目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:相馬

【オープニング】

岸田 がんノートmini、スタートしていきたいと思います。きょうのゲストは相馬さんです。よろしくお願いします。

相馬 よろしくお願いします。

【ゲスト紹介】

岸田 そんな中で、早速なんですけれども、相馬さんの自己紹介スライドはこちらになります。相馬才乃さん。北海道のご出身ということで、北海道のどのあたりなんですか。

相馬 小樽の出身で、今住んでいるのは札幌です。現在は札幌から参加しています。

岸田 今いる場所は札幌ということなんですね。ありがとうございます。そして居住地は愛知とありますが、これは大学進学で愛知に来られたということですよね。

相馬 そうです。

岸田 趣味が「旅行」「喫茶店巡り」「ギター」とありますが、ギターは昔からされていたんですか?

相馬 ギターは大学生になってから始めました。というのも、子どもの頃はピアノやエレクトーンなど音楽を習っていて、小学生の頃も吹奏楽部に入っていたので、音楽にはずっと触れていたんです。でも中高はテニス部に入って、運動系に変わってしまって。

相馬 大学生になって「新しいことに挑戦したいな」と思ったときに、また音楽をやりたいという気持ちが戻ってきて、ギターの部活に入りました。

岸田 すごい。ギターが弾けるって、かっこいいですね。

相馬 私自身も「ギター弾けたらかっこいいな」という軽い気持ちで始めたんですけど、気づいたらもう5年たっています。

【ペイシェントジャーニー】

岸田 ありがとうございます。そして、がんの種類は卵巣がん、ステージは1C。告知を受けた年齢が18歳、現在は22歳ということになります。治療方法は手術と薬物療法を行われたとのことです。ここからは、相馬さんのペイシェントジャーニーを一緒に振り返っていきたいと思います。ペイシェントジャーニーでは、上に行くほど前向きな状態、下に行くほどつらい状態を示し、右に進むほど時間が経過していきます。そのときどきで、相馬さんがどんな思いを抱いていたのか、お伺いしていきます。

まず始まりは「大学入学」です。先ほども「大学で愛知に来た」とお話しされていましたが、北海道から愛知の大学へ進学したのには、何か理由があったのでしょうか。

相馬 担任の先生のすすめが大きなきっかけでした。進路相談の際に「愛知のこの大学が合うと思うよ」と言われて受験を決めました。国際系の学部で、英語で政治学・環境学・歴史学・言語学など、本当に幅広い授業が受けられるのが特徴です。その中から自分の興味ある分野を選べるので、幅広く学べる環境に魅力を感じ、進学しました。

岸田 英語を使って幅広く学べる環境ということですね。英語はもともとお好きだったのでしょうか。

相馬 小さい頃から英会話教室に通っていました。親に連れて行かれていたような形ですが(笑)。その後、何度か海外へ行ったりホームステイを経験したりするうちに、英語でコミュニケーションを取れることが楽しく感じられるようになって。ずっと学んできたので、生かせる学部に進みたいと思いました。

岸田 これからのご活躍がとても楽しみです。そんな大学生活が始まったところで、ペイシェントジャーニーは大きく下降していきます。次の出来事が「おなかの張りを指摘される」という場面ですが、これはどなたから指摘されたのでしょうか。

相馬 母からです。ちょうど学校祭の期間で授業が休みの日があり、北海道に帰省していました。お風呂の前後に着替えていたときだと思いますが、母に「そのおなかどうしたの?」と驚かれて。でも私は自覚がまったくなくて、「え、いつも通りだけど?」という感覚でした。ただ、母は「これはおかしい」とかなり焦っていて……。とはいえ自分では気付いていなかったため、「そう見えるのかな」程度に受け止めて、その場は終わりました。

岸田 その時点では軽く受け止めてしまったのですね。そしてその後、さらに下降していきます。次に起きたのが「急激な腹痛」でした。これは、おなかの張りが進行して痛みが出てきたのでしょうか。

相馬 いえ、痛みは突然でした。北海道から名古屋に戻った日で、朝早い便で移動して疲れており、名古屋に着いてから少し昼寝をしていたんです。目が覚めた瞬間に、今まで経験したことのない強烈な痛みが突然襲ってきました。おなか全体が痛く、呼吸をするだけでも痛い。歩けば振動がおなかに響き、それも痛い。何をしていても激痛という状態でした。

岸田 すぐに病院へ行くような状況に思えますが、どうされたのでしょうか。

相馬 その日は休日だったため、その時点では受診しませんでした。

岸田 耐えたということですね……。

相馬 少し様子を見ようと思いました。あれほど痛かったものの、休日ということもあり、2~3日すれば落ち着くのではないかと考えて、その日は病院には行かず、横になって過ごしていました。

岸田 その痛みは、徐々に落ち着いていったのですか。

相馬 はい。日にちが経つごとに、だんだん軽くなっていきました。

岸田 そして、その後「婦人科で検診」という流れになります。婦人科で診てもらった理由は、その腹痛からですよね。婦人科ではどのように言われたのでしょうか。

相馬 婦人科でまずエコー検査を受けました。その際に「紹介状を書きますので、明日の朝一番で大きな病院へ行ってください」と言われました。その口調で、ただならない状況だと感じました。本当は翌日に大学のテストがあり、提出物もある重要な試験日だったのですが……。

岸田 大切なテストですよね。

相馬 大事な試験でしたし、英語のレポートを時間内に書いて提出しなければいけない課題もありました。そこで婦人科の先生に「明日は大事な試験があって休めないので、明後日ではだめでしょうか」と相談したところ、「そういう問題ではありません。必ず明日の朝に行ってください」と強めに言われてしまい……。その時点で本当に状況が深刻なのだと気付きました。すぐに大学の先生へメールで事情を伝え、翌朝、大病院へ行くことにしました。

岸田 その単位はどうなったんですか。

相馬 幸いにも先生が配慮してくださり、後日提出で対応していただけました。おかげで単位は取得できました。

岸田 先生の判断に救われましたね。その後、大きな病院で検査を受けたところ「卵巣腫瘍の疑い」と言われたとのことですが、そのときの説明はどのようなものだったのでしょうか。

相馬 名古屋の大きな病院で再度検査を受けた際に、「卵巣腫瘍の疑いがあります」と伝えられました。ただ、卵巣腫瘍は手術をして腫瘍を取り出し、病理にかけてみないと良性か悪性かが判別できない、と説明されました。そのうえで、手術を名古屋で受けるか、故郷の札幌で受けるかを自分で選ばなくてはならなくなりました。家族は北海道にいますし、治療には精神面の支えも必要だと考えて、地元で手術を受けることにしました。

岸田 その時点ではまだ良性か悪性かは分からず、ただ腫瘍があることだけは確定していたという状況ですね。痛みはその後どうでしたか。

相馬 激痛は落ち着いていましたが、ときどきおなかが痛むことはありました。

岸田 そして北海道へ戻り、治療を受けることになります。その流れの中で「大学病院で卵巣腫瘍の診断確定」とありますが、ここで正式に診断がついたということですね。

相馬 はい。北海道の大学病院で改めて検査を受け、卵巣腫瘍であることが確定しました。

岸田 そこからペイシェントジャーニーは大きく下降し、「手術・左卵巣の摘出」へと続いていきます。左の卵巣をすべて摘出するという決断に至った経緯を教えていただけますか。

相馬 腫瘍があったのは左側の卵巣でした。手術では「腫瘍だけ取り出す」か「左の卵巣全体を摘出する」かの選択肢がありました。ただ、腫瘍だけを取って病理検査にかけ、もしも悪性だった場合は、再度おなかを開いて左側の卵巣全体を摘出することになると説明を受けました。二度の開腹手術は身体への負担が大きいこと、時間のロスも大きいことから、私は最初から左の卵巣をすべて摘出するという決断をしました。

岸田 大きな決断ですよね。卵巣が一つなくなることに対する抵抗はありませんでしたか。

相馬 もちろん迷いはありました。ただ、右側の卵巣は無事で将来的な機能も確保できると説明を受けていたので、最終的には納得して決めました。本来であれば生理への影響やホルモンバランスのことなど、もっと考えるべき点は多かったと思うのですが、「卵巣腫瘍です」「手術が必要です」と次々に説明が進み、状況があっという間に動いていったこともあって、気付けば「では左側は全て摘出してください」という判断をしていました。

 腫瘍だけを取って病理にかけ、もし悪性だった場合に再度おなかを開いて卵巣も摘出する——その流れを考えると、二度の開腹はできるだけ避けたいと思いました。悩みはありましたが、決断自体は意外なほどすっとできたように思います。

岸田 大きな決断ですが、その時は怒涛のように話が進んでいきますからね。

相馬 そうですね。

岸田 摘出手術のあと、グラフでは一度上向きになるのですが、そのタイミングで「卵巣がんの告知」が入っています。しかも色分けでは“どちらでもない”(白)が使われています。ネガティブでもポジティブでもない感情だったということですが、その理由は?

相馬 自分でも不思議なのですが、比較的すんなり受け入れられたんです。私は普段、喜怒哀楽の幅が大きいタイプなのですが、「卵巣がんです」と告げられたとき、悲しむ時間がなかったというのが正直なところです。

 病名が「卵巣腫瘍」から「卵巣がん」に変わった瞬間、「あ、私はがんなのか」と理解した一方で、感情が追いつくより先に「では次に何をする必要があるのか」を考え始めていました。状況が一気に進んでいたこともあり、立ち止まる余裕がなかったのだと思います。

岸田 切り替えがとても早かったのですね。ご家族はかなり驚かれたのでは。

相馬 はい。母は私より先に病院へ行って結果を聞いていたので、腫瘍が悪性だったと分かった時点でかなりショックを受けていたようです。父も動揺していました。でも、当の本人である私は思いのほか落ち着いていたので、家族のほうが困惑していたかもしれません。

岸田 その後の流れとして「子宮全摘か温存かの選択」という、大きな分岐点が訪れます。これはどういう選択だったのでしょうか。

相馬 再発のリスクを最優先に考えると、子宮や右側の卵巣をすべて摘出したほうが安全だと説明を受けました。ただ、自分の年齢や将来のライフプラン——結婚・出産の可能性——を考えると、残せるのであれば温存したいという気持ちも強くありました。

 家族や担当医と話し合ったうえで、「温存」の選択肢を選ぶことにしました。ただし温存するためには、周囲の臓器に転移がないかを確認する必要があり、そのための追加手術が必要でした。

岸田 それが次の手術、「大網切除、虫垂切除、腹膜の生検」というものなのですね。

相馬 はい。正式には「子宮付属器悪性腫瘍摘出術」という手術です。温存が本当に可能かどうか、大網や虫垂、腹膜を取り出して病理にかけ、転移の有無を確認するための手術でした。

岸田 手術自体は問題なく終わったとのことですが、その後グラフは大きく下がり、「薬物療法の選択」という項目が出てきます。摘出によって悪化が見つかったわけではないとのことですが、この“ネガティブな落ち込み”は何が理由だったのでしょうか。

相馬 自分ががんになるとは思っていなかったので、受け入れるのに時間がかかりました。これまでテレビドラマや番組で、がんになった方が髪の毛が抜けたり、強い吐き気などの副作用に苦しんだりしている姿を見てきていたので、「自分も本当にこうなるのか」と考えると、どうしても前向きにはなれませんでした。

 さらに、個人的な話なのですが、抗がん剤を始める予定が3月で、その少し後が自分の誕生日だったんです。治療スケジュールを見たときに、誕生日の頃には髪の毛がなくなっているかもしれないと気付いてしまって……。女の子だから、という言い方が正しいか分かりませんが、やはり誕生日の日くらいは髪の毛があってほしい、という気持ちがありました。

岸田 とても自然な感情だと思いますよ。

相馬 ありがとうございます。そういうことを考えているうちに、「抗がん剤を本当にやるのか」「やらずに終える選択肢はないのか」と、少し揺れてしまいました。手術で転移がないと分かった時点で治療を終えることもできるのでは、と一度は思ったのですが――。

岸田 最終的にはどうされたのですか。スケジュールをずらしてもらったりは?

相馬 結局、ずらさないでそのまま始めることにしました。強行突破という形ですが、迷っても治療は必要だと判断しました。

岸田 そうだったのですね。そして薬物療法、パクリタキセルの1クール目に入ったわけですね。副作用はどうでしたか。

相馬 想像していたほどではありませんでした。多少の発熱や関節痛はありましたが、自分が思い描いていた“抗がん剤の大変さ”とは全く違っていて、「これなら乗り越えられるかもしれない」と感じました。ですので、グラフも治療を決断したときから少し上がっています。

岸田 想像よりもつらくなかったのですね。ただ、髪の毛は抜けてしまった、と。

相馬 はい。そこはやはり現実になりました。信じたくなかったのですが、1クール終了後の2週目から抜け始めました。
 退院したその日に美容室へ行き、髪を短くしてもらいました。抜け始める前に、自分なりに準備ができたのは良かったと思います。

岸田 ウィッグも使われたんですね。

相馬 はい。用意しました。

岸田 その後、2クール目、3クール目と続いていきますが、グラフでは1クール目よりも上に位置しています。副作用にも慣れて、少し余裕が出てきたということでしょうか。

相馬 そうですね。1クール目で自分の副作用の出方が分かったので、体調管理もしやすくなりました。大学の春休みが終わる頃に治療が重なることもあり、長期間入院するわけにはいかないと思っていたのですが、最終的には2泊3日で治療を終えることができました。

岸田 そして治療が進む中で、グラフは再び上向き、「CVポート抜去」、さらに「大学院進学」という項目が入っています。大学院に進まれた理由は、国際系の学びを深めるためだったのでしょうか。

相馬 いえ、実はそうではなくて……。
 今度は「医療社会学」を学ぼうと思ったんです。自分の人生の中で、がんになったという経験がとても大きく、また大学の研修でアメリカに行った際、現地のがん団体の方に取材する機会があったんです。そこで、日本と海外のがん対策の違いに興味を持ちました。

 それまで私はずっと「患者側」だったのですが、取材を通して「では日本のがん対策はどうなっているのだろう」「患者支援の仕組みは十分なのだろうか」と考えるようになりました。そこから、医療と社会の関わりについて研究したいと思い、医療社会学という分野で学ぶことを決めました。あまりメジャーな分野ではないのですが、私にとってはとても意義を感じられる領域なので、この春から大学院に進学します。

岸田 すごいですね、大学院。しかも今回のご縁も、相馬さんが研究のためにがんノートに連絡してくださったことがきっかけでしたよね。

相馬 はい。卒業論文で、少しだけ取り上げさせていただきました。

岸田 そうでしたね。本当に驚きました。ぜひ、日本だけでなく海外とも比較しながら、いろいろな視点から日本社会の課題を明らかにしていってください。期待しています。

【大変だったこと→乗り越えた方法】

岸田 そんな中で、ペイシェントジャーニーを終え、次はこちらの項目です。ゲストエクストラとして「大変だったこと・困ったこと」、そして「それをどう乗り越えたか」について伺っていきます。
 相馬さんの場合、大学生活と治療をどう両立するかという課題があったと思いますが、その乗り越え方として “副作用による倦怠感が来る前に下宿先へ戻る” と書いてくださっています。これはどういうことか、教えていただけますか。

相馬 これは、もう勢いというか、ある意味“強行突破”のような形でした。先ほどお話ししたとおり、3クール目の抗がん剤の時期には、すでに大学の新学期が始まっていたんです。でも、単位は落としたくないし、ただ、治療も延ばしたくない。3クールで終わる予定だったので、計画通り終わらせたいという思いがありました。

 1クール目と2クール目を経験して、副作用の強い倦怠感が「投与から3日後」くらいに来るというパターンが自分の中で分かっていたんです。そこで、3クール目は、治療が終わって退院した次の日に名古屋へ戻り、倦怠感が出るタイミングにはもう下宿先で休めるように、スケジュールを調整しました。

岸田 3クール目は大学が始まる時期で、治療は北海道。数日後に倦怠感が来ると分かっていたから、その前に名古屋へ戻っておこう、と考えたということですね。

相馬 そうなんです。まさにその通りです。
 抗がん剤治療を受けて、その翌日に退院。そのさらに翌日には名古屋へ戻る、という本当に強行スケジュールでした。名古屋に戻った次の日から倦怠感が出始める……そんな逆算の形でした。

 ただ、倦怠感が来たときは本当に何もできないので、母に名古屋まで付き添ってもらいました。3〜4日は続くので、ひとりではやはり難しかったと思います。

岸田 たしかに、強い倦怠感の中で一人で過ごすのは厳しいですよね。

相馬 はい。母が来てくれたことは大きかったです。

岸田 ありがとうございます。こうした乗り越え方があったということですね。それでは続いて、相馬さんの——

【メッセージ】

岸田 こちらが、相馬さんから視聴者の皆さまへ向けていただいたメッセージです。「早期発見が大切」「自分の体に変化があったら病院へ」という言葉を挙げてくださっています。この意図について、改めて伺えますでしょうか。

相馬 はい。早期発見が大切というのは、私自身のペイシェントジャーニーを振り返っても、強く実感していることです。
 私の治療期間は2017年11月から2018年4月までで、短期間に集中的に治療を進めることができました。この短さで済んだのは、最初に体の変化に気づいてから数日後、すぐに病院へ行ったことが大きかったと思っています。

 一般的にも “がんは早期発見・早期治療が大切” と言われますが、本当にその通りで、私自身がまさに実感したことでした。体の変化に気づいていても、忙しさや「大丈夫かもしれない」という気持ちで受診が遅れてしまう方が多いという話も聞きます。

 でも早めに受診しておくことで、結果として治療の規模が小さくなったり、治療期間が短くなったりする可能性につながります。何かおかしいなと感じたら、迷わず病院へ行くこと。それが一番の早期発見につながるという思いを、このメッセージに込めました。

岸田 ありがとうございます。相馬さんの場合も、お腹の腫れや痛みに気づいて受診したことで、左側の卵巣だけで済み、治療も比較的短期間のうちに終えることができましたよね。もし受診が遅れていたら、転移が進んでいた可能性もあったかもしれません。

相馬 そうですね。

岸田 ですので、視聴者の皆さんも、少しでも「いつもと違う」と感じたら、ぜひ病院でチェックを受けていただきたいと思います。

 さて、相馬さんは大変な経験をされながらも、そこから学びを深め、今度は医療社会学という形で社会に還元しようとされています。その姿勢に、私自身とても心を動かされました。

 相馬さんのこれからのご活躍を心から期待しています。本日はがんノートminiにご出演いただき、本当にありがとうございました。

相馬 こちらこそ、ありがとうございました。

岸田 それでは、失礼いたします。

相馬 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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