目次
- 【オープニング】テキスト / 動画
- 【ゲスト紹介】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【大変だったこと→乗り越えた方法】テキスト / 動画
- 【 メッセージ】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:木村
【オープニング】
岸田 それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは木村まどかさんです。よろしくお願いします。
木村 お願いします。
【ゲスト紹介】

岸田 きょうはMCを務めさせていただいておりまして、まどかさんのいろいろ、聞いていきたいと思っているんですけれども、そうなんです。もう言ってしまっていますけれども、きょうのゲストは、木村まどかさんです。よろしくお願いいたします。
木村 お願いします。
岸田 早速、木村さんの自己紹介のプロフィールですけれども、出身が新潟県、そして居住地も新潟。お仕事が塾の事務をされていると。趣味がダンス、料理、ケーキ、パン作りということで、料理ができる女性、そしてケーキやパン作りができる女性はすてきだと思うんですけれども、どんなものを作ったり、ケーキとパンとか、普段はどんなふうに作られているんですか?
木村 そうですね。ケーキは家族の誕生日とか、あとはクリスマスとか、イベントが多くて。そのときに作ります。パンは、「明日食べたいな」と思ったときに、前の日に作ったりします。
岸田 すごい。そんなすぐ作れるものなんですか、パンって?
木村 結構、やっていくうちにどんどん道具とかがたまってきて、常に何かしら作れるようになっています。
岸田 どんなパン、作るんですか? 例えば?
木村 本当に決めずに食パンを作るときもありますし、家族からリクエストがあれば「甘い系がいい」「しょっぱいのがいい」と言われて、それに合わせて作ったりします。
岸田 クロワッサンとかも普通に?
木村 クロワッサンも前に1回作りました。
岸田 フランスパンって作れるもんなん?
木村 作りますね。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 すげえ。そんな、パン職人じゃなかった木村さんなんですけれども、がんの種類が急性リンパ性白血病ということで、ハイリスクになっています。告知年齢12歳ということで、小児がんの経験者ですね。今の年齢が26歳、そして薬物療法を経て今に至っているということですけれども。早速、まどかさんのペイシェントジャーニーを伺っていきたいなと思っております。

岸田 ペイシェントジャーニーって、上に行けば行くほど気持ちが上がっているとき、下がっていくとき、右に行けば行くほど時間の流れを示しています。吹き出しが出てくるんですけど、ポジティブ、ネガティブ、どちらでもない普通のこと、そして治療など、色分けをしておりますのでご参考にください。
岸田 まどかさんのペイシェントジャーニーは、こんな感じになっております。12歳から今に至るまで、本当にさまざまなことをいただいているんですけれども、早速こちらに入っていきたいと思います。まず初めに、一番上がっているときは「バレエの発表会に向けて練習をしていた」ということで、バレエを習ってらっしゃったんですか?
木村 そうですね。小学校3年生くらいのときから、モダンバレエっていう。
岸田 バレエってあれじゃないの? 白鳥の湖的なやつじゃないの?
木村 それよりは、今でいうコンテンポラリーみたいな。
岸田 ちょっと待って、どういうこと?
木村 結構、あそこまでクラシック音楽にとらわれず、いろんな曲で踊るような感じです。
岸田 そういうバレエもあるのね。そんな中で、そこから下がっていくわけですよ。何かというと、こちらになります。救急搬送。いきなり倒れて、その後すぐ入院して告知を受けるという。序盤からバタバタで大変だったと思うんですけど、緊急搬送はどういう状況でされたんですか?
木村 そのバレエの発表会の日自体が、体調があまり良くなくて。発表会が終わって、その日の夜ですね。「もう寝ようかな」というときに足がすごく痛くなって、寝れなくて。家族と話していたら急にけいれんし出して、私が。それで親が「これはまずい」と思って救急車を呼んで、そのまま近くの総合病院に運ばれたという感じで。
岸田 そこの総合病院に行って、そこで即入院していく感じなんや、もう?
木村 そうですね。もうその総合病院で「これはもう帰れない」みたいになって。しかもその病院では診れないから、大きい病院を紹介してもらって。その日に入院、という感じでした。
岸田 その日に入院で、大きな病院、それはがんセンターかな?
木村 そうですね。
岸田 がんセンターに行って、そこで告知もそのときに受ける感じ?
木村 そうですね。多分、入院した次の日くらいにはもう告知されていて。
岸田 まだこのとき12歳やん。12歳のときに、もう自分にも告知されたってこと?
木村 そうです。もう、すぐ。
岸田 受け止めとしてはどうやった? 受け止められた?
木村 もう、がんセンターっていう病院名を聞いた時点で。
岸田 ああ、そっか。確かに。
木村 「なんかやばいな」と思って。すぐ治療しなきゃいけないんだろうな、みたいな感じで。受け止めるとか考える暇もなく、流されるままという感じでした。
岸田 そうやんな。すぐ治療していかなあかんしな。治療していく中で、ここから下がるんですよ。このときから、すぐ薬物療法してたのね?
木村 そうです。すぐに。
岸田 薬物療法していって、副作用で膵炎になっていく。そして転院して治療が中断していく。これはなかなか大変やけど、抗がん剤の副作用で膵炎になったってことやんな?
木村 そうですね。抗がん剤の説明の紙に、副作用がいろいろ書いてあって、吐き気とかはよくあるんですけど、ちっちゃい字で「重篤な副作用に膵炎があります」と書いてあって……その“ちっちゃい文字の膵炎”になっちゃって。
岸田 膵炎って、どうなん? 痛いとかあるん? 高熱が出るとか?
木村 いや、もう脇腹が「走ったときに痛くなるやつ」の“すごいバージョン”みたいな。本当に「話しかけないで」レベルの痛みです。
岸田 膵炎になったから、転院したん?
木村 そうですね。外科的な手術まではいかないんですけど、膵炎ってどっちかというと大人の病気で、小児科より内科の先生のほうがプロなんです。なので、集中治療室もある大学病院に転院して、ずっと集中治療室みたいな感じで。
岸田 だから、抗がん治療もできなくて、治療が中断していったってことね?
木村 そうですね。
岸田 このとき、一番下がってるから、かなり大変やったよな。もう痛かったよな?
木村 私自身は「痛い」という記憶しかないんですけど、多分そのとき意識もあまりなくて……。だから後から親に聞くことのほうが多くて、それを聞くと「ああ、すごく大変だったんだな」と思いました。
岸田 そっか。そこから、それを経て、また上がっていきます。こちら、「車いすで卒業式」ということで?
木村 小学校の卒業式に、どうにか間に合って。
岸田 車いすで卒業式に出たという形ですね。そこからまた治療が再開していくと。このときは、ずっと治療中断が続いてたわけよね?
木村 そうですね。しっかり回復してからじゃないと治療できなかったので、結構空きましたね。
岸田 そこから治療が再開していって、次が退院して通院治療に移ったということか。そこからは普通に治療再開できて、重篤な副作用もなかった?
木村 そうですね。膵炎になった原因の抗がん剤は、その後は使わないことにして、それ以外の薬物療法で進めて、そこは順調にいきました。
岸田 なるほど、ありがとう。そして、そこからまた少し上がっていきます。上がっていくと安心するんですけど(笑)。次は、治療が終了して、高校の入学に向かうのかな。無事治療が終わったら、高校入学もスムーズにいけた?
木村 そうですね。ちょうど治療の切れ目が3月だったので、「高校に行く前に治療を終わらせちゃおう」みたいな感じで。
岸田 「高校あるから終わらせろ!」みたいな雰囲気ね(笑)。ちゃんと期間は決まってるんやろうけど。
さらに上がっていく中で、次は「公立高校から通信制の高校へ」ということで、転学? 転校したってこと?
木村 はい。公立の学校はルールがあって、単位を取らないと卒業も進級もできないんですけど、治療が終わったとはいえ体力が本当になくて。ちょっと風邪を引くと平気で1週間休んだりしていました。
岸田 免疫が下がっていたから?
木村 治らない、というのもあって。それで単位が危ないとか、体育に出られなくて成績のつけ方が難しいとか。留年が頭をよぎったんです。でも留年しても、また体育ができなかったら、また留年するかもしれないし……。
岸田 そうやんな。
木村 「このままじゃ一生高校生なんじゃないか」って思って。
岸田 一生、卒業できへんみたいな感覚ね。
木村 それがあったので、親とも相談して、もっと融通が利く通信制の高校に行こうということになって、通信のほうに行きました。
岸田 通信制高校ってどうなん? 単位とか、そういう融通はやりやすくなるん?
木村 そうですね。体調がいいときに高校へ行けばよくて。
岸田 週1回か2回は行かなあかんのやんな、確か。
木村 そうですね。具合悪いときは無理せず家で課題をやったり、かなりマイペースにできる形でした。
岸田 比較的、自分のペースで勉強できて、それで無事卒業できたってことかな?
木村 そうですね。
岸田 それだと留年せず?
木村 留年せず。
岸田 じゃあ、替わって良かったってことやな?
木村 そうですね。本当に良かったですね。
岸田 そして、そのまま上がっていきます。何かというと、そこから大学に進学ということで。じゃあ受験勉強も頑張ってたんや?
木村 そうですね、結構。体調がいいときに登校すればよかったので、体調を崩しにくくなって、休めるときに休める。自分のペースが崩れなかったのが良かったかな、と思います。
岸田 そうか。自分のペースでいけたから大学に進学できて、そして運命の出会いですよ。今の旦那さんと出会うということで。この出会いは、路地の角で焦ってバンッ!みたいな、ああいうやつ?
木村 遠くもないかもしれない。
岸田 そうなん?
木村 サークルに入ってすぐでした。ダンスサークルに入ったんですけど、その道具を取りに行こうとして、部室みたいなところに行ったら夫がいて、そこで。私からしたら“初めまして”の感覚だったんですけど、向こうは実は同じ授業を取っていて、席が前後だったんですよ。
岸田 同じ授業を取っていた前の人は、全然気づかなかったってことね?
木村 前にいたから、後ろを振り返らなくて。だから“全然初めまして”って感じだったのに、向こうは「ほぼ毎日会ってるじゃん」みたいな出会いでした。
岸田 あるあるやね(笑)。実はめっちゃ近くにいた人と、サークルも一緒で、そこで出会って。今の旦那さんと出会って、そこからお付き合いに発展していくわけよね?
木村 そうですね。
岸田 そのときは、自分のカミングアウトとか、そういうところはどうしたん?
木村 私は、多分付き合ってからですね。ちょうど通院があって授業を休む日があって、「ちょっと病院行くから今日は休む」みたいな連絡をしたときに、その後会って、「なんで病院だったの?」と聞かれて。そこで、「私、白血病だったんだよね」みたいな感じで。
岸田 そういうパターンね。
木村 はい。めっちゃ軽く。「白血病だったんだよね」って言ったら、「あ、そうなんだ……え?」みたいな。
岸田 もうマンガみたいな流れやん(笑)。旦那さんの反応的には、どうやった?
木村 びっくりはしてましたけど、いい意味で。「そんな白血病だった人が、こんなに元気なん?」って。
岸田 受け止めてくれたってことね?
木村 そうですね。
岸田 そこから下がっていくねん。これは別れるとかじゃなくて……今の旦那さんやからね(笑)。次は「卒業前、適応障害に」ということで、そこから退学して、就職も白紙になっていくと。ちょっと待って、適応障害にはなっちゃったんやね?
木村 そうですね。4年生のときですね。
岸田 そこから、いきなり退学しちゃうんや。卒業前に?
木村 そうですね。早かったですね、ここの流れは。
岸田 就職も白紙になっていくけど、そこは?
木村 卒業前に新卒の就職活動をしていて、内定をもらっていた会社があったんです。でも卒業しないと就職できなくて。休学して卒業が遅れるなら会社も待つ、と言ってくれてたんですけど、私の中で「大学に戻るのは無理だ」と思ってしまって……。早く元気になりたい気持ちが強過ぎて、「もう離れたい」という思いが勝って、退学を選びました。
岸田 卒業直前、1〜2カ月前って認識で合ってる? 大丈夫?
木村 そうです。もう正直、卒業式の袴も全部予約してました。
岸田 卒業する気、満々やったん?
木村 する気満々でした。なんなら卒業パーティーの実行委員だったんですよ。
岸田 実行委員!? 最後の最後で飛んじゃったみたいな。
木村 本当に。
岸田 そんな中で、卒業は白紙になっていきますと。めっちゃ、もっと聞きたいけど、それ聞いていくと終わらへんから(笑)。そこから上がっていきます。結婚と、そして妊娠されたということで。おめでたいことやねんけれども、妊娠については、いろんな治療してるやんか。そこで、そういった話ってあったん?
木村 一応、主治医からも定期検査でホルモンの値とかは見ていたんですけど、特に何も言われなくて。でも、相手もいることだし、自分が妊娠できる体なのか分からなかったので、「検査しようかな」と思ってたんですよ。婦人科で普通の検査を受けようかなって。本当に予約を取ったくらいのタイミングで妊娠が分かったんです。
岸田 てことは、自然妊娠で合ってる?
木村 本当に何もしてないです。
岸田 そうなんや。じゃあ自然妊娠ね。すてき。そして自然妊娠して……ただ、ちょっと下がってるのが怖いな。次は何があるんや。希望の病院で出産できないということで、これは何か病気が関係してるん?
木村 そうですね。最初に妊娠判定をしてもらったクリニックがあって、私はそこで産む気満々だったんです。
で、分娩予約の話をしたときに、問診票に書いた既往歴を先生が見て、「今は治療してないのか」とすごく考え込んでしまって。しばらくしてから「うちでは責任が持てない」と。
岸田 何かあったときに対応できない、と?
木村 「何がある」とは言えないけど、万が一のときに設備が足りない、と言われました。それで、家から一番近い総合病院を紹介してもらったんです。そこでも一通り検査して、特に問題はなかったんですけど、やっぱり「うーん……」みたいに。
岸田 そこでも?
木村 産科の先生が1人しかいなかったこともあって、困らせちゃう感じでした。普通に帝王切開とかはできるんですけどね。
それで私のほうから「大学病院のほうがいいですかね?」と聞いたら、「そうだね」みたいになって。膵炎のときにもお世話になっていたので、大学病院を紹介してもらって、ようやく予約が取れました。
岸田 大学病院で出産して、息子さんが誕生したと。そこから次は社会復帰。「行きたかった会社に」ということだけど、これは出産されてから就職したってこと?
木村 そうですね。大学の新卒で行くはずだった会社が、ずっと気に掛けてくれていたので。
岸田 ええ会社。
木村 子どもが1歳になって、保育園に預けられるタイミングで、「どう?」と声をかけてもらって。中途採用で。
岸田 ちなみに、どういう会社に行きたかったの?
木村 お料理教室の会社で。
岸田 すてき。
木村 そこでケーキやパン作りにつながるんですけど。
岸田 なるほど、伏線回収ね(笑)。そんな会社に中途で入った、と。
木村 そうですね。
岸田 すてき。ただ、また下がってるから怖いんだけど……そこから「うつ病に」、そして退職。心に何か来てしまった感じ?
木村 そうですね。会社や仕事がどうというより、行きたかった会社だから少し張り切り過ぎてしまって。「自分はもう大丈夫」「行きたかった会社にも行けるし、結婚もして、子どもも生まれて、全部うまくいってる」みたいな感覚があって。
そこで仕事のミスとか、うまくいかないことが重なったタイミングで、子育ての疲れとかもいろいろあって。
岸田 いろいろあるもんな。
木村 不調が重なったあたりで、メンタルにも来てしまって。
岸田 それで退職という形になったんやね。ありがとう。ただ、そこから上がっていくのが救いやな。……ちょっと待って、精神科入院していくの?
木村 そうなんです。
岸田 入院が“ポジティブの赤”やねんけど、俺間違ってる? 大丈夫?
木村 大丈夫です。
岸田 どういうこと、これは?
木村 もう、めっちゃ落ち込んで、どん底みたいな状態で。ご飯も食べれなくなって、入院を勧められて。最初は「まじか……」って。そんな悪いのかと思ったんですけど、よく考えたら「これより下がることはないかな」と。
岸田 逆にね。
木村 ちょっと“一休み”じゃないけど、先のことを考えて不安になるくらいなら、今入院という形で整理して、自分と向き合って、もう一回頑張ろう、と。そんな気持ちでした。
岸田 そっか。頑張り過ぎたんやな。入院してちょっと休んで、そして退院して、また社会復帰して。今は塾の事務もされているということよね? 今はどう? 家庭と仕事の両立はうまくいってる?
木村 そうですね。今までみたいに「ばりばり働く」のはやめて、マイペースにやろうかなって。
【大変だったこと→乗り越えた方法】
岸田 そうね。ありがとう。そしてゲストエキストラ。次に、大変だったこと、困ったこととして、この項目をいただいています。「退院後の友達との関わり方」が大変やったと。
それをどう乗り越えたかというと、高校ではクラス全員に一斉メールして、大学ではあえて言わない。当時の彼氏さん──今の旦那さんにも、最初は言ってなかったよね。
やっぱり、退院後の友達との関わり方は、大変やった?
木村 そうですね。中学のときは、まだ治療してたこともあって、具合が悪いのが当たり前というか、みんなも深く突っ込むわけでもないんですけど、ちゃんと病気のことは知ってくれていて、すごくいい感じだったんです。逆に、高校に入ったときは治療が終わっていて、私もみんなも「元気なんじゃん」みたいに思ってたんですけど……実際はそんなに調子が良くなくて。
体力もなかったので、体育ではみんながグラウンド5周走る中、私は1周歩くのが精いっぱいで。
みんなは病気のことを知ってるけど、元気なのか元気じゃないのか分からなくて、双方がもやもやして、お互い気を使いまくってました。
岸田 気、使いまくりで、いろんなことがあって、そこから通信制に移った流れやったんやね。
みんなに一斉メールしたのは、どのタイミング?
木村 入学して、最初のホームルームが終わったくらいですね。何人かには口頭で言っていて、その子たちも「いちいちみんなに言うの面倒くさくない?」ってなって。
で、最初にみんなメアド交換するタイミングで、そのままメールを送りました。
岸田 そのときは、送って良かったって感じ?
木村 そのときは、これでみんなに知ってもらえたから、何かあったときに変に噂になったりしないかな、って思えました。
岸田 休んだりとか、いろいろあるもんね。そして大学の頃は、逆に「あえて言わない」という選択にしたと。全く正反対やけど、これは戦略があったの?
木村 本当に「気を使われる」のがもうこりごりで。高校のときよりは体力もあったし、一人暮らしもしていて、自分のことくらい自分でやろうって思ってたので。
大学生だから、みんな“白血病”というワードは知ってるし、芸能人でも復帰されてる方がいたので、そんなに重く受け止められないだろうと思って。
木村 だから、飲み会のときに「私、白血病だったんだよ。やばくない?」みたいな。
岸田 やばい(笑)。フランクすぎるやろ。
木村 そうですね。軽い感じで。
岸田 周りの友達は?「超やばいんだけど」みたいな? ……俺、まどかさんの周りをデフォルメし過ぎ?
木村 いや、でもそんな感じでした(笑)。「え、元気じゃん。本当?」みたいな。
岸田 そういう感じね。
木村 ダンスとかもやっていたので、「白血病だったのにそんな元気なの?やばいね」って言われるのが、逆にちょっと嬉しくて、どやってしてました。
【 メッセージ】

岸田 いや、ええことだと思う。乗り越えてきて、ダンスもやってるからね。そのときに体力もついてきて、自信もちゃんとできていったんやね。ありがとう。そんな感じで乗り越えてきて。
そんなまどかさんなんですけれども、今この配信を見てくださっている視聴者へのメッセージということで、この言葉をいただいております。まどかさん、こちらよろしくお願いします。
木村 一応、「今を信じて、今を大事に」って書いたんですけど……。
私が病気の告知をされた当時、急性リンパ性白血病の5年生存率が大体8割って言われてて、正直その数字だけ聞くと「治るじゃん」って思ったんです。でも、治療が進んで「順調だよ」と言われるたびに、私の中では「100パーセント治る」って思い込んでいたんですね。
木村 そんなときに膵炎になって。ふと頭をよぎったのが、「8割治る」ということは裏を返せば「2割は治らない」という意味なんだ、と。
“もしかしたら自分はその2割に足を踏み入れているんじゃないか”と、すごく怖くなりました。
木村 膵炎が治ったあとも、同じ病棟にいる子たちの将来に保証なんて何もなくて。自分も退院できるかも分からないし、明日また救急搬送されるかもしれない……そんな不安でいっぱいでした。
木村 でも、あるとき吹っ切れたんです。
「今は元気だし、勉強もできてるし、ちょっと遊んだりもしてる。取りあえず今元気だから、いいじゃん」って。
木村 正直、小児がんは“二次がん”とか“晩期合併症”とか、よく言われます。でも私は今のところ何も出てなくて。
もちろんこの先、二次がんになる可能性もある。でも今は息子とも元気に過ごせてるし、家族みんな仲良くできている。
木村 だから「今を大事に、この一瞬を生きよう」と思うようになりました。
万が一二次がんになったとしても、「ここまで私は十分楽しんだ」と思って、潔く治療に向き合えるように。そんなふうに今も生きています。
木村 皆さんも、もし大きな病気になったとしても、生きている限り、その瞬間は皆さんの人生です。
「死ぬかも」と思っても、しょうがないことはしょうがないので……とにかく今を大事に、生きてほしいなと思います。
岸田 ありがとうございます。本当にこの瞬間を大事に、ですよね。僕らも今後どうなるか分からないし、抗がん剤治療をしていても、二次がんのリスクもある。
まどかさんが「息子と」と言ったときに、僕の心の中では「旦那さんも」って思ってました(笑)。
木村 家族でしっかりね。今もお子さんのお世話を旦那さんがしてくださってるから、こうして出演いただけてるわけですもんね?
木村 はい。
岸田 ありがとうございます。まどかさん、本当に12歳の頃から今に至るまで、紆余曲折いろいろあったと思います。
そんなペイシェントジャーニーを伺わせていただきました。この経験が、視聴者の皆さんにとって一つの見通しになればと思います。
岸田 それでは、がんノート mini、終了していきたいと思います。木村さん、ありがとうございました!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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