小学生のときに闘病生活を経験した坪内さん。普通になりたくて、がんの経験をカミングアウトできなかった彼が、今、思うこととは?

【略称】インタビュアー:岸田 / ゲスト:坪内

更新日:2018.08.24

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岸田 今日のゲストを紹介します。坪内雄佑くんです。

坪内 よろしくお願いします。

岸田 坪内くんは、前回のゲスト、胃がん経験者の高橋和奈さんと一緒に、「カラーボール」というユニットを組んで音楽活動をしています。そのお話はまたのちほどお聞きします。では自己紹介から。

坪内 坪内雄佑です。現在23歳でして、小学5年生のときにユーイング肉腫という小児がんにかかりました。8か月ほどの入院生活を経て、そこからは再発なくきています。

岸田 今は何をしてるんですか?

坪内 今は大学を卒業して、自分の音楽レーベルをやっています。

岸田 起業家さんです。さっそく過去のことから振り返っていきたいんですけども。ふだん「つぼ」って呼んでいるんで、つぼって呼ばせてもらいます。つぼは当時なんでがんだとわかったんですか?

坪内 小学4年生が終わった春休み、地元の野球チームに入ったんです。練習試合で、センターにバーンって打ったんですよ。センターに打つのってヒットの当たりじゃないですか。でもセンターゴロになって、アウトになっちゃったんですよ。それを見ていたチームのお母さんが、「なんかつぼちゃん走り方が変じゃない?」って。全然自覚がなかったんですけど、そこから自分でも違和感があることに気づきはじめて。でもしばらくほっといたんです。ちょっとしてから痛みが腰の部分に出はじめ、徐々に本当に歩くのもかばうようになってきて、病院に行った感じです。

岸田 じゃあ、つぼの場合、ユーイング肉腫は腰ですか?

坪内 腰です。仙せん骨こつのあたりですけど、腰のちょっと左の。

岸田 仙骨ってどのへん?

坪内 お尻のちょっと上ぐらいですね。

岸田 お尻のちょっと上の骨の部分?

坪内 肉腫になったのは骨の部分ですね。

岸田 病院にはお母さんと?

坪内 お母さんと一緒に、最初は地元の小児科とかを転々としたんですよ。「わからない」とか、「神経痛」って言われて、ユーイング肉腫にたどりつくまでに、5軒くらい病院をまわりました。なんか鍼治療とかをすめられたりして、やっていたんですけど全然治んなくて。ちょっと大きめの病院で精密検査を受けることになって、そこでがんの診断を受けて、ずっと抗がん剤治療でしたね。

岸田 病院に行って精密検査を受けて、小学生ながらに告知をされたんですか?

坪内 そうですね。お医者さんによって、子どもの年を考えて、告知する人、しない人っているじゃないですか。でも、僕の先生は、直接ズバッと言う人だったんです。僕とお父さんと主治医と看護師さんがいる部屋に、すごい重苦しい空気が……。そこで、「がんです」って言われて。でも、ショックとかって正直僕はなかったんですよ。がんって言われてもわかんないんですよね。小学生の自分にとってはどういうものなのかも。

岸田 がんって用語は知っていました?

坪内 用語は、その3か月くらい前にテレビ番組でボクサーの誰かが、がんになって抗がん剤で髪が抜けるっていうのが放送されていたんです。それでだいたい知っていて、がんっていうことに対してそんなにショックはなかったんですけど、「髪が抜けるんですか?」って、小学生ながらに聞いて、「抜けます」って言われて、そこで大号泣です。

岸田 おー。

坪内 プラス、「長期入院になるんですか?」って聞いて、「半年から8か月くらいになります」って言われて、そこでまた大号泣です。死ぬとか、そういうことへの恐怖って、そこまではなかったんですよ。それよりも友達と会えないとか、親と離ればなれになるとか、髪が抜けちゃうとかっていうことに対しての恐怖がすごい大きくて。

岸田 うんうん。

坪内 当時、5年生で親元から離れたことすらなかったんで、入院って言葉が怖かったですね。

岸田 ご両親はどんな感じで接してくれてたんですか?

坪内 病院を転々としているときからそうだったんですけど、すごい不安そうにしているんです。それを見て怖くなるんです。どういうことになっているか、どれだけやばい状況かっていうのが正直わかんないんですよ。当時は親の不安そうな顔を見て、自分も不安になっていましたね。両親が主治医のことを信頼していたんで、入院していた病院に行ってからは親もわりと安心しているように見えたんで、そういうことでの不安はなかったです。

治療

岸田 治療としては、何を?

坪内 治療は抗がん剤治療と、放射線治療と、大量化学療法っていうすごい強い抗がん剤をいっぱいやるやつです。白血球がゼロになるような治療なんで、自分の血液の元となるもの(造血幹細胞)を取っておいて、白血球がゼロになったあとに再移植するんです。それで、白血球とかを取り戻していくんです。その治療を最後にやって、それが効いて完治しました。

岸田 ユーイング肉腫ってどんながんなんですか?

坪内 雑に言います(笑)。病気系のことに関してほんとに無知なんですよ。小学校のときになったので、骨のちょっと上の肉にできるような肉腫。それが神経とかになって……。ああ、もう限界です。もう、これ以上しゃべれない(笑)。

岸田 (笑)。じゃあ、取りきってから手術?

坪内 手術はなかったですね。

岸田 放射線とか化学療法とかで、小さくして叩いたって感じだね。もう再発もなく?

坪内 ないですね。もう12年です。

家族・友人

岸田 家族からのサポートは、どんな感じでしたか?

坪内 共働きだったんで、かわりばんこに仕事が終わったら来てくれる感じでした。「病院食が飽きた」って言ったら、いろんなものを持ってきてくれて、それを食べていました。

岸田 ご両親へ、もっとこうしてほしかったとかっていうのはある?

坪内 正直まったくないですね。親のサポートがそこまでいらなかったって言ったら変ですけど、重要視してなかったんです。もともと、小学校から離れて、病院というまったく違うコミュニティに入れられるわけじゃないですか。最初はすごいもちろん嫌なんです。異世界みたいな感じで、「友達なんか作らない」と、言っていたんです。ひとりの子がきっかけでなじんでいって、それからみんなと仲良くなって。高校生とか大学生のお兄ちゃんとからむ機会もありました。ある種、学校よりも強い絆を持った友達がいっぱいいるコミュニティだったんで、友達と一緒にいる時間がすごいうれしく、本当に救われていました。

岸田 病院で友達を作る秘訣とかあったんですか?

坪内 最初、ほんとに拒絶してたんです。髪が抜けるってことも嫌でしたし、両隣の友達は、抗がん剤で抜けているわけじゃないですか。現実すら直視できないし、怖かったんです。心を開くことができたのは、当時、「ポケモン」のゲームボーイアドバンス版が大流行していて、「交換しようぜ!」と、同じ病棟の子が言ってくれたんです。友達は作りたくないけどポケモン欲しいと思って、しゃべりはじめたのがきっかけです。そこからもうほんとに時間が経たないうちにみんなと仲良くなった感じでした。

岸田 ポケモンが繫いでくれた。ちょうど今だと「妖怪ウォッチ」が繫いでいるかもしれないですね(笑)。

坪内 そのとおりですね(笑)。間違いないです。ほんと重要ですよね。子どもにとってのコミュニティを広げる、コミュニケーションツールのいちばん重要な部分だと思っています。

岸田 院内学級はあったんですか?

坪内 院内学級ありました。いい先生たちで、環境もすごいよくて。すぐに抗がん剤治療が始まったんで、最初は勉強できる状況じゃなかったんです。初めてやる抗がん剤は、つらいし、だるいしみたいな感じで。その状況の中で、いきなり自分の寝ているベッドに、知らない人が来て「先生です。勉強始めます」みたいな。僕のときは、その先生がマンツーマンで5年生の勉強を全部教えてくれて。病棟内に院内学級があるんですけど、元気なときは歩いて通う感じで、抗がん剤治療でつらいときは、ベッドの隣まで来てずっと教えてくれて、投薬中も教えてくれるっていう、ほんとにすごい状況でしたよね。

岸田 じゃあ算数しながら点滴を打って、みたいな?

坪内 国語しながら吐いてました(笑)。

岸田 (笑)。

坪内 だからもうすごいむゃくちゃでしたよね。でも、ほんとにそれがあったから、学校に戻ったときについていけたんだと思います。入院中って、子どもだとあまえがきく状況じゃないですか。親はあまやかしてくれるし、普通の学校にいたときより親も叱りづらいし、で、あまえるんですよ。そういう状況で、ルールがちゃんとある学校の存在って重要だなと。もし、ルールとか規則がないような場所に、8か月入院してたら、戻ったあとに学校生活に対応ができないんじゃないかなと思います。院内学級の学校の規則とか、学校の仲間っていうのがすごい重要だったんじゃないかなって思いますね。

岸田 つぼのときって小5はひとりだけ?

坪内 時期ははずれてるんですけど、3人いましたね。

岸田 院内学級って1つの部屋に何個か机があって、グループでやっているって聞いたんですけど。

坪内 そういう感じでした。小学校の先生も4人いて、それぞれに対応するような感じでした。時期がちょっと違うんですけど、児童も4人いたので、マンツーマンで付かれるような状況でした。

岸田 すごいね、マンツーマンの家庭教師。そういう助かったこともあるけど、ここはこうしてほしかったみたいなことってあります?

坪内 聞いた話なんですけど、僕の入院していた時期のあとに、ちょうど先生が入れ替わって、一気に音楽好きの先生たちに一新したんです。院内学級に入ったら、楽器ができるようになる、みたいな。ロックンロールな感じの学級だったんです。すごいうらやましかったです。自分は、別のきっかけでギターを始めたんですけど、院内学級で教えてくれたら、すごい楽しいですよね。入ってギターが弾けるようになる学校なんてないじゃないですか。ベースとかドラムもいるんですよ。

岸田 マジで!?

坪内 クリスマスの時期に、入院している子どもたちとか、お母さんが参加できるような、そういう場所で、いろんな出し物が行われて。院内学級で練習した入院している子どもたちのバンドも、ボーカルとかギターあったりとか、かっこいいし。そういうのは、ほんとにいいなあーって思いました。あったらいいよな、最強だよなって思いますね。

岸田 いいねー、最強だよね。退院したらベースができて、ドラムもできて。

坪内 そうなんですよ、めっちゃいいじゃないですか。

岸田 それでつぼは8か月闘病して、今までいた小学校に戻ったの? すぐ戻れました?

坪内 12月に退院して、3学期から学校には戻っていたんです。髪がまだ生えてなかったんでニット帽をかぶって、体育は休むみたいな感じで参加していたんですけど、なじめないんです。

岸田 なじめない……。

坪内 入院中にからんでた高校生のお兄ちゃんたちが、すごい面白い人の集まりだったんです。普通に大喜利とかを、同じレベルでやらされて、スベったら「それ違う。面白くない」って、高校生のお兄ちゃんからダメ出しされるんです。そういう状況にいたから、小学校に戻ると、「なんでこんな……」みたいな感覚になっていました。もう全然なじめないし。退院した直後は病院に戻りたかったですね。ほんと退院するのが嫌だ、みたいな感じで、それくらい病院が楽しかったんです。

 

 

 

つらかったこと・克服

岸田 闘病を通じて、身体的につらかったことは何ですか?

坪内 痛すぎて歩けなくなって、ベッドから起き上がれない時期が1か月くらい続いたんです。そのあとしばらくの間は、歩こうとしてもうまく歩けなかったんです。ほんとに力が入らないっていうか、歩き方がわからなくなって。身体的に苦労したのはそのときぐらいですね。あとは、単純に退院したときに体力のレベルが低下して、体育とかも参加できるようになるまでは本当に苦労したし、中学校に入ってからも、持久走とか強制的に走らされるじゃないですか。体力を戻すのにすごく苦労しました。

岸田 それはもう時間に任せるしかないって感じ?

坪内 そうですね。入院中は病棟内をグルグルして、歩く訓練をするとかですね。

岸田 どのくらいで戻りました?

坪内 歩けるようになったのは、2か月くらいでしたので、けっこう早かったですかね。ただ、体力が戻ったのはずっとあとですね。退院してからは、しばらく体育を休んで、6年生で少年野球チームに復帰して、みんなが練習しているなか、歩くリハビリをやったりとかして参加しました。

岸田 精神的なところで、高校生のお兄ちゃんがいなくなったのがショックとかありました?

坪内 ですね。いやもうそれぐらいかなあ。退院後はけっこうありました。退院してから8年間くらい、がんって人に言えなかったです。11歳から8年過ぎた高校3年生まで、言おうとしなかったです。退院した直後に小学校に戻ると、すごい周りが気を遣おうとするんです。いけないものを触れるような感じで、「がんだったのに大丈夫?」みたいな感じで、過剰なほど気を遣われるんで。もちろん体力とかは戻ってはいないんですけど、完治しているから大丈夫じゃないですか。気を遣われるのがすごい嫌で、「普通になりたい!」って、ずっと思ってたんです。髪も抜けてからまだ生えてなかったし、そういうのもあって、通常の世界とは全然異なるわけじゃないですか。なんか異物的な扱い方をされるんですごい最初嫌で、「普通だから!」って心から叫んでいました。自分の中でほんとに8年間、高校3年生まで、がんっていう事実をなかったことにしていました。

岸田 カミングアウトを大学くらいに?

坪内 そうなんですよ。大学1年生のときにしたんです。その当時、フジテレビでレモネードスタンドっていうイベントをお台場合衆国でやってて。そのイベントをやるぞってなって、それきっかけで他のテレビ番組でがんの特集が組まれて出ることになったんです。そのちょっと前に「STAND UP!!」を松井くんが始めていて、そこに早くから自分も参加していたので、がんがきっかけで社会とかと関わるようになりました。高校3年生なんか社会とかってなんにも知らないわけじゃないですか。当時「STAND UP!!」と関わるようになって、メンバーが少なかったんで動くことが多くて、いろんな人と繫がったり、いろんな活動と関わるようになりました。それまでずっと重いものがのしかかっていた状況だったんですけど、がんによって得ることがたくさんあるなあとか、なんかプラスに変えればすごいことになっちゃうなあと思って、がんだったって言うようになったんです。がんって公表することによって、今まで引きずっていた悩みが解放できたし、それきっかけで繫がる人もすごい多くなったし、そういう意味で自分としてはすごいうれしかったですね。

反省

岸田 当時の反省はありますか? こうしときゃよかったなーみたいな。

坪内 んー、なんか早くカミングアウトしとけばよかったなっていうのはありますね。

岸田 ほうほう。

坪内 それは自分が安定してきて言えるんですけど、わりと「STAND UP!!」でいろんな人とからむようになって、やっぱりカミングアウトが早ければ早いほどみんな楽しそうにやっているな、っていうのが正直あるんですよ。岸田さんも超早いじゃないですか?

岸田 そうですね。僕はカミングアウトが早いほうでした。

坪内 ですよね。がんの経験自体がすごいマイノリティなわけで、そういうのを共有できる仲間っていうのがなかなかいないじゃないですか。「STAND UP!!」ぐらいの、自分がマイノリティの部分を共有できるたくさんの仲間やグループがいると、プラスに考えることができるような仕組みになっているんじゃないかって思うんです。入院していたときにも友達がたくさんいたので、そのぶん救われていたんですけど、ここまですごい多くなると、すごいプラスなんじゃないかなって。たとえば地方のどこかにひとりで入院して、悩みを共有できる仲間がいないっていう状況よりも、退院した直後に「STAND UP!!」に入って、悩みを共有できる仲間がいたりすれば、他の部分ですごい人生豊かになるんじゃないかなって思います。

岸田 そうだと思います。

坪内 そうですね。いいなと思いますよ。「STAND UP!!」

岸田 それきっかけで、前回「がんノート」に出てもらった高橋さんと、「カラーボール」っていうユニットもできたんだろうね。

坪内 そうですね。

岸田 そのきっかけっていうのをちょっと。まず「カラーボール」っていうのは?

坪内 僕と前回出ていた高橋和奈さんと一緒にやってるユニットなんです。自分がギターで、高橋さんはボーカルって感じで。自分たちは、自分たちが入院してたときに見たかった、がんで治ってがんばってる人たちなんですよ。がんでもがんばってる人たちなんですよ。がんってわりと悪いイメージっていうか、お涙ちょうだいものとして扱われて、マイナスなイメージしかないじゃないですか。そういう意味で、自分たちが見たかったのはがんになっても希望があるっていうものだった。自分たちは音楽活動っていうのを通じて「自分たちはがんでした」って言うことで、救われる人はいるんじゃないかっていうのを思って始めた活動です。

岸田 そういう音楽ユニットなんですね。きっかけは?

坪内 きっかけは、自分が大学1年生のときに、「STAND UP!!」の活動で新メンバーの人たち全員に会って、何人かとカラオケに行って、高橋さんが歌ってるのを見て「これはすごい!」って、ほんと感動したんですよ。「これはかっこいい!」って思って、とりあえず何か一緒に活動しないかと誘って、いろいろ話してたら、今言ったコンセプトとかも合っていたんですよ。がんになっても自分たちが見たかったのは希望だと。なので、「やらなきゃ!」みたいな感じで、2週間後くらいにライブしましたね。

岸田 ユニット結成時、メディアにもすごい取り上げられてたもんね。今後カラーボールとしてのビジョンってあるんですか?

坪内 そうですねー、やろうとしてることはずっと変わってなくて、がんの人たちの前、たとえば闘病中で苦しんでる人たちの前でやりたいなっていうのがある感じですね。

岸田 自分たちの友達ですよね。

坪内 そうですそうです。ほんとこれだけは楽しく、ある意味ゆるくやろうかなって思います。

今、闘病中のあなたへ

岸田 今、闘病中の方へメッセージをお願いします。

坪内 「あきらめきれぬ夢があるなら、あきらめきれぬと、あきらめろ」。入院中、ブルーハーツが大好きだったんです。「泣かないで恋人よ」って歌の中にある一節なんです。なんかすごい好きで。当時そこまでブルーハーツは聴いてなかったんですけど、高校生の兄ちゃんとかの影響で、入院してからにわりと聴くようになったです。それが今、自分が音楽をやることに繫がったんですけど、がんを経験してたまたま治っている自分の状況があって、たとえば自分が起業する前とか、ほんとにいろいろ言われたんです。「いつまでも子どもみたいなこと言ってんな!」みたいな。親とか、今でも反対するんですけど、大学をやめて起業しようとしたりとかしたときも、反対される中で僕は、この言葉はがんになって生き残った人生だし、やっぱりあきらめきれない夢があるなら、あきらめきれないとあきらめよう、って。すごい好きな言葉です。

岸田 すごいです。あきらめきれないとあきらめる。だから、今のつぼがあるって感じですよね。

坪内そうですね。結局あきらめきれなかったわけですね。

岸田 小児がんを経験したつぼがこれから活躍していって、小児がん、ユーイング肉腫の人たちの希望になっていければいいと思います。

坪内 ありがとうございます。がんばります。

 

※本ページは、あくまで経験者の情報を扱っております。そのため、あくまでその方のケースはそうだったということを念頭においてください。そのため、医療情報に関しては主治医や、行きつけの病院、またはしっかり科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。

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