目次
- 治療テキスト / 動画
- 副作用テキスト / 動画
- 工夫したことテキスト / 動画
- 大変だったことテキスト / 動画
- 治療費テキスト / 動画
- 仕事との両立テキスト / 動画
- 闘病のまとめテキスト / 動画
- がんから学んだことテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:宗
【治療】
岸田 それでは、がんノートminiをスタートしていきたいと思います。きょうのゲストは、乳がんと子宮頸がんのご経験をお持ちの、宗綾子さんです。本日はよろしくお願いいたします。
まずは、宗綾子さんのご紹介をさせてください。宗綾子さんは、現在会社員としてお勤めで、社長室長を務めていらっしゃいます。非常に素晴らしい肩書をお持ちの方です。

岸田 がんの種類は乳がん、そして子宮頸がんのダブルキャンサーの方で、ステージが1と1A、32歳と35歳のときにがんを経験されています。現在の年齢は48歳でございます。
治療としては、手術・ホルモン療法・放射線療法の3種類を行われています。宗さんがどのように闘病されてきたのか、まずは私のほうから簡単にご紹介させていただきます。
2003年11月、31歳のときに右胸が腫れてきたため病院を受診したところ、右側にしこりが見つかりました。2004年3月、32歳のときに、その良性と思われていた右側のしこりが、3か月後の手術で悪性と診断されます。
その2週間後にはセンチネルリンパ節の生検を行い、転移はありませんでした。7月からは放射線療法が始まり、1日2回の通院をされていました。
その後、ホルモン療法としてゴセレリンとノルバデックスを使用し、経過を見ていきます。
2007年2月、35歳のときに、ホルモン療法の副作用などをきっかけに婦人科を受診し、子宮頸部の組織を採取したところ悪性が判明し、子宮頸がんと診断されました。その2か月後に手術を行い、卵巣と子宮を摘出されています。ただし、卵巣については「取らなくてもよかったかもしれない」というお話も後ほど伺いたいと思います。
その後は、ホルモン療法としてエキセメスタン、アナストロゾール(いずれも一般名)を服用され、副作用により途中で薬の変更もされています。現在は10年以上が経過し、服用は終了されていますが、綾子さん、この理解で問題ないでしょうか。
宗 そうですね。補足すると、乳がんには「寛解」という言葉はあまり使われないので、現在も経過観察という位置づけになります。私のタイプのようにホルモン受容体を持つ乳がんの場合、10年、20年、30年と再発の可能性があるため、長期にわたって経過観察が続いていくことになります。
岸田 ありがとうございます。では、闘病当時のことについて、いくつか質問させてください。最初に病院を受診されたきっかけですが、左胸が腫れたことで受診したところ、右側にしこりが見つかったとのことでした。最初のしこりは、どれくらいの大きさだったのでしょうか。
宗 左胸が腫れたというより、胸全体がパンパンに腫れたという感覚でした。最終的には乳腺炎のような状態になり、原因が分からないという診断でした。
その際、左胸だけでなく右胸も含めてマンモグラフィーと超音波検査を行いました。左側は問題ないと言われたのですが、右側に少し気になる部分があると言われ、そこで初めてしこりが見つかりました。
岸田 良性と思われていたしこりが、手術から3か月後に悪性と診断されたわけですが、そのときはやはり驚かれましたか。
宗 かなり驚きました。もともと病気に対してネガティブな意識が強いタイプなので、なおさらでした。一度、良性だと思って手術で取っていたので、「これで終わった」と思い、病理結果を聞きに行っただけだったんです。ところがその場で「実は悪性でした」と言われました。手術前には先生から「97点何パーセント良性です」と言われていたので、取れば終わりだと完全に思い込んでいました。そのため、悪性と告げられたときは、私の中ではかなり大きなショックでした。
岸田 その後、2週間後にセンチネルリンパ節生検を行い、転移はなかったとのことですが、少しは安心できましたか。
宗 少しはほっとしましたが、当時は自分の中にほとんど情報がなかったので、「安心した」という感覚はあまりなかったですね。転移がなかったこと自体は良かったのですが、怖さが完全に消えたわけではなかったと思います。
岸田 その怖さを抱えたまま、次の治療として放射線療法が始まります。5週間にわたり、1日2回、9時と13時に通院されていたとのことですが、これはどういう治療だったのでしょうか。
宗 少し驚かれるかもしれませんが、私が治療を受けたのは16年前で、その当時は毎日1日2回、放射線を当てる治療法が一般的でした。特に疑問に思うこともなく、それが普通だと受け止めていました。
岸田 当時は1日2回が標準だったということですね。通院の流れとしては、9時に行って、一度帰宅して、13時に再度来院する形だったのでしょうか。
宗 はい。多くの方は病院内で待っていたようですが、私は病院から自宅が近く、15分ほどだったので、一度帰宅して、また13時に行くという生活を毎日続けていました。本当に毎日、毎日やっていましたね。遠方の方は「それだけでもしんどい」とおっしゃっていましたし、同じ治療を受けている方からも「もうつらい」という声は、その当時よく聞いていました。
岸田 1日2回の通院を経て、その後ホルモン療法がスタートします。注射と飲み薬による治療ですが、その後、婦人科を受診するようになったのは、やはりホルモン療法がきっかけだったのでしょうか。
宗 そうですね。当時、先生から説明を受けた際に、私が服用していたホルモン療法のノルバデックスは、子宮内膜が少し厚くなり、非常に低い確率ではあるけれど子宮体がんのリスクがあると言われました。「年齢も若いから、一応検査も受けていこうね」ということで、半年に1回くらい婦人科の検査を受けるようになり、それを35歳まで続けていました。
岸田 その中で組織を取ったところ、がんが発覚するわけですが、これは2回目のがん告知になりますよね。そのときは、どう感じましたか。
宗 のちのち1A期だと分かるのですが、そのときは、いきなり「悪性です」と言われたわけではありませんでした。半年ほど、グレーだったり、黒に近かったりという状態を繰り返していて、その前段階を何度も経ていました。半年間、かなり頻繁に検査を行い、最終的に「がんです」と告げられたのが35歳のときです。
岸田 そのとき、強いショックはありましたか。
宗 正直なところ、乳がんのときのほうが、自分の中では衝撃が大きかったです。慣れていたわけではないと思いますが、乳がんの告知ほどではなかった、という印象が残っています。
岸田 その後、手術で子宮と卵巣を摘出されていますが、「卵巣は取らなくてもよかったかもしれない」というお話がありました。これはどういう経緯だったのでしょうか。
宗 手術前に先生から「子宮頸がんはかなり小さいだろう」と言われていて、お腹を切らずに、膣から削る手術でも対応できるかもしれない、という話がありました。当時は乳がんのホルモン治療が5年とされていた時代で、その治療が終わった後に、子どもを望む可能性についても含め、乳腺の先生、婦人科の先生、そして私自身で、何度も話し合いをしました。
結果として、「本当は取らなくてもいいかもしれないけれど、どうしますか」という判断を、自分に委ねられた形でした。
岸田 非常に難しい判断ですよね。最終的に切除を選ばれた理由は、どこにあったのでしょうか。
宗 当時は情報がほとんどなく、自分と家族の判断だけでした。乳がんと卵巣の関係や、遺伝性の問題なども分からないまま、家族と話し合いました。
その時点で私はすでに子どもを一人産んでいて、今後、子宮を残すことや、ホルモン治療終了後のことに不安がありました。治療の一環としても、卵巣を取ったほうがいいのではないか、という結論になり、家族で話し合って決めました。今振り返ると、その時点で持っていた情報だけで下した判断だったと思います。
岸田 今は多くの情報がありますから、また違った選択肢も考えられたかもしれませんね。
宗 そうですね。今だったら、違った判断になった可能性もあると思います。でも当時は、その結論に至った、ということですね。実は、最初に乳がんになった33歳のとき、ちょうど不妊治療を始めようとして検査を受けているタイミングでした。1人目を23歳で産んでいて、2人目を希望していた時期だったので、その点も含めて、私なりにかなり悩みました。
岸田 相当、悩んだと思います。
宗 そうですね。

【副作用】
岸田 ホルモン療法でアロマターゼ阻害薬を服用され、途中で副作用のために薬を変更されたとのことですが、どのような副作用があり、どのように変更されたのでしょうか。
宗 閉経後に使う薬になるのですが、最初はアロマシンを服用していました。その際、膝と足首に強い痛みが出て、立っていられないほどでした。椅子から立ち上がるのも大変で、痛みは生活に直結しますし、常に病気を意識させられる感覚がありました。
この状態で何年も服用を続けるのは厳しいと感じ、先生に関節痛がひどいことを伝えました。すると、同じ種類の薬でも副作用の出方が異なるものがあるので、別の薬を試してみましょうということになり、変薬しました。それが変更の理由です。
岸田 副作用について、もう少し伺いたいのですが、閉経前の乳がん治療で行ったホルモン療法についてはいかがでしたか。
宗 32歳でいきなりホルモン療法を始めた影響もあったと思いますが、私の場合はホットフラッシュ、いわゆる急にカーッと熱くなる症状に加えて、動悸や息切れ、めまいがセットで起こるのが特徴でした。ノルバデックスを服用していたときは、これらの症状が1日に何度も起こり、かなりつらかったです。「また来た、また来た」という感覚で、だんだん外出もしづらくなりましたし、出先で症状が出ると、それがとても負担でした。
岸田 その副作用については、やはり耐えるしかなかったのでしょうか。
宗 そのときは、本当に耐えるしかなかったですね。
岸田 服用期間中は、ずっと続くような感じだったのですか。
宗 はい。私の場合は昼間だけでなく、寝ている間も関係なく、24時間いつ起こるか分からない状態でした。だいたい同じような間隔で症状が出てくる、そんな感じでした。
【工夫したこと】
岸田 そうだったんですね。寝ているときにも症状が出ていたとのことですが、その中でいろいろ工夫もされていたんじゃないですか。
宗 そうですね。夏はまだ良かったんですが、冬は結構大変でした。寝ている間にも症状が出て、暖房をつけているわけでもないのに、夜中に汗びっしょりになって暑くて目が覚めるんです。
動悸もして苦しくて起きて、暑いから汗をかいて、そのまま眠気に負けて寝てしまう。すると体が冷えて、風邪をひく、ということを何度も繰り返していました。
これはどうにかしないといけないと思って、自分なりに工夫しました。布団のところに枕を二つ用意して、一つは普通の枕、もう一つはアイスノンを置いた枕にして、冷たい方と行き来しながら寝ていました。そうすると、かなり楽になった記憶があります。
あとは、手を冷たいところにつけたりもしていましたね。それと一番よかったのが、缶コーヒーなどの缶飲料を冷凍しておく方法です。普通の保冷剤だとすぐぬるくなってしまうんですが、缶は溶けるまで時間がかかるので、それをガーゼに巻いて枕元に置き、脇の下に当てたりしていました。この二つの方法は、ずっと使っていました。
岸田 なるほど、そういう工夫の仕方もあるんですね。
【大変だったこと】
岸田 もしよければ、闘病中に特に大変だったことを教えてください。
宗 一番大変だったのは、情報がなかったことです。2004年当時は、今のようにインターネットで簡単に調べられる環境ではありませんでしたし、私自身もネットに明るくなかったので、本当に何も分からなかったんです。
先生から説明を受けても、正直、何を言われているのか理解できない部分が多くて。それで、よく本屋さんに行って、医学書を読んでいました。医師が勉強するような専門書を、立ち読みで必死に読んでいました。
それしか情報を得る方法がなかった、というのが正直なところです。私はもともと知りたがりな性格なので、自分の治療について「分からないままにしたくない」という気持ちが強くて、必死に調べていました。当時から治療方針について「どうしますか」と判断を委ねられる場面は結構あったんですが、知識がないので、自分で調べるしかなかったんです。
今のようにネットで検索したり、体験談に触れたりすることもできなかったので、その点は本当に大変だったなと思います。
岸田 自分で医学書を読んで調べていたんですね。当時はガイドラインなどもあったんでしょうか。
宗 それすら知らなかったです。ガイドラインという言葉も分かっていませんでした。今なら「ガイドラインがあるんだ」と分かりますし、どこかから情報を得られると思いますが、当時は本当に何も分からなかった。今の環境とは全然違っていて、そういう時代だったなと改めて思います。

【治療費】
岸田 次に、治療費や制度についてお伺いしたいと思います。綾子さんが32歳でがんになられたとき、保険に加入されていたかどうか、また公的なサービスを利用されていたか、そのあたりはいかがでしたか。
宗 これも先ほどの話と同じで、当時は本当に情報がなく、何も知りませんでした。病院に相談すれば、そういった制度のことを教えてもらえるということ自体を知らなかったんです。そのため、民間の保険には入っていませんでしたし、がんになるとは思っていなかったので、特に準備もしていませんでした。治療に関しても、制度について詳しく聞くことはなく、基本的には健康保険のみで対応していました。
岸田 ということは、高額療養費制度だけを利用されていたという形でしょうか。
宗 はい、そうです。
【仕事との両立】
岸田 仕事との両立についてお伺いしたいと思います。綾子さんは現在、会社員として社長室長という肩書をお持ちですが、当時はお仕事をされていたのでしょうか。
宗 全くしていませんでした。先ほども少し触れましたが、私は22歳で結婚し、23歳で子どもを授かっているので、それ以降はずっと専業主婦でした。
岸田 専業主婦から社長室長というのは、かなり大きな変化だと思いますが、当時は専業主婦として治療と向き合っていたということですね。専業主婦としての生活と治療の両立はいかがでしたか。
宗 今は仕事をしていますが、それと比べると、専業主婦のほうが家のことに関しては、ある意味、融通が利いたと思います。自分の体調に合わせて動けましたしね。息子も、最初に乳がんになったときは10歳で、小学校に通っていましたので、日中は学校に行っていました。ある程度手が離れていたこともあり、生活面で大きく困ることはなく、特に問題なく過ごせていたと思います。
【闘病のまとめ】
岸田 ここで、闘病をまとめて振り返っていきたいと思います。2003年11月から2004年8月にかけて、乳がんの手術、放射線療法を行い、ホルモン療法は8月以降も継続されていました。そして2007年4月、35歳のときに子宮頸がんが見つかり、手術とホルモン療法を受けられています。副作用としては、ホットフラッシュ、動悸、目まい、関節痛などがありました。
その中で、生活面の変化として「趣味ができなくなったこと」や「患者会の立ち上げ」がありますが、このあたりについてお伺いしてもよろしいでしょうか。
宗 私は乳がんになる前からテニスが本当に大好きで、主婦になってからもずっと続けていました。試合にも積極的に出ていて、部活のようにかなり本気で取り組んでいました。
乳がんになって手術後は1年間ほど休みましたが、その後は副作用がありながらもテニスを続けていたんです。ただ、ホルモン療法が変わってから関節の痛みが強くなり、手や手首も痛くなってしまって、ラケットを握るだけでボールに弾かれたり、捻挫をしてしまったりと、支障が出てきました。その結果、長年楽しんできた大切な趣味を諦めざるを得なくなり、自分なりに折り合いをつける形になりました。今はこうして話せますが、当時はとても寂しかったです。
岸田 本当にそうですよね。趣味を手放すというのは、かなりつらいことだと思います。
宗 はい。やはり好きなことをやめるというのは、なかなかつらかったですね。
岸田 続いて、患者会の立ち上げについても教えてください。
宗 はい。これは私が38歳のときになりますが、キャンサーネットジャパンさんの「BEC(乳がん体験者コーディネーター)」の認定を受けました。その際に、同じ地域に住む方々と3人で立ち上げたのが「Çava!」という患者会です。2011年だったと思います。当時、私の住んでいる地域には、がんになったばかりの方が経験者の話を聞ける場がほとんどなかったため、「それなら自分たちで作ろう」と思い、患者会を立ち上げました。
岸田 本当に、情報も患者会も少ない時代でしたよね。そこから患者会を立ち上げ、仕事のほうにも進まれていくわけですね。
宗 そうですね。私はずっと専業主婦でしたが、患者会の活動はボランティアだったので、Çava!の運営にかかる費用はすべて自分で負担すると決めていました。どうしてもやりたかった活動だったので、自分の中で覚悟を決めていました。
そのため、患者会を立ち上げた翌年に、初めてアルバイトに出ることにしたんです。それが仕事を始めるきっかけでした。
岸田 そこからアルバイトとして働き始めて、今につながっているんですね。
宗 はい。アルバイトとして入ってから、ありがたいことに少しずつ話が広がり、今の形につながっています。かなり端折った言い方ですが、そんな流れです。
岸田 今の会社は、そのときにアルバイトで入った会社なんですか。
宗 そうですね。正社員としての社会経験は、そこが初めてになります。
岸田 それはすごいですね。かなりポテンシャルがあったということでは。
宗 いえ、私はそうは思っていません。これは間違いなく、がんになった経験によって、考え方や物事への向き合い方が変わったことが大きいと思っています。その経験がなければ、今の自分はなかったのではないかなと感じています。
【がんから学んだこと】
岸田 綾子さんが、がんの経験から学んだこととして、まずこちらの言葉をいただいております。『誰かのためではなく、自分のためにと考える』どういう意図で、経験から学んだって感じですかね。

宗 そうですね。先ほどからお話ししているように、私には子どもがいて、息子が9歳のときに最初の乳がんになりました。息子は普通どおり学校に通う年齢でしたので、私が入院する間、登校班のことなどを近所の方にお願いしなければならず、どうすればよいか分からなかったため、近所の方に自分の病気のことを伝えました。「少し入院するのでお願いします」という形でお話ししました。
岸田 がんのことも伝えられたということですか。相手の反応は大丈夫でしたか。
宗 正直、少し引かれた感じはありました。ただ、言ったほうがいいと思って伝えましたし、その点については、のちのち少し後悔もあります。
その方はとても励ますつもりで、「息子さんのために頑張らなきゃだめだよ」と声を掛けてくださいました。年上の方だったこともあり、すごく気持ちを込めて言ってくださったのだと思います。
岸田 お子さんのために頑張りなさい、という言葉ですね。
宗 はい。その言葉自体はありがたかったのですが、当時の私はまったくしっくりきませんでした。相手の方が目を潤ませながら言ってくださっているのに、私の心には全然響かなかったんです。
ただ、数カ月経ってから、ホルモン治療中で病院に行く頻度も減り、家で過ごす時間が増えたときに、ふと考える機会がありました。そのときに、息子がもし私の前からいなくなったとしても、かわいそうではあるけれど、彼は彼なりに生きていけるし、生活も続けられる。もしかしたら、私がいないからこそ得られるものもあるのかもしれない、と考えたんです。
でも同時に、息子が中学生になった姿、制服を着た姿、どんな部活に入るのか、高校や大学をどう選ぶのか、そうした成長を「私が見たい」と強く思いました。息子が私を必要としているというよりも、私自身がその先を見ていたい、という気持ちに気づいたんです。
この考え方は、息子のことから始まりましたが、やがて両親や友人など、周りの人すべてに当てはまるようになりました。「誰かのために頑張る」ではなく、「自分がどうしたいか」という視点に変わっていったんです。それまでの私は、専業主婦として家にいる中で、夫や子ども、家族のためにどうすればいいかを常に考えていましたが、がんをきっかけに、その価値観が大きく変わりました。私にとっては、そこが大きなターニングポイントでした。
岸田 誰かのためではなく、自分のために頑張るという価値観への変化が起きたということですね。
宗 はい。その通りです。
岸田 そしてここから、綾子さんが学ばれたこととして、「今の時間がきっと自信につながる」というお話がありますが、これはどのようにつながっていくのでしょうか。
宗 その考え方はベースにありますが、現実として検査はずっと続いていきます。定期健診のたびに、まるで審判台に立たされているような感覚がありました。16年間過ごしてきましたが、一度も「全然平気」という時期はなかったです。
検査前になると、「もし何か見つかったらどうしよう」という不安が必ず湧いてきます。忘れたつもりでも、良性だと思って病理結果を聞きに行ったら悪性だったと告げられた、あの瞬間の記憶がよみがえってきます。不安はずっと付きまとっていました。
それでも、治療や検査、日々の生活を粛々とこなしていくこと。つらくても、毎回検査を受け、日常生活を続けること。その積み重ねが、今振り返るとすべて自分の自信につながっていると感じています。
岸田 今も病気に対する不安はあるということですね。
宗 はい。私は不安になりやすいタイプで、全然平気な人ではありません。乳がんと子宮頸がんを経験し、今48歳に近づく中で、他の病気の可能性も含めて、常に気になるところはあります。
ただ、治療や生活を一つひとつこなしてきた経験があるからこそ、仮にまた何かあったとしても、以前ほどの不安にはならないだろうと思えます。情報も経験もありますし、がんに限らず、コロナのような出来事でも、与えられた状況を粛々とこなしていくことで、振り返ったときに「大丈夫だった」と思える自信につながると感じています。
岸田 今、不安な中で粛々と過ごしている時間そのものが、将来の自信になるということですね。
宗 はい。私はそう思っています。不安が強い人間だからこそ、そう考えないと乗り越えられないときもあります。
時間は健康でも病気でも平等に流れていきます。その中で耐えたり、時には楽しいことを見つけたりしながら過ごしていく。その繰り返しなのだと思います。
岸田 本当に学びの多いお話でした。ありがとうございます。
宗 とんでもありません。偉そうに聞こえていたら申し訳ないです。
岸田 ぜひ「Çava(サヴァ)」を検索してみてください。それでは、本日のがんノートminiは以上となります。綾子さん、本当にありがとうございました。
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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