目次

※各セクションの「動画」をクリックすると、その箇所からYouTubeで見ることができます。

インタビュアー:岸田 / ゲスト:天野

【発覚・告知】

岸田 本日のゲストは天野さんです。よろしくお願いします!

天野 天野慎介と申します。2000年、27歳のときに悪性リンパ腫を発症しました。その後、治療を受け、再発も2回経験しました。

天野 現在は経過観察中で、寛解という状態です。私が発症したのは、びまん性大細胞型B細胞リンパ腫という非ホジキンリンパ腫のB細胞性でした。

当時は仕事をしていて、会議中に突然声がまったく出なくなることがありました。同じ症状が2回ほどあり、そのほかにも高熱が2、3回出ました。風邪だと思って近所の耳鼻科を受診し、風邪と診断されて薬を飲んでいたら熱は下がりましたが、歯磨きのときに口の中を見ると扁桃腺が腫れていることに気付き、再度受診しました。すると「腫れ方が普通ではない。可能性は低いけれど悪性リンパ腫かもしれない」と言われ、地元の総合病院で病理検査を受けることになりました。

がんについては無知でしたし、20代でがんになるはずがないという思い込みもあって、検査結果を聞きに行くときも仕事の合間にさっと聞いて戻るつもりでした。しかし「悪性リンパ腫です。治療が必要です」と告げられ、頭が真っ白になりました。辛うじて「家族に言わずに治療できますか」「仕事はどうなりますか」と二つだけ質問しましたが、その後の記憶はほとんどありません。

大学病院に紹介され、「5年生存率はおよそ50%」と説明を受けました。治療は多剤併用のCHOP療法でしたが、私の場合は十分に効かず、4クール後も部分寛解にとどまりました。そのため救援化学療法に切り替え、ポートを入れて96時間持続点滴を行い、さらに自家末梢血幹細胞移植を受けました。大量の抗がん剤を投与した後、事前に採取して凍結保存しておいた造血幹細胞を体に戻す治療です。非常にしんどい治療でしたが、一度は寛解に入りました。

しかし1年後に再発しました。自家移植後も半分ほどは再発すると聞いていたので、ショックはありましたが「やるべきことはやった」という思いもありました。ただ、再発は死と向き合う感覚でした。縦隔への再発に対し放射線治療を行い、その後、当時承認されたばかりの抗体療法薬を使用しました。

ところが放射線による間質性肺炎を起こし、仕事中に呼吸困難で倒れ救急搬送されました。大量のステロイド投与で肺炎は抑えられましたが、免疫低下によりヘルペスウイルスが活性化し、左目に感染を起こして網膜が損傷しました。緊急手術を受けましたが、最終的に左目の視力を失いました。

その後、徐々に仕事に復帰し、生活も軌道に乗り始めた2年後、再び再発しました。

【治療】

天野 再発といっても、もう打つ手がほとんどありませんでした。唯一提案されたのが、骨髄バンクを介した同種移植です。自家移植と違い、他人のリンパ球が自分のがん細胞を攻撃する抗腫瘍効果が期待できる治療ですが、その分リスクも非常に高い。すでに大量の抗がん剤を受けていた私にとっては、さらに大きな負担になる治療でした。それでも主治医は「もう同種移植しかない」と強く勧めました。

腸間膜に再発が見つかり、HLA型も幸い日本人に多いタイプで、適合ドナーが100人以上いると言われ、移植に向けて話は進みました。ただ、あまりに致死的な治療であるため、私はセカンドオピニオンを受けました。移植経験の多い医師を自分で調べて訪ねました。

その医師からは「治療関連死のリスクは5割では済まないかもしれない」と言われ、腸間膜だけなら本当に再発かどうかも慎重に考えるべきだと示唆されました。その意見を主治医に伝えましたが、主治医は「絶対に再発する」と断固として譲りませんでした。

私自身は、これまでに抗がん剤の副作用で肺炎を起こし、視力も失い、すでに多くの代償を払っていました。これ以上治療を重ねたらどうなるのかという不安がありました。病気の進行で亡くなるのと、治療で亡くなるのなら、私は病気と向き合うほうが自分らしいと感じました。

最終的に、移植は受けず、抗がん剤のみで治療を終える決断をしました。「その結果は自分の責任で引き受けます」と伝え、治療を終えました。

天野 主治医の判断も決して間違ってはいなかったと思います。ただ、両方の意見を聞いたうえでどちらかを選ぶなら、当時の私は「治療で命を落とすより、病気の進行を受け入れるほうが自分にとっては納得できるかもしれない」と感じていました。

その後、経過を見ていく中で、腸間膜にあった腫瘍は進行することなく、いつの間にか消えていました。本当にたまたまだったのかもしれませんし、油断はできませんが、結果的に私は今こうして生きています。

【家族】

岸田 最初にがんだと分かったとき、ご家族にはどう話されましたか。

天野 初発のときは母と同居していたので、まず母に伝えなければと思いました。ただ、どう伝えればいいのか分からず、2週間ほど悩んでから話しました。母は、少なくとも外見上は取り乱すことなく、気丈に振る舞ってくれました。でも後になって、入院中の帰り際に「若いのに、がんになる体に産んでしまってごめんなさい」と言われたことがあって、それは本当にしんどかったですね。

当時は独身だったので、その点ではある意味、身軽だった部分もありました。再発時の治療の意思決定も、最終的には自分が引き受ければいいという覚悟で決めることができた。家族や配偶者、子どもがいたら、あそこまで割り切って決断できなかったかもしれません。

岸田 こうしてほしかったな、ということはありますか。

天野 家族や友人が心配してくれるのは本当にありがたい。でも治療中は正直、こちらに余裕がなくて、気を遣うことができないときもある。だから、あまりに気を遣われると、逆にこちらが気を遣ってしまう。できれば、普通に接してもらえるのが一番ありがたかったですね。

岸田 逆にうれしかったことはありますか。

天野 闘病は基本的に孤独でした。20代でがんになると、同じ病室はほとんどが高齢の方です。励ましの言葉はいただくけれど、自分のリアルな感情を共有できる相手はなかなかいなかった。そんな中で、家族にだけはつらい気持ちを正直に言えたこと。それは大きな支えでした。

【恋愛・結婚】

岸田 最初にがんだと分かったとき、ご家族にはどう話されましたか。

天野 初発のときは母と同居していたので、まず母に伝えなければと思いました。ただ、どう伝えればいいのか分からず、2週間ほど悩んでから話しました。母は、少なくとも外見上は取り乱すことなく、気丈に振る舞ってくれました。でも後になって、入院中の帰り際に「若いのに、がんになる体に産んでしまってごめんなさい」と言われたことがあって、それは本当にしんどかったですね。

当時は独身だったので、その点ではある意味、身軽だった部分もありました。再発時の治療の意思決定も、最終的には自分が引き受ければいいという覚悟で決めることができた。家族や配偶者、子どもがいたら、あそこまで割り切って決断できなかったかもしれません。

岸田 こうしてほしかったな、ということはありますか。

天野 家族や友人が心配してくれるのは本当にありがたい。でも治療中は正直、こちらに余裕がなくて、気を遣うことができないときもある。だから、あまりに気を遣われると、逆にこちらが気を遣ってしまう。できれば、普通に接してもらえるのが一番ありがたかったですね。

岸田 逆にうれしかったことはありますか。

天野 闘病は基本的に孤独でした。20代でがんになると、同じ病室はほとんどが高齢の方です。励ましの言葉はいただくけれど、自分のリアルな感情を共有できる相手はなかなかいなかった。そんな中で、家族にだけはつらい気持ちを正直に言えたこと。それは大きな支えでした。

天野 彼女も自家末梢血幹細胞移植を受けたリンパ腫の患者でした。同じ治療を経験していたので、彼女自身から反対されることはありませんでした。ただ、両家の親族にはきちんと説明し、納得してもらう必要がありました。そこは正直、大変でした。それでも一つひとつ話し合い、最終的には理解していただけるよう努めました。

【妊孕性】

岸田 大量化学療法も受けられていますし、妊孕性についてはどうでしたか。

天野 自家移植で大量の抗がん剤を受けたとき、主治医から「この先はずっと不妊になる可能性が高い」と言われて、すごくショックを受けました。初回治療のときには精子保存の提案はありました。ただ一方で「この程度の抗がん剤では必ずしも不妊になるわけではない」とも言われて、結局保存はしませんでした。

当時は、自家移植を受けてまで生き延びても、その先に何があるんだろうとさえ思っていました。主治医に「すごく悩んでいる」と伝えたら、「天野さん、生きていないと」と言われた。その通りなんですけど、そのときは「迷う余地なんてないでしょう」というニュアンスにも感じて、理屈では分かっても気持ちが追いつかない部分がありました。

やっぱり初回治療のときに精子保存しておけばよかったかな、という思いは今もあります。ただ、子どもを持つべきかどうかという議論のふたを開けると、後悔やつらさが押し寄せてくる気がして、このテーマに関しては自分の中で少しふたをしている感覚もあります。

時間がなかったという事情もありましたが、今同じ状況にいる人がいるなら、妊孕性についてはきちんと説明されるべきだし、選択する機会は必ず保障されるべきだと思っています。

【仕事】

岸田 大量化学療法も受けられていますし、妊孕性についてはどうでしたか。

天野 自家移植で大量の抗がん剤を受けたとき、主治医から「この先はずっと不妊になる可能性が高い」と言われて、すごくショックを受けました。初回治療のときには精子保存の提案はありました。ただ一方で「この程度の抗がん剤では必ずしも不妊になるわけではない」とも言われて、結局保存はしませんでした。

当時は、自家移植を受けてまで生き延びても、その先に何があるんだろうとさえ思っていました。主治医に「すごく悩んでいる」と伝えたら、「天野さん、生きていないと」と言われた。その通りなんですけど、そのときは「迷う余地なんてないでしょう」というニュアンスにも感じて、理屈では分かっても気持ちが追いつかない部分がありました。

やっぱり初回治療のときに精子保存しておけばよかったかな、という思いは今もあります。ただ、子どもを持つべきかどうかという議論のふたを開けると、後悔やつらさが押し寄せてくる気がして、このテーマに関しては自分の中で少しふたをしている感覚もあります。

時間がなかったという事情もありましたが、今同じ状況にいる人がいるなら、妊孕性についてはきちんと説明されるべきだし、選択する機会は必ず保障されるべきだと思っています。

【お金・保険】

岸田 趣向が変わりますが、当時は保険に入っていましたか。

天野 たまたま共済に入っていて、1日あたり4000円くらいの入院給付金が出ました。それで多少は救われましたが、それでもやはり経済的にはしんどかったです。当時は今のような限度額適用認定証の仕組みがなく、多い月は一時払いで数十万円、保険適用前では100万円近くかかる月もありました。それでも払わなければならず、親族から借りたこともあります。保険に入っていなかったら、かなり厳しかったと思います。

今は外来治療が中心になってきているので、入院保険だけではカバーしきれない場合もあります。昨年入院した際も、医療費自体はある程度保険で賄われましたが、差額ベッド代の負担が大きかった。改めて、医療や国民皆保険制度に命を支えられていると感じました。

岸田 限度額適用認定証ができたのも、患者団体の働きかけが大きいですよね。

天野 がんだけでなく、難病の患者団体も含めて、外来治療で高額な薬を使う時代になり、一時払いの負担が大きすぎるという声が積み重なって制度が整いました。多くの患者の声が結実した仕組みだと思います。

【辛かったこと】

岸田 つらかったことを教えてください。

天野 最初の治療が効かなくて、本当に嫌になって病院を脱走したことあるんです。

【医療従事者への感謝&要望】

岸田 医療従事者への感謝や要望をお願いします。まずは要望から。

天野 大学病院では主治医が変わることが多いんです。再発したとき、頭では「自分でできることは全部やった」「これしか道はなかった」と分かっていました。でも心は折れそうになっていました。そのときの主治医が、「私たち医療者は、患者さんがどんな状態になっても、できることはあると信じて治療しています。一緒に頑張りましょう」と言ってくれたんです。

治療が完璧なことなんてありません。どんなに最善を尽くしても、思い通りにならないことはある。だからこそ、自分が納得できたか、医療者に守られていると感じられたか、周囲との関係がどうだったかが大きいと思います。

その主治医に「私はあなたのそばにいます」と言われたことは、当時ほとんど治療選択肢がなかった私にとって、本当に救いでした。医学的に正しいことを伝えるだけでなく、その先で患者をどう支えるのか。そういう言葉を自然にかけられる医療者がもっと増えてほしい。それが私の要望です。

【キャンサーギフト】

岸田 キャンサーギフト。がんになって得たもの、得たこと、唯一挙げるとしたら何でしょうか。

天野 がんになっても悪いことばかりではありません。がんにならなければ経験しなかったことが確かにあります。普通に生きていれば、自分が出会う人や価値観はある程度限られてくる。でも、がんという共通点を通して、社会背景も立場も経験もまったく違う人たちに出会いました。患者会で出会った仲間たちもそうです。

僕は、がんになって出会った人たちに支えられてきました。だから、人との出会いこそが、僕にとってのキャンサーギフトだと思っています。

【夢】

岸田 キャンサーギフト。がんになって得たもの、得たこと、唯一挙げるとしたら何でしょうか。

天野 がんになっても悪いことばかりではありません。がんにならなければ経験しなかったことが確かにあります。普通に生きていれば、自分が出会う人や価値観はある程度限られてくる。でも、がんという共通点を通して、社会背景も立場も経験もまったく違う人たちに出会いました。患者会で出会った仲間たちもそうです。

僕は、がんになって出会った人たちに支えられてきました。だから、人との出会いこそが、僕にとってのキャンサーギフトだと思っています。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 今、闘病中の方へのメッセージをお願いします。

天野 「NOW or NEVER」ですね。今しかない、という感覚です。がんになる前は、人生がずっと続く前提で生きていました。でも、がんになると、人生は有限なんだと嫌でも実感します。だからこそ、「いつか」ではなく「今」。今できることを、今やる。今感じていることを、大切にする。その積み重ねが生きるということなんだと思います。

天野 今しかできないことって、本当にたくさんあるんです。でも、がんになると生存率とか、数年後生きているのかとか、どうしても先のことを考えて不安になる。僕も経過観察中は再発の不安が強くて、今でもゼロではありません。

でもある日ふと思ったんです。確かに再発するかもしれないし、もっと悪いことが起きるかもしれない。でも、今この瞬間はとりあえず元気でいる。今、自分はここにいる。それなら、この瞬間を大切にしようと。

がんに体だけでなく心まで支配されるのはあほらしい。だったら、今しかできないことをやろう。そう思えた瞬間がありました。僕自身、「今この瞬間を大切に生きる」と気持ちを切り替えられたからこそ、この言葉を書きました。

岸田 今を大切に生きるというのは、本当に病気に関係なく大事なことですね。きょうはどうもありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
*がん経験談動画、及び音声データなどの無断転用、無断使用、商用利用をお断りしております。研究やその他でご利用になりたい場合は、お問い合わせまでご連絡をお願い致します。

関連するみんなの経験談