目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:木村

【オープニング】

岸田 それでは、がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは木村まどかさんです。よろしくお願いします。

木村 お願いします。

岸田 お願いします。では早速、私の自己紹介のほうからさせていただければと思っております。岸田と申しまして、25歳と27歳のときに、胚細胞腫瘍という珍しいがんになりました。手術や抗がん剤を経て、今、経過観察をしているわけですけれども。

岸田 当時、がんの医療情報はお医者さんに聞いたら教えてくれるんですけども、生活の情報、どうやってカミングアウトしたのとか、お金や仕事どうするのとか、恋愛、結婚は、みたいな情報ってあまりなかったので、それを経験者さんに聞いて、みんなとシェアできればと思って、がんノートというものを始めております。

【ゲスト紹介】

岸田 きょうはMCを務めさせていただいておりまして、まどかさんのいろいろ、聞いていきたいと思っているんですけれども、そうなんです。もう言ってしまっていますけれども、きょうのゲストは、木村まどかさんです。よろしくお願いいたします。

木村 お願いします。

岸田 早速、木村さんの自己紹介のプロフィールですけれども、出身が新潟県、そして居住地の新潟、仕事が塾の事務をされていると。趣味がダンス、料理、ケーキ、パン作りという料理ができる女性、そしてケーキ、パン作りができる女性はすてきだと思うんですけれども。どんなものを作ったりとか、ケーキとパンとか、やったりするんですか。

木村 そうですね。ケーキは家族の誕生日とか、あとはクリスマスとか、もうイベントが多くて。パンは、明日、食べたいなってときに、前の日、作ったりとか。

岸田 すごい。そんなすぐ作れるもんなんですか、パンって?

木村 結構、やっていくうちに、どんどん道具とかがたまって、常に何かしらは作れるようになってます。

岸田 どんなパン、作るんですか。例えば?

木村 本当に何も決めないで、食パン、作るときもありますし、あと、家族からリクエストあれば、甘い系がいいとか、しょっぱいのがいい。

岸田 クロワッサンとかも普通に?

木村 クロワッサンも前に1回作りました。

岸田 フランスパンって作れるもんなん?

木村 作りますね。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 すげえ。そんな、パン職人じゃなかった、木村さんなんですけれども、がんの種類が、急性リンパ性白血病ということで、ハイリスクになっています。告知年齢12歳ということで、小児ガンの経験者ですね。今の年齢が26歳、そして薬物療法を経て、今に至っているということですけれども。早速、まどかさんのペイシェントジャーニーを、伺っていきたいなと思っております。

岸田 ペイシェントジャーニーって、上に行けば行くほど、気持ちが上がっているとき、下がって行くとき、右に行けば行くほど、時間のものになります。吹き出しが出てくるんですけど、ポジティブ、ネガティブ、どちらでもないような普通のこと、そして、治療などというふうな色分けをしておりますので、ご参考にください。

岸田 まどかさんのペイシェントジャーニーは、こんな感じになっております。12歳から今に至るまで、本当にさまざまなことをいただいてるんですけども、早速、こちら、入っていきたいと思います。まず初めに、一番上がっているときは、バレエの発表会に向けて練習をしていたということで、バレエを習ってらっしゃったんですか?

木村 そうですね。小学校3年生ぐらいのときから、モダンバレエっていう。

岸田 バレエってあれじゃないの? 白鳥の湖的なやつじゃないの?

木村 それよりは、今でいうコンテンポラリーみたいな。

岸田 ちょっと待って、どういうこと? 

木村 結構、あそこまでクラシック音楽にとらわれず、いろんな曲でみたいな。

岸田 そういうバレエもあるのね。そんな中で、そこから下がっていくわけですよ。何かというと、こちらになります。救急搬送、いきなり倒れていく感じで、その後、即入院して、告知を受けていくという。もう序盤から、ばったばたと大変だと思うんですけど、緊急搬送は、どういう状況でされたんですか?

木村 そのバレエの発表会の日自体が、体調があまり良くなくて。発表会、終わって、その日の夜ですね。もう寝ようかなっていうときに、足がすごく痛くなって、寝れない、みたいに家族と話してたら、急にけいれんしだして、私が。それで、親がこれはまずいと思って、救急車、呼んで、そのまま近くの総合病院に運ばれたっていう感じで。

岸田 そこの総合病院行って、それで即入院していくんや、もう?

木村 そうですね。もう、その総合病院で、これはもう帰れない、みたいになって。しかも、その病院では見れないから、大きい病院に紹介してもらって。もうその日に入院っていう感じでした。

岸田 その日に入院で、大きな病院、それはがんセンターかな?

木村 そうですね。

岸田 がんセンターに行って、そこで告知も、そのときに受ける感じ?

木村 そうですね。多分、入院した次の日くらいには、もう告知されてて。

岸田 まだこのとき12歳やん。12歳のときに、もう告知されたって感じ、自分にも?

木村 そうです。もう、すぐ。

岸田 受け止めとしてはどうやった、受け止めれた?

木村 もう、がんセンターっていう病院名を知った時点で。

岸田 そっか、確かに。

木村 なんかやばいなって思って。すぐ治療しなきゃいけないみたいな感じで、もう受け止めるかどうかも分からないまま、取りあえず流されるままにっていう感じで。

岸田 そうやんな。すぐ治療していかなあかんしな。治療していくといった中で、下がっていくんですよ、ここ。このときから、すぐ薬物療法、してたのね?

木村 そうです。すぐに。

岸田 薬物療法していって、それで副作用で膵炎になっていく。そして、転院して治療が中断していくって、なかなかな感じやけど。これは薬物療法で、抗がん剤とかで膵炎になっていったんやな?

木村 そうですね。その抗がん剤の中に、副作用いろいろ、吐き気とかはあるんですけど、ちっちゃい字で重篤な副作用に膵炎があります、みたいに書いてあるんですけど。そのちっちゃい文字の膵炎になっちゃって。

岸田 膵炎ってどうなん? 痛いとかあるん? 感覚として。それとも、高熱が出る的なやつなの?

木村 いや、もう脇腹が走ったときに痛くなるやつの、すごいやつみたいな。本当に、話し掛けないでレベルの。

岸田 膵炎になったから、転院したん?

木村 そうですね。外科的な手術まではいかないんですけど、膵炎って、どっちかっていうと大人の病気で、小児科よりは、内科の先生のほうがプロなので。集中治療室もある大学病院のほうに、そのまま転院して、ずっと集中治療室みたいな感じで。

岸田 だから、抗がん治療もできなくて、治療が中断していったってことね?

木村 そうですね。

岸田 このとき、一番、結構下がってるから、なかなか大変やったやんな。もう痛かったやんな。

木村 私自身は、もう痛いっていう記憶しかないんですけど、多分、意識もあまりなくて。だから後から、親から聞くことのほうが多かったんで、それ聞くと、すごい大変だったんだなって。

岸田 そっか。そこから、それを経て、上がっていきます。こちら、車いすで卒業式ということで?

木村 小学校、卒業式にどうにか間に合って。

岸田 車いすで卒業式に出ていくという形です。そこからまた、治療が再開していくと。このときは、もうずっと中断が続いてるわけね?

木村 そうですね。しっかり回復してからじゃないとっていうのもあったんで、結構、空きましたね。

岸田 そこから治療が再開していって、次が退院して、通院治療になっていくということか。もう普通にそこから治療再開して、特に重篤な副作用は、そのときはなかったってことね? 

木村 そうですね。もう膵炎になった原因的な抗がん剤は、そこからはやらないことにして、それ以外の薬物療法をして、そこは順調にいきました。

岸田 いうことね、ありがとう。そして、そこからちょっと上がっていきます。ちょっと上がっていくと安心するんですけど、こっちとしては。上がっていきます。何かというと、治療が終了していくといった中で、高校の入学まで入っていくのか。無事治療が終了したら、高校入学もスムーズにいけたんや?

木村 そうですね。割と、ちょうど治療の切れ目が3月だったんで、高校行く前に終わらせちゃおう、みたいな感じで。

岸田 そんな高校あるから終わらせろ、みたいな感じ。のり的には、そんな感じで。多分、ちゃんと期間とかやってると思うけど。また上がっていくという中で、次は何でしょうか。公立の高校から通信制の高校へということで、転学というか、転校というか、それをしたってこと?

木村 はい。一応、こうやって公立の学校は、ルールがあるんで単位を取らないと、卒業とか進級はできないんですけど、治療が終わったとはいえ、体力が本当になくて。もうちょっと風邪、引くと、平気で1週間休んだりしてたんで。

岸田 免疫が下がってるから?

木村 治らないっていうのもあって。それで単位が危ないとか。あと、体育、出れないから、その分の成績を、先生もどうやって付けていいか分からなくて。それで、留年が頭によぎったりして、でも、留年しても結局、成績、付けられなかったら、また留年しちゃうし。

岸田 そうやんな。

木村 一生、高校生なんじゃないかって思って。

岸田 一生、卒業できへんみたいな。

木村 それもあったんで、親とも相談して、通信制の融通が利く高校に行こうかってなって、通信のほうに行きました。

岸田 結構、どうなん? 通信制高校になったら単位とか、そういった融通っていうか、行かなくてもいいわけやから、そういったところは、やりやすくなるん?

木村 そうですね。体調がいいときに高校に行って。

岸田 週に1回か2回は、行かなあかんねんな、確か。

木村 そうですね。具合悪いときとかは、無理せず家でやったり、そういう感じで、結構マイペースにできたんで。

岸田 比較的、ちゃんと自分のペースで勉強もできて、それで卒業はできていくってことかな?

木村 そうですね。

岸田 それだと留年せず?

木村 留年せず。

岸田 じゃあ、替わって良かったってことやな?

木村 そうですね。本当に良かったですね。

岸田 そして、そのまま上がっていきます。何かというと、そこから大学に進学ということで。じゃあ、受験勉強も頑張ってたんや?

岸田 そうですね、結構。体調いいときに行けばいいっていうことだったんで、体調も崩しにくくなって、休めるときに休めるっていう感じで、自分のペースが崩れなかったのが、良かったかなっていうふうに。

岸田 そうか。そういう自分のペースでいけたから、大学に進学でき、そして、運命の出会いですよ。今の旦那さんと出会うということで、この出会いは、路地の角と角で焦ってたときに、バンってぶつかる的な、ああいうの?

木村 遠くもないかもしれない。

岸田 そうなん?

木村 サークルに入ってすぐ。

岸田 ちょっと正座して。

木村 ダンスサークルに入ったんですけど、その道具を取りに行こうとして、部室みたいなところに行くんですけど、その部室に行ったら夫がいて、そこで。私は、初めましてだったんですよ、感覚は。でも向こうは、実は同じ授業を取ってて、席が前後だったんですよ。

岸田 同じ授業を取っている前の人は、全然知らなかったってことね?

木村 前にいたから、全然、後ろ、振り返ってなかった。

岸田 後ろの人やったんね、そうか。

木村 全然、初めまして、みたいな感じだったのに、向こうは、ほぼ毎日、会ってるじゃん、みたいな出会いでしたね。

岸田 そういうね。実は、めっちゃ近いところにいるけど、サークルも一緒で、そこで出会って。今の旦那さんと出会っていくというふうなことであれば、ここからお付き合いに発展していくわけよね?

木村 そうですね。

岸田 そのときは、どうなの? 自分のカミングアウトとか、そういったところに関しては?

木村 私は、多分、付き合ってから、ちょうど通院があって、授業を休む日があったんです。それで、ちょっと病院、行くからきょう休む、みたいな連絡をしたときに、その後、会って、何で病院だった、みたいな聞かれて。そのときに、私、白血病だったんだよね、みたいな感じで。

岸田 そういうパターンね。

木村 そうですね、めっちゃ軽く。白血病だったんだよねって言って、あ、そうなんだ、え?みたいな。

岸田 もうマンガみたいなのりやんね。旦那さんの反応的には、どうやった?

木村 びっくりはしてたけど、いい意味でっていうか、そんな白血病だった人が、こんなに元気なん?みたいな。

岸田 受け止めてくれたってことね?

木村 そうですね。

岸田 そこから下がっていくねん。これは、別れるとかでは、別れるとかないか、旦那さんやからね、今。次は、卒業前、適応障害にということで、そこから退学して、就職も白紙になっていくと。ちょっと待って、適応障害にはなっちゃったんやね?

木村 そうですね。4年生のときですね。

岸田 そこから、いきなり退学しちゃうんや。卒業前に。

木村 そうですね。早かったですね、ここの。

岸田 就職も白紙になってくけど、そこは?

木村 卒業する前にも新卒の就職活動はしてて、内定もらってた会社があったんですけど、卒業できないと就職はできなくて。休学して卒業が遅れるとかだったら、ある程度待てます、みたいな感じだったんだけど、私の中で大学が原因というか、ここに戻るのは無理だなって思って、早く元気になりたい気持ちが強過ぎて、もう離れたいみたいになっちゃって。

岸田 卒業直前、1、2カ月前っていう認識であってた、大丈夫?

木村 そうです。もうぶっちゃけ、卒業式のはかまとか、全部予約してて。

岸田 卒業する気、満々やったん?

木村 する気、満々で。なんなら卒業パーティーの実行委員だったんですよ。

岸田 実行委員? 最後の最後で飛んじゃったみたいな。

木村 本当に。

岸田 そんな中で、卒業白紙になっていきますと。めっちゃ、もっと聞きたいけど、それ、聞いてくと、多分、終わらへんから。そこから、上がってきます。結婚と、そして妊娠されてということで。おめでたいことやねんけれども、妊娠についても、いろんな治療してるやんか。そこで、そういったところの話ってあったん?

木村 一応、主治医からも、そういう定期検査でホルモンの値とかは見てたんですけど、特に何も言われてなくて。でも、一応、相手もいることだし、自分が妊娠できる体なのかが分からなかったんで、検査をしようかなって思ってたんですよ、普通に婦人科で。そういう検査をしようかな、どうしようかなって、本当に予約を取ったぐらいに、妊娠が分かったんですよ。

岸田 てことは、自然妊娠であってる?

木村 本当にあれは、何もしてないですね。

岸田 そうなんや。じゃあ、自然妊娠ね。すてき。そして、自然妊娠していく。ただ、ちょっと下がってるよな、怖いな。待って、次は何があるんや。希望の病院に出産できないということで、これは何か病気が掛かってんの?

木村 そうですね。最初に妊娠判定をしてもらった病院というか、クリニックがあって、私はそこで産む気、満々だったんですよ。

木村 だから、分娩予約をしなきゃいけないってなって、その話をお医者さんにしたときに、一応、既往歴を、もともと問診票に書いてたので、それを見て、今は治療してないのかみたいな、すごい考え込んでて、先生が。うーんってなって、しばらくしてから、ちょっとうちでは責任が持てない、みたいな。

岸田 何かあったときに?

木村 何があるっていうふうには言えないけど、万が一、何かあったときに、ちょっとここでは設備がないみたいなって、家から一番近い総合病院みたいなところを紹介してもらったんですけど、そこにも行って、そこでも一通り検査はして、特に問題はなかったんですけど、やっぱり、うーんっていう。

岸田 そこでも?

木村 そこに産科の先生が1人しかいなかったのもあって、うーん、みたいな。普通に帝王切開とかはできるんですけど、すごく困らせちゃうみたいで。もう自分から、大学病院とかのほうがいいですかね、みたいに言って、そしたら、そうだね、みたいになって。膵炎のときにもお世話になってたんで、大学病院のほうを紹介してもらって、そこで予約が取れて、やっと。

岸田 大学病院で出産をしていって、息子さんが誕生していくということね。そこから、次はもう社会復帰していくと。行きたかった会社に、ということだけど、出産されてから会社に就職したってこと?

木村 そうですね。大学の新卒で行くはずだった会社に、気に掛けてもらってたので、ずっと。

岸田 ええ会社。

木村 子どもが1歳になって、保育園も預けられるしみたいな話から、どうっていうことで、中途採用で。

岸田 ちなみに、どういう会社に行きたかったの?

木村 そこがお料理教室の会社で。

岸田 すてき。

木村 そこで、ケーキとかパン作りにつながるんですけど。

岸田 そういうこと。伏線が回収された、今。そういう会社に就職で、中途で入ったってことね?

木村 そうですね。

岸田 すてき。ただ、ちょっとまた下がってるから、怖いんだけど。そこから、うつ病に、そして退職。ちょっと心に、なんか来ちゃった感じですか?

木村 そうですね。会社がどうとか、仕事がどうっていうことよりかは、多分、行きたかった会社だし、ちょっと張り切り過ぎて。自分はもう大丈夫みたいな、行きたかった会社にも行けるし、結婚もして、子ども産まれて、全部がうまくいってる、みたいな感覚になったんで。そこで、仕事でミスとか、うまくいかないことが重なったタイミングで、子育ての疲れとかもいろいろ。

岸田 いろんな、あるもんな。

木村 不調が重なった辺りで、そこでメンタルにも来ちゃって。

岸田 退職っていうふうな感じになっちゃうんねんな。ありがとう。ただ、そっから上がっていくのが、唯一の救いというか。ちょっと待って、精神科、入院していくの?

木村 そうなんです。

岸田 入院していくの、ポジティブな赤やねんけど、俺、間違ってる? 大丈夫?

木村 大丈夫です。

岸田 どういうこと、これは?

木村 もうめっちゃ落ち込んで、どん底みたいな状態でご飯とかも食べれなくなって、入院薦められて、最初はまじか、みたいな。そんな悪いんだっていうふうに思ったんですけど、いろいろ考えたら、多分これより下がることはないかな。

岸田 逆にね。

木村 もう、ちょっと一休みじゃないけど、いろいろ先のこと考えて、不安になるくらいだったら、今、入院っていう形で休憩じゃないけど、整理して自分と向き合って、もう一回、頑張ろうっていう感じだったんで。

岸田 そっか。頑張り過ぎて、だからね。入院してちょっと休もう、みたいな感じになって、そして退院していって、また社会復帰して。今は、塾の事務もされているということよね? 今はどう、家庭とお仕事だったり、いろんなところの両立はうまくいってる?

木村 そうですね。今までみたいに、ばりばり働くのはやめて、マイペースにやろうかなっていう。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 そうね。ありがとう。そして、ゲストエキストラ。次に、大変だったこと、困ったことといったことで、こういったことをいただいています。退院後の友達との関わり方が大変やったと。

岸田 それをどういうふうに乗り越えたかというと、高校ではクラスのみんなに一斉にメールして、そして大学ではあえて言わない。当時の彼氏さん、今の旦那さんにも言ってなかったもんね。付き合い初めにね。ということは、あると思うんですけど、やっぱり関わり方っていうのは、退院後の関わり方、友達と、ちょっと大変やった?

木村 そうですね。中学のときは、まだ治療してたのもあって、具合が悪いのが当たり前だし、みんなも深く突っ込むわけでもないけど、でもちゃんと病気のことはみんな知ってて、すごくいい感じだったんですけど。逆に、治療、終わって高校、行ったときに、私もみんなも、そういう病気だったけど治療は終わってて、半年に1回ぐらい病院に行くだけだから、元気なんじゃん、みたいな、自分もみんなも思ってて。

木村 でも実際、そんなに調子は良くなくて、もう体力はないから、体育はみんながグラウンド5周走る中、私は1周歩くのが精いっぱいみたいな。そういうので、みんなに病気のことを知ってもらったけど、元気なの、どっちなの? みんなお互い、もやもやしてて、お互い、気、使いまくりみたいな。

岸田 気、使いまくって、いろんなことあって、それが通信制にいくみたいな、勝手になっていくと思うねんけれども。みんなに一斉にメールしたのは、どのタイミングで?

木村 入学して、最初のホームルーム終わりくらいに、何人かには口頭で言ってて、その子たちも、いちいちみんなに言うの面倒くさくない?みたいになって。最初、みんなメアドを交換するんで、そのタイミングで送ってって感じでした。

岸田 そのときは、良かったという感じかな?

木村 そのときは、これでみんなに知ってもらえたから、なんかあったとき、変にうわさとかにはならないかなみたいな。

岸田 そういう休んだりとか、いろんなことあってもね。そして、大学の頃に関しては、あえて言わない選択をしたという。全く正反対な感じやけど、これは戦略があったの?

木村 本当に、気、使われるのはもうこりごりだったし、高校のときに比べれば、全然体力もあったし、1人暮らしもしてたから、ある意味、自分のことぐらい自分でやろうって思って。

木村 大学生だから、ある程度、みんな白血病っていうワードは知ってて、芸能人でも白血病になったけど復帰されてる方とかも結構いらっしゃったんで、そんなに重症というか、重く受け止めない感じではあったので。飲み会のときに、私、白血病だったんだよ、やばくない、みたいな。

岸田 やばい。そんな感じで、もうフランクに?

木村 そうですね。

岸田 周りの友達は? 超やばいんだけど、みたいな? あかん、まどかさんの周りを、俺デフォルメし過ぎ。

木村 でも、なんか元気じゃん。本当?みたいな。

岸田 そういう感じね。

木村 ダンスとかもやってて、白血病に、そんなに元気でやばいね、みたいに言われるのが、逆にちょっとうれしくて、どやってしてました。

【 メッセージ】

岸田 いや、ええことだと思う。乗り越えてきて、ダンスもやってるからね。そのときに、体力も付いてきて、自信がちゃんとできてということだね。ありがとう。そんな感じで乗り越えてきて。そんなまどかさんなんですけれども、今の、この見てくださっている視聴者へのメッセージということで、この言葉をいただいております。まどかさん、こちらよろしくお願いします。

木村 一応、今を信じて、今を大事にっていうふうに書いたんですけど。私が病気の告知をされたときの当時は、大体5年生存率が8割くらいって言われてて、正直その数字だけだと、治るじゃんって思ってて、治療が進んでいくにつれて、順調だよって言われる度に、私の中で100パーセント治るって思い込んでて。

木村 そんなときに膵炎になって、ちょっと頭をよぎったのが、8割治るって裏を返せば、2割は治らないっていうことだったんで、今、自分が、その2割に足を踏み入れてるんじゃないかなって思って。

木村 膵炎が治った後も、一緒に入院してる子たちがみんな、この後元気になる保証なんて全然なくて、自分も退院できるのかも分かんないし、もしかしたら、明日、また救急搬送されちゃうかもしれないしって、ちょっとびくびくしながら治療してたんですけど。

木村 でも、今は元気だし、勉強もしてるし、ちょっと遊んだりもしてるし、取りあえず元気だからいいじゃんっていうふうに、どこかで吹っ切れて。

木村 正直、小児がんって、二次がんとか、晩期合併症とかってよく言われるんですけど、今のところ私は、まだ何も出てなくて、もしかしたら今後、二次がんで、またがんになっちゃうかもしれないんですけど、でも今は、息子とも元気に過ごせてるし、みんなで仲良くできてるから、取りあえず今は、本当に今を大事に、この一瞬を生きようっていうふうに思ってて。

木村 万が一、二次がんになっても、そのときに、これだけ私はもう人生、楽しんできたから、思いっきり治療するっていうふうに、潔く生きるように今も生きてるので。皆さんも、もし大きい病気になっても生きてる限りは、その瞬間は皆さんの人生だと思うので、死ぬかもとか思ってもしょうがないっちゃ、しょうがないので、とにかく今を大事に、生きてほしいなって思います。

岸田 ありがとうございます。今、本当にこの瞬間、大事に、僕らも今後どうなるか分からないですもんね。本当に抗がん剤治療だって、いろんなことしていて、二次がんの、次の違うがんになるリスクもあったりとかするので、この一瞬一瞬、まどかさんが息子とって言ったときに、旦那さんもって僕の心の中では言ってました。

木村 家族でしっかりね。今を楽しみに、今もお子さんのお世話を旦那さんがしてくださってるから、こうやって出てくださってるわけですもんね?

木村 はい。

岸田 ありがとうございます。まどかさん、本当に12歳の頃から今に至るまで、紆余曲折、いろいろあったと思います。そんなペイシェントジャーニーをお伺いさせていただきました。この経験談が皆さんにとって、一つの見通しになればということを思っております。それでは、がんノートmini、終了していきたいと思います。皆さん、それでは、バイバイ。

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