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インタビュアー:岸田 / ゲスト:牧野

【オープニング】

岸田 がんノートは2014年からスタートし、現在2022年ということで、長く続けてきています。そんながんノートですが、本日は牧野かおりさんをゲストにお迎えし、お話を伺っていきたいと思います。牧野さん、よろしくお願いします。

牧野 よろしくお願いします。

岸田 ありがとうございます。では最初に、こちらに表示している自己紹介のスライドをもとに、簡単にご自身の紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。

牧野 はい。皆さん、こんにちは。牧野かおりと申します。愛知県在住で、現在40歳です。
今から18年前、22歳のときに、悪性リンパ腫の一種であるホジキンリンパ腫のステージⅣと診断されました。

 抗がん剤治療と放射線治療を受け、その後は部分寛解となり、現在まで18年間、経過観察を続けています。本日はよろしくお願いいたします。

岸田 ありがとうございます。もう18年になるんですね。当時のことから現在に至るまで、かなり長い時間を歩んでこられていると思います。

 今日は、診断当時のことや治療のこと、そして今どのように過ごされているのか、その積み重ねについて、じっくりお話を伺っていきたいと思います。よろしくお願いします。

【発覚から告知まで】

岸田 それでは早速ですが、治療の発覚から告知まで、どのような経緯で牧野さんが病気と向き合うことになったのか、お伺いしていきたいと思います。本題に入る前に、少し気になったのですが……背景、とても素敵ですね。ヒマワリのような雰囲気で。

牧野 ありがとうございます。これはシールなんです。壁にペタペタと貼っていて、こういう感じになっています。

岸田 なるほど、シールなんですね。ご自宅の中まで、すごくアクティブな雰囲気が伝わってきます。

牧野 そうですね。後ろに自転車もありますし。

岸田 確かに自転車がありますね。そのあたりのお話も、今回の流れの中で出てくると思いますし、Tシャツのお話なども後半で触れられるのかなと思っています。

 それでは、牧野さんの闘病経験について伺っていきます。こちらのスライドをご覧ください。
まず、2003年4月にスポーツクラブへ入社されていますが、これはやはり身体を動かすことがお好きで、スポーツクラブに就職されたという感じだったのでしょうか。

牧野 そうですね。小さい頃からずっと水泳をしていて、本当に水泳が大好きだったんです。それで、将来はスポーツの道に進みたいなと思っていました。

岸田 なるほど。

牧野 実は、大学では全然違う分野で、土木を専攻していたんです。

岸田 土木ですか?

牧野 はい。土木です。同級生たちは建設関係やコンサル、観光庁など、さまざまな道に進んでいったんですけれども、私はやっぱりスポーツのほうに進みたいと思って、スポーツクラブに就職しました。

岸田 そうだったんですね。具体的には、スイミングスクールなどで指導されていた感じでしょうか。

牧野 そうですね。子どもさんから大人の方まで、水泳の指導をしていましたし、体操教室も担当していました。

岸田 まさに今の牧野さんを象徴するような、とてもアクティブなお仕事ですね。
では、そこからどのようにして病気が分かっていったのか、発覚までの経緯を教えていただけますか。

牧野 入社してから半年も経たない、4か月ほど経った夏頃ですね。すごく汗をかくようになったり、疲れやすくなったり、朝起きられなくなったり、そういう状態が続いていました。

 だんだん身体が動かなくなって、身体もしんどいし、気持ちもしんどい、という日が続くようになってきて。「これは新入社員によくある心の病かな」と思ったんです。

 上司に「最近やる気が出なくて」「すごく疲れやすいんです」と相談したところ、「じゃあ、心療内科に行ってみたら」と言われました。

岸田 なるほど。

牧野 心療内科に行くと、「疲れやすいですか?」などいろいろ聞かれて、それが当てはまってしまって。お薬を処方していただいたんですね。その後、一人暮らしをやめて実家に戻ったんですけれども、薬を飲んでもしんどさはあまり変わらなくて、「あれ?」と思っていた頃に、今度は鼻血が止まらない日が続くようになりました。

岸田 鼻血が。

牧野 はい。普通ならティッシュで軽く押さえたら止まると思うんですけど、血の塊ができるような感じで、とにかく止まらなくて。

岸田 塊ですか。

牧野 そうなんです。血がずっと出続けて、ティッシュでは間に合わないような状態でした。

岸田 それは怖いですね。

牧野 でも当時は知識もなかったですし、若かったので、まさか大きな病気だとは思わなかったんです。

岸田 分からないですよね、普通は。

牧野 本当にそうで。そんなある日の朝、起きたら顔がものすごくむくんでいたんです。

岸田 顔が。

牧野 はい。後から分かったことですが、首のリンパが大きく腫れてしまって、血液やリンパ液の流れが滞まっていたようで、顔に行ったまま戻らなくなっていたんですね。

牧野 それを見た父が、「これはおかしいんじゃないか」と言ってくれて、近くの総合病院に行ったのが最初のきっかけでした。

岸田 その総合病院では、どのような検査をされたんですか。

牧野 CTや血液検査、レントゲンなど、いろいろ検査をしました。それから首のリンパを取る生検ですね。「ちょっと取るね」と言われて、切って検体を取って、「検査に出します」と言われました。

岸田 その病院は、地元の近くの総合病院だったんですよね。

牧野 そうです。本当にすぐ近くの市民病院でした。いわゆる「〇〇市民病院」みたいな名前の、田舎の総合病院という感じのところです。大きな病院ではなかったですね。

岸田 その総合病院で検査を受けて、CTや首の腫れを診てもらったと。その後、大学病院に転院されたとありますが、検査結果があまり良くなかったということですか。

牧野 そうですね。いろいろ検査をしていったんですけれども、結果がなかなか出てこなくて。これ、皆さんも「あるある」だと思うんですけど、何週間も待ったんですね。

牧野 それで、母と一緒に結果を聞きに行ったら、母だけ呼ばれたんです。

岸田 お母さんだけ。

牧野 はい。当時は今とは違って、私は「ここで待ってて」という感じで、診察室には呼ばれませんでした。

岸田 それ、分かりますよね。

牧野 分かりますよね。でも、その時は私自身、状況がよく分かっていなかったんだと思います。「あ、母だけ呼ばれたな」くらいで。

岸田 呼ばれたな、くらい。

牧野 そうなんです。母は診察室から出てきた時、本当は震えが止まらなかったらしいんですけど、それを一切見せなかったんですね。

岸田 すごいですね。

牧野 もし震えていたり、泣きそうだったりしたら、私が「どうしたの?」ってなってしまうと思ったから、必死で耐えてくれたみたいで。何事もなかったように出てきて、「会計行くよ」って言ったんです。

岸田 すごい芝居ですね。

牧野 本当に、役者でした。母は。私もその時は「あ、そうなんだ」くらいで、あまり深く考えていなかったんですよね。

岸田 22歳ですもんね。

牧野 はい、22歳でした。

岸田 そこから、がんと告知されたのはどのタイミングだったんですか。

牧野 そこから転院することになって、両親が「どこの病院がいいかな」って話をしてくれて。私にも選ばせてくれたんですけど、家から近いことと、父の知り合いがお世話になった病院があったので、そこに決まりました。転院先に行った時、外来の表示に「血液内科」って書いてあったんです。

岸田 血液内科。

牧野 聞いたことがなかったんですよね。内科とか外科とか耳鼻科は分かるけど、「血液内科?」って。

岸田 分からないですよね。僕も初めて「血液内科」って知りました。

牧野 そうですよね。最初は外来だったんですけど、金曜日に受診して、「週明けに入院してください」と言われました。もう、すぐ入院という感じでした。家に帰ってから、ネットで「血液内科」を調べてみたら、白血病とか悪性リンパ腫っていう言葉が出てきて。「あ、こういう病気を診るところなんだ」って、その時に初めて思いました。

岸田 その時点では、まだはっきり告知はされていなかったんですよね。

牧野 そうですね。ちゃんと自分の病気について説明を受けたのは、入院して検査を続けて、何週間か経った後でした。先生と父と私の3人で話を聞いたのが、正式な告知でした。

岸田 じゃあ、入院してしばらく経ってからなんですね。

牧野 そうです。検査って結構時間がかかるじゃないですか。

岸田 「1週間後に来てください」ってよく言われますよね。

牧野 本当に。それで、入院したまま検査を続けていく、という流れでした。

牧野 そうなんです。多分、日に日に進行していっていて、毎日、血液検査の結果を看護師さんが紙に書いてくれるんですけれども、数値がどんどん上がっていくんですね。

牧野 ただ、その時は事の大きさが分かっていなかったので、「この数字、毎日増えていくな」くらいの感覚でした。

牧野 それでもやっぱり、1週間、2週間くらいは検査に時間がかかったと思います。当時は病院の中にいて、今みたいに自由にネットで調べられる時代でもなかったので、「何なんだろう」「早く出たいな」っていう気持ちばかりでした。

岸田 その後、数週間の検査入院を経て、ようやく治療方針が決まったと。その時にご家族で医師の説明を受けて、「悪性リンパ腫です。ステージⅣです」と伝えられた、ということですね。

牧野 はい。悪性リンパ腫という病名と、その中に「ホジキン」と「非ホジキン」があること、「日本人には少ないタイプだよ」という説明を受けました。

牧野 そして、これは本当に先生と父に感謝しているところなんですが、その時点では「ステージⅢかⅣ」と、少しぼかして伝えてくれたんです。

牧野 私は「全部知りたいです」とは強く言っていたんですけど、先生はそれを尊重しつつも、「ここで“ステージⅣ・進行期”と強く伝えてしまうと、治療中につらくなった時に、治療をやめてしまったり、病院に来なくなってしまうことがある」と、とても心配してくださっていました。

牧野 実は前日に、先生と父が電話で話し合っていて、「娘さんにどう伝えるか」ということを相談してくれていたそうなんです。

牧野 その結果、「進行期であること」はきちんと伝えつつ、「治療法がある」という希望も同時に示してくれました。

牧野 標準療法は安全性が確立されている治療であること、そしてもう一つ、「少しチャレンジングだけれど、臨床試験という選択肢もある」ということを、とても優しい言葉で説明してくれました。

岸田 臨床試験、いわゆる治験ですね。

牧野 そうです。当時の説明では、「今のところ、生存率がやや高い傾向がある」といった形で、具体的な数字も見せてくださいました。

岸田 治療期間の違いもあったんですよね。

牧野 ありました。標準療法に比べて、治療期間が少し短かったんです。今思えば、2週間単位の違いかもしれませんが、その時の私は「とにかく早くここから出たい」という気持ちがすごく強くて。

牧野 病気の重大さよりも、「早く退院したい」「この場所から出たい」という気持ちが先に来てしまっていて、それも臨床試験を選んだ理由の一つでした。

岸田 22歳ですし、その時点では、ステージⅢとかⅣと言われても、実感がなかったというのもありますよね。

牧野 はい。正直、ほとんど分かっていなかったと思います。「標準療法」と言われても、「安全性が確立されている」と言われても、言葉の意味までは理解できていなかったです。

岸田 当時の状況としては、それが自然ですよね。

牧野 本当にそう思います。

岸田 コメントでも、「臨床治験をするにあたって、説明はしっかり受けられましたか」という質問がありますが、その点はいかがでしたか。

牧野 はい。説明はしっかりしていただきました。副作用の違いや、妊孕性の話、標準療法との違いなども含めて、丁寧に説明していただきました。

牧野 その上で、同意書への署名も行い、「この治療に参加します」という形で、正式に臨床試験を選びました。

【治療から現在まで】

岸田 ちゃんとしっかり説明あったということですね。ありがとうございます。そして、ここから治療に入っていきます。現在、治療から今に至るまで、そこからどうやって乗り越えてきたのか。そういうお話を聞いていきたいと思うんですけれども。まず治療としてはどんなことから始まっていきましたでしょうか。

牧野 一番最初が臨床治験の治療のBEACOPPっていう化学治療です。抗がん剤治療です。

岸田 抗がん剤治療、BEACOPっていう抗がん剤治療をしていくと。いきなり『彼氏にフラれる』のやつが出てきましたが。

牧野 そう。自分でも、吹いちゃいました。

岸田 めちゃくちゃ『彼氏にフラれる』を、めちゃくちゃ聞きたいんですけど。ちょっとそれは。そうですね。治療のところを、もうちょっと聞いていきたいと思います。俺がめちゃくちゃ、こう赤くなる。はい。抗がん剤治療ということで、抗がん剤治療を、BEACOPP、入っていくと思うんですけど、結構、吐く、抜けた毛で遊ぶっていうふうなこと書いてますけど、どうでした、治療としては。

牧野 凄く覚えているのが、一番最初に投与された、3週間で1クールっていう治療なんですけれども、入った時にどーんって体が、何か、何ですか、何でしょう、押されてる感じというか。ウワー、入って来た。これが抗がん剤かあ、みたいな感じでした。あと薬の種類によっては吐くのが止まらなくて、いや、これ、聞いてた、説明では聞いてたけど、うわ、リアルでこうなるんだみたいな。

 何ていうんですかね。聞いてる時は、フンフンフンみたいな感じで、「はい、分かりました」って感じだったんですけれども、これが現実だって、多分、抗がん剤が入って副作用が出て、初めて実感したと思います。

岸田 初めて実感して、それで、そっか。どれぐらいの数週やったんすか。その抗がん剤は。

牧野 3週間ですね。1週目が3日間、薬入れて、2週目が1日薬入れて、もう一週がお休み。この3週間1クールを6やりました。

岸田 6やった。抗がん剤入って来たみたいな感じで、様々な副作用ね。

牧野 そうですよね。やはり「髪の毛が抜けるよ」とかって言われていても、あー、そうなんだと、ドラマとかでよく抜けてくとかってあるなって思ってたんですけれども、やっぱ現実は、何ていうんですかね、あー、抜けたとかじゃなくって、こう髪の毛を洗っていたら、グアーって抜けてくわけですよ。全然、自分は気づいてないんですけど、こうやって洗ってて。さあ、出ようか、あれ?みたいな。排水口にめっちゃ髪の毛が詰まってて。

 そう。ウワー、何か出て来そうみたいな。何でしょ。怖いというか。ウワーって思って、その後、髪の毛を、こうやって、ビーンってドライヤーで乾かしてたら、ここにも書いてあるんですけど、髪の毛がドライヤーで乾かしてくと飛んでいくんですよ。普段、落ちるとかありますけど、飛んでくとかってなくって。何でしょうね。何だろう。その頃、もう私は、あと半年後、もうこの世にはいないって思っていたんですね。

 段々と、やっぱり副作用とか出で来て、そういう状況だったので、これは自分が思ってたよりも厳しい状況だなと思った時に、もう今、この瞬間を楽しまなきゃっていう変なテンションだったのもあって、こう乾かしていると、うわー、抜けてく、キャッチとかっていうのを、看護師さんとかにも、「ちょっと、ちょっと、来て、来て、髪の毛、飛ぶから、見て、見て」みたいな感じでやってました。

岸田 やべーやつ、来たって、絶対、看護師さん、思う。

牧野 やべーやつ、来た。そう。看護師さんも優しい、「キャッチ」とかって一緒にやってくれた。優しいな。

岸田 優しいな。

牧野 優しい。

岸田 そうね。そっか。そういう意味ね。それで遊んでたってことね。ただ、もう吐くっていうことで。めちゃくちゃ気持ちは悪いわけでしょ? 吐き気とかは。

牧野 そうですね。はい。いや、びっくりしました、あれは。

岸田 そっか。当時はあれか。吐き止めとか、まだ、ええやつが、まだ出てないんか。

牧野 1種類とか2種類ぐらいで。入ってきても、こんなん入れても、もう、入れても入れなくても変わんない、そんなこと言っちゃいかんね。

岸田 いやいや。

牧野 多分、効く人には効くと思うんですけれども、私にはあんまりこう、あまり何でしょうね。効かなかったというか。

岸田 いや、それをやって、その後、ごめんなさいね。

牧野 いいです。どうぞ。

岸田 2月に彼氏に振られ。

牧野 はい。そうですね。

岸田 ちょっと彼氏の話は、また恋愛・結婚のところでがっつりちゃんと話、聞きたいと思いますので、今は治療のことをお伺いします。

牧野 はい。

岸田 そして、その後、放射線の治療が入っていくということなんすね。

牧野 そうですね。この2004年4月、3月でいったん抗がん剤が終わって、PET検査をしたときに、部分寛解というふうにその時点では言われたんですね。あんまり、前回も『がんノートnight』ん時もそうですけれども、部分寛解ってあんまり聞き慣れない言葉かなと思うんですけれども。その病気全体の50パーセントぐらいは、消えてる状態かなみたいな、いう、そんな状況でした。

 というのも、私の場合は肝臓と脾臓とかの内臓がちょっと標準よりも、もともと大きくなってしまったのが、ちっちゃくなったんですけれども、標準と考えられるサイズまでのサイズになってないよっていうこともあって、部分寛解っていうような状況ではあったんですけれども。じゃあ、ここで追加して抗がん剤治療をするとか、例えば次の手段として移植ですね。移植をする、造血の移植をするとかっていうのは、まず、ちょっと置いといて、まずは放射線治療しましょっていうような段階になっていきました。

岸田 悪性リンパ種って血液の病気ですけど、さっきの肝臓が大きくなるとか、そういったことがあるってこと?

牧野 そう。そうなんですよ。悪性リンパ種の場合は、リンパ球っていう、血液の中のリンパ球っていうのがあるんですけど、それが、がん化したものがどんどん出来てっちゃうっていうふうなんですね。

 がん化したもの、どこにたまっていくのっていうと、その脾臓ですとか、肝臓ですとか、そういうところに溜まってってしまうんですって。とか、首とか、脇とかのリンパのある所に溜まってっちゃうっていうことで、そういうことが。

岸田 まあ、標準の大きさにはなってないけれども、ちょっと大きくらいというふうな状態になって。その後、放射線に移っていく。放射線は、じゃあ、肝臓とか脾臓、当てたってこと?

牧野 そうですね。首と、ここが、原発というか、ここに沢山、溜まってるっていうのと、あとは脾臓と、あと足の付け根にちょっと当てたかな。ごめんなさい。首と脾臓とですね。肝臓は当てなかったと思います。

岸田 放射線当てて、放射線、当てたら、またそれもどれぐらい当てたんですか、これは。

牧野 量としては許容されるマックスの40グレイっていう単位があるんですけど、そのマックス掛けましょうみたいなことで、40掛けました。

岸田 てことは、もう1日1、2グレイずつ掛けたって感じですか。

牧野 そうです。はい。

岸田 じゃ、20日間、1カ月弱ぐらい入院した。

牧野 そうですね。このときは1週間、最初入院して。割と先生の方針として、なるべく日常生活を送ったほうが良いっていうふうに判断してもあって、あとは私自身の白血球もだいぶ上がって来てもあって、最初の1週間だけは入院して様子を見て、その後は、また白血球、下がっちゃったら入院というふうだったんですけども、基本的には外来でやりましょうというふうになりました。

岸田 そうなんですね。外来で通院して放射線治療していたということになります。そしてチャットもちょっと来ております。はい。Fumiさんから、『おりちゃん、こんにちはー。電車の中から聴いてます』だったりとか、『看護師さんのノリ、最高ですね!』だったりとか。あと『抗がん剤治療中、吐く、脱毛など色々あった中で、どの副作用が当時一番辛かったですか?』、当時っていうこと伺ってますけど、どれが辛かったですか、一番。

牧野 一番辛かったのは、やっぱ吐くですね。吐けれないっていうのが、もう、どんどん、どんどん体力。

岸田 そうなんですよね。食べれないっていうのが、またね。何か入院中・・・。

牧野 私は個人的に辛かった。

岸田 本当に唯一の楽しみが食べるみたいなこともあったりとかすると思うんすけど、それが食べれないっていうのは、きついなと。それも吐いてっていう感じで、ありがとうございます。そして次のフリップ、こちらになります。治療が終了していって、そして先ほど言った部分寛解ということ言われています。ただ、復帰が白紙って、これ、どういうことですか。

牧野 これは職場の復帰が白紙にということだったんですけれども。その治療、がん診断とされ、診断された時に、職場と面談をして、これから先どうしていくかっていうようなお話だったんですねで。

 「一旦、退職してもらって、治療に専念してもらって、治療が終わったら、また採用するので、まずは治療に専念してください」ってお話だったんですよ。で、治療が終わって電話をしたら、「いや、あの時はとてもじゃないけど言えなかったけれども、あの話は無かったことにしておいてください」っていうふうに言われたっていうのが、こう。

岸田 わー、おまえは首だと。

牧野 アー、どこが私の社会復帰なんでしょうみたいなところでした。

岸田 ワー、そうなんや。あん時は、じゃあ、言えなかった。いや、あん時、言っといてくれよって感じですよ。

牧野 そう。私としても何でしょうね。また、そこに戻っていくことを目標に、いや、もう、吐いても耐えるし、こんだけ辛くて起き上がれなくても、何とかあの場所に帰るんだって思いだったので。ワーっていうのがありました。

岸田 あー、そう。牧野さん的には、どうなんすか。その時、嘘ついてでも待ってるからねって言って欲しかったのか、それともどっちのほうが良かったんしょ? 結局。

牧野 いや、やっぱり最初に言っておいてもらったほうが、何でしょう。

岸田 その後、プランに影響しますからね、自分の。

牧野 そう。そうなんですよ。それだけの時間の、何かもっと、何かね、そう、そうなんです。考えたりとかする時間も、そん時は、多分、恐らく凄いショックだと思うんですよね、言われたら、やっぱり。でもね。そう。これは、やっぱりずっと引きずりました。何年っていう単位で引きずりました。

岸田 そこのところは、ちょっと、また、お仕事のところで、またお伺いしていきたいと思います。

牧野 はい。また。

岸田 そして10月に両親とマラソン大会、完走と。もう、あれなんすか。牧野さんのご家庭は、もう全員筋トレして、マラソンもして、ガチガチムチな感じなんすか。

牧野 母は割と、こう、もともとジムに行ってっていう感じで、走ったりとかっていうふうで、母は割とそういうタイプだったんですけれども。父は腰痛にずっと悩まされていて、運動とかしなかったんですけれども、私がそのマラソン大会に出たいって、この6時間マラソンっていうのが治療する、最初に入院する、入院する日の前日にあったんです。同じ6時間マラソン大会があったんですね。

 そのマラソンを出るはずだったんですけれども、見に行って、来年は私もここに出てるぞっていうのを思っているってことは、両親は知ってたんです。そういうのもあって、また今年もあるぞとなった時に、去年、私は、来年ここに立ってるぞって決めてたところに、じゃあ、一緒に出ようよっていうふうで、父も本当に最初すっごい腰痛だったんですけど、ちょびっとずつ、「ゼー、ハー、苦しい」とかって、治療してないのに「苦しい」って言ってました。

岸田 いやいやいや。初っぱな、6時間を、良い子は真似しないください。

牧野 でも、殆ど父と母が走ってくれて、美味しいところだけ私が貰うみたいな。凄い、ちょびっとだけ走るみたいな感じでした。

岸田 完走し、その後、夢だった宮古島のトライアスロン大会、200キロ完走と。4年後か。この後、4年かけて体力を上げていったって感じ?

牧野 そうですね。最初は、やっぱり治療が終わって直ぐとかは歩くのも出来なくって、トイレに行くのも、ハイハイしてくような、そんなような状況だったんですね。そこから少しずつ練習をしていって、治療中にやはり私が半年後、この世にいないだろうなって思っていたのもあったんですけれども、その時からずっとトライアスロン、やりたいって思っていたんですね。

 その時に友達がこのLIVESTRONGっていう、これを作った方が、自転車選手がいるんですけれども、その自転車選手も、がん治療した後に、また選手として復帰するっていうふうで、本、書かれたんですね。

 その本を、その友達がくれて、今、こんな、すっごい状態だけど、また運動出来るようになるんだっていうことが、凄く生きる希望をくれたっていうのもあって、じゃあ、もう、ずっと夢だった宮古島も生き残ったら完走したい、チャレンジしたいって思いがありました。

岸田 そうなんすね。当時、そっか、アームストロングさんでしたっけ。

牧野 そうです。はい。

岸田 自転車選手が、パリ、ダカールじゃなくて、なんかあるよね。

牧野 そうですね。パリの何だっけ。ツールドフランスっていう。

岸田 ツール・ド・フランスに出場したランス・アームストロングが立ち上げた「LIVESTRONG」の活動ですね。その影響を受けて、実際に走るようになったと。

 そして、さらにアイアンマン・カナダ大会。226キロのトライアスロンを完走されていますが、これは日本を飛び出して、海外の大会に挑戦されたということですよね。

牧野 はい。トライアスロンは、自分一人では何を準備したらいいのかも分からない競技なので、近くのチームに入りました。そこにはコーチもいますし、チームメートもいて、色々教えてもらえる環境でした。

 その中で、「海外のレース、特にアメリカやヨーロッパの大会は雰囲気が全然違うから、一度行ってみるといいよ」と勧めてもらったんです。

 私自身は、ずっと宮古島トライアスロンが夢でした。学生の頃にトライアスロンという競技を知ってから、ずっと憧れていた大会です。

 ただ、宮古島を完走すれば何か変われるんじゃないか、という期待も正直ありました。職場復帰が白紙になったことで、「一人の人間として欠けている」と感じてしまった時期があって、「完走すれば自分は変われるかもしれない」と思っていたんです。

 でも、実際に宮古島を完走しても、生活は何も変わらなかったですし、自分自身も大きく変わった実感はありませんでした。治療中よりも、治療後のほうが、むしろ苦しかったと思います。

岸田 夢を叶えたのに、気持ちは晴れなかった。

牧野 そうですね。その時に紹介されたのが、アイアンマン・カナダ大会でした。この大会で、私は初めて「Cancer Survivor Never Give Up(がんサバイバー、今を楽しむことを諦めない)」というメッセージを身につけて走りました。治療中にランス・アームストロングの存在を知り、すごく勇気をもらっていたので、今度は自分が何かを伝える側になれないかと思ったんです。

岸田 自分のためだけでなく、誰かへのメッセージを背負って走ったんですね。

牧野 はい。そうしたら、本当にたくさん声をかけてもらいました。「何のがんだったの?」とか、「家族ががんだったけど、今は元気だよ」とか。

 実際にがんサバイバーの方から、「私も子宮がんだったけど、今こうして走っている」と声をかけてもらったこともありました。「あなたのメッセージが私の励みになる」と言っていただけたこともあって、逆にそれが私の励みになりました。

岸田 素晴らしい循環ですね。そして、その後はお父さまと一緒にマラソンにも挑戦されています。

牧野 はい。父は以前、6時間半のマラソンを走った後、「もう走らない」と言っていたんですが、私が楽しそうに運動している姿を見て、少しずつ変わっていきました。

牧野 見かねて水着をプレゼントしたら泳ぎ始めて、「苦しいけど楽しい」と言って続けてくれて、最終的には一緒にトライアスロンに出たり、100キロを走ったりするまでになりました。この時は、父のほうが私をリードしてくれました。

岸田 そこから2013年、早発閉経の診断ですね。

牧野 はい。出血が止まらないことがあって病院を受診し、血液検査の結果、早発閉経と診断されました。治療の影響も含めて、「色々な要因がある」と主治医から説明を受けました。

岸田 当時は30歳前後ですよね。

牧野 そうです。知識としては以前から聞いていましたので、「ついに現実になったな」という感覚でした。

岸田 その後、ご結婚され、不妊治療にも取り組まれたと。

牧野 はい。早発閉経の場合、可能性は低いけれど、「トライすることはできる」と言っていただき、不妊治療を始めました。ただ、副作用が強く出てしまい、日常生活が難しくなってしまったため、1~2回で断念しました。

岸田 それでも、その後、自然妊娠されたんですよね。

牧野 はい。本当に不思議なことですが、ありがたいことに自然妊娠しました。

岸田 その後、流産も経験されていますが、精神的な負担は大きかったのではないですか。

牧野 そうですね。期待しすぎないように、自分を守ろうとする気持ちはありました。「うまくいかないかもしれない」と、どこかで思っておくことでショックを和らげようとしていました。でも、実際に現実になると、やはりつらさはありました。

岸田 そっか。そして、その後、初めて友達や仲間に、がんのことを直接告白されたんですね。……ちょっと意外です。あれだけトライアスロンをして、「Never Give Up」みたいなメッセージも発信していたのに、直接は言っていなかったんですか?

 そうなんです。SNSや当時やっていたブログでは書いていたんですけれども、実際に会って「私、こういう病気だったんだよね」と口にしたことは、ほとんどなかったんです。隠していたわけでも、話したくないわけでもなくて……ただ、日常の会話の中で、そういう話題になるタイミングがあまりなかったんですよね。

 それに、これも「告白しよう」と思って話したわけではなくて。流産のあとも、ずっと自分を励ましてくれたのがトライアスロンで、子どもを亡くした後でも、もともとエントリーしていた大会があったので、「そこに向かってもう一回やっていく」と決めて。

 アイアンマンのアメリカの大会だったんですけれども、それを完走したんです。そのあと、トライアスロン仲間との合宿でその話をする機会があって、「思い出を話してよ」って言われたんですね。私にとっては、「メッセージを付けて走ったら、いろんな人に声をかけてもらえた」ということが一番の思い出で……でも、それを話すには「自分ががん経験者だ」という前提を言わないと伝わらないじゃないですか。そこがきっかけでした。

岸田 なるほど。周りの反応はどうでした?

牧野 すごくありがたかったです。知っている人もいました。SNSで知っていた人もいたんですけど、それでも「直接話してくれて嬉しかったよ」と言ってくれたり、「そういう話を聞く機会ってなかなかないから、もっと話してね」と言ってくれたり。気持ちを知る機会が少ないからこそ、話してくれることが助かる、って言ってもらえて、それは本当にありがたかったです。

岸田 良かったです。もし、隠していたことで距離ができたり、周りが離れたりしたら苦しいですからね。反応が温かかったのは大きいですね。そして次が、2019年1月。里親になって、特別養子縁組。これはまた後で詳しく伺いたいのですが、里親になる決断をされたんですね。

牧野 はい。子どもを亡くした頃に、たまたま制度を知って、里親登録をしました。

岸田 このお話も、後ほどしっかり聞かせてください。そして、その後、がん支援チャリティーのオンラインマラソン大会を主催された。これは今月、つい先週ですね。

牧野 そうです。先週、開催しました。岸田さんもご参加いただいてありがとうございました。ずっと「スポーツでがん支援をすることって、自分にも何かできないかな」と思っていたので、今回、形にできたのはすごく嬉しかったです。

岸田 ありがとうございます。では、ここまでのお話を踏まえて、当時の写真、治療中の写真、そして今の写真を見ていきたいと思います。

 まず、治療を始める前の写真がこちら。どちらも素敵ですが……「どこを卒業したんですか?」って言いたくなる雰囲気ですね。土木を勉強されていたんでしたっけ?

牧野 はい。あと、17歳の時に1年間、コスタリカに留学していて、帽子をかぶっている方の写真がその時のものです。

岸田 コスタリカ。左側ですね。日焼けしてますね。

牧野 そうですね。この時もずっと水泳をしていました。

岸田 コスタリカは、スペイン語ですよね?

牧野 すごい、よくご存じです。はい、スペイン語です。

岸田 1年間、現地で生活していたんですね。

牧野 最初は「トイレ行きたい」とか「お腹すいた」とか「水飲みたい」くらいしか言えなかったんですけど、普通の高校に通って、ホームステイをして、近所のスイミングチームにも入って、という生活でした。

岸田 だから海外のトライアスロンにも行ける背景があるんですね。もう一枚の写真は、水泳の大会で入賞した時?

牧野 そうです。学生時代で、就職する直前の写真ですね。

岸田 ただ、その時点で、もう体の中では病気が進んでいた可能性があったと。

牧野 そうなんです。後から学生時代の健康診断を取り寄せたら、すでに異常が出ていたというか……そういう状況でした。

岸田 そして治療中の写真がこちら。かなり浮腫んでいますね。

牧野 浮腫んでます。いい浮腫み具合で。

岸田 左側は、さっき言っていたリンパの影響が出ていた頃の写真ですか?

牧野 これは髪の毛が少し生えてきているので、放射線治療中の写真ですね。放射線治療中に「撮っておこう」と思って撮りました。ツルツルの時に撮っておけばよかったな、と後から思いました。

岸田 放射線治療中の写真、ということですね。少しお顔がふっくらされているように見えますが、やはり治療の影響でしょうか。

牧野 すみません。こちら、タオル帽子を被っている写真は、放射線ではなく抗がん剤治療中のものです。

岸田 ご家族と一緒に写っている写真ですね。

牧野 はい。母と父と、3人で写っています。

岸田 一番左の写真ですね。タオル帽子を被っていて、かなりお顔がふっくらされていますね。いわゆるムーンフェースでしょうか。

牧野 はい、ムーンフェースです。プレドニンの影響ですね。

岸田 治療の影響でそうした変化が出ていた、と。ありがとうございます。では次に、治療後の写真を見ていきたいと思います。こちらの写真は、お父さまと一緒に写っているものですね。

牧野 そうです。これは父です。父と一緒に100キロ走った時の写真ですね。

岸田 おお、なるほど。そして、その隣の写真はトライアスロンで自転車に乗っている場面ですね。

牧野 はい。こちらは先ほどお話ししたアイアンマンの大会で、カナダで開催された時の写真です。

岸田 すごいですね。ここまで出場できるようになるまで、かなりリハビリというか、体力づくりも大変だったのではないですか。

牧野 そうですね。私自身は「乗ることが楽しい」という気持ちで続けてきたんですけれども、練習中は、正直、泣きながら自転車に乗っていた時もありました。「なんでこんなに辛いんだろう」と思いながら、それでも漕いでいました。

岸田 本当に……その言葉の重み、伝わってきます。ありがとうございます。
今こうして元気に活躍されている牧野さんの姿は、治療中の患者さんにとっても、大きな希望になると思います。ここで、視聴者の方からコメントもいくつかいただいていますので、紹介させてくださいね。

 「マーベル!」という声や、「畑仕事をしながら聞いています。牧野さんのこれまでの歩みに目がキラキラしています」というコメントも届いています。そして、「結婚するにあたって、お相手の理解やハードルはありましたか?」という質問もいただいています。このあたりも、後ほどじっくり伺っていきたいですね。

【家族(親)】

岸田 それでは、いくつか項目ごとにお話を伺っていきたいと思います。まずは「ご家族のこと」についてお聞きしたいです。
これまでのお話を伺っていると、ご両親との関係はとても良好で、しっかりサポートしてもらっていた印象がありますが、実際にはどのように病気のことを伝えたり、また「こうしてもらって嬉しかった」「こういうサポートがありがたかった」と感じたことはありますか。

牧野 後日談になるんですけれども、これは治療が終わって何年か経ってから知ったことなんですが、私の転院が決まった時、最初に母が総合病院で検査結果を聞いた日に、実は父と母の二人でかなり泣いていたそうなんです。そのことを、私はずっと知らなかったんですね。

牧野 というのも、転院してからも、治療中も、父も母も私の前ではずっと笑っていてくれていました。「辛い」とか「苦しい」といった言葉も口にせず、泣く姿も見せなかったので、そういうものなのかなと思っていたんです。

牧野 それが何年か経ってから、「実はあの時、二人で相当泣いていたんだよ」と聞いて、ああ、そういう時間が裏にあったんだな、と改めて感じました。

岸田 ご両親は、牧野さんの前では気丈に振る舞いながら、陰ではしっかり感情を抱えて支えていらっしゃった、ということですね。
ところで、牧野さん、ご兄弟はいらっしゃいますか。

牧野 弟がいます。

岸田 弟さんの反応はいかがでしたか。

牧野 実は当時、弟は留学中だったんです。

岸田 海外ですか。

牧野 はい。私はコスタリカでしたが、弟は中国でした。場所は近いですね。

岸田 確かに、海外ですね。

牧野 その時はメールで伝えた記憶があります。正直、わざわざ伝えなくてもいいかなとも思ったんですけれども、移植の話が少し出ていたこともあって、弟が候補になる可能性もゼロではなかったんですね。

牧野 また、たまに帰国することもあったので、もし突然、治療中の姿――タオル帽子をかぶって、顔も変わっている状態を見て、驚かせてしまうのも嫌だなと思って、「一応、知っておいてね」という感じで、さらっと伝えました。

岸田 弟さんの反応はどうでしたか。

牧野 とても淡々としていて、「分かったよ」くらいの感じでした。実際に帰国した時も、特別扱いすることもなく、以前と変わらず普通に接してくれたんです。それが本当にありがたかったですね。

【恋愛・結婚】

岸田 ありがとうございます。では次に、先ほどもご質問がありました「恋愛・結婚」について伺っていきたいと思います。
まず確認ですが、2010年頃、治療後すぐにお別れを経験されていますよね。

牧野 はい。治療中、最後の5クール目で振られました。これは今でもはっきり覚えています。

岸田 そのお話、伺っても大丈夫でしょうか。

牧野 大丈夫です。彼はまだ学生で、治療中も会いに来てくれてはいたんです。ただ、今思うと、20代前半の彼にとっては相当大変だったと思います。

牧野 「治療が終わったら、また付き合おう」と言われていました。

岸田 理由ははっきり言われたわけではなく?

牧野 はい。「学校のことがある」「卒業が近い」など、かなり遠回しでした。
お互いにバタバタしているから、治療が終わって落ち着いたら、という感じでしたね。

岸田 治療も、彼も、それぞれ大変な時期だった。

牧野 そうですね。

岸田 その後、治療が終わって、関係は戻ったんでしょうか。

牧野 いえ、私のほうが難しかったです。

岸田 そうだったんですね。

牧野 仕事の復帰の話も重なって、気持ち的に余裕がありませんでした。

岸田 治療中に振られるというのは、やはりかなり堪えますよね。

牧野 本当にそうでした。ちょうどその頃、血液検査で「6クール目が打てません」と言われた時期でもあって。
白血球が上がらず、治療を1週間延期することになったんです。

岸田 身体的にも精神的にも、かなりきついタイミングですね。

牧野 はい。だからこそ、最後まで一緒にいてほしかった、という思いはありました。

岸田 その後、新しい恋愛では、がんのことはどのタイミングで伝えたんですか。

牧野 次に声をかけてくれた方がいた時には、自分から伝えました。「実は、こういう病気を経験していて」と。
そのうえで、「今はあまり恋愛に前向きになれない」とも正直に話しました。

岸田 そこから、現在のご結婚に至るわけですね。結婚を考えるようになったきっかけは何だったのでしょう。

牧野 トライアスロンを始めてからですね。身体が元気になると、心も元気になってきました。
誰かに評価してほしいわけではなく、「がん治療をして、トライアスロンをやっている自分、結構かっこいいんじゃない?」と、自分で思うようになったんです。そうすると、自然と自信のようなものが生まれてきました。

岸田 その時、今のご主人とは。

牧野 当時、職場が一緒でした。
「キャンサー・サバイバー・ネバー・ギブアップ」とメッセージをつけて大会に出ていることも知っていましたし、一緒に大会にも出ていました。

岸田 日本の方ですか。

牧野 はい、日本人です。

岸田 では、結婚にあたって、ご本人は理解があったとして、ご両親はいかがでしたか。いわゆるハードルや壁はありましたか。

牧野 ありました。ハードルというより、壁ですね。隙間のない壁でした。

岸田 かなり強い反対だったと。

牧野 そうです。最初は、見た目も普通になっていましたし、黙っていようかなとも思ったんです。
でも、それは自分の良心的に違うと思って、病気のことをきちんと伝えました。

牧野 「今は元気にトライアスロンもやっています」とも話したんですが、そこから関係が進まなくなりました。

岸田 ご両親とは、結局お会いできず。

牧野 はい。一言で言えば、反対でした。

岸田 それは本当にきついですね。

牧野 顔合わせの話まで進んでいたので、なおさらでした。

岸田 それでも、ご主人は。

牧野 夫は、「両親の意見は意見。でも、自分は自分の人生を生きたい」と言ってくれました。

岸田 すごいですね。

牧野 本当に、ありがたかったです。旦那さんが凄いです。旦那、凄い。

【妊よう性】

岸田 旦那さま、本当に素晴らしいですね。その流れで伺いたいのですが、結婚のお話とも重なる部分として、「妊孕性」についてお聞きします。
牧野さんは、先ほど早発閉経のお話もありましたが、ご病気の当時、妊孕性についての説明はありましたか。

牧野 ありました。

岸田 妊孕性というのは、子どもを授かる力のことですね。

牧野 そうですね。治療を受けると月経が止まる可能性があることや、止まっても何パーセントかは戻る可能性がある、というような説明は、数字として書面で示していただいていました。

岸田 2003年当時ですと、卵子保存や卵巣保存といった選択肢は、まだ一般的ではなかったですよね。

牧野 そうなんです。まったく無かったわけではないのですが、かなり限定的でした。
私自身、当時の病状を考えると、妊孕性を維持するのは難しいだろうな、という思いもありました。

牧野 治療を一時中断して採取に行くのか、それとも計画どおり治療を優先するのか、という選択肢がありましたが、主治医からも「月経が戻る可能性はある」と説明を受けていました。

牧野 ただ、私自身が進行期であるという現実を前にして、このまま治療を優先しようと判断した記憶があります。

岸田 タイミングとしても、非常に難しい判断ですよね。結果的には、妊孕性が低下、あるいは喪失していったという形になるのでしょうか。

牧野 そうですね。結果的には閉経という形になりました。

岸田 その後、この妊孕性の問題は、結婚においても大きなテーマだったと思います。
結婚される際には、その点についても、もちろん旦那さまとお話しされたのですよね。

牧野 はい。その時点で、私が早発閉経であることは分かっていましたし、そのこともすべて伝えていました。

牧野 それでも夫は、「子どもがいるかどうかではなく、誰と一緒に生きていくかが大事だ」と言ってくれました。

岸田 うわあ……。

牧野 本当に、ありがたい存在です。

岸田 旦那さま、素敵すぎます。

牧野 本当に、感謝しかありません。

【里親・養子縁組】

岸田 そして、そして、その後、こちらのフリップが「里親・養子縁組」というところになるんですけれども、里親になる、そして養子縁組をする、というのはどういう流れになるんでしょうか。

牧野 そうですね。特別養子縁組は、すぐに成立するわけではありません。最初に、約半年間、あるいは半年以上の「養育期間」として、一緒に生活をする必要があります。ですので、まず里親として子どもを迎え入れて、その期間を経たうえで、特別養子縁組を申し立てる、という流れになります。

岸田 なるほど。そうしようと思ったきっかけとしては、先ほどお話しされていた流産のご経験があって、子どものことを調べる中でこの制度を知り、「利用しよう」と思われた、という理解で合っていますか。これはご夫婦お二人で話し合って決められたんでしょうか。

牧野 そうですね。それもありますし、実は私の母が養子縁組の当事者なんです。

岸田 ええ、そうなんですか。

牧野 はい。親族間の養子縁組だったので、当時は「特別」とか「普通」といった区分はなかったんですが、私自身、おばあちゃんが三人、おじいちゃんが三人いる、というような環境で育ってきました。そのことは夫も知っていて、「こういう制度もあるみたいだよ」という話をしたところ、感覚的に拒否されることもなく、「まずは話を聞きに行って、そこから考えよう」という形になりました。

牧野 里親になるには研修なども必要なんですが、私は自治体の児童相談所を通じて登録をしました。登録をしながら、研修を受けながら、夫婦で一緒に考えていこう、という流れでしたね。

岸田 そうだったんですね。比較的、スムーズに進まれた印象があります。

牧野 そうですね。私の両親も当事者ということもあり、特に母は、「え?」と驚くというよりは、「いいんじゃない」と応援してくれる立場でした。

岸田 素敵ですね。今、お子さんはおいくつなんですか。

牧野 今、3歳になりました。

岸田 ということは、0歳の時に里親として迎えられたんですね。

牧野 そうです。生まれてすぐのタイミングで連絡をいただいて、そこから一緒に生活を始めています。

岸田 お子さんがもう少し大きくなったら、ご自身のことやルーツについてお話ししていく、という形になるんでしょうか。

牧野 はい。一応、9歳くらいまでを目安に「真実告知」と呼ばれる形で伝えていきましょう、という考え方があります。これはその子の人生ですし、自分のルーツを知ることもとても大切なことなので、段階的に伝えていく予定です。実は、もう少しずつ伝え始めています。

岸田 そうなんですね。とはいえ、今はまだ3歳ですもんね。

牧野 そうですね。あとは、写真を貼ったりして、自然に分かるような工夫もしています。

【仕事】

岸田 ありがとうございます。では次に、お仕事のことについて伺っていきたいと思います。先ほど「復帰が白紙になった」というお話がありましたが、その後、現在のお仕事に至るまで、どのような過程があったのでしょうか。

牧野 はい。現在は、幼稚園で水泳を教える仕事をしています。治療が終わってすぐの頃は、いきなりプールに入ることに自分自身あまり自信が持てなかったので、まずはプールの監視員の仕事から始めました。

岸田 アルバイトのような形でしょうか。

牧野 そうですね。最初はアルバイトでした。本当に最初の一歩、という感じです。

岸田 それは、治療が終わってどれくらい経ってから始められたんですか。

牧野 放射線治療が終わるか終わらないか、というくらいのタイミングでした。

岸田 ということは、「復帰が白紙になった」と言われた後ですね。

牧野 そうです。白紙になったと連絡をもらったのは放射線治療の前でした。その後、治療が終わる頃に、まだ髪の毛もほとんど生えていない状態で、かつらを着けてプールの監視員をしていました。

 ただ、周りの方に「実はかつらなんです」と話したら、「外してみたら?」と言われて、外してみたら「髪が短いの、かっこいいよ」と言ってもらえて。それをきっかけに、ウィッグを着けずに仕事をするようになりました。

岸田 そこから、プールの監視員を経て、水泳の仕事に戻っていかれたんですね。

牧野 はい。監視員の仕事のほかに、一般事務のアルバイトなど、体力をつけるための仕事も並行して行っていました。その後、2005年頃に水泳のアルバイトを始めました。

牧野 ただ、その頃はまだ体調が安定しない部分もありましたし、トライアスロンの練習にも力を入れたい時期だったので、いったん水の仕事から離れて、ウェブサイト制作などの陸の仕事をしていました。

岸田 その際、就職活動では、ご病気のことも伝えていたんですか。

牧野 はい。その頃は伝えていました。治療後すぐに走り始めて、宮古島トライアスロンを目指して練習していたこともあり、「病気で一度立ち止まったけれど、今はこうして動いています」ということは、自分の強みとして伝えていました。

牧野 白紙の期間はマイナスに見られがちですが、「その期間にこういう経験をして、今はトライアスロンに挑戦しています」と話すことで、受け取り方が変わることもありました。ただ、それでも採用に至らなかったこともあります。

岸田 それでも挑戦を重ねて、今のお仕事につながっていったということですね。

牧野 はい、そうです。

【お金・保険】

岸田 ありがとうございます。では、その当時の治療や、お金・保険のことについても伺いたいと思います。当時は社会人でしたが、貯蓄などの面ではどうだったのでしょうか。

牧野 はい。

岸田 治療費については、ご両親が出してくださった、という形ですか。

牧野 はい。すみません、出していただきました。

岸田 いやいや、全然「すみません」じゃないですよ。それはもう家族ですから。

牧野 ありがとうございます。あと、高額療養費制度も使いました。

岸田 高額療養費制度ですね。

牧野 はい。それは利用しました。

岸田 保険については、何か入っていたか覚えていますか。

牧野 それが、あまり把握していなくて。入っていたとしても、郵便局系の保険に入っていたよ、という話を母から聞いたことがあるくらいでした。

岸田 ということは、ご両親が保険も含めて管理されていた、という感じですね。

牧野 そうですね。すみません。

岸田 いえいえ、全然ですよ。

牧野 本当に、面倒を見ていただきました。

【辛い・克服】

岸田 ありがとうございます。では次に、「辛かったこと・それをどう克服したか」という点について伺いたいと思います。精神的・肉体的に一番辛かったタイミングは、いつ頃だったでしょうか。

牧野 精神的に一番辛かった時期は……どこだろう。本当に色々ありますね。たくさんあります。

岸田 そうですよね。今までのお話に出ていない中で、特に辛かったことはありますか。

牧野 そうですね。お話していない中で一番辛かったのは、宮古島トライアスロンを完走してから、アイアンマン・カナダに出場するまでの間だったと思います。

岸田 その時期、何があったのでしょうか。

牧野 「どうして私、生き残ってしまったんだろう」と思っていました。

岸田 逆に、という感情ですね。

牧野 はい。どうしてあの時、私は死ななかったんだろう、と。申し訳ない気持ちもありましたし、そう思ってしまう自分がいました。かなり気持ちが落ち込んでしまって、会社を辞めた時期もありました。

牧野 何をしていても、治療前に思い描いていた人生――スポーツクラブで正社員として働いて、いつかトライアスロンをやる、という姿には戻れない。その現実を突きつけられて、「自分は一人の人間として欠けてしまったのではないか」と、強く感じていました。

岸田 そこから、どうやってメンタルを立て直していったのでしょうか。

牧野 しばらくは本当に動けませんでした。でも、このまま何もしなかったら、本当に駄目になってしまうと思って。「トライアスロンの練習会だけは、必ず行こう」と決めました。

岸田 ちゃんと外に出ることを選ばれたんですね。

牧野 はい。外に出ました。

岸田 ありがとうございます。では、肉体的に一番大変だったのは、やはり抗がん剤治療中でしょうか。

牧野 そうですね。抗がん剤治療が進むにつれて、トイレに行くのも大変になり、ハイハイしないと動けなかったり、階段を上がれなかったりしました。

岸田 それは相当きついですね。

牧野 はい。本当に辛かったです。

岸田 抗がん剤治療が終わってからは、吐き気などの症状は徐々に落ち着いていった、という感じでしょうか。

牧野 そうですね。時間とともに、そういった症状は回復していきました。

【後遺症】

岸田 その後、体力的にはトライアスロンやマラソンに出場されるなど、しっかり取り戻してこられたと思いますが、後遺症について伺いたいと思います。現在、何か残っている症状はありますか。

牧野 手先のしびれは、やっぱり残っていますね。

岸田 手先のしびれですね。それはお仕事には影響はありませんか。

牧野 仕事に大きく影響するほどではないんですけど、日常生活ではありますね。例えば、ペットボトルのふたを開ける時に、「痛っ」とか、「開かない」とか。

岸田 ありますよね、そういう瞬間。

牧野 はい。「あ、そういえばまだ残ってるな」って思う時があります。

岸田 地味にくる感じですね。

牧野 本当に、地味に。

岸田 完全には取れず、しびれが残っているという感じですか。

牧野 そうですね。残っている、という感覚です。

岸田 それはもう、一生付き合っていくような。

牧野 はい。もう、これはお付き合いですね。

【反省・失敗】

岸田 ありがとうございます。そして、反省・失敗について伺いたいと思います。

牧野 本当に、凄くたくさんあります。もう、あり過ぎて。正直、タイムスリップして、当時の自分の肩をトントンって叩いて教えてあげたいくらいです。

岸田 その中でも、特に印象に残っている失敗はありますか。

牧野 抗がん剤治療中でも、時々、身体の調子が良い日や、気分が少し楽な日ってあったと思うんです。その時に、ただジーっとゴロゴロしていたことですね。

岸田 ああ……。

牧野 今思うと、「動け! 本当に動け!」って思います。少しでも身体を動かしておけばよかったなって。

牧野 その結果、筋力がどんどん落ちてしまって、何度もお話ししていますけれど、抗がん剤治療が終わった時には、トイレに行くのもハイハイみたいな状態だったので。

岸田 かなり落ちてしまっていたんですね。

牧野 そうなんです。だから、気分が良い時は外に出ろとか、外に出られなくても階段の上り下りをするとか、ほんの少しでも動いておけばよかったなって、今はすごく思います。

岸田 ちょっとでも運動しておけ、ということですね。

牧野 本当に、それは強く思います。

【医療者へ】

岸田 大変ありがとうございます。そして次に、医療者の方々へ、というテーマでお伺いしたいと思います。当時の医療者の方々への感謝でも、「こうしてほしかった」という要望でも構いませんが、何かありますか。

牧野 医療者の方々には、本当に感謝しかありません。例えば、さっき少しお話しした髪の毛が抜けていくことも、ただ深刻に受け止めるだけではなくて、一緒に楽しむような雰囲気で関わってくれたことが、すごく嬉しかったなと思っています。

岸田 確かに、それは救われますよね。

牧野 それから、この3月で、診断から18年間お世話になった主治医の先生が定年退職されたんです。その先生と出会っていなかったら、私は治療を最後までやり遂げることは出来なかったと思っています。

岸田 それは大きな存在ですね。

牧野 はい。というのも、治療中、本当に辛くなってきた時に、「この薬を入れると、すごくしんどいんです」とか、正直な気持ちを先生にそのまま伝えていたんですね。

岸田 うん。

牧野 そうしたら、その先生はとても穏やかで優しい方だったんですけれど、「これは先生がお願いしてやっている治療じゃないんだよ」と言ってくれたんです。

岸田 なるほど。

牧野 「これは、あなたが選択して、あなた自身がやっている治療なんだよ」と。その言葉をかけてくれたんです。

牧野 それって、患者にとってはすごく重たい言葉でもありますし、先生にとっても言うのは辛かったと思うんです。でも、その一言があったからこそ、「私は自分でこの治療を選んだんだ」と思えるようになって、もう一度、治療と向き合おうという気持ちになれました。

岸田 主体的に向き合えるようになった、と。

牧野 そうですね。治療に対して「やらされている」のではなく、「自分がやっている」と思えたことが、最後まで治療を続けられた一番大きな理由だったと思います。そういう姿勢を教えてくれたのが、主治医の先生でした。

【Cancer Gift】

岸田 その言葉、そうですね。「自分がちゃんと選んでるんだよ」という言葉。何かを強制されているわけではなくて、自分が納得して受けている治療なんだ、という感覚を持てることって、本当に大きいですよね。素敵なお話をありがとうございます。
そんな言葉に支えられながら、辛いこともたくさんあったと思うのですが、「Cancer Gift」という観点で、あえて「良かったこと」を挙げるとしたら、どんなことになりますか。

牧野 「Cancer Gift」と聞いたとき、私も最初は何だろうって考えたんですけど、一言で言うと「使命感」だと思っています。

岸田 使命感。

牧野 はい。不思議な使命感です。診断されて、臨床試験治療を受けることになって、色々な情報を探そうとしても、そもそも受けている人が少なくて、なかなか辿り着けなかったんです。私の病気自体、日本人には少ないタイプだったというのもあって。

牧野 「じゃあ、だったら私が情報を出していこう」と思ったんですよね。同じ状況の人が、少しでも迷わなくて済むように。その気持ちが自然と湧いてきて、それが使命感だなって思っています。

岸田 だからこそ、今の活動にも繋がっているんですね。

牧野 そうですね。チャリティー・マラソンを企画したり、発信を続けているのも、全部そこから繋がってきていると思います。

【夢】

岸田 使命感ですね。それを、がんが教えてくれたものだと受け止めていらっしゃる。その上で、改めてお伺いしたいのですが、牧野さんの今後の夢を教えていただけますか。

牧野 今後の夢としては、今回、先週行ったチャリティー・マラソンもそうなのですが、「生きる希望の輪を広げていく」ということです。私自身、今日も何度もお話ししていますが、スポーツがとても好きで、自分にとって大切な分野です。その好きな分野を通して、がん支援につながる活動を続けていきたいですし、もっと多くの方に広げていけたらいいなと思っています。

岸田 支援の輪を、さらに広げていくということですね。ぜひ、これからも牧野さんらしい形で、活動を続けていっていただけたらと思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。

牧野 こちらこそ、ありがとうございました。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。ここまでさまざまなお話を伺ってきましたが、最後に、これまでの歩みを「ペイシェントジャーニー」として振り返っていきたいと思います。
私のほうで、牧野さんの2003年から現在までを、上に行くほどハッピー、下に行くほどアンハッピーという形で整理してみました。赤色がポジティブ、青色がネガティブ、白色がどちらでもない状態です。

岸田 まず、スポーツクラブへの入社から始まり、体調不良で休職し、実家に戻られています。その後、「顔が腫れた」という出来事が、意外にもポジティブに位置づけられていますが、この時は前向きな気持ちだったのでしょうか。

牧野 そうですね。「うつではなかった」と分かったことが大きかったです。原因がはっきりしてきた、という感覚がありました。

岸田 なるほど。その後、検査入院を経て、がんの告知、ステージⅣと診断されます。このタイミングは、プラスでもマイナスでもない、ゼロ地点に近い位置づけですね。

牧野 はい。それまで「何が起きているんだろう」と分からなかった状態から、ようやく理由が分かった、という感覚でした。

岸田 その後、抗がん剤治療や副作用、恋人との別れ、放射線治療と続きます。かなり大変な時期だったかと思います。一方で、部分寛解は大きく上がるわけではないのですね。

牧野 はい。「部分寛解」と言われても、実感としては曖昧で、戦う相手が見えなくなったような感覚がありました。

岸田 その後、マラソン大会への参加がありますが、こちらは当初ネガティブに配置されていました。

牧野 すみません、それは間違いで、実際にはポジティブでした。ただ、治療前と同じようには走れない、という現実も同時に感じていました。

岸田 なるほど。ポジティブな出来事の中に、ネガティブな感情も混ざっていたということですね。

牧野 そうですね。

岸田 その後、トライアスロン完走、カナダ大会での「ネバー・ギブアップ」のメッセージ、お父さまとのレース、そして早発閉経、不妊治療、結婚、流産と続きます。
念のため補足ですが、結婚そのものが辛かったわけではないですよね。

牧野 はい。結婚自体はとても良い出来事でした。ただ、そこに「壁」があった、という感じです。

岸田 そして、仲間へのカミングアウト、里親・特別養子縁組、チャリティー・マラソンの主催へとつながっていきます。
こうして全体を振り返ってみて、補足しておきたいことはありますか。

牧野 こうして可視化してみると、ネガティブな出来事が本当に多いなと感じました。それでも、よくここまで来たなと、自分を少し褒めてあげたい気持ちになりました。

岸田 可視化することで、改めて実感されますよね。

牧野 はい。とてもありがたい機会だと思いました。

岸田 ありがとうございます。いつも明るく笑顔の牧野さんですが、その裏には、これだけ多くの大変な時間があったということが、皆さんにも伝わったのではないかと思います。

牧野 ありがとうございます。

岸田 ここまでで、一通りお話を伺いました。ここで少し番組からのご案内です。
本番組「がんノート」は、「生きる」を創るをテーマに、Aflac様、IBM様、アイタン様のご協賛をいただいております。いつもご支援ありがとうございます。

岸田 次回の『がんノート』は、6月19日、午前10時30分から、精巣腫瘍の池内さんをゲストにお迎えします。病気のお話だけでなく、ご家族やお仕事についても伺う予定です。

岸田 また、視聴者の皆さまへのお願いです。番組終了後、概要欄やチャット欄に掲載するURLから、ゲストへのメッセージをお寄せください。後日、色紙にして牧野さんへお届けします。

岸田 最後に、いただいているコメントをいくつかご紹介します。「スポーツクラブに入りました」「素敵なご主人ですね」「使命感、生きる理由ですね」など、多くの温かい声が届いています。

牧野 ありがとうございます。

岸田 ご主人のお話も、ぜひまた伺いたいですね。

牧野 はい。伝えておきます。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 そんな中で、最後に牧野さんから、今まさに闘病中の方へ向けて、メッセージをいただきたいと思います。
がんノートが続いている理由でもありますが、この放送を見てくださっている方へ、これまで多くの経験を重ねてきた牧野さんから、一言メッセージをお願いします。

岸田 こちらに書いていただいた言葉は、「Attitude is Everything」。
“生きる姿勢がすべて”というメッセージですが、そこにはどのような思いが込められているのでしょうか。

牧野 「Attitude is Everything」、生きる姿勢がすべてだという言葉は、私自身がずっと大切にしてきた考え方です。
人生には良い時も、そうでない時もありますが、そのすべてを含めて、自分の人生だと思っています。

牧野 どうしても、良い結果を求めてしまいがちですが、結果がどうであっても、向いている方向がポジティブでもネガティブでも、どちらであっても、「今、この瞬間を生きようとする姿勢」そのものが大切だと思うんです。

牧野 自分が今、生きているということ。それ自体が、結果に関係なく、本当に素晴らしいことです。
今ここにいるあなたの存在そのものが、とても尊くて、価値のあるものなんだよ、ということを、心から伝えたいと思っています。

岸田 今ここにいる、その姿自体がもう素晴らしい。無理に前向きでいなくても、そのままの姿が大切だということですね。

牧野 はい、そうなんです。とても素敵な補足をありがとうございます。

岸田 「Attitude is Everything」。本当に心に残る言葉をありがとうございます。

岸田 これで、がんノートは締めくくりになりますが、90分間お話しされてみて、いかがでしたか。

牧野 本当にあっという間でした。こんなにじっくりと自分自身の話をする機会は初めてで、私にとっても、これまでを振り返るとても良い時間になりましたし、次の一歩につながる感覚がありました。ありがとうございます。

岸田 こちらこそありがとうございます。お話を聞かなければ知ることのできないエピソードばかりでしたし、里親や特別養子縁組についても、多くの学びをいただきました。

岸田 それではこれにて、『がんノート origin』を終了したいと思います。
皆さん、また次回の放送でお会いしましょう。

牧野 ありがとうございました。コメントやメッセージも、本当にありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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