目次

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インタビュアー:岸田 / ゲスト:入江

【オープニング】

岸田 きょうのゲストは 入江真依 ちゃんです。真依ちゃんと呼ばせてもらっているので、今日も真依ちゃんと呼んでいきたいと思います。まずは、簡単に自己紹介していただいてもいいですか。

入江 入江真依と申します。29歳です。京都出身で、今は愛知県に住んでいます。職業は医療ソーシャルワーカーで、病院で勤務しています。私は小学校6年生のときに急性リンパ性白血病と診断され、約7カ月間入院して抗がん剤治療を受け、その後1年半ほど外来で治療しました。現在は寛解状態で、長期フォローアップ外来に定期的に通院しています。よろしくお願いします。

岸田 お願いします。ちょうど昨日が誕生日だったということで。

入江 はい。

岸田 ピザを食べてお祝いしてたんですよね。

入江 そうなんです。

岸田 SNSに写真が上がっていたので。誕生日の翌日、29歳になりたての真依ちゃんのお話を聞けるのは嬉しいです。
実は真依ちゃん、以前は「高橋真依」としてがんノートminiに出演してくださっていて、お気付きのとおり名字が変わっています。そのあたりのお話も、今日はぜひ伺えればと思っております。よろしくお願いします。

入江 お願いします。

【発覚から告知まで】

岸田 では早速なんですけれども、がんの発覚から告知までについて伺っていきたいと思います。まず、どうやって病気が分かっていったのか。小学6年生の“ウキウキしていた頃”から話してもらえますか。

入江 小学校6年生になって、修学旅行があったり、友達に誘われてミュージカルのオーディションを受けたり、すごく元気に外で遊び回る小学生でした。
 そんな中で、ある時ふと、頭と左耳の後ろあたりに“できもの”が出来ていて。痛みもなく、特に困ってはいなかったんですが、気になるので近くの皮膚科に行ってみたんです。そしたら、「一度大きい病院で検査したほうがいい」と紹介されて、大学病院に行くことになりました。そこで局所麻酔で小さな手術をして、病理に出すことになった……という流れですね。

岸田 真依ちゃん、講演でもこの話してるからスッと話してくれたけど、今日はがんノートoriginなので、もっと踏み込んでいきますよ。
 まず2005年の4月、修学旅行。どこ行ったんやっけ?

入江 伊勢・志摩です。

岸田 伊勢・志摩か! そっか、関西の子やもんね。……スパーランド?

入江 いえ(笑)、伊勢神宮と鳥羽水族館でした。

岸田 あ、しっかり“学び系”のほうのコースね。スパーランドは無し、と(笑)。
 で、その時ミュージカルのオーディションも受けてたんやね。きっかけは?

入江 幼なじみの友達がミュージカルに出ていて、「今度オーディションあるから一緒にどう?」と誘ってくれたんです。だから軽い気持ちで受けました。

岸田 どんなオーディションやったの? 歌ったり踊ったり?

入江 はい。子どもをたくさん募集するタイプのもので、歌やダンスをやった記憶はあります。ただ私、全然経験者じゃないので、言われるままにやってただけです(笑)。

岸田 でももうこの時から“表現すること”が好きやったんやろうね。これ、後にも繋がってくるけど。

入江 そうですね、そういうのが好きだったのは確かです。

岸田 そして、その翌月ぐらいから、頭と耳の後ろに“できもの”が出てきたんよね。さっき「ここ」って言ってたけど、実際、たんこぶみたいに腫れてたの?

入江 はい。触ったら“ポコッ”と盛り上がっている感じで、「あれ、何だろう?」という程度でした。

岸田 左耳の後ろにも、もう一つポコっとあったと。

入江 そうです。

岸田 痛みは全く無かったの?

入江 痛みは全然無かったです。ただ、触ると気になるな、くらいでした。

岸田 なるほどね。それなら悪いものとは思わんよな。
 で、皮膚科に行ったと。最初は近所のクリニックやったんよね?

入江 はい、近所の皮膚科です。

岸田 そこから大学病院を紹介されたのは、「悪くはなさそうやけど念のため」っていう説明やったの?

入江 そうです。悪い感じではないと言われたんですけど、「もし手術するなら、大きくなる前に専門のところで診てもらったほうが安心だよ」ということで、大学病院を紹介されました。

岸田 安心のためにね。そして、大学病院の皮膚科を受診して、そこで「取ったほうが良いね」って話になった?

入江 はい。その日ちょうど教授回診があって、午前中に一度診察してもらって、午後の回診でも大勢の先生が見に来て。「悪くはなさそうだけど、一応取っておこう」という方向になりました。

岸田 回診でみんなが覗き込むやつね(笑)。
 で、そこから手術することになったと。頭と耳の後ろ、両方とも取った?

入江 はい、両方取ってもらいました。

岸田 手術自体は1〜2日で出来るような簡単なやつ?

入江 本来は局所麻酔で日帰りの予定だったんですけど、入院も初めてでワクワクしてたのに、いざ行ったら手術が怖くなっちゃって……「もう手術しない」って言い出してしまって(笑)。

岸田 小学6年生だもんな……そりゃ怖いわ。

入江 結局、半日ぐらいバタバタしてしまって、「じゃあ全身麻酔に変える?」という話にもなったんですけど、そこで急に気持ちが決まって、「やっぱり今日やります」って。その日の午後4時ぐらい、本来ならもう手術が終わってる時間に、急遽やっていただきました。終わった後は「帰ります」と言って、普通に家に帰りました。

岸田 そして、ここに書かれているように、2005年6月、抜糸のときの細胞診で「急性リンパ性白血病の疑い」と。つまり、手術して抜糸する時に病理の結果が出てきたってことやね。

入江 そうです。手術から1週間後に抜糸で再受診した時に、ちょうど病理結果が出ていて。帰ろうとした時に呼び止められて、「怪しいので、このまま小児科へ受診してください」と言われて、ランドセルを持ったまま皮膚科から小児科に移動しました。

岸田 さっき「翌月」と言ってしまったけど、ほんまは翌週の、その日やったんよね。ランドセルのまま小児科へ。そこから検査入院?

入江 その日にすぐではなくて、日を改めて検査入院してくださいと言われました。その日は採血くらいで、後日、骨髄検査などをしました。

岸田 で、どれくらいで白血病って分かったん?

入江 手術が6月2日で、入院したのが6月19日。父の誕生日に手術して、父の日に入院でした。

岸田 お父さん……気持ちが追いつかんやつやな。

入江 はい(笑)。その10日ちょっとの間に検査入院して、告知を受けた感じです。

岸田 当時、小6やん。自分の気持ちはどうやった? バタバタしてるな〜くらい?

入江 なんか普通の状態じゃないのは分かってて、「なんでこんなに検査するんやろ?」って思ってました。
 病棟に行くと、頭がツルツルの子どもたちがたくさんいて、「大丈夫かな……」って不安はありました。

岸田 診断はこの時点でされてるわけやけど、小6の真依ちゃんに告知もしてくれたん?

入江 最初は両親が主治医の先生から話を聞いて、「娘さんに言いますか?」と聞かれたそうです。でも、両親が「6年生なら、だましだまし入院なんて無理だから、本人に言ってください」と言ってくれて。
 それで、両親と主治医の先生、看護師さんたちが病室に来てくれて、みんなで説明を受けました。

岸田 その時、小6で“白血病”って言われて、どれくらい理解できたん?

入江 がん自体が身近な病気じゃなかったので、「血液のがん」と言われてもイメージはつかなかったです。ただ、「抗がん剤で髪が抜けたり、気持ち悪くなったりする」と副作用の説明をされて、そっちのほうが怖かったです。
 がんそのものより、副作用が怖い、という印象でした。

岸田 医療者って、副作用の説明めっちゃするからね。「こうなるよ、ああなるよ」ってね。
 それが一番怖かった、と。ありがとうございます。

岸田 コメントも来ていますので紹介します。
 ナツミさん、やまやんさん、豊田さん、こんにちは。
 アオキさん、「かわいい方ですね」。
 よしさん、「今日も楽しみです」。
 そして「最初の皮膚科の先生の判断、良かったですね」と。確かに、あの判断がなかったら気付くのがもっと遅れてたかもしれないですもんね。

入江 本当にそう思います。

岸田 大学病院に行かなかったら、もっと体調が悪くなってから気付いてたかも、ってことやもんな。

入江 はい。発見はかなり遅れてたと思います。

岸田 あと、ミカさんから「来週手術で2週間入院。準備します」と。ミカさん、手術が無事に終わるよう祈ってます。遠くから見守っていますので、しっかり受けてきてください。ありがとうございます。

【治療から現在まで】

岸田 そんな中で、次の項目として、真依さんに治療から現在までのことをお伺いしていきたいと思います。治療、どんなことをしていったのか、こんな形になっています。ありがとうございます。2005年6月、入院して抗がん剤治療が始まったということですけれども、どんな抗がん剤だったとか覚えてます?

入江 当時は、今は白血病のプロトコルって全国統一のものが導入されていると思うんですけど、私が入院した頃はその病院独自の標準プロトコルみたいなものを受けていました。最初は寛解導入療法で薬をたくさん入れて、そこで白血病細胞がゼロになるかどうかで、そのまま抗がん剤だけで強化療法に進むのか、移植に進むのかが決まる、というざっくりした説明は聞いていました。その最初の寛解導入療法でたくさん抗がん剤を入れて、骨髄を一気に叩くんですけど、どんな薬かまではわからなくて。当時は薬の色で覚えていて、「この色の薬が入ると足がしびれる」とか、そんなふうに考えていました。今は、母が全部のプロトコル資料を取ってくれていて、それを見て「あ、私はこの薬を使ったんだ」と分かる感じです。

岸田 へぇ、すごいね。赤い抗がん剤ってよく聞くけど、やっぱ使ってた?

入江 赤もありましたし、黄色もありました。「こんな色の薬が体に入って大丈夫なんだろうか…」って思うくらい色鮮やかなものもありました。

岸田 印象に残ってる薬とか副作用ってある? これつらかったな…みたいなの。

入江 抗がん剤というより、ステロイドですね。二つのクールを交互にやる治療だったんですけど、ステロイドをたくさん使うクールの時が特につらくて。顔が丸くなるし、気分がすごくハイになって、朝7時からラジオ体操しに行ったり、食べ物の好みも変わって濃い味ばっかり食べたくなったり…。あの変化が自分でもしんどかったのを覚えています。

岸田 ムーンフェイスって言われるやつね。なるほど……。ちなみに治療って、全部でどれくらい続くの?

入江 小6の6月から入院が始まって、入院だけで半年ほど。外来での維持療法も含めると、中学2年生の秋まで続きました。

岸田 そっかぁ、数年レベルで続いたのね。そして2005年9月、12歳の誕生日を病室で迎えて、「看護師になりたい」と思う出来事があったと。これ、教えてもらえる?

入江 担当の看護師さんが、病棟の皆さんの写真とメッセージを集めたフォトブックを作ってくださって、当日の朝、先生や看護師さんたちがハッピーバースデーを歌いながら病室に来てくれたんです。忙しいのを知っていたからこそ、「こんなふうに患者さんが喜ぶことを考えてくれるんだ」と本当に嬉しくて。“その子が喜ぶことを考えてケアする仕事”ってすごいな、と素直に思いました。そこから看護師さんに憧れるようになりました。

岸田 めちゃくちゃいい病棟だね。忙しいのに、時間を使ってフォトブックを作って、朝一で歌いに来てくれるなんて。そりゃ心に残るよね。

入江 凄く嬉しかったです。

岸田 そりゃ、将来の夢として「なりたい」って思うよね。

岸田 そして、その後、2006年の3月に地元の小学校の卒業式に出席。これは退院して、通院治療の時に卒業式には出席出来たってこと?

入江 そうです。小学生なので義務教育で、地元の小学校から病院内にある養護学校の分校へ一度転校して、そこで勉強していました。退院したら、また元の小学校に転校し直して、みんなと一緒に卒業したいという目標があったので、無事に出席できました。

岸田 なるほどね。院内学級って、一回転校が必要なんだよね。そこから戻って、地元のみんなと卒業できたと。コメントでも、看護師さんの行動に「素晴らしいですね」という声をいただいています。

岸田 その後の話に移るけれど、真依ちゃんは2007年9月まで中学2年生として通院治療を続けていく。その中で「学校でパーティーを開いてもらう」って書いてあるんだけど、これはどういうこと?

入江 最後の薬を入れ終わった日に、私は通院治療を受けつつ中学校に通っていたので、朝に病院へ行って点滴の針を入れてもらい、そのまま薬を入れて、夕方にも病院へ戻る…という生活をしていました。その合間の時間だけ学校に行っていたんです。
朝、病院から学校に行くと、友達がそわそわしていて、教室を飾り付けしてくれていました。担任の先生が手作りのゼリーをクラス全員の分作ってきてくださって、みんなから「よく頑張ったね」とプレゼントをもらって。合唱コンクールで練習していた歌も歌ってくれて。盛大にパーティーを開いてくれました。その時の映像も担任の先生が残してくれていて、今も実家にあります。

岸田 すごいね。それは本当に嬉しいよね。「治療よく頑張ったね」っていう気持ちが詰まってる。手作りのゼリーも衝撃だし、先生も友達も最高だな。コメントでも「良い先生とクラスメイトですね」という声をいただいています。

岸田 通院治療中、先生や友達はどう接してくれたんですか? という質問も来ています。

入江 私は地元の小学校からそのまま地元の中学に行ったので、そもそも病気のことを知っている友達が多かったです。担任の先生からもクラス全体に説明してくれていたので、学校に2時間だけ行く日があっても、「おはよう」と普通に迎えてくれたり、重いリュックを持ってくれたり、でも過剰に気を遣うわけでもなく、遊びにも誘ってくれて。本当に、みんなの接し方が大人で温かかったなと思います。

岸田 本当に素敵だね。周りの環境にも恵まれてる。そして治療が終わっていって、2008年9月。晩期合併症の——これ、読み方教えてください。

入江 特発性大腿骨頭壊死症です。

岸田 名前だけ聞くと、めちゃくちゃ強そうな技みたいだね。これはどんな病気?

入江 治療で使ったステロイドが原因で、両方の股関節の骨頭(丸い部分)のうち、三分の二ほどが壊死して潰れてしまっていて、形がいびつな状態で動かしているので、軟骨が擦り減っていき痛みが出ます。本来は人工関節に置き換える必要がある病気です。今のところ根本的な治療法はありません。

岸田 つまり、大腿骨の骨頭の部分を、痛みが強くなったら人工関節に置き換えなきゃいけないんだね。…人工関節にはしたの?

入江 結局、今、人工関節を入れてしまうと耐久性の問題で20年とか25年と言われていて。高齢の方ならそこまで激しく動かないので長持ちする可能性があるんですけど、若い時に入れると使う頻度が高くなるので、持たないこともあるそうなんです。なので、今はとりあえず保存療法で痛みが出ないようにという方針になっています。

入江 最初はかなり安静にして、運動の制限もあって、レントゲンで潰れが進んでないかを診てもらっていたんです。でも、リハビリの先生と出会ってからは逆に「運動して筋肉をつけて、血流を良くしたほうがいい」という方針に変わって。対処療法のような形で体を動かすようになってからは、本当に痛みもなく、人工関節を入れずに生活できています。

岸田 へえ、時代によって治療方針が変わるんだね。前は「動かないほうがいい」だったのが、今は「血流を良くするために動いたほうがいい」ってことなんだ。
ゆくゆくは必要になる可能性もあるけど、今は大丈夫そうなんだね。

入江 はい。経過次第で必要になることもあると言われていますが、今のところは大丈夫かなという感じです。

岸田 なるほど、ありがとう。そして、その後の話だけど──自転車で転倒して、顎と腕を骨折して緊急搬送。そして、そこでバセドウ病と診断された、と。
どういう流れだったの? 関係していたのかな?

入江 これは全くの偶然なんですけど、高校3年生の6月くらいに、母が私の目を見て「突出してるんじゃない?」と気にしていて。「バセドウ病じゃない?」と言われたんです。私はあまり気にしてなかったんですけど、確かにずっと喉が渇く感じはありました。

入江 体調が悪いとかはなかったんですが、小児科の先生に相談したら「じゃあ、甲状腺の検査をしておこうか」ということになって、検査をオーダーしていただいていました。その検査予定日の直前に、高校の課外学習でバーベキューに行って、その帰り道で自転車に乗っていて転倒してしまって……自転車で一回転した形になってしまったんです。

入江 そこで顎と腕を骨折して、いつもお世話になっている大学病院に救急搬送されました。たまたま翌日が検査の日だったので、そのまま採血したところ、バセドウ病だと判明して。

入江 本来なら顎の骨折は手術でしっかり固定しないといけないんですが、バセドウ病で甲状腺の値が高いと全身麻酔が危険で。なので、局所麻酔でできる範囲の処置に切り替えるという方針になりました。

岸田 いや、情報が多すぎるよ……ちょっと待って。
まず、自転車で“一回転”ってどういうこと……? スピードめちゃくちゃ出てたの?

入江 坂道だったんです。しかも、その日バーベキューでシャボン玉をしていて、靴の裏がツルツルになっていたんです。その状態で自転車に乗って、ペダルに足を乗せた瞬間に滑って前輪に挟まってしまって……。

岸田 うわ、それは確かに骨折するわ……。そこで救急搬送されて、検査の流れでバセドウ病も分かったってことか。

入江 はい、そうなんです。でも、それは全く別で、たまたま検査のオーダーを入れてもらってた時期の直前に転んでしまって。この入院中に検査を受けたら、結果的にバセドウ病だった、という形でした。

岸田 たまたま前日に入院して、翌日に検査を受けて、そこでたまたまバセドウ病も分かった。じゃあ、手術とか治療どうするのかって話になってくるよね。

入江 そうです。

岸田 治療としては、最終的には局所麻酔で?

入江 局所麻酔で顎関固定術という手術をしてもらって、この歯茎のところにワイヤーを通して、上下をゴムで固定して、口を完全に開かないようにして治癒を待つ、というものでした。

岸田 そんな方法があるんや……。それをしつつ、バセドウ病と診断されたから、そっちの治療も必要になってくるよね?

入江 はい。薬を飲んで治療を開始するという流れになりました。

岸田 なるほど。コメントでも、さっきのクラスメイトの話で「素敵なサプライズでしたね」という声や、大腿骨頭壊死症の話で「有名人の方にも同じ病気の方がいます」とか、いろいろ届いてます。
そして、「検査の日にこの状態で来たら先生びっくりしますよね」という感想もあります。ほんと、先生もまさかと思ったやろうね。

入江 本当にそうです。たまたま同じ病院にいろんな診療科の先生が揃っていたので、それぞれの先生が連携して、「顎の骨折も待てない」「でも麻酔のリスクも高い」と相談してくださって。結果、局所麻酔でできる範囲をまず対応しようという判断になりました。

岸田 大学病院で良かったね。すぐに専門が揃ってるというのは本当に大きい。


岸田 そして、その後、2011年1月。日赤のPR活動や、映画『四つの空 いのちにありがとう』への出演、講演活動の開始。このあたりから、“自分で表現していく”という方向に動き始めたってことになるのかな?

入江 そうですね。きっかけは、大学に献血バスが来たことでした。友達が献血しに行こうと誘ってくれたんですけど、私は輸血歴があるので献血ができなくて。でも、一緒に行こうと思ってついて行って、待ち時間にバスのスタッフさんと「私、輸血受けたことあるんです」と話していたら、「じゃあ、ありがとうメッセージ書いてみない?」と言われて。
それを書いたのが最初のきっかけです。

入江 その後、日赤の方から「イベントにも一緒に来ない?」と声を掛けてもらったり、大学や学校から「命の話をしてほしい」と依頼をいただいたり。映画の出演も、そうしたご縁からつながって家族で出演しました。

岸田 あの時の“献血バスのおじさんとの雑談”がなかったら、今の活動は生まれてなかったかもしれないんやね。

入江 本当にそうだと思います。

岸田 大学に来たあの献血バスに一緒に行ったのが、真依ちゃんの活動のきっかけやったわけですね。そして、その後の流れがこれですね。2012年1月、京都の「新洗組」と出会う。漢字だけ見ると一瞬ドキッとするけど、大丈夫なほうの団体よね。

入江 はい。お掃除をする清掃ボランティアの団体です。

岸田 そういう意味の新“洗”組ね。映画の上映会を京都でやった時にスタッフとして入ってくれたのが、その方たちなんですね。

入江 はい。最初は、お礼を兼ねて活動に参加しただけだったんですけど、学生が主体でありつつ、幅広い年代の方が集まっていて、すごく魅力的で。大学生活のほとんどを、その団体の皆さんと過ごしました。

岸田 なるほど。そして、その後に、甲状腺の全摘手術を受ける。これはバセドウ病の関係で?

入江 そうです。大学に入ってからも薬を飲んで治療していたんですけど、成人式も終わって、看護学科の実習も始まるし、「今のうちに手術したほうがいいんじゃないか」と思って受けました。同級生と同じペースで実習を受けたいという思いもあって。

岸田 手術したことで、体調面はどうでした?

入江 もともと自覚症状が強かったわけではないので劇的な変化はなかったんですが、長い目で見ると手術してよかったと思っています。傷もほとんど分からないくらいきれいに処置していただきました。

岸田 そして2014年4月、念願の看護師に。
これはもう、嬉しかったでしょうね。「ついに夢が叶った!」っていう。

入江 はい。本当に、10年前に病院で抱いた夢が形になった瞬間で、「やっと…!」という気持ちでした。

岸田 ……なんだけど、そのすぐ下。2014年10月、「看護師を辞めたほうがいい」と言われる。
これ、どういう状況だったのか教えてもらえますか。

入江 病棟で働いていて仕事自体は楽しかったんですが、私は股関節が悪く、体力ももともと少なくて。家族も「できるだけ負担がかからないように」と生活を支えてくれていたので、普通の同年代の看護師さんと同じペースで働くのが難しいところもあったんです。

入江 そんな中で、階段から落ちて靭帯を損傷してしまって。普通なら松葉杖で生活できるんですけど、私は両側の股関節に問題があるので「松葉杖は絶対に使ってはいけない」と言われてしまって。

岸田 そんなケースもあるんだね……。

入江 はい。そうすると自宅安静しかなくて。でも現場は忙しいので休み続けるのも難しい。復帰しても、また同じように負担がかかれば動けなくなるかもしれない不安もありました。

入江 そんな中で、師長さんや先輩たちから「あなたの身体の状態だと、看護師という仕事を続けるのは厳しいんじゃないか」「他の仕事を考えたほうがいい」と言われてしまったんです。

岸田 ……その時、どんな気持ちだった?

入江 やっぱり、小学生の頃に「看護師さんになりたい」と言った時、みんなが「きっとなれるよ」「気持ちの分かるいい看護師さんになるよ」と言ってくれていたんです。それが現場に立った瞬間、まったく逆のことを言われて。「あれは何だったんだろう」って、人間不信みたいになってしまいました。

岸田 なるわ、それは…。そういう現実も、ちゃんと伝えておいてほしいよね。分からんけど。でも、それでも有言実行して看護師になって、ここまで来た真依ちゃんは本当にすごいと思う。人間不信は、今はもう大丈夫?

入江 治りました。

岸田 良かった。そういう経験があったんだね。「辞めたほうがいい」と言われたことも乗り越えてきたわけだ。ここから、社会福祉士の勉強を始めて、AYAの会の中心メンバーとして活動していくところだね。その後、「看護師を辞めて社会福祉士に転身」かと思いきや、実際は看護師を続けながら勉強してたってこと?

入江 そうです。勤務先の病院で看護師として働きながら、2年目のときに「看護師辞めたほうがいいんじゃない?」って言われて悩んでたんですけど、その病院には小児がんの相談員さんがいて、毎日のように話を聞いてくれたんです。

いつも「頑張ってるね」「ちゃんと出来てるよ」って言ってくれて、私もその中で「私は何がしたいんだろう?」って客観的に考えられるようになって。

病気の子どもたちやAYA世代の人たちの役に立ちたい、という夢は、看護師だけが手段じゃなくて、他の方法でも叶えられるんじゃないかなって思うようになったんです。その相談員さんの存在がすごく大きくて。

それで「私もこういう支援が出来るようになりたいんです」って相談したら、その方が「私は社会福祉士の資格を持ってるよ」と教えてくれて。じゃあ私も取ろうと思って、勤務2年目の秋に通信制の社会福祉士課程に入学して、働きながらレポート書いて…っていう生活を始めました。

岸田 すごいよね。あの忙しい病棟で働きながら、さらに資格の勉強もして…。本当に行動力がある。そして、そのあと「手術部へ異動」ってあるけど、これは希望して異動したの? それとも提案されたの?

入江 提案された異動です。病棟勤務だと、患者さんの介助など身体的負担がどうしても大きいから、手術部のほうが負担が少ないんじゃないか、と言われて。手術部は、座って記録を書いたり、術前の問診を取ったり、外回りをしたり…病棟とは違う働き方なんです。

最初は、患者さんと直接関わる病棟看護師にずっと憧れていたので、「手術部に行くために看護師になったんだっけ…?」と戸惑いもありました。

でも実際に働いてみると、局所麻酔の患者さんが多くて、その人たちと短い時間でも話が出来たり。私にとっては毎日の手術だけど、患者さんにとっては人生の一大イベントだから、その時間を丁寧に支えることに意義を感じられるようになって。そこからは手術部で働くのがすごく楽しくなりました。

岸田 切り替え方が本当に素晴らしいと思う。自分の役割の意味をちゃんと見つけて、それを楽しめるってすごいよ。

さて、ここで2018年8月、「彼氏とけんか」の文字が出てくるけど(笑)、これは後半の恋愛・結婚パートで詳しく聞くとして…。次に社会福祉士の試験合格。おめでとう!そして名古屋へ転職。これは、社会福祉士になってから、関西から名古屋の病院へ行ったってこと?

入江 そうです。名古屋にはAYA世代支援に力を入れている病院があると聞いていて、その先生に会いたくて。知り合いもいない土地でしたが、思い切って名古屋に行きました。

岸田 相変わらず行動力がすごい(笑)。そこで社会福祉士として働き始めて、2020年にはインスタで闘病アカウントを作ったんだよね。何かきっかけがあった?

入江 講演活動がずっと続いていたんですけど、コロナで全部なくなってしまって。「今の私に出来ることは何だろう?」と思った時に、入院時の自分の経験を思い出したんです。

治療中、同世代の健康な友達には言いにくい悩みとか、ちょっとした疑問とかがいっぱいあった。でも、ネットには「治療中の闘病記」はあっても、「治療後の生活」が分かる情報ってほとんどなかった。

もし当時、治療後の人たちのリアルな生活が分かっていたら、「私も将来こうなれるかも」と思えて、未来を描きやすかっただろうな…って。

だから、自分が講演で話してきたことや、治療中どう過ごしていたかを、写真と文章で投稿するアカウントを作りました。

岸田 その後、結婚っていう部分は、また恋愛・結婚のところで詳しく聞かせてもらうとして……。じゃあここで、真依ちゃんに送ってもらった「闘病前・闘病中・闘病後」の写真を紹介していきたいと思います。まずは闘病前の写真がこちら。これは……左側は、ご家族?

岸田 その後、結婚のところは、また恋愛・結婚パートで改めて聞いていきたいと思います。そして、真依ちゃんから、闘病前・闘病中・闘病後の写真を色々いただいています。まずは闘病前の写真がこちらになります。どん。これは……左側は、ご家族?

入江 そうです。四つ上に姉がいるんですけど、これは小学校で撮ってもらった写真で、入院する前、最後に撮った写真なんです。卒業アルバム用の写真を「入院する前に撮っとこう」と言ってもらえて、その時に半袖と長袖を持って行って撮りました。横には担任の先生も写ってるんですけど、一緒に最後に撮ってもらった写真です。

岸田 横に担任の先生もいるけど、ここではカットしてるってことね。

入江 そうです。

岸田 了解、ありがとうございます。そして右の写真は……体育祭?

入江 幼稚園なんですけど。

岸田 あ、そうなんや。全然違った(笑)。ちっちゃい頃、本当に元気だった時の写真ってことね。

入江 はい。

岸田 ありがとうございます。そして、闘病中の写真がこちらになります。これ、さっき話してくれてた「ムーンフェイス」っていうやつ?

入江 そうです。お顔がまん丸になって、眉毛やまつ毛も抜けてしまって……という感じでした。本当に、治療前とは全然違う顔になっていました。

岸田 さっきのお顔と全然違うね。これが治療中の写真なんだね。千羽鶴ももらったんだ? 学校の友達から?

入江 学校の友達や、あとは皮膚科で手術をしていただいた時の先生や看護師さんも作ってくださって。小児がんだと分かったことも多分かなり珍しいケースだったので、いろんなところからたくさんいただきました。

岸田 すごく良いね。周りの人たちに恵まれてたんだね。素敵だと思う。

岸田 そして、治療後はこんな感じになっています。これ、早く聞きたいんだけど……。治療後、今は写真が趣味ということで、写真をたくさん撮ってるんだね。すごく素敵な写真だな。これ、ご結婚のときの写真だよね?

入江 そうです。結婚式のときの写真です。

岸田 あと、お花の写真もとても素敵だね。いろんな場所に行かれて撮っている感じなのかな。

入江 そうですね。

岸田 ありがとうございます。早く続きも聞きたくてうずうずしてますが、ここからは各項目ごとにお話を伺っていきたいと思います。

【家族】

岸田 まずは、ご家族のことを伺いたいと思います。ご両親やご兄弟のサポートはどうでしたか。もっとこうしてほしかったなど、感じたことはありますか。

入江 良くしてもらい過ぎたなと思うほど、家族には本当に支えてもらいました。入院中は24時間付き添いが必要だったので、最初は母が付き添ってくれて、その後は父も来てくれました。姉も高校1年生だったんですけど、部活に入らず、毎日学校が終わったら自転車で病院に来てくれて。闘病中も退院後も、私の手足となって動いてくれるような家族で、本当に感謝しています。

岸田 本当に、家族が全てを支えてくれたんだね。お姉さんもたくさんサポートしてくれたんだ?

入江 はい。それまでは結構けんかもしていたんですけど、この時に“妹が死んでしまうかもしれない”と感じたみたいで、そこからすごく仲良くなりました。

岸田 頼もしいお姉さんだね。命の大切さを感じると、人との向き合い方って本当に変わるよね。

【学校】

岸田 そして、その後、学校のことについてもお伺いしたいんですけれども。学校、さっき院内学級の話も出てきたと思うんですけれど、どのように学校生活を過ごしていったのか。友達や先生とのコミュニケーションなど、さっきお伺いした部分以外で、気を付けていたことなどがあれば教えていただきたいのですが、どうでしょう。

入江 院内学級に転校して、そこのお部屋に通うという感じだったんですけど、私が学校に行く目的は友達に会うためだったんです。もともと勉強がすごく嫌いで、院内学級に行くメリットを感じられなかったので、ずっと登校を拒否したりしていました。

 でも、元の小学校から卒業文集を書いてねと持ってきてもらったり、戻ったときに困らないようにプリントを届けてもらったりして、最低限のことはやらないといけないと思いながら葛藤していて。葛藤しながら小学校生活を過ごしていました、院内学級で。

岸田 院内学級って、どういう感じなんですか? 小児病棟の子どもたちが通うところですよね。

入江 同い年くらいの子がいなくて、低学年と高学年に分かれていたんですけど、高学年は私ひとりで、先生とマンツーマンでした。これが学校といえるんだろうかと思っていました。入院時期のタイミングにもよると思いますが、私のときは小さな子ばかりで、友達がいなかったことが、行かないといけないけれど行きたくない理由でした。

岸田 先生とマンツーマンは大変ですよね。それでも最終的に、卒業式は地元の小学校で迎えられたんですよね。その後、体育をやらないようにするなど、いろいろ気を付けていたと思うのですが、他に気を付けていたことはありますか。

入江 私の小学校・中学校は恵まれた環境で、宿泊学習などに行くときも、主治医の先生のところに校長先生や担任、学年主任、養護教諭など、みんなで「連れていくために気を付けること」を相談しに行ってくれました。

 元の学校に戻る際にも、主治医の先生が「小児がんとはどういう病気か」という説明を先生やクラスにしてくれて。例えばバイキング形式の食事は感染のリスクがあるから難しいとなれば、学校が宿泊施設に交渉して「先に取り分けてラップをしておく」などの調整もしてくれました。

 「本人が行きたいと言うなら全て一緒に連れていきます」と学校が言ってくださり、そのために何ができるのか病院と連携して考えてくれました。

 冬など感染症が流行る時期は、私はワクチンが打てなかったので保健室には行けませんでしたが、「学校には行きたい」というときは図書室を開放して勉強させてくれたり。中学2年の秋まで学校に行けない期間も多かったのですが、補習もしてくださって、本当に学校には恵まれていたと思います。

岸田 本当に素晴らしい学校ですね。そこまでしてくれる学校はなかなかないですし、とても良い環境だったんだなと感じます。ありがとうございます。

【恋愛・結婚】

岸田 そして、その後、恋愛、結婚のことについてお伺いしたいと思います。とても気になっていたのですが、先ほどの年表でも「彼氏とけんか」という話がありましたよね。これは、病気が原因だった部分もあったと思うのですが、詳しく伺ってもいいですか。

入江 もともと私は病気を隠して付き合うつもりはなかったので、自分がどんな病気だったかを話した上でお付き合いしていました。でも、やはり小児がんなど病気のことに対して偏見を持たれる方も少なくないと思うんです。その方は大丈夫かなと思っていたのですが、ご両親がその点をとても心配していて、あまり賛成ではなかったようです。「たくさんいる中で、どうしてわざわざ病気の子が良いの」といった感じだったみたいで。

 私は、自分が病気だからといって「今は大丈夫だよ」と言えても、将来の晩期合併症などの保証はできません。もちろん、誰でも未来は分からないですが、それでも“リスクを抱えた人を選ぶ”というところに、ご両親は納得がいかなかったのだと思います。その言葉を聞いた時はショックでしたが、逆の立場で考えた時、自分が全く病気がなく、相手が重い病気を抱えていたら…と考えると、当時の自分がどう答えていたかは正直分かりません。価値観の違いなのだと思います。悪いという話ではなく、そういう理由から理解が得られなかった経験がありました。

岸田 今はとても冷静に話してくれてるけど、あの時は大げんかだったわけだよね。意見の食い違いや、ご両親の考えもあって。その後はどうなったの?

入江 「病気じゃなかったら良かったね」と言われたことがあって、それを聞いた瞬間、「病気じゃなかったら、この過去も無いし、今の自分は出来上がっていないんだよな」と思えて。だから、「じゃあ、私は“私じゃなかった”んだ」と思ったら急に吹っ切れました。自分が闘病してきた過去はすごく大事で、頑張った自分がいるからこそ今の自分がいる。その自分を否定したくなかったし、そこを理解してくれる人がいたらいいなと思って過ごしていました。

 そして、今の夫と出会って、病気のことも全部理解してくれて、ご両親も私が全部説明しなくても「何も気にしなくていいよ」と言ってくださって。本当に嬉しかったです。自分の家族に病気の方がいるわけではないのに、そこを受け入れてくれるご家庭があるんだと分かったことが、本当にありがたかったです。

岸田 前のお付き合いで大変な思いをしたからこそ、今の旦那さんとそのご家族の温かさがより大きく感じられたんだろうね。……もう一度、結婚のお写真を見せてもらえますか?この時の旦那さんは、真依さんのすべてを分かった上で「それでも結婚したい」と選んだわけで。プロポーズの言葉、覚えてますか?

入江 はっきり「結婚しよう」という感じではなくて、自然に「いつ結婚する?」みたいな流れでした。でも、妊孕性の問題や晩期合併症のことも全部承知の上で、「それも含めて結婚しようと思ってるから、何も心配しなくていいよ」と言ってくれて。それが本当に嬉しかったです。

岸田 本当に素敵な旦那さんですね。最高です。

入江 ありがとうございます。

岸田 今、幸せな結婚生活を送られているということで、本当に良かったです。こういうパートナーに出会える方が、もっともっと増えてほしいなと思います。ありがとうございます。

【妊よう性】

岸田 その中で、次の項目なんですけれど、さきほど「妊孕性」という言葉が出てきました。妊孕性というのは、子どもを持つ力のことですが、真依ちゃんは、この点についてどのように感じていますか。

入江 私は、治療を受けるときに説明があったのかもしれないんですけど、足の病気のことも含めて、どこまで説明していただいたのか、あまり記憶に残っていなくて。やっぱり、病気が分かった段階で気持ちの余裕がほとんど無かったので、聞いていたとしても頭に入っていなかった、というのが正直なところだと思います。

 それで、自分が手術部で働いていた時に、病院で卵巣凍結の手術を導入するという話が出て、婦人科の先生が看護師たちに「なぜ卵巣凍結が必要なのか」というレクチャーをしてくださったんです。その中で、抗がん剤治療などで卵巣の機能が低下することがあるから、その前に卵巣を保存する必要があるという説明があって。「この薬、聞いたことあるな」と思って、自分の治療の記録を見返したら、実際にその薬を使っていたことを思い出して。

 そこで、そのレクチャーをしてくださった先生に院内メールで「私、その薬を使ったことがあるんです」と送ったら、「一度外来においで」と言ってくださって。外来でAMHという卵巣の予備能を測る検査を受けたところ、同年代の平均より数値が低いということが初めて分かりました。

 今後、もし妊娠できたとしても、自分がこれまで受けてきた治療が本当に影響しないのかどうか、心配な部分があるのは正直なところです。

岸田 当時は説明がなかった分、自分の仕事を通して知ることになったということですよね。

入江 そうですね。

岸田 今は数値が低いとはいえ、可能性がまったくゼロではない、ということでもあるわけですね。

入江 はい、そうです。

岸田 妊孕性について、丁寧にお話しいただきありがとうございました。

【仕事】

岸田 そして、その後、次の項目がこちらにあります。お仕事のことについてです。看護師になりたいと思って看護師になって、その後、体力的なところもあって…という話でしたが、その後はどうなっていったのでしょうか。

入江 その後、社会福祉士の仕事に転職してからは、デスクワークでの面談業務や電話での調整などが主になる、入退院の調整をする仕事なので、私が思っていた相談員さんのイメージとは少し違いました。

 でも、看護師と比べると体力的な面では楽なので、自分の頑張りで何とかなる仕事です。看護師は、自分がどれだけ頑張っても同じことができない現実があって。今のソーシャルワーカーは、自分が頑張ればみんなと同じ土俵で働けるので、「申し訳ない」「できなくてすみません」と言わなくていい。それがすごくありがたいなと思っています。

岸田 頑張ろうと思う真依ちゃんが本当にすごいよ。自分が頑張れば周りと同じ土俵に立てる。でも、看護師のときは体力的にどうしても難しくて、どれだけ頑張っても届かない部分があった…。だからこそ、今のお仕事のほうが向いているというか、やりがいを感じられるということだよね?

入江 そうですね。看護師をやりたいなという気持ちはまだゼロではないです。でも、この体と付き合っていくために、長いスパンで考えたとき、自分ができることを仕事として考えないといけないなと思います。もし看護師に戻るとしても、自分にできる形で考える必要があると感じています。

岸田 ありがとうございます。自分の体と対話しながら、というところですよね、お仕事については。

入江 はい。

【お金・保険】

岸田 そして、その次はこちらになります。お金、保険といったところで。真依ちゃんの場合は、小児の時に治療しているので、小児慢性特定疾病という医療費が無料になる制度があったと思うんです。それを使われていた感じですかね。

入江 そうですね。小児慢性特定疾患を使っていました。今の大腿骨頭壊死は指定難病に該当するので、特定疾病の申請をしていて、レントゲンを撮ったりする時は、そちらの難病の制度を今、使わせてもらっています。

岸田 小児期にそうなったら、壊死のほうもあったりしたら、民間の保険って入れるの?

入江 民間の保険は、私は自分で手続きしたわけではないんですけど、母がすごく頑張って調べてくれていました。掛け金がそこそこあって、返ってくるような保険は、どうしても長期フォローアップ外来に通っているとなかなか厳しいみたいで。そんなにたくさんは返ってこないけれど、でも困らないようにと、両親がいろいろ考えて入れてくれていました。

岸田 ご両親が考えて、少しでも出るものに入ってくれていたんですね。

入江 はい。そういうものに入っています。

岸田 ありがとうございます。

【辛い・克服】

岸田 そして、その後、つらい、克服といったところになります。これ、肉体的や精神的にいろいろあったと思うけれど、「この時つらかったな」と。ただ、それをどういうふうに乗り越えてきたかということを伺えたらと思います。どう? 今までの流れの中で、これ大変だったなって思うのはどのタイミング?

入江 やっぱり、治療中は抗がん剤で、私はすごく吐き気がするとかはあんまりなかったんですけど、関節が痛いとかは結構あって、痛くて寝られないというのは多かったです。ずっと両親がさすってくれたり、看護師さんが足湯をしてくれたり、気分転換になるようなことをいろいろしてくれました。

 あとは、抗がん剤を入れて血球を下げて、それが自分で上がってきたら一度外泊できるんですけど、この下がっている期間というのが、治療の回数を重ねると骨髄が弱ってくるのでどうしても長くなってしまうんです。長くなってくると、部屋から出られないとか、免疫が落ちている状況なので、最後のクールはたぶん1カ月くらい部屋から出られなくて。

 ベッドから動けるのもトイレに行く時だけという感じだったので、それは、「いつ良くなるのか」も分からないし、自分に期待しても採血の結果が悪かったらまた伸びてしまう。先が見えない時は、本当につらかったです。

岸田 先が見えないってつらいよね。だからこそ、治療中のことも治療後のこともあると思うけど、真依ちゃんはインスタで「先のこと」「こうなったよ」というのを発信しているんだよね。

入江 はい。

岸田 当時の乗り越え方って、耐えるって感じ?

入江 そうです。自分は結構イライラしたりしていたと思うんですけど、周りの家族や看護師さん、先生たちがみんな気をつかっていろいろ遊んでくれたりしました。姉も高校1年生で、みんなと遊んだり部活したかったと思うんですけど、毎日病院に来てくれて、テスト前とかはずっと病室の横で勉強してくれて。みんなで一緒に戦ってくれたのが本当に嬉しかったです。

岸田 お姉ちゃんも毎日来てくれるって、妹思いだね。

【後遺症】

岸田 そして、後遺症のこととを聞きたいと思います。今、晩期合併症とか、さっきの大腿骨頭壊死などのお話があったと思いますが、他にはどうでしょうか。何か、これもあるな、というものはありますか。

入江 他には、大腿骨頭壊死になった時に、たぶん成長期と重なっていたというのもあって、私、右と左の足の長さが違うんです。潰れている面積が右のほうが大きいのか、右足が少し短いんです。

 それで歩いたり背が伸びていったりしているうちに、背骨が回旋して固まってしまって、左右の筋肉のつき方が違ってしまって。片方だけうまく使えないので腰が痛くなる、というのが直接的な後遺症ではないかもしれないですが、あります。

岸田 なるほど。普通は両足が同じ長さだという前提がありますけれど、そういった影響が出ているんですね。

入江 靴の中に厚底の中敷きを入れて高さを合わせてもらったりしていたんですが、それも使い過ぎると痛みが出たりしていました。

岸田 その対処は、基本的には気をつけながら過ごす、ということになりますか?

入江 あとは、リハビリと出会ってからはストレッチを教えていただいたので、テニスボールを痛みのある場所に当てて自分でほぐしたり、そういう形で気を付けるようにしています。

岸田 そのリハビリとの出会いというのは、病院から紹介されたということですか?

入江 そうです。痛みで起き上がれない時期もあって、その時に小児科の主治医の先生が「一緒にピラティス行ってみようか」など、いろんな民間療法を提案してくれました。麻酔科にも相談してブロック注射を打っていただいたこともあったんですが、それでもやっぱり治らなくて。

 その時に、同じ病院の整形外科の先生がリハビリテーションを推奨されていて、本来リハビリは急性期の病気の後でないと適応にならないことが多いので、私もずっと断られていたんですが、その先生が「リハビリをやろう」と言ってくださって。小児科の先生からの個人的な紹介のような形で受けていただきました。

 歩き方などもすべて見直してくださって、リハビリの先生と連携して、どんな運動なら負担が少なく効果があるかなど、メニューも組んでいただいて。そのリハビリと出会えたからこそ、実家を離れて名古屋で生活することもできたと思っています。

岸田 それとの出会いが、真依ちゃんにとって大きな転機だったんですね。ありがとうございます。主治医の先生、本当にすごいですね。

【医療者へ】

岸田 そして、その次、医療者に対しての言葉を頂きたいです。いろんな看護師さんや今の主治医の先生だったり、色んな人に支えられたとありますけれど、その人たちへの感謝、もしくは「もう少しこうしておけば良かった」ということはありますか。

入江 私の場合は、感謝しかないなと思っています。当時の看護師さんたちも、私を励ますために「良い看護師さんになれるよ」といった言葉も含めて、いろいろ声を掛けてくださっていたと思うので、自分のモチベーションを下げないために工夫しながら関わってくださっていたんだと感じます。

入江 主治医の先生たちも、気づけば出会ってから18年ほど経ちますが、ずっと応援して支えてくださっていて、その姿勢は変わりません。本当にありがたいなと思いますし、先生方や看護師さんたちがいてくれたから今の自分がいると思っています。

岸田 本当に素晴らしいですね。周りの看護師さんや医療従事者の皆さんがいたからこそ、今こうして真依ちゃんが元気に過ごしているんだと思います。感謝ですね。ありがとうございます。

【Cancer Gift】

岸田 そして、その次、キャンサーギフトについてなんですけれど、キャンサーギフト、がんになって得たこと、得たもの。いろんな価値観があると思いますけれど、真依ちゃんが得たもの、得たことってなんでしょうか。

入江 がんになって一番大きく変わったのが、自分の価値観かなと思っていて。毎日、家族と過ごせて、ご飯が食べられて、たとえば学校に行ったり仕事に行ったりできることって、当たり前じゃないんだなっていうことが、その生活が全部できなくなって初めて分かったので、「当たり前」を大事にしようとは思うようになりました。

岸田 当たり前を大事にするっていう、日々ね。今の結婚生活も、当たり前だと思わずに大事にしてるっていうことですよね。

入江 そうです。思った時には、「ありがとう」って言うようにしています。

岸田 すてき。良いですね。

【夢】

岸田 そして、その中で、次の項目になります。先ほど「妊孕性」という言葉が出てきたと思いますが、妊孕性、つまり子どもを持つ力について、真依ちゃんはどう考えているでしょうか。

入江 私は、治療を受ける時に、今後起こり得ること……足の病気のこともそうですが、そのあたりをどこまで説明していただいていたのか、正直あまり覚えていないんです。多分、説明はしていただいていたと思うのですが、病気が分かった段階でいっぱいいっぱいだったので、自分にはほとんど残っていなくて。

 ただ、自分が手術部で働いていた時に、卵巣凍結の手術を導入するという話があり、婦人科の先生が「なぜ卵巣凍結を行うのか」という説明を看護師向けにしてくださったんです。その時、「この薬とこの薬を使うと卵巣機能が低下する可能性があるので、その前に卵巣凍結をする」と説明があって……その薬の名前を聞いた時に「あれ、これ聞いたことあるな」と思って、家に帰って自分のプロトコルを確認したら、まさにその薬を使っていたことに気付いて。

 その先生に院内メールで「私、その薬を使ったことがあるのですが……」と送ったら、「一度外来においで」と言ってくださって、外来でAMH(卵巣の予備能を測る血液検査)を受けました。そこで、同年代の平均より低い数値だということを、初めて知りました。

 今も、もし授かれたとしても、過去の治療が今後どんな影響を及ぼすのかはやっぱり心配です。「影響がないとは言えない」と思っています。

岸田 当時は説明がほとんど記憶に残らず、むしろ後から自分で知っていったということだよね。

入江 そうですね。

岸田 でも、低いとはいえ“ゼロではない”ということでもあるんだよね。

入江 はい、そうです。

岸田 妊孕性について、教えていただきありがとうございました。

【今、闘病中のあなたへ】

岸田 といった中で、真依ちゃん、90分の配信になってきましたけれど、真依ちゃんに最後にこのメッセージをいただいております。今、闘病中のあなたへといった中で、多分、いろんな方が見てくださっていると思うのですが。

 今、僕が「がんノート」をこうやって生配信している理由としても、闘病中で横になりながら外にも出られない方が、画面を見て少しでもクスッと笑ってくれたり、未来への見通しを持ってくれたらいいなという思いがあります。
今、闘病している方へのメッセージ。真依ちゃん、このメッセージを読んでいただいて、その理由も教えていただけますか。

入江 「今の頑張りはきっと将来の花を咲かせる糧になる」と、私は今思っています。この言葉を選んだ理由としては、私自身、先が見えない中で「いつまで頑張ればいいんだろう」「このつらさはいつ終わるんだろう」と、ずっと思っていたからです。
でも、その頑張りがあったからこそ、今の生活につながっていて、一つひとつが無駄じゃなかったと思えるんです。

入江 たとえ、その時頑張ったことが自分に直接返ってこなくても、周りの大切な人たちに、きっと良い影響として残るものがあると思っています。だから、今頑張っていることは絶対に無駄にはならない、ということを伝えたいです。

岸田 今、頑張っていることね。真依ちゃんも、看護師になって、そこから社会福祉士になって、さらに次の目標にも向かっていて、いろんなことがちゃんと繋がっていますよね。

入江 はい。

岸田 「頑張り」は、まさに入江真依さんを体現している言葉だと思います。本当に良い言葉。もらった時も言ったけど、本当に素敵だと思います。僕が言うと薄く聞こえてしまうんだけど……(笑)。ありがとうございます。

 ということで、「がんノート origin」、そろそろ終了していきたいと思います。先ほどのメッセージのURLは本日中に書いていただければ、皆さん嬉しいと思いますので、よろしくお願いします。
どうでした? 真依ちゃん、90分。あっという間だった?

入江 あっという間でした。楽しかったです。ありがとうございました。

岸田 ちなみに、皆さん、今の旦那さんとの馴れ初めについては「がんノート mini」で簡単に語っていただいていますので、そちらも見ていただければ、より理解が深まると思います。

岸田 真依ちゃん、今日は午前中からお忙しいところ、本当にありがとうございました。

入江 ありがとうございました。

岸田 これにて、「がんノート origin」終了したいと思います。それでは皆さん、またお会いしましょう。バイバイ。

入江 ありがとうございました。

※本ページは、経験者の体験談を扱っております。治療法や副作用などには個人差がございますので、医療情報に関しましては主治医や、かかりつけの病院へご相談、また科学的根拠に基づいたWebページや情報サイトを参照してください。
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