目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 病院や治療のことテキスト / 動画
- 副作用や後遺症のことテキスト / 動画
- 家族のことテキスト / 動画
- 子どものことテキスト / 動画
- 仕事のことテキスト / 動画
- お金・保険のことテキスト / 動画
- つらかったことテキスト / 動画
- 工夫していることテキスト / 動画
- がんになる前と後で変わったことテキスト / 動画
- 今後の夢や目標テキスト / 動画
- メッセージテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:轟
- 夫をスキルス胃がんで亡くし、患者支援を続けてきた轟浩美さん
- 夫の告知、実家の火事、そして自身のがん——轟さんが歩んだ12年
- 知識があったから迷わなかった——SDMで決めた治療方針
- ウィッグ選びは銀座で——副作用との付き合い方
- 「母を悲しませたくない」——治療を決めた理由
- 絶妙な距離感で接してくれる長男夫婦と長女
- 「ここまでなら責任を持てる」——当事者になって変わった引き受け方
- 自動精算機で「えー!!」——高額療養費制度を、当事者として使う
- 支援はプッシュ式に——平気そうに見える人ほど
- 「気持ちがいいものしか置かない」——断捨離とマットレス
- 「責任を持つ」の意味が変わった——自分のエネルギーに合うことをやっていく
- 「スーッとフェードアウトしたい」——次の世代の土壌になるために
- 「進むのも勇気、立ち止まるのも勇気」——“ごうひろみ”が見つけた言葉
夫をスキルス胃がんで亡くし、患者支援を続けてきた轟浩美さん
岸田 それではがんノートスタートしていきたいと思います!今日のゲストはですね、轟(とどろき)さんです、よろしくお願いします!轟さん、自己紹介お願いできますでしょうか?
轟 はい、私、轟浩美と申します。ここに書いてあるように、東京都出身で東京都で生まれ育ってます。思いっきり年齢書いてありますけど63歳で、私は浩美なのでロミって言われているので、今年は私の年かなっていう、私の年だなっていう1年間でした。家族は、私夫をスキルス胃がんっていうがんで9年半になりますね…前に亡くしておりまして、それで今現在家族という立場としては夫の母そして長男の夫婦あとは長女がいます。で、仕事、これずっと読んでちゃっていいですか?

岸田 そうですね、まず。
轟 仕事というのは、ずっと夫が立ち上げたスキルス胃がんの患者家族会の、認定NPO法人『希望の会』という会の理事長をしていたのですが、今年11月に新たに『igannet(胃がんネット)』という一般社団(法人)を立ち上げて、希望の会を解散する。これもこの中でお話をしていきます。
岸田 趣味お願いします!
轟 実は私趣味は釣りが趣味。
岸田 釣り趣味って意外ですね!
轟 意外でしょ?でもね、私もともと幼稚園の先生だったので何かを捕まえてっていう、生き物好きなんだけど、虫も手掴みだし全然あんまり怖いものがないっていう、狩猟民族みたいにこうなんか獲りに行くって感じで。釣りが好きだったのは、やっぱり何かそういう仕事してる中で悩みがあった時に、釣りをしてる中でじっと考える時間とか自然を見てるとか、私の悩みはちっぽけだな〜とかって思える。そしてキャッチ&イートだったので、これ買ったら高いぞ!と思いながら必ず釣り上げるという。で、釣りが好きでした。あとカラオケも好きですし、お酒は私好きですけど唎酒師(ききざけし)っていう日本酒のそういうマスターですよね…の資格も取っていたということで。ただ、全部過去形になってますね…現在は。
岸田 ああ、今はね。
轟 今はね。
岸田 今は本当治療もされていたりだとかっていったところもあると思いますけれども、じゃあがんについても教えていただけますか?
轟 私がなったというか告知を受けたのは、胆嚢(たんのう)がんというがんで、胆嚢(たんのう)っていう臓器があるってことはもちろん知ってたんですけれども、やっぱり告知を受けた時にえっ!?っていう、胆嚢(たんのう)がん?っていう感じだったんですね。で、多分流れの中でお話ししていくんだと思いますけど、本当に自覚症状っていうのは半年間ぐらいとにかくだるかった、とにかく体が重かったっていうのが自分の症状でしたね。
岸田 で、そしてもうね、ステージも4ということで、その後告知がこっちですね。63歳ですよね。
轟 そうです、63歳です。
岸田 今薬物療法されていて今も現在も治療中ということで、このような状況ですね、どのような形で轟さんが治療を今されているのか、皆さんもね、SNSでも知られた方もいらっしゃいますけれども、今日はじっくりお話をお伺いしていきたいなと思いますのでよろしくお願いいたします。
轟 よろしくお願いします。
夫の告知、実家の火事、そして自身のがん——轟さんが歩んだ12年
岸田 まず個人の経験談でございまして、特定の治療を推奨しているわけではございません。ご自身の病気は主治医の方にご相談いただいてというふうな形で進めていければと思いますけれども、このがんノートですね、この後感情の浮き沈みだったりとか、吹き出しでポジティブやネガティブ普通や、その治療など吹き出しでもお伝えをしていきます。まずロミさんの経験談こんな形となっております。今年半分から先が今年の出来事ということで、半分から前が今までの出来事をロミさんに振り返っていただきたいということを思います。まず初めに何があったのかと申し上げます、まず(夫の)哲也さんのステージ4のがんの告知ですよね?
轟 はい、そうですね。ちょうど12年前なんです。12月に夫のスキルス胃がんで、それでステージ4っていう告知を受けました。検診もずっとしてたし、それから1年前に要再検査になって検査をした時に胃炎って言われてたんですよね。ただずっと不調が続くからおかしいな、おかしいな〜って思って、1年後にもう一度区の検診を受けた時に病院から呼び出しがすぐ来て、そして行った病院でスキルス胃がんのステージ4という告知を受けた。それがこの12月だったということです。
岸田 はい、まあね、その時のロミさんとしても、この時は一番下がっているということはすごくショックを受けたということですよね?
轟 ショックを受けましたね。例えばがんになったら私も夫も、手術が治療法として必ずあるんだろうっていうイメージがあったんですよね。で、胃が悪い。もしがんって言われても手術をしてっていうイメージがあったら、いきなりこれで言われたのが、手術不適応っていうことだったので、手術ができない、不適応っていう。そのことがもう本当にびっくりしたっていう。じゃあどうなるの?っていうので、もうとにかくどん底っていうことですね。
岸田 この後どうなっていくのかっていったところでね、哲也さんのちょっといろいろ治療もある中で、この次にこちら、ご実家が火事になられていく!と。

轟 そうです!立て続けですね。12月に夫の告知を受けて、年明けの1月に実は実家が火事になって、そこで私は親を亡くしているということで。この1ヶ月の間にこの2つが立て続けに起こったっていうことは、もうとにかく受け止められなかったし、一体何が起きてるの!?っていう感じで、もう…今考えてもこれ以上のどん底はない!って思うぐらいのどん底でした。
岸田 確かにそう思ったらあれですね、前半でもうどん底が来てる感じですもんね?
轟 そうですね。まあ、ただ…いろいろ悪いことがあった時にやっぱり、なんとかこう自分でそれを受け止めようとするじゃないですか?人って。その時に、いいか悪いか分からないけれどなんかそのことに意味を見つけていくっていうことがあるんだと思うんですけど。もちろん何年もかかりましたよ、かかりましたけど、やっぱり夫ががんって言われて後にすぐ親がこういう形で旅立ったっていうことで、本当に誰もが5分後には何が起きてるか分からないっていうことだから、だからがんって告知を受けたことでのどん底っていうことを、治療がね、それでも治療していけるっていうところに気持ちを向けていくっていう、一つの悲しいですけど、悲しいきっかけではあったと思います。
「誰かが助けてくれるはず」と信じて——夫が患者会を立ち上げた理由
岸田 でね、ご実家も火事になって、この1ヶ月の間にさまざまね、この当時は起こっていかれます。その後ですね、何が起こったか?次こちら。お、スキルス胃がん患者会の希望の会を発足されていくということなんですけれども、これあれなんですね?患者会発足していくのがネガティブなんですね?
轟 そうですね。この患者会発足したのは夫なんですよ。それで、患者会発足するまでの道のりっていうのが、とにかく私は家族として夫を助けたい一心だったっていうのと、あといわゆる科学的根拠っていうのを持っている治療とそうじゃない治療っていうのの区別がつかなかったんですね。医師免許を持っている人はみんな同じで、よくテレビとかドラマとか映画で神の手みたいに救っていくそういうストーリーの中で、いわゆる標準治療って、ここにいらっしゃる方はお分かりになると思いますけど、そういう(標準)治療じゃない突拍子もないことをして。助けるっていうストーリーって結構あるじゃないですか?それが私の頭の中に多分こびりついてたんですよね。だからそういう人を探さなきゃ!って私は思ってた。夫はとにかく科学を理解できる人だったのでそれを病院の治療を受けるって言ってるんだけれども、私はそれを否定してるんじゃなくって世の中に誰かきっと助けてくれる人がいる!それを探すのは私なんだ!ってとにかくいろんなものに手を出しちゃったんですよね。いわゆる民間療法っていうのに。
岸田 そうですよね?今日の日経新聞で今ね、連載されている中でにんじんジュースの話もありましたけど。
轟 その中の一つがにんじんジュースなんだけれども、結局自分でできることってあるじゃないですか?がん治療は自分ではできないけど、にんじんジュース作るとか何かいいと思う・言われているものを取り入れるってことは自分でできることだから、私が100%できることをやらなくちゃ!っていうことでもうさまよってしまった。で、それが夫の治療にも影響してしまったということで、夫がこういう人は自分たちだけじゃないはずだ、だからちゃんと後悔しないように選択の力になる情報っていうのを届けるっていうことが必要なんだというふうに思って夫は患者会を作るって言い始めたんです。私はそれに反対だったから。
岸田 ああ、そういうことね!そうか!反対の立場でっていうことですね?
轟 はいはい。
岸田 ちなみにね、にんじんジュースって分からない人はね、『がんで治る飲み物』みたいな形で(検索)すると、すごくにんじんジュースがね、すごく(検索に)上がってきて結構飲まれる方も多いっていうふうな都市伝説的なやつがあったりする。
轟 都市伝説ですよね!でも私はもう完全にそれに入れ込んじゃって、冷蔵庫の中が全部にんじん!みたいな状態になっちゃうぐらい、これを飲ませなきゃ〜!みたいになっちゃったんですよね。
岸田 そうそうそう、ね。しかも普通のミキサーじゃなくてスロージューサー。
轟 高い…ちょっとお高いやつを買って。
政策提言という、新しい力の向け先——全がん連への加盟
岸田 僕も経験したんでね。反対していったっていうのがこの時だったということでちょっとネガティブだった。ただまあ、希望の会を発足していってっていうふうな感じもなっていきますからね。そしてその次にどういった形になっていくのか、次こちら、『全国がん患者団体連合会(全がん連)』に加盟していくというふうなことですけれども。

轟 はい、このスキルス胃がんの患者会の希望の会を立ち上げたのが2015年の3月だったんですね。それで、夫のいわゆる正確な情報を届けていきたいんだっていう思いに賛同した、私と夫はもともと同じスキー部の出身だったんですけど、その同じ共通の友人がそれに賛同してこの立ち上げに関わってくれた。3月にNPO法人として出発したんですけど、その年の5月だったと思う、5月ですね。多分ネットニュースか何かで全国がん患者団体連合会発足っていうのを見たんです。その時に、患者会は立ち上げました、ただ患者会って何をするんだろう?って私は思っていたので、これだ!と思って、ここに加盟するんだ!っていうふうに私が思って。
岸田 あっ、そうなんですね!
轟 夫に相談したかな…?
岸田 相談は…だって作ったの哲也さんですよね?(笑)相談はしてほしいなと思うんですけど、さすがに。
轟 そうなんですけど(笑)あの、入ったんですね、検索して。天野慎介っていう人に連絡をすれば入れてくれるんだろう!と思って、検索をしてそして入りたいんですって言って。本当に発足と同時に入ったっていうことですね。
岸田 ちょっと上がってるのは、これ何でなんですか?
轟 その時に、がん対策基本法っていうのが2006年にできていて、で、それの10年後の改正案というので、難治(性)・希少・小児という今までの10年間に例えば声を上げられないとか上げにくい状況にあるということで対策が遅れている、このがんに対しての対策を強化するということを改正案に盛り込んでほしいという、いわゆる政策提言をこの全国がん患者団体連合会は発足と同時に始めたんですよね。
轟 その時に、まさにスキルス胃がんは本当に治療に苦慮している状態だったので、あっ、こういうことも自分たちにできることなんだ!と思って、やる方向を一つ見つけたってことかしらね。自分たちが情報発信をしようと思っているのはそうなんですけど、それと同時にこういうことも自分たちにできることなんだな!っていうのに気づいたので、そこに自分のエネルギーがグッと向いたっていうのが上がっていることですね。
岸田 スキルス胃がんの患者さんたちだけでなくて、広く一般の人たちにも全国がん患者団体連合会に加盟して政策提言とかもやっていける、そういったところにロミさんの活力っていったところが向いていった。
轟 そうですね、向きました。
夫の逝去、そして「続けていく」と決めた瞬間
岸田 ただ向いていったさなか、ドンとね、突き下がっていく。この出来事は何が…あったのか?それが次こちらになります。旦那さんね、哲也さんが逝去されていくということで。これはもう…。
轟 そうですね、2015年に希望の会ができて夫が亡くなったのは翌年です、2016年です。全国がん患者団体連合会に加盟して最初の要望活動の改正案に、難治(性)・希少・小児を入れてほしいという、最初の頃は夫も一緒に動いていたんですけれども、本当に治療法が確立されていない、それから進行が早いスキルス胃がんだったので、途中からは夫はほとんど活動ができない状態になっていく。

轟 その中で多分私は、夫との別れは近いということはお互いに分かっているんだけれども、この政策提言に力を向けて何とか保っていた。それをやっぱりあの…亡くなった瞬間にね、私本当に声に出して言ったんだけど、本当に死んじゃった…って思ったんです。いつかそういう時がやってくると覚悟はしてたけれども、本当にいなくなっちゃったんだ…って思ったのが、このもう一度ズドンって落ちた時ですね。
岸田 そしてね、そんな中で、本当にいなくなっちゃったなっていった中での、そんな中でも会は存続していかないといけないということで、理事長にも就任されていく?
轟 そうですね。夫はひと言も希望の会を続けてほしいとかどうこうしてほしいってことはひと言も言わなかった。とにかく私は2人子どもがいるんですけど、子どもたちにもとにかく自分の人生を歩みなさいって言って。
轟 自分が患者会を作ったからといってその患者会を守らなきゃなんて思わなくていいし、自分が旅立って母親が一人になっても、この人は多分助けてくれる人がたくさんいて子どもたちがそばにいなきゃ生きていけないっていうような人じゃないって。そう思ってとにかくあなたたちは自分の人生を歩むっていうことを考えて、自分でいろんなことを選択していきなさいっていうのが私たち3人に残した言葉だったんですよね。
轟 本当に死んじゃったんだって思ったと同時に、そのことがよみがえって、で、私はとにかく夫が立ち上げたことをなんとか叶えたい!と思ってここまで来てたんだけれども、この瞬間に私として希望の会をやっていくって同時に決めたんです。
岸田 はあー!だからそこはね、続ける・続けないは哲也さんから自由だけどっていうふうな形ですけど、ロミさんとしてはもう続けていくと?
轟 続けていく。はい、決めました。
岸田 その時いろんなプレッシャーとかもあったと思うんですけれども、ね、大丈夫でした?
轟 いや…まず私が患者ではないということで、だからこの政策提言でがん対策基本法のことはその後、夫が旅立った2016年の年末に(改正案が)国会で可決されて、私たちが願っていた文言ががん対策推進基本計画にも取り入れられたし、そこに膵(すい)がんやスキルス胃がんのような文言が入ったということに関しても、やってきたことっていうのは形になるんだなということは思いましたけれども。
轟 その時にやっぱり、マスコミに結構取り上げられたんですよね、可決の瞬間をパッと報道で写真を撮っていただいたというか、報道にも流れた時に、やっぱり少し目立つとそれに対していろんな声が聞こえてくる。これはもうずーっと今も続いていることなんですけど、そんな時に、抗がん剤もしたことないくせに!っていうことをやっぱり…少ない数でしたけど言われたんですよね。
轟 それはやっぱりその後の自分の10年間に、私が治療を受けたわけじゃないっていうことはずっとなんか引け目のように思ってたんだってことを、今回自分が患者になって明らかになりましたね。
一人を痛感したステイホーム、英会話で外を向く
岸田 本当ね、いろんなことがあった中で、そして次こちらになります。コロナ禍のステイホームで夫の不在を痛感していく。
轟 はい。あの、まあ皆さんもそうですけど、2020年でしたかね、新型コロナウイルス感染症になって、それでステイホームということで家にいましょうっていう時期があったじゃないですか?その時に、多分そこまでは患者会の活動で頻繁に動いていましたし、いろんな人とも会っていた。
轟 それで、家にいましょうって言って家にいたら、この頃子どもたちは海外にいたり離れたところに住んでいたりして、母も別の家に玄関が違う家に住んでいるので、ふっと家の中を見たら私しかいない!って思ったんですよ。これはね…ちょっと本当に、夫は帰ってこないんだ!ってことを痛感するつらい出来事ではありましたね。
岸田 自分しか…自分だけっていうふうな形で、取り残されたような感じを思っていらっしゃる中で、そしてね、その後こちら、還暦を迎えられていく。

轟 そうですね。そこに向かって上がっていっているのは、実は誰とも話せないのがすごく寂しかったので、誰かと話したいなって思った時に、すごく短絡的なんですけどオンライン英会話を始めたんです。
岸田 ほう!
轟 で、本当に中学レベルの英語からなんですけれども、毎日25分かな、自分が調子がいい時とか、この時だったらいいなっていう時間を予約すると、そこで話をする人がいるんですよね。意外と英語そんなにしゃべれてるわけじゃないけれど、とってもストレートに褒めてくれたりとか、お腹の中ではどう思ってるんだ!?みたいなことを感じずに話すっていうことで、だんだんだんだん自分の気持ちが外向きになってきて。
轟 私、いろんなところにまだやってないことがあるし、可能性があるんだな!と思いながら、すごくステイホームで一人を感じたところから、一人じゃないって、いろんなつながり方があって、今までだっていろんな人に支えられてきたなと思いながら気持ちが上がりながら還暦を迎えたということですね。
岸田 今ではね、立派に海外でもね、話されていらっしゃるっていうふうなところのきっかけもこの時からね、あったのかなと思います。
岸田 そして還暦を迎えられて、ちょっと還暦についてはね、僕年齢については何も触れられないので、ちょっと次にね。
轟 やめてよ(笑)
岸田 いやいや、ちょっと何ハラとかなったらちょっとね(笑)
轟 ずいぶん触れてるじゃない(笑)
桁違いだった要望活動——参議院、そして総理との面談
岸田 そうですね(笑)そんな中でちょっと上がっていきますが、次こちら、おっ!最近になってきますね、高額療養費限度額の引き上げに関する要望活動を開始されていくということで、この時にはロミさんは全国がん患者団体連合会の加盟だけじゃなくて。
轟 理事になっていますね。今は事務局長というのになっています。
岸田 この時上がっていますけれども、これはどういうことでしょうか?
轟 まあ還暦を迎えた時に、私は…まあ還暦を迎えることができたわけですよね。それでその後じゃあ自分の人生をどうやって、えっと、なんて言ったらいいのかな、着地させるのかって言ったらおかしいですけど、やっぱり自分が動いたり考えたりできているうちに私はどう生きるのか?っていうのを考えたんですよね。
轟 その時に、自分が続けていくっていうよりも、自分の次の世代の人たちがのびのびと生きられるとか、何かやりたいことがあったらやれるっていうような土壌を作っていきたいと、そして静かにフェードアウトしていきたいと思って、この還暦を境にいろんなことを考えて、この後に患者会の希望の会解散というのもつながっていきますけど、ここをきっかけに考え始めたんです。
轟 その時にちょうど、本当に1年前のクリスマスイブに政府からこの高額療養費の限度額を引き上げるということが政令として出されるという情報が入って、そして全国がん患者団体連合会が要望書を提出したというのが、昨年のまさにクリスマスだったんですね。
轟 その時に私は、今自分が持っている力をすべてここに注ぎ込もう!と思ったっていうのが上がってるっていうことですね。
岸田 そうですよね!当時のニュースご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんけれども、すごいね、本当に要望活動で署名を集められてね、最終的にその後こちら、翌年には総理との面談だったりとか、あと参議院に呼ばれたりとかもされてましたもんね?

轟 そうですね。まずこの高額療養費制度ということに関して、私が理事長をしていた希望の会の会員でスキルス胃がんになっている方って、意外と30代…30(歳)前後の若い女性がなるというのがスキルス胃がんの特性の一つでもあるので。そして支払いのことについてとか、小さなお子さんを残して旅立つという方たちの悲痛な声っていうのは10年間聞き続けてたことだったので。
轟 もちろん全がん連の理事ではありますけれども、この高額療養費制度の限度額引上げについては、やっぱりスキルス胃がんの患者会の希望の会の理事長として、ここは私は行かねばならぬ!というふうに思って。
轟 もう桁違いでしたね、今まで10年間いろいろなことで要望活動っていうのはさっきのがん対策基本法の改正に限らず、例えば妊よう性温存とかそれから受動喫煙防止法とかゲノム(医療推進)法で差別が起きないようにとかっていうような法律を作ってほしいとかっていうようなことで、10年間政策提言っていう要望活動をやり続けた中で、これは桁違いでした!
轟 もう毎日毎日議員会館とか国会に足を運んでいろいろな方に声を伝えていくっていうことをやって、その中で衆議院は通過したんですよね、いったんね。それで参議院に移った時の初日に突然前日に私の家に参議院ですっていう電話がかかってきて、それで明日の予算委員会の一番初めに参考人として出てくださいっていう。
岸田 前日に来たんですね!?
轟 前日です!で、『はい』か『イエス』しかない(笑)いやですとか怖いですとか言えないじゃないですか!(笑)ここまでやってきてね。それでは私は自分がえーっ!!ていうことで、これは断るわけにはいかない!っていうので、そこはもうエネルギーマックスですよね。自分が持ち得る全エネルギーを持って国会の参議院の予算委員会に参考人として登場しました。
岸田 登場されていったりだとか、その後ここに書かれているように総理との面談も神戸から飛んでいって。
轟 そうですね、参議院に参考人として出て、その日の夜には神戸で開かれている学会の運営っていうのを全がん連が委託されていたので、神戸に移動してたんですね。そしたら今度、その2日後の午前中に電話がかかってきて、夕方までに東京に戻ってきてくれと。それで総理が会うと言っているということで。
轟 私たちが渡したかったのは署名ではなくて、全がん連が緊急アンケートとして皆さんの現場の声、この限度額引き上げに関してどう思うかという声を寄せてくださいというのが、1月の3日間で3600名以上の声が集まって。それは当事者はもちろんだったんですけど、医療者とか治療する側の人からも届いたんですね。
轟 で、その中の特にスキルス胃がんの女性の患者さんの声が何回も何回も繰り返し国会の中で取り上げられて質疑が進んでいた中だったので、やっぱりもう当事者の患者会の代表として参考人として出る、それを受け取るって総理が言っているから、そこに行って読んでいただけるようにそれを渡すっていうのがこの3日間の間に起きたということです。
岸田 すごかったですよね!その時は本当に、活動も限界を超えというかマックスの状態で、はい、もう精力的にね、本当にもう、いろんなところにも行かれて。そんな中で面談でようやく高額療養費制度がいったん当時は落ち着く…落ち着くというか。
轟 そうですね、凍結。いったん立ち止まって、それで秋までにまだ今審議続いているっていうことは、やはりこの時に声を上げなかったら国会で取り上げられずにもう限度額って引き上げられてた…引き上げられることができる政令ってものだったんですね。
轟 それを皆さんが声を寄せてくれたものを持っていろいろな議員の方たちに説明して回ったことで、国会でそれが取り上げられるようになった。
轟 国会にかかったから総理も答弁を求められるようになったっていうやりとりの中で、いったん衆議院を通過して参議院に行ったものがもう一度衆議院に戻るっていうのは、今の憲法下っていうか憲政史上初って言われることだったので、ここに至るまではもう…よくこんなエネルギーが自分にあったなっていうぐらい。疲れたとかそういうことも思えないような毎日でしたね。
半年続いた原因不明の不調、そして病院からの呼び出し

岸田 そんな中でね、ちょっと下がっていきますが、次こちらのね、状況。次何があったのか?心身の不調が半端ない!ということで、体調を少し崩されていく状況になっていくんですかね?
轟 そうですね。総理とお会いしたりしたのが3月だったんですけれども、その3月の末ぐらいからとにかく体が重い・気力が湧かない。誰かと会ったりしても、なんかその時になんか気持ちが上がらない。で、何食べても美味しくないっていうような状態になって、私この時に、あっメンタルをやられたと思って。
岸田 もう上がるとこまで上がっちゃったから、次ね、ちょっともうそれの反動でというか、来ちゃったんかな?って思いますよね。
轟 思いました。
岸田 それ、どれぐらい続いたんですか?
轟 あの…がんだと分かるまでずっとです。はい、だから半年間ですね。3月の末、そうですね、ちょうど半年間、なんで私こんななっちゃったんだろう!なんでなっちゃったんだろう!ってずっと思いながら。
轟 もちろん何もしなかったわけじゃなくて、メンタルを見てくださる医療機関にも行きましたし、あとはもちろん内科にも行ったんですけれども、そこの血液検査ではもしかしたら膠原(こうげん)病になりかかってる、って言ったらあれだけれども、膠原(こうげん)病なのかもしれないから定期的に血液検査をしていきましょうっていうことを言われて、この半年間とにかく過ごしていた。
岸田 じゃあちゃんと定期的に内科のクリニックで血液検査は続けていってたんですね?
轟 そうなんです。膠
岸田 原(こうげん)病かもしれないということで、お薬とかもあったんですか?
轟 そうですね。内臓が動いていないような気がしていて、胃とか腸とかは調べていたんですよ。だけど、胃腸に特に異常は見つからなかったから、先生もおかしいなおかしいなって言いながら、血液検査でとにかく状況を見ていきましょうっていうのがこの半年間でしたね。
岸田 はい、そしてその後ですね、こちら、血液検査で病院から呼び出しを受けると。これがその半年後ぐらい?検査していって。
轟 はい、8月の本当に最後です。8月の最後に血液検査をしたら、急に病院から、もう夫の時と同じですよね、夫も病院から電話がかかってきたんだけど、私も病院からすぐ来て!っていう電話がかかってきて。
轟 それで病院に行ったら、とにかく炎症反応っていうのがとてつもなく上がってるから、まずは細菌感染かもしれないからとにかく薬を飲んでほしいと。それで治まらなかったら、これはもう違う検査をしていかなきゃダメだっていうことを言われたのが8月の末です。
岸田 いきなり病院から電話あったら焦りますよね!?
轟 もちろん焦りますけど、その時に…夫もね、自分がスキルス胃がんって分かった時に、実は何が起きてるか分からないことの方が怖かったって言ったんですよ。そんなに厳しい状況を告げられたのにもかかわらず、これで治療の方向性が分かるんだったら、何が起きてるのか分からないっていう時が一番つらかったって。夫が言ってたことがやっとこの時分かった!
轟 私その時に、何言ってんのこの人!?って思ったんですよね。こんな厳しいことを言いながら、あ〜やっと病名が分かった!って言った気持ちが、その時分からなかったんだけど、私はこの時にこの気持ちだったのか〜!って思ったので、ちょっと上がってますよね。
岸田 そうなんです。ここでね、ようやくがんかもしれない時に上がってるんですね?
轟 上がったんです。
岸田 なかなかね、だからがん告知で上がるっていうのってなかなか少ないと思うんですけれども、この時にようやく検査の呼び出しがあってなんか変かもしれないということで、また大きな病院に行ったんですかね?
轟 そうですね。これはやっぱり自分が10年間患者会の代表をしてたってことで、ある程度知識を持ってたってことがあったので、この状況でがんかもしれない・がんじゃないかもしれないって言ったらどっちも診られるところに行った方がいいだろうと思って、総合診療科っていうのがある病院に行きました。
岸田 その総合診療科で診てもらう?
轟 はい、画像検査をした方がいいと。どんどんどんどん炎症反応が上がっていくんですよだから細菌感染ではないってなったら、何かが体の中に起きている、どこかに炎症が起きているってことだから、画像検査をしましょうということで。これはすごく早いスピードで進みましたね。
胆嚢がん、ステージ4——告知に「ホッとした」理由
岸田 大きな病院にいろんな検査をしてもらったんですね。そしてようやくね、このがんと分かっていく。この時はどういう状況でがん告知されていくんですか?
轟 あの画像を見た時に、先生がすごく…言いづらそうにしたんですよね。もうそれは自分が家族の立場だった時からそうだし、患者会をやっててもそうだけど、やっぱりあの医療従事者だって人間だから、言いづらいことを言う時って顔が硬くなるし表情も硬くなるし、それは私が患者家族だった時も、診察室の扉をパッと開けた時にその瞬間の担当医の表情で、ああっ…て思うことがあったんですよね。
轟 だからその緊張している様子を見た時に、あっ多分がんって言われるなっていうふうに思いました。だからどっちかっていうと、私が告知を助けちゃった感じ(笑)
岸田 がんかもしれない…がんじゃないですか?みたいな?
轟 そう、なんかいろいろ説明をし始めて、ここに…とかこれは転移だってことだなっていうようなことも、だから言葉の意味が分かったので、じゃあそれはがんっていうことで、それで先生がおっしゃっているのは転移もしているっていうことをおっしゃってるんですよね?って言ったら、そうですっていう。
岸田 分かるがゆえにね。ただね、さっきね、轟さんがおっしゃったように何があるか分からないって時の方が不安で、がん告知された時の方がちょっと上がってると。
岸田 そこからなんですよ、その後ですね、そこからがん告知を受けているんですけど、まだ上がっていくんですよね。
岸田 はい、ここからね、治療とか入ってくるんかな?と思うんですけど、その前にリンパ節転移が判明、この時もする!?
轟 はい、そうですね。あの、さっき言った総合診療科でこれはがんであるってことが分かった時に、私も胃がんっていうそういう消化器っていうか、の患者会の代表してましたから、自分の状況がかなり厳しいだろうっていうことと、それから治療の選択に困っていくだろうっていうことをまた分かっちゃう、察してしまうんですよ。
轟 だったらこれはがん専門病院に行って、例えば治験とか臨床試験とかっていうものも含めて、選択肢をたくさん持てるところに行こうっていうふうに自分で決めて、もちろん胃がんの患者会やってましたから医療者とのつながりもあるので、ご相談しながら、自分で勝手に決めたわけじゃなくて、ご相談しながら決められたっていうのはすごく大きかったと思いますけど、このそもそもの元は夫の時に世の中にがん診療連携拠点病院(等)とそうじゃない病院があるんだとか、それからつながった医療機関によって示される選択肢に差がある・格差があるっていうことがとっても悔しくて。
轟 そのことを解消したくてうちの夫は患者会を作ったっていうことがあったから、そのことが私を…今の私の支えになったっていうことでしょうかね、救ってくれたって私は思いましたこの時。

岸田 リンパ節に転移が判明していく中で、なので、それでまたステージ4の告知を。これはまた違う病院で受けられている?
轟 そうですね、がん専門病院。今治療を受けているがん専門病院で受けました。
岸田 だからしっかりちゃんと病院を先生と相談して決められていって。
轟 そうですね、それと生検をして、本当に胆嚢(たんのう)がんであるのか?他に原発があるかどうか?ということも含めて、きちっと最終的な診断をするために必要な検査を生検も含めてして、そして10月の2日ですね、胆嚢(たんのう)がんのステージ4で多発性リンパ節転移が伴っているっていうことを改めて言葉ではっきりと聞きました。
岸田 そんな中でなんですよ。ただステージ4の告知にもかかわらず、めちゃくちゃフラットな状況が轟さんには続いているんですけれども。これ下がらないんですね?もうそれだけ転移してて、ステージ4って分かっても轟さんの中では?
轟 まあ…今から思えば、多分ポジティブっていうのは楽しいとか嬉しいとかっていうんじゃなくて、車の運転で言うとギアをグーンと上げていくっていうのが、自分の中のこの山が上がってるところなんですよね。
轟 それでこの後、実は希望の会を解散してigannet(胃がんネット)っていうのに形を変えるっていう、それはさっき私が言っていた還暦の時から考え続けてきたことを実行するのが11月、それが胃がんの啓発月間が11月だったからで、もう決まってたんですよ。
轟 なのに私が10月にこのがん告知を受けたっていうことで、あまりにもできすぎたタイミングっていうか…で、そのことが、私ががんになったから解散するんじゃないっていうことも含めて、自分のギアをガッと高めて今まで考えてきて本当によかったって思ったり。
轟 ステージ4で転移があるっていうのは希望の会でたくさんそういう人に日夜接してましたので、どちらかというとこちらの情報にいつも囲まれていた、夫自体もそうだったじゃないですか?
轟 で、今から思うと変だなって思うんですよ、だからそのギアを上げすぎちゃったのかな?と思うんだけど、私ね、この時にホッとしたんですよ。
岸田 ホッとする、ほう!
轟 夫がホッとしたって言った時に何言ってんだ!?と思ったのに、ああこういうことか!と思って。私これで患者じゃないのにって言われないで済むということと、あの時の夫の気持ちがやっと分かった!っていうのと、本当の意味で私が今接している患者さんたちの気持ちがもしかしたら少し前よりも分かるようになったのかもしれないって。
轟 これがとにかくこの1年間、年明けの高額療養費の時から、桁違いだったってさっきお話ししましたけれど、私に何か起こってるのかが本当に怖かったんですね。この12年前の夫がスキルス胃がんと言われて、火事になって母を亡くして、そしてそれだってすごいことだと思うのに、今年になってどうして私にこんなことが起きるんだろう?桁違いの要望活動になってって国会に呼ばれたり総理に会ったり、なんで私の人生にこんなことが起きるんだろう?っていうことへの答えが、伏線回収じゃないですけど、ここに私の定めがあったのか!ってなんか思った。
岸田 いやあ〜!そう結びつけるのすごいですね!なかなか…なんでこんなに理不尽なんだ!みたいな感じで思うことの方がね、思う気がするんですけれども。
轟 それ、還暦すぎてたってのが大きかったかもしれません。
岸田 やっぱ還暦か〜!
轟 私ね、10年前だったら違ってたんじゃないかな?って思うことがあって。だからよくがんも私の会にも、いわゆるAYA世代っていう方たち多いし、例えば同じ何がんのステージ何々っていうのが同じでも、その人が置かれている背景とか状況とか、その人が…年齢ですよね、年代によって、たとえ同じ人だって感じ方は全然違う。
轟 私は子育ても終わってたし、還暦を過ぎているし、自分でこうやって、どうやって人生を着地させようって思ってた時だったから、そういうふうに受け止めたんだと思います。
最初に体に入った薬は、キイトルーダだった
岸田 そんな受け止めね、ほんとね、轟さんすごいな〜!と思うんですが。その中で告知と同時に、実は次こちら、はい、治療にも入っていくということで、薬物療法。これは抗がん剤とかの治療に入っていくんですか?
轟 そうですね。この10月2日に告知を受けたっていう話をしましたけれども、実はその告知を受ける、多分がんだろうって言われてから告知を受けるまでの10日間ぐらいに、いわゆる高熱を出し始めて。これが腫瘍熱っていうがんによる炎症が原因の熱で、本当に毎日つらい状態だったんです。
轟 で、腫瘍熱だと思うからその熱を下げて検査に来てっていうような、お薬の解熱剤で下げていく、それも本当につらかったんですけど、そのような状態だったので、医療者から、担当医からきちっと診断がついたらもうすぐに薬物療法を始めますって言われて。実はこの正確な診断を言われたその日のうちにもう席が用意されていて、薬物療法するからねっていうのは決まってたんです。
岸田 だからもうこの日にやられていくんですね?
轟 この日にしました。
岸田 GCP療法、ちなみにどういう薬?
轟 Gがゲムシタビンです、Cがシスプラチン、PがぺムブロリズマブのPで、これは分かりやすい名前で言うとキイトルーダですね。まさに今年高額療養費の引き上げの時に国会でもオプジーボやキイトルーダということが出てきて、そのことを総理とも話してるんですよ、私。
轟 だから、一番最初に私の体に入った薬物がキイトルーダだったんですね。それをこうやって見上げながら…なんていうのかな、ここでもこれが私の定めだったんだって思った…。
轟 だからこの時に、何とか受け止めようと思ってたんだと思うんです、今から思うとね。やっぱりショックじゃないなんてことないと思うんだけれども、自分を守るためにそうやってどこかいろんなスイッチを切って、これが私の定めだったんだこれが私の定めだったんだって何度も思ってましたね。
物を捨て、遺影を撮る——治療しながらの終活と断捨離
岸田 また副作用とか後でお話をいただこうと思うんですけど、その治療が始まっていく中で、そしてちょっとまた次上がっていくのは終活されていくっていうことで、やっぱりこれステージ4だからとかいろんなことを考えて?
轟 はい。私夫の真似をしてるみたいであれなんですけど、うちの夫も告知を受けた後すごい勢いで終活したんですよ!自営業だったんですね、個人事業主だったんです。お相手があることだから、もちろん自分が仕事を辞めれば収入がなくなってしまうっていうのは分かってたけど、別にびっくり辞職だったとかそういうことではなくて、自分に責任が持てないと。
轟 だから、今抱えているお仕事をとにかく責任を持って最後までやったらもう新しいお仕事は請けないっていうことを決めたり、あとは自分がいつかいなくなった時に家族が困らないように、これはこうやってここに連絡をするみたいなことをとにかくノートに書き始めて。
轟 電球が切れても絶対に変えてくれない、あなたがやりなさいって言って。自分がいなくなったらやってくれる人いないんだから、自分が見ているからあなたがやりなさいって。車の運転もそうでした。私は免許は持ってたんだけれども、高速走ったことなかった。夫の通院にもそれは必要になるってこともあったんだけれども、いきなり首都高を走らされたっていうことがあって。
轟 やっぱり夫も自分がいなくなった後に家族が困らないようにっていうふうな姿を私に見せてたんですよね。私はそれをすり込まれているので、とにかく私がいなくなった時に家族だけじゃなくて私の場合は、希望の会の人たちが困らないようにっていうことを思ってグワーンとまたギアを入れたっていうこと。
岸田 例えば就活で、轟さんの具体的な中で何かありますか?この就活で例えば…なんかこうマニュアルを作ったとかでもいいですし、お子さんたちにこういうこと伝えたでもいいですし、この就活の中で具体的にどんなことを?轟さんとしては?
轟 とにかく物を捨てた。
岸田 ほう!物を捨てた!
轟 うん。治療を始めてもちろん初回から体がむくむなとか、こういう洋服はもう着るとつらいなとかっていうことがあって、それでもう何ていうのかしら、前だったらもしかしたらまたそれが流行る時が来るかもしれないとか思ったかもしれないけど、私はもうこれは二度と着ない!とか二度と使わない!とか。
轟 あと正直言って夫のもので捨てられないものがたくさんあったんですよね。それが例えばね、病院で使ってた歯ブラシとかヒゲ剃りとか、そういうものだったの。
轟 それは私にとってはすごく大事なことなんだけど、自分の子どもたちにはそれを私が取ってるってことも知らなかったと思うでしょうし、だからそのことも含めて私は整理しなきゃいけないんだって思って、狂ったようにやってましたね!
岸田 断捨離を。
轟 断捨離をしてました、なんか、一睡もしないでやってた日もありました。
岸田 それはすごいですね!すごい!治療しながらね。
岸田 そこからギアを上がっていって、次こちらになりますね、希望の会解散やigannet(胃がんネット)の設立。これが先ほどおっしゃられていた?
轟 そうですね。希望の会は2017年から認定NPO法人っていうのになっていたので、それはとにかく希望の会は登録しているのが東京都なので、東京都に提出する書類っていうのがすごく多いんですよね。それに対して作ったりするのも自分だし保管するのも自分の自宅だし、事務所を構えているわけではないので、それを自分でやってきた。

轟 で、そのことを希望の会を大事に思ってくださる方たちはたくさんいたんだけれど、じゃあそのことをそのまま渡したら多分大きな負担になるだろうと思ったので、これは夫が作った希望の会をその家族である私が引き継ぐっていうところはなんとなく納得ができても、それを他の人の大きな負担にしてはいけない。
轟 もしその活動が必要なんだったら、今までつなげてきたご縁とか力になってくださる、私の場合は日本胃癌学会とか国立がん研究センターとかそういうところの先生方とつながったまま違う形を作ろうと思って、これはもう本当に数年がかりで準備して、11月に発表すると決まってたんだけど、私ががんだっていうことでそのせいだと言われないようにいかにこれをこう実行するかっていうのが私の目の前の一番の課題でしたね。
轟 ありがたいことにigannet(胃がんネット)を作って希望の会を解散するっていうことに関しては、私が思っていた・願っていた以上に、これは発展的に解散したんだっていうことで、形を変えたんだっていうふうにスーッとスタートすることができたなと思っているので。
轟 とにかくこの日を迎えるまでは!っていうところまでは、ワーン!とこう、そうですね、ギアも入れてアクセルも全開みたいな感じで。
岸田 すごいですね!治療のさなかね、新しい組織も設立、そして今までの会をね解散していって本当に大変だったと思うんですけれども。
岸田 はい…ね、本当なんか我々としてもスキルス胃がんだけじゃなくて、さまざまな胃がんのね、患者さんたちを見てくれるような、そういったあの患者会というかその患者をサポートするような支援する団体ができたんだなっていうふうなことでお見受けさせていただきました。
突発性難聴と疲労感——「やっぱり私、治療を受けてるよね」
岸田 そんなさなかですよ、ちょっとまだ下がってるのがちょっと怖いんですけれども、次こちら、突発性難聴と疲労感が…。
轟 はい。あのー…さっきから私ギアをトップに入れるとかアクセル全開でふかしてるとかって言ってましたけど、やっぱりこれが自分の定めなんだ、今頑張らなきゃ頑張らなきゃ!って思うことも、やっぱり副作用に意識が向かないっていうのかな、頑張らせちゃったんだと思うんですよ。

轟 だからその間、私、でも今でも大きな日常生活が送れないっていうような副作用を感じてるわけではないってことは非常にありがたいことだと思ってます。だけど、この希望の会解散とigannet(胃がんネット)設立をやり遂げた後に、あ〜やっぱり私治療を受けてるよねって。
轟 そうだよ、ゲムシタビンとかシスプラチンとか体に入ってるじゃないって思い始めて、その時に電車の発車のベルがすっごく音痴に聞こえたんです。なんだこれ!?と思って何これ?と思って、他の音も全部不協和音に聞こえるようになって、で、耳鼻科に行ったら難聴になってます。
轟 その時に、これもしかしたら副作用なんじゃないか?と思って調べたら案の定耳の聞こえって。あんまりそういうことは私意識してなかったんですよね。あっ、これも副作用の一つなんだ!と思って、本当だったらステロイド投与だったんだけど、これステロイド投与って、服用するとか投与されることががん治療に影響するのは嫌だからちょっと待ってくれって言って、担当医に連絡をしてそれは体内にそういう形で入れない方がいいっていうので鼓膜注射っていう、耳の中に注射をするっていうのを数回受けました。
轟 で、その辺りから、もちろん蓄積もあるんだと思うんですけど結局全開で動いてるじゃないですか?その疲れがドドドドーンってきたっていうのが11月の末ぐらい。
岸田 もうつい最近です。
轟 つい最近です。ドッスンと落ちましたね。
岸田 ドッスンと落ちて、そして今ちょっとプラマイゼロの状態まで今持ってきてくださっているということなんですね?
轟 そうですね。私これも知っていたからということもあるかもしれませんけれど、一番最初にもう自分からメンタルを支えてくれる人・存在が、場が欲しいと思って、精神腫瘍科にかかりたい、精神腫瘍科にもう最初の時からかかりたい。治療がうまくいってても、それをかかっていたいっていうことで。
轟 結局自分でいろいろコントロールしちゃってた、自分の中の本当は感じていた痛みとかそういうものをやっぱり行くたびに吐き出すことができたんですよね。その中で、轟さんそれすっごい普通のことで、逆に今まで感じなかったっていうのはものすごい衝撃があってその痛みにこう集中してたからで、そのことがだんだん慣れてきたっていうか収まってきたら、実はここも痛かったっていうことに気がついていくっていう。
轟 だから自然なことなんですよって、あなたが別に弱いとか何かが悪くなってるとかそういうことじゃないっていうのを言っていただいたことで、そっか!私がん治療してるんだもんねって自分をやっとフラットに。
岸田 ようやくね、そっかあ。じゃあもう最初の方から精神腫瘍科みたいなところ、心身の不調が半端ない、血液検査・がん告知されたぐらいからは?
轟 かかってたんですけど、後からね、この時に先生言われたんですけど、なんかね、轟さんの講演聞いてるみたいな。あの診療に行くと、私今こういう状態でこういう状態でってなんかすごく分析して、それが理路整然としてて、ああそうですか〜本当そうですね〜。全然そこに違和感はないですしあなたがそう思ってるんだったらそうなんでしょう、ずいぶん整理されてますね〜みたいなことを言われてたんですね。
轟 もともと知ってる仲ではあったっていうのもあるんですけど。それでやっと先生が、やっと自覚したか!みたいな(笑)
岸田 自覚してね。はあ〜そっか〜!ようやくね、それで今ちゃんと自覚してフラットな状態に今戻ってきていただいてというふうなこのペイシェントジャーニーでございました。ちなみに今治療的には続いてるんですよね?
轟 続いてます。今度のクリスマスの日なんですけれども、このぺムブロリズマブっていうのを今まで3週間に1回投与っていうのを6週間に1回投与というのに変えるので、投与量が増えるからそれでどうなるのか?というのはありますけど。そのことで今どうなるのかな?という不安はありますけど。
岸田 今がん的には腫瘍はどうなっているんですか?
轟 効果があって、腫瘍マーカーも正常値になっているし腫瘍自体は小さくなっている。
岸田 小さくなっているんですね!
轟 小さくなっているっていう、消えてはないですよ、でも小さくなっているっていうことは先生に言われていて。急に最近、私ちょっと時々落ち込むんですよね〜とか言っても、普通普通…って言われて(笑)落ち込むんですよね〜ぐらいだったらそういう日があっていいと思いますって言っていただいているような状況でした。
岸田 じゃあ、今はがんの治療が奏効していて、今がんは小さくなっていてまだまだがんは残っていてっていう。この治療はずっと続くってことですね?
轟 そうですね、続けられるといいなと思ってます。
知識があったから迷わなかった——SDMで決めた治療方針
岸田 というふうな今の状況でございました、ありがとうございます。そしてここからですね、さまざまな各項目に分けて7〜8項目ちょっとお伺いしていくんですけれども。
岸田 まず病院や治療の選択といいまして、どのように病院を選択されていったのか?SDMというシェアード・ディシジョン・メイキング、医療者の方と一緒にがんの治療法を決めていこうという流れがあるのかなと思いますが、それは轟さん的にはどうでした?SDMはできていましたか?
轟 できていたと思います。自分の価値観というか、こういう時にはがん専門病院に行きたいとか、もしかしたら治験とかそういうことも選択肢になるかもしれないからっていうようなことも伝えて決めていきましたし、胃癌学会の先生、胃癌学会の先生方たちは肝胆膵の治療には関わってない方が多いんですけど、でも相談に乗ってくださって、そうでいいんじゃないかとかっていうようなことは声をかけてくださったりもしたので。
岸田 じゃあ、轟さんのまず病院のその選択に関しては、いつも行っているクリニック内科のところから大きな病院に行きまして、そこでいろいろ検査をして、がんじゃないか?ということでがん専門病院に行くじゃないですか?その病院に関しては紹介されたところに行っているのか、轟さん自身でいろいろ調べて選択されていくのかというと、どうですか?
轟 私が調べたというよりは、今までの日々の中での関係で、ここの病院だったらっていうことの知識で選んだということですね。
岸田 じゃあ次、治療に関しては医療者の先生、主治医の先生以外にもいろんな先生にもちょっとお話をお伺いして決めていった?
轟 いえ、もう治療は…もうこれっていうことを言われた時のGCP療法っていうことに関しては自分でも何を言われているのかが納得できたので、これはやっぱり夫が告知された時と全然違ってましたね。知識を持っていたから、あっ、分かりましたということで。
岸田 じゃあここに関しては、轟さんもいろいろ知識あったから何も迷わず決めていけたということですね?
轟 はい。
ウィッグ選びは銀座で——副作用との付き合い方
岸田 じゃあ次こちら、副作用や後遺症のことといたしましていろいろお話を、ちょっと次副作用や後遺症のこと聞いていきたいんですけれども、抗がん剤治療GCP療法されていった中で、副作用や後遺症いかがでしたでしょうか?
轟 まず例えばシスプラチンとか…すれば脱毛するとか吐き気とかいろいろなこと、お薬も渡されるし、来るぞ!って思って待ってたことはそんなには起きてない。
岸田 そうなんですね。
轟 ですね。だけれども、耳にもくるのねとか、今一番思っているのはこの疲労感とともに時々気力がプツッと切れる時があって、それで私どうしてこんなにぼーっとしてるんだろう?と思う時があるんですけど、それもよくよく見たら副作用の中に入っているから。
轟 だから、自分で勝手に決めちゃうんじゃなくて、なんか自分が前と違うなって思うことはちゃんと伝えていった方がいいんだなと思って、日記みたいなのにもつけてますし、診療時間内にも必ず伝えてます。
岸田 そっか、だってあれですもんね、轟さんその副作用全部見て分かってるわけじゃないですもんね?
轟 そうです、はい。何が起きるか分かんないじゃないですか。
岸田 ちなみにあれですか?髪の毛も抜けていって?
轟 はい、今これはウィッグです。
岸田 ウィッグされてみてどうです?今まではウィッグされている方とかを接して見られていってっていう感じですけど、自分でやってみてウィッグ。
轟 自分が思っていた以上に、そんなに他の人から気がつかれなかったりとかするんだなっていうのは。
岸田 多分今日の方もね、轟さんがウィッグっていうのを気づいてない方もいらっしゃったんじゃないでしょうかね。
轟 最初はなんかそういうことに関しても、なんかオシャレなんだって思って気持ちを上げていこうみたいな気持ちも働いてたかもしれないです。
岸田 轟さんのウィッグを決められたのはなんかそういう自分で見に…ウィッグの会社さんに行って購入されたんですか?
轟 はい、いろいろな体験談を聞くことが多かったので、自分がそういう時にはここに行こうという、評価が高いなって思ってたので決めてたところがあったので、一発でそこに行って。
轟 もちろんそこに、皆さんの評価がすごく高かったから私もそこで相談しようということは思いました。もう一つは銀座にあったんです。帰りに木村屋のアンパン買って帰ろうと(笑)
岸田 そういうことね!大事大事!やっぱ自分のご褒美じゃないけど。
轟 位置的にって思って決めました。
岸田 ありがとうございます。
「母を悲しませたくない」——治療を決めた理由
岸田 そしてですね、次、ありがとうございます、家族のことについてもちょっとお伺いしていきたいなと思っております。お子さんのことは後でお伺いするので、この家族っていうのは哲也さんのお母様のことだったりとかそういったところをお願いできますか?
轟 具体的には階下に住んでいるっていうことで、自分のことは自分でするっていう、高齢…90歳超えて高齢ですけど(義理の)母はそういう人なんですね。お互い支え合いながら。で、私の活動をとにかく応援してくれたっていうのは母が一番だったと思います。
轟 だから私ががんに罹患した時のショックっていうのがすごくって、今までいろんな若い人を見送ってきた経験があった。実は私が治療しようっていうふうに決めたのも母がいるからっていうのは大きかった。私が母を見送らなきゃっていうようなことで、母を悲しませたくないっていう気持ちがありましたね。
岸田 そのためにも治療を頑張ろうっていうことを思われていた。なのであれですよね、轟さんの義母ということですね?
轟 そうです。
絶妙な距離感で接してくれる長男夫婦と長女
岸田 一緒に階下には住んでおられて、そのためにも治療をしていたということですね。そしてお子さんのことについてもちょっとお伺いをしていきたいなということを思います。長男夫婦・長女さんがいらっしゃる?
轟 そうですね、2人とも30も半ばで、それで長男のお嫁さんは中国の方なんですね。この3人がとっても絶妙な距離感で、自分の父親を見送ったその時からお嫁さんも知っていたので。
轟 その時の経験があるのか、とにかく揺らがないでいてくれる。私がとにかく急にアクセル踏んじゃって終活を始めても、私ちょっと遺影撮ってくるわとかって言っても、はいはいとかって言って、まあそういう母親だしねっていう感じで。そんなこと言わないでとかそんなことしないでみたいなことを言わないっていう。この姿を見て、私は12年前の自分を反省してます。
岸田 その時はね、その時は一生懸命でしたもんね、轟さんとしてもね?
轟 まあそうですけどね。だからすごくこの普通に接してくれるっていうことが、どんなに力になることなのかっていうのを今自分が当事者となって家族から学んでるってことですね。
岸田 じゃあ子どもたちに伝えてももう分かってくれる反応というか、今も普通に接してくれてるってことですね?
轟 はい、そうです。
「ここまでなら責任を持てる」——当事者になって変わった引き受け方
岸田 ありがとうございます。そして次こちら、仕事のことといったところになるんですけれども、仕事っていうか轟さんの場合活動にはなるんですけども、その中で活動、igannet(胃がんネット)設立だったりだとか、今どうですか?その治療していく中で皆さんね、自分だけではなくてigannet(胃がんネット)に関しては…だってなんでしょう、igannet(胃がんネット)代表になる?
轟 代表理事です、私が。やっぱりそれはスムーズに移行するっていうことと、それから力になってくれるアドバイザーっていう医療者の方とか専門家の方たちをたくさん同意していただいたので、そのことに対しても私が最初スタートのところは責任を持ってつなげていくべきだと思って代表理事になってますけれども。
轟 ただ還暦の時から考えていたように、私はその環境を作ってそれを支えてそこで活動する次の世代の人たちが安心できる場を作りたい、それが私の役目なんだって思っているので、多分いろいろなことへの関わり方は変わってくると思います。
岸田 なので、また轟さんが今代表理事ですけれども、また引き継ぐこともある?
轟 それは引き継ぐって決めているので。そこが本当に大きいことなんですけど、自分が責任を持てるっていうことの範囲っていうのが今までと違う。例えばこういうところでお話をしてくださいってオファーが来ても、その時がすごく先だったらその時自分がどういう状態でいるか分からないじゃないですか?
轟 それを今までは自分が普通に受けてたけれども、やっぱり自分が治療を受ける身になった時に、ここまでだったら責任を持てるかな、でもここはできないなと思ったら違う人にそれは渡していくっていうのも一つの責任だなっていう考え方になっているのは違うと思います。
岸田 っていうふうな形で関わられているということですね。ありがとうございます。
自動精算機で「えー!!」——高額療養費制度を、当事者として使う
岸田 そして次こちら、お金や保険のこととしまして、ロミさんね、今どうやって治療費賄っていくのか?とか保険入られていたのか?民間の保険とかね、そこらへんの普通だとちょっと聞けないところかもしれないんですけれども。毎回がんノートでお伺いしているので、ロミさんのお金事情聞いていきたいと思いますが。治療費、民間の保険は入られている?
轟 はい、民間の保険に夫ががんに罹患した時に私自身も保険を見直して、その時に外来が多いとか、でもずっと外来かどうかも分からないじゃないですか?だから一時金をもらえるものにしようと思ってそういう形態を選んだり。
岸田 民間の保険入られてた。
轟 もちろんがんだけじゃなくていろいろな何が起きるか分からないという経験を人生でしてきているので、そういう時に子どもたちが困らないようなものを考えたりしましたね、相談しながら。
岸田 そういったものを活用しながら今の治療費を賄っているのか?それとも貯金を切り崩しているのか?ちょうどね、高額療養費制度のこともされている中で治療して今いっていますけれどもどうでしょうか?
轟 もう、この12年間、10年前に私教員を辞めたので、そこから固定給は全然ありませんし、夫も個人事業主だったから、だからいろいろな意味で貯金というか退職金とかそういうのを切り崩してここまでやってきたっていう厳しい状況はありますね。
轟 ただ高額療養費制度を使っているっていうのは、一つ今高額の薬剤を使っているからですけど、それでもやっぱり請求額を見た時に…だって何万ってのが来るわけじゃないですか?
岸田 そうですね!
轟 それも人じゃなくて自動なんとか精算機。
岸田 そうですね。
轟 あの時が一番具合が悪くなる(笑)えー!!ってなって(笑)
轟 そうだからもう本当に、この高額療養費制度のことを頑張ってきてよかったなと思うし、今後もこれもう…なんで引き上げることが前提なのかな?っていうことを思う。今のこれが本当にセーフティーネット…、ありがたい制度ではあるけれども、やっぱり今だってキツいっていう声があれだけ届いてたっていう中ですごく…できることはやっぱりやっていこうって思います。
岸田 じゃあ今その民間の保険も活用しつつ、貯金も切り崩して何万っていうのを毎月支払っている?
轟 そうです。
岸田 っていうことですね。そっか、それで全然なんかあれなんですけど、それで全然続けていけそう?
轟 うーん、どれぐらい生きられるかっていうのか分からないけれども、その中で考えていくしかないですよね。
岸田 自分のある中でね。
轟 そう、だから今はとにかく先のことを考えるよりは、今自分がどう毎日を生きるかということに焦点を持っています。
支援はプッシュ式に——平気そうに見える人ほど
岸田 ありがとうございます。そんな次にこちらですね、つらかったこと。大変だった時タイミングって今のお話の中でいろいろこうあったと思うんですけれども。
岸田 ただこの治療の中でも、治療というか今までの中でもやっぱり前半にね、つらいことがたくさんあったっていうところで、そこと比較すると今の治療って言ったところの程度っていうのは、つらさっていうのはそれよりは上がっている部分にはなるのかなと思うんですけど。
岸田 この中で心の心身の不調が半端ないところからここになっていく中で、一番大変つらいっていうのは轟さんの中で、がんの治療に限って。
轟 治療に限ってですか?あの…一人なんだなっていう…(笑)夫の時は全部私付き添ってたから。だから告知を受けるのも何もやっぱり一人なんだなっていうのはつらいというか、それが現実で生きてきたからそうなんですけど、一人なんだなっていうことはつらいと言えばつらいですかね。
岸田 けどその、一人なんだなっていうのもね、だって…これ解決するとか?
轟 いや、解決はしないんじゃないですかね。だからやっぱり支援っていうのはプッシュ式に、助けてって言った人につなげるんじゃなくて、やっぱり平気そうに見えてる人がつらいって思ってることを出してないだけで、まだ頑張れると思ってるだけかもしれないからいろんな支援っていうのはプッシュ式につながれるようにした方がいいなとは思ってますけどね。
「気持ちがいいものしか置かない」——断捨離とマットレス
岸田 そして次こちら、工夫したことなんですけれども、轟さんの治療いろいろさまざま経験されてきて、轟さんが今これ工夫してるよっていうことがあれば教えてほしいんですけどいかがでしょうか?
轟 とにかく日常生活の中で、自分が気持ちがいいと思うことしか身の回りに置かない・しないっていうのを決めてます。
岸田 だからまあ断捨離も含め?
轟 断捨離も含めて。
岸田 されている?
轟 はい。
岸田 身の回りの轟さんの気持ちがいいものっていうのは?
轟 うーんと…マットレス買いました(笑)
岸田 大事!マットレスね、寝る時に気持ちよくならないとね!
轟 そう、まずなんか転がれるような部屋にしようと思って、転がれるような場所を作ったりとか。
岸田 マットレスを買ってそういう気持ちのいいようにしていると。
轟 はい。
「責任を持つ」の意味が変わった——自分のエネルギーに合うことをやっていく
岸田 そして次こちら、がんになる前と後で変わったこと。死生観もそうですけれども、なんか轟さんの中で、何かこれ変わったなっていうのはありますか?
轟 さっきの仕事の仕方で自分が責任を持つっていうことはどういうことなのかっていう、あきらめないとか続けるっていうことに向かうっていうことだった自分が、その責任を持つってのはどういうことなのか?っていうことを考えたっていうことと。
轟 それから自分を保つっていうもののためには、とにかくさっきも同じこと言いましたけど、自分の周りに雑念が湧くようなものは置かないことっていう。人との関係もそうですし、いろんなことを削ぎ落として今の自分のエネルギーに合うことをやっていこうって思うようになったのは変わったことだと思います。
岸田 先ほども心地のいいっていうのがありましたけれども、そういうふうにちゃんと自分からもやっていってるってことですね。
「スーッとフェードアウトしたい」——次の世代の土壌になるために
岸田 そして次こちら、最後の項目になります、今後の夢や目標っていったところなんですけれども、轟さんの今後どうしていかれますか?
轟 希望の会を解散してigannet(胃がんネット)を作るっていうのが一つのこの数年来の還暦後の大きな目標であったから、その目標は一つ叶えられたと思っています。で、今の私の状況で夢っていう言葉は、ちょっと思い浮かばない。
轟 だけど、自分の中の生き方としての希望としては、こうやっていつかスーッとフェードアウトしていきたいなっていうような。その時に次の世代の人が、それを言葉にしなくても気づかなくてもいいから、私がやったりしたことが次の人にいい形での土壌となっていってくれたら、それはもう生きてきた甲斐があるっていうふうに思います。
岸田 はい、轟さんがフェードアウトできるタイミングがいつになるのかね。もうずっと存在感がありすぎるんで多分ちょっと難しいんじゃないかなと思いつつ、それが目標ということですよね。
「進むのも勇気、立ち止まるのも勇気」——“ごうひろみ”が見つけた言葉
岸田 という中で、ようやく最後の最後、こちらメッセージとなってきました。轟さんにですね、今日皆さんに向けて、治療中の方に向けて、さまざまな方に向けてですね、このメッセージをいただきたいなということを思います。

轟 自分に聞かせているのかもしれませんけど、メッセージとして、進むのも勇気立ち止まるのも勇気ということを私は送りたいと思います。私の名前って読み方によって『ごうひろみ』って読めるの分かります?
岸田 本当ですね!
轟 『ごうひろみ』でしょ(笑)それでこういうふうに考えるきっかけになったのは、実はね、ちょっと前数年前なんだけれども郷ひろみさんが、本当に体の意味でね、回転し続けることはできるんだよ、だけど年取ってできなくなるのはピタッて止まることって言ったんですね。で、深いなぁ〜!と思って。
轟 私どっちかっていうと猪突猛進で、もうあきらめない!もうとにかく隙間があったら足突っ込んででも開けて進んでいくんだ!みたいな生き方をしていくと、だから進む勇気っていうのは持ってたんですよ。
轟 だけどあっこれから…これからっていうかもう、でもやっぱり立ち止まるとか辞めるとか離れるっていうことが必要なこともあるって、それってなかなかできないんですよね。だけどそれが必要なこともあるよっていうのを、私にも今思っていることだけれども皆さんへもお伝えしたいなっていうメッセージです。
岸田 すごいですね!『ごうひろみ』からきているね。そんな轟さんの言葉を返すとね、いろいろ本当今までのこともすごく何でしょうね、哲也さんの時から、そして希望の会から、そして政府の要望から今に至るまでigannet(胃がんネット)設立進んだりだとか止まったりだとか、本当にされてきたんだなっていうことを改めてこの轟さんのお話を聞いて思いました!本当にありがとうございます。
岸田 轟さん、本当に今日長時間お話いただきましたけれどもいかがでしたか?
轟 いや、今本当にフラットな状態で本当に一人のがん治療をしているものとして皆さんの前でお話ができたっていうのはすごく私にとっては貴重な体験で。個人としての轟浩美として話せたっていうところからまた私はスタートしていくんだなと思うので、本当に今日は皆さんありがとうございました!
岸田 ありがとうございました〜!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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