目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:平野

【ゲスト紹介】

岸田 それでは、「がんノートmini」スタートしていきたいと思います。本日のゲストは、平野かおりさんです。よろしくお願いします。

平野 お願いいたします。

岸田 お願いいたします。では早速ですが、平野さんのプロフィールをご紹介させていただきます。
平野さんは兵庫県ご出身・在住で、現在は主婦をされています。趣味は音楽鑑賞とライブ参加ということで……ライブ参加、ということは結構いろんな場所に行かれるんですか?

平野 はい、そうなんです。大阪は近いのでよく行きますが、名古屋や東京、あと沖縄まで行ったこともあります。

岸田 すごい行動力ですね。ちなみに、どなたのライブに行かれることが多いんですか?

平野 ゴスペラーズが大好きなんです。生歌を聴くと本当に元気をもらえます。

岸田 あ〜分かります! 僕もアニソンのライブばっかり行ってるんですよ。生の歌って、エネルギーもらえますよね。

平野 そうですよね。

岸田 そんな中で、平野さんは肺腺がん脳腫瘍の二つのがんを経験されているということなんですが、肺腺がんはステージ1、そして脳腫瘍のほうはグレード3という診断だったんですよね。

平野 はい、そうです。脳腫瘍のほうは「ステージ」ではなく「グレード」という表記になるみたいです。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 告知を受けられたのが50歳のとき。そして現在は56歳ということで、手術、薬物療法、放射線治療と、さまざまな治療を経てこられた平野さんです。では、その平野さんのペイシェントジャーニーをご紹介していきたいと思います。こちらになります。

平野さん、このペイシェントジャーニーは、上に行けば行くほどハッピー、下に行けば行くほどアンハッピー、バッドな状態という流れで、時系列に沿って気持ちの浮き沈みを表していただいています。見てみると……前半の3分の1を過ぎたあたりから、気持ちが一気に下がっていくタイミングが続いていますね。もうけっこう、ずっと大変な時期が続いていたんだなというのが伝わってきます。。

平野 ですよね。

岸田 結構、気持ちのアップダウンが大きい流れではありますけれども、そのあたりも含めて、詳しくお話を聞いていきたいと思います。赤がポジティブ、青がネガティブ、白がどちらでもない——という形でまとめていただいてますので、それを踏まえて伺っていきますね。

ではまず平野さん、こちら。最初は「スーパーで働く」というところから始まっています。スーパーでは、レジやサービスカウンターなどでお仕事されていたんですか?

平野 そうです。レジとか、サービスカウンターでお薦めの放送をしたり、プレゼントの包装をしたり、お中元やお歳暮の受付をしたり、そんな仕事をしていました。

岸田 そんな中で、ここから少し下がっていくんですね。「脇腹の神経痛」というところですが、どちら側が、どんなふうに痛かったか教えていただけますか?

平野 右側の、下のほうの脇腹ですね。結構痛くて、ときどき“ギチン”ってする感じがあって。「なんか悪いものができたんかな」と思って町医者に行ったんです。でもそこでは「神経痛やろう」と言われて、レントゲンすら撮ってくれなかったんですよ。それで自分で大きい病院に行きました。

平野 そしたらCT撮ってくださって、「気になるなら徹底的に調べよう」と言われて。そこで肺に影が見つかったんです……さっき言っちゃいましたけど。

岸田 いえ、ありがとうございます。大きい病院でCTを撮ったら、肺に影が見つかった、と。

平野 はい。

岸田 最初は「肺炎の疑い」と書かれていますが、先生はその時点では肺炎の影じゃないかとおっしゃっていたんですね。

平野 そうなんです。「肺炎の影でしょう」と軽く言われて。けど、肺に影って怖いじゃないですか。

岸田 怖いですよね。

平野 怖くて怖くて。それで、かかりつけ医にその話をしたら、「肺がんかもしれへんぞ」と言われて……そこでまたCT撮ったら「ちょっと大きなってる」と言われて、医大を紹介されました。そこで胸腔鏡検査をすることになったんです。多分、その先生も肺がんを疑ってたんだと思います。

岸田 胸腔鏡で細胞を調べたわけですね。最初の病院から別の病院へ行って検査を受けて——ということを踏まえて、ここで気持ちがぐっと下がっています。それが、この「肺がんの告知」という部分。胸腔鏡で調べて、結果は肺がんだった——と。

平野 そうなんです。

岸田 告知を受けたとき、覚悟はできてましたか? やっぱり落ち込みましたよね。

平野 どーんと落ち込みましたね。同時にセットで脳の検査もしていて、その結果も「脳にも影がある」「転移の疑い」と言われて。最初に言われたのが“ステージ4”だったんです。「手術もできない」とまで言われて……あのときは本当にガーンと来ました。

岸田 それは……本当に衝撃だったと思います。

平野 だから「手術はできない、化学療法しかない」と言われてしまって…。

岸田 なるほど…。

平野 このときが、一番ショックやったと思います。本当に。

岸田 そうですよね…。脳にも影が見つかった、つまり肺がんの脳転移と考えられたわけですもんね。

平野 はい、そうなんです。

岸田 “遠隔転移”という診断で、手術ができない。気持ち的には相当きつかったでしょうね。

平野 そうでした。正直、その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。

岸田 そこから、どう動かれたんですか? すぐ抗がん剤という流れだったんでしょうか。

平野 いえ、その前に「脳のほうが悪さをしないように」と言われて、別の病院でガンマナイフ治療を受けることになったんです。
 そのとき診てくださった先生が、たまたま「僕やったら、これは脳の原発やと思うし、手術するなあ」って言ってくださったんです。

平野 そこで初めて、「肺からの転移じゃなくて、脳と肺は別々のがん」って分かって。私も全然分からない状態だったので、その先生が医大に手紙を書いてくださって…。医大に戻ったら「それなら手術できますよ」と言っていただけて、そこから一気に光が差したような気持ちになりました。

岸田 本当に大きな転機だったんですね。たまたま出会った先生の一言で道が開けたというか。

平野 本当に“救われた”という感じでした。あの先生に見てもらえて、私は運が良かったと思っています。

岸田 そこから開頭手術をされて、肺の胸腔鏡手術もされたんですよね。まず、開頭手術は医大に戻って。

平野 はい。家から近くて、家族も来やすいというのもあって、元の病院で入院しました。
 手術は…正直、怖かったです。

岸田 それは当然ですよね。術後はどうでしたか?

平野 麻酔から覚めた瞬間、天井がぐるぐる回っているみたいで…。ナースコールを押そうと頭を動かしたら、ぐらんとなって、そのまま気持ち悪くて吐いてしまいました。あれは本当に、つらかった。

岸田 聞くだけでも大変さが伝わります…。
 その後、肺がんの胸腔鏡手術も受けられたんですよね。

平野 はい。肺は右上葉の部分にがんがあって、そこだけ切除しました。

岸田 右上の部分ですね。開頭手術と胸腔鏡手術を乗り越えて、その後の治療はどうなったんでしょう?

平野 肺のほうはステージ1だったので経過観察に。ただ、脳のほうは“浸潤するタイプで、ちょっとたちの悪いがん”と説明があって、放射線と抗がん剤は今も続けています。

岸田 放射線治療はどれくらいの期間やられたんですか?

平野 42日間、入院して受けました。

岸田 1カ月以上…すごく頑張られたんですね。薬物療法は飲み薬ですか?

平野 はい。1日1回、飲んでいます。

岸田 というふうな形で。この今、怒涛の、手術して手術して放射線して薬物療法して…という流れでしたけど、この中で特に「これは大変やったなあ」と印象に残っていることはありますか。

平野 そもそも脳の手術のあと吐いたときに、「やってしまった…」と思って。シーツとか全部汚れるわけじゃないですか。ICUって常に見ていただいてる場所なんで、看護師さんがあっという間にシーツも寝間着も全部替えてくれて、あの素早さは本当に印象的でした。

岸田 そうなんだ。

平野 めちゃくちゃ手際よくて。

岸田 プロですね。

平野 本当にそう思いました。

岸田 僕もいろんな場面で助けていただいてますけど、本当、手際がいいというか…。

平野 寝間着もホックでパッと外れるようになってて、両側からビーッと裂ける感じなんですよ。

岸田 すぐ対応できるように作られてるんですね。

平野 そうなんです。「うまいことできてるなあ」って思いました。

岸田 すごい。あんな気持ち悪いときに、平野さん、めっちゃ冷静じゃないですか。

平野 あとで落ち着いてから「あの速さすごかったな」と思ったんです。実は救急車で運ばれて入院したこともあるんですけど、そのときも着替えが一瞬で終わって、「慣れてらっしゃるんやな」と思った記憶があります。

岸田 日々の積み重ねなんでしょうね。すごい。そしていろいろ大変な中で、こちらの出来事があります——旦那様がお亡くなりになるということで。スキルス胃がんと書いてますが、旦那さんはずっと闘病されていたんですか?

平野 いえ。私は自分の病気のときから「なんか体調悪そうやな」と思っていて、「病院行きや」ってずっと言ってたんです。でも本人が病院嫌いで、何回言っても行かなかったんです。

岸田 そうなんや。

平野 で、やっと行ったときには、もう「手の施しようがありません」と言われて…。

岸田 ということは、行ったときにはすでにかなり進行していた。

平野 そうなんです。入院して10日で亡くなりました。

岸田 ご主人、かなり体調が悪い中で耐えてたんですね…。

平野 ですよね。

岸田 いや…。言葉選び難しいですけど、平野さん、ご自身も闘病中で、ご主人も亡くなって…ダブルパンチどころじゃないですよ。

平野 一番きつかったかもしれません。私、本当に何も分かってなかったので、旦那が家のことも全部やってくれてたから、もう何から手を付けていいか分からなくて、バタバタしました。

岸田 そうですよね…。治療中に旦那様が亡くなられて、本当に大変やったと思います。そのとき平野さんは退院はされていたんですよね?

平野 はい。

岸田 そしてその後、またここから下がっていくんです。子宮と卵巣に異常が見つかったと。ダブルどころかもうトリプルパンチですね。これは転移と疑われた?

平野 はい。先生は「これは転移やわ」とおっしゃいました。肺の経過観察のときに影が見つかって。「子宮か卵巣に転移してると思う」と。でも、取ってみたら良性やったんです。

岸田 よかった…。でも手術は開腹で全摘ですよね?

平野 全摘です。ぱっくり開けられて。

岸田 開腹手術は体への負担も大きいですよね。心のほうはどうでした? ホルモンのこととか。

平野 しんどかったです。更年期みたいなイライラもあったし…。

岸田 どれくらい切ったんですか?

平野 おへその下から恥骨のところまで、全部です。

岸田 がっつりですね…。そこから卵巣と子宮を摘出して、その後に「良性」って分かったところが、ここでちょっと上がりポイントなんですね。

平野 はい。後の治療、抗がん剤とかが必要ないと言われたので、すごくホッとしました。「あとは1年に1回、女性検診を受けてください」とだけ言われました。

岸田 大きく安心されたでしょうね。その後、また少し下がるところがあって…。脳腫瘍の再発疑い。

平野 そうです。3カ月に1回MRIを撮ってるんですが、「前回にはなかった影がある」と言われて、先生は「再発」と考えてはったみたいで。

岸田 そこでガンマナイフ治療になったんですね。どんな治療だったんですか?

平野 10日に分けて放射線を当てる治療です。遠い場所だったので入院しました。10日間です。

岸田 副作用とかはどうでした?

平野 私は入院していたので、特にきつい副作用はなかったです。むしろ同じ病室の人と仲良くなって、楽しく過ごしてました。

岸田 いいですね。ガンマナイフの治療を終えて、その後に“脳梗塞で緊急搬送”ということで……もう本当に波乱万丈ですよね。脳梗塞は、血管が詰まるタイプだったんですか?

平野 そうです。固まるほうのやつです。

岸田 そのとき、どういう症状が出て緊急搬送になったんですか?

平野 急にしゃべれなくなったんですよ。ろれつが回らなくなって、赤ちゃん言葉みたいになってしまって。今もろれつ回ってないかもしれませんけど…。

岸田 今は全然そんなことないですよ、大丈夫です。

平野 よかったです。それと同時に、左の手足がしびれてきて。「これ脳のほうと関係あるんかな?」って息子と話してたら、息子が「救急車呼ぶわ」って言ってくれて、そのまま搬送されました。

岸田 そうですよね。ろれつが回らない、手足がしびれるって、まさに脳梗塞の前兆としてよく聞きますもんね。病院に着いてからは、どんな処置になったんですか?

平野 処置はもちろんしていただいたんですけど、先生から「ここからはリハビリが一番大事」と言われて。途中でリハビリ専門の病院に転院して、2カ月半、みっちりリハビリしました。言語聴覚士さんや作業療法士さん、理学療法士さんに毎日ついてもらって。

岸田 そうなんですね。しっかりリハビリを続けて。そして今は、肺のほうは経過観察、脳のほうは薬物療法中ということで、今もお薬を飲んで治療を続けていらっしゃると。

平野 はい。もう「切ったり貼ったり、切ったり貼ったり」でした。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 もう本当に、すごいですよね。肺や脳、そして卵巣……いろんな所の治療を経験されて、そのうえで平野さんの“ゲストエクストラ”として挙げていただいたのが、闘病中にご主人が亡くなったこと。これはショックも大きいでしょうし、気持ちの面でも体力の面でも、本当に大変だったと思います。

平野 体力的なことが、いちばんしんどかったと思います。病院の方も、主人がもう亡くなるのが分かってきたときに、「ご家族さん、泊まってくださいよ」って言ってくださるんですけど、私もしんどかったから、なかなか付き添えなくて。「ごめん」って言って家に帰ってました。

岸田 それは仕方ないですよ。平野さん自身も治療中ですし、体調が万全じゃない中で。

平野 その辺は息子も分かってくれていて、「俺が泊まるわ」って言ってくれたんです。だいぶ助けてもらいました、息子に。

岸田 そうだったんですね。本当に息子さん、頼もしいですね。闘病中にご主人を亡くされて、その状況の中でどう乗り越えていったのかというと、“いろんな所に電話して聞く”と書かれていましたよね。これは、具体的にはどんな所だったんですか?

平野 市役所とか、相続関係とか、銀行、法務局……そういう所に電話して、「この手続きはどうしたらいいですか?」って聞いていました。教えてもらったことをひたすらメモして、「次はこの書類がいるんか」とか。

平野 書類もいろいろいるんですよ。死亡診断書とか、主人の出生からの戸籍謄本とか。本籍が昔のままの所にあったりして、取り寄せるのも大変で。だから、とにかくいろんな所に電話して確認しながら、ひとつずつそろえていきました。

岸田 そうなんですね。

平野 一から十まで、「ここにこう書いて」「ここがあなたの名前で、ここが旦那さんの名前で」って、丁寧に教えてくださる方もいて、すごく助けられました。

岸田 ありがたいですね。だって全部、初めての手続きばかりですもんね。それを闘病中にするって、本当に大変だったと思います。

平野 はい。専門の所に頼む方法もあるらしいけど、お金もかかるし、できるところまでは自分でやろうと思って。

岸田 いや、本当にすごいですよ。闘病も初めて、手続きも初めて。それを一つ一つこなされたっていうのは、並大抵じゃないと思います。

【メッセージ】

岸田 こういった手続きだったりも初めてですし、本当にご苦労されたと思います。でも、いろんな所に電話をして、教えてもらいながら乗り越えられたんですね。そんな平野さんから、最後にメッセージをいただいております。「医師の意見が100パーセントではない」。こちらの意図も含めて教えていただけますか。

平野 最初のときも、先生は「肺がんの後(転移)」っておっしゃってたんですよね。肺に影が見つかったとき。でも実際は肺がんだった。だから、自分で「おかしいな」と思ったら、もっと調べたり、病院を変えたり、セカンドオピニオンに行ったり……そういう行動をしていいと思うんです。私はネットで調べたりもよくしてました。

平野 「先生が言うから100パーセントそうなんだ」って思い込み過ぎなくてもいいのかなと。だって最初、脳の影も“転移”って言われてたけど、結果的には“原発”だったし。それも本当に、たまたま別の先生が気づいてくださったおかげで。

平野 だから、「疑ってみてもいい」「質問してもいい」って思います。私は質問しすぎて、看護師さんにたまに怒られるんですけど(笑)。先生にいっぱい聞きすぎて、先生の機嫌が悪くなることもあるみたいで、「なんであんな怒らせたん」って怒られたりします。

岸田 いやいや、質問は絶対したほうがいいですよ。不安のまま進むより、聞きまくって納得したほうがいい。質問されて怒る医師のほうが、僕はちょっとどうかと思いますけどね。

平野 そうなんですよ。高圧的な先生に当たるときもあって。「あの先生、嫌いやわあ」って、今でも点滴のときに看護師さんに愚痴を聞いてもらってます(笑)。

岸田 わかりますよ。しかも平野さんの場合、最初の“肺が脳に転移”という診断のまま進んでいたら、開頭手術もできなかった可能性だってあったわけですもんね。

岸田 でも別の先生が診てくれて、セカンドオピニオン的に意見をもらったことで、治療の道がガラッと変わった。そして今、こうして元気に出演してくださっている。それって本当に大きなことですよね。

平野 だと思います。

岸田 ですよね。だから、お医者さんも人それぞれで、100パーセントじゃない。だからこそ、自分が納得できるまで質問して、違和感があれば違う意見も聞く。それが大事なんですね。

平野 はい。

岸田 ありがとうございます。本当に平野さんの“怒濤の”経験談、すごく貴重なお話でした。

平野 怒濤の(笑)。

岸田 本当に。今日は、がんノートminiにご出演いただきまして、ありがとうございました。

平野 ありがとうございました!

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