性別 | 女性 |
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がん種 | 乳がん |
治療方法 | 手術 |
ステージ | Ⅰ |
罹患年齢 | 30代 |
インタビュアー:岸田 / ゲスト:御舩
【発覚・告知】
岸田 どういう経緯で乳がんが発覚したか、そしてどうやって告知を受けたかっていうところを教えていただけますか。
御舩 はい。私はもともと女性のための生活情報誌で、編集ライターの仕事をしていました。そのときの仕事で乳がんの記事を取材することがあって、先生から「乳がんって自分で見つけられる数少ないがんなんだよ」っていうことを聞いたんですね。ああそうか、って思って家に帰ってから自分の胸をちょっと触ってみたところ、「あれ、これって」っていう……。
岸田 でもエラいですね。家に帰ってすぐ実践したって。
御舩 お話を聞いたとき、「そうか!」って思って。これはちょっと自分も確かめねばと思って自分で触ってみると、「あれ、これってしこりかな」っていうものを感じて……。でもその当時30歳だったので、まさかがんだとは思っていなかったので、しばらく放っておいたんですけど、やっぱりなんか気になるなと思って病院に行ったんですね。病院に行くってなかなか勇気がいることで、電話で予約をして「しこりが気になります」って言って、病院に行きました。小さながんを見つけられるっていうマンモグラフィーと、若い人に有効といわれている超音波検査、それに触診と全部してもらって、その結果「特に異常ないですよ」 って言われたんですよ。まあそうだよねって思って。「何かありますね」じゃなくて、「これ大丈夫」みたいな。これはがんになるものじゃないですよって言われたのですごく安心して、その日は帰ったんですけど……。
岸田 それは小さなクリニック?
御舩 そう、小さなクリニック。乳がん専門のクリニックっていうふうにウェブサイトに書いてあったし、女医さんだった。女性がいいなって思って、そこを選んで行ったんですね。でも一応「しこりがある」っていうふうに言ったから、保険が適用になって保険診療で検査してもらいました。
岸田 え、じゃあそのときは何も見つからなかったっていうことだと思うんですけど……。今ここにいるってことは病気にかかっているってことですよね?
御舩 そうなんです、そうそう。
岸田 どこでどう見つかったんですか?
御舩 それから1年半ぐらいずっと放っておいたというか、何かしこりはあるな、ちょっと大きくなってるなと思ってたんですけど、当時私は病院の先生の言うことを100%信じていて、検査の結果は 100%信頼できるものだと思ってたんですよ。だから、1回診てもらってるし、「大丈夫」って言われてるから大丈夫なものなんだと思って、毎日仕事も忙しかったのでそのまま過ごしてたんです。だけど、結婚が決まったっていうのもあって、「結婚前に、もう一度見てもらったらどう?」って母がすごく心配して。だいたいうちの母ってちょっとどっか痛いっていっても「大丈夫よ」みたいな、病院をあまり勧めないんです。その母が 「もう1回行ったら?」ってすごい勧めてきたので、たしかにそうかなと思っ て、もう一度病院に行って検査したら、乳がんが見つかったんです。
岸田 え、同じ検査をしたんですか? そのときは同じクリニックに行ったんですか?
御舩 同じクリニックに行きました。マンモグラフィーをして、今回の画像を前回の画像と比べて見てたんですね。そしたら、「変わったところはないので、大丈夫ですよ」ってまた言われたんですよ。でも、 明らかに胸のしこりがゴツゴツしてるっていうかおかしかったので、「じゃあ、これって何ですか?」ってもう1回先生に聞いたら超音波もしましょうということで、超音波もしてもらいました。超音波の機械ってこう胸に当てて、グリグリしていくじゃないですか。「あ、そこそこ! そこが気になる!」ってところに 当たったとき、本当に私が見ても「えっ!」て思うくらい真っ黒な塊が画面にどんと写っていました。「あーすご嫌な予感」と私も思ったし、先生も「あれ?」みたいな。細胞取りましょうみたいな感じでした。
岸田 じゃあマンモグラフィーじゃ分からなかったんですね。
御舩 そう、分からなかったんですよね。やっぱり若い女性の胸って乳腺が発達してるので、乳腺が白く写るんですね。がんも白く写るのでわかりづらい。
岸田 それと混同しちゃったみたいな。
御舩 そうだと思うんですけどね……。
岸田 じゃあそれで生検(※1)して、 そこからどういうふうに告知を受けたんですか?
御舩 それで1週間後に結果を聞きにきてくださいみたいな感じだったんですよね。じつは私、結婚式を直前に控えてて、念のために受けた検査だったし、結婚式場のメイクのリハーサルとかが入ってたんですよ。「乳がんかもしれないよ」みたいな感じで先生に言われたので、行く気がなくなったんですけど、「決まってる予定はこなさなきゃ」って思ってとりあえずリハーサルへ。
岸田 そのまま行って?
御舩 メイクとか髪型を、こうじゃない、ああじゃないとかなんか気持ち的にはそんな気分ではなかったけど、すっかりそのリハーサルを楽しみました。それで1週間後に病院に聞きに行きました。生検で細胞を取ったときは「何だろう? ちょっとどうしようかな」と思ったんだけど、がん家系じゃないと思っていたので、結果を待っている1週間の間にもうすっかり「大丈夫だ!」っていう気持ちに変わっていました。クリニックに結果を聞きに行ったんですけど、先生から「悪いものが見つかりました」っていう感じで、告知されました。
岸田 告知を受けたときは1人だったんですか?
御舩 はい、1人で行きました。
岸田 そのとき告知を受けてどんな感じになりました? けっこうへこみました?
御舩 うん、そうですね。最初「悪いものが見つかりました」って言われたときって、なんか理解できなくて、「ん?」 と思いました。「それってがんってことなんですか?」って先生にまず聞いて。そしたら「そうです」って言われて。2 週間後くらいに結婚式も控えていたし、本当にもう……。
岸田 2週間後!? 本当に結婚式間近だったんですね。
御舩 だから、「どうしよう。これからどうなるんだろう」ってすごく不安でしたね。
岸田 そこから治療のスケジュールとかが入ってくると思うんですけど、結婚式を控えてどうしたんですか?
御舩 告知を受けたときに、先生から「お付き合いされてる方はいますか?」 って聞かれて、「もうすぐ結婚を予定してます」というのを伝えたんですね。「次、詳しい説明をするから両親とその婚約者と一緒に来てください」って言われました。あと「結婚式できますか?」「新婚旅行の予定があるんですけど、行けますか?」とか、いろいろ先生に聞いて、「結婚式はできるけど、新婚旅行はキャンセルしたらどうかなあ」という話を告知の日に言われて帰ったという感じですね。
岸田 そうなんですね。そうなると新婚旅行はキャンセルせざるを得ないですよね……。
御舩 うん、告知を受けて最初にしたことって、新婚旅行のキャンセルだったかもしれない(笑)。
岸田 マジですか?
御舩 もう出発まで1か月切ってたんですね。だからキャンセル料が(笑)。
岸田 キャンセル料だけで半額くらいいくんじゃないですか?
御舩 けっこういきましたね。
岸田 どこに行く予定だったんですか?
御舩 ラスベガスとロサンゼルスに行く予定でした。シルク・ドゥ・ソレイユを見ようと思って、いろいろ調べてチケット取ってすぐのキャンセル。
岸田 うわあ……。
御舩 キャンセル料が気になっちゃって。
岸田 自分の手術もね、何よりも。
御舩 いやいや(笑)。もちろん病気のことも調べてますけど、でもやらないといけないことも(苦笑)。
岸田 はい、それではその当時の写真があります。
御舩 これがちょうど告知を受けて16日後とか18日後とかで、治療方針や自分がどういう状態かっていうのがわからない状態でした。リンパに転移してるのかっていうのも、この後に検査しようっていうときだったんで、「結婚式で本当に笑えるかな?」って思ってたんですけど……。
岸田 めっちゃ笑ってますね!
御舩 めっちゃ笑ってますよね(笑)!
岸田 結婚式を楽しんでる感が出てますよ。楽しめました?
御舩 うん、楽しめました。やっぱり私、31歳で結婚することになって、ずっとこの日が楽しみだったんですね。女性としての結婚式がすごく楽しみで、それに向けて準備をしている時に、病気が分かってしまって。だから本当に家族とか婚約者とか婚約者の親にとかにすごく申し訳ないなって思う中でこの日を迎えたんですけど。でも、お祝いしてくれる友達もたくさん来てくれていて。だから今日1日は幸せな気持ちでいよう、たくさん笑えたらいいなと思って、結婚式の日を迎えましたね。
岸田 それは良かった!ちなみに、彼氏の反応はいかがでしたか?
御舩 「乳がんです」って告知を受けた日にすぐに彼には連絡をして、会って「がんだった」っていう話をしたんですけど、彼はすごく冷静に受け止めてくれました。結婚もね、「やめてもいいんだよ」っていうことを伝えたんですけど、「大丈夫だよ、一緒に乗り越えよう」って言ってくれたので結婚することができたかな。彼が冷静でいてくれたのがすごく心強かったですね。
岸田 ちなみになんですけど、どうやって知り合ったんですか?
御舩 友達の紹介です。
岸田 友達の紹介? 合コンとかじゃなくて?
御舩 じゃなくて(笑)。友達の紹介です。知り合ってもう5年くらい付き合ってたんですね。ようやく結婚するってことが決まって、その結婚に向けてのときでした。本当にまさかの出来事だったの で、私も驚いたけど彼も驚いたと思います。彼は転勤族だったので、次の春には転勤するだろうっていわれてたんですね。でも私の治療があったので、結局転勤せずにもう1年広島にいてくれたんです。私ががんになったことが、本当にすごくショックだっただろうし、戸惑っていたとは思うんですけど、それを私には全然見せなかった。でも5年経って初めて聞いたんですけど、結婚式のスピーチを考えるじゃないですか。彼はそれと同時にお葬式の喪主の挨拶も考えたって言ってたんですね。
岸田 へえー。
御舩 がんっていうことに免疫がないわけじゃないですか。だからやっぱりがんっていうと「死んじゃう」って。
岸田 思っちゃいますよね。
御舩 思っちゃう、うん。両親もそうでしたけど、彼もそう思っていました。がんでも共に生きていける道があるってことを当時は知らなかった。もっと正しくがんのことを知ってたら、そんなに不安になることも傷つくこともなかったかもしれないんですけど、当時は分からなかった。
岸田 早期発見だと5年生存率も高いといわれているなかで、当時の御舩さんはステージ2だったんですよね?
御舩 ステージって乳がんの場合は腫瘍のサイズによって変わるんです。乳管の中に留まっているのを「非浸潤がん」といって、乳管の外に出てるのを「浸潤がん」っていうんですね。最初の診断ではそれらを合わせて私は5センチだったみたいで、その浸潤している部分が大きいだろうって思われてたみたいなんです。それが実際に手術で取ってみると2センチを超えていなかったので、ステージ2からステージ1という診断に変わりました。
岸田 がんに対する知識があったら、ステージ1という診断で周りの人も「大丈夫かもしれない」ってなるけど、当時は気も動転してますしね。ちなみに彼はサポートとかしてくれましたか?
御舩 そうですね。最初の治療法を決めるときとか必ずついてきてくれました。ただ、術後の私は「病気になったからごめん、家事できない」とか言いたくなかったので、ちょっと家事をがんばっちゃったかな。
岸田 がんばって家事してたんですね。
御舩 そう、洗濯物を干したりいろいろ。腕がなかなか上がらないんだけど、がんばって干したりしてました。だから彼は家事を手伝ってくれないっていうか(笑)。でも精神的な部分ではすごく支えてもらいましたね。
岸田 それから、ご両親にはどうやって伝えましたか?
御舩 告知を受けたときに、母は病院には来てなかったんですけど、近くまでは一緒に来てたので、診察が終わったらすぐに会って伝えましたね。周りにがんの患者がいなかったので、すごく衝撃を受けていました。
岸田 どうしていいか分からないですよね。
御舩 そうなんですよ、知識がないですし。家族みんなでちょっとうろたえたって感じですね。
岸田 そのときはうろたえたけど、みんなで勉強して。
御舩 うん、そうですね。私は病院からもらってきた「乳がんとは」っていう冊子を読んで、それを母に見せたり説明したりして一緒に勉強していったという感じですね。
【辛いこと・克服】
岸田 つらかったとき、どうやって克服してきたか。精神的、身体的にあると思うんですけど、ちょっとお聞かせいただけますか。
御舩 やっぱり左胸を全摘手術で失ってしまったっていう経験はすごくつらかったし、入院して明日手術だっていう日に、「明日の今ごろはもう胸がないんだな ……」って自分の姿を鏡で見てすごくつらかった。どうにかこれを残したいと思って、4人部屋だったんですけどカーテン閉めて自撮りしました
岸田 おお! 今、その写真は?
御舩 いやいやいや、ないないない(笑)。 カシャッカシャッって音が大丈夫かなとか他の患者さんを気にしながらも何枚も何枚も撮って、次の日を迎えましたね。 でもやっぱり自分の姿をなかなか術後見れなくて。12日間ぐらい入院してたんですけど、退院の前日くらいにようやく見れたって感じですね。
岸田 見たときどうでした?
御舩 うーん、妹が付き添ってくれて一緒に見たんですけど、エキスパンダー (※注2)は入ってるけれども、けっこうペチャンコだったので、本当に男性の胸板みたいな感じで。「ああ!」ってすごい衝撃を受けましたけど、でも逆に「あ、これでまたこれから先も生きていけるんだな」ってすごく安心しましたね。 すごくショックだったけど、ほっとした部分がありました。
岸田 ほっとしたんですね。
御舩 なんかその傷に、うん。ちょっとほっとしましたね。
岸田 痛みはどうでしたか?
御舩 痛みは本当にけっこう強くてつらかったですし、あと手術したほうで重いものを持たないようにしようとか、そういうのはありますけどね。
岸田 精神的にはいかがでしたか?全摘ってつらかったと思うのですが。
御舩 がんになるってすごく負い目を感じるというか、たとえば周りの人と比べてしまいました。仕事をバリバリやってる友人とかが羨ましかったりとか、結婚して子どもができたんだとかっていう報告とかもすごくつらかったりとか、常に人と比べちゃってすごく劣等感を感じてたんです。だからなかなか外に出づらかったっていうか、誰かに遊ぼうって誘われて、何かをしてる自分を想像するだけで涙が出るっていうか、そういう時期もあったんですね。だからずっとこういう状態なのかな、と思ってたんですけど、同じ病気の人に出会ったり、なかなか前向きになれないみたいな話を母にしたときに「あなたはそのがんになった経験をプラスに変えて生きていけばいいんだよ」っていうふうに話してくれて、背中を押してくれたんですね。その母の言葉を聞いて、「ああ、そうか」って思って、乳がんになったことってすごくマイナスの経験だけれども、それをプラスに変えて生きていけたらいいなと少しずつ思えるようになったことで、前を向ける ようになったかなって思ってます。
岸田 お母様の言葉、すばらしいですね。
【後遺症】
岸田 少し詳しく聞いていきたいんですけど、どういう後遺症に悩まされましたか?
御舩 そうですね。乳がんですって言われたときに、「子どもは持てますか?」 って主治医に聞いたら、「5年間治療が必要だから5年後になるよ。でも治療が終わればめざすことはできるよ」っていうふうに言われました。5年間の治療を終えたあとの自分の年齢を考えると、38歳なんですよ。そこから妊娠を目指すって現実的なのかなとか……。
岸田 たしかにちょっと……。 35歳までが妊娠についての基準みたいになってますよね。
御舩 そうですね。5年前なので妊娠する力を保存する、妊孕性(※3)の温存みたいな情報はほとんどなかったんです。そんななか、私は主治医から「受精卵の凍結」とか「卵子の凍結」とかそういう方法もありますよっていう情報をもらったりして。当時はインターネットでも他の若い患者さんがどういう選択をしてるのかなといろいろ調べたんですけど、なかなか出てこない。体験談も出てこない。 エビデンスのある情報はもちろん出てこない。分からないことだらけで……。
岸田 今ようやく情報が出始めてますよね。御舩さんはこれから妊娠を目指されるっていう認識でいいんですかね?
御舩 そうですね。治療がやっとこの春、 4月に終わったので、薬が体から抜けるのをだいたい3か月くらい待たないといけなくって。なので、7〜8月くらいから妊娠を目指してもいいよ、というふうに主治医の先生からは言われたので今現在、妊活中なんです。だけど治療の影響かもしれないって言われてるんですけど、今、卵巣嚢腫とかもできててそれを検査したりとかしてるのでちょっと妊活はストップって言われています。治療が終わったら元の体に戻れるって思ってたんですけどね。
岸田 なかなかハードですね……。
御舩 そうなんですよね。なかなかすっきり元の体には戻れなくて。治療の影響って、胸だけじゃなくって、子宮のほうとか卵巣とかいろいろ出てくるんだなっていうことに今、向き合ってる状況ですね。この間撮ったMRIの検査結果がもうすぐわかるのでドキドキしているんですけど。
岸田 ホルモン剤の治療も5年から10年に変わってきましたよね。
御舩 そうですよね。5年前は5年間が標準治療だったんですけど、今は10年って言われるようになってきてます。でも私はやっぱり子どもを持ちたいという思いが強いので5年で一度ストップをして、妊娠を目指したいなと思っています
【夢】
御舩 私の一番の夢はやっぱりお母さんになること。私が両親から命をもらったように私も次の世代に命をつないでいけたらいいなというふうにすごく思っています。あとは、がん患者っていうだけで偏見がまだ残っていて、「私、がんを経験したんです」って言いづらい社会だなって思うんですね。でも今って2人に1 人ががんになる時代で、がんと共に生きてる人っていうのはすごくたくさん世の中にいるじゃないですか。がんになっても自分の力を発揮して、自分らしく生きられる社会ができていたらいいなと思って、そういう社会が実現するための何かお手伝いができたらいいなと思って、「P i n k R i n g 」 っ ていう若年性の会の活動をしています。
【今、闘病中のあなたへ】
岸田 闘病中の方へメッセージをいただけますか?
御舩 「がん体験はあなたの命の勲章です」という言葉です。やっぱりがんっていうのは、ネガティブな体験だと思うんですけど、がんと向き合ったこととか、 がんになったから感じられたこととか、っていうのもたくさんあると思うんですね。そういう経験はきっとみなさんそれぞれの命の勲章だと思うんです。がんに なった経験を自分の価値に変えて、これからも生きていけるような社会になってほしいなって思いますし、私自身もそうありたいなってすごく思っています。
※1 生検……患部の一部を切り取って、顕微鏡などで調べる検査。
※2 エキスパンダー……組織拡張器。乳房切除と同時に、再建のために体内に挿入する。
※3 妊孕性……妊娠のしやすさ。