと思います。

山水 まず医療者である前に、1人の人間として患者に向き合ってほしいなって思います。

山水 医師は病気を診ることがメインなのは当然なんですけど、家族とか、仕事とか、患者が何を重視して今まで生きてきたのか、その人のバックグラウンドに興味を持って聞いてほしいなっていうふうに思います。

山水 治療のことだけじゃなく、例えば復職したら仕事どう? とか、病気のこと以外に生活の面でのことも気にかけてくださると、患者はすごくうれしいです。

和田 私も医療者でもありますけど、医療者であるっていう前に人間だっていうことが一番なのかなって思う。医療者としてっていう関わりももちろん必要ですけれど、まずはその人と共にいるっていうことが大事かなって思ってます。

和田 医療者自身、自分の生活してる中で感じることっていうのを大事にして、患者さんの生活も思い浮かべることにもつながるのかなと思います。

越澤 私が関わってきた医師や看護師で、本当に何でも話せて、信頼できると思う方たちの共通点は、やはり自分のこととして、自分の身内のような捉え方をしてくれている。

越澤 逆に信頼できない方は、すごく事務的で、仕事はちゃんとするけれどプラスアルファがない。仕事をして終わりっていう感じで、そういう方にはどんどん心がふたをしていく。

越澤 その信頼できる看護師さん、医師っていうのは、本当に生と死に向き合ってくれたときに、ちょっとでもいい報告があったらものすごく喜んでくれる、安心してくれる。

越澤 逆に悪い報告だとか、転移があるとかそういうことになってしまうと、ものすごく悲しんでくれる。本当にそれだけなんです。人として、私が友達だったらって考えたらそうなりますよね。

越澤 うれしかったり、悲しかったりを共有し寄り添ってくれることを自然とできる方はものすごく信頼できました。仕事プラス心です。

十河 今の話伺う中で、病気を診るだけが医者の仕事じゃないっていうのが、本当によく分かりました。病気だけじゃなく人と向き合えるような人。医師に限らず、医療っていう現場の中で人と向き合えるような存在になれたらいいのかなって思いました。

【闘病中のあなたへ】

岸田 最後に今、闘病中のあなたへ。

 最近読んだ本の中で、『大切なものは目に見えない』という、『星の王子様』の一小節を。大切なものって物事の絆だったりもするので、今のことだけでなく、過去のことも考えて日々生活していただけたら、大切なものが心の中に必ずあるのではないかと思います。

山水 あなたの経験は誰かの勇気となり、希望になる。私が入院してたとき、岸田さんのブログを読んですごく勇気を与えてもらった。

山水 だから、今はしんどいかもしれないですけれども、絶対皆さんの闘病経験は誰かの役に立ちます。特にAYA世代っていうのは、病院で同世代の患者さんと出会うことがすごく少ない。

山水 今はSNSとか、便利な世の中になってきたんで、発信することで必ず仲間は見つかると思います。一緒に生きようと伝えたいです。

和田 がんイコール絶望とかってよく言われるかなって思うんですけど、仲間がたくさんいます。だから1人で絶望しなくてもいいのかなと思います。

和田 がんになったからといって、絶望しなきゃいけないわけじゃない、いろんな形でがんと向き合っていったらいいかなと思います。大丈夫だよ、ということを伝えたいと思います。

越澤 私は現実から目をそむけてもいい、逃げてもいい、あなたの意思はあなただけのものだからということです。

越澤 本当につらい状況にぶち当たります。明日死ぬかもしれない、常にナイフを突き付けられてるような生活を強いられるので、本当にお先真っ暗。でも、現実から目をそむけていい。向き合わなくていい。

越澤 逃げてもいいっていうのはちょっと難しいところなんですけども、誰かのためにつらい治療を頑張り続けるっていうのは、しなくてもいいときがあるんじゃないかって思います。

越澤 もうここで治療は止めたいだとか、この治療はしたくないとか、そういう自分の気持ちを大事にしてほしいです。周りからの言葉じゃなくって、自分の気持ちを一番大事にしてほしいという思いを込めて書きました。

岸田 最後お二人、河合さんと十河さんに感想をお伺いします。

河合 明日からの診療に、私と向き合ってくれてる患者さんに、今受けた思いを返していけるように、また頑張っていきたいと思います。

十河 皆さんのお話を聞いて、目の前の与えられた勉強だけじゃなく自分なりに想像力をもっと働かせ、相手の立場に立てるようになって、人と向き合えるような医療人になりたいなと思いました。

岸田 きょうのがんノート、長丁場ではございましたけれども、本当に皆さんお付き合いいただきましてありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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