目次

※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。

インタビュアー:岸田 / ゲスト:松浦、本田、坪田

【自己紹介】

岸田 きょうはCAN netさんとコラボし、北海道の札幌からお届けします。15歳から39歳のAYA世代のゲストを3人呼んで発信いたします。まず松浦さんから自己紹介をお願いします。

松浦 松浦美郷です。私はホジキンリンパ腫、見つかった際ステージⅢでした。2008年6月24歳から闘病を始め、35歳になった今は寛解して定期検診のみです。

本田 本田莉菜です。がんの種類はホジキンリンパ腫でステージはⅡのAでした。見つかったのは2014年の5月です。現在は2カ月に1回ほど、病院に経過観察に通っています。

坪田 坪田悠です。がんの種類は縦隔原発胚細胞性腫で、診断受けてからそのまま治療にいっちゃって、ステージは結局よく分かんないままです。発覚したのが2011年9月で、今経過観察中の32歳です。

【発覚・治療】

岸田 発覚、治療について、松浦さんから時系列でお願いします。

松浦 当時私は大学生でした。2007年秋ぐらいから倦怠感や寝汗や肩こりがひどくなったり、体調が悪いなと思ってたんですけど遊び盛りであんまり気にしていませんでした。

松浦 ダイビングをしてたので、その体調不良が減圧症じゃないかっていうのを疑って2008年1月に高気圧治療をしていました。でも特によくならなくて、その後また病院に行ったり、大学の健康診断とか受けていて、2008年4月にホジキンリンパ腫という悪性リンパ腫の一種だと分かり、そこからいろんな検査をして型とかを決定して、2008年6月から大学を休学して治療に入りました。

松浦 東京医科歯科大学医学部附属病院に入院し、ABVD療法という化学療法を8クール、トータル8カ月ぐらい抗がん剤治療しました。

松浦 初めの1カ月は東京にいましたが家族か通うのも大変なので、地元香川県の国立香川小児病院に転院して治療しました。2009年1月に8クール終了して、第一段階は取りあえず終わりました。

岸田 ダイビングしててちょっと体調悪かったから、減圧症なんじゃないかっていう疑いがあったと。ホジキンリンパ腫は、そこでそのまんま検査して分かっていったって感じ?

松浦 自分でおかしいなと思ってたのと同時に大学の健康診断で発覚しました。肺のレントゲン縦隔っていう胸部がすごい腫れてて、それで「ちょっとおかしいから、病院行ってくれ」って言われて血液検査したら、すぐ血液内科に回ったって感じです。

岸田 東京の医科歯科大学に入院したのは?

松浦 東京の美大に行っていたんですが、その前にちょっと医科歯科に行っていた時期があった。辞めちゃったんですけど、そういった経験もあったから、医科歯科に。大学病院もまだ紹介制とかじゃなかったんで。

岸田 2008年7月に香川に転院したのはなぜ?

松浦 ABVD療法は初めちょっと入院して体調とか様子見るんですけど、その後から通院でもできるんです。2週間に1回、抗がん剤打ちにいくんですけど、多くの方は通院で行かれてる。

松浦 私、東京で1人暮らしだったので、抗がん剤打って帰ってその2週間とかは免疫下がるので自宅にいなきゃいけない。1人でやっていく自信がなかったので、地元に帰って治療することにしました。

松浦 2009年4月に大学に復学して、1年間はちゃんと大学で楽しく過ごしましたが、2010年6月に再発しました。再発したときは7月に新橋夢クリニックっていう不妊治療とか有名な病院で、未受精卵の凍結保存を行い、8月にまた医科歯科大学の附属病院に入院して、9月には超大量化学療法をして、その後、自家末梢血造血幹細胞移植で血を全部入れ替える治療をしました。

松浦 1カ月クリーンルームに入ったけど何とか出てきて、10月に退院しました。大学にも、退院して体力戻ったらすぐ戻ってこのときは休学せず留年もせずにいきました。後遺症とかで腎生検に入院したりとか、そういうのもあったんですけど、2012年3月にPET検査で寛解っていう太鼓判押してもらって、現在に至ります。

岸田 再発は1年近くたってですが、どうやって分かったんですか。

松浦 1カ月に1回ずっと定期検診行ってたし、PETも3カ月に1回とか、結構頻繁に撮っていて、そのPET検査で分かった感じです。血液検査は大丈夫だったんですけど、PETでがんのところが光ってて。再発って言われたときは初発より一瞬ショックだったかもしれません。一瞬またかって思って、診察室で先生の前で泣きました。

松浦 新橋のクリニックで未受精卵保存をしたのは血液内科の主治医が「今度の治療は前の治療と違って抗がん剤の副作用がすごく出るから、100%とは言わないけど不妊なる可能性高いから、こういう未受精卵凍結っていう選択肢がある」って教えてくれて「治療進めなきゃいけないから、1カ月しか猶予なくって、1回しかチャンスないけどやりますか」って言われてそのときは別に子ども持つとかリアルには考えてなくて将来いつか、ぐらいな感じで、全然現実的じゃなかったんですけど、先生言うならやっとくかみたいな感じで、やりました。

岸田 その後医科歯科大学で、次は大量化学療法でいっぱい抗がん剤をして血を入れ替える自家末梢血造血幹細胞移植。クリーンルームはどんな感じでした?

松浦 クリーンルーム入ってからは1週間ぐらい抗がん剤を。本当に白血球とかほぼゼロみたいな状態にしたところで、その前に保存していた自分の末梢血から造血幹細胞をがん細胞がゼロなったところに入れて、自分の血をつくる細胞で、新しく血を全部つくってもらいました。

松浦 副作用が大変で、自分の血なんで他人からもらってくるやつよりかは免疫反応とかがないんですけど、前の化学療法がつらかったですね。

松浦 そのとき定期的に血液検査、月に1回とか行ってたので、そのときすごい腎機能が低下してる状態で、抗がん剤が腎臓に毒性があってそのせいじゃないかとなり、それから腎臓内科にも通うようになりました。

岸田 次に莉菜ちゃんの闘病経験談を時系列だけお願いできますでしょうか。

本田 2013年10月に右側の鎖骨の辺に、小豆サイズの痛い何かを発見したんです。12月で期間満了の仕事をしてたので無職になった時にまた別の、新しい大き目の腫瘤を次は耳の下辺りに見つけたのでいろいろ検査しまして、3月25日にがん告知を受けました。

本田 ベッドが空いてなかったので1カ月待って、5月から入院して抗がん剤治療を開始しました。全部で6クールの抗がん剤治療をしたんですけど、2クールは入院で、7月に退院をして残り4クールを行いました。治療中は中耳炎になったり、風邪ひいたり、親知らずが腫れて3本抜いてみたり。

本田 やっと12月に抗がん剤が終わり、寛解しました。2015年1月から現在まで経過観察中で、2カ月に1回の検診も来年の6月のCTで何もなければ終了です。最初に行ったのはかかりつけの病院でCTを撮ったり採血したりしてから、紹介状をもらって今の治療ができる病院に移りました。

本田 私のホジキンリンパ腫はまだステージⅡで、Aまではぎりぎり初期。月単位で進んでいくがんのタイプだったので、道東に1軒しか血液内科がないので、入院は一か月ほど待ってました。

本田 その間は高額医療費制度を申請しに行ったり、ハローワークに行ったり、今じゃないと行けない動物園行っておこうとかやりたいこと、やり尽くして満を持してゴールデンウイークの初日から入院しました。

岸田 抗がん剤治療も終了。今、経過観察中っていうことですね。次、坪田さんの闘病経験をお願いします。

坪田 2011年はちょうど大学出て就職した年だったんですが、5月ぐらいに体を伸ばす感じで胸を開いたら少し痛みを感じたんです。北海道出身で北海道の大学を出て、就職して群馬で働き始めました。

坪田 群馬県は5月でも30度超えてたりとても暑く、慣れない環境だし、就職した1年目だから、違和感もストレス的なものだろうって思ってたんですけど、その2カ月後に急に胸に激痛が走りまして、ただ胸が痛いだけじゃなくて、右腕の第2関節の内側が痛くなって近くのクリニックへ行ったら原因がよくわからないと言われ痛み止めだけもらってその時は終わりました。

坪田 次の月にもまた同じような痛みがあって、痛み止めとして頓服が処方されて、それからは痛いときに痛み止め飲みながら仕事続けていました。

坪田 2011年9月7日、その日はちょうど痛め止めが切れて、胸痛いなっていう状態で職場行ったんですけど周りから見ても顔が青白い状態で仕事してて、心配されながらも何とか仕事を終わって帰ってたら、今度は息できないぐらいの激痛が走りました。

坪田 当時は社員寮に住んでたので、同期にお願いして近くの夜間の救急外来まで連れてってもらってレントゲン撮ったら、腫瘍が見つかりました。

坪田 次の日改めて病院に行ったら専門の方に「今すぐ行動しろ」と言われて近くの市立病院に紹介状書いてもらって、そこで組織を取って針生検を受けた結果、「多分、良性の腫瘍じゃないか」と言われました。手術するなら地元に帰って…ということで、紹介状を書いてもらって札幌医科大学附属病院で手術をしました。

坪田 手術後の病理検査の結果、胚細胞腫瘍だと言われまして、念のためのBEPP療法という抗がん剤治療をすることになりました。通常3クールなんだけども念のため多めに4クールやって、その次の年2月3日に退院となり、今は経過観察を続けてるという感じです。

坪田 「坪田さん、腫瘍があります」って言われたときに、そのレントゲン見て、こんな分かりやすい腫瘍があったんだ、と。実は前のクリニック通ってるときに一回レントゲン撮っていて「なんもないですよ」って言われてたんですけどあれは何だったんだ、と思いました。

坪田 手術は大変でした。胸を開いて腫瘍取るだけだかと思ったんですけど、その腫瘍が右肺にちょっと浸潤していて、右肺の5分の1と心膜も取って大掛かりになりました。特に息苦しさはなかったです。

岸田 そこからBEP療法を4クール。その時は何が一番つらかったですか。

坪田 食事です。具合悪さも、そういう食事ですね。抗がん剤始めて1日、2日ぐらいは大丈夫だったけど、3日目にご飯が出た瞬間に、すごく吐き気が出て配膳する台の音を聞くだけでもう…ってくらいつらくて耐えるしかなかったです。

坪田 放射線治療にしなかったのは放射線の先生が、胸の近くだから放射線当てたくないと。放射線療法やると、心筋梗塞の確率が10%か20%ぐらい上がるそうなんです。

坪田 「君が50代とか60代だったらやるかもしれないけど、君はまだ20代だから私はやりたくない」とそこは言われまして、化学療法になりました。

坪田 結局がんだと気づいたのは職場に診断書を出そうと思った時で、診断書に書かれていた縦隔原発胚細胞腫瘍という正式な病名を見たときでした。

坪田 お医者さんには再発の可能性は低いと言われましたけど、またなるんじゃないかなっていう怖さは常日頃、抱えながら生きてはいます。

【学校】

岸田 ここからは患者さんの日常生活について伺っていきますが、まず学校のことから。松浦さんは当時美大生でしたよね。美大を卒業して、今医学部に入りなおしたのは自分でなんか思い直すことあってでしょうか?

松浦 思い直すっていうか、延長なんです。美大では空間デザインをやってたのでインテリアとか、あと舞台美術とかも一緒に学んでいて、その勉強してるときに入院したんで病院の空間がこれは人が生活する空間じゃない、これじゃあ治るもんも治らんぞと思いました。

松浦 もともと病院の空間には結構興味があったんですが、入院したことがきっかけにはなりました。医者は患者さんを救うのが第一だから、空間デザインとかもちろん二の次でしょうがないんですけど、自分が依頼する側なったら、もっとよりよい生活の場としての入院空間がつくれるんじゃないかなと思ったのがきっかけで医者を志しました。

岸田 美大の時の休学、復学について教えてください。

松浦 初発の時はまず何処に、誰に言えばいいのか分かりませんでした。そんな中保健センターの看護士さんがいろいろ相談乗ってくれたので、そのアドバイスとかも聞きながら進めました。

松浦 休学自体は本当にもう事務的に教務に出すって感じで、主治医から「取りあえず1年はお休みすることなると思う」って言われたんで、1年お休みすることにしました。年明けに治療が一応終わったので、復学に関して体力的には問題なかったですけど、留年したので始めはちょっとどきどきしながら学校に行きました。

松浦 再発のときはもうゼミに入っていて外国人の教授がすごい自由な人だったので、治療で休むなら休学じゃなくって課題を出してくれたら大丈夫と言ってくれて、結局3、4カ月休んだけれど留年せずにすみました。

松浦 課題もできる範囲で良かったので大変でしたが何とか。だけど美術って1人じゃできないんで、作品を先生に見てもらって、先生からの指導を受けつつブラッシュアップしていく感じなんで、そのチャンスがなくなったのはすごく悔しかったです。何ならもう一年かけてでも、もっと先生の話を聞いたり、もっと美大で吸収したいことあったなと思います。

【就職】

岸田 次は就職について、こちらは当時仕事を満期で終了してその後就職見つけるときに、がんが発覚したという本田さんにお話を伺います。就職先にがんのことを伝えるのか、伝えないのかといったところも含めて。

本田 12月で仕事を辞めて、1月に腫瘍を見つけ、仕事してる場合じゃないと思ってそのまま無職状態で治療に入ったんですけど、治療が終わって、仕事の面接試験を受けるときがんだったということを先方に伝えるか、伝えないか問題が発生しました。

本田 ネットで調べても若い世代のがん経験者の履歴書の書き方なんて見つからず、隠すのか、隠さないのかどっちにしたらいいんだろうって悩んだときにがんノートと出会いました。それで履歴書の書き方に関してコメント打ったわけです。

本田 すると「書いたほうがすっきりするんじゃないか、がんだって分かって採用してくれたほうが気持ちも楽だろうし、もし隠して仕事を始めて後で見つかったらミスマッチになるかもしれない」という返信がありました。

本田 ハローワークでも相談したら、病名とそれによって予想される会社側の負担、例えば経過観察で定期的な通院があるから、2カ月に1回平日に休みが必要だと書いたほうがいいんじゃないかというアドバイスをしていただいて、私は病気ついて正直に書くことにしました。

本田 すると大抵が門前払い。本当は事務職をしたかったんですけど十勝は事務職の求人自体が少ないのに、履歴書にがんなんて書いてあればなおさらダメで、結局工場ワークに就きました。でも体力的にも追い付かなかった。

本田 面接のときは「病院行って全然大丈夫だから」って言われてたけど、実際に工場に入ったら、上司が嫌な顔するんです。休みが取れたとしても、シフトで働いてたので、病院で1日休んだら8勤とか、9勤とか、12月になるともう12~13連勤。

本田 これ体的に怖いなって思ったので結局退職。今は一番最初で働いてたところに戻りました。もちろん、がんだって全部、伝えてて「それでも戻ってきていいよ」って言ってくださった。病院にも行っといでって言いますし、がんの活動とかも有休取って行っておいでって言ってくれるので、ありがたいです。

【仕事】

岸田 次仕事に関して、群馬県で仕事をしていたときにがんが見つかったという坪田さん。どういうふうに上司や同僚に伝え、休職復職していきましたか。

坪田 上司に伝えたのは胸の痛みから救急病院に行った後です。「胸に腫瘍見つかりました」と報告し、これから手術をすることも伝えましたが、実はその時まだ試用期間中で、多分、解雇されるだろうなと覚悟してたんですけど優しい会社で、その後本採用となり有休とかも付与されました。

坪田 手術したら戻れるかもしれないから、会社にはいったん休業届出して、北海道まで手術しに行きました。休職するときは3カ月って伝えていましたが、結局半年ぐらいかかりました。

坪田 手術後に群馬県に戻って社長と直接お話ししたら北海道にある関連企業への異動を打診されて、結局、群馬に1年もいないで北海道に戻ってくることになりました。今は関連企業の会社で勤めていますが、体力的なところも問題ありません。群馬も楽しい生活だったので北海道戻ってきてよかった面もあるし、悪かった面も結構あったりはします。

【保険・お金】

岸田 皆さんにお金、保険のことについてお伺いしたいんですけれども、当時お金どう工面されましたか。

松浦 私は学生だったのもあり、親に全部頼ってました。たまたまその直前に母が全て保険見直して、私もがん保険に入れてくれてたので本当に助かりました。

松浦 あと大学生協の保険に入ってて、安いんですけど手厚くて結局その両方からお金が給付されたので、私もすごいお金心配してたんですけど、母からはかかった以上にちゃんと支給されたからその後の通院費とかにもなったと聞きました。

松浦 私も実家に頼りました。抗がん剤自体が1回2万5000円でそれがぽんぽん飛んでく感じだったので、実際幾らかかったのか…。保険の加入有無については全く聞いていなくて、1人で治療に行って後で現金持ってきてもらう感じでした。

松浦 1クールが2回の抗がん剤を6クールやって全部で12回の抗がん剤受けてるから、2万5000円掛けると…その他にもPET代とかCTとか肺活量とかいっぱいお金、かかってると思います。

坪田 自分も就職したてだったんで父に相談したら「金のことは心配するな」と。保険に関しては月々1600円の全労済に母親が入れてくれてたんですけど、でもそれは入院費だけでしたね、カバーしてくれたのは。多分、総額で60万超えるぐらいかなと思います。その他にも群馬と北海道間の交通費とかもあります。

【結婚・恋愛】

岸田 皆さんの恋愛観、結婚観について聞かせてください。がんだとどのタイミングで相手に伝えますか?

坪田 初めから言うと思います。昔、がんやっちゃってさ、みたいな感じで。実はがんよりも色盲という遺伝性の色覚障害があるので、そっちのほうがむしろ問題になるのかなって、自分の中では思っています。色覚障害だと警察、消防、自衛隊、海上保安庁とか、パイロットとか、鉄道の運転手とか、人命に関わる部分の職業にはなれないので。

本田 私は当時恋人がいて同棲してました。一緒に住んでたので、実際に告知される日の朝、「もしがんだって言われたら、アイスワイン抱えて帰ってくるから」って言って持って帰ったんです。ぽろっと泣かれました。

本田 将来の方向性的な問題で今は別の方とお付き合いしていますが、付き合う前には言わなきゃなって思ったんですが、さすがにしらふではがんだったと言えないわけです。3軒ぐらいはしごして深夜2時ぐらいに、いやあ、がんだったんだよね、びっくりでしょう、みたいに伝えたら無表情で受け止められ、今に至ります。

本田 その後、付き合い始めて、あちらの親に何度か会ってるんですけど、まだがんだったって言えません。だから今は実績づくり。あちらが一人っ子の長男もあるし、もしかしたら子どもが駄目かもしれないとか。以前、ヘアドネーションをした時にそこからつなげるべきだったんでしょうけどできませんでした。

本田 隠したいけど、隠せないですね、もう。言わないときっと後でなんかいざこざが。

岸田 これがAYA世代の現状ですよね。リアルなところで揺れ動く、この葛藤というか。

松浦 私は最初にがんだと分かった時に好きな人はいて親身になってくれましたが、だんだん離れるようなってしまいました。結婚はまだです。

松浦 髪がない時期は消極的になって外出も旅行も少なくなり、恋愛に関して同様だったんですけど、ある時期から開き直って、普通に好きな人もできたりしました。がんだったと言うタイミングは普通でありたいっていうのがあったので難しくて言わなかったです。

松浦 1人、結婚しようと思った人がいて、その人には初めて全部話しました。卵子保存もしていたり、結婚となると相手の人生も相手の家族の人生にも影響があるからずっと言いたくなかったんですけど、その人には言ったんです。

松浦 彼は私の病気ではなく私自身見てくれて「問題ないよ」って言ってくれて、一瞬悩んでいましたが少し考えて明るくそう言ってくれたので救われました。今後もそういう結婚とか考えたときは伝えないといけないと思うんですけど、ちょっとかなり勇気要ると思います。

【北海道の現状】

岸田 北海道ならではのエピソードを聞かせてください。坪田君とか群馬と北海道を比較して何かありますか。

坪田 がんだと分かったのが北海道なんで群馬と比較しようがないんですけれど、東京にあるSTAND UPという患者会に群馬からだったら気軽に行ける。道民の感覚として気軽に行ける距離なのはうらやましいとは思ってます。

坪田 去年、アヤキタという団体が立ち上がって参加したんですけど、立ち上げた代表が就職活動に専念したいということでその後辞めまして自分がぽつんと一人残される形なっちゃいました。

坪田 いろんな方の協力がありながら月1で患者会をやっていたんですけど、誰も来ない月も多々ありました。でも続けていたら、去年は松浦さんが来たり年1回の交流会に今年は20名超えるぐらい来ていただいて、少しずつ広まりつつはあると感じています。

本田 道東は札幌まで距離があるので、もし札幌で治療受けると大変ですし、セカンドオピニオンでも気軽に札幌まで行けない。「もし再発したら帯広では移植できないから札幌に行かなきゃだめだ。」と言われてなんか地域格差をすごく感じました。田舎だったら若いがん患者も目立ちますし。

松浦 北海道は本当に広いんで地域格差は感じています。旭川だと、私が東京では簡単できた妊孕性の治療も未婚の女性は今できないから札幌まで行かなきゃいけない。

松浦 お金とか時間の問題で諦める若い子が結構いると聞いて何とかならないかと思います。旭川は一応北海道第2の都市だといわれてるけど、そういうのできなかったり、拠点病院に各地から若い子が治療に来るんですけど友達も親も遠いからと、1人で頑張ってる子がたくさんいる。

松浦 治療もないし、友達も親も来れないといったら、とてもつらいだろうと。そのときの気持ち分かるだけに、その辺のサポート体制とかができたらないいなと思っています。

【夢】

岸田 皆さんから一言ずつ、夢を教えていただけますでしょうか。

本田 夢は二つあります。一つは髪の毛が抜けてく、何ていっていいか分かんない気持ちを経験しているのでもう一回ヘアドネーションをしたい。もう一つは田舎は情報がないからがんだとわかったら早く死んでしまうとか、かわいそうなことだとか、そういうイメージを壊したい。今は図書館にがんの関係の本を寄贈したりしています。

松浦 AYA世代の医療環境をよくしたいです。いい空間でいい医療ができるような、それが国のデフォルトになるようになれば、したいです。

坪田 北海道全域にAYAって言葉が広まって、もし自分ががんになったときに、1人、2人でもいいから各都市に小さな患者会があるっていう環境を目指しています。AYAの患者会を全道各地に根付かせたいなっていうのはあります。

【今闘病中のあなたへ】

岸田 最後に今、闘病中のあなたへというメッセージをお願いします。

松浦 私は『わがままになろう!』です。寂しかったら寂しい、つらかったらつらいって言う。言わないと伝わらないし、周りもどう助けていいのか分かんないから、わがままになることで、周りとのコミュニケーションも増えると思います。

本田 私は『できないことを数えるのではなく、できることを数えよう』です。一応、再発したとき用に今もCVポートがまだ入ってるんですけど、工場にいたときに、重いものを上から降ろしたりできなくなって、今までの自分だったらできないことでも努力して頑張んなきゃっていう強迫専念があったんですけど、できなかったらできないでいいと。

本田 できないことを数えるより、できること数えるほうがいいんじゃないかなと思うようになりました。

坪田 『甘える』です。その意図は、入院したの泌尿器科だったんで高齢の男性が多くて、女性の看護師さんが優しくしてくださるんで、あのときもうちょっと甘えておけばよかったなっていう後悔があるので、だからみんなちゃんと甘えとけよと。逆にAYAというところを使って甘えろと。特に男性は入院生活に潤いが出ます。

岸田 今回は長丁場となりましたが、どうもありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連するみんなの経験談