目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:河田

【オープニングトーク】

岸田 それでは『がんノートmini』スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは河田さんです。よろしくお願いします。

河田 よろしくお願いいたします。

【ゲスト紹介】

【ペイシェントジャーニー】

岸田 よろしくお願いします。まず、河田さんの紹介をさせてください。こちらになります。河田順一さん、今、大学院生と大学非常勤職員もなされているということで。がんの種類は慢性骨髄性発血病ということですね。慢性期で告知年齢は22歳、今は36歳ということかと思います。治療は分子標的薬の治療されているということですね。河田さんのペイシェントジャーニーを見ながら説明させていただければと思います。

岸田 ペイシェントジャーニーって何やねんと思われる方も多いかと思いますけれども、こんな感じですね。いろいろニコちゃんマークとか普通マーク、そして悲しいマークみたいなのがあったりとかして、それぞれ、どうやって河田さんが今までいろんなことを乗り切ってきたのかという感情のグラフだったりとか、そういったものをなぞっていって、どんなことがあったのかっていうのを聞いていければなということを思っております。

岸田 河田さん、お伺いしたいのが、まず一番最初、ここのところですね。まず倦怠感があって微熱があったということですけれども、このときって最初21歳、2005年の21歳に倦怠感がまず出てきたということですけれども、このときはどんな感じで倦怠感が出てきたりとかしたんですか。

河田 当時大学生で、出身埼玉県なんですけど、都内で下宿してたんですね。大学も留年しちゃうような学生だったので、あまり出来のいい人間でもなかったんですが。それで、その年も体がだるいし、朝起きて体が重たいって感じが毎日、続く。しかも歩いたりしていてもちょっと地に足の着かないようなふわふわしたような感じがあったり、風邪っぽいのかよく分からないけど、微熱が出たりっていうこともよくあって。

河田 ただ、朝起きられないし、一日中、家にいても大学に行ってもだるいしっていうので、うつ病かな、みたいな、そういったふうに自分では思っていて、ちょっとメンタルの病院とかにも行ったりとかもしていたっていうような感じでした。

岸田 もともとあれですか、ちょっとメンタル弱めな感じの。

河田 ちょっとなんか繊細な。

岸田 すみません、なんか繊細なね、繊細な方だったということで。そんなことがあって、その後、どん、がん告知。もういきなりすぐ、がん告知いっちゃう感じですか。どうだったんですか、このとき。

河田 そのときたまたま、理由が思い出せないんですけど、実家に帰ってたんですね。そのときに突然39度とかの熱が出て、これはなんかおかしいぞっていう熱の出方があって、地元の病院にまず行ったら、そこの病院では一回採血したら、血液内科のある総合病院に行ってくださいという感じで、その日の午後には血液内科のほうの待合室で受診を待ってたっていう感じです。そこで血液内科の先生に最初から、多分これは慢性骨髄性白血病だと思うって言われたって感じですね。

岸田 そのときに、もう言われて。結構ショックでした? どうでした、その慢性骨髄性白血病、白血病っていう言葉があったら、ちょっとなんかやばいかなとか。当時、だってセカチュー終わって数年後。

河田 そう。

岸田 ですよね。『世界の中心で、愛をさけぶ』の。そんなになんか、どんって落ちてるわけじゃないような気がするんですけど。

河田 めちゃくちゃそのとき、これ、死にそうだってくらいに熱があったんですね、体の調子がめちゃくちゃ悪くて。その状態で血液内科の待合室に行くと、そこには骨髄バンクのお知らせとか、そういったポスターとかがあって、もしかして自分って白血病なのかなとかちょっとドキドキしながら待ってたので、言われたときにはまさかっていうのと同時に、その瞬間にはやっぱりっていう気持ちとあって、これはどうなるんだろうっては思いましたね。

岸田 そうなんですね、やっぱりっていうこともあったからっていう感じですかね。その後、治療として分子標的薬の治療していくということですけれども、これはどうでした、やっぱお薬、大変でした?

河田 はい。本当は慢性骨髄性白血病だと、そのまま分子標的薬だけ始めるって方も多いんですけど、僕は本当に熱が全然下がらなくて、一回家には帰されたんですね。

河田 家に帰されてネットで調べたりとかしてたんですけど、次の日にはやっぱり倒れちゃって、ひと月ぐらい出たり入ったり、みたいな感じで入院をすることになるんですが、そこの入院中からこの分子標的薬が治療の第1選択だろうということで飲み始めたって感じです。まだ当時、出てそんなに年がたってなかった薬だったんですけれど、飲んでみてやっていこうって感じでしたね。

岸田 飲んでやっていこうという感じだった、そうなんですね。出た当初っていうこともあって、それは見ながらっていうことかと思いますけれども、その見ながらっていうことで、入院したり退院したりというところで自宅療養に入っていくということですね。自宅療養はスムーズにいった感じですか。副作用がいっぱい出て大変な感じですか。

河田 最初はすごく大変でした。入院中に体重が5、6キロ落ちたのかな、最後まで流動食ぐらいまでしかあんまり食べてなかったので、体重も減ってたし、しかも薬の副作用が多分、同じ薬飲んでる人の中でもかなり強く出ちゃったみたいで、筋肉がすごいけいれんしちゃって、それも体中の筋肉ですね。

河田 胸の筋肉とかがピクンピクンってけいれんして、しかもすごく痛みを伴う。胸の筋肉のこむら返りみたいなものとか、おなかの筋肉とか全部がこむら返りを起こすような感じで、胸とか来ると、心臓止まるんじゃないかとか思いながら最初のうちはなってました。

河田 それも数カ月でそういった体中の痛みとかけいれんは抜けていったんですけれど、今度は慢性的な筋肉のつりとか、あとは薬飲むと吐き気がするし、下痢もするし、一回減っちゃった体重はなかなか戻らないしっていうので、いろんな副作用が出てきたって感じでしたね。

岸田 すげえ、胸のこむら返りで胸がピクピクなるっていうことでしょ。

河田 そうです。突然、手がぱーんって、自分でも。

岸田 怖い。

河田 自分でも意識しないで痛いって感じで手が動いちゃうぐらいのときも、本当に一時期でしたけど、ありましたね。

岸田 それで満員電車行ったら、やばいですね。

河田 全然乗れないですよ。コップを持つ手でも結構ばーってなったり。

岸田 そうか。それでみそ汁とか飲んでたら大変ですね。みそ汁飲んで、ばーん、みたいな。

河田 怖いですよね。

岸田 けど、数カ月してだんだん治っていったっていうか、なくなっていったっていう感じなんですね。ありがとうございます。そんな中、留年、休学ということがあります。大学生だったんですよね、このときね。

河田 そうなんです。

岸田 留年、休学っていうのはどうでした、このとき。

河田 やっぱりショックですよね。もともと留年してるんですけど。それはそれとしても。

岸田 それはそれで置いといてね。

河田 それでもやっぱり同期の仲間とか、サークルのメンバーとか、いろいろゼミの友達とかいる中で自分だけ取り残されていく感じっていうのがありますし、ちょうど12月になったので、1月、2月の試験シーズンですよね、出られないじゃないですか。

河田 で、状況も伝えられる先生もいれば、伝わらない先生もいたりして、たくさん単位も落としてしまうし。いろいろ焦りと、でも、今は治療に専念すればまた戻れるだろう、みたいな、そういった気持ちとか両方あってっていう感じでしたね。

岸田 病気が伝わらない先生って、あんまり理解してくれない先生も当時いたってことですか?

河田 東京で下宿してたんですけども、治療はずっと田舎のほうの自宅で、実家のほうで治療してたので、メールでやりとりをするとか、それくらいしか方法がなくなってくると、やっぱり全部が全部伝わらないということはあるし、急に病気だから何とかしてくださいって言っても対応できないってこともあるんだろうなと思いますね。

岸田 なるほどね、そうですか。ありがとうございます。そんな中、大学に通えない日々が続いていくということで、このときは結構、心細かったですかね。休学してずっと大学に通えなくてっていうのも。

河田 そうですね。やっぱり下宿も引き払わざるをえなかったですし、ぎりぎり電車で通学2、3時間かければ行けないこともないので、頑張ろうとも思ってたんですけど、下痢とかがひどいんですね。高崎線で1時間以上、1時間半くらい電車に乗らないといけないのに、電車に乗っているときに吐き気とか下痢とかがやっぱりくるんですよ。それってすごいストレスだし、だんだんと不安になっていって、無理かなっていうような気持ちも出てきてしまったって感じですね。

岸田 高崎線は1両目がトイレ付いてるとかないんですか。

河田 付いてるんですよ。

岸田 1両目確保じゃないですか、ずっと。

河田 そうするしかないですよね。

岸田 そうですよね。人が入ってたらもう終わり、みたいな感じですよね。

河田 うん。

岸田 そんな中、次がちょっと上がっていく。上がっていくとこが退学なんですね。ちょっと暗いところがあって、そこからようやくプラマイゼロ、上がっていったってところが退学なんですけど。結局、退学したって感じなんですか、そこから休学して。

河田 そうですね。休学のときとかいつ戻れるんだろうかとか、これから先、どうなるんだろうかとか、そういった不安が強かったんですけれど、なんか辞めるってなると一区切りつく気持ちもあるし、すごく大学の友人や先生がたに恵まれていて。卒業パーティーってあるじゃないですか。

岸田 はい。華々しいやつね。

河田 それに同じ年に入学したメンバーに卒業パーティーに誘ってもらって、退学するタイミングとみんなが卒業するタイミングが一緒だった。

岸田 その大学からいなくなるっていう意味では一緒みたいな。

河田 一緒なので。それで、ゼミの仲間とかに卒業パーティー呼んでもらって、そこでも先生に大学出ても勉強はできるからとか、そういう励ましをもらったり、サークルのメンバーにも追いコンをされたりとか。

岸田 何のサークル入ってたんですか。

河田 文芸サークル。文芸同好会っていう。

岸田 本読んだりとかもする。

河田 本書いたりとか。

岸田 書いたりとか。いいっすね、かっこいい。でも、追いコンもされて。

河田 追いコンもされて。

岸田 それはね、そうだったら、理解しました。退学、ちょっとテンション上がりますわ、それだったら。

河田 ちょっと卒業したかなって自分でも勘違いできるような。

岸田 そんな感じですよね。そこからまた上がっていく。そんなとき何があったか。はい、どん。世界SF大会。なんか種類がまた全然変わって。SFってあの空想的な『スターウォーズ』的なSFっていうイメージであってるんですか。

河田 『スターウォーズ』とか、『バックトゥー・ザ・フューチャー』とか、映画だと。

河田 すごくSFの小説が好きで、中学の頃から特に翻訳とか日本のも含めて小説、ずっと読んでたんですね。でも、田舎で全然SF読む仲間がいなくて、大学でもあんまりいなくてって感じだったんですね。ただ、SFにもそういう世界大会とか日本の大会とかがあるっていうのは知ってて、いつか行きたいなって思ってたんです。

河田 たまたまこの年に世界SF大会が日本でもやるっていうのを見て、これは行かなきゃと。しかも、がんになっていつまで生きてられるんだろう、みたいな弱気の部分もあったので、やれるときにやりたいっていう気持ちで、横浜でちょうど世界大会やってたので行ったと。そこで同世代のSFファンの人に出会って、以降もすごいいい友達として付き合ってもらってます。

岸田 すごい。めっちゃ気になるねんけど、世界SF大会ってどんなことするんですか、よおいどんで書くとかじゃなくて、どんなことすんの。

河田 じゃなくて3、4日間やってるんですけど、本当に世界中からSFファンとかSF作家さんとかがゲストでやってきて、一緒に、例えば、何とか先生の講演を聴くとか一緒にSFに出てきた架空の言語の講座を開催してワークショップするとか。もちろん海外の憧れの作家さんのサイン会とかもあるし。

岸田 すげえ、ちょっとなんかコミケみたいな。

河田 そう。だから、コスプレをしてる人もいるし、同人誌やってる人もいるっていう。

岸田 すごい。すごく仲良くなれそう。

河田 よかったです。

岸田 そうなんや、すごい。それが世界SF大会。そりゃテンション上がるわ。コミケをイメージできたら、すごくテンション上がる、それは。

河田 泊まりがけコミケですね。

岸田 その世界大会があった後、ちょっと下がっていくんですけど、そのとき何があったか。どん。お母さんが悪性リンパ腫に。悪性リンパ腫ってがんの一つですよね、血液の。

河田 そうなんです。僕がなった後だったので、やっぱり母もすごい気にしていて。母が一番大変なのは当たり前なんですけども、同じ血液がんだったので、息子にそういう血液がんのが遺伝したんじゃないかとか、お医者さんはそんなことはないってはっきりと僕の主治医も母の主治医も言ってたんですけれども、やっぱりそういうのって親からしたら気になると思いますし、それですごい悩んでたし、それ以上に母が1年間入院して抗がん剤治療をやってたので、それをサポートできる範囲でしよう、僕、ちょうどもう実家に帰っていたので、弟は大学生だったし、父親も働いてたので、家事とかをできる範囲で家でやってたっていうような時期がしばらくあったって感じですね。

岸田 お母さんもってなかなか、僕がそうだったらショック受けるけど、そこ、結構、冷静だったんですね。そこまでめちゃくちゃ下がってないってことは。

河田 そうですね。逆に自分が先にがんになってるから、冷静になれてたっていうところはあると思いますね。

岸田 そういうことね。ありがとう。今、お母さんは大丈夫なんですか。

河田 はい、今、おかげさまで、その後、再発もなく来てるので、ありがたいかぎりです。

岸田 よかった。ただね、そこからドンと落ちてる。これが何かというのをお伺いしたいんですけど、どん、うつ病、メンタルのあれがここに来た。

河田 そんな感じですね。もともとの繊細さが悪いふうに。

岸田 もともとの繊細さがね。今まで頑張って、繊細さ、頑張ってたけど一気にここで、どんと。これは何かきっかけがあった、やっぱお母さんの件があったからとかじゃなくて?

河田 それよりもやっぱり先が見えない感じですね。大学中退して実家に帰ってしまって、でも、小中学校の友達とかとも全然会うこともなくなってるし、本当に独りぼっちっていう感じがすごくあって。しかも、バイトとかはたまにしてたんですよ、日雇いとかもしたし。

河田 でも、感じるのは田舎で高卒でしかも病気があって、副作用も強いから継続して働けないし、この先、自分がどうなっていくかっていうビジョンが全然見えなくて、しかも体はずっとつらい。なんかそういったのが続いていくと、もうどんどんどんどん気持ちが落ち込んでっちゃって、本当にうつ病に数年間、苦しんでたっていう感じですね。

岸田 そうよね、これ、結構、この期間ずっとうつ病、本当に数年間。うつ病的には治療はどうするの、やっぱお薬

河田 お薬とかカウンセリングとか、それでしかないですよね。

岸田 でも、こっから頑張って復活しているわけじゃないですか。このとき何があったかっていうと、患者会の参加で上がっていったんですか。

河田 そうですね。

岸田 それだけじゃなく。

河田 うん。でも結構、患者会、大きくて、本当に絶望的な気分のときに。ちょっと話し忘れたんですけど、すごい慢性骨髄性白血病の薬、高かったので、お金もかかる。そういうのを親に負担させているっていうのもすごい嫌で、なんかプレッシャー感じていてっていうときに、最初、泣きながらだったと思うんですけど、血液がんの電話相談やっているグループがあって、そこに電話かけたら、話を本当に最後まで聞いてくれて、慢性骨髄性白血病の患者会も近くであるから、もしよかったら行ってみませんか、みたいな感じで紹介もそこでしてもらったんですね。そこに弟と一緒に参加してみたら、本当に初めて同じ慢性骨髄性白血病の患者さんたちに会うことができました。

岸田 そこで仲間作って、それが自分のうつ病を脱出するきっかけになったってことですかね。

河田 そうですね。一つは、つらいとか同じ慢性骨髄性白血病苦しんでる人ってこんなにたくさんいるんだっていうのと、そういう人たちの中でも自分ってもしかして結構、体の副作用、重かったほうなんだっていうのを客観視できたこと、あとはそれでも今でも元気に普通に働いたりしている人たちがたくさんいるっていうことを知れたこと、その辺りがすごい励みになりました。

岸田 やっぱそう。自分だけのことだったら、それで気がめいっちゃうけど、いろんな人と客観視するっていうのも大事ですよね。

河田 そうですね。

岸田 そのときにね、そのときか分かんないですけど、いただいている写真がありますので、ちょっとこちら、どん。これ、患者会のメンバーたちとの写真っていうことですか。

河田 そうですね。瀬戸内海の夕日を眺める写真。

岸田 青春してますね。

河田 本当、遅れてきた青春って感じで。

岸田 ちょっと一番右に、だいぶ遅くなった青春をされてそうな方もいるんですけど。

河田 そうですね。

岸田 これ、全員、患者会のメンバーですか。

河田 はい、血液がんの患者会のメンバーで、結局その後すぐにではないんですけど、僕も慢性骨髄性白血病の患者会のスタッフにさせてもらうことになって、一緒に交流会とかセミナーとか、やってるんですが、他の血液がんの患者会の人たちと一緒に血液がんのフォーラムとかを全国で年に何回もやっているので、そういったときに一緒に撮った写真の一つですね。

岸田 そういうみんなで集まったときに。これはええ写真や。

河田 ありがとうございます。

岸田 はい。またまた上がってきます。それはなんででしょうか、大学再入学。また大学に入ったんですね。

河田 そうなんです。

岸田 同じ大学。

河田 同じ大学です。ちょっとこの辺、はしょっちゃいますけれど、家出同然で一回東京に出ちゃったんですが。

岸田 めっちゃ気になる、ごめん、そのとき。

河田 そのときに家出同然で東京出てから、元の大学のところとかにも行ったら、そのときさっき言った卒業パーティーのときに声を掛けてくれてた先生が覚えててくださっていて。

岸田 すごい。

河田 うちの大学にはそういう単位持ち越しで再入学できる制度もあるから、よかったら受けない?っていう感じで声掛けてくれて、それで再入学試験受けて、もう一度30手前で大学に戻ったって感じですね。

岸田 やっぱ試験は難しかった。

河田 いや、ちゃんとした筆記試験というよりは面接重視の入試で。

岸田 しっかりね。一回入ってるからね。

河田 一回入ってるのでってことで。

岸田 そうですね。転入ってわけじゃないですしね。

河田 はい。

岸田 ありがとうございます。そんな中、どん、大学再入学してそれから結構、一番上がってるところ、これは何でしょうか。臨床試験の参考。臨床試験、なんか新しい薬とかやったんですか、これは。

河田 そうなんです。これは新しい薬を試す臨床試験ではなくて、これまで飲んでいた薬をやめてみる臨床試験なんですね。

岸田 やめてみる臨床試験なんてあるんですね。

河田 そうなんです。この慢性骨髄性白血病の薬ってすごい効果があって、みんな良くなっていくんですけれど、どこまで良くなったら薬をやめていいかっていう基準が決まってないんですね。

岸田 なんか勝手な印象として、慢性骨髄性白血病の人はずっと飲んでるイメージ、一生。

河田 そう。

岸田 やめるっていう選択肢もあるんですか。

河田 僕も飲み始めたときとかしばらくは、これはもう一生飲む薬だからって言われて飲んでたんですけれど、海外の臨床試験でやめても再発しない人たちが一定数いるらしいぞっていうのが分かってきたんですね。それで日本でもかなり効果が、寛解状態になっている人たちでやめてみるっていう臨床試験がこの何年か前からスタートしてたんですけれど、そこに参加できることになりました。

岸田 へえ、参加してどうでした、どうなったんですか。

河田 ちょっと怖い気持ちもあったんですけど、再発してもまた同じ薬飲めばいいっていう説明も受けてたし、これで終わると本当いいなっていうのは、一生、飲み続けるって、体もきついし、経済的にも負担が続くわけだし、できれば辞めたい。この辞めるチャンスを生かせればいいし、他の患者さんにも僕がうまくいけば、他の人だってやめられる可能性が出てくるわけじゃないですか。そういう意味でもやるぞっていう気持ちでそのときは始めました。

岸田 そういうのもあって上がってるんですね。上がってそのまま、勝手な妄想ですけど、がくっと下がってないってことは、いい感じにいったってこと。

河田 おかげさまでその後、再発なしで今、ずっと続いてるんですね。

岸田 うれしい。

河田 しかも、薬やめた途端に体調が良くなりまして。

岸田 そっか、副作用とかがね、なくなって。

河田 そうなんです。副作用で体が、肌が白くなっちゃってたんですね。日焼けもできないような状態だったんですけど、薬をやめてみたら、数カ月で色素が戻ってきた。指の先から色が変わっていくっていうのを毎日、眺めていて。

河田 その年の夏には本当久々に海に行って泳ぐこともできたし、体重も吐き気とかがだいぶ収まってきたので、1カ月に1キロペースでその年は体重が増えていきました、同じ物、食べてるのに。それくらいちょっと違いました。

岸田 それくらい違うんや。それくらい副作用が結構でてきてたってことですね、河田さんの場合ね。

河田 そうですね。

岸田 ありがとうございます。そして最後、どん、インターンをして、その後、大学院へっていうことで、今も大学院生されていてっていったところで。結構ここに関しても何かいろいろあったんですか、これをやっていこうとか。

河田 そうですね。30代で大学生やってたわけで、その後、どうやって自分の進路を考えていこうかっていうときにがん患者さんの就労支援をしているキャンサー・ソリューションズっていうところでインターンをさせていただいたこともあり、もっと社会の中でがん患者さんがどうやって今、生きてるんだろうかとか、そういったことを考えるようになっていき、大学院で社会学をやってるんですけども、社会学者としてそういった、今、がんとともに生きてる人たちのことを少し研究していきたいなっていう気持ちから大学院のほうに進んでいます。

岸田 すごい。すてき。

河田 ありがとうございます。

【大変だったこと】

岸田 それでは、そんな河田さんのいろいろ振り返ってきたんですけれども、大きく質問をさせてください。まず一つ目が、いろんなこと、あったと思うんですが、その中で大変だったことって多分さっきの一番下がっていたうつ病のときかなとか思うんですけど、大変だったことって、どんな『とき』とか『こと』ですか。

河田 心の状態で言うと、うつ病のときっていうのが先が見えない感じ、自分がこの先どういう人生を歩むんだろうかっていうのが全く見えなくて、このまま家で1歳ずつ年をとっていくっていうのも、それもそれでリアルではないし、本当、先が見えないって不安だったっていうのが心の面では一番大変でした。

【治療費・制度】

岸田 ありがとうございます。やっぱり先が見えないって怖いですよね。本当、思います、それ。ありがとうございます。そしてそんなときに、さっきお薬は高かった、みたいな話も言ってましたけれども、結構、実際どうでした、高かったですか。

河田 高かったですね。一番最初の頃は1回の支払いで30万円ぐらい薬代だけでかかって、しかも院外処方で処方箋出てたので、薬局に札束を持っていく感じですよね。

岸田 なんかすごい30万円、ばーん、みたいな。

河田 それも自分のお金ではなくて、毎回毎回、親が引き出してくれてきてっていうのを持っていくっていうのをすごい心に重く、毎回毎回のしかかってきて、主治医にもうやめたいって最初の頃、特に最初の頃はもう飲みたくない、みたいなことを言っていたぐらいでした。もちろん親の払ったお金も、年末とかには高額療養費制度で還付される仕組みにはなっているので、大丈夫だからって父親とかも言ってくれてたんですけれど、それくらいやっぱりお金がかかってるっていうリアリティーっていうのは常に持っています。

岸田 そうですよね。30万円、毎回、持っていくっていうだけのプレッシャーあるよな。けど、限度額認定証みたいな制度ができて、それ以降はね。

河田 そうなんです。認定証が、制度ができてからは本当に、かかるときに窓口とか薬局で見せれば、限度額所得に応じた限度額でよくなったので、すごいそれは楽になりましたね。

岸田 ですよね。気持ち的にもね、楽ですし。

河田 気持ち的にすごく楽になりました。

岸田 保険とか入ってなかったんですか、ちなみに。

河田 当時は自分がどんな医療保険に入っているかとかっていうのを考えたこともなかったので、なんか全部、親にお任せっていう感じでした。

【まとめ】

岸田 ありがとうございます。副作用は体の痛みだったり、けいれん、筋肉のつり、下痢、吐き気、肌が白くなる、体重減少といったことがあって、当時の生活の変化、大学に通えなくなったりとか、そして東京から田舎に実家にも戻っていったということですよね。それも結構つらい部分でもあったんですかね。

河田 そうですね。東京に行けたの、うれしかったんですよ。よっしゃ、実家から出られたぞ、みたいな気持ちで最初大学に進んだので、戻ってきちゃった、みたいなのはありました。

岸田 その後、家出同然のことをしてしまう可能性はあるんですけどね。

河田 そうですね。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 高額療養費制度を使っていたということになります。ありがとうございます。そして最後にお聞きしたいのはこちらになります。このがんの経験を通して、河田さんが学んだことっていうのをお伺いしたいなと思います。河田さんががんの経験を通して学んだこと。こちら、どん。

河田 がんの経験を生かせるタイミングがいつか来るということです。

岸田 これはどういうことでしょうか。

河田 この言葉だけだとやっぱり月並みな話ではあるんですけれど、いつかやっぱり僕、今の自分があるのはやっぱがんになって、がんの仲間たち、患者会とかいろんな『がん友』とか含めて、そういったがんになってからできた友人たちっていうのも多いですし、それにこういう研究者としてやっていけるのも、自分の経験っていうのがないってことはやっぱりあり得ないことです。

河田 そういった意味では自分ががんになった経験を今は生かせているので、いつか生かせるってことなんですが、ただ僕、ここをそういうふうに思えるようになるまで、やっぱりすごい長くかかったんですね。

河田 人によっては、自分ががんになった経験とかつらい思いっていうのをすぐに社会の役に立てるとか、あるいは、自分の人生の役に立てるってことができる人もいると思うんですけれど、ただやっぱり、そうすぐにはうまくいかないことってあるし、つらい時代、本当につらい気持ちとか、あと、体が本当につらいとかっていうのが結構、長く続いてしまう人もやっぱり僕と同じでいると思うんですね。

河田 そういう人たちがもし今、見ていたら焦らずに、いつかそういったことは、何かそういう自分の経験を生かせるタイミングがいつか来る、そのときに生かせればいいんじゃないかなって思っていて、そういった意味も込めて、いつか経験が生かせると書かせてもらいました。

岸田 そうですよね。河田さんのその、ずどんときてる、うつになっているタイミングがあるからこそ、その言葉ってすごく刺さるなっていうのは思いますね。いつかって、だってその2年間は暗黒時代なわけですよね。

河田 そうですね。そのいつかっていうのを待つまでが本当につらいと思うんですけれど。

岸田 けど、いつかは上がってくるタイミングが来ると。

河田 そうです。

岸田 河田さんの場合は、それが患者会に知り合ったことだったりとかしたということなんですね。いろんなタイミングが人それぞれであると思うので、本当に焦らずというか。『がんノートmini』のこの動画を見ていても、焦らず自分のタイミングが来るっていうのをね、僕も知り合いで15年ぐらいかかった人とかいますしね、ちゃんと自分のことを話せるようになったっていう人。だったんで、やっぱりそれぐらいいろんな人がいると思います、本当に。すぐケロッとする人もいれば、人それぞれだと思いますので、焦らずということですね。その中、本当に、河田さん、本当にきょう、お時間いただきましてありがとうございます。

河田 こちらこそ、話す機会をいただけて、ありがとうございました。

岸田 めっちゃ勉強になりました。では、きょうの『がんノートmini』、これにて終わっていきたいと思います。さようなら。バイバイ。

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