インタビュアー:岸田 / ゲスト:若井

【発覚・告知】

岸田 今日のゲストは、若井亮治君です。

若井 若井亮治です。がん腫は、ユーイング肉腫です。2009年の9月中学校3年生のときに、右腕に悪性の腫瘍ができて、約1年間抗がん剤治療を受けました。間に手術もしました。今は、経過観察中で、今年の4月に就職をしました。

岸田 診断の経緯を教えてください。

若井 中学校3年生の6月に修学旅行へ行った後頃から、体育の授業とか、スポーツやってても、なんかおかしいなっていう感覚がありました。でも、左利きだったんで、あまり右腕は意識していなかったんです。卓球部で大会に向けて練習をしていたので、「追い込みがハードだったんだろうな」、と思い放置してたんですよ。その後、部活は7月に引退し、高校受験に向けて勉強をしていたんですけど、1カ月たっても治ることはなく、しこりみたいなのもあって整骨院に行ったんです。整骨院では、腕を触っただけで「筋肉の腱が切れてますね。それで炎症起こしてるんです」って言われて、湿布で2週間くらい様子をみていました。けれど自分の中でも、明らかにこれは湿布で良くなるようなものではないなっていう嫌な予感がして、別の整骨院に行くと「手術する必要があります」と。それで「MRIを一回撮ったほうがいいですよ」って言われたので、整形外科を受診したら「これは腱が切れてるんじゃなくて、腫瘍ができてますね」と言われました。

岸田 その時はまだがんとは分からなかったんですね。

若井 良性か悪性かはMRIだけだと分からないので、「がん専門病院を紹介します」って言われました。病院に“がん”っていう二文字の言葉があって、しこりもあったので悪いイメージはあって。テレビとかでもよく見てたので、もしかして肉腫なのかなあっていう感じはありました。もう本当、生きた心地がしないというか・・・。

岸田 そうですよね。中学3年生ぐらいなら、がんがどんなものかっていうのは分かりますもんね。がん専門病院に行ってからはどうでしたか?

若井 針生検っていって、腫瘍の部分に針を刺して組織を取りました。3日間の検査入院の間に、良性か悪性か分かりました。そのときは「病名の候補が三つあります」って言われて。一つ目が「ユーイング肉腫」で、二つ目が「横紋筋肉腫」。これらの名前は初めて聞いたので、悪性か良性かそのとき僕には分からない。でも三つ目で「悪性リンパ腫」って言われて、「悪性だったんだ」っていうのが分かりました。先生も「病名は分からないけれども、悪性であることには間違いない」と。

岸田 そのときは、1人で告知を受けたんですか?

若井 両親と一緒に聞きました。検査入院のときに、悪性である確率は、何十万人に1人だっていうのを言われていたので、家族も「良性でしょう」っていう感じだったんです。自分も良性だって信じて、もうその気になってたんですけれども、まさかの悪性で…。

岸田 悪性って分かったときはどうでしたか?

若井 手足も痺れちゃって、すごいパニックになりました。でも、その先生は「病名が2週間後に分かるんですけど、もし入院したら、抗がん剤治療をします」とか「副作用でこういうのが出ます」とかずっと最悪の事を言い続けて…。良く言えば、全部話してくれたんですけど…。まず、がんという告知を受けた時点で、もう受け入れの許容範囲を超えている中で、どんどん話を続けてきたので、もうその場で泣き出しちゃって。そこで、「もう、聞くの嫌だ」って言って、飛び出しちゃったんですよ。

岸田 マジで?

若井 その部屋からは逃げて病室に戻って…。看護師さんが付いてきたんです。ちょっと話していたら両親が戻ってきて「一回帰るよ」って。当時の記憶は曖昧なんですけれども。

岸田 治療までどれぐらい空いたんですか?

若井 まず病名が分かるまで約2週間かかりました。その2週間は、学校へ行くっていう選択肢もあったと思うんですけれども、行く気にもならなくて。外に出るのも嫌だったので、引きこもりみたいな感じになりました。2週間後に病院行って、病名が分かって「これから1年間入院します」っていうような感じで言われました。

【治療】

岸田 治療は何をしたんですか?

若井 抗がん剤治療をしました。右腕の腫瘍が5センチと結構大きくなっていて、神経とかにも絡まっていたので、そのまま手術はできないと。抗がん剤で小さくしてから手術をするという方針でした。

岸田 他の部位は大丈夫だったんですか?

若井 悪性の場合、肺に転移してる可能性があるということで、検査入院のときに肺のCTも撮ってもらったんですけれども、転移はありませんでした。

岸田 抗がん剤治療はどうでしたか?

若井 3日間点滴するバージョンと、5日間点滴するバージョンで、それぞれに薬の組み合わせがあって、それを交互に6回ずつ、合計12回やりました。

岸田 うまく進みました?

若井 2回抗がん剤治療をしただけで腫瘍が1センチ、2センチと小さくなっていったのですごく順調だったんですけど、やっぱり吐き気とか髪の毛抜けたりっていう副作用がありましたね。

岸田 そうだったんですね。どれぐらいから髪の毛は抜け始めました?

若井 もう1回目を終えてからすぐに、髪の毛がスパスパ抜け始めました。でも、不思議と、2回目、3回目、4回目やったら、あまり抜けませんでした。1回目で、今よりもちょっとフサフサあるぐらいなんですけれども、そこからはあまり変わらない感じでしたね。

岸田 その後、手術する前も不安だったんじゃないですか。

若井 右腕の腫瘍だけを取り除くっていうわけにはいかなくて、筋肉と神経も少し取るから、ちょっと障害が残ってしまうっていうのも言われていて、いろいろ不安でした。

岸田 この頃の思い出とかありますか?

若井 このときは、もう本当、機嫌悪かったと思います。入院したときは4人部屋だったんですけど、手術が終わったときだけ個室部屋で、両親とかがいたんですけど「帰れ!」って感じでした。

岸田 気持ち的にもいっぱいいっぱいですもんね。リハビリとかは大丈夫でした?

若井 リハビリも大部屋に戻ってから、女性の理学療法士さんがリハビリをしてくださいました。それで張り切るわけじゃないですけど、早く動かせるようにしたいなあっていうので頑張ったら、すぐに動かせるようになったんですよ。そしたら「じゃあ、もう、今日でリハビリ終わりですね」って言われちゃったんで、「なんだ、頑張らなきゃ良かった」って(笑)

岸田 早く良くなったほうが確かにいいけれども、気持ち的には複雑ですよね(笑)。どれぐらいで回復したんですか?

若井 1週間くらいでしたね。でも、やっぱり左に比べると10キロくらい落ちました。

岸田 利き手じゃなくて良かった。

若井 不幸中の幸いみたいには思ってますね。

【家族】

岸田 ご両親やお姉さんのサポートはどうでしたか?

若井 母は、ほぼ毎日病院にお見舞いに来てくれて、朝から20時の面会時間ぎりぎりまでずっと付き添ってくれてました。父は仕事をしているので、平日は仕事が早く終わったときに駆け付けてくれて、休日は必ずと言っていいほど来てくれました。姉は自分と7歳離れていて、当時大学4年生でした。その時姉には、結婚を前提に付き合ってる方がいて、大学卒業したらすぐ結婚しようとしているときに自分が病気になったので、母とも色々あったんですが、やっぱり姉の人生なんだから、自分のせいでそういうのはならないでほしいと思い、仲裁して、結局姉は大学を卒業してから籍を入れることになりました。今の旦那さんも、お見舞いとか来てくれました。

岸田 ご家族に対して、こうしてほしかったなということはありますか?

若井 当時は家族に放送禁止用語をいっぱい言っちゃったと思いますし、ひどいことをしたと思うので、本当に申し訳ないという気持ちしかないですね。

岸田 自分のことでいっぱいいっぱいやからね。ありがとうございます。

 

【恋愛】

岸田 当時、お付き合いしている人はいましたか?

若井 当時も現在に至るまでも、彼女はいないです。でも、今までちゃんと好きだなあっていう人はいて、思いを伝えたこともあるんですよ。

岸田 そのときに、がんについては伝えました?

若井 はい、言いました。

岸田 どのタイミングで伝えましたか?

若井 そもそも好きになった理由が、がんを伝えてからのリアクションで好きになったっていうのもあったんで。

岸田 おー。どんなリアクションだったんですか?

若井 ちょうど1年くらい前の夏頃に一緒に食事に行った人です。就職活動とかも行き詰まっていたっていうときに、話しちゃったんですよ、「昔、実は、こういう病気した」みたいなのをなんの前触れもなく。そしたら、病気を克服して大学復帰して、そういう姿がかっこいいって言ってくれて、すごい自分は安心感を得られたんです。それで、好きだなあって。

岸田 今後はそういう好きな人ができたら、どうしますか?

若井 そこが今も悩んでいます。タイミングに任せるしかないなっていうのもあって。でも、やっぱり付き合う以上は付き合う前にちゃんとそれを言って、受け入れていただいた上で「でも、やっぱり、好きだよ」って言ってくれる人がいればいいなあと思いますね。

【妊孕性】

岸田 妊孕性に関してはどうですか?

若井 抗がん剤の副作用として生殖機能が低下するっていうのを聞いたので、治療をする前に精子保存をしました。

岸田 中学校3年生でその話があったんですね。ご両親は?

若井 未成年なので、両親が承諾のサインしないとできなかったんです。

岸田 今も毎年保存料払っていますか?

若井 20歳になってから、もうそろそろいいかなって思って。

岸田 いらないんじゃないかと?

若井 保存している場所って、不妊治療をするために夫婦で来ている人が多いんです。なので男1人で来るのもなんか嫌だなあって思っていました。あと、お付き合いしてる人もいるわけでもないのに、先の見えない未来のためにっていうのも、なんか嫌だなあって思って。本当に必要になったとき、困ったときにどうするか考えたほうがいいかなあって思って、更新に行かなかったんですよ。

岸田 けど、そういう人、絶対いると思う。で、行かなかったらどうなったの?

若井 行かないと破棄します、というような誓約書だったんで、恐らくもう残ってないと思います。でも親には、自分が20歳になったら精子を残すかどうか自分で決めると言っていたので、ちょうど20歳なって、当時お付き合いしてる人もいなくて、結婚とか、子どもをつくるとか、先の未来が全然見えなかったので、「もういいです」と。

岸田 今、後悔はしてない?

若井 まだ、分からないです。これから、例えば、結婚をして、家庭を築きたいとか、子どもが欲しいとかって、女性から言われたときに本当にできなかったら、絶対後悔するだろうなあっていうのはあるんですけれども。そういったリスクも受け入れてもらえるっていうのが理想かなあ。

 

【学校】

岸田 入院してるときに高校受験をし、高校入ってからも入院していたということで、学校生活はいかがでしたか?

若井 中学校3年生で、受験勉強がちょうど追い込みのときに病気が発覚したので、完全に勉強とかやる気なくしちゃって。「まずは病気を治すのが先だ」って周りからも中学校の先生からも言われていたので、1年後に退院してから高校受験をしようと思ってました。なので入院して最初の1カ月は勉強をしてなかったんですよ。でもさすがに、親からも「ずっと、そんなつもりでいるの?」と言われましたし、同じ入院してる人からも「今、中学校3年生ってことは高校受験だよね、勉強してるの?」みたいなことも言われて。浪人するって思っていたんですけど、戻ってから周りが自分より1個下っていう環境はやっぱり大変なんだろうなって思いました。院内学級もあったので、院内学級に転校することになって、そこで勉強をしました。

岸田 治療をしながら院内学級で勉強したんですね。院内学級はどうでしたか?

若井 院内学級では1対1だったので、自分の体調とかに合わせて授業を進めてくれたりとかして、すごい濃い時間だったなあと思います。何も治療してないときは、週に3日、1日2教科勉強してました。

岸田 高校受験は、どうされたんですか?

若井 腫瘍摘出手術してからも抗がん剤治療があるので、その前に高校受験しちゃわないとって思ったんですけれども、ちょうど2010年の1月って、新型インフルエンザとかが流行していたんです。なので、先生が病院に来てくれるような高校を選びました。

岸田 えっ?入試はどうしたんですか?

若井 校長先生が来ました。さすがにビビりましたね。校長と面接して、筆記試験とかもやりました。

岸田 ほう。病院で受験をして、入学して、また抗がん剤治療が始まったと。勉強はどうでした?

若井 高校に入って、最初にシラバスをもらうんですよ。高校でも院内学級に入って、先生にシラバスを参考に進めてもらっていていました。でも高校では、もっと進んでいたんです。自分も病気して治療して副作用とかもあって、いつも勉強できるわけじゃないのでどんどん置いていかれている感じがして、すごい焦りましたね。

岸田 院内学級にいたんですね。

若井 高校受験する前に院内学級の先生がいくつか選択肢をくれました。治療に専念して翌年に受験する。入院中は院内学級に転校し、高校浪人をする。院内学級で勉強をして現役で高校受験し、高校からも院内学級に転校して勉強してから普通の高校に復帰する。自分は、高校で周りが自分より1個下の環境っていうのは、やっぱり大変だろうなあって思って、現役で受験して、治療中は院内学級で勉強してまた戻りました。

岸田 ありがとうございます。他に印象に残っていることはありますか?

若井 高校に入学したとき、いきなり髪の毛がない状態で行くのもあれだなあと思い帽子をかぶって行きました。すごい周りの反応とかも気になるんですよ。

岸田 だいぶ、目立つと思うけどなー。

若井 でもみんな、入学式は自分のことでいっぱいだろうから大丈夫だろうって思って。次の日に自己紹介をすることがありまして、「実は、僕は、今、病気で入院しているので帽子をかぶっています」と「明日からまた病院に戻って、しばらく皆さんとは会えないんですけれども、またよろしくお願いします」って言いました。

岸田 そうだったんですね。その後、また抗がん剤治療をして、9月に高校へ復学したんですね。

若井 はい。最初は帽子かぶっていたんです。でも帽子をかぶってると、どうしてもまだ治療中の人みたいに見えちゃうので、復学して2日目には帽子取っちゃったんですよ。本当は髪の毛が全部生えてくるまで、隠そうかなって思ったんですけど、いつ生えてくるかも分からないので。それを待つくらいなら、その外見を周りの人に慣れさせたほうが早いなあと思って。

岸田 ほう、攻めるね。

若井 もう2日目から取って、ドキドキしながら学校に行きました。クラスの人はもう理解していたというか、なんの病気かまでは分かってなかったと思うんですけれども、そういう外見のことは特に触れられませんでした。

【就活】

岸田 今年の4月から始めたお仕事について教えてください。

若井 公務員をやってます。

岸田 就活はどのようにしたんですか?

若井 もともと病気したこともあったので、医療系に携わりたいなあと思っていました。大学でもプログラミングについて勉強していたので、ITとかを医療に活用している会社に行きたいなあと思って民間企業を受けたりしていたんですよ。志望理由にも病気のことを書きました。でも自分がした病気って、いろいろある病気の中の“がん”であって…。あくまで、がんの経験をしたっていう視点でしか見れてなかったなっていうのがあって、落ちてしまいました。医療に関係のないIT企業も受けていたんですが、そこへ行ったときは「他の会社に常駐とかした時に何かあったら困るので、念のために聞きたいんですけれども、今まで病気したことありますか」と聞かれ「こういう病気したんですけれども、今は全然問題もないです」って話したんですけど、そこも落ちてしまいました。

岸田 そうだったんですね。民間企業から公務員へと考えが変わったのは?

若井 民間企業を受けに行っても、会社説明会とかに行っても、すごい違和感があったんですよ。病気のことを言うのが苦しくなって…。両親に相談したら、病気のことでふるいに掛けず面接をやってくれるのは、公務員関係だろうっていうので。そのとき、ある自治体で情報職っていうのを募集していて、ちょうど大学でプログラミングの勉強をして資格も持っていたので急遽申し込みました。公務員試験対策は学校や予備校の対策講座に行ったりして、通常1年くらいかけてやるのに、自分は試験受ける1カ月前に申し込んだんです。周りからも「今からでは無理でしょう」みたいなのもあったんですけど、1カ月間寝ずにやれば大丈夫だろうと。

岸田 すごいですね、1カ月間寝ずに。

若井 寝ずにやればできるだろうっていうのもあって、それで睡眠時間とかを削って勉強をしました。あと受けないことには、受かることも絶対ないので、チャレンジとして駄目でもともとで受けて、筆記試験を通りました。

岸田 すごいですね。面接ではがんについて伝えました?

若井 伝えました。でも面接では特に触れられなくて。この申し込みする時点で、志望動機と自己PRを提出するんですよ。志望理由どうしようかなあって思っていたんですけど、どうしても自分の病気をした経験っていうのをきっかけに何かしたいって思ったので、自分が入院していたときのことを思い返してみました。自分が入院してた病院は、公立の病院で、闘病中の受験とかも院内学級でサポートしてくれたので、実は、公務員とか自治体とかって、裏でこういうすごい大事なことをやってるんだなあっていうことに気付いて、そういったことを書いたんですよ。「助けられました」って。さらに、「大学でプログラミングを勉強したので、それを活かしてより良い自治体、より良い環境にしていきたい」、と書いて最終面接のときも話したんです。面接では、病気のことは一切触れられなくて、それよりも、これからどうしていきたいかみたいなことを聞いてくれました。

岸田 それで、今は公務員として働かれていると。体力的には問題ないですか?

若井 はい、今は大丈夫です。

 

【辛いこと・克服】

岸田 どういうことがつらかったです?

若井 やっぱり病気をして、他の人とは違うような世界になっちゃったって感じですかね。中学校3年生から高校1年にかけて、みんなは普通に学校へ行って、友達とわいわい話して、勉強して。自分は入院中に抗がん剤治療とかやっていて、約1年間空いちゃっているので物の考え方とか捉え方とか価値観とかがもうずれてしまったように感じました。

岸田 例えば?

若井 例えば大学入ってから、就職活動のとか、そういう対策みたいなので価値観とかって聞いてくるんですけど、やっぱり病気したから自分は健康が一番大切なんですよ。病気しちゃうと、お金使う時間もないし、好きなこともできないし。だからまず健康がないと何もできないっていうのがあるんですけど、そういう大きい病気したことない人にとって、健康って、ダイエットとか、そういう程度なので…。そういう価値観が、やっぱり違うなあと。

岸田 確かにね。そのつらさはどうしたんですか?

若井 その人はそういう考え方なんだなっていうので、無理に自分の価値観を押し付けるようなことはしないようにしてます。

【キャンサーギフト】

岸田 がんになって良かったこと、良かったものはありますか?

若井 中学校3年生っていうのもあったと思うんですけど、困ってる人がいても、他人ごとな部分があった糞野郎だったんですよ。でも病気して、「もっと気に掛けてほしいなあ」って思ったときに、周りも他人ごとだったりとか、自分自身もそうだったなっていうのに気付かされて。でもそこからは、困ってる人がいれば、「どうしたの?」とか、気に掛けてあげられるようになったかな。

岸田 自分からサポートをしていくようになったと。他人ごとも自分ごとになったんですね、すごいですね。

 

【夢】

岸田 今の夢はいかがですか?

若井 がんを経験して、入院中もそうですけど、退院してからもすごい苦しいって思って。もう本当、そのときのサポートとかじゃないんですけど、そういうのもあったらいいなあと思っていて。多くの人も同じように苦しい思いしているので、それがなくなればっていうのがあります。若年性がん患者団体のスタンドアップの活動を通して、がん患者のコミュニティーを広げていくっていうのもそうなんですけど、ゆくゆくは、がん患者が一般の生活に戻ったときに苦しい思いをしないように、一般人もがん患者に寄り添えるような、そういう社会を患者会の活動とかで力を培って、ノウハウを身に付けて役立てらればいいのかなあと思っています。

岸田 すごい。

若井 力を培っていきたいなと。

岸田 じゃあ、そういったところを一般の人たちに向けてやっていくっていうのが、亮治君の夢?

若井 はい。ただどうしても仕事が本分なので、無理のない範囲でというところですね。

岸田 無理のない範囲でいけたらなと。続けるのが大変ですからね。

【今、闘病中のあなたへ】

若井 『できなくて「あたりまえ」できたら「一人前」』

誰にいつ言われたのかも覚えていないんですけど、この言葉がなんかいいなあって思っていて、それをモチベーションにやっている部分があります。どういう意味かといいますと、もし病気してなかったらできたであろうなっていうことも、病気をしたことでできなくなると思うんですよ。患者会とかでの交流を通しても、がんになる前できていたことが、できなくなってしまったことがショックだっていう人が結構いて。確かに、できないことでいろいろ焦ったり、ショックだったりすることもあるんですけど、がんになったっていう事実は変わらないので、できなくて当たり前だなあって、もう割り切っちゃってしまっていいんじゃないかなあと。でも、「がんだから仕方ない」っていう言い訳をしていいわけでもない。できなくて当たり前なことが、頑張ってやってできるようになれば、それはかっこいいよねっていう。

岸田 かっこいいですねえ、できたら一人前。今、じゃあ亮治君のできなくて当たり前の部分もあるし、できて一人前な部分もある?

若井 はい。よくがんになっても入院前と同じようなことをやりたい、やらないといけないんだっていうふうに追い込んでる人もいると思うんですけれども、できなくてもそれは当たり前だと。

岸田 それぐらいの気持ちで、できたら一人前で、自分を褒めてあげたいなとか周りも褒めてあげてほしいなということを感じました。どうもありがとうございました。

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