目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:山添

【オープニング】

岸田 それではがんノートmini、スタートしていきたいと思います。よろしくお願いします。

山添 お願いします。

岸田 きょうのゲストは山添さんです。きょうはよろしくお願いいたします。

山添 よろしくお願いします。

【ゲスト紹介】

岸田 早速なんですけれども、山添さんの自己紹介をスライドでさせていただきたいと思います。こちらになります。山添さんは東京のご出身で今お住まいも東京と。経営コンサルタントのお仕事をされていて、趣味が料理、ガーデニング、バイオリンと多彩なんですけれども、結構料理されるんですか。

山添 料理は治療が終わった後に休職させていただいていた間に、近所のお料理スタジオで料理のレッスンを取らせていただいて。あともうコロナで外食できなかったんで一生懸命、家でおいしいもの作ろうと思ってどんどんどんどんはまっていくという形でやってます。

岸田 ちなみに習った料理で得意料理とかあったりしますか。

山添 パエリアとかは何度も作って。昨日の夜もローストポーク、イギリスのサンデイローストっていうので習いまして。低温でゆっくり焼くっていうのをやってしっとりでき上がって家族からも好評でした。

岸田 すごい。低温で焼けるというね。

山添 時間かけて。

岸田 柔らかくなるんですよね。

山添 柔らかいんですよ。自家製の梅干しとか梅のジャムとかそういうのを作るようになっちゃったんで。調味料も手製で。だから昨日は豚の肩ロースに自分の作った梅ジャムをマリネしてとかそういう感じではまってますね。

岸田 すげえ、ガチや。そういう料理やガーデニング、バイオリン、多彩な山添さんですけれども、がんになったがんの種類は急性リンパ性白血病ということになります。告知年齢は43歳、現在は46歳といったところで、治療法は薬物療法といった形になります。山添さんよろしくお願いします。

山添 よろしくお願いします。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 では早速なんですけれども、山添さんのペイシェントジャーニーをお伺いしていきたいなということを思っております。ペイシェントジャーニーこちらになります。どんという形でですね、もう紆余曲折な、上に行けば行くほどハッピー、下に行けば行くほどアンハッピーということでですね。

岸田 どういうふうな経過をたどってきたのかといったところをグラフにさせていただいております。では早速山添さんのペイシェントジャーニーをお伺いしていきたいと思うんですけど。まず一つ目ちょっと上がっているところ、どんと。コロンビア大学の大学院入学、いきなり海外から入ってくるんですけれども。コロンビア大学って結構、聞きますよね。結構名門じゃないですか、これ。

山添 ニューヨークにある大学院ですね。

岸田 NHKでコロンビア大学のNHKの教育テレビをやってたような気がする。

山添 偉い先生がたくさんいらっしゃると思います。私は違いますけれども。

岸田 いやいや。何で入学しようと思ったんですか。

山添 私がアメリカの高校、行ってまして。その後日本の大学に戻って日本でずっと働いていたんですけれども。またやっぱりもう一度高等教育アメリカで受けたいなっていうのと、あと今、サステナビリティとかすごい言われてますけれども、当時、私はサステナビリティとかそういった環境経営とかそういったことをやりたくて。日本の学校よりも欧州とかアメリカで学びたいなと思ってそれで留学、決めました。

岸田 すげえかっこいい。そんな中ですね、一番どーんと下がっているんですよね。いきなりマイナス10になっていく。何かというと第一子の死産ということでここは触れても大丈夫なんですか。

山添 はい。留学中に妊娠しまして。それでニューヨークで出産予定だったんですけれども、本当に予定日のその日に心音が聞こえないということで。死産をニューヨークでして、もう本当にショックで。

山添 大量出血したので体調も悪くて、もう本当にどん底ですね。多分、今までの人生で一番のどん底だと思います。その後もかなり時間をかけて自分の体を戻すというのと、精神的なところもかなりつらかったですね。

岸田 そっか。それはきついですね、本当に。ただあれですよね、この経験があったからこそというか、がんの治療されたときにこういうふうにがんノートに貢献してくださったり発信しようということを思ってくださったんですよね。

山添 そうですね。あまりにもつらくて誰にも話したくない、誰とも話したくない、結構、内向きな形の時間を過ごしていたんですね。と同時につらい思いをしている女性がたくさんいるっていうのも、妊娠関係ですね、出産関係というのはもう分かったので。

山添 本当は自分が育てた子どもを授かれたので、自分の経験をシェアしたりとかできたらいいなと思っていたんですけれども。やっぱりなかなかできなかったということがありまして、今回のがんの治療に関しては、今元気になれたので、社会に恩返しをしたいといいますか、今頑張っている方の支えになりたいなというふうに思って積極的に今回は活動していこうかなというふうに思っています。

岸田 ありがとうございます。そういった思いで出ていただいて感謝です、本当に。そんな中、上がっていきます。それが先ほど触れさせていただいたご長女の出産だったりだとか、そして転職活動、そして次女の出産といった形になります。お子さん生まれて本当に良かったです。

山添 そうですね。本当にほっとしました。

岸田 そんな中ですねここから下がっていくんですよね。皆さんもお察しのとおりにはなるかと思うんですけれども。そこからどう下がっていくのか。下がっていく、昇進と書いてます。

山添 昇進すると本当にどんどん忙しくなってしまって。子どもも2人に増えていて大丈夫かなというのと、やっぱり慣れないことをしていく、あとは経験が増してくるとプロジェクトマネージャーとしてさらに忙しくなるというので、本当に自分の時間が全くないっていうような生活を子ども2人抱えながらしていましたね。なので余裕が全くない。私もないし多分、子どもたちも大変だったと思います。

岸田 そうですよね。しかも先ほどあった経営コンサルタントのお仕事ですもんね。なかなか頭も使うし。

山添 周りの方は長時間仕事をしているところを私は育児勤務という制度を使っていて、夕方は家に必ず帰るという生活だったので。その中で周りと足を引っ張らないで自分の価値を出すというところで、もんもんと何ができるのかなって悩みながらやっていました。

岸田 やっていた時期が超忙しい時期があって、そこからどんと行きました。いきなりここで急性リンパ性白血病を告知されていくんですね。

山添 そうですね。会社の健康診断を受けて。毎年変なものが見つかないといいなって思いながら、40歳過ぎてからそういう感じで受けていたらまさかって思うほどひどいのが見つかっちゃったっていう。でも自覚症状はゼロでしたね。

岸田 ゼロなんですね。

山添 ゼロなんです。だからもう本当、驚きました。

岸田 会社の健康診断で血液の値がちょっとよくないよっていうので。

山添 もう白血病細胞が70パーセント血中に出てますっていう。だから間違いはないですよね。もうそういう感じです。

岸田 そこから大きい病院に行って、検査して結構もう即入院的な感じです?

山添 そうです。分かってその日に入院を本当はしなくちゃいけないけれども、子どもさんがいるんだったら1日だけ猶予、準備する。だから明後日に来てくださいって言われて。だから健康診断を受けてから本当1週間とか10日以内にもう入院生活が始まったって感じですね。

岸田 そうなんですね。入院生活始まって、そしてそんな中、ちょっと上がっていきますね。医師からの説明、これはなんで上がっているんですか。

山添 白血病って言われたときに私も全然医学の知識がないもので、もう治んないのかなとか、いつまで生きられるのかなってすぐさっと思ったときに目の前が真っ暗になって。それも初めて体験だったんですけど、なりまして。

山添 下向いて先生の話、聞いてたら、先生が結構、普通に最近は白血病って治る病気になってきたんですよねって言うんですよね。本当なんですかって言ってびっくりして。ただし長いんですよ、治療が。最低半年かかります、半年入院ですから、それはもう変えられないって言われて。

山添 でも治るんだったら、治すためにやれることを全部やろうと思って。そこで急に治る病気だって知れたときに気持ちは戦闘モードっていうか治そうって思いましたね。子どもがいるからもう治さなきゃなって思ったんで、それでちょっとグラフ上、上がってました。

岸田 上がって頑張って治そうといったところで。このときに先ほどお子さんがお二人いらっしゃると言ったところでお子さんにはどう伝えたんですか、そのとき。

山添 当時、小学校5年生と小学校1年生の娘だったんですけれども。最初はやっぱりあまり難しいこと言っても分からないし、かといって簡単な病気だって言っても入院が半年っていうことなので、それも良くないだろうなと思って。

山添 血液の病気で治るけどすごく時間、かかるみたいだから最低半年、夏、8月入院したんで1月まではもう帰れないらしいよっていうのは正直に言いましたね。あんまり軽いって言って、期待、持たせてもよくないかなと思いました。

岸田 お子さんたちもそれを受け止めてくださってという感じですかね。

山添 やっぱり我慢はしなくちゃいけないけど、治るんだったらしょうがないかっていう形で。でも途中くらいからもう白血病っていうふうに言葉も使って大変な病気だけど、治療頑張るからっていうふうに伝えてましたね。池江さんの例もありましたし。

岸田 そうか。ありがとうございます。そしてその中からまた下がっていくんですよね。これがどん底になったの何かというと、薬物療法ですね。寛解導入療法といわれ大量に抗がん剤を入れるというふうな治療をされていったと。この中で印象が残っていることとかありますか。

山添 腸閉塞に副反応になってしまって。ものすごいおなかが痛くなって、のたうち回るような痛さなんですけれども。それがちょっと落ち着いて1週間くらいたって、寝たきりで絶食しているときに右手でiPhoneを取ろうと思ったら持てないんですよね。

山添 重いなあと思ってベッドに寝転がりながらこうやってみようと思ったら、支えられないんですよね、右手で。左手で持つとちゃんとできるんで、筋力がなくなるとかよく言うじゃないですか、寝たきりで。

山添 でも左手の筋肉があるのに、右手が何でだろうと思って。右手だけ筋力がなくなるなんてことがあるのかなと思って、なんかやってるんじゃないかと、右手の手があんまちゃんと動かないんですよね。

山添 何でだろうなと思って先生に聞いたら、まさかとは思いますけどちょっとMRI、CTとか取ってどうのって言われて。確認したらやっぱり左の左脳に膿瘍という膿みたいなものができてまして。右手がやっぱりまひして動かなくなってたっていう。

山添 それが分かったときはもう衝撃で、白血病の治療のために治療してたら右手がまひして、それってどういうことなんだろうなって。これ治んなかったら白血病、治っても右手が動かない人間として退院することになるのかとか、いろんなこと考えまして。

山添 もう本当に手が固まって曲げられないみたいな。もうだから鉛筆も持てないし、字も書けない、お箸も使えない、いろんなことができなくなっちゃって大変でした。もうすごいピンチって思いました。

岸田 膿瘍って頭に膿ができることってあるんですね。

山添 すごいレアケースみたいで、何が原因なのか明確なことは分からないけれども、血液にのって脳まで血栓というか膿みたいなものがいってそこにできちゃったんじゃないかっていう説明で。その前、おなかがすごい痛くて死にそうだったんですけど、それが落ち着いて右手が動かなくなったっていうときは本当に。

山添 あと髪の毛が抜けた時期と重なってまして、もう髪の毛もどんどん抜けてってるし。何ですかね、三重苦。本当にこの世の何ですかね、悪いことしたのかな私はっていう、罰を受けてるような気になるぐらいで。右手、利き手なんで、本当にびっくりしました。

岸田 いや、それ、きついな。右手動かない、利き手ですよね、右手は。

山添 そうです。何もできないんですよね。コンタクト、入れるのに30分みたいな。

岸田 治療としては何するんですか、そのときは。

山添 抗生剤を投与するっていう。抗がん剤はストップして抗生剤を入れるっていう治療なんですけども。男性が基本なんですよね、医療の世界って。男性80キロの人にこれだけの量のこの抗生剤を入れるっていうそういうデータがあって、私は半分の量でいいよね、体重半分だからみたいな形でいったらなかなか効かなくて。

山添 効かない効かないっていってまたすごいストレスで。ちょっと量を変更していただいたらぐっと効いて。あとリハビリと。動くようにだんだんなっていったっていう。でも精神的に結構つらかったですね。時間もかかりました、2カ月弱。抗生剤の治療とリハビリの日々で白血病の治療はできないっていう。

岸田 白血病の治療できないんや。

山添 だからもうつらいですね。入院期間がどんどん延びる。また退院が遠のいちゃったなっていうので、そういう意味で精神的につらい時期でしたね。

岸田 リハビリってどんなことしたんですか、そのときは。

山添 本当に1本1本の指を動かすっていう、こういう動きを何回もするとか。あとは腕の筋力をつけなきゃいけないっていう、腕の肩から動かして筋力をつけるっていうのとか。いろんな5パターンぐらい医療療養室の先生に考えていただいて、あと眉毛を描く動きがお化粧ができませんとか言うと先生が考えてくださって、こういう動きとか。

岸田 眉毛を描く動きのリハビリみたいなものがあるんですか。

山添 作ってくださったんです。こういうので困ってるとか言うと。そういうので考えていただいて。だからカスタマイズしてくださって、とてもいい先生で。それをもう一生懸命、朝昼晩、朝昼晩、ストップウオッチ、ちゃんとタイマーかけて続けて。そしたらある日、腕が軽くなってちょっと動くようになった。

岸田 そうなんですね。じゃあ動くようになって今は大丈夫ですか。

山添 今は動くんですよ。はい、普通に。完璧じゃないですけど。でも昔と比べても90パーセント、95パーセントは同じ動きができる状況になりました。

岸田 そんな白血病の治療してて腕が動かなくなるって想定外ですよね。

山添 全く考えてなかったですね。

岸田 そんな本当につらいところを乗り越え、次は地固め療法といったところで、ここでもいろいろ薬物療法していったと思います。このときはどうでした? このときはまた次、左手がとかにならなかったですか。大丈夫でした?

山添 地固め療法に入った頃からすごく安定した患者になりまして。感染症にもなりませんでしたしほとんど発熱もしないで。もう淡々とこなすっていうフェーズに入ったんですね。最初の寛解のための治療のところでいろいろ大変な副作用があったんですけれども、その後は逆に時間はかかりましたけれどもあまりトラブルなくこなしていきました。

岸田 良かった。本当いろんなことがあったんで、その副作用がつらかったらどうしようかと思いますけど、本当。ありがとうございます。そこから上がっていきます。退院ということで、ようやくここで退院できるんですね。どれくらい入院してたんですか。

山添 9カ月ですね。地固めになってから結構状況も落ち着いていたので、サイクルとサイクルの間に自宅に帰らせていただいたりとか、そういうのもしてきたので、9カ月ずっと入院してたわけではないんですけども。その間にちょっと2、3日、帰してもらったりとか、そういうのができましたけれども。基本的には退院をきちんとさせていただいたのは9カ月たってましたね。8月に入って4月。長かったです。

岸田 そんな中またそれと同じようなちょっとハッピーな出来事としては、ご長女の中学受験ということで

山添 5年生のときに入院したので、6年生のときは一緒に過ごして。受験のときは伴走してサポートして、無事に受験終わりまして。気になっていた家族的なプロジェクトがここでやっと無事終わったっていう感じでしたね。

岸田 またここについてはまた後でもお話ししていただきたいと思います。その中でちょっと下がっていきます。下がっていくけど別にポジティブな、赤色がポジティブで青色が・・・。

山添 そうですね。

岸田 普通に比べたらってことですね。

山添 はい。受験、終わってからあんまりイベントがないような生活をしてたんですけども、自分の体験を書こうかなと。書き残して皆さんに読んでいただいて役に立てたらなという発想を持ってたので。取りあえず全然そういう経験がなかったので、ライティングゼミオンラインで取り始めました。

岸田 ライティングゼミを行って、そんな中に治療が終了していく。退院してからも治療してたんですね。

山添 はい、そうなんです。維持療法といいまして、パウダーの抗がん剤とステロイドを飲み続けるという治療をしていました。なので、家に帰ってきてからも副作用はあるような日々で。やっぱり白血病って発症してから丸2年、私も急性リンパ性白血病の場合は治療をするというのが普通の標準的な治療みたいで。

山添 結局、家に帰ってきてからも外来でいただいた薬をきちんと先生に言われたとおり飲むというのを続けてまして、やっと2020年の8月にそれが終わったと。

岸田 そうなんですね。それを含めたら結構長いですね。

山添 丸2年ですね。

岸田 丸2年ですよね。そしてそんな中にようやく治療が終わって、執筆活動をしていき、そして本を出版されるといった中でのようやくライティングゼミから執筆活動から本を出版っていや本当に有限実行感が半端ない感じですね。

山添 本当に偶然。偶然、出したっていう。

岸田 そんな山添さんのもしよかったらこの書いた本を紹介していただけますか。

山添 『経営コンサルタントでワーキングマザーの私ががんにかかったら』という本のタイトルなんですけども。副題が仕事と人生にプラスになる闘病記って。あんまりつらい話とかよりはこういう思考をして、こういうつらいときは乗り越えたっていう結構ポジティブな内容になってまして。

山添 忙しく仕事されてる方とか子育てされてる方で、もしも体調、悪くなったらどうなるんだろうってちょっと心配されているような方、今、元気でもですね、そういった方にも読んでいただけるような内容になってます。

岸田 それはアマゾンとかで検索したら・・・。

山添 普通に出てきます。

山添 ぜひ皆さんもご覧になっていただければなと思っております。結構見やすくハウツー的な感じでもなっておりますので。ぜひよろしくお願いします。そして、そんな中、復職をされていくといった中で、結構、復職どうでした? 大変でした?

山添 大変でしたね。結局、丸3年休んだことになるんですけれども。実はちょっともっと前に復職する計画を立てまして。それこそ治療が終わった2020年の夏に戻ろうかなと思って会社とやり取りしていたんですけれども。

山添 帯状疱疹になってしまって、やっぱり免疫力がまだ全然他の人より低いんだよねっていうので主治医から延期したほうがいいんじゃないかって言われまして。その頃、コロナもまん延し始めてたので、2021年今年の1月に延期しましょうという話になったら、今度はワクチン接種してからのほうが緊急事態宣言の最中にする必要、白血病、治してね。

山添 白血病の罹患者って、感染症、特に肺炎になるとよくないというふうに先生がおっしゃってまして。今度はワクチンをちゃんと接種してからにしたらっていうので2回目の延期になって。復職する詐欺みたいな感じで。夏にやっとワクチン打てて10月に復職したところです。ちゃんとしました。

岸田 ようやく。復職してどうです? 結構ばりばりできる感じですかね。

山添 全然ばりばりじゃなくてですね。リハビリ勤務制度というありがたい制度が会社にありました。それで時短の勤務を半年させていただけるということになってまして、まずそれを利用しています。あとはPCも全部返却しちゃってたので、PCセットアップから始めたんですけれども。

山添 ソフトが変わってたりとか、いろいろ忘れていることが大量にあって、一生懸命、今、脳の奥のほうにしまわれている記憶を一生懸命たどって。この3週間でちょっとは戻ってきましたけど、でも全然まだまだ当時の感覚では全然ないですね。何するにも時間がかかる。

岸田 数年ぶりに戻るとソフトが変わっているとか環境も変わっているとか全然ありますよね。

山添 そうですね。人も変わっていますし。

岸田 それを慣れていくといったところを今、されているというところですね。

山添 そうです。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 そしてそんな山添さんのゲストエクストラに関してなんですけれど、大変だったこと、困ったことっていうところが治療中の子育てや、先ほどありました長女の中学受験ということです。これ、どういうところで困ったんですか。

山添 子育てでいうと、食べる寝るそういう基本的な通学とかは両親が頑張って助けてくれてやれてはもちろんいたんですけれども。細かいケアってなかなか難しいなって思いました。

山添 なので、お母さんのママ友の方にいろいろ学校に持っていくものの忘れ物がないかとか、イベントがあるときはこういう準備をしなくちゃいけないとかそういったことを見ていただいたり、あと週末に家にずっといて寂しい思いをするのもかわいそうだったので、一生懸命連れ出してもらうようにLINEを使ってお願いしたりとか。

山添 やっぱり周りの基本的なところは両親がやってくれたので、主人が単身赴任で月金いなかったので、そういう学校のあるとき両親がもちろん助けてくれたんですけど、やっぱり友達がすごく支えてくれました。

岸田 質問なんですけど。山添さんは入院してるじゃないですか。旦那さんは単身赴任じゃないですか。家はどうなる。お子さんご両親の・・・。

山添 両親が泊まり込みで来てくれまして。やっぱり学校が近所の学校なので、子どもたちが移動するより私の両親が家に来てくれたほうがありがたかったので、泊まり込みできてくれてましたね。

岸田 そういうふうな形で乗り越えられたんですね。そしてご友人の助けだったりだとかで、細かいところのケアをしてくれた

山添 細かいところはやっぱり現役のお母さんが一番細かいところを気付くじゃないですか。小学校、長女が1年生の頃ぐらいから仲良くしてたお母さんたちに助けていただきました。いろいろ本当に感謝ですね。

岸田 ママ友ネットワークとか大事なんだな。

山添 そうですね。あと大学時代の友達で近所に住んでいる友達もよく来てくれましたし、大学時代の友達でお子さんいるとこのお家の人がハロウィーンだからって誘ってくれたりとか、ありとあらゆる女の友達が本当貴重で助けてもらいました。

岸田 そういういざとなったら周りの人に頼ることも大事ですもんね。

山添 そうですね。

岸田 僕、なったら3次元じゃなくて2次元の人たちが助けてくれる。こういう大事な・・・。

山添 そうですね。白血病の病棟って子どもが入ってこれないんですよ。中学生以上じゃないと入ってこれなくて。ガラス越しとかそういうレベルでお見舞いとか。私の血球が上がってきたときに、私が違うフロアに行っていいよって先生に言われたときだけ会えるとか。

山添 本当に厳しい環境なんですよね。それプラス長女は中学受験の準備もしてたりしてたので、同じ塾に息子さんが通っているお母さんが細かく情報を教えてくれたりとか、本当に中学受験も周りのお母さんがいろいろ教えてくれて助けてくれました。

岸田 それで無事に乗り越えられたって形なんですね。

山添 そうですね。あとお医者さんで勉強することにはすごく理解がありまして。先生に受験で大変でどうしても娘のテスト前の勉強を見たいって言って、じゃあしょうがないから会議室1時間だけ、血球が落ち着いているときですけど、貸してくださったりとか。

山添 お医者さんはお勉強はみたいな。勉強が大変でって言って泣きついて会議室を貸してくださったりしました。点滴しながら子どもの勉強を見たりとかしてました。

岸田 そういうの、いいですよね。サポートをね。

山添 本当に先生がたもよくしてくださいました。

【がんの経験から学んだこと】

岸田 ありがとうございます。そんな山添さんががんの経験から学んだことについてお伺いしていきます。それはこちらになります。楽しみを見つける訓練を。これはどういうことでしょうか。山添さんお願いします。

山添 がんの治療は肉体的にもかなり厳しいですけれども、それと同様に精神的にも本当につらいと思います。なので、そういうつらいときに自分の気持ちを上げることができるかどうかというのがかなりの大きなポイントだと私は感じたんですけれども。

山添 そのつらい入院生活、治療も大変なときに小さなささやかな楽しみみたいなものを自分で見つけられるかどうか大きなって思いました。自分をチェアアップする方法みたいなものを持っていると強いかなと感じまして。

山添 私の場合は音楽とか食とかそういったところだったんですけれども。食べれなくても退院したときに何食べに行きたいかなって考えたりとか、そういう楽しみを見つけて精神的にテンションを上げるっていう。そういったことを入院したときにできるように、日ごろからそういう訓練をしているといいかなと思いました。

岸田 ありがとうございます。楽しみを見つける訓練、僕も入院してたときは旅行に行きたいなとか考えましたね。

山添 そうですね。そういう楽しいことを考えられたりとか自分を褒めるというか肯定する、否定しないというのもすごく重要だと思います。

岸田 自分を否定してったら暗くなっていっちゃいますよね。

山添 そうなんですよね。自分を否定しても何もいいことなくて、自分を否定してあれをしていたからこんなになっちゃったのかな、あれが良くなかったのかな、だからこんな病気になっちゃったのかなとかいう多分、皆さん、思うと思うんですけど。

山添 私もちょっと思ったりしましたが、そういうことを考えても悪循環に入るだけで。そんなことよりかは治療に向かっていくというか、退院した後の生活をイメージしてポジティブに乗り越えて治療、つらいんですけどね、治療。でもやっていくというほうがやっぱり精神的には絶対いいと思います。

岸田 同じ時間を過ごすんだったらネガティブになるんじゃなくて、できるだけポジティブに、そして楽しみを見つけながらやっていくという。山添さんの闘病の仕方というふうなことですね。ありがとうございます。

岸田 山添さんのアメリカの話から始まり、そして復職して今後もご活躍されていくといったところで、ご本も出版されたりだとか、本当にいろいろ僕自身も勉強になりました。やっぱりネガティブじゃなくてポジティブに日々を過ごしていきたいなとあらためて思いました。そんな山添さん、きょうは本当にご出演いただきましてどうもありがとうございました。

山添 ありがとうございました。

岸田 ありがとうございました。これにてがんノートmini終了していいたいと思います。どうも皆さん、ありがとうございます。

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