目次
- ゲスト紹介テキスト / 動画
- 告知までテキスト / 動画
- 治療~現在テキスト / 動画
- 家族(親・きょうだい)テキスト / 動画
- 恋愛・結婚テキスト / 動画
- 妊よう性テキスト / 動画
- 仕事テキスト / 動画
- お金・保険テキスト / 動画
- 辛さ・克服テキスト / 動画
- 後遺症テキスト / 動画
- 医療者へテキスト / 動画
- 過去の自分へテキスト / 動画
- Cancer Giftテキスト / 動画
- 夢テキスト / 動画
- ペイシェントジャーニーテキスト / 動画
- 今、闘病中のあなたへテキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:菅原
- 「フルコース治療を乗り越えて」29歳発症・現在経過観察中の乳がん体験者が語る
- 夕食準備中の偶然が人生を変えた-3cmのしこり発見から乳がん告知まで
- フルコース治療への挑戦-手術・抗がん剤・放射線・ホルモン療法の8年間
- 家族のそれぞれの支え方-「1人にしない」という無言の配慮
- 5年後に始めた婚活体験-がん経験者への「配慮」という名の壁
- がん治療と妊よう性-「あのときの自分、頑張ったね」と言える決断
- 保育士として治療後復職-4時間勤務から始めた段階的復帰プロセス
- 治療費の現実-生命保険のみでは賄えなかった「AYA世代の経済的負担」
- 孤独からの脱却と身体的困難の克服-心理士とピンクリングの存在の大きさ
- 治療から数年経った今も残る後遺症-爪の痛みと薄毛への日常的な対処
- 医療者への感謝と提言-「寄り添い」がもたらす、患者への計り知れない力
- 過去の自分への「お疲れさま」-すべての決断を納得して進んできた8年間
- がんが教えてくれたこと-「毎日が奇跡なんだと知りました」
- これからの夢と活動-東北で仲間の輪を広げる取り組みと「楽しく過ごす」日常
- 8年間の軌跡を振り返る-告知から経過観察までの「ペイシェントジャーニー」
- 活動の核心「ここに仲間がいるよ」というメッセージ
「フルコース治療を乗り越えて」29歳発症・現在経過観察中の乳がん体験者が語る
岸田 本日のゲストは菅原さんです。よろしくお願いします!
菅原 よろしくお願いします!
岸田 早速ですが、自己紹介をお願いします。
菅原 はい。菅原.Yと申します。M県の田舎に住んでいます。現在37歳で保育士をしています。乳がんを発症したのは29歳のときで、今は9年目に入り丸8年が経ちました。治療は一通りフルコースで受けて、現在は経過観察中です。よろしくお願いします。
岸田 ということで、菅原さんはM県からご参加いただいているわけですが、M県はもう寒いですか?
菅原 寒いですけど、今は半袖で頑張ってます。朝晩は特に冷えますね。
岸田 寒いけれど、心はあったかいということで(笑)。半袖で頑張ってくださってますけど、その半袖ってイベントか何かですか?
菅原 はい。「ピンクリング」と書いてあって、若年性乳がんの患者支援団体のものです。
岸田 なるほど、所属されているんですね。その話も後ほどじっくり聞ければと思います。
夕食準備中の偶然が人生を変えた-3cmのしこり発見から乳がん告知まで
岸田 では早速、本題に入っていきたいと思います。菅原さんの闘病経験談ですね。先ほどの自己紹介でもお話がありましたが、告知を受けたのは29歳のとき。しかも手術、薬物療法、放射線、ホルモン療法と、いわゆるフルコースの治療を受けられたと。現在は経過観察中ということです。今日は、その29歳のときにどうやってがんが発覚し、告知に至ったのか、順を追って伺っていきたいと思います。
2014年4月から保育士として働かれていたのですか?
菅原 あ、保育士として働き始めたのはもっと前ですね。卒業してすぐからです。
岸田 なるほど。2014年4月というのは「がんが分かった年」という意味で記録されたんでしょうね。そして2014年11月、左胸にしこりを感じたとあります。どうやって気付かれたんでしょうか?
菅原 夕食の準備をしていて、食器を運んでテーブルに置いたとき、急いでいたせいで右腕が左胸にぶつかったんです。そのときに「痛い」と思って、触ってみたら自分でも分かるくらいのしこりがありました。
岸田 なるほど。かがむくらい痛みを感じるほどだったんですね。
菅原 はい。私の場合はしこりが3センチくらいあったので、その大きさもあって気付いたんだと思います。しかも腕をぶつけた反動が強かったので、「弁慶の泣き所」をぶつけたような鋭い痛みが走って、それで違和感に気付きました。
岸田 足の小指をぶつけたときの「痛!」って感じ?
菅原 そうです、まさにそんな感じです。触ってみると、ガラスに吸盤がぴたっとくっついているような感触があって、「あ、これはおかしい」と直感しました。
岸田 それまでは全然気付かなかったんですか?
菅原 全く気付きませんでしたね。毎日シャワーやお風呂に入って洗っているはずなのに…。私はあまり丁寧に時間をかけて体を触るタイプではなくて、ちゃちゃっと済ませてしまうので、それで気付かなかったのかなと思います。
岸田 なるほど。しこりはどの辺りにあったんですか?
菅原 左胸の脇の下寄り、乳がんが最も発生しやすい部位だそうです。そこに3センチくらいのしこりが皮膚にくっついているように感じました。
岸田 最初に触れたとき、痛みよりも「やばい」と思ったんですよね。
菅原 はい。本能的に「これは普通じゃない、異物だ」って感じました。血の気が引いて、「明日、病院行かなきゃ」と即座に思ったのを覚えています。
実は26歳と27歳のときに母の勧めでマンモグラフィーを受けていて、そのときは何も見つからなかったんです。でも2013年は忙しくて検診に行けず、翌年の2014年に自分でしこりを発見しました。それで以前受診した病院に行ったんです。
岸田 なるほど。乳がん検診は国の推奨では40歳以上からですし、2年に1回でも十分とされている中で、菅原さんは比較的早い段階で検診を受けていたわけですね。でもそこでは見つからず、翌年にご自身で気付かれた、と。気付いたその日に病院へ行ったんですか?
菅原 はい。予約などせず、仕事を休んでそのまま地元の総合病院へ行きました。
岸田 なるほど。その病院で「乳がんの告知」に至るわけですね。流れを教えていただけますか?
菅原 まずマンモグラフィーとエコーを受けて、その後、針生検をしました。太い針で細胞を取る検査で、「ガチャン」とホチキスのような音がするんです。2週間後に結果を聞きに来てください、と言われました。
岸田 じゃあ、そのままガチャンと検査を受けて、その後2週間待つわけですが、めっちゃ不安じゃなかったですか?
菅原 不安過ぎて、仕事から帰ったらずっとDVDを見てました。自分の頭の中をDVDで洗脳するようにして。
岸田 考えないようにしてたんですね。
菅原 そうです。眠くなるまでひたすらDVDを見てました。精神的には大変だったと思います。考えないように誤魔化してましたね。
岸田 でも考えれば考えるほど怖いからね。そんな中で、保育士さんだから子どもを抱っこしないといけないじゃないですか。胸は大丈夫でした?
菅原 うちの家族や親族に乳がんの人はいなかったので、「乳がんではないだろう」と思って普通に仕事してました。だから特に気にしなかったんです。それに、職場の同年代の人たちとプライベートでも仲良くしていて、検査を受けてることも話しながら働いてたので。子どもを抱っこすることについては、あまり気にしてなかったと思います。
岸田 じゃあ、ぶつかったりして痛いことはなかったんですね。
菅原 そうです。
告知の瞬間「まるでテレビドラマを見ているみたい」だった心境
岸田 よかった。それで、検査から2週間経って、病院へ行くんですよね。
菅原 はい、行きました。
岸田 そして?
菅原 仕事帰りに1人で行ったんです。でもなかなか名前を呼ばれなくて。待つのに飽きた頃に「結果がまだ出ていないので、もし土曜日に出ていたら電話します。その場合は月曜日に来てください」と言われたんです。なのでその日は一旦帰りました。
岸田 なるほど。
菅原 土曜日に母と車に乗っていたときに病院から電話があり、「結果が届いたので、月曜日にご家族と一緒に来てください」と言われました。そのとき私は、「あ、これもう乳がん確定だな」と思いました。病院の人も、私が1人で聞きに来るとは思ってなかったのかもしれません。だからワンクッション置いたんだろうな、と。
岸田 金曜日に「この子1人で来ちゃった」って思われたんでしょうね。
菅原 そうだと思います。だから土曜日に「ご家族と一緒に月曜日に来てください」と言われたんです。電話を切った瞬間に、運転していた母に「もうこれがんだから。月曜日、一緒に来てね」って伝えました。気丈に振る舞いながらも、「家族に来てほしい=がん確定」だと思っていました。
岸田 さっきまで2週間DVD漬けだったのに、いきなり気丈に振る舞えたんですね。
菅原 DVDを見てたのは自分の部屋だけで、家族には悟られないようにしてました。家族の前では「大丈夫だから」と気丈にしてました。
岸田 なるほど。月曜日はお母さんと一緒に病院へ行って、そこで乳がんの告知を受けたと。どんなふうに伝えられたか覚えてますか?
菅原 覚えてます。「残念ながら乳がんでした」と言われて、母の顔を見た瞬間に「あ、青い」って思いました。進行が速いがんなので、すぐに菅原市の病院に行ってください、と先生に言われたのを鮮明に覚えています。細かい説明は覚えてないんですが、その言葉だけははっきり覚えています。
岸田 お母さんは真っ青だったんですね。
菅原 本当に青い顔をしてました。
岸田 そのとき何て声をかけたか覚えてます?
菅原 覚えてます。診察室を出てすぐに「がんって言われたけど、治療すれば大丈夫だから。そんな顔しないで。大丈夫だから」って言いました。
岸田 気丈に振る舞ってたんですね。でも内心は動揺していた?
菅原 診察室に入ってからはずっとドキドキしてました。告知を受けた瞬間は、自分のことなのに、まるでテレビドラマを見ているみたいで現実感がなかったんです。
岸田 なるほど。そこで紹介状を書いてもらったんですね。
菅原 はい。その病院は外科で乳がんの手術もしていたんですが、年齢的なこともあったのか、専門の乳腺外科がある菅原市の総合病院を紹介されました。
岸田 当時29歳でしたからね。そういう背景もあって専門の病院に行くよう勧められたんですね。こうしてがんが分かっていったということですね。
フルコース治療への挑戦-手術・抗がん剤・放射線・ホルモン療法の8年間
岸田 ここからは、治療から現在まで、どういうふうに進んでいったのかをお伺いしていきます。それではまず、2014年12月の術前抗がん剤治療。もうすぐ治療が始まったんですね?
菅原 そうですね。11月の誕生日の10日後くらいに告知を受けて、そのまま11月中には紹介状を持って受診しました。検査を経て、12月の初めには抗がん剤の予約を入れました。術前の治療ですね。
岸田 先生から治療の説明も最初にすべて聞いて、そのうえで術前抗がん剤が12月からスタートするスケジュールになった、と。抗がん剤を始めるとき、不安はなかったですか?
菅原 一番心配だったのは、やはり脱毛でした。
岸田 やっぱりそこですよね。脱毛、不安はあったけれど実際に起こった、と。2015年1月、脱毛が実際に起こってきたわけですが、そのときの心境を教えていただけますか?
菅原 そのときは「髪がなくなる」という未知の世界への恐怖しかありませんでした。抗がん剤の副作用全般よりも、とにかく「脱毛って何?」という不安が大きかったですね。
岸田 実際にはどう抜けていったんですか? 少しずつ? それとも一気に?
菅原 少しずつですね。ただ、その前に──。私、初診のとき専門用語が分からなかったので、がん看護専門看護師さんに同席してもらいました。診察後に「あの言葉はどういう意味ですか」とか、「身近にこういう人がいたけど私も同じですか」とか、いろいろ質問していました。…あれ、なんでしたっけ、質問(笑)。
岸田 「脱毛、どう抜けたか」です(笑)。
菅原 そうでした(笑)。はい。少しずつ抜けていったんですけど、同時に頭皮がすごく痛くなりました。
岸田 頭皮が痛くなったんですね。
菅原 そうなんです。シャンプーもできないくらい、頭皮に触れられない痛さでした。全部抜けるまで続いて、「今日は後頭部が痛い」「今日は右側」「今日は左側」と、日によって痛む場所が変わるんです。抜け方もまだらで、きれいに均等に抜けるわけじゃなくて。後頭部から抜けていったように思います。
岸田 円形脱毛症みたいな感じで抜けていったんですね。
菅原 そうです。ただ、その最中が痛すぎて、ウィッグを着けるなんてとても無理でした。
岸田 抜けるときに痛いっていうのは初めて聞きました。
菅原 本当ですか。
岸田 僕はシャワーでわっと抜けていったんですが、痛みはなかったですね。
菅原 私はシャワーのときが一番抜けました。でも頭皮が痛すぎて、家族には「絶対に頭に物を落とさないでね」と言ってました。右側が痛いときは右を下にして寝られなかったです。
岸田 そうなんですね。人によって違うんでしょうね。そのあと脱毛したのでウィッグを購入したんですよね?
菅原 はい。まず3000円くらいのウィッグを試したんですが合わなくて、別のものをもう一つ買いました。
岸田 2つ買ったんですね。
菅原 そうです。ただ、ウィッグのお店に入るのもすごく勇気が要りました。当時は「誰にも闘病が知られないようにしたい」という気持ちが一番大きくて。お店に入る前も「人がいないかな」と周りを確認したり、2回くらい通り過ぎてからやっと入ったこともありました。
岸田 それくらい人の目が気になったんですね。
菅原 はい。「こんな若い人がウィッグを買うのかな」と思われるんじゃないかって気にしていました。
岸田 ウィッグは専門店で買ったんですか?
菅原 はい、ウィッグ屋さんです。
岸田 最初のは締め付けが強かったんですよね。
菅原 そうなんです。1時間も着けていられないくらいきつくて。だから別のお店に行って、それなりの値段のものを買ったら大丈夫でした。人によって合う合わないはあると思いますが。
岸田 最初はおしゃれ用のウィッグで、次に医療用を購入したということですね。医療用ウィッグは数十万したんじゃないですか?
菅原 そうですね。本当に高かったです。
岸田 ファッション用は数千円から数万円でありますけど、医療用はかなり高いですよね。でも値段の価値はありましたか?
菅原 ありましたね。
岸田 なるほど。ウィッグを二つ購入されたということですね。
そしてその後、2015年7月に手術。術前の抗がん剤でがんが小さくなった状態で受けられたんですね。
菅原 はい。多少は小さくなったと言われました。
岸田 手術は全摘ではなく温存だったと。
菅原 そうです、温存でした。
岸田 手術はどんな感じでしたか?
菅原 手術時間はお昼に始まって夕方くらいに終わったので、半日くらいだったと思います。ただ、記憶が曖昧で…。
岸田 やっぱり自分の身体に傷が残るっていうのは、抵抗とかなかったですか?
菅原 そのときは「傷がどうこう」よりも、とにかく「生きるか死ぬか」しか考えてなかったので。だからあまり気になりませんでした。後になってからは傷跡が気になることもありますけど、手術で取れるなら幸いだと思っていましたね。
岸田 手術で取って、そのとき転移はなかったんですか。
菅原 はい。同時にリンパ節転移も確認したんですけど、幸いありませんでした。
がん治療中の心理的支援 専門家チームが連携したメンタルケア
岸田 部分摘出の手術を終えて、次に「緩和ケア」と書かれていますが、これはどういうことですか。
菅原 告知のときから、がん看護専門看護師さんに副作用の対処法などを相談していました。たとえば「民間療法を勧められたけどどう断ったらいいか」とか。手術後は心理的な悩みが増えてきたので、「心理士さんに相談してみては」と紹介されて、お話しするようになったんです。
岸田 なるほど。最初は看護師さんと話していたけど、心理的な相談が増えて心理士さんにつないでもらったと。けど、今さらっと言ったけど、民間療法って結構勧められたんですか。
菅原 ひとつだけでしたけど、勧めてきたのが職場の先輩だったので…。
岸田 うわ、それは断りづらいですね。
菅原 そうなんです。でも復職する予定もあったので、どう穏便に断るかを看護師さんに相談しました。
岸田 確かに、職場の先輩相手だとね。
菅原 そうなんですよ。心配してくださる気持ちはありがたかったんです。
岸田 そういうとき、僕たちはどうしたらいいんですか。
菅原 看護師さんにアドバイスをいただいたのは「心配してくださってありがとうございます」と感謝を伝えた上で、「今は専門の治療に専念するよう主治医に言われているので」と丁寧にお断りする方法でした。私は「お気持ちだけ受け取ります」と言って、機材はお返ししました。
岸田 なるほど。相手も良かれと思ってのことだから、その気持ちを受け止めてから断るんですね。ありがとうございます。
それで心理士さんのカウンセリング、実際受けてみてどうでした?
菅原 とてもよかったです。感情の整理を一緒にしてくれて、「そういう気持ちを持つことは悪いことじゃない」と言ってもらえる。何度も話す中で心が軽くなりました。やっぱり専門家に聞いてもらうのは全然違うなと思いましたね。
岸田 心が楽になることで、前向きに治療に取り組めたんですね。その後、放射線治療が始まったと。どのくらいの期間でしたか?
菅原 33回で、約1カ月ちょっとですね。月曜から金曜まで通って、土日は休みでした。
岸田 そのときは仕事はお休みしていたんですね。
菅原 はい。毎日通っていました。車で片道1時間弱かかったんですが、人に知られたくなかったので近場を避けて。母が送ってくれました。夏場で体力的にもきつく、帰ってきては寝てしまう日々でした。
岸田 大変でしたね。それで1カ月近く続けて、次はホルモン療法も始まったんですね。
菅原 はい。女性ホルモンの影響があるので、ホルモンを止める治療をしました。飲み薬と注射で。
岸田 そのときホルモン療法と経口抗がん剤は同時に?
菅原 そうです。放射線が終わったあと、ホルモン療法と経口抗がん剤が始まり、同時に仕事にも復帰しました。
岸田 ホルモン剤や抗がん剤の副作用はどうでしたか?
菅原 ホルモン療法では「ホットフラッシュ」といって急にほてる症状がありました。ホットフラッシュが来たときに、今、気のせいだ、で言い聞かしてやり過ごしていた人なので、ひどくないんですね、私、そんなに。それよりも、服用してた経口抗がん剤が、手足症候群っていうのがありまして、手足の先の所が、痺れてただけかな。
岸田 なるほど。
菅原 ちょっと訂正させてください。しびれていたのは点滴の抗がん剤のときですね。経口抗がん剤では「手足症候群」になっていました。特にひどかったのは足の指先、爪の周りです。歩けば歩くほど爪の周囲が化膿してしまって、整形外科に行くと「爪周囲炎」と診断されました。乳腺科の先生には「手足症候群」と言われるんですけどね。
歩くと悪化するのが恐ろしかったです。例えば1時間以上散歩すると、爪の横が赤く腫れて痛くなる。そういうときは化膿止めを塗ったり、テーピングをしてしのいでいました。
岸田 全部の爪に出たんですか?
菅原 一番体重がかかる親指や人差し指ですね。経口抗がん剤は3年ぐらいやっていたんですが、その間は毎朝起きてすぐテーピングをしていました。予防をさぼらなくても化膿するので、地味にずっと痛いんです。
岸田 歩いても痛いし、何もしなくても膿む。けれども化膿止めやテーピングで対処していた、ということですね。
菅原 はい、そうです。
岸田 最終的には抗がん剤が終われば治るんですよね。
菅原 はい。治ったと思ったんですが、今でも赤くなることがあります。靴の種類によってはまだ症状が出て、赤くなったら当時使っていた薬を塗っています。主治医には「抗がん剤の影響ではないかも」と言われていますが、私としては後遺症なんじゃないかと思っています。
岸田 副作用の出方は人それぞれですからね。菅原さんの場合はホルモン剤のホットフラッシュは軽かったようですが、強く出る人も多いです。
菅原 そうですね。
ピンクリングに初参加「30~40人の同世代の背中に感動」
岸田 ありがとうございます。最後のスライドに「ピンクリング、患者会に参加」と書かれていますが、このタイミングで若年性乳がんのコミュニティ「ピンクリング」に参加されたんですね。
菅原 はい。続けて話して大丈夫ですか?
岸田 もちろんです。なぜ参加されたのか教えていただけますか。
菅原 心理士さんと相談する中で、副作用のつらさに加えて、最後に強く残ったのは「孤独」でした。1年半くらいは自分でも気づけなかったんですが、同じ病気で同世代の仲間に会いたいと思うようになりました。最初は地元の乳がん患者会に参加していたんですが、もっと若い方と話したい気持ちが出てきて、携帯で検索して「ピンクリング」を見つけたんです。もともと私は用心深くて石橋をたたいても渡らないタイプでしたが、このときは「勢いで行こう」と思って参加しました。
岸田 行ってみてどうでしたか?
菅原 病院で開催されたイベントで、迷ってギリギリに到着したんです。ドアを開けた瞬間、30~40人の同世代の背中が目に飛び込んできて、その光景は今でも鮮明に覚えています。本当に感動しました。
岸田 「こんなに同世代の人がいるんだ」と。
菅原 はい。
岸田 そこから参加を続けられて、2016年1月には職場復帰。そして2017年9月には「ピンクリボン東北ブランチ」を発足されたと。
菅原 東京のイベントに参加して帰るたびに「地元にも仲間が欲しい」と思うようになって、代表や先生に相談して東北支部を立ち上げました。
岸田 すごい行動力ですね。
菅原 いえいえ。
岸田 その後、2020年9月にはホルモン療法が終了。今は経過観察中ということですね。
菅原 はい。抗がん剤はもっと前に終わっていて、ホルモン療法が2020年9月で終了しました。今はがんは取り切った状態で、経過観察中です。
岸田 ちなみに、がんのタイプは何だったんですか?
菅原 ルミナルBのHER2陰性です。
岸田 ありがとうございます。ホットフラッシュは、副作用で汗が滝のように出て止まらなくなることがありますよね。本当に大変です。
菅原 つらいですよね。
岸田 そうなんです。通勤の電車の中とかで、突然汗が滝のように出てきたりすると、周りからの目線も気になりますし、「この人どうしたんだろう?」って思われるようなこともあって、本当に大変ですよね。ありがとうございます。
それから、ホルモン療法では女性の場合、生理を止めることで更年期障害のような症状が出ることもあります。吐き気やだるさが続くケースもありますね。ただ一方で、「もともと汗っかきだったし、仕事で入浴介助もしていたので、よく分からないまま過ごせたのが逆に良かったのかもしれません」と話していた方もいらっしゃいました。やっぱり外に出たり、人と会ったりする中で、菅原さんも東京に行かれたりしましたけれど、皆さんそれぞれ工夫をしながら過ごしているのかなと感じます。
「自分じゃないみたいで嫌い」ウィッグへの複雑な感情
岸田 菅原さん、ここからはもっと気楽に。楽しい座談会のつもりで大丈夫です。良いことを言おうとしなくていいので、自分の思ったことをそのまま話してください。よろしくお願いします。
では、いただいた写真を見ていきましょう。まずは闘病前の写真です。これはどちらで?
菅原 楽天の応援に行ったときですね。
岸田 楽天の応援。2011年とか2012年くらいですか?
菅原 何て書いてあるかな…。でも多分それくらいですね。2011年じゃない気がします。3.11の前だったかもしれません。
岸田 イーグルスファン?
菅原 いえ、完全に雰囲気で行っただけです。すみません、当時はルールもあまり分からなくて、ただのノリで行ってました。今は分かりますけど。
岸田 そういう楽しみ方もいいですよね。カープ女子とか、女性のファンが増えることはプロ野球にとっても良いことだと思います。
菅原 どこの所属ですか?
岸田 あ、僕もなんか今日ちょっと路線が分からなくなってきました(笑)。
じゃあ次の写真に行きましょう。こちらは闘病中の写真ですね。説明していただけますか?
菅原 左はウィッグをかぶっている写真で、右は脱毛してニット帽をかぶっている写真です。ウィッグは正直めんどくさくて、帽子でごまかすことが多かったです。この左のウィッグ姿はかなりレアで。私、ウィッグを着けた自分が自分じゃないみたいで嫌いだったんです。鏡を見ても全然違う人に思えて、出かける前はいつもテンションが下がってました。だから自分ではウィッグ姿の写真をほとんど撮ってなかったんです。これは先輩が持っていて、送ってもらったものです。
岸田 僕から見ると自然に見えますけどね。
菅原 でも、職場で行事のときに挨拶に行ったりすると、廊下ですれ違っても気付かれないくらい違って見えたんです。
岸田 なるほど。ちょっと前の楽天応援の写真と比べても、確かに印象が変わりますね。
菅原 そうですね。ウィッグを買うときも、前髪があったほうが眉毛を隠せるからいいよって言われて、前髪ありを選んだんですけど…。
岸田 それが高いほうのウィッグ?
菅原 そうです。着け心地は良かったんですけど、髪型としては本当に嫌いでした。お店には申し訳ないんですけど。
岸田 ウィッグを気分転換に楽しむ人もいますし、本当に人それぞれですね。ありがとうございます。では今の写真を見てみましょう。
菅原 左は脱ウィッグして半年くらい経ったときの写真で、ピンクリボンのイベントに参加したときのものです。
岸田 ちょっとくるくるしてますね。
菅原 もともと天然パーマなんです。今日はアイロンしてますけど。髪は細くなりましたね。
岸田 右の写真は?
菅原 これは最近です。
岸田 すっかり大人っぽくなって。
菅原 担任の先生に成長を喜ばれてるみたい(笑)。ありがとうございます。
岸田 こうして過去から今までの写真を見せてもらいました。ありがとうございます。
ここからは一問一答形式でお話を聞いていきたいと思います。コメントもいただいていますね。Mさんから「乳がん治療真っただ中の私です。ウィッグが苦手でほぼ帽子で過ごしています」と。
菅原 私もちょうど冬だったので、ニット帽をかぶって買い物に行ってました。
岸田 いいですね。これからの季節はニットも似合いますし、僕もよくかぶっていました。ありがとうございます。
家族のそれぞれの支え方-「1人にしない」という無言の配慮
岸田 ではここから、一問一答形式でお話を伺っていきたいと思います。まずはご家族について。親や兄弟のことですが、お母さんは先ほど「隣で告知を受けたときに真っ青になっていた」とのお話がありました。お父さんはいかがでしたか?
菅原 父や兄弟には、帰宅してから伝えました。
岸田 兄弟は?
菅原 兄と姉がいます。
岸田 それぞれの反応はどうでしたか?
菅原 兄はもともと口数が少ない人なので、「そっか」くらいでした。姉は悲しそうな表情は見せませんでしたね。後から聞いたら、あえてそうしなかったと言っていました。
岸田 動揺を見せないようにしてくれていたんですね。ご家族にしてもらってありがたかったこと、また「もっとこうしてほしかった」と思うことはありますか?
菅原 ありがたかったのは「1人にしないようにしていた」と後から言われたことです。これは本当に感謝しています。「こうしてほしかった」というのは…特にないかもしれません。
岸田 なるほど。常に1人にしないように寄り添ってくれたというのは、とても心強かったですね。
5年後に始めた婚活体験-がん経験者への「配慮」という名の壁
岸田 では次に、恋愛や結婚について伺いたいと思います。罹患当時はどうだったのか、治療後にどのように考えるようになったのか。そのあたりをお聞かせください。踏み込みすぎていたら遠慮なくストップと言ってくださいね。
当時は彼氏さんはいらっしゃいましたか?
菅原 いなかったですね。
岸田 いなかった。治療中は恋愛や結婚を考える余裕はなかったですよね。
菅原 なかったですね。
岸田 治療が終わったあと、気持ちに変化はありましたか?
菅原 落ち着いて、髪の毛も生えてきて、5年くらいたった頃に「パートナーが欲しいな」と思って婚活を始めました。
岸田 婚活! 街コンとか?
菅原 いちご狩り婚活に行ったりしました。ただ、正直疲れてしまって「もう帰りたいな」と思ったこともありました。本格的に婚活しようと思って、お見合い相談所に登録したんです。
岸田 仲人さんがいるタイプのお見合い相談所ですね。
菅原 そうです。最初は紹介を受けたり、自分で選んだりしていましたが、1〜2カ月たった頃から「がんを経験した私には、同じように病気や障がいを持っている人のほうが合うのでは」と、仲人さんに思われているのかなと感じることが増えて…。
岸田 なるほど。菅原さんから見たら、「普通に」紹介してほしいのに、病気を基準に選ばれているように感じたということですね。
菅原 そうなんです。もちろん世の中にはいろんな状況の方がいるし、私はそういう方々を尊敬しています。ただ、私自身は「がんを経験したからこそ似た境遇の人を」という考えには違和感がありました。宮城の方言で「いずい」という言葉があるんですが、空気感がしっくりこない感じ。まさにそれでした。結局、その相談所は退会しました。
岸田 なるほど。シンプルに言うと「仲人さんが微妙だった」ということですね。
菅原 ザッツライト(笑)。
岸田 プロフィールには病歴を書いていなかったんですよね?
菅原 はい。ただ「伝えてもらっていいです」とは言っていたので、相手の方には事前に伝えられていたと思います。そんな経緯もあって、「違う出会いがあればいいな」と思いながら今に至ります。
岸田 なるほど。がんのことを伝えるかどうか、悩む方も多いと思いますが、菅原さんは?
菅原 私は先手を打つタイプです。言うときは明るく、「風邪ひいたら内科に行くでしょ? 歯が痛かったら歯医者に行くでしょ? それと同じだから」って笑って伝えます。
岸田 素敵ですね。ありがとうございます。とても率直に婚活や結婚のことまでお話しくださって感謝します。
菅原 ありがとうございます。
岸田 視聴者の方にも共感する部分があったのではないかと思います。
がん治療と妊よう性-「あのときの自分、頑張ったね」と言える決断
岸田 では次に「妊よう性」について伺いたいと思います。妊よう性とは、子どもを持つ能力のことです。がん治療前に精子や卵子を凍結保存するよう勧められる場合もあります。菅原さんは妊よう性温存をされましたか?
菅原 していないです。
岸田 していない。お医者さんからは説明がありましたか?
菅原 はい。主治医から「治療によって将来的に子どもを持つことに影響が出る可能性がある。卵子凍結を考えるかどうか、次の診察までに検討して」と言われました。
岸田 なるほど。実際にはどう判断されたんですか?
菅原 その時期はちょうど抗がん剤で髪が抜けることやウィッグをどうするかのほうが頭を占めていました。さらに仕事で発表会があって役割も決まっていたので、妊よう性のことは正直、後回しにしてしまっていました。ただ「子どもに影響があるかもしれない」と言われたことはショックで…。
当時は今のように病院同士の連携がなく、自分でクリニックに問い合わせて費用や条件を調べる必要がありました。でも、情報を十分に集めきれなかったんです。主治医からは、卵子凍結をした場合の成功率や費用、そして「パートナーがいない状態で長期間保存することの負担も考えて」とアドバイスを受けました。そのうえで、私は「温存はしない」という決断をしました。
岸田 なるほど。お仕事の状況もありましたし、保存してからの精神的な負担も含めての判断だったんですね。必ずしも保存が正解というわけではなく、自分のスタイルに合わせることが大切ですよね。
菅原 そう思います。私の場合は罹患年齢やがんのサブタイプも考慮しての決断でした。今振り返ると「あのときの自分は精いっぱい考えて答えを出した」と思えています。だから後悔というより、「あのときの自分、頑張ったね」と自分に丸をあげたい気持ちです。
岸田 「当時の自分よ、よく頑張った」という思いで受け止めているんですね。
菅原 はい。そうやって落とし込んでいます。
保育士として治療後復職-4時間勤務から始めた段階的復帰プロセス
岸田 ありがとうございます。次はお仕事について伺いたいと思います。菅原さんは保育士をされていましたが、治療との両立や復職はどのように進めていかれたのでしょうか。
菅原 当時の園長先生がとても理解のある方で、「菅原さんはアクセル全開で復帰してしまいそうだから、ブレーキをかけながら戻ってきてね」と言ってくれました。最初は1日4時間勤務から始めて、3カ月ほどかけて徐々にフルタイムへと戻していきました。
岸田 体力的には大丈夫でしたか?
菅原 今思えば、かなり配慮していただいていました。4時間勤務のうち2時間を、子どもたちのお昼寝の時間に合わせてくださっていたんです。私自身、つい最近そのことに気づいて…。園長先生は一言も言わずに、さりげなくそうしてくださっていたんです。本当にいい上司でした。
岸田 なるほど。職場の方々の温かい配慮があったんですね。
菅原 はい。そのおかげで無理なく復帰できました。ただ、髪のことは少し悩みましたね。直前までウィッグを着けていましたが、子どもに取られてしまうかもしれないし、その変化で子どもたちがショックを受けて夜泣きしたらどうしようと思ったんです。だから思い切って、蓮舫さんよりも短いベリーショートで復帰しました。ウィッグの心配はなくなりましたが、体力的にはやっぱり少し大変でした。
治療費の現実-生命保険のみでは賄えなかった「AYA世代の経済的負担」
岸田 お仕事には徐々に慣れていかれたんですね。ありがとうございます。では次に「お金や保険」について伺います。治療費の工面はどうされましたか? 保険には入っていましたか?
菅原 普通の生命保険には入っていましたが、がん保険には入っていませんでした。
岸田 生命保険だと治療費は出ないですよね?
菅原 はい。手術のときに少しだけ出ました。ただ、入院も「連続5日以上」しないと保険金が下りなかったので…。
岸田 実際には、入院で出たんですね。
菅原 そうです。手術のときだけ下りました。それ以外はほとんど親に頼っていました。
岸田 治療は長く続きますよね。ホルモン療法や抗がん剤も含めると。
菅原 集中的な治療は1年弱でした。ホルモン剤は5年間です。
岸田 治療費は数百万円まではいかなかった?
菅原 高額療養費制度があるので、そこまではいかなかったと思います。
岸田 保険ではどれくらい賄えました?
菅原 正直、ほとんど賄えなかったです。当時の保険は今のように「通院でも下りる」とか「1日入院でも下りる」といったものではなく、条件が厳しくて。なので実質的にはあまり役立たなかったです。足りない分は両親に支えてもらいました。
岸田 治療以外で必要になったお金は?
菅原 ウィッグくらいですね。でも当時は仕事も休んでいたので、生活費自体を親に頼っていました。だから治療費だけじゃなく、日常生活費も含めて親に支えてもらった形です。AYA世代はちょうど経済的に厳しい時期に治療と向き合わなければならないので、本当に大変だなと思います。
孤独からの脱却と身体的困難の克服-心理士とピンクリングの存在の大きさ
岸田 ありがとうございます。では次のテーマは「つらさと克服」についてです。精神的、肉体的にしんどいとき、菅原さんはどのように乗り越えてこられましたか。
菅原 最後まで残った一番つらい感情は「孤独」でした。その孤独感を心理士さんに相談して少しずつ和らげてもらい、その後「ピンクリング」と出会って仲間に出会えたことで、気持ちが軽くなり克服できました。
岸田 仲間の存在が大きかったんですね。では、肉体的につらかったことは?
菅原 手術後、1カ月ほどはリハビリをしないと腕が上がらなかったんです。手術した側の腕ですね。そのリハビリが痛くて大変でした。私なりに頑張っていたんですが、主治医から「もっと頑張らないと腕が上がらず放射線治療ができなくなるよ」と言われて…。それが唯一「喝」を入れられた経験です。その言葉で気合いを入れ直して頑張り、克服しました。
岸田 そのとき、イラッとはしなかったんですか?
菅原 いえ、言い方も穏やかで、「もう少し頑張らないと治療ができなくなるからね」という感じだったので、素直に「はい、分かりました」と受け止められました。「はいはい、やります」っていうくらいの感覚でしたね。
治療から数年経った今も残る後遺症-爪の痛みと薄毛への日常的な対処
岸田 ありがとうございます。では次は「後遺症」についてです。今、菅原さんは何か後遺症を感じていますか。先ほどホットフラッシュやホルモン療法はされていないとのことでしたが。
菅原 そうですね。足の爪の脇がたまに痛くなることがあります。ヒールを履くことは少ないんですけど、履いたときに痛むと「またか」と思って、ちょっと悔しい気持ちになります。でも大きな支障はないので大丈夫です。
あとは薄毛が気になりますね。トップの部分です。仕事柄、髪をひとつに結んでいくんですけど、毎朝合わせ鏡で後ろを確認して、薄さが目立たないように櫛で整えるのが、もう自然なルーティンになってしまいました。ただ、自分の中ではそれが嫌だなと思うこともあります。
岸田 髪質が細くなったともおっしゃってましたね。
菅原 そうです。そんな感じですかね。
医療者への感謝と提言-「寄り添い」がもたらす、患者への計り知れない力
岸田 ありがとうございます。では次は「医療者へ」というテーマです。がんノートには医療者の卵、学生さんなど、医療に関わる多くの方々も見てくださっています。もしよければ、主治医をはじめ、医療者の方々への感謝や、こうしてほしかったと感じることなどがあればお願いします。
菅原 私は本当に医療者の方々に恵まれてきました。専門の方や認定の方、そして主治医も含め、ただただ感謝しかありません。よく「医療者に伝えたいことはありますか」と聞かれるときにお話しするのですが、やはり「寄り添い」ががん体験者にとって大きな力になると思っています。思いに寄り添っていただけることが、どれほどありがたいか。私は実際にそれをたくさんいただいたので、その大切さをぜひ伝えたいです。
岸田 寄り添っていただいたからこそ、今があるということですね。要望としても「ぜひ他の患者さんにも寄り添ってほしい」ということですね。ありがとうございます。
コメントでも「病気が増えるたび、性格も変わることがありますよ」「緩和ケアもいいかなと思います」といった声もいただいています。
では次のテーマ、「過去の自分へ」。もし過去の自分に言葉を掛けるとしたら、どんな言葉を伝えますか。
過去の自分への「お疲れさま」-すべての決断を納得して進んできた8年間
菅原 過去の自分へ何を言うかというと、「お疲れさま」ですね。私は納得をしないと前に進めないタイプで、妊孕性のことも含めて、これまでのいろいろな決断を全部、自分の中で納得してきました。だから、どれも簡単な選択ではなかったけれど、よく頑張ったね、と伝えたいです。
岸田 なるほど。「お疲れさま」。当時、精いっぱい考えて出した結論ですもんね。ありがとうございます。
がんが教えてくれたこと-「毎日が奇跡なんだと知りました」
岸田 そして次、「Cancer Gift」ということで。がんによって失ったことも多かったと思いますが、あえて得たこと、得られたものにフォーカスすると、菅原さんはどう感じますか。
菅原 ピンクリングの会に参加していたとき、川柳を募集していて、そこで応募した言葉があるんです。
「毎日が奇跡なんだと知りました」
これが私にとってのCancer Giftだと思っています。当たり前ではなく、1分1秒がすべて奇跡だと気づけたこと。その思いを胸に、生きていこうと思っています。
岸田 なるほど。その気づきが、菅原さんにとっての大きなギフトだったんですね。
菅原 はい。
これからの夢と活動-東北で仲間の輪を広げる取り組みと「楽しく過ごす」日常
岸田 ありがとうございます。では次に、菅原さんの夢について伺いたいと思います。今後、どうしていきたいか、どんな思いがありますか。
菅原 このピンクリング東北の活動は、これからも続けていきたいです。東北で仲間の輪を広げていくことが、ピンクリングでの私の夢です。プライベートでは、シンプルですが「楽しく過ごすこと」が夢かなと思っています。
岸田 いや、楽しく過ごすのはとても大事ですよね。人生を楽しむことが一番大事。そのうえで、ピンクリングを広めていく夢の一つとして、イベントもされるんですよね。
菅原 はい。今週の日曜日、10月15日に開催されます。年に一度のピンクリング・サミットで、テーマは「若年性乳がんとセクシャリティ」です。東京、北海道、宮城、福岡、愛知の各地で開催します。
岸田 各地で同時開催なんですね。リアルでも参加できる。
菅原 はい、今回はリアルのみの開催です。オンラインはなくて、東京の講演を各地につないで上映します。
岸田 なるほど。興味のある方はぜひピンクリングさんのサイトをチェックしていただければと思います。ありがとうございます。
8年間の軌跡を振り返る-告知から経過観察までの「ペイシェントジャーニー」
岸田 そして、これまでいろいろとお話を伺ってきましたが、ここでまとめに入ります。ペイシェントジャーニーということで、菅原さんのこれまでの歩みを振り返ります。画面に出ますでしょうか。——どん。こちらです。赤がポジティブ、白がどちらでもない、青がネガティブ、灰色は治療を示しています。私の方で読ませていただきますので、補足や修正があれば教えてください。
2014年、保育士として働いていたときに左胸にしこりが見つかりました。地元の病院で検査を受け、がんの告知を受けられました。そのとき、菅原さん、あまり落ち込まなかったように見えますね。
菅原 今思えば、自分の心理を守るために「他人事」として受け止めていたんだと思います。100の衝撃を自分に与えないように、防衛していたんだと思います。
岸田 なるほど。その後、薬物療法で少し気持ちが上がっている部分がありますが、これは。
菅原 しこりが小さくなったからですね。
岸田 なるほど。それで気持ちが上向いたんですね。その後、脱毛やウィッグでつらい時期があり、手術を経て、一番気持ちが落ちたのは手術終了後。
菅原 そうですね。がんを患って、手術を受けるという人生最大の目標を達成してしまって、これからどう生きればいいのか分からなくなっていました。夕方になると涙が出るような日々でした。
岸田 ただ、その苦しい時期に心理士さんのカウンセリングを受けて、支えを得られたわけですね。その後は放射線治療や経口抗がん剤、ホルモン療法を経て、ピンクリングに参加。仲間と出会い、職場復帰。そして東北でも支部を立ち上げられ、今は経過観察の中で過ごされているという流れですね。
菅原 はい、それで大丈夫です。
岸田 ありがとうございます。ここまで一通りお話を伺ってまいりました。最後にご案内です。この配信は「生きる」を創るアフラック様、IBM様、アイタン様などのご協力でお届けしています。そして、視聴者の皆さまのコメントや応援のおかげで成り立っています。本当にありがとうございます。
また、本日のゲスト・菅原さんへのメッセージを募集しています。数日後に菅原さんへお届けしますので、ぜひ概要欄やチャット欄のリンクから送っていただければ嬉しいです。
それでは最後になります。今まさに闘病中の方へ、菅原さんからメッセージをお願いできますか。
活動の核心「ここに仲間がいるよ」というメッセージ
岸田 ありがとうございます。「ここに仲間がいるよ」という想いを届けるために活動されている。1人じゃないよ、仲間がいるよと伝えることで、同じように闘う人たちの心のお守りになればいい、という気持ちですね。
菅原 はい。私自身も仲間のおかげで力をもらってきました。だからこそ、そういう存在を知ってもらうことが大切だと思っています。
岸田 もし「菅原さんに会いたい」と思ったら、東北支部に行けば会えますか?
菅原 日曜日にぜひ東北支部に来てください。こんな私がいますので。
岸田 本当に「1人じゃない」ということですよね。患者会やコミュニティ、SNSなど、場所はいろいろありますし、自分に合う人や場所を見つけてつながっていければと思います。ありがとうございます。
そして、気づけばあっという間に90分を超えました。菅原さん、どうでしたか?
菅原 なんか今、治療のことやタイプを聞かれて「私、合ってたかな?」って思うくらいに、年数が経って過ごせているんだなと実感しています。関わってくださった医療者の方や仲間のおかげだとしみじみ思います。闘病中には想像できなかった感覚ですね。良い意味で忘れてしまっている部分もあるし、「あれ、どっちだったっけ?」なんて思えるくらいになっている。それが今の私なので、ありのままを出せたかなと思います。
岸田 今治療を受けている方の中には、がんのことで頭がいっぱいになっている方もいらっしゃるかもしれません。でも、菅原さんのように年数を経て、少し違う感覚で日常を送れるようになる方もいるんだということを知っていただければと思います。
菅原 あまりこうならなくてもいいですけどね(笑)。
岸田 はい(笑)。でも、いろいろな過ごし方があるということですね。では、これにて「がんノートorigin」終了したいと思います。来週木曜日の夜8時からは「がんノートミニ」を配信予定ですので、ぜひご覧ください。それではまたお会いしましょう。バイバイ!
菅原 ありがとうございました。
岸田 ありがとうございました!
※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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