目次
- 【発覚】園田さんテキスト / 動画
- 【発覚】須藤さんテキスト / 動画
- 【仕事】テキスト / 動画
- 【お金・保険】テキスト / 動画
- 【家族・こども】テキスト / 動画
- 【辛い/克服】テキスト / 動画
- 【夢】テキスト / 動画
- 【今、闘病中のあなたへ】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:須藤、園田
【オープニング】
岸田 本日はインクルージョンフェス・トークイベントの中で、がんノートのトークを行います。まずは須藤さん、自己紹介をお願いいたします。
須藤 須藤修司と申します。私は大腸がんのステージⅠで、2018年5月から闘病を開始しました。人間ドックで血便が出たことをきっかけに病院を受診し、がんと診断されました。がんノートは、以前からインターネットで拝見しておりました。
また、私は丸井グループの社員です。今回開催している「2019年インクルージョンフェス」は今年で3年目になるイベントで、「ダイバーシティ=多様性」という考え方の中に、がんもまた一つの多様性として存在するということを伝えたいという思いから、今回のイベント開催に至りました。
岸田 ありがとうございます。続いて、もう一人のゲストのマイコさん、お願いいたします。
園田 園田マイコと申します。モデルとして活動しております。2008年に、乳がんのセルフチェックをきっかけに発覚しました。今年で乳がんの罹患から10年が経ち、治療自体はすべて終了し、一つの区切りはついています。ただし、現在は子宮の検査を継続しており、経過観察中の状態です。
【発覚】
岸田 まず、モデルのマイコさんに、発覚からのお話をお聞かせいただけますか。
園田 私の母も乳がんに罹患していたため、30代頃から月に1回ほど、自分で胸を触るセルフチェックを行っていました。2008年の秋、お風呂に入っているときに左胸の乳頭の真下あたりに、硬いしこりのようなものを感じました。すぐにお風呂から出て「乳房 しこり」と検索したところ、乳がん、もしくは乳腺症の可能性があると出てきたため、すぐに病院を受診しました。マンモグラフィー、エコー、針生検など一通りの検査を行い、診察室に戻ると、医師からは「95パーセント大丈夫です」と言われました。
しこりを見つけた瞬間から強い不安を感じていましたが、「大丈夫だよ」という言葉にとても救われました。しかし、1週間後に再度病院を訪れた際、「乳がんです」と告げられました。その瞬間、頭が真っ白になり、目の前が真っ暗になって、先生のお話もほとんど耳に入らなくなりました。話の途中で「乳房全摘」といった言葉だけが断片的に聞こえてきて、「私、死ぬんだ」「どうしよう」という思いでいっぱいでした。
岸田 その後、セカンドオピニオンを取られたと伺っています。
園田 最初の先生とは正直、相性が合いませんでした。先生にとっては、がんは日常的なものだと思いますし、1日に何人もの患者さんを診ていらっしゃいます。でも私にとっては人生で初めての出来事で、もう少し寄り添ってほしかったという気持ちがあり、突き放されたような印象を受けました。
そこで家族や事務所に相談し、セカンドオピニオンを受けることにしました。最初の病院は、しこりを見つけてすぐに行ったかかりつけの婦人科から紹介していただいた病院で、セカンドオピニオンは知人の紹介で別の病院を受診しました。
セカンドオピニオンでも診断は乳がんで、治療方針も全摘という点は同じでした。ステージはⅡになる少し手前という説明でした。その後、家族から「ここがいいのではないか」と勧められた病院で、サードオピニオンを受けることにしました。
園田 サードオピニオンで、私の主治医となる先生との運命的な出会いがありました。緊張しながら診察室で待っていると、先生がカーテンを開けて、優しい笑顔で「大丈夫だよ」と声をかけてくださいました。その笑顔や言葉の一つひとつに心を打たれ、「この先生にお任せしよう」と自然に思えました。
この病院でも当初は「全摘」と言われていたため、ある程度の覚悟はできていましたが、すべての検査が終わったあと、「今回は温存でいきましょう。温存でも全摘でも、リスクは変わりません」という説明を受け、最終的に乳房温存手術を選択しました。
園田 温存手術後、3月から抗がん剤治療が始まりました。抗がん剤は4クールで、3週おきに行う予定でしたが、3週では白血球の数値が下がりすぎて点滴ができなかったため、3回目と4回目は4週空けて行いました。3月末から6月まで、2か月少しの治療期間でした。
私の乳がんは浸潤性で、ホルモン療法も抗がん剤も効果が期待できるタイプでしたが、「がんの顔つきが悪い」と言われたため、抗がん剤治療を行いました。
抗がん剤終了後は放射線治療を受けました。月曜日から金曜日まで毎日通院し、土日祝日はお休みという形で、合計19回受けました。毎日同じ時間に病院へ行き、数分間の照射を受ける日々が続きました。

岸田 放射線治療が終了してから、分子標的薬の治療がスタートするという流れになります。分子標的薬は、大きなくくりでは抗がん剤の一種ですが、従来の抗がん剤と比べると副作用が比較的少なく、病理組織の特徴を狙って攻撃するように作られているお薬ですね。
園田 私のがんにはHER2があったので、分子標的薬が効くのではないかということで治療を行いました。これは10年前にも受けているのですが、当時はまだ新しいお薬だったため、とても高額でした。一応保険は適用されていましたが、1回あたり5万円ほどかかっていました。
投与量は身長や体重によって個人差がありますが、私の場合は1回あたりだいたい5万〜6万円でした。3週おきに1年間、合計で19回ほど行いました。その後、ホルモン治療を開始し、私は5年間の服用でした。
岸田 現在のホルモン治療のガイドラインでは、10年間の治療が基本になっていますよね。当時は5年間でよいとされていましたが、ガイドラインが変更され、タイプによっては10年間の治療が必要な方もいらっしゃいます。
園田 ホルモン治療の副作用としては、更年期障害のような症状がありました。いわゆるホットフラッシュで、急に体が熱くなって汗が一気に出て、数分すると治まる、そういった症状に悩まされました。
岸田 2010年に分子標的薬(ハーセプチン)を終了し、その後、2013年に子宮がん検診を受けられたんですね。
園田 しばらく子宮がん検診を受けていないなと思い、区の子宮がん検診を受診しました。体がんと頸がんの両方を検査したところ、体がんは問題なかったのですが、子宮頸がんの検査で引っかかりました。
精密検査で細胞をしっかり採取したところ、「これです」と診断されました。ただ、まだ軽度だったため、乳がんのときと比べるとショックは小さかったです。その後、円錐切除手術を行い、経過観察となりました。手術後5年は経過しましたが、完全に安心できるわけではなく、3か月ごとに通院して細胞を採取する経過観察を続けていました。
園田 昨年、ホルモン治療は終了しましたが、長く経過観察を続けていた子宮頸部に「高度異形成」という、子宮頸がんの一歩手前の状態が見つかりました。手術以外に治療方法はなく、このまま放置するとがんになる可能性があるため、切除する必要があると言われました。
その際、医師から「子宮は取りますが、卵巣はどうしますか」と聞かれました。私には息子が一人おり、出産も経験していますし、乳がんの抗がん剤治療の影響で卵巣はほぼ機能していない状態でした。年齢的にも閉経が近く、今後の卵巣がんのリスクを考え、子宮と卵巣の全摘を決断しました。昨年、腹腔鏡手術で摘出し、現在に至ります。体調自体は良好ですが、全摘後の検査で、子宮頸部のあった部分に軽度の異形成がまだ見られることが分かり、現在も引き続き経過観察を行っています。
岸田 まだ治療や経過観察が続きそうですね。大丈夫であることを心から祈っています。
【発覚】
岸田 次は、丸井のショップマネジャーをされている須藤さんです。まずは、発覚からのお話をお願いします。2018年、昨年のことですね。
須藤 2018年に、会社の人間ドックで「E判定」が出ました。D判定まではよく聞きますが、E判定は自分でも初めてで、正直驚きました。40歳以降は毎年人間ドックを受けていたのですが、E判定が出た場合は、すぐに再検査を受けなければいけません。ただ、正直少し面倒に感じてしまい、そのまま放置していました。
判定の内容もきちんと見ておらず、「自分は健康だ」と思い込んでいたんです。後から分かったのですが、血便検査で2回陽性が出ていました。ただ、もともと痔があるので、「きっとそれだろう」と勝手に判断してしまいました。泌尿器科に行くことにも抵抗があり、「すぐ行きなさい」と言われていたにもかかわらず、受診せずにいました。ただ、排便時に違和感が出てきて、「何かおかしいな」という虫の知らせのような感覚があり、消化器系のクリニックを受診しました。
須藤 最初の受診で状況を説明すると、「とりあえず内視鏡検査をしましょう」という話になり、検査の予約をしました。当日は、朝から2リットルのとてもまずい液体を飲み続け、腸の中をすべて出してから検査に臨みました。
麻酔を打たれて横になり、肛門から内視鏡を入れてもらい、モニターで映像を見ていました。最初、先生はにこやかだったのですが、途中で赤いハートマークのようなものが映りました。ただ、そのときは、それががんだとは全く思いませんでした。私は、がんというのは黒いものだという勝手なイメージを持っていたので、「赤いなら大丈夫だろう」「ポリープみたいなものだろう」と思っていました。
須藤 その後、病理検査のために細胞を採取することになり、その赤い小さなハートマークのような部分の周囲を少し取って、大学病院に提出しました。1週間後に結果を聞きに行くと、「すみません、もう少し時間がかかります。さらに詳しい検査が必要になりました」と言われました。
自分では完全にポリープだと思っていたので、「ちょっと怪しいな」と感じ始め、その追加の1週間が、今振り返っても一番怖かった時期でした。それでも、「がんだとは認めたくない」という気持ちが強く、最後までポリープだと信じていました。さらに1週間後、妻と2人で病院へ行くと、明らかに先生の雰囲気が違っていました。そして、「言いにくいのですが、須藤さんは大腸がんです」と告げられました。
須藤 「腫瘍を切除してみないと詳しい病理結果は出ないので、ステージはまだ確定していませんが、とりあえずがんです」と説明されました。そのとき、人生で初めて「自分はがんなんだ」と認識しました。
その場で先生に二つ質問をしました。一つは、「これは悪性ですか、良性ですか」ということ。もう一つは、「がんと言われたら、もう死ぬのだと思っていたので、先生、私の余命はどれくらいなんですか」と聞きました。告知を受けた瞬間は大きなショックで、手が少し震えました。これまで、自分ががんになるなんて一度も考えたことがなく、「自分は大丈夫だ」と勝手に思い込んでいた自信が、一気に崩れ落ちました。家族のこと、子どものこと、これからどうなってしまうのか――そのことで頭がいっぱいになり、強い不安に襲われました。

須藤 大腸がんといっても種類はいろいろありますが、私の場合は、肛門から入ってすぐの「S字結腸」と呼ばれる入り口付近にできたがんでした。奥のほうにできると血便などの症状が出にくいそうですが、私は運よく手前側のS字結腸だったため、早めに異変に気づくことができました。
2018年5月、病理検査の結果で、ステージⅠからⅡの可能性があると言われました。その時点で、内視鏡手術ではなく腹腔鏡手術の話が出てきました。S字結腸の場合、30センチほど切除する必要があり、「一生、人工肛門になるかもしれない」という説明も受けました。人工肛門になると障害者手帳が交付されることや、オストメイトと呼ばれる制度の話などを、先生が淡々と話されました。
私にとっては、聞き慣れない言葉ばかりを突然並べられた感覚でした。先ほども話題に出ましたが、先生との相性という点で、その先生は質問にもあまり答えてくださらず、正直なところ、少し寂しさを感じました。
最終的な結果としてはステージⅠと確定し、腹腔鏡手術ではなく、当初予定していた内視鏡手術のみで治療を終えることができました。大腸がんは他のがんと少し違い、内視鏡手術で病変を完全に取り切ることができれば、同じ場所から再発することはあまりないと言われています。そのため、治療らしい治療はほとんどありませんでした。
リスクとして大きいのは、他の病気の併発だそうで、大腸がんそのもので亡くなる方は、ほとんどいないとも説明を受けました。再発しやすい部位としては、肝臓や肺が多いと言われています。
私は20年以上吸っていたたばこを完全にやめ、その影響もあって体重が10キロほど増えました。薬の服用もなく、食事やお酒についても、特別に厳しい制限はされていない状態です。
現在は、1年に1回必ず内視鏡検査を受けることを、5年間続けるように言われています。内視鏡手術で全て取り切っているため、「今は大丈夫」と思っていましたが、今年3月の人間ドックで、別の箇所に少し引っかかる所見が出ました。
現在も経過観察と確認中ですが、肝臓に何らかの異常が見られる可能性があり、γ-GTPなどの数値が、お酒の量を変えていないにもかかわらず上がってきています。脂肪肝の可能性もあるとは言われていますが、がんとの関連については、まだ確定していません。
今は肝臓の検査を続けている段階です。笑って話していますが、実際はかなり深刻な状況です。また改めて、ご報告できればと思います。
【仕事】
岸田 ここからは、もう少しトークを深掘りして、仕事について伺っていきたいと思います。マイコさんは当時モデルをされていたということですが、お休みから復帰までの流れをお話しいただけますか。
園田 モデルの仕事は会社勤めではないので、仕事が入れば働き、入らなければお休みという形です。乳がんを宣告されてから、当時ずっとお世話になっていたクライアントさんには、すべて正直にお話しました。乳がんと診断され、しばらく仕事ができなくなるかもしれないこと、抗がん剤治療を行うため髪が抜けてしまうことなどをお伝えすると、「戻ってくるまで待っています」と言ってくださるクライアントさんが、思っていた以上に多くいらっしゃいました。
抗がん剤治療は4回行いましたが、2回目くらいになると、自分の体調の波がだいたい分かってくるようになりました。「この時期なら安定して仕事ができそうだな」といった感覚がつかめてきたんです。抗がん剤治療に入る前に、ウィッグをいくつか用意していたので、「もしそれでもよろしければ、体調と相談しながらにはなりますが、お仕事をお受けできます」とクライアントさんにお伝えしました。すると、「ぜひお願いします」と言っていただけました。その経験を通して、病気になったからといって、必ずしも仕事ができなくなるわけではないのだと感じました。
私が病気をカミングアウトしようと思った理由には、強く影響を受けた方の存在があります。本当に恩人だと思っている、乳がんを経験された先輩がいて、その方は美容ジャーナリストをされています。私がレギュラーで仕事をしていた雑誌のパーティに、その方がいらっしゃったことがありました。坊主頭で黒のワンピースを着ていらして、「どうされたんですか」と伺ったところ、「乳がんになって、抗がん剤をやって、坊主になっちゃった」と笑って話されていました。当時は、その7年後に自分ががんになるとは思っていなかったので、「そうなんですね、大変でしたね」と聞いていました。
実際に自分ががんになったとき、まず最初にその方に相談しました。病気になってから、その方にも助けられましたし、他にも多くの方の体験談の本を読み、「自分も頑張ろう」と思うことができました。そうした経験から、もし自分の体験が誰かの力になるのであれば、カミングアウトしようと決めました。

岸田 そこから、どのように復帰していったのでしょうか。
園田 仕事を少しずつ再開していくうちに、自分の髪が伸び始め、気づけばいつの間にか普通に仕事を受けるようになっていました。抗がん剤治療中も仕事はしていましたし、手術後から抗がん剤開始までの数週間の間にも仕事をしていました。
抗がん剤が始まってから2回目くらいまでは、自分の体調の波が分からず、ずっと家で過ごしていましたが、体調が戻ってきたタイミングで、またカメラの前に立つようになりました。昨年は子宮頸がんの手術も受けましたが、そのときも仕事は2〜3週間ほどで再開しました。子宮の手術は、乳がんの手術に比べると療養期間も短く、体への負担も比較的小さかったため、早めに復帰することができました。
岸田 最近は、仕事をしながらがん治療をされている方も増えてきました。がんと就労については厚生労働省もサポートを推奨していますし、今はそういう時代ですよね。仕事と治療をうまく両立していくためのポイントはありますか。
園田 やはり、自分の体と相談することが一番大事だと思います。私にとって仕事は、心が元気になるというか、生きがいのような存在です。それをゼロにするという選択肢は、私の中にはありませんでした。無理をしないこと、体調を見ながら周囲と相談しながら続けていくことが、仕事と治療を両立するうえで一番大切だと感じています。
岸田 須藤さんの場合は、がんと宣告されてから、会社にはどのように伝えましたか。
須藤 最初は、正直なところ隠しておこうと思っていました。公言する必要もないですし、見た目では分からないので、言わなくてもいいかなと考えていました。仕事が好きだったので、仕事ができなくなることが一番嫌で、できるだけ仕事に影響が出ないように手術をしようと考えていました。そのため、最初は会社や一緒に働いている仲間にも、あえて伝えなくてもいいかなと思っていました。手術後は少し出血があったり、重いものを持ってはいけないと言われていたのですが、それでも普段どおり振る舞っていたほうがいいのではないかと考えていました。
ただ、これまで自分は大酒を飲み、たばこも1日20本以上吸う生活を続けてきました。そうした生活を「当たり前」にしてしまう人を、これ以上増やしてはいけないのではないかと思うようになりました。今後、私と同じような悩みを抱える人が出てくるかもしれません。がんは誰にでも起こり得るということを伝えることが、先輩としての役割なのではないかと考えるようになり、伝える決意をしました。

須藤 会社には、がんと診断され、もしかすると長期でお休みをいただかなければならないかもしれない、ということを伝えました。私の会社では「健康経営」を進めていて、社員一人ひとりが健康に気を配り、病気にならずに生き生きと働こう、というメッセージを発信しています。そんな中で、自分が病気になってしまったことに、最初は戸惑いもありました。
ただ、「それでも生き生きと働けるんだ」という姿を見せることができたら、それが会社への恩返しになるのではないかと考えるようになりました。先輩からも、「会社の意識を啓発するスピーカーになれるんじゃないか」と言われ、その言葉で気持ちが吹っ切れました。それなら、がんの重い・軽いに関係なく、こういう状況になったときに困っている人が相談できる存在になれたらいいなと思うようになりました。
がんを経験しても、仕事を頑張りたいという気持ちは変わりませんし、仕事を続けるには健康であることが前提です。体の健康だけでなく、心の健康も同じくらい大事だと実感しました。私はこれまで、「たばこは自分ではやめられない」と決めつけていて、何度か禁煙を考えたことはありましたが、本気では取り組めていませんでした。でも、がんを宣告されると、やめられるものですね。
大腸がんの次に注意が必要なのは、肝臓や肺だと言われています。医師からも、「たばこを吸っているなら、リスクを減らすためにもやめないといけません」と言われました。死への恐怖を現実として突きつけられたことで、私はたばこをやめる決断ができました。
【お金・保険】
岸田 次に、お金や保険について伺っていきたいと思います。
園田 私は20代後半の頃から、女性特有のがんに対応した保険と、一般的ながん保険の二つに加入していました。そのため、治療にかかる費用については、ほぼすべて保険で賄うことができました。
岸田 治療費だけではありませんよね。仕事をお休みする期間も出てきますし、その間の生活費や養育費などにもお金は必要になります。ある程度、しっかり備えがあったほうが安心だと思います。須藤さんはいかがでしたか。
須藤 私の場合は、30歳くらいのときに、たばこを吸っているからがん保険には入っておいたほうがいい、と妻に言われて、ある保険に加入しました。若い頃は保険のことがよく分からず、ずっとがん保険には入っていなかったのですが、家庭を持ったタイミングで加入していたのが結果的によかったと思います。
今回の治療では、がんと診断された際の一時金と、手術給付金が支給されました。私の場合は内視鏡手術だったので、検査だけで済み、特にリスクがなければ費用は2万円前後で済むケースでした。皆さんの治療と比べると、金銭的な負担はそれほど大きくなかったと思います。その後も定期的な通院は続きますので、多少の出費はありますが、本当に小遣い程度という感覚でした。
【家族・こども】
岸田 次は、家族や子どもについて伺いたいと思います。ご家族には、どのタイミングでカミングアウトされたのか、そこからどのようなサポートがあったのか、うれしかったこと、あるいは「こういうサポートがあったらよかった」と思うことも含めてお聞かせください。まずは、当時の家族構成から教えてください。
園田 当時の家族構成は、息子、元夫、義母、そして実母です。実母も乳がんを経験しており、長く病院に通っていました。母には、抗がん剤治療が始まる少し前に、私も乳がんであることを伝えました。母に打ち明けることができた瞬間から、なんとなく肩の荷が下りたような気がしました。母自身がフルコースで治療を受けていたこともあり、病気について率直に話し合える関係になれたことは、大きかったと思います。
息子は当時、中学2年生でした。多感な思春期で、反抗期でもあり、家で頻繁に会話をするような関係ではありませんでした。病院から帰宅したとき、いつもはそんなことはないのですが、玄関先まで息子が出てきてくれて、「パパから聞いたよ」と声をかけてくれました。乳がんだと分かった直後、私はすぐに元夫に電話をして、大泣きしながら伝えたのですが、そのことを息子にも話していたようです。息子は「パパから聞いた。これからママをサポートしていくから、大丈夫だからね」と言って、私を抱きしめてくれました。
家に着くまで、息子に言うべきかどうか、ずっと迷っていましたが、「本当のことを伝えよう」と決めて、正直に話しました。抗がん剤治療の1回目は、息子に付き添いをお願いしましたが、2回目以降は一人で通院しました。

岸田 サポートという点では、どのようなことがうれしかったですか。一緒に付き添ってくれることなのか、それとも話を聞いてくれることなのか、そのあたりを教えてください。
園田 本当に、そういうことすべてですね。そばにいてくれるだけで安心します。何かを無理に話そうとしなくても、ただそこにいてくれる、それだけでありがたいと感じました。
「独りじゃない」と思えることが、とても大きかったです。それはパートナーや息子だけでなく、友達も同じでした。特に女友達は、何かを言わなくても、ただ一緒にいてくれる、その存在自体がとてもありがたかったです。
岸田 須藤さんの場合は、奥さまとお子さまもいらっしゃいますよね。
須藤 はい、妻と息子がいます。それに、妻の両親も私の両親も健在です。大腸がんと分かったとき、両親には心配をかけたくなかったので、あえて伝えませんでした。
今はだいぶ落ち着いて経過観察の段階になっているので、最近になってから「実はね」と話しました。自分からがんになったことを伝えたのですが、反応は予想どおりで、「え、がんなの?」「どうして黙ってたの?」という感じでした。心配させたくなかっただけに、「言わなければよかったかな」とも思いました。
岸田 私自身もそうでしたが、親がパニックになって、「これがいいんじゃないか」「あれがいいんじゃないか」と次々に提案してくると、患者としては正直つらくなることもありますよね。そう考えると、あえて言わないという選択肢も、確かにあると思います。奥さまの反応はいかがでしたか。
須藤 妻とは一緒に検査に行っていたので、最初にがんと告げられた瞬間、妻はかなりショックを受けていました。多分、僕以上だったと思います。だからそのときは、逆に「自分が家族を支えなきゃいけないな」と感じました。いつも一緒に生活していて、当たり前の存在だと思っていたのに、突然そんな宣告を受けるとは、お互いに思っていなかったんだと思います。
もちろん、私自身もショックでしたが、妻のほうが何倍も大きなショックを受けていて、しばらく話してくれなかったり、夫婦で何度も話し合いをしたり、少し不思議な空気が流れていました。
ただ、妻はもともと明るい性格で、「なってしまったものは仕方ない」と切り替えてくれました。その後は、いろいろと情報を集めてくれて、「この先生で本当にいいのか」「セカンドオピニオンも取れるんじゃないか」と調べてくれました。まるで自分の病気のことのように考えてくれて、積極的に動いてくれたことは、本当に心強かったです。

須藤 子どもは今、小学5年生で、当時は4年生でした。仕事中はできるだけ普段どおりにしていましたが、家に帰るといろいろ考えてしまい、正直なところ元気が出ない日が続きました。眠れない夜もあって、「こんなに落ち込むことがあるんだな」と自分でも感じるほどでした。
そんな様子に息子が気づき、ゲームをしながら「お父さん、最近元気ないけどどうしたの」と声をかけてきました。そこで、「実はお父さん、がんなんだ」と伝えると、息子は「お父さん、死んじゃうの?」と聞いてきました。小学生になると、がんという言葉自体は知っていても、実際にどういう病気なのか、どんな経過をたどるのかまでは分からないんですよね。
そこで、息子と一緒にがんについて調べたり、話をしたりしました。「こういう病気もあるんだよ」「でもね、がんになっても生き生きと生活している人はたくさんいるんだよ」ということを、できるだけ分かりやすく伝えました。一緒に学ぶ時間を持てたことは、とても大切だったと思いますし、子どもにとっても、そして自分にとっても、意味のある時間になったと感じています。
【辛い/克服】
岸田 闘病中、発覚してから今までの間で、精神的・肉体的につらかったことや、その克服についてお聞かせください。どのタイミングが一番つらかったのか、それをどのように乗り越えていったのかを教えてください。
園田 一番つらかったのは、やはり最初に「乳がんです」と告げられた瞬間でした。あのときが、精神的には一番大きなダメージを受けたと思います。
肉体的につらかったのは、抗がん剤治療です。いろいろな副作用が順番に現れて、それを4回、毎回乗り越えていくことは正直きつかったです。
ただ、抗がん剤以上につらかったと、今振り返って思うのは、手術前の検査で何度か受けた生検、特に針生検です。麻酔があまり効いていない状態で針を刺され、「ぐりぐり」とされる感覚があり、翌日には青あざができることもありました。あのときの痛みは、今でも印象に残っています。
ホルモン治療は5年間続き、毎日1錠ずつ薬を飲んでいました。薬は1錠ずつ日付が書かれたシートになっていて、それを見ながら「今日は飲んだ」「あと何シートだ」と、一日一日を確認していました。カレンダーを見ながら、「来週はここまで行く」「この日を越えたら一つ終わる」と、体の変化とともに治療が少しずつ終わっていくことを目標にしていました。
最後のホルモン剤は、いつもより丁寧に飲んだことを覚えています。最終日には、「これで一つの治療が終わったんだな」としみじみ噛みしめながら、カレンダーを見て「あと何日」と数えてきた日々を振り返りました。そうやって、小さな目標を持ちながら、治療を乗り越えてきたのだと思います。
岸田 須藤さんはいかがでしたか。

須藤 一番つらかったのは、「自分はがんにならない」と思っていたのに、がんだと宣告された日の夜でした。昼間、告知を受けたときは、いろいろなことを一気に考えてしまっていて、自分でも驚くほど気持ちが整理できていなかったと思います。でも、本当にきつかったのはその夜でした。誰もいない中で目を閉じても、まったく眠れず、頭の中で次々といろいろなことを考えてしまいました。あの時間が、精神的には一番つらかったです。
肉体的につらかったことで言えば、内視鏡検査の前に飲む、あのドリンクですね。内視鏡を入れられること自体は特に苦ではなかったのですが、検査のために飲むあの液体の味が本当につらかったです。この世のものとは思えないような味の液体を、水をチェイサーにしながら2リットル飲む。あれが、肉体的には一番きつかったと思います。
本当は精神的にも、かなりつらい部分はありました。ただ、私には妻や家族がいて、落ち込んでいる姿を見せるのはよくないなと思ったんです。だから、「常に笑顔でいよう」「楽しくいよう」と決めました。周りから「がんのくせして元気だね」と言われるくらいでいよう、と自分の中で覚悟を決めていました。そうやって過ごしてきたことで、今は乗り越えられていると感じています。
【夢】
岸田 最後に、今後どうしていきたいかという点について伺いたいと思います。夢や目標、来年や2020年に向けての思いなどでも構いません。
園田 私は、将来こうなりたい、といった明確な夢や目標は特にありません。ただ、今この時間を、毎日丁寧に過ごしていきたいということは、常に心にあります。一日一日を大切にしながら生きていけたら、それで十分だと思っています。
須藤 「こうありたいな」という意味で言えば、病気になったことで、人のために何かしたいと思うようになりました。誰かの役に立てる存在でありたい、という気持ちが強くなっています。そして、その思いが形になった一つの結果が、このインクルージョンフェスだと思っています。
【今、闘病中のあなたへ】
岸田 最後に、今、闘病中のあなたへ。マイコさんからメッセージをお願いできますでしょうか。
園田 この言葉は、今の闘病中の方だけでなく、自分自身にも向けての言葉になりますが、「ご苦労さまでした」「よく頑張ったね」と伝えたいです。今、治療を受けている方にも、「ご苦労さま」「大丈夫だよ」と伝えたいと思っています。宣告から10年以上が経ち、つらいことも本当にたくさんありましたが、「私、よく頑張ったな」と、今は素直にそう思えます。
まさか自分ががんになるとは思っていませんでしたし、人生は山あり谷ありだなと実感しました。でも、その一つひとつが、人生の勉強になっているとも感じています。これから先も、また大変な状況が訪れることはあると思いますが、それでも人生を楽しもう、という気持ちは忘れずにいたいです。だからまずは、「ご苦労さま」という言葉を、今の自分自身に贈りたいと思います。

須藤 本当は「頑張ろうぜ」と言いたい気持ちもありましたが、皆さんもう十分に頑張っていると思います。私自身も含めて、ここにいる皆さんは、もう頑張っています。そして、私たちの存在は、自分のためだけのものではなく、周りの方、友達、パートナーなど、いろいろな方にとって必要な存在だと思っています。
つらいときも、苦しいときも、きっとたくさんあると思いますが、そんな中でも、できれば笑顔でいてほしいなと、私は思います。周りの方のお役に立てているかどうかは分かりませんが、私自身も、できるだけ笑顔でいたいと思っています。だからこそ、みんなで一緒に、笑顔でいきましょう。

岸田 最後に、感想などがあればお願いします。
園田 あっという間でした。
須藤 この丸井という場所で、周りを見渡すとスーツ売り場という環境の中で、がんノートさんのトークイベントを開催できたこと自体が、とても面白いなと感じました。また、岸田さんと出会えたことも含めて、人と人がつながっていくことで、もっと面白いことができるのではないかと感じています。とても楽しい一日でした。ありがとうございました。
岸田 素敵な時間でした。ありがとうございました!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。