目次
- 【発覚から告知まで】テキスト / 動画
- 【治療から現在まで】テキスト / 動画
- 【家族】テキスト / 動画
- 【妊よう性】テキスト / 動画
- 【仕事】テキスト / 動画
- 【お金・保険】テキスト / 動画
- 【辛い・克服】テキスト / 動画
- 【後遺症】テキスト / 動画
- 【反省・失敗】テキスト / 動画
- 【医療者へ】テキスト / 動画
- 【Cancer gift】テキスト / 動画
- 【夢】テキスト / 動画
- 【ペイシェントジャーニー】テキスト / 動画
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インタビュアー:岸田 / ゲスト:池内
岸田 ライブ配信開始ということで、「がんノートorigin」をスタートしていきたいと思います。池内さん、本日はよろしくお願いいたします。
池内 よろしくお願いします。
岸田 本日はMCとして、池内さんのお話をたくさん伺っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。それでは、まず池内さんのプロフィールをご紹介しつつ、簡単に自己紹介をお願いできますでしょうか。
池内 はい。池内健一と申します。現在は埼玉県に住んでおりまして、年齢は51歳です。病気は精巣腫瘍で、ステージは3B。肺への転移もありました。発覚したのは2006年、35歳のときです。手術を行い、抗がん剤治療、その後さらに大きな手術をもう一度経験しました。再発も一度ありましたが、現在は経過観察となり、元気に過ごしています。本日はよろしくお願いいたします。
岸田 よろしくお願いします。ところで池内さん、今日は背景も真っ白で、Tシャツも真っ白ですね。しかも、そのTシャツ、何か特徴がありますよね。
池内 そうなんです。あえてこの色にしてきました。
岸田 わざわざ選んでくださったんですよね。
池内 はい。実はTシャツを集めるのが好きで、旅先でよく買っていたんです。このTシャツ、分かりますか?
岸田 ベトナムですか?
池内 そうです。ホーチミンで買ったもので、「テレコム」というデザインなんです。
岸田 テレコム?
池内 これ、何の絵だと思いますか。
岸田 電線ですか?
池内 はい。アジア方面に行くと、電線がものすごくごちゃごちゃしている光景をよく見かけるんですが、それをそのまま描いたデザインなんです。ホーチミンを訪れたときに見つけて、面白いなと思って買いました。
岸田 なるほど。旅先で買ったTシャツなんですね。
池内 そうなんです。それから最近は、少し流行っていますが、サウナにもよく行くようになりまして。
岸田 僕も今、サウナにハマっています。
池内 サウナ施設でもTシャツが売られていることが多くて、そういうものも集めています。例えば、これはロウリュウをモチーフにしたTシャツです。
岸田 あの、熱い蒸気を一気に出すやつですね。
池内 そうです。あれがまた良いんですよね。それから、こちらは横浜の「スカイスパ」というサウナのTシャツです。
岸田 すごいですね。
池内 最近は、こういったTシャツを少しずつ集めています。
岸田 がんとは全く関係ありませんが、池内さんの人となりがよく分かるお話ですね。
池内 そうですね。全く関係ない話です。
岸田 イベント用のTシャツかと思ったら、まさかベトナムのTシャツとは思いませんでした。
池内 全然違って、すみません(笑)。
岸田 いえ、大丈夫です。そういったお茶目な池内さんですが、ここからは池内さんの闘病経験について、じっくり伺っていきたいと思います。また、すでにライブ配信のコメントもスマートフォンから届いております。
「よしさん、こんにちは。今日も楽しみです」「池内さんのお話を楽しみにしています」といったコメントや「精巣腫瘍に関する情報が少ないので、貴重なお話を期待しています」という声も届いています。
さらに、「Tシャツおしゃれですね」というコメントもありますね。配信だと上半身しか映らないので、実際には全体は見えないんですけれども。
池内 そうなんですよね(笑)。
岸田 「サウナ行きたいな」というコメントもいただいています。ぜひ皆さん、気になることや聞いてみたいことがあれば、コメントでどんどん送ってください。それでは早速ですが、池内さんの闘病経験について、ここから詳しくお話を伺っていきたいと思います。
【発覚から告知まで】
岸田 まずは、発覚から告知までについて伺っていきたいと思います。池内さんは、どのようなきっかけでご自身のがんに気づかれたのでしょうか。教えていただけますか。
池内 はい。最初に気づいたきっかけは、本当に日常的なことでして、普通にお風呂に入って体を洗っているときでした。そのときに睾丸を触った際、「あれ、少し硬いな。こんな感じだったかな」と違和感を覚えたのが最初です。
その時点では、腫れているとか、痛みがあるといった症状は特にありませんでした。ただ、何となく硬いなという感覚だけが残っていて、「でも痛くもないし、何だろうな」と思いながらも、場所が場所だけに、病院に行くのを正直ためらってしまいました。
岸田 やはり、少し恥ずかしさのようなものもありますよね。
池内 そうですね。変な病気をもらったんじゃないか、なんて一瞬考えてしまったりもしました。それでも、「こんなに硬かったかな」という違和感がずっと頭に残っていて、気になり続けていました。
ちょうどその頃、父が入院していまして、その病院に泌尿器科があったんです。そこで「異常がないと言われればそれまでだし」と思い切って相談してみることにしました。
診察でエコーを当ててもらったところ、すぐに「腫瘍の疑いが高いです」と言われ、そのまま手術が決まる、という流れでした。
岸田 お父さまが入院されていた病院だったからこそ、受診できたということなんですね。
池内 そうですね。まったく別の病院に行くとなると、さらに躊躇していたと思います。たまたまお見舞いで通っていた病院に泌尿器科があったので、「ここなら」と思って行けたのは大きかったです。
池内 結果的に、その病院で左側の精巣摘出手術を受けることができました。父と同じ病院に、親子で入院していたという、少し不思議な状況でしたね。
岸田 それは本当に、結果的には大きなきっかけになりましたね。ちなみに、その時点で大きさの変化はあったのでしょうか。
池内 実は、大きさはほとんど変わっていなかったんです。腫れる方も多いと聞きますが、私の場合は腫れはありませんでした。
岸田 そうなんですね。私は結構腫れていたので、意外です。
池内 よく卵くらいの大きさになる方もいるそうですね。でも私は、腫れはなく、ただ硬くなっていただけでした。
岸田 硬さの違いだけだったと。
池内 はい。男性の方なら分かると思いますが、通常そこまで硬いものではないですよね。明らかに感触が違っていて、「これはおかしいな」と思いました。
ただ、その違和感がありながらも、すぐに病院へ行けず、悶々としている時間がありました。今振り返ると、そこでもう少し早く受診できていれば、という思いはあります。
岸田 ありがとうございます。コメントでも「異変に気づいてから病院に行くまで、どれくらい期間がありましたか?」という質問が来ていますが、そのあたりはいかがでしたか。
池内 そうですね。今思い返すと、異変に気づいてから受診するまで、3週間くらいは経っていたと思います。
岸田 やはり、それくらい悩まれる方も多いですよね。
【治療から現在まで】
岸田 ホノルルマラソンにも参加されていて、本当にアクティブに過ごされていた池内さんですが、ここまでが発覚と手術のお話でした。ただ、精巣腫瘍は「手術で終わり」と思われがちですが、ここからが本番でもありますよね。
ということで、次のフリップにいきたいと思います。手術後、腫瘍マーカーが下がらなかったということですが、一般的には精巣腫瘍は摘出手術をすると腫瘍マーカーが下がりますよね。
池内 そうですね。腫瘍マーカーはいくつか種類があって、確か3種類くらいあったと思います。その中でAFPというマーカーだけが、どうしても陰性化しきらなかった、下がりきらなかったんです。
手術後は月に1回くらいのペースでCTを撮っていました。その時点では画像上では何も写っていなかったんですけれども、2007年の1月に撮ったCTで、リンパ節、さらに肺への転移が見つかりました。
岸田 これはあくまで個人的な推測ですが、手術までに少し時間が空いたことも、関係していた可能性はあるんでしょうか。
池内 そこは正直、分からないですね。ただ、年明けに肺にも複数の転移があると言われたのは、今でもはっきり覚えています。その時、主治医の先生から突然「ご家族を呼んでください」と言われたんです。
岸田 それは相当、驚きますよね。
池内 はい。「え、何があったんだろう」と思いながら家族を呼んで、診察室でCT画像をバーッと並べられました。でも、正直、素人が見てもどこがどうなのか分からないんですよね。
そこで「ここに転移があります」と説明されて、とにかく「抗がん剤治療が必要です」「病院を変わらないといけません」と言われました。
岸田 その病院では抗がん剤治療ができなかったんですね。
池内 そうなんです。そこは大学病院のような大きな病院ではなく、地元の比較的小規模な病院でした。
先生からは「築地の国立がんセンター」や「がんセンター」を勧められました。ただ、私は埼玉に住んでいたので、築地は少し遠いなと思って、「他にありませんか」と聞いたんです。
そうしたら、「板橋に帝京大学病院があります」と言われました。実は、昔、姉が入院したことがある病院で、場所も分かっていましたし、通いやすさも考えて、そこでお願いしますと伝えて転院しました。
岸田 そこから抗がん剤治療が始まるわけですね。そしてフリップにある「奇跡の出来事」、これがとても気になります。何があったんですか。
池内 これは、私の闘病の中で、どうしても外せない出来事なんです。岸田さんは、入院中はどんなふうに過ごされていましたか。
岸田 私はアニメを一気見していましたね。「今なら1日12話いけるぞ」みたいな感じで(笑)。あとは、友人が面会に来てくれて話したりしていました。
池内 人と話すって、本当に大事ですよね。実は私、入院中に欠かせなかったものがあって、それがラジオだったんです。
岸田 ラジオですか。
池内 はい。埼玉に住んでいるので、FM NACK5というラジオ局をよく聴いていました。平日の夕方に放送されている番組があって、それまでラジオに投稿したことなんて一度もなかったんですけど、転院して抗がん剤が始まる直前、不安な気持ちが強くて、思い切ってメールを送ったんです。
「今、入院していて、こういう状況です」という内容を書いたら、その日の放送で読んでくれて、パーソナリティの方が「頑張れよ」と応援してくれたんです。
それが本当に嬉しくて、その後も何度か投稿するようになりました。その番組は公開生放送をよくやっていて、大宮駅の近くにサテライトスタジオがあったんです。
パーソナリティは、ケイザブロウさんという男性の方でした。「一度お礼を言いたいな」と思って、外泊許可が出た日に、病院へ戻る途中で大宮に立ち寄って、スタジオの前まで行ったんです。
放送中だから話せないかなと思っていたら、CMや交通情報の時間に、スタジオの外に出てきて、見に来ている人たちと話していたんです。
岸田 そこで、「あの時、投稿した池内です」と。
池内 そうですね。その時が、ケイザブロウさんと初めて直接お会いした瞬間でした。ちょうど抗がん剤を2クールやる直前の時期だったと思います。読んでいただけた嬉しさと、これから始まる治療への不安が重なって、思わずその場で涙が出てしまったんです。
すると、ふと見ると、ケイザブロウさんご自身も涙を流されていて。初めて会ったにもかかわらず、そこまで自分のことを気に掛けてくれているというのが本当に嬉しかったですね。
その後も番組にメールを送り続けて、治療の状況や、その時々の気持ちを伝えていました。時折、それを放送で読んでいただくこともありました。
そんな中、ある日、番組のディレクターさんから突然メールをいただいたんです。「実は、番組で“命”をテーマにした特集を組もうと思っている」と。
後から聞いた話ですが、そのディレクターさんの奥さまは、がんで亡くなられていたそうです。また、パーソナリティーのケイザブロウさんのお母さまも、がんで亡くなられていて、さらに先輩や同僚の中にも、若くしてがんで亡くなった方がいらっしゃったとのことでした。
そうした背景があって、「ぜひ話を聞かせてほしい」と言っていただきました。当時、私はラジオネームを“池ちゃん”として投稿していたんですけれども。
岸田 安易なネーミングですね(笑)。
池内 安易なんです。すみません(笑)。特に工夫もなく。
そのディレクターさんから、「ケイザブロウさんと話をする様子を録音したい」と連絡をいただきました。実は私、闘病中にブログを書いたり、日記を残したり、写真を撮ったりといったことをほとんどしていなかったんです。
闘病の記録を残すこと自体が、少し怖かったという思いもありました。ただ、「それで誰かの力になるなら」と思い、出演をお引き受けしました。
二人で色々な話をさせていただいて、その録音した声が、番組の特集の中で放送されました。
岸田 実際にオンエアされたんですね。
池内 はい。すると、そこから多くのリスナーさんから、励ましや応援の言葉をいただくようになりました。抗がん剤治療は本当にきつくて、副作用もかなり強く出ていたので、正直、心が折れそうになることも多かったです。
でも、直接会ったことのないリスナーの方々や、ケイザブロウさん、番組スタッフの皆さんに支えられて、抗がん剤治療や、その後の大きな手術を何とか乗り越えることができたと思っています。
岸田 本当に、ラジオを通して人とつながり、支え合える経験だったんですね。それはものすごく大きな力になりますよね。
池内 本当にそうです。私の闘病において、ラジオは欠かせない存在でした。
岸田 分かります。今振り返ると、私自身も入院中にラジオをよく聴いていました。今でも、日曜日の夕方にラジオを聴く時間が好きなんです。ラジオって、いいですよね。
それでは、次のフリップに進みたいと思います。転院後、薬を変更して抗がん剤治療を継続されたということですね。帝京大学病院で治療を受けられたと。
池内 はい。
岸田 その後、後腹膜リンパ節郭清の手術を受けられていますが、これはお腹の奥のリンパ節ですよね。肺だけでなく、そこにも転移があったということですか。
池内 そうですね。肺の転移は抗がん剤でほぼ消えてくれました。ただ、CTを見ると、後腹膜のリンパ節に影が残っていて、「取ってみないと分からない」という話になりました。
抗がん剤は全部で5クール行い、その後に、この後腹膜リンパ節郭清という大きな手術を受けました。主治医に「手術はどのくらいかかりますか」と聞いたら、「半日から、場合によっては1日かかる」と言われました。
岸田 相当な大手術ですね。
池内 はい。それを乗り越えて、約10か月ぶりに仕事に復帰しました。
岸田 体力的には、かなり大変だったのではないですか。
池内 想像以上でした。手術直後は、本当に体力が落ちていました。管が少しずつ外れて、歩けるようになった頃に、外出許可をもらって病院の外を歩いてみたんです。
病院から最寄り駅まで15分くらいだったんですが、5分歩いただけでヘトヘトになってしまって、すぐに引き返しました。
仕事に復帰してからも大変でした。復帰したのが9月で、だんだん寒くなる時期だったんですが、お腹に15センチほどの手術痕があって、寒くなると突っ張るような痛みが出るんです。
それで、動けなくなることもありました。
岸田 ありがとうございます。コメントでも、「ラジオのリスナーさんに応援してもらえるのはすごい」「ラジオはつながりを感じられるメディアですよね」といった声が届いています。
また、「抗がん剤は何を使われたんですか」という質問も来ていますので、簡単に教えていただけますか。
池内 最初は3剤併用で、シスプラチン、エトポシド、ブレオマイシンという抗がん剤を使いました。いわゆるBEP療法ですね。これを3クール行いました。
その後、まだCTで影が残っていたため、薬を変更して、イリノテカンとネダプラチンの2剤併用で、追加の治療を行いました。
岸田 薬を変更されたということは、最初の抗がん剤が効かなかったということなのでしょうか。それとも、そういうわけではないのでしょうか。
池内 そういうわけではないと思います。最初の3クールで、肺の転移は消えましたし、リンパ節もかなり小さくなっていました。ただ、同じ抗がん剤を何クールも続けて使えるわけではないようで、このタイミングで薬の種類を変えましょう、という判断だったと思います。
岸田 ということは、抗がん剤治療はトータルで3〜4か月ほど続いていたということですか。3月から始まって。
池内 いえ、1月からですね。
岸田 1月からでしたか。
池内 はい。1月から始めて、最初の3クールを行い、その後も含めて、5月頃まで抗がん剤治療をしていました。
岸田 ありがとうございます。その後、お父さまがご逝去されたということですが、お父さまも闘病されていたのですか。
池内 はい。父は脳梗塞を患い、長い間入院していました。左半身が動かなくなり、言葉もあまり出なくなっていたので、実は私ががんで闘病していることは、ずっと伝えていなかったんです。
仕事に復帰してから、久しぶりにお見舞いに行った時に、初めて「実はがんになって、治療していたんだ」と伝えました。普段はほとんど言葉を発することがなかった父ですが、その時に一言、「よく頑張った」と言ってくれました。それまで、そんな言葉を掛けられたことは一度もなかったので、その言葉が父からもらった最後の言葉になったのかなと思っています。その言葉をもらってから、ひと月ほどで父は亡くなりました。今思うと、私が元気になった姿を見届けてくれたのかな、分かってくれていたのかな、と感じています。
岸田 ありがとうございます。その後、2008年に残っていたリンパ節に再発が見つかり、再び抗がん剤治療をされたとのことですが、その途中で奥歯の抜歯などもあったそうですね。
池内 はい。抗がん剤治療中は、虫歯があるといけないと言われますよね。岸田さんも、そういう説明を受けたことはありますか。
岸田 あります。私も抗がん剤の影響で抵抗力が落ちて、口内炎がたくさんできたりしました。
池内 そうですよね。私も、歯が浮いているような違和感があって、入院先の口腔外科で診てもらったんです。レントゲンを撮ったところ、歯茎の中に袋のようなものができていて、「これは抜かないといけない」と言われました。
4本抜くことになり、かなり時間もかかるため、抗がん剤の1クール分、治療がひと月ほどずれ込んでしまいました。
岸田 それは不安になりますよね。
池内 本当にそうでした。ただでさえ身体に負担が掛かっている中で、まさか歯まで失うとは思っていなかったので、正直きつかったです。
岸田 歯を失うのは精神的にも大きいですよね。
池内 下の歯だったのですが、2本ずつ抜く形になりました。そうすると食事も不自由になりますし、しかも抗がん剤治療中なので、すぐに歯の治療に取り掛かれるわけでもなく、しばらく歯がない状態で過ごすことになりました。
岸田 そうなると大変ですね。その後の抗がん剤は、再発時も同じ薬を使われたのですか。
池内 はい。先ほどお話ししたイリノテカンとネダプラチンを、再度使いました。画像上はCTで転移は消えていたのですが、腫瘍マーカーであるAFPが、どうしてもわずかに下がりきらない状態が続いていました。
岸田 なるほど。マーカーが下がりきらなかったため、治療を続けたということですね。
池内 そうです。
岸田 コメントでも、「お父さまの言葉、素敵ですね」「抗がん剤中断しても歯の治療が優先されるのですね」といった声が届いています。確かに、抗がん剤よりも歯の治療を優先するというのは、意外に感じる方も多いかもしれません。
池内 私も、最初は驚きました。ただ、「虫歯菌が抵抗力の落ちている身体に回って、特に脳に行くと命に関わる」と説明されて、それなら仕方がないと思いました。
岸田 そういう理由があったんですね。そして次のテーマが、セカンドオピニオンです。ここでも治療は続いていたということですね。
池内 はい。歯の治療で遅れていた抗がん剤をもう1クール行いました。画像上は消えているけれど、AFPがほんの少し下がりきらない状態が続いていました。
その時の主治医の先生は、「まだ下がりきらないから、抗がん剤を続けましょう」という判断でした。ただ、抗がん剤はやるたびに身体への負担が大きくなります。画像は消えているのに、マーカーだけが下がらない。このままで本当にいいのだろうか、という疑問が強くなっていきました。
もしかしたら、他の先生に意見を聞いたら、違う選択肢があるのではないかと思い、セカンドオピニオンを考えるようになりました。
岸田 セカンドオピニオン先は、どのようにして決められたのですか。
池内 最初はですね、全く分からなくて、まず最初に行ったのが築地の国立がんセンターでした。地元の病院にかかった時に、「どこに行ったらいいか」と聞いた際、国立がんセンターの名前を挙げられていたのを覚えていたので、まずはそこに行ってみようと思ったんです。
ただ、その時にちょうど、当時の国立がんセンターの泌尿器科では、精巣腫瘍はあまり得意ではない、というようなお話をされていました。正直、国立がんセンターと聞くと、どんながんでも専門的に診てくれる、というイメージがあったので少し驚きました。
ただ、よく考えると、精巣腫瘍は患者数も少ないですし、がんの種類によって得意分野があるというのは、確かにそうだなと納得しました。その時に診てくださった先生から、「もし次にセカンドオピニオンに行くなら、京都に三木先生がいます。関東なら筑波に河合先生がいます」と教えていただいたんです。
そこで、まずは距離的にも近い筑波大学附属病院に行ってみようと思いました。国がんに行った時は、実は画像などの資料を何も持たずに行ってしまっていたので、「次は必ず資料を持って行きなさい」ともアドバイスをいただきました。そして改めて、筑波大学附属病院の河合先生のところへ、セカンドオピニオンに行きました。
岸田 お話を聞いてもらって、そのまま転院されたということですね。
池内 はい。筑波の先生からは、「もし抗がん剤を続けるのであれば、薬の種類は変えた方がいい。今まで使ってきた薬は、もう効きにくい可能性がある」と言われました。
それと同時に、「この状況なら、経過観察という選択肢もあるのではないか」という話もしていただいたんです。その内容を、当時入院していた病院の主治医にそのまま伝えました。そうしたら、「うちの病院では、この状態で経過観察という選択はない。抗がん剤を続ける」という判断でした。
そこで、自分でどちらを選ぶか、という選択を迫られました。経過観察という道があるなら、私はそこに賭けてみたいと思いました。仮に、その選択をして再発したとしても、「あの時、自分なりに考えて、最善だと思う選択をした」と思えるなら、後悔はないだろうと思ったんです。そうして、経過観察を選び、筑波大学附属病院へ転院しました。
岸田 ありがとうございます。コメントで、「症状は硬くなるだけだったようですが、どれくらいの硬さだったのですか?」という質問が来ています。
池内 うーん、例えるなら、スーパーボールくらいの硬さですね。
岸田 スーパーボール。
池内 はい。大きさもちょうどそのくらいで、明らかに普通では考えられない硬さでした。
岸田 ありがとうございます。「セカンドオピニオンはすぐ予約が取れましたか?」という質問も来ています。
池内 その時は比較的すぐ取れましたね。だいたい1週間くらいだったと思います。
岸田 当時は2008年頃のお話ですので、今とは状況が違う部分もあると思いますが、今は精巣腫瘍をしっかり診ている施設も増えています。皆さん、必ず主治医の先生とよく相談してください。
岸田 経過観察となり、その後お仕事に復帰され、患者会にも参加されたということですね。J-TAGとの関わりについても教えてください。
池内 はい。経過観察になって外来で通っていた時に、主治医の先生から「こういう患者会が立ち上がるんだけど」とチラシを渡されたんです。
それまで患者会という存在自体、あまり意識したことがなかったのですが、「精巣腫瘍で患者会が立ち上がるんだ」と知って、もし可能なら参加してみたいと思いました。その年の10月に立ち上げイベントがあり、そこに参加したのが、J-TAGとの最初の関わりです。
岸田 ありがとうございます。そして次の出来事として、お姉さまがすい臓がんと宣告されたというお話があります。
池内 はい。7歳上の姉でした。最初は「腰が痛い、腰が痛い」と言っていて、仕事柄、重いものを持つこともあったので、腰痛かなと思っていました。
ただ、なかなか痛みが治らず、詳しく検査をしたところ、すい臓がんで、しかも肝臓まで転移していて、手術ができない状態だと言われました。姉からその話を聞いた時、すい臓がんというと、見つかった時には進行していることが多い、というイメージがあったので、本当に衝撃でした。
それまで自分ががんを経験した「患者の立場」でしたが、今度は「家族の立場」になった時に、どう接すればいいのか、どう声を掛ければいいのかが全く分からなかったんです。それが、自分ががんになった時よりも、何十倍、何百倍も辛く感じました。家族の立場って、こんなにも苦しいものなのかと、初めて思い知らされました。
岸田 患者さんからは「今まで通り接してほしい」と言われることも多いですが、実際にはどう接するのが良いのか、本当に悩みますよね。池内さんは、どのように接されましたか。
池内 出来るなら、なるべく今まで通り接したいとは思っていました。ただ、実際にはその事実を知ってしまっている中で、どう接したらいいのか分からなくなる瞬間も多くありました。
特に印象に残っているのが、今後の治療の話になり、抗がん剤を使うという話が出た時です。その時、姉が抗がん剤をとても怖がって、泣き出してしまったんですね。
それを見た時に、もしかしたら自分が抗がん剤治療で副作用が強く出て、吐き気などで苦しんでいる姿を見せてしまったから、姉に余計な恐怖を与えてしまったのではないか、という自責の念のような気持ちが生まれました。
そう思うと、普通に接したい気持ちはあるのに、心の中では「どうしたらいいんだろう」という不安がずっと消えずに続いていました。
岸田 そして、その後、お姉さまは抗がん剤治療を開始されますが、結果的に旅立たれてしまうんですね。
池内 はい。最初は通院で抗がん剤治療を続けていました。途中から、7月頃だったと思いますが、入院することになりました。
入院後も抗がん剤治療は一応続けていたのですが、がん細胞が消えることはなく、さらに別の副作用として脳梗塞を起こしてしまうなど、状態はあまり良くありませんでした。
最終的には緩和ケア病棟に移り、8月に旅立ちました。
岸田 本当に、コメントでも「お姉さんもがんだったんですね」「身近な家族ががんになるのは、自分がなるより辛いかもしれないと感じます」という声が届いています。家族は“第二の患者”と言われますが、まさにそうですよね。
池内 本当にその通りだと思います。
岸田 そうした経験を経て、その後は啓発イベントへの参加や、J-TAGでの活動にもつながっていくんですね。
池内 はい。姉がすい臓がんだと分かった2015年頃に、ピアサポートの活動が始まりました。これは、がん経験者である私たちが、患者さん本人やご家族の話を伺う活動です。
その活動が茨城県の筑波で始まり、そこから2016年には、ジャパンキャンサーフォーラムなどのがん啓発イベントや、モーフェスタといった男性特有のがんに関する啓発イベントにも参加するようになりました。
そうした場で多くの方と出会い、つながりが広がっていきましたし、自分自身も学ぶ機会をたくさんいただきました。
その中で、精巣腫瘍という病気を、もっと多くの人に知ってもらいたいという思いが強くなり、J-TAGの活動にも深く関わるようになりました。
岸田 現在はJ-TAGの副代表として、活動を引っ張る立場でもいらっしゃいますよね。
池内 はい。出来る範囲ではありますが、関わらせていただいています。
岸田 ここで、闘病前・闘病中・闘病後のお写真を見ていきたいと思います。まず、闘病前のお写真がこちらです。しっかり走っていますね。
池内 そうですね。これはアクアスロンという競技で、スイムとランの2種目を行うものです。確かこの時は、1キロ泳いで、その後に5キロか10キロ走ったと思います。
岸田 一番右の写真は、何をされている時のものですか?
池内 これは海外ですね。確かこの時は、旅行先で撮った写真だったと思います。こうして見ると、本当に闘病前は、仕事も趣味もかなりアクティブに動いていたなと改めて感じます。

池内 これは海外旅行に行った時の写真です。精巣腫瘍になる年の年明けで、発覚する直前に行った旅行ですね。ネパールのカトマンズに行った時の写真です。
池内 普段、自分自身を撮ることがあまりないので、今となっては自分でも貴重な一枚だなと思っています。
岸田 パッと見た時、一瞬「ジョイマンの若かりし頃かな?」って思いました(笑)。冗談ですけど、本当にアクティブに動かれていたのが伝わってきます。
池内 そうですね。
岸田 そして、治療中のお写真がこちらです。かなり雰囲気が変わりましたね。
池内 そうですね。正直、この写真を出すかどうか迷いました。ただ、このサングラスに坊主頭という姿は、抗がん剤治療を5クール終えた頃のものです。実はこの時点でも、これでも髪の毛はだいぶ戻ってきているほうなんです。ひげもかなり生えていて、今振り返ると、なかなかインパクトのある姿ですよね。
岸田 サングラスをかけているのは、目に副作用が出たからですか?
池内 いえ、全く関係ないです。
岸田 そうなんですね。
池内 右側の写真ではハンチング帽を被っていますが、抗がん剤で髪の毛が抜けてしまったので、帽子を被ることが増えました。あとは、普段はあまりサングラスをかけるタイプではなかったんですが、治療中に気分転換というか、おしゃれの一環で安いサングラスを色々買っていて、その中の一つがこれでした。
池内 ただ、今思うと、この人相でサングラスをかけるものではなかったなと、少し反省しています。
岸田 でも、帽子を買うのは多くの方が経験しますよね。
池内 そうですね。真ん中の写真は、入院中に病院で撮った、唯一の自分の写真だと思います。後腹膜リンパ節郭清という、お腹を大きく切る手術をした直後、数日後くらいの写真ですね。
お腹のところに白いものが見えると思うんですが、これは手術跡をホッチキスのような金具で留めていて、その上からさらしを巻いて固定している状態です。
岸田 ぶら下がっているペットボトルのようなものは何ですか?
池内 これは痛み止めです。背中にまだ針が入っていて、そこから痛み止めの薬を入れていたので、それをぶら下げていました。これが、本当に「入院中の自分」を写した唯一の一枚ですね。
岸田 そして、闘病後のお写真がこちらになります。イベントでの写真ですね。
池内 はい。これは、がん啓発イベントや患者会の活動に参加している時の写真です。治療を終えて、こうして人前に立って話す機会をいただけるようになったのは、自分にとっても大きな変化でした。
闘病前の自分、治療中の自分、そして今の自分を並べて見ると、本当にいろんな時間を通ってきたなと感じます。

池内 そうですね。左側、後ろはモーフェスタって書いてあるんですけれども、モーフェスタの宣伝もしつつ、これは確かキャンサーフォーラムですか、築地の国がん、他の色んな団体の方も参加されているところでJ-TAGのブースを出展して、あのJ-TAGの紹介ですとかしてたりするところですね。右側のがJ-TAGの先ほどお話しいただいた公開講座というところで。
岸田 お話をされた。
池内 そうですね。
【家族】
岸田 なるほど。包み隠さず、早い段階から正直に伝えていったということですね。
池内 そうですね。隠しても、どこかで必ず伝わるものですし、余計な誤解や心配を生んでしまうよりは、事実をそのまま伝えたほうが良いと思いました。
岸田 お父さまに関しては、少しタイミングを考えられたと。
池内 はい。父はすでに入院していましたし、精神的な負担をなるべく増やしたくなかったという思いがありました。手術も一通り終わって、自分の状態が少し落ち着いてから、「実はこういうことがあって」と、簡単に伝えたという形です。
岸田 ご家族からのサポートという点では、いかがでしたか。
池内 母は高齢でしたので、無理はしないで良いよ、というスタンスでした。頻繁ではありませんが、お見舞いに来てくれたり、気にかけてくれていましたね。抗がん剤治療で病院を転院した時には、姉とはメールで連絡を取り合っていて、「こういう雑誌を読みたい」「この新聞が欲しい」といったお願いをして、来る時に買ってきてもらうこともありました。そういう小さな甘えはありましたが、いわゆる手厚いサポートというよりは、必要な時に必要な分だけ、という感じだったと思います。
岸田 それぐらいの距離感が、池内さんにとってはちょうど良かったという感じでしょうか。
池内 そうですね。過剰に心配されるのも、正直つらい部分はありますし。見守ってくれる、必要な時に手を差し伸べてくれる、そのぐらいがありがたかったです。
岸田 ちなみに、池内さんはご結婚はされていらっしゃいますか。
池内 いえ、していないです。
岸田 独身ということですね。
池内 はい。いわゆる独身貴族です。良いのかどうかは分かりませんけれども。
【妊よう性】
岸田 ありがとうございます。それでは続いて、妊孕性についてお伺いしたいと思います。妊孕性、つまり妊娠する能力、生殖機能についてですが、池内さんの場合、抗がん剤治療や手術の影響はいかがでしょうか。
池内 実際、現在の状況としては、後腹膜リンパ節郭清という手術の影響で射精障害があります。そのため、自然妊娠は難しい状態です。
池内 また、精子保存についてですが、最初に地元の病院で入院した際に話はありました。ただ、その時点では抗がん剤治療まで進むとは正直想像できておらず、「そこまで深刻にはならないだろう」という思い込みもあり、結果として精子保存を行いませんでした。
池内 そのため、現在もし子どもを望む場合には、睾丸から直接精子を採取するなど、不妊治療を検討しなければ難しい状況です。
岸田 ありがとうございます。妊孕性に関するお話は、とても現実的で大切なテーマですね。こうした状況について、恋愛や結婚の場面では、どのタイミングでお相手に伝えようと考えていますか。
池内 黙ったままというわけにはいかないと思っています。結婚を意識する相手ができた場合には、必ず伝える必要があると思います。
池内 特に、将来の話になって「子どもが欲しい」という話題が出た時には、自分には自然妊娠が難しい現状があることを伝えなければなりません。それは正直、とてもつらい部分でもあります。
池内 自分自身は、結婚したら子どもが欲しいという気持ちをずっと持っていました。その分、現実とのギャップに悩むこともあります。ただ、現実は現実として受け止め、きちんと向き合って伝えるしかないと考えています。
岸田 本当に、患者さんはこの部分で大きく揺れますよね。私自身も射精障害を経験しましたし、精子凍結はしていましたが、男としてのアイデンティティについて深く考えさせられました。池内さんのお話、非常に共感します。
岸田 ここで、いただいているコメントを少しご紹介させてください。
岸田 青木さんからは、「原澤つぐみさんの動画を見て、『幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せ』という言葉に勇気をもらいました」というコメントをいただいています。
岸田 また、「J-TAGとは何の略ですか?」という質問に対して、Transmitterさんからご回答をいただいています。
池内 はい。J-TAGは Japanese Association of Testicular cancer Assist Group の略で、精巣腫瘍の患者・サバイバーを支援する団体です。Testicular cancer が精巣腫瘍を意味しています。

岸田 こちらがJ-TAGさんのホームページになりますかね。ジェータッグ、なのかな? 僕、ずっとジェータグって言ってましたけど。
池内 大丈夫です。そこはあまり細かくこだわっていないので。名称そのものを、皆さんに覚えていただけるだけで本当に十分です。こうして紹介していただけることが、何よりありがたいです。ありがとうございます。
【仕事】
岸田 僕も精巣腫瘍になっているのでJ-TAGに入っているんですが、毎年、年会費を払い忘れるという……ちゃんと払います。去年までは払っていて、今年はまだなので、必ず払います。すみません。ということで、J-TAGの話題でした。
続いて、仕事のことについて伺っていきたいと思います。先ほど、1回目の治療では10か月、2回目では7か月ほど休職してから仕事に復帰されたとお話がありました。休む際のことや、復帰してから気を付けたこと、職場の方々との関係などはいかがでしたか。
池内 そうですね。
岸田 ちなみに、池内さんはどのようなお仕事をされているんですか。
池内 会社員ではあるのですが、鉄道に関連した仕事をしています。電車の運転などに直接関わる部署ではありませんが、鉄道に関係する業務に携わっています。
岸田 そのお仕事の中で、休職や復帰はスムーズに進みましたか。
池内 はい。当時の職場の方々には、比較的理解してもらえたのかなと思います。35歳の頃でしたので、後輩も多かったのですが、そうした人たちにも支えてもらいましたし、同僚や上司の方々も温かく接してくれました。
復帰するタイミングも、夏に大きな手術をしていたので、7月・8月の暑い時期を避けて、お盆明けからゆっくり始めようと言ってもらえました。その配慮は、今でも本当にありがたく、感謝しています。
岸田 職場復帰後、体力面などで工夫されたことはありましたか。
池内 当時の職場は夜勤もある部署だったのですが、復帰してしばらくは夜勤には入らず、朝から夕方までの勤務にしてもらいました。体力が少しずつ戻ってきてから、段階的に元のシフトに戻す形でした。その点も、本当に恵まれていたと思います。
岸田 会社の制度、例えば休職制度なども利用されましたか。
池内 はい。きちんと休職制度を利用させてもらい、最終的には元の職場に戻ることができました。その制度があったことも、本当に助けになりました。
【お金・保険】
岸田 ありがとうございます。続いて、仕事とも切っても切れない「お金」のことについても伺いたいと思います。当時は、貯金を切り崩して生活されていたのか、それとも保険などで対応されていたのでしょうか。
池内 生命保険には入っていて、入院給付金や手術給付金は受け取っていました。ただ、最初の抗がん剤治療が5クールと長期間になったため、入院給付金の日数に上限があったんです。確か、私の場合は120日だったと思います。
岸田 なるほど。
池内 入院期間がその日数を超えてしまったので、途中から入院給付金が出なくなりました。その頃からは、貯金を切り崩しながら生活していました。
岸田 給付が途中で止まってしまったんですね。
池内 はい。さらに休職している間は収入が途絶えてしまいますが、年金や税金など、支払わなければならないものは変わらずあります。収入がない中で、毎月数万円単位の支払いが続くのは、正直かなり厳しかったです。
池内 加えて、保険でカバーしきれなくなった入院費もありましたし、先ほどお話しした歯の治療も大きな出費でした。歯を抜いた後、インプラント治療をしたのですが、これは保険がほとんど使えず、全額自己負担でした。
岸田 インプラントって、結構な金額になりますよね。
池内 そうなんです。数十万円単位の出費で、これは正直、予想していなかった部分でした。結果的に、保険だけですべてをカバーできたわけではありませんでした。
岸田 差し支えなければですが、治療全体で、自己負担はトータルでどれくらいになりましたか。
池内 抗がん剤治療、入院費、再発時の治療、歯の治療など、すべて含めて考えると……自己負担額は200万円を超えていたと思います。
岸田 かなりの金額ですね。
池内 そうですね。特に後半は保険が出なくなったので、実質的にはその半分以上は自己負担だった感覚があります。
岸田 本当に、保険の内容や給付条件を事前にしっかり確認しておくことの大切さを感じますよね。
池内 本当にそう思います。病気になって初めて、自分が入っている保険の内容や限界、そして有り難さを実感しました。
岸田 しかも、治療の流れの中で歯の治療まで必要になるとは、普通は想像しませんよね。
池内 それが一番、想定外でしたね。
【辛い・克服】
【後遺症】
岸田 了解です。ありがとうございます。では次に、後遺症について伺いたいと思います。先ほどお話に出た射精障害以外で、何か後遺症はありましたか。
池内 そうですね。治療直後の頃は、痺れが少し残っていました。指先だったり、足先だったりですね。何もないところで、よくつまずいてしまうこともありました。
岸田 え、それは危ないですね。
池内 そうなんです。急に足がもつれるような感じになったりして、「あれ?」と思うことがよくありました。ただ、その痺れに関しては、私の場合は比較的回復が早かったと思います。最初の再発前でいうと、手術後半年経つかどうかくらいで、だいぶ落ち着いてきました。
岸田 今はもう大丈夫ですか。
池内 はい。今はもう全く問題なく、普通に生活できています。そういう意味では、現在一番つらい後遺症は、やはり射精障害ですね。どうしても、「男としての部分」が失われてしまった感覚があって、それは今でも正直、つらさとして残っています。
岸田 めちゃくちゃ分かります。その気持ち。患者会などでは、同じような後遺症を抱えている方は多いのでしょうか。
池内 そうですね。後遺症として射精障害が残っている方は、一定数いらっしゃいます。今は手術で温存できるケースもあるようですが、必ずしも全員が可能というわけではありませんから。それから一番多いのは、やはり痺れが残っているという方ですね。箸が持ちづらい、文字が書きづらいといった症状が、なかなか長く続いている方も結構いらっしゃいます。
【反省・失敗】
岸田 ありがとうございます。それと上手く付き合っていく、という感じですよね。では次に、「反省・失敗」というところを伺いたいと思います。池内さんが「あの時、こうしておけば良かったな」と思うことはありますか。
池内 先ほども少しお話ししましたが、一番大きいのは、やはり精子保存をしておけばよかったという点です。もし保存していたら、誰かを好きになって「この人となら」と思えた時に、もう一歩踏み込めたんじゃないかな、という思いがあります。
池内 自分は子どもが好きなので、もし結婚したら子どもが欲しいな、という気持ちは元々ありました。だからこそ、今こういう状態になって、不妊治療となると、女性側にもかなり身体的な負担がかかってしまうじゃないですか。
池内 そういう思いを相手にさせてしまうかもしれない、という気持ちだったり、負い目のようなものがどうしてもあって。もし精子保存をしていたら、誰かを好きになることにも、もう少し踏み込めたのかなと思うことはあります。
岸田 そうか。そういう意味でも、きちんと保存しておくという選択は、とても大事になってくるんですね。
池内 そう思います。
岸田 一応、残っている精巣から採取する方法もありますけど、それも結構……。
池内 そうですね。自分の身体にも負担はかかりますし、簡単な話ではないと思います。
岸田 いかんせん、というところですね。
池内 そうですね。
【医療者へ】
岸田 ありがとうございます。そして次に、「医療従事者の方へ」というテーマになります。医療従事者の方への感謝や、「あの時こうしてほしかった」という要望などはありますか。
池内 本当に、これまで私の治療に関わってくださった先生方はもちろんですが、入院中にお世話になった看護師さんやスタッフの皆さんにも、とても良くしていただきました。ですので、どちらかというと、感謝の気持ちのほうがとても大きいです。
今も主治医の先生にはお世話になっていますし、こうした活動をさせていただく中で、病院のがん相談支援センターの方にも色々と助けていただいています。本当に、そうした方々すべてに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。
もし一つお願いがあるとすれば、先ほどもお話しした妊孕性の部分です。例えば、私が後腹膜リンパ節郭清の手術を受けた際、射精障害が起こる可能性がある、という説明を受けた記憶がないんです。
その時に聞いた覚えがあるのは、「勃起障害が起きるかもしれない」という説明でした。ただ、射精障害については、最初の説明で聞いた覚えがなくて。患者側としては、まさかそこまで大きな手術になるとは思っていなかったですし、説明を受けている時点で、かなり動揺していた部分もあったと思います。
妊孕性に関わる、とても大切な説明だと思うので、そうした点については、もう少し時間をかけて、じっくり説明していただけると有難いな、という気持ちはあります。
岸田 本当に大事な部分ですよね。さらっとではなく、きちんと丁寧に伝えてほしい、というのは強く感じます。
池内 そうですね。医師の説明は専門用語も多くて、すべてを正確に理解できているかというと、難しいこともあると思います。だからこそ、妊孕性のような人生に大きく関わる部分については、特に丁寧に説明していただけたら有難いと思います。
岸田 ありがとうございます。続いてコメントでも、「患者会でよく出る話題はどんなものですか?」という質問が来ていますが、実際にはどんな話題が多いのでしょうか。
池内 患者さんご本人が参加される場合、特に多いのは「再発に対する不安」ですね。今、闘病中の方でも、「再発はするのでしょうか」といった不安を抱えている方はとても多いです。
また、治療が一段落した方でも、「この先、再発する可能性はあるのか」といった不安を口にされる方は少なくありません。
他には、仕事に復帰したあと、職場で自分の病気のことをうまく伝えられなかったり、理解してもらえなかったりする、という悩みを持つ方もいます。
また、ご家族の方が参加されるケースもあって、奥さまやお母さまが「本人とどう接していいのか分からない」と相談されることもあります。
岸田 そうした相談に対しては、どのようにアドバイスされることが多いのでしょうか。
池内 再発については、「必ず再発する」とも言えませんし、経過観察をきちんと続けていれば、定期的にチェックを受けられるので、まずは通院を大切にしてほしい、というお話をします。
ご家族との関わり方については、本当にケースバイケースですが、「何かしてあげなきゃ」と構えすぎず、まずはそっと見守ることも一つの大切な関わり方ですよ、というお話をすることが多いですね。
【Cancer gift】
岸田 ありがとうございます。それでは次に、「キャンサーギフト」、がんになって失ったものもあれば、得たものもあると思います。その「得たこと」「得たもの」について、池内さんはどのように感じていらっしゃいますか。
池内 得たものは、本当に大きいと思っています。失ったものも、もちろんあります。片方の睾丸を失ったことや、男性としての機能の一部を失ってしまったことも事実です。
ただ、それ以上に、この精巣腫瘍になったからこそ出会えた人たちの存在が、私にとってはとても大きいです。岸田さんもそうですし、こうした経験をしていなければ、決して出会うことのなかった人たちがいます。その出会えた人たちから、たくさんのことを教えてもらいましたし、人に支えてもらうという経験もしました。そうした「人との出会い」が、私にとって一番大きなギフトだったと思っています。
このような出会いをもたらしてくれたと考えると、精巣腫瘍になったことも、決して無駄ではなかったのではないかと、今では思えるようになりました。そして、この精巣腫瘍を経験したからこそ、患者会の活動など、今こうして関わらせていただいています。この経験は、自分の人生における一つの使命、ミッションなのではないかと、今はそう感じています。
【夢】
岸田 ありがとうございます。そんな使命を得たとお話しくださった池内さんですが、ここからは、今後の夢についてお伺いしたいと思います。池内さんのこれからの夢を、ぜひ教えていただけますでしょうか。
池内 精巣腫瘍になる前は、海外旅行によく行っていたというお話もしましたが、まだ行ったことのない場所もたくさんあります。国内外を含めて、自分がまだ見たことのない場所、知らない世界を、これからもっと見ていきたいという思いがあります。その中でも、今一番行ってみたい場所が海外にありまして、それがインドです。
岸田 インド。
池内 はい。インドのバラナシという街です。ガンジス川が流れている場所で、ヒンズー教の聖地として知られています。川沿いには「ガート」と呼ばれる火葬場がたくさんあり、亡くなった方の身体を焼き、その灰を川に流すという光景が日常的にあります。そうした場所で、命と向き合うというか、命を見つめ直すような時間を過ごしてみたいと思っています。
岸田 分かります。そういう場所だからこそ、感じられるものがありますよね。
池内 はい。生と死がすごく近くにある場所だと思うので、自分自身がこれまで経験してきたことも含めて、命について改めて考えるきっかけになるのではないかと感じています。一生のうちに一度は、必ず行ってみたい場所ですね。
岸田 バラナシですね。バラナシは本当に聖地として知られている場所ですので、ぜひ皆さんも気になった方は調べてみていただけたらと思います。
【ペイシェントジャーニー】
岸田 池内さんと一緒に最後に振り返っていきたいと思います。こちら、私のほうで共有させていただきます。。池内さんは、水泳やトライアスロンをされていた時期がありましたよね。そこから、睾丸の形に違和感を覚え、スーパーボールくらいの硬さだったとお話しされていました。お父さまのもとで診察を受け、そのまま手術に進まれます。
その後、肺への転移が見つかり、帝京大学病院を受診。副作用も多くありましたが、先ほどお話にあった「ラジオの奇跡」が起こります。抗がん剤治療を乗り越え、10カ月後に仕事へ復帰。その中で、お父さまのご逝去という出来事がありました。さらに、リンパ節への再発が見つかり、再び薬物療法を行います。一通り治療を終えたあと、今後の経過を考えてセカンドオピニオンとして国立がん研究センターを受診し、他院を紹介されます。最終的には、筑波で経過観察をされていたんですよね。
池内 はい、そうです。
岸田 その後、J-TAG患者会の立ち上げがあり、キックオフから参加。啓発イベントにも積極的に関わられます。病院でのピアサポートについてですが、これは筑波の病院で始まったものですよね。
池内 はい。筑波でピアサポートが始まるということで、第1回から参加していました。
岸田 最初は参加者として、その後はファシリテーターとして活動されるようになったと。
池内 そうです。J-TAGの代表から、今度は話を聞く側をやってみないかと声をかけていただき、そこからファシリテーターとして関わらせていただきました。
岸田 その中で、お姉さまのすい臓がんの経験、そしてご逝去という家族の出来事もありました。現在は、コロナ禍の影響で対面の活動が難しい中、Zoomを使ったオンラインのおしゃべり会を月1回程度開催されていて、今はJ-TAGの副代表を務めていらっしゃいます。
池内 はい。
岸田 オンライン開催のメリットについても教えてください。
池内 これまでJ-TAGは、筑波や京都、大阪などで院内の場所を借りて開催していましたが、オンラインにすることで、遠方の方にも参加していただけるようになりました。宮古島や鹿児島、名古屋、佐賀、大阪、横浜など、本当に全国各地から参加してくださっています。
岸田 ありがとうございます。コメントでも「精巣腫瘍になったら池内さんに相談したい」「J-TAGとの出会いで救われた」という声が届いています。
岸田 ここで少しお知らせです。がんノートを応援してくださっている企業の皆さま、Aflac様、IBM様、I-TONGUE様、いつもありがとうございます。次回の配信では、腺様嚢胞がんの経験者で、猫舌堂代表の柴田敦巨さんをお迎えします。来月もぜひご覧ください。
また、チャット欄や概要欄に、池内さんへのメッセージフォームを掲載します。今日中にお送りいただければ、後日池内さんへお届けしますので、ご協力をお願いいたします。
それでは最後に、池内さんから「今、闘病中のあなたへ」メッセージをお願いします。
池内 闘病中の方にお伝えしたいのは、「わがままになっていいんだよ」という言葉です。これは、私自身が抗がん剤治療中に、若くしてご主人を亡くされた方から掛けていただいた言葉です。
治療中は、生活に制限が多く、我慢することばかりで、心にも大きなストレスがかかります。その中で、この「わがまま」という言葉は、人に迷惑をかけることではなく、「今できること」「やりたいこと」を我慢しなくていいという意味だと、私は受け取りました。
その言葉を聞いたとき、涙が出るほど心が楽になりました。辛い治療の中でも、ささやかなことでもいいので、自分のやりたいこと、できることに挑戦してほしい。がん患者は、わがままになっていいんです。
岸田 人に迷惑をかけなければ、自分本位で構わないということですね。
池内 はい。
岸田 素敵なメッセージをありがとうございます。90分にわたる長時間のインタビューでしたが、池内さん、緊張は大丈夫でしたか。
池内 始まる前はかなり緊張していましたが、皆さんのコメントに支えられて、楽しくお話しできました。
岸田 本当に素敵な90分でした。ありがとうございました。それでは、がんノートorigin、これにて終了です。また次回お会いしましょう。
池内 ありがとうございました。
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