目次
- 【発覚から告知まで】テキスト / 動画
- 【家族】テキスト / 動画
- 【妊よう性】テキスト / 動画
- 【育児】テキスト / 動画
- 【仕事】テキスト / 動画
- 【お金・保険】テキスト / 動画
- 【辛い・克服】テキスト / 動画
- 【後遺症】テキスト / 動画
- 【反省・失敗】テキスト / 動画
- 【医療者へ】テキスト / 動画
- 【Cancer gift】テキスト / 動画
- 【夢】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
- 【今、闘病中のあなたへ】テキスト / 動画
※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。
インタビュアー:岸田 / ゲスト:古川
岸田 本日のゲストである古川さんに、いろいろなお話を伺っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
古川 イエイ。
岸田 古川さん、簡単で構いませんので、自己紹介をお願いできますでしょうか。
古川 はい。皆さん、おはようございます。古川愛と申します。奈良県出身で、現在は東京に住んでいます。今日はちょうど、東京から奈良に移動する途中で、親戚の家にいます。帰り行脚の最中です。
岸田 里帰り行脚の途中で、親戚のお宅にいらっしゃるということですね。
【発覚から告知まで】
古川 正確に言うと、夫の実家の近くにある親戚の家に来ていまして、現在は三重県におります。お盆の時期ということもあり、少し慌ただしい状況です。現在の年齢は38歳で、5年前の33歳のときに、乳がんステージ1と診断を受けました。その当時、実は妊娠中で、翌月には出産予定日を控えているタイミングでした。そのような状況で「がんです」と告知を受けたという経緯があります。岸田さんと同じく、いわゆるAYA世代のがんに該当する世代になります。本日は、そのあたりのお話が少しでも参考になればと思い、お話しできればと思っています。よろしくお願いいたします。
岸田 よろしくお願いします。ありがとうございます。出産を控えたタイミングでの告知ということで、その点についても、後ほど詳しくお話を伺えればと思っています。それでは早速ですが、古川さんの「発覚から告知まで」についてお聞きしていきたいと思います。まず、発覚のきっかけはどのようなものでしたか。
古川 私は6月から産前休暇に入る予定だったのですが、その前月の5月、ちょうどゴールデンウィークの頃でした。比較的生活に余裕があり、バタバタしていない時期だったと思います。そのとき、左胸にしこりを見つけました。「あれ?」と思い、「こんなもの、前からあったかな」と違和感を覚えたのが最初です。自分自身で異変に気づいたことが、発覚のきっかけでした。

岸田 では、2016年からお伺いしていきたいと思います。まず2016年に妊娠が判明し、その後2017年の5月から7月にかけて、先ほどお話にあった左胸のしこりを発見されたということですね。
古川 そうなんです。「あれ?」と思い始めました。実は会社の定期健診で、毎年乳がん検診を受けていたんです。それまでは一度も異常がなくて。でも今回は、ちょっとおかしいなと感じました。ちょうど年に一度の乳がん検診の時期だったので、「これは行ったほうがいいな」と思ったんです。その時点では、悪性かどうかという判断は全くなくて、「がんかもしれない」とまでは思っていませんでした。しこり=乳がん、という発想にも至っていなくて、「何か変だな」という感覚だけでした。
検診自体も、「どうせなら産前休暇に入って、少し余裕ができてから行こう」と思って、6月に予約を入れました。その1カ月間は仕事をしながら過ごしていたんですが、日が経つにつれて「だんだんおかしいぞ」「もしかして…」という気持ちが強くなっていきました。それでも確信は持てないまま、6月の乳がん検診の日を迎えた、という流れです。
岸田 しこりを発見して、定期的に受けていた乳がん検診を1カ月後の6月に受診されたということですね。そのときの検診は、マンモグラフィーではなくエコー検査でしたか。
古川 はい、そのときはエコーだけでした。マンモグラフィーはしていなかったと思います。会社の定期検診では、若い人はエコーで十分という方針だったと思います。
岸田 その乳がん検診を受けて、何かその場で言われることはありましたか。
古川 毎年は「はい、問題ありません」で終わるんですけど、その年はとにかく検査が長かったんです。すごく念入りで、「これはおかしいな」と感じました。普段は看護師さん一人で終わるのに、そのときは途中で先輩らしき方が来て、さらにもう一人加わって、三人体制で検査をされていました。
岸田 それはもう、ただ事ではない感じですよね。
古川 はい、「これはただ事じゃないぞ」という空気でした。
岸田 その検診の結果、大学病院など大きな病院を受診するように言われたのですか。
古川 そうです。検診を終えたあと、「少し覚悟しておいたほうがいいかもしれません」と言われて、翌日にもう一度来てくださいと呼ばれました。通常はそういうステップはないので、その時点で何かあると感じました。その際に「出産も治療もできる病院を受診してください」と言われました。
岸田 出産と治療の両方ができる病院ということは、その時点で、出産関係でも大きな病院に通われていたのですか。
古川 いえ、全く通っていませんでした。妊娠についても、普通の町のクリニックに通っていましたし、里帰り出産を予定していたので、実家近くのクリニックに行くつもりでした。ただ、出産と治療が同時並行になる可能性があるので、乳腺外科と産科の両方がある病院を勧められました。
たまたまだったのですが、その産科クリニックと提携している病院が大学病院で、そこにブレストセンターがあったんです。
岸田 ブレストセンターというのは、どういったところですか。
古川 乳腺外科ですね。
岸田 乳がんを専門的に診ている乳腺外科が、ブレストセンターと呼ばれているわけですね。
古川 そうです。昭和大学なのですが、乳がんでは比較的有名で、全国から患者さんが集まるような病院です。当時の私はそのことを全く知らなかったんですが、たまたま自宅の近くで、通っていた産科とも提携していたので、直接昭和大学のブレストセンターを受診することになりました。
岸田 そこで検査を受けて、確定診断に至るわけですね。
古川 はい。2週間か3週間後に「また来てください」と言われて、その際に「ご家族と一緒に来てください」と言われました。
岸田 それはもう、完全に。
古川 はい、確定診断だなと感じました。
岸田 「家族と一緒に来てください」と言われると、相当な覚悟が必要ですよね。実際、ご家族と一緒に行かれたんですよね。
古川 はい、その時は夫と一緒に行きました。
岸田 確定診断を受けたとき、頭が真っ白になる方も多いと思いますが、古川さんの場合はいかがでしたか。
古川 その時点までに異常なことが続いていたので、「これはもう悪性だろうな」と、自分の中ではある程度覚悟ができていました。それに、夫が製薬会社に勤めていて、がん治療薬にも関わる仕事をしていたので、乳がんに関する知識が多少あったんです。それは私にとって、とても幸運なことでした。
確定診断を受ける前から、「もし乳がんだったら」という話を夫とできていて、乳がんは比較的予後が良いこと、治療の選択肢も他のがんと比べて多いことなど、ある程度の情報を事前に知ることができていました。そのおかげで、過度に悲観せず、比較的冷静に確定診断を受けることができたと思います。
岸田 身近に医療や乳がんに詳しい方がいると、心強いですよね。
古川 本当にそうですね。エビデンスのある、きちんとした情報に触れられたことで、安心感がありました。
岸田 その後、出産後に治療開始という流れになるわけですね。この時点では、すでに出産を控えていた状況ですよね。
古川 はい。出産予定日は7月で、6月に検診を受け、6月後半に確定診断を受けました。つまり、出産まであと1カ月というタイミングでした。乳がんは、1カ月待って急激に悪化するタイプではないということで、「まずは出産をして、体が回復してから治療を始めましょう」となりました。その頃はお腹もかなり大きくて、大きなお腹を抱えながら病院に通っていました。
岸田 それは本当に大変ですね。治療開始は出産後と決まり、その後「患者会に行きまくる」とありますが、これは情報収集のためだったのでしょうか。
古川 そうなんです。治療法については先生や夫から説明を受けられましたが、「実際にどれくらい手術は痛いのか」とか、「抗がん剤ってどんな感じなのか」といったことは、やはり経験者でないと分からないと思ったんです。確定診断の時点で抗がん剤治療の可能性も示されていましたし、「脱毛しますよ」とも言われて、「えっ」となって。だからこそ、実際に経験した方の話を聞きたいと思いました。
手術後の胸はどうなるのか、抗がん剤中の生活はどうなるのか、そういうリアルな部分を知りたくて、患者会に行こうと思ったんです。
岸田 患者会は、一つの場所に通われたのですか。それとも、いろいろなところに行かれましたか。
古川 いろいろなところに行きました。「乳がん 患者会」で検索すると、おしゃべり会をしている団体がたくさん出てくるので、日程を見ては電話やメールをして、「この日に参加させてください」とお願いして、いくつも回りました。
岸田 配信を見ている方の中にも乳がんの方が多いと思います。実際にいろいろな患者会を見て回って、どんな印象でしたか。
古川 最初は、比較的ご高齢の方が中心の患者会に行くことが多かったです。マンションの一室を借りて、決まった曜日に開放しているような場所で、そこに行くとじっくり話を聞いてもらえる、という感じでした。
また、セミナー形式の患者会にも参加しました。そこでは、聖マリアンナ医科大学の山内先生のような有名な先生のお話を直接聞けて、質問もできました。経験者の方の話は本当に助けになりました。「私は部分切除だけど、温泉にも行けるよ」と言われた時は、すごく勇気づけられました。その中で、最終的にAYA世代のがん患者会であるPink Ringさんに出会ったのですが、そこは本当に衝撃的でした。
岸田 衝撃、ですか。
古川 はい。同じ世代で、しかも仕事をしながら治療をしている方がたくさん来ていたんです。「今、抗がん剤治療中です」とか、「今日は放射線治療を受けてきて、仕事帰りです」と話す方がいて。「治療中でも仕事ができるんだ」と、すごく驚きました。
しかも皆さん、おしゃれなんです。「普通におしゃれできるんだ」と思って。そんな姿を見て、「この人たちが乗り越えているなら、私も絶対に乗り越えられる」と強く思いました。
岸田 ありがとうございます。最終的にPink Ringさんで、同世代の方々と出会えたということですね。では次に、治療から現在までのお話を伺っていきたいと思います。その前に、いただいているコメントを少し読ませてください。
岸田 「彼女が乳がんになりました。落ち込んでいます。私は48歳、彼女は55歳です。参考にさせてください」というコメントをいただいています。パートナーががんになった場合、古川さんならどんな声かけをされますか。
古川 私自身、がんになる前に父ががんになった経験があるので、「自分ではどうにもできない」というつらさはすごく分かります。大切な人ががんになると、本人以上につらいこともありますよね。
岸田 周囲の方がパニックになってしまうこともありますよね。
古川 あります。だからこそ、周りの人が過度に動揺すると、本人も引きずられてしまうと思います。嘘でもいいので、「大丈夫」「受け止めるよ」という姿勢で、どっしり構えていてもらえると、当事者の心も安定すると思います。
岸田 ありがとうございます。では、治療から現在までについて伺います。2017年7月に出産、母乳育児とありますが、母乳育児は強く希望されていたんですか。
古川 はい、すごく憧れていました。ただ、母乳が出ていると手術に影響があるので、「母乳は止めてください」と言われていました。
岸田 それはつらいですね。
古川 でも、産科の看護師さんがとても寄り添ってくださって、「数日だけでもいいなら、やってみましょう」と言ってくださったんです。出産から手術まで約1カ月あったので、入院中の最初の5日間だけ母乳育児をさせてもらいました。
時間がない中で、マッサージをしてくれたり、「出るように頑張りましょう」と励ましてくれたりして。ブレストセンターとも連携して、母乳育児のスケジュールを組んでくださって、念願が叶いました。
岸田 無事に出産されて、その後、左乳房温存手術を受けられたんですね。全摘ではなく部分切除という選択だったのでしょうか。
古川 はい。先生からは「全摘でも温存でも、どちらでも選べます」と言われました。温存した場合のリスクも説明していただきましたが、「今の状況なら大きな差はない」と言われたので、家族と相談して温存を選びました。
岸田 選択肢があった上での決断だったのですね。
古川 そうです。温泉が好きなので入りたい、という気持ちもありましたし、温存できるなら温存にしようと決めました。
岸田 そして、腹腔鏡手術で右卵巣の摘出・凍結、妊孕性温存という選択をされています。この経緯を教えてください。
古川 私はもともと子どもを2人以上欲しいと思っていました。でも抗がん剤治療について調べていると、「治療後に妊娠できなくなる可能性があります」と書かれていて、それがすごく衝撃でした。
最初は抗がん剤を避けられないかとセカンドオピニオンも受けましたが、やはり標準治療として抗がん剤が勧められました。そこで、「たとえ治療後に妊娠が難しくなっても、選択肢は残しておきたい」と思い、妊孕性温存を決断しました。
先生からも提案があり、「ぜひやりたいです」とお伝えしました。ただ、私は出産直後だったので、体の状態が通常とは違っていました。日本では卵子凍結が一般的ですが、当時の私の体ではそれが難しかったため、卵巣組織を摘出・凍結する方法を選びました。
卵子凍結をしようとすると、最初に卵巣に強い刺激を与えて、卵子をたくさん育てる必要があります。ただ、出産直後で眠っている卵巣に刺激を与えるのは、身体的にリスクがあると言われました。
その時、先生から「卵巣を摘出して凍結する選択肢もあります」と提案がありました。欧米では卵巣組織凍結が一般的な国もあり、がん治療の影響で卵巣組織凍結をして、実際に妊娠に至ったケースも多いと説明されました。
海外ではエビデンスも蓄積されているので、「卵巣組織凍結が劣っているわけではない」と。ただ、手術は必要になるという話でした。私の場合、卵子凍結が難しいなら卵巣組織凍結を選ぼうと思い、「やります」と決めました。
岸田 そういう背景があったんですね。卵巣の摘出・凍結を行ってから、いよいよ抗がん剤治療が始まっていくわけですね。抗がん剤治療は、具体的にどのような内容だったんですか。
古川 乳がんでいうTC療法です。タキソテールとエンドキサンを使って、4クール受けました。
岸田 抗がん剤はきつかったですか。どうでした?
古川 私は吐き気がほとんどなくて、寝込むこともなかったので、普通に外出はできました。ただ、皮膚障害が強く出ました。特に指先が最初は真っ赤に腫れ上がって、その後に皮が一気に剥けてきました。脱皮みたいな感じですね。手先が過敏になってしまって。手先が使いづらいと、家事もそうですし、育児でも困ることが多くて。例えばミルクをあげる時、30度くらいのぬるいミルクなのに、素手で持つとすごく熱く感じて持てないんです。
なので、100円ショップで布手袋を買って、1日中つけていました。ミルクをあげる時も手袋をつけたまま、という生活でした。
岸田 指先が赤く腫れるのは、かなりきついですね。
古川 きつかったです。ただ、手先に気をつければ、私の場合は生活全般は大きな問題なく過ごせました。
岸田 そして抗がん剤治療の後、次のフリップが「翌年1月〜2月:間質性肺炎」ですね。
古川 はい。コロナでも話題になった間質性肺炎ですが、抗がん剤の副作用の中でも重篤な副作用に分類されるものらしくて、発現率は数パーセントと言われました。
古川 私は4クール終わった最後のクールのタイミングで、薬剤性の間質性肺炎になってしまって、1カ月入院が必要になりました。その時は結構へこみました。
岸田 治療が終わったと思ったら、次は間質性肺炎の治療になるわけですもんね。
古川 そうなんです。本来は、間質性肺炎がなければ、放射線治療をして、その後はホルモン治療という流れで、主要な治療は3月までに終わる予定でした。うまくいけば4月に職場復帰できると思っていました。
でも間質性肺炎で放射線治療が後回しになり、4月以降にずれ込むことが決まりました。放射線治療は毎日通院が必要なので、復帰してまた迷惑をかけるのも嫌だと思い、職場復帰を延期しました。
岸田 放射線治療が伸びたことで、フリップでは6月になっていますね。ホルモン治療を先に始めたんですか。
古川 そうです。本来は放射線治療の後にホルモン治療なのですが、間が空いてしまうと半年くらい無治療になってしまうので、それは不安でした。そこで「ホルモン治療を先に始めることもできます」と言われて、前倒しで開始しました。
岸田 その後、10月に職場復帰されたんですね。
古川 はい。半年遅れで復帰しました。私は仕事が好きなので。
岸田 仕事の話は後ほど詳しく伺うとして、その後「社内患者会を設立」とありますね。
古川 私は患者会に助けられた経験があったので、今度は自分が支える側になりたいと思いました。AYA世代だと、治療と仕事の両立の話がよく出るんですけど、制度は会社によって違うんですよね。
だから「こういう制度が使えるよ」とか「ここに相談するといいよ」という情報を社内で共有できれば、次に患者になる方の助けになると思って、社内患者会を立ち上げました。
岸田 立ち上げは大変でしたか。スムーズにできました?
古川 それもたまたまなんですが、その年に人事が「社内部活の立ち上げ支援制度」を始めたタイミングで、部活として立ち上げることにしました。立ち上げ自体は制度に乗れたので、比較的スムーズでした。
ただ、部活として最初に5名集める必要があって、初期メンバー集めは時間がかかりました。社内で病気を公表している人は多くないので、知り合いづてに「誰々さんががんだと言っていたらしい」という情報から辿っていって、連絡を取りました。
岸田 社内でカミングアウトしている人って、確かに少ないですよね。ちなみに、会社の規模感はどれくらいだったんですか。
古川 日本だと6,000人くらいです。
岸田 日本で6,000人ですか。海外にも拠点がある感じですね。
古川 海外もあります。日本だと6,000人くらいです。
岸田 かなり大きい規模ですね。
古川 いわゆる大企業なので、社内には絶対にがん患者さんがいると思っていました。だからニーズは必ずあると確信していました。あとは、カミングアウトしているかどうかに関わらず、安心して参加できる会にしようという点は、とても意識しました。
岸田 患者会を設立されて、その後、2021年3月に転職されたんですね。
古川 はい。職場復帰も順調で、病気や育児をしながらでも色々な仕事を任せていただいて、すごく充実していました。ただ、その時点で14年ほど同じ会社に勤めていて、何か新しいことに挑戦したいという気持ちが芽生えたんです。
乳がんと出産という出来事が、人生の中であまりにも衝撃が大きすぎて、ある意味「衝撃ロス」だったのかなと思います。
岸田 刺激を求めていた、という感じですね。
古川 そうですね。刺激を求めていました。
岸田 初めての転職だったと思いますが、転職活動はうまくいきましたか。がんのことは包み隠さず話されたんですか。
古川 はい、包み隠さず話しました。同じ製薬業界だったというのもあるかもしれませんが、私はむしろこれを強みにしようと思っていました。
患者さんの立場が分かるようになったことは、私にとって大きな財産です。仕事の相手となる人の気持ちが分かるという点を強みにして、「こういう経験があっても、しっかり仕事をします。覚悟もあります」という形で伝えました。結果的に、マイナスになることはなかったと思います。
岸田 それを聞くと、転職を考えている方も勇気が湧いてくると思います。ではここで、古川さんの闘病歴はいったん区切らせていただいて、治療前・治療中・治療後の写真について伺いたいと思います。まず治療前の写真がこちらです。左側はお父さまですか。
古川 はい。自分の病気が分かる3年ほど前に、父がすい臓がんになりました。結婚を報告した直後に分かって、急いで結婚式を挙げましたが、診断から半年ほどで亡くなりました。
その時、初めて「がん患者の家族」という立場を経験しました。とても苦しかったですが、父が治療に一生懸命向き合っていた姿は、今でも強く心に残っています。
自宅で看取りましたが、最後の一呼吸まで本当に必死に息を吸おうとしていました。その姿を間近で見て、「最後の一息まで全力で生きよう」と思ったんです。
絶望的と言われるすい臓がんでも、ここまで生きようとする姿を見せてくれた父は、私の人生にとって大きなレッスンを与えてくれた存在です。
岸田 ありがとうございます。そして右側は、生まれたお子さんですね。
古川 はい。母乳をあげた直後の写真です。実は私、母乳が出すぎてしまって、止めるのが大変だったんです。
看護師さんにアイスノンを勧められて、脇の下に挟んで、さらしを巻いて一日中過ごしていました。血流を抑えると母乳が止まるらしくて、その方法で対応していました。
岸田 なるほど。では次に、治療中の写真がこちらですね。左側はどのタイミングの写真でしょうか。

古川 これは、たまたまなんですけどね。
岸田 フィニッシャー?
古川 私、マラソンが好きで、完走記録のタオルをいくつか持っているんです。その中の一枚が、たまたま病院に持っていったこのフィニッシャータオルでした。手術が終わったよ、という記念の一枚です。
岸田 そして、その隣の写真は、抗がん剤治療に入ってからでしょうか。
古川 はい。抗がん剤治療直後に間質性肺炎になってしまって、入院していた時の写真です。その入院中に、娘のハーフバースデー、生後6か月の記念日が来たので、病院でささやかにお祝いをしました。
岸田 今だとコロナの影響で、面会が厳しい病院も多いですよね。
古川 本当にそう思います。病院にいると、やることがほとんどないので、「いつ会いに来てくれるかな」というのが一番の楽しみでした。コロナ禍でそれが叶わない患者さんは、本当にきついだろうなと思います。
岸田 当時の大切な写真ですね。そして三つ目、治療後の写真になります。左側は、治療後で髪の毛が少し生えてきた頃ですね。
古川 そうなんです。髪が生えてきて、人生で初めてのベリーショートでした。治療も終わって、育児休業から復帰したその日に撮った写真です。「ようやくここまで来たな」という気持ちで撮った一枚ですね。

岸田 そして右側の写真は、また走られた感じでしょうか。
古川 はい、マラソンです。私もマラソンが好きなので。
岸田 また「フィニッシャー」と書いてありますね。
古川 そうなんです。完走しました。しかも実家の奈良で行われた奈良マラソンで走りました。ようやく治療も終わって、マラソンを走れるまで復帰できたという意味で、私にとっては完全復帰の一枚です。
岸田 ここまで至るまで、時間的にはどれくらいかかりましたか。
古川 だいたい2年くらいですね。治療自体は約1年でした。
岸田 治療が終わってから2年ですか。それとも治療を終えて1年でしょうか。
古川 治療開始、もっと言うと出産の時から数えると2年です。マラソンとしては2年間空いていました。治療が完全に終わってからだと、半年くらいですね。
岸田 半年でそこまで走れるんですか。
古川 走れます。放射線治療が終わってからですね。手術から数えると、だいたい1年半後くらいです。
岸田 すごいですね。ここまで回復するんですね。
古川 回復します。
岸田 コメントもいくつかいただいていますので、読ませていただきます。
「乳がんと性というテーマも取り上げてほしい」「乳がんに対するパートナーの接し方を教えてほしい」という声をいただいています。性の場面での接し方について、古川さん、少し踏み込んでもよろしいでしょうか。
古川 はい。
岸田 乳がんのパートナーとして、性に関してはどう接すればいいのか、という質問です。
古川 やはり、相手の方がどれくらい受け入れる準備ができているか、その気持ち次第だと思います。
岸田 治療中は、なかなか難しいですよね。
古川 治療中は、どうしても気持ちがそこに向かないことが多いと思います。不可能ではないかもしれませんが、余裕がない時期だと思います。
岸田 僕自身の経験でも、治療中は治療で精一杯で、そういう気持ちになれないことが多かったです。
古川 そうですよね。副作用の状態にもよりますが、精神的にもいっぱいいっぱいになりやすい時期です。無理に踏み込まれると、つらく感じてしまうこともあると思います。
岸田 なので、比較的落ち着いてから、改めてパートナー同士で話し合っていくのが良さそうですね。
古川 そう思います。
岸田 続いての質問です。「会社内で患者会を立ち上げる行動がすごいです。最大でどれくらいの会員がいましたか?」というコメントをいただいています。
古川 会員制にはしていませんでした。おしゃべり会形式で、当事者であれば誰でも参加できる形にしていました。カミングアウトしていない方もいらっしゃるので、毎回10名程度を上限にしていました。
古川 その一方で、社内向けに、がん経験者が自分の体験を共有するレクチャー形式の場も設けました。いわば社内フォーラムのような形です。その時は毎回100名以上の方がZoomで参加してくださいました。
岸田 開催頻度はどれくらいでしたか。
古川 月1回で、半年間続けました。一番多い時で180名ほど参加がありました。
岸田 かなり多くの方が関心を持っていたんですね。
古川 はい。通算すると、1,000人以上の方が参加してくださいました。
岸田 コメントも続いています。「子育てしながらの闘病、すごいです。尊敬します」「私も乳がん経験者で、仕事をしながら治療を乗り越えました」という声も届いています。
岸田 また、「彼女の乳がんに対して全てを受け止める気持ちでいます」というパートナーの方からのコメントもありました。
それだけ受け止める姿勢があれば、きっとご本人も安心されると思います。周囲が動揺しすぎないことも、とても大切ですよね。
岸田 がんとセクシャリティに関する相談先として、専門のウェブサイトや相談窓口もありますので、そういった外部のサポートを活用するのも一つだと思います。
【家族】
岸田 そんな中で、ここから各項目に分けて、古川さんにいろいろお話を伺っていきたいと思います。まずは「家族」という項目です。ご家族へのカミングアウトのタイミングや、どのようなサポートがあったのかを伺いたいと思います。まず、ご両親についてですが、どのタイミングで打ち明けられましたか。
古川 当時、父はすでに亡くなっていたので、母親だけでした。正直に言うと、母の反応はとても大変でした。
岸田 少し意味深な間がありましたが、やはり反応が大きかったのでしょうか。
古川 はい。言う前から、きっと過剰に反応するだろうなという予感はありました。なので最初は、直接ではなくLINEで「乳がんかもしれない」と、さらっと伝えました。すると、すぐに電話がかかってきて、「どういうこと?」と強い口調で聞かれました。
その時点ではまだ確定診断前でしたが、ほぼ確実だと思うということを伝えると、「天国から地獄に落とされた気分だ」と言われてしまって。「初孫ができると思って喜んでいたのに」とも言われました。
岸田 その頃は、妊娠9か月くらいでしたよね。
古川 そうです。そう言われても、私としてはどうしようもなくて、正直とてもつらかったです。
岸田 やはり周囲の方は、過度なプレッシャーや感情をぶつけるのではなく、温かく見守ることが大切だと感じますよね。では、パートナーであるご主人の反応はいかがでしたか。
古川 夫は、もともと医療の知識があるということもあって、かなり冷静に受け止めてくれました。「乳がんなら、こういう治療になる可能性がある」と、感情的にならずに話してくれたのが、とても助かりました。私自身の精神的な安定にもつながりました。
岸田 具体的に、こういうサポートがうれしかったというものはありますか。たとえば家事のことや、日常生活のことなど。
古川 一番ありがたかったのは、信頼できる医療情報を集めてきてくれたことです。私は製薬会社に勤めてはいましたが、専門分野ではなかったので、ネットの情報を自分で取捨選択するのは難しかったんです。
そんな中で、科学的根拠のある情報や、考えられる選択肢を整理して伝えてくれたのは、本当に助かりました。
岸田 「確かな情報」というのは、本当に大事ですよね。周囲の方が善意で持ってきた情報が、かえって不安を増やしてしまうこともありますし。
古川 ありますよね。感情が強く入った情報だったり、「これがいいらしいよ」という話だったり。
岸田 いわゆる「この野菜スープを飲めば大丈夫」とか。
古川 にんじんジュースとかですね。
岸田 本当に、あるあるですよね。だからこそ、医療従事者や科学的根拠を理解している人からの情報提供は心強いです。一方で、そうでない場合は、一歩引いて考えることも大切だと思います。
僕自身も、当時、医療を否定するような本の影響を受けてしまい、「これをやらなきゃいけないのかな」と苦しくなった時期がありました。なので、古川さんのように、パートナーが製薬企業に勤めていて、冷静に情報を整理してくれたというのは、とても心強い環境だったと思います。
古川 本当にそう思います。
岸田 もし周囲にそういった人がいない場合でも、「がん相談支援センター」という場所がありますよね。
古川 はい。私も実際に利用しました。冊子もたくさん置いてありますし、話も聞いてもらえます。
岸田 なので皆さんも、もし不安なことや情報の整理が難しいと感じたら、がん相談支援センターを活用していただければと思います。
【妊よう性】
岸田 そして家族のお話が終わって、次に「妊孕性」について伺っていきたいと思います。先ほど、卵巣の摘出をされたというお話がありましたが、卵巣を腹腔鏡で摘出し、凍結された上で、現在は妊孕性についてどのように考えていらっしゃいますか。
古川 ちょうど今年で、手術から5年が経ちます。ホルモン治療もあと少しで終わる予定なので、もしかすると2人目を持てるかもしれないというタイミングが近づいてきています。せっかく作った選択肢なので、もし可能であれば、2人目は持ちたいなと思っています。
岸田 卵巣を残す、あるいは凍結して選択肢を残したからこそ、今そう考えられているという部分もありますよね。ちなみに、卵巣組織凍結は、費用的にはやはり高額だったのではないでしょうか。
古川 高かったと思います。私が受けた病院では、腹腔鏡で卵巣を摘出して、細かく分割して凍結するというプロセスで、60万円くらいかかりました。
岸田 それくらいしますよね。当時は、今のような補助金制度もなかったですよね。
古川 なかったですね。
岸田 今見てくださっている方への情報ですが、現在は助成金が出るようになっています。病院や自治体に申請すれば、卵巣組織凍結の場合、30万〜40万円程度の補助が出るケースが多いです。
古川 そんなに出るんですね。それは本当にありがたいです。
岸田 もし今後、生理が戻らないなどで妊娠が難しくなった場合は、凍結した卵巣組織を体内に戻すという選択肢もありますよね。
古川 はい。仮に妊娠できない状態になった場合、凍結した組織を体内に戻す方法があります。片方の卵巣が機能していなくても、卵管の近くなどに、溶かした卵巣組織を戻すことで、そこから再び卵子が作られる可能性がある、という仕組みです。
ただ、その凍結した組織を体内に戻す処置にも、60万円くらいかかると言われています。なので、それも助成の対象になるのかは、ちゃんと確認しないといけないなと思っています。
岸田 現在は、不妊治療自体が保険適用になっていますが、がん患者さんの妊孕性温存は、通常の不妊治療とは枠組みが違うんですよね。その代わりに、妊孕性温存向けの助成制度が用意されています。
古川 そういう仕組みなんですね。勉強になります。ありがとうございます。
岸田 今、チャットでも情報をいただきましたが、卵巣組織凍結の補助金は40万円出るそうです。
古川 それは大きいですね。半分以上補助されるのは本当に助かります。
岸田 次に質問が来ているのですが、「乳がんに関する情報収集は、ウェブよりも書籍の方が良いのでしょうか」という質問です。
古川 乳がんの場合は、「患者さん向け乳がん診療ガイドライン」のような冊子があります。情報が整理されていて、とても分かりやすいので、そういったものを使って勉強されている患者さんは多いと思います。私自身も持っています。
岸田 本屋さんやネットを見ていると、正直、注意が必要な本も多いですよね。
古川 本かウェブかというよりも、やはり「内容」が大事だと思います。
岸田 本当にそうです。Amazonなどで「がん」と検索すると、科学的根拠のない情報が上位に出てくることも多いです。
古川 特に食事療法に関するものは、基本的に慎重に見たほうがいいと思っています。
岸田 結局は、ちゃんと寝て、バランスの良い食事をして、普通の生活を送ることが一番大切ですよね。
古川 はい。無理をせず、バランスよく、ですね。
【育児】
岸田 それは僕も、これまでいろいろなお話を聞いてきて、この10年くらい本当に強く感じています。そうした中で、妊孕性のお話は一区切りとして、次に「育児」について伺っていきたいと思います。出産後に治療をされていたと思いますが、育児の面については、古川さんはどのようにされていましたか。
古川 私の場合は、母親に全面的に頼りました。
岸田 それは大事ですね。
古川 最初は正直、「どうしよう、どうするんだろう」と不安ばかりでした。でも最終的には、母が本当に心強いサポーターになってくれました。例えば、抗がん剤治療のときも、子どもを連れて通院はしていたんですが、抗がん剤を受けるケモ室には子どもを入れられないと言われてしまって。
岸田 ケモというのは、抗がん剤治療のことですね。
古川 はい、抗がん剤です。しかも、生まれたばかりの子どもだったので、「じゃあどうしよう」となりました。抗がん剤の日は一日がかりになりますし、その後、体調がどうなるかも分からなかったので、当時パートで仕事をしていた母に、しばらく仕事を休んでもらって、奈良から東京まで来てもらうことにしました。
岸田 治療の日はお母さまにお子さんを預けて、古川さんは治療に専念するという形だったのですね。
古川 そうです。最初は託児所も探しましたが、当時は待機児童の問題も深刻で、保育園も入れない状況でした。託児所でも「生まれたばかりの子どもは預かれません」と言われることが多くて、治療中に子どもをどうするかというのは、かなり悩みました。
岸田 もしお母さまに頼れなかった場合、どうするつもりだったんですか。
古川 本当に、どうしていたんだろうと思います。正直、答えが見つからなくて。だから当時は、院内託児所を作ってもらえないか、運動しようかと考えたくらいでした。同じような状況の人は、きっと少なくないと思っていました。
岸田 確かに、必要ですよね。
古川 診察中だけでも預かってもらえたら助かるのに、と思うこともありました。病院を見ていると、子連れで来ている方も意外と多くて、ニーズはあると感じていました。
岸田 古川さんなら、本当に院内託児所を作ってしまいそうですね。
古川 作りたいです。これは必要だなと強く思いました。ただ、私は幸い母に助けてもらえたので何とかなりましたが、もしそれがなかったらどうしていたのか、本当に分からないです。
岸田 育児については、お母さまのサポートを受けながら、古川さんご自身は治療に専念されていた、ということですね。
【仕事】
岸田 次はお仕事のことについて伺っていきたいと思います。復帰できるかどうか心配されていた時期もあったと思いますが、当時、職場にはどのようにカミングアウトし、どのように復帰していったのか、少し詳しく教えていただけますか。
古川 病気が分かった時点では、すでに産休・育休に入っていたので、職場の方々と日常的に顔を合わせる状況ではありませんでした。ただ、病気が分かったタイミングで、まず上司にはすぐに伝えました。治療をすることになりそうなこと、休みの期間中にしっかり治したいということ、当初は半年で復帰するつもりだったけれど、状況によっては復帰を延ばしたいということなど、節目ごとに報告はしていました。
岸田 実際に復帰されるとき、10月の復帰はスムーズでしたか。最初は時短勤務などでしたか。
古川 最初は時短勤務にしていました。始業と終業をそれぞれ1時間ずつ短縮して、合計2時間の時短です。ただ、正直に言うと、それが自分には少し物足りなくなってしまって。
岸田 刺激を求めますね(笑)。
古川 その頃には、体力的にはほぼ元に戻っていて、普通に働ける状態でした。あとは育児と両立できるかどうかだけだったんですが、「これならいけるな」と思えて。時短勤務は1カ月ほどで、「フルタイムに戻します」と伝えて、早めに通常勤務に戻りました。
岸田 フルタイムに戻られた時点で、お子さんはどうされていたんですか。
古川 保育園に預けていました。復帰のタイミングで、認可外ではありましたが保育園が見つかったので、預けながら仕事に行っていました。
岸田 時短からフルタイムに切り替えて、体力的な面での不安はありませんでしたか。
古川 私は特に問題ありませんでした。復帰した時点で、手術からは1年以上、抗がん剤治療からもほぼ1年が経っていたので、体力的には支障なく働けていました。
【お金・保険】
岸田 そして次は、お金や保険のことについて伺います。当時、保険には入っていらっしゃいましたか。
古川 実は、私は無保険だったんです。
岸田 分かります。
古川 病気になるなんて思っていなかったですし、自分は一生健康だと思っていたので、保険には全く入っていませんでした。ただ、たまたま夫が、私の分まで医療保険に入ってくれていたんです。
岸田 それは凄いですね。
古川 私は全く知らなかったので、後から聞いて驚きました。
岸田 出来る旦那さんですね。
古川 本当にそう思います。そのおかげで、保険金が少し出まして、治療費の自己負担はほとんどありませんでした。
岸田 では、治療費全体としては、ホルモン治療も含めて、トータルでどれくらいかかりましたか。
古川 ホルモン治療を除いた、初年度の主要な治療、手術から放射線治療までで、120万円くらいだったと思います。正確には60万円ほど自己負担があり、そこにもう60万円分がかかったイメージです。
岸田 その分は、保険でほぼ賄えたということですか。
古川 はい。保険金が100万円ほど下りましたし、治療費については高額療養費制度も利用できたので、結果的にはほぼ同じくらいになった記憶があります。
岸田 妊孕性温存の費用は自己負担でしたよね。その分を含めると、プラスマイナスゼロくらいでしょうか。
古川 そうですね。妊孕性温存は自費でしたので、結果的にはそのあたりでバランスが取れたような形です。本当に、お金や保険は大事だなと実感しました。
岸田 本当にそうですね。
古川 とても助かりました。
【辛い・克服】
岸田 いや、本当に旦那さんのファインプレーだと思います。そして次は、「つらい・克服」というテーマです。古川さんの場合、どのタイミングが一番つらかったのか、そしてそれをどのように克服していったのかを教えていただけますか。
古川 一番しんどかったのは、抗がん剤の副作用で間質性肺炎になり、1カ月入院することになって、仕事復帰が出来ないと分かったときです。そのときが一番つらかったですね。その時、初めて乳がんのことで泣きました。それまでは、あまり泣かなかったんです。自分は大丈夫だ、乗り越えられると思っていたのですが、自分の気持ちや思いだけでは、どうにも出来ないことがあるのだと突きつけられた瞬間でした。
岸田 なるほど。ただ、その後は克服というか、4月復帰は難しかったけれど、10月に復帰していくという形で、何とか乗り越えていったという感じですか。
古川 はい。気持ちに折り合いをつけて、「これは半年間、自分に与えられた休憩時間なんだ」と思うようにしました。そういう言葉を掛けてくださった周りの方もいて、人生は長いのだから、少しぐらい休憩しても良いよなと思えたんです。その間、普段あまりしない読書をしてみたり、少し勉強してみたりして過ごしていました。
【後遺症】
岸田 そういった大変な時期は、職場復帰という点でも大きな節目だったということですね。続いて、「後遺症」についてお伺いしたいと思います。部分摘出した胸のことや、指先の症状などはいかがでしょうか。
古川 大きく生活に支障が出るような後遺症は、特にありません。ただ、手術に関して言うと、手術痕のあたりは今でも強く押されたりすると痛みを感じます。日常生活で問題になるほどではありませんが、例えば娘を抱っこしているときに、勢いよく当たると「痛っ」となることはあります。手術していない側と比べると、やはり押されると痛いなという感覚は残っています。
岸田 なるほど。抗がん剤治療後の影響についてはいかがでしょうか。
古川 私が一番心配していたのは、いわゆる「ケモブレイン」でした。集中力が落ちたり、物忘れが増えたりすると聞いていたので、仕事への影響が一番不安だったんです。
岸田 確かに、抗がん剤治療後のケモブレインを心配される方は多いですよね。
古川 はい。ただ、幸いなことに、私は自覚するような症状はありませんでした。実際には多少あるのかもしれませんが、自分自身としては、生活や仕事に支障を感じることはなく、特に困っていないというのが正直なところです。
岸田 指先の症状はいかがですか。
古川 指先の症状も、抗がん剤が終わってから徐々に治まり、今は全く問題ありません。
岸田 ホルモン治療によるホットフラッシュなどはありますか。
古川 それが、ほとんど感じていないんです。これは本当にラッキーだと思っています。ただ、もともと暑がりなので、もし少しあっても紛れてしまっているのかもしれませんが、少なくとも自分では後遺症として意識するほどではないですね。
【反省・失敗】
岸田 後遺症は比較的軽く済んでいるという古川さんですが、これは本当に人それぞれですよね。
では次に、「反省・失敗」というテーマに移りたいと思います。時間も少しありますので、ぜひ伺えればと思います。
あの時こうしておけば良かった、早めにこの病院に行けば良かったなど、どんなことでも構いませんが、何か振り返って思うことはありますか。
古川 私は結構、積極的に動いていたほうだと思っています。患者会にたくさん行きましたし、抗がん剤を受けなくて済む選択肢がないかと思って、セカンドオピニオンも受けに行きました。そうやって自分から情報を取りに行っていたので、その点に関しては、反省や失敗はあまりないかなと思っています。
結果的に、比較的質の良い情報に触れられていたと思いますし、自分なりに納得して選択できていたという感覚があります。
岸田 なるほど。反省がないというのは、自分から積極的に患者会や病院に足を運んで、情報を集めて、その上で後悔のない選択をしてこられたから、ということですね。
古川 はい。後悔しないためにも、できる限り情報を取ろう、知ろうという姿勢で動いていました。
【医療者へ】
岸田 大事ですね。そして次は「医療者の方へ」という項目になります。医療者の皆さんには本当にさまざまな形で支えていただいたと思いますが、感謝していることや、もう少しこうしてほしかったな、という点があれば伺えますでしょうか。
古川 やはり一番感謝しているのは、母乳育児を実現させてくださった産科の看護師さんです。本来であれば難しいと言われてもおかしくない状況だったと思うのですが、乳腺外科の先生と連携を取ってくださり、どうすれば可能かを一緒に考えてくださいました。
手術に支障が出ないように、母乳を止めるケアも丁寧に行ってくださって、退院後も「ちゃんと止まっているか確認するから、定期的に来てください」と、産科で責任を持ってフォローしてくださいました。「手術に支障が出ないよう、最後までしっかり見ます」と言ってくださったことが、本当に心強かったです。
岸田 自分が大切にしたいことを、どうすれば実現できるかを一緒に考えてくれる医療者の存在は、とても心強いですよね。では逆に、「こうしてほしかったな」と思うことはありましたか。
古川 細かいことを挙げれば、もしかしたらあるのかもしれませんが、大きく振り返ると、患者のためにという思いで寄り添ってくださる看護師さんや医師の方が本当に多かったな、という印象です。
全体としては、感謝の気持ちのほうが圧倒的に大きいですね。
【Cancer gift】
岸田 この放送は医療従事者の方もご覧になっていると思いますので、今のお話を聞いて、きっと励まされる方も多いのではないかと思います。
では次に、「キャンサーギフト」というテーマに移りたいと思います。
がんにならないほうが良いのはもちろんですが、あえて「得たもの」「得られたこと」を挙げるとしたら、古川さんにとってのキャンサーギフトは何でしょうか。
古川 本当にたくさんのギフトをもらっているなと感じています。
まず、人との出会いですね。岸田さんとの出会いもそうですし、患者仲間との出会いも大きかったです。今でも交流が続いている仲間がいて、その存在は私にとって大きな刺激になっています。
また、私は製薬企業に勤めていますが、患者さんの気持ちが分かるようになったことは、仕事の面でも非常に大きなギフトでした。
以前の仕事の向き合い方が悪かったというわけではありませんが、今は医薬品企業の広報や、疾患啓発活動に携わる中で、「どんな情報を、どう届けるべきか」を、自分自身の経験を軸に考えられるようになりました。
岸田 患者側の視点を持てることで、「この表現は傷つくかもしれない」といったことも想像できますし、受け取る側の気持ちが本当によく分かるようになりますよね。
僕自身も国立がん研究センターで広報の仕事をしていますが、「この言葉は患者さんにどう届くのか」という視点を、以前よりも強く持つようになりました。
古川 まさにその通りで、それは本当に大きな変化でしたし、得られた大切なギフトだと思っています。
【夢】
岸田 そして次は「夢」というテーマになります。
古川さんの今後の夢についてお伺いしたいのですが、夢といっても色々あると思います。その中で、今後どういった方向に進んでいきたいとお考えでしょうか。
古川 私は、このがんになった経験を、人生全体でプラスに活かしていきたいと考えています。
仕事の面でも、これからもずっとヘルスケア産業に関わっていきたいと思っているのですが、自分自身が患者になったという経験を、どんな仕事においてもきちんと活かしていきたいと思っています。
岸田 ご自身の経験を、しっかり仕事に還元して、それが多くの人にとってのメリットになるようにしたい、ということですね。
古川 はい。またプライベートでも、患者支援活動にボランティアのような形で関わらせていただくことがあります。そうした中で、自分が少し早いタイミングでがんになった経験が、これから同じ状況になる方の支えになる場面も多いと感じています。
ですので、仕事でもプライベートでも、がん患者としての自分の経験を活かしながら、誰かの力になれるような関わりを、これからも続けていきたいと思っています。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 次はペイシェントジャーニーになりますが、その前にコメントを拝見したいと思います。
アオキさんからは「乳がんが確定すると、病院から頂くガイドラインが一番信頼できます。先生も読まれています。他には何も読まなかったです」とコメントをいただいています。
確かに、病院に行くとしっかりしたガイドラインを渡していただけますよね。そういったものを基準にするのが大切だと思います。また「乳腺外科の病院に行った時に探してみます」という声や、「乳がん当事者の方たちが皆さん明るくされていて意外でした。少し希望が持てました」というコメントもいただいています。
さらに「彼女の入院に対するすべてを受け入れるようにしています」というコメントもありましたが、もうそれ以上の支援はないと思います。
古川 最大の支援ですね。
岸田 本当にそう思います。ほかにも「参考になりました」というコメントをたくさんいただいております。ありがとうございます。
それでは、ここからペイシェントジャーニーをお伺いしていきたいと思います。
画面を共有しますね。こちらが、古川さんのこれまでの闘病の歩みを、少しダイジェストでまとめたものになります。上に行くほどハッピー、下に行くほどアンハッピーという形で、29歳の頃から現在に至るまでを時系列で表しています。

古川 私だけですかね、見えていないの。
岸田 ごめんなさい。確かに、Zoomの画面共有がうまくいっていないみたいですね。これで見えますか。
古川 見えました。
岸田 失礼しました。勝手に進めてしまってすみません。ありがとうございます。
こちらが、上に行くほどハッピー、下に行くほどアンハッピーという形で整理したペイシェントジャーニーになります。29歳から37歳までの時系列です。
まず、結婚が決まり、その後、お父さまがすい臓がんと診断されたことがありましたね。そして結婚式を挙げられ、お父さまの最後の姿に圧倒されたとお話しされていました。
古川 はい。最後まで生き抜く姿を見せてくれました。私にとっては、最後の贈り物だったと思っています。
岸田 その後、妊娠が判明し、しこりを発見して大学病院へ移り、乳がんの告知と治療方針の決定に至ります。この時期は、間質性肺炎のときほどつらくはなかったということですが、気持ちとしてはプラマイゼロだったのですね。
古川 そうですね。比較的冷静で、フラットな気持ちで受け入れられていたと思います。
岸田 そこから患者会に参加され、複数の患者会に足を運び、出産、手術、妊孕性温存、薬物療法、抗がん剤治療へと進んでいきます。
治療については、想像していたよりもつらくなかったというお話でしたね。
古川 はい。予後も大丈夫だと分かっていましたし、「自分は乗り越えられる」という確信があったので、むしろ楽しもうという気持ちで治療に臨んでいました。
岸田 そして、間質性肺炎を発症し、職場復帰が絶望的になった時期が一番つらかった。その後、ホルモン療法、放射線治療を経て職場復帰、社内患者会の立ち上げ、そして転職へと進まれた、という流れですね。このペイシェントジャーニーを振り返って、何か補足しておきたいことはありますか。
古川 先ほど「治療を楽しむ気持ちで」とお話ししましたが、その背景にはSNSの存在も大きかったです。Instagramで患者仲間とつながり、同じように治療中の方々とやり取りをしていました。
「今日は抗がん剤の日」「頑張ってね」とお互いに声を掛け合い、応援し合えるコミュニティができていたことが、暗い気持ちにならずに治療を乗り越えられた理由の一つだと思います。ぜひ、仲間を見つけてほしいです。
岸田 今は、インスタグラムで情報収集や交流をされる方も多いですよね。
古川 はい。特に乳がんに関しては、治療中のコミュニティが比較的大きいと感じています。
岸田 ありがとうございます。それでは、ここで古川さんのお話はいったん区切りとさせていただき、少し告知の時間に移りたいと思います。
【今、闘病中のあなたへ】
岸田 そして最後の最後、こちらになります。「今、闘病中のあなたへ」というコメントです。この動画を見てくださっている方の中には、患者さんや闘病中の方も本当に多くいらっしゃると思います。そこで、これまでの経験を踏まえて、古川さんからメッセージをいただきたいと思います。
古川さんからいただいているメッセージがこちらです。こちらを読んでいただき、その意図もお話しいただけますでしょうか。
古川 「闘病中の時間は、人生で本当にまたとない、かけがえのない時間です。じっくり味わってください」という言葉です。もちろん、その人の状況によっては難しい場合もあると思います。ただ、この経験はきっと誰かのパワーになります。私自身が父からパワーをもらったように、私もこの経験をもとに、今の仕事やプライベートで前向きに生きられています。
必ず、この時間は次につながっていくものだと思うので、できる範囲でしっかり味わいながら進んでいってほしいなと思っています。
岸田 先ほどのお話にもありましたが、間質性肺炎になって社会復帰が遅くなったとき、周りから「人生の夏休みみたいなものだよ」と声をかけられたことがあったんですよね。
古川 そうですね。「人生の夏休み」と言われました。実際は冬だったんですけど(笑)。人生のお正月休みのようなものだと思って、焦る必要はないと思います。仕事を一時的に休む方もいらっしゃるかもしれませんが、必ず復帰できると思っています。
岸田 力強いメッセージをありがとうございます。コメントもたくさん届いています。「治療はそれぞれですね」「千差万別だと思います」「乳がんは個人差が大きいと感じます」「彼女の乳がんに私も寄り添ってあげたいです」「あっという間でした」といった声をいただいています。ありがとうございます。
岸田 ということで、本日のがんノートはここまでにしたいと思います。約90分、あっという間でしたが、古川さん、いかがでしたか。
古川 本当にあっという間でした。
岸田 今日は映像もスムーズで、とても良かったですね。
古川 良かったです。
岸田 始まる前は緊張されていましたか。
古川 はい、始まる前は少しドキドキしていました。
岸田 話し始めると、自然といけますよね。
古川 そうですね。とても楽しかったです。少しでも誰かの参考になれば嬉しいなと思っています。
岸田 本当に、たくさんの刺激と勇気をいただきました。
古川 ありがとうございます。私、少しポジティブすぎるところがあるかもしれませんが、気持ちの持ち方次第で、病気とも向き合っていけるのではないかなと思っています。
岸田 ありがとうございます。それでは、これにてがんノートoriginを終了したいと思います。
皆さん、また次回お会いしましょう。それでは、さようなら。
古川 ありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。